長崎蝗駆經
花組芝居
小劇場B1(東京都)
2024/11/20 (水) ~ 2024/11/26 (火)上演中
実演鑑賞
満足度★★★
花組芝居の新企画、花組ヌーベルシリーズの作品で、原作は岡本綺堂の「平家蟹」、作者はかつて劇団に在籍したこともあり今はあやめ十八番を主宰している堀越涼。下北沢のB1である。「平家蟹」は,一種の源氏平家の乱にまつわる2幕の妖異綺譚。壇ノ浦で滅んだ平家の人々が蟹になって報復する話で大歌舞伎でも滅多にやらない演目だ。
この作は蟹を蝗に,源平の争いを現代の公害の蝗駆除と、自然保護の話に置き換えているが、それはご愛敬と言ったところで,本筋は作者が夏のあやめ十八番で書いた神社の相続にまつわる「雑種小夜の月」のように,誰が家を継ぐか、という家族相続の話でまとめている。花組芝居らしく表紙、裏表紙にも薩摩琵琶の演者(平家物語の連想だろう)が出てくるが、肝心の中身の現代の蝗退治とその蝗を自然食品にして有効活用、僻地産業振興とする話が原作の世界と上手くかみ合っていない。堀越の本は現代のマンガに通じる面白さがあって、そこを無理矢理,花組流歌舞劇とつじつまを合わせたところは花組(演出・加納幸和)の力業である。4コママンガはよく家族を舞台にして、父母兄弟に家族・親戚とそこでキャラを作って成功させるが、こういう因果因縁の暗い話の枠取りには向いていない。「雑種小夜の月」では成功したがどこでも使えるわけではないだろう。
来春には,綺堂の平家蟹そのものを花組の本公演でやると言うから、それも見てみたいものである。
コウセイネン
演劇集団円
吉祥寺シアター(東京都)
2024/11/14 (木) ~ 2024/11/24 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
みな直さなければと解っているのに、放置されていることは現実にたくさんある。丁度選挙の時期で、今のネット時代を背景に、大小の困ったことでさまざまの議論が起きた。演劇にとってはテーマに困らない絶好の時期ではあるのだが、もちろん、演劇で解決できるわけではない。しかし、社会の問題解決を考えさせるきっかけになれば、という提案の社会ネタの演劇は一つのジャンルにもなっている。
中津留、中村ノブアキ、シライケイタ,歴史ネタになると古川健、と今世紀になってから、このジャンルは現実再現から次第に現実社会の切り込み方も深くなって、自分の周囲だけで満足の小劇場や歌って踊ればコワくないの若者演劇を駆逐してきた。一方で、便宜的な筋書きで無難な結論や「推奨マーク」をつけてきた運動体の旧新劇団は、数少ない絶滅危惧種、ほぼ宗教団体になっている。松本哲也もその流れに連なって頭角を現してきた小劇場の作者だが、今回は円の発註で,犯罪更生者と一般社会とのズレをテーマにしている。現実に更正のための保護司が殺害される事件が起きた背景もあるだろうが,このドラマは、結論を急がないで幾つかの現実社会にありそうな事例を舞台化している(このジャンルでは桑原裕子「ひとよ」(KAKUTA)という秀作があった)。
多様化している現代の社会問題との取組みは、現代演劇の一つの旗印でもあるので,新劇団は時代をキャッチアップしてテーマを深化させてほしいものだ。
この舞台は、社会が個人の犯罪に向き合うシステムの難しさを問うている。犯罪に向き合う社会もそれぞれ個人(保護司のシステムや家族の自助)を立てているので、犯罪をきっかけに向き合わざる得なくなった個人の領域に踏み込んでいる。無理な「推奨」的なストーリーを組んでいないので、最近、上手くなったなぁと思わせる「ドキュメンタリー劇」の世界が生きている。スジや解決に動かされると言うより、そこに居る人のありようで思わず、心打たれるシーンがあった。それは観客それぞれの生きている世界にもよるだろう。
まずは成功作で、2時間10分休憩なしの長さを持たせている。
どうかと思うのは,劇が終わった後、無理矢理直結で見せられる、5分と限定したアフタートークで、これが、なんと、内容とは関係ない出演者のウラ芸集。重苦しい話なので、これで客を帰しては,と言う配慮だろうが,折角の舞台を自ら崩壊させてしまっている。旧新劇の無神経が図らずも露呈したというところか。
テーバイ
新国立劇場
新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)
2024/11/07 (木) ~ 2024/11/24 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★
ギリシャ劇の登場人物をつなげてみた「グリークス」ソポクレス版、あるいはオイデプス版である。集められたのは「オイデプス王」「コロノスのオイデプス」ここまでが1幕1時間40分、この後2幕「アンチゴネ」で45分。ギリシャ劇をつなげてみる趣向は長いのも短いのもあって、蜷川の朝から晩まで10時間を超えるものもあったが、それぞれの物語を超えて新しい世界が見えたわけでもない。それぞれの役と物語が強烈すぎて集めてみてもその上に新しいテーマを発見できない。
蜷川の版(2000)はイギリスですでに成功した版(ジョン・バートン、ケネス・カヴァンダーによるRSC版)を基に当時の演劇界の大劇場俳優を集めた華やかな上演だった。(劇場はコクーン)話はトロイ戦争が中心で女性の視点から見ていて若干はわかりよくはなったが、原作以上の物語になったわけでもなかった。
今回の上演版は二つの原作・翻訳から新たに船岩祐太が上演台本に作り直したもので、新しい脚本である。「テーバイ」というギリシャ劇は何だったっけ?と思ったが、それはこの劇の場所からとった新しいタイトルである。テーバイを舞台にこれは原作の登場人物と話の枠を使った今の現代劇である。
良いところから行くと、演出の船岩祐太の歯切れが良い。冒頭から、オイデプスのクライマックスのシーンを次々と並べていて、複雑な親子夫婦関係でオイデプスが翻弄され悩むところが見せ場なのだが、あっさり、「そーいうこと」と進めてしまう。神託も「仕方ないよね」となる。先月は串田和美の「ガード下のオイデプス」も見たが、いずれも降りかかる運命に深刻になっていない。いろいろ大変な社会だから何でもありだよね、という不条理劇精神がギリシャ劇と拮抗している。そこが新しいし、今に通じる。個々の人間の懊悩よりも社会の動きの中の人間に向かおうとしていると窺える
それでこの芝居の世界が成立するのは、多分、ここが唯一見どころと思うがクレオンを1幕と3幕で中心に置いていることで、この融通無碍が得意な現代に通用する人物が軸になっているところで話が現代につながっている。このクレオンは今時の指導者の顔をしている。ギリシャ劇の世界とは無縁のようにツルッと演じた植本純米が快演している。
相変わらず、なんだかよくわからないのはこの新国立の取組みで、新人の船岩からよせられた分厚い計画書に従って一年がかりで何度も俳優が集まっては相談してまとめたプロジェクトと言うが、一体どんな計画で、どこを検討したのか、を公開してくれなくては、結局は延々と稽古しただけ、と言うことになってしまう。演劇の公演は何も答え合わせをやっているわけではない、と言うことが解っていない。これは金さえあれば出来ることである。それは舞台制作費の潤沢ぶりに見えている、
つきかげ
劇団チョコレートケーキ
駅前劇場(東京都)
2024/11/07 (木) ~ 2024/11/17 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
今春に見た同じ劇団チョコレートケーキの斎藤茂吉伝の後編。独立した二作としても見られるが、斎藤茂吉の実像をかなりフォローしているので、フィクションとは言っても伝記劇である。もうすっかり手練れになったチョコレートケーキで、全編とのカップリングもうまいものだ。
斎藤家の男たち、茂吉(緖方晋)、長男(浅井伸治)、次男(西尾友樹)、それに側近の歌人山口茂吉(岡本篤)のキャステイングはそのまま、前編が家族の男たちが物語を織りなす部分が多かったが、後編は女編、妻の輝子(音無美紀子)、長女の桃子(帯金ゆかり)、次女の雅子(宇野愛海)が物語の中心を占める。前編は終戦によって東京での生活が出来なくなった茂吉一家の疎開生活での家族の物語だったが、後編は東京で戦後の新しい家ができあがる直前の物語である。今回は、茂吉と戦争の葛藤には全くと言って良いほど触れられて居ず、最晩年を迎えた茂吉の老いとの葛藤が、家族それぞれの父との別離の予感の中に描かれていく。男たちについては病院経営を背負うことになった長男、ヨーロッパを見たいと願った次男の海洋観測船への乗船、側近の山口茂吉では茂吉の個人全集の編集、などのストーリーはあるが、今回は女たちの活躍がめざましい。
ようやく茂吉と共に生活することになリ家族を取り仕切ることになった妻・輝子の生来の奔放な自己中心的な生活信条と、しかし茂吉との長い生活から生まれた夫婦(男女)の情愛のある生活描写が音無美紀子の熱演(こんなに上手い女優と思ったことがなかった。前編への夫・村井國夫の突然降板への埋め合わせか)で活写される。こういうキャラクターは、現代の女性にはよくあるタイプだが、本質的なところで違う。それは、長女の贅沢好きにも、次女の家庭万能主義にも通底するもので、今の女性にはないものだ。こういうキャラクターは、終戦後もまだ東京のそこここに残っていた大正モガの末裔で、音無の周囲にも居たのかも知れない。古い松竹映画や劇団新派の芝居にもよく登場するが、この古川健の新作の女たちは生き生きとその時代を生きている。今作を買うとすればそこが第一で(音無はきっと今年の女優賞を受賞すると予言する)、茂吉が老年と人生の短さにおびえるところなどは型どおりで物足りない。
緖方晋も今回は老年になって、工夫の余地がなかった。若い姉妹はどこから見つけてきたのか新鮮で今後に大いに期待したいが、役となるとさすがに掴みきれず形からはいっている。茂吉の家の一杯セットで2時間5分、休憩なしで、十分に面白いが、前後編かと言うと内容が前編は戦争責任が表に出、後編は家族と人生と言うことで全く異質のものなので、併せて見るものでもなさそうだ。内容的には前編か。客的には今回も満席。
演劇島
鴎座
座・高円寺1(東京都)
2024/11/08 (金) ~ 2024/11/12 (火)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
昨年はムニューシキンの「金夢島」がやってきた。日本が舞台の新作で、佐渡に能まで振ってあったのに、世阿弥の「金島書」にまで言及した論考はなかったように思う。この佐藤信の「演劇島」は金島書に「倣う」と言って、フォーマットを取っている。ともに内容は一方は現代劇にファンタジーだし、こちらは佐藤信がこれまでに演出した作品の台詞のコラージュから構成した舞台だからともに世阿弥の作品とは遠いのだが、世阿弥の拓いた芝居作りの原点に回帰しているところがあり、しかもそれが今作られる劇として大きな効果を挙げているところが面白い。
「演劇島」のテキストは、世界各地の戯曲、演劇台本からコラージュしていて、原典の「小謡」に倣って、プロローグとエピローグに九編の短編と言う構成である。スジの枠取りにはシェイクスピアの「テンペスト」の島に流れ着いたものの流離譚が使われている。
ノーセットの舞台に男女7名づつの黒衣の演者が登場し上下に座を占めると、トップライトで四角い光の中に舞台が示され、そこに能楽師の桜間金記がすり足で登場する。台詞は謡曲になっている。この前後の部分と、ほかに二場に出る八十才を超える能楽師による能の様式性は、時に台詞は聞き取れないところがあっても(折角、テキストの原典を細々と字幕に出すのなら、ここは台詞を字幕でフォローしても良かったと思う)他の部分の全ての演劇やダンスの様式を圧倒する演劇的存在感がある。ここが本作の第一の見どころである。
九編のエピソードは、それぞれ「沈む船」とか、「王たち」「プロスペロー」とか副題が付いていて、テンペストで島に追放されたもの(桜間金記)が見る幻として、テンペストのスジを追うような、あるいは佐藤信の演劇人生を追うような形になっている。それぞれ十五分足らずで始めに登場した14名の黒テントの俳優たちとダンサー(振付)の竹屋啓子と客演の大木美奈が台詞とダンスを軸とした舞台表現で見せていく。ダンサーと黒テントの俳優ではかなりこういう舞台での表現能力に差があるが、立てるべきはたて、せりふは割ったり群読にしたりと、その処理は佐藤信お手の物で、世界演劇の世界、つまりは「演劇島」の世界に捕まってしまう。
演劇を見せるためのスジのパターンはそれほど多くないので、これで十分演じている中身は解るが、それでも世に知られているような部分(台詞も設定も)は概ね作中に置かれている部分が決まっているので、使い勝手で切り取ると、どんなに上手く構成してあっても、繰り返しのような感じになってしまう。そこを、退屈し始めると能楽師が登場するという趣向で、観客も目を覚まされ2時間、佐藤信のいつものようにスタイリッシュにきれいにまとめられた舞台を飽きずに見られた。舞台に寄せられた作者、演者、劇場、などの制作スタフの力量に会わせ、さらに劇場や興行などの環境、さらには演劇の伝統なども含めあらゆる演劇的ソースを動員して最大効果を上げているのは見事であった。ほぼ満席。
それにしても、能楽堂と座・高円寺の声の通りの差には驚いた。伝統舞台はすごいものである。
光の中のアリス
小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク
シアタートラム(東京都)
2024/11/01 (金) ~ 2024/11/10 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
松原俊太郎は数少ない「劇作家」である。もう生存劇作家は福田善之くらいではないか。皆、劇団を率いたり、地方の公務員を仲間に興行の一員になっている。演劇の一面に興行があることは事実だが、独立できてこその劇作家、その厳しい道を歩んでいる期待の劇作家だ。
今回の演出、劇団は小野彩加 中沢陽というダンスカンパニーのスペースノットブランクが公共劇場(世田パブ)の支援で上演した。数多いとは言えない観劇では、文学座(今井朋彦)地点(三浦基)を見ているが、今回は演出者と波長が合ったのか、完成度の高い出来上がりである。地点の作品は、日本人の神頼み、と言うテーマに面白く時事ネタを織り込んでいて、お神輿も出てわかりやすくもあった。今回は人間の生命とは何かという大テーマに迫っている。生命は、外が見えなければならない、動かなければならない。外には生命を導く光がある。で、アリスインワンダーランドを枠にとっての全7場。1時間40分。
舞台中央の既設のせりを上手く使っているほかはノーセットのいかにもコンテンポラリーダンスのカンパニーらしい取組みである。中央に鍵盤電子楽器があり、下手には常時手話通訳者(F)がいる。演者は5名(M3.F2)衣装は時に兎の耳のある帽子をかぶったりするが黒の単純なものだ。舞台中央に縦にスクリーンがあり、そこに活字体で各場のタイトルや、台詞、説明などが縦に流れる。
最初出演者が三々五々舞台に板突くまでを3分くらい、ダラダラ見せるが、ここは唯一の失敗で、ここでかなりダレる。ここを乗り切った後は快調で、アリスがらみの寓話を次々に見せていく。ダンスカンパニーだから、演劇のグループとは違った味があって、あれよあれよと見ている間に終わった。このあれよあれよと見せてしまうのは戯曲と演出の上手いところで、こんな抽象的な話を上手く見せてしまう。
今回のダンスカンパニーは初見だから、よくわからないが、演者の体の動きもよく演出は舞台の全体の造形が良く、一言で言えば、細部まで美しく出来ていて、この演出家の他の作品も見てみたいと思った。ことに主演のアリスを演じた新木知伽は舞台を引っ張っていく力がある。
見どころは、別役亡き後、力のある劇作家とこの主演者、演出者で本年屈指の舞台と言って良いだろう。客席はバランスの良い観客席だったが、トラムで10公演。9割という入りは上出来だ。
いびしない愛
(公財)可児市文化芸術振興財団
吉祥寺シアター(東京都)
2024/10/25 (金) ~ 2024/10/31 (木)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★
地方都市可児市(確か名古屋周辺)の公共劇場は芸術監督に東京の演劇人を迎えて演劇活動を行ってきた。東京から俳優も参加して東京公演も行ない積極的な活動をしてきたが、コロナ明けのこの公演の席ビラには芸術監督の名前は見当たらない。その詳細は解らないが、人間が身を挺してやる演劇にはコロナは様々な形で深い打撃を与えたのであろう。この作品は新人の劇作家、ベテランのプロ演出家による地方を舞台にした一幕劇である。
コロナ禍の中で出発した作者・竹田ももこは、故郷・高知南西部の独特の風土を舞台にしたこの作品で劇作家協会の公募作品に入賞して劇作家として出発した。演出のマキノノゾミはその最終選考にあたっている。舞台を製作した中京地方の可児市とは関係ないが地方の演劇団体が製作する作品として、選ばれたのかもしれない。1時間半の小品である。
内容は地方に生きる地場産業の工場(海産物の加工工場)が舞台に取られており、経営にあたることになったに二・三十代の女性姉妹の葛藤がドラマの軸になっている。こういう地域社会の特性を生かした舞台設定で成功した作品は多くある。四国のへき地はさまざまな作者に描かれたことがあるが、この作品も風土のなかに紛れもなく日本の現代の地域社会の課題を巧みにとらえている。登場人物の配置も、筋立てもうまいもので、ベテランのマキノは舞台にアクセントをつけて運んでいる。しかし、地域産業の課題、身体障碍も含む姉妹の葛藤、都会と地域の地域差に生きる人々の社会観など、多くのテーマを同時並行で一場(昔からある漁業の作業小屋の工場の事務室・このセットは非常に良く出来ていて感心するが)で五人の登場人物のやりくりで扱おうとしたために、全体として薄味になってしまってせっかくの特異な場面設定が生きていない。
かつて数年前にこの劇場で見た同じく漁村を舞台にした庭劇団のペニノの「笑顔の砦」のような圧倒的なリアル感が乏しい。僻地物でも蓬莱龍太の「デンキ島」の離島の少女の焦燥感のような存在感がない。そのような孤立感からは逃れているところがこの作品のいいところでもあるが、それならそこにもっと心を打つ真実が欲しい。それは東京でも上演される地方発の多くの作品にも言えることなのだが、無理を承知でi言えばそこを描いてこその地域演劇である。
ドクターズジレンマ
せんがわ劇場
調布市せんがわ劇場(東京都)
2024/10/18 (金) ~ 2024/10/27 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★
調布市の公共劇場のこけら落とし公演。劇場というより、階段付きスペースといった感じで、東京郊外に多くある地方自治体の文化施設である。小笠原響が芸術監督になってお披露目の舞台である。翻訳から出発している芸術監督だけに見落とされていた翻訳物作品を第一作として、地味なキャストで上演した。
いろいろ「見てきた」感想はあるが主なものをあげると。
この劇場で翻訳物を軸にすると(ことに、ショーなどというイギリス通好みのラインアップだと)、劇場が市民に親しまれる前に足が向かなくなるのではないかという危惧がある。
イギリスと言ってもいろいろあるが、今回のショーのような作品は、もともと大劇場のプロセニアム劇場で上演するように書かれていて、このような狭い平土間スペースを前提としていない。前世紀には商業劇場では登場人物の数まで設定するのが常識になっている(もちろん大群衆の出る芝居もあるが、このような都心商業劇場向け作品は、という意味である)中で書かれているので、よほど上演台本で地元向きに手を入れないと客は退屈する。今回は休憩10分入りで2時間35分。長い。テキストはここでやるなら、医師の方は三人位に絞ってはっきりキャラクター劇にしないと持たない。芸術監督は翻訳が多い人で、原作者に遠慮もあるだろうが、ここで、小劇場向きの新しい翻訳の在り方をやってみるというなら面白い路線だが、役者も贅沢が言えない中で原作紹介の路線は早めに考え直した方がいいように思う。確かに、イギリスやブロードウエイの周辺には日本未上演の素敵な客受けのいい戯曲がゴロゴロ放置されているが、日本の商業演劇が、向こうで当たったものを選びに選んで翻訳上演しているのには理由がある。(日本の客はなかなか当てさせてくれない)からで、芝居が良く出来ている、という単純な文人趣味の観点では劇場の興業はモタない。
付随して言うと、この劇場は劇場というより「スペース」である。道具の出し入れ、音響照明の装置、俳優の控室、客の対応窓口などとても劇場並みとは見えない。それは商業劇場だと商売だからいつの間にかそれらしくなってくるが、公共劇場のなかには、いつまでたっても劇場として機能していかないスペース止まりの劇場もどきはたくさんある。市の担当課にはかなりの覚悟と勉強がいる。外注するなら杉並区の様に丸投げの覚悟も必要である(高円寺はそれなりに成功した)
調布は都内から見に行くにも近い割にかなり不便で、現に、吉祥寺と三鷹でも一駅でもかなり差がつく。仙川では三鷹よりよりもさらに苦戦しそうだ。
調布市民と言ってもどう東京都民と違うのか、市役所職員も問われても困るだろうが、演劇を見るという行為については全然違うと思ったほうがいい。市場調査をきちんとやり直し、それにふさわしいスペースを設計することが勝負どころである。(もっとも、固定客だけを固めてしまうという方法もあるかもしれないが、ここからあまり遠くない民藝の稽古場劇場には客は足が向かない。公共劇場の「演劇」の苦しいところでもある)
今回の芝居の選択も、啓蒙的、良心的かもしれないが、演劇のフツーの客(野田流に言えば)から見れば古めかしい過去の巨匠の作品である。ショーはイギリスでは一時、司馬遼太郎並みの一国を代表する名声知名度とはいえ、作品の中身は、現在の医学や、医者の社会的地位がかつてのイギリスとは全く違っているから、今の調布市の舞台から、まるでつかめない。多分ウエストエンドでは爆笑のところがウンともスンともいわない。それは社会の違いだからいかんともしがたい。そこを見抜くのも芸術監督の仕事の大事なところである。現に世間知らずの芸術監督の失敗の具体的例がそこここにある。
芝居の中身については、俳優陣で若い芸術家のコンビ(石川湖太朗 大井川皐月)が役をよくこなしていてなかなか良かった。本も後半は今に通じるところがあり芝居の組みの良さも効果を上げているが、前半の爵位がらみの話は思い切って整理しないとテレビで「ドクターX]を見慣れている客には勝てそうもない。
ガード下のオイディプス
フライングシアター自由劇場
すみだパークシアター倉(東京都)
2024/10/18 (金) ~ 2024/10/28 (月)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
オイディプスを主役にするギリシャ悲劇群は、ずいぶん乱暴な親子関係が王の政権の変遷に織り込まれていて、現代人にはついていけない話と感じる。神話的寓話としては、いや、教養としては‥などというあさましい見方についなってしまう。
この串田和美のオイディプスは、今までのギリシャ劇とは全く違うタッチで「ガード下の」などと言いながら、主筋の話を原作に取っていながら陽気で寛容、六本木時代〈ほぼ60年前〉の自由劇場のような舞台を繰り広げる。
劇場のすみだ倉も当時の自由劇場のガラス店の倉庫というのに近く、劇場に入るとステージ中央に引かれた黒中幕ホリゾントも明けてあって道具の置かれた舞台裏まで見通せる。舞台の下手壁には、もう58年前になるという自由劇場初演の「イスメネ」(オイディプスのの妹を主役にした作品)のポスター、上手にこの公演のポスター。今見てもコカ・コーラの瓶を中心に置いたイスミネのポスターは古びていないし、現ポスターは宇野亜喜紀良である。串田和美らしい音楽劇の構成になっていて、音楽はDr.kyOn.。演奏するコンボが下手に乗っていて、ブレヒト劇風に進行に応じて演奏合唱する。これで「悲劇」性はかなり「寓話」風になって、人間運命の悲劇が、運命は避けがたし、笑ってしまって生きていこうぜ、の喜劇性に転化された。
いかにも串田和美らしく、かつての60年代の反逆精神は今も生き生きと息づいている。かつてテントに媚びなかったように、今風抽象舞台でもない。突っ張っているわけでもない。
時代を体現しているような近接ジャンルの才人とのコラボを忘れないのも変わらない。今回はDr.kyOn.の音楽が効いた。他には自由劇場からコクーンにかけて一緒に仕事をした古い仲間や新人が加わってぃる。松本から東京に戻ってまだ二年目だから俳優は、親子(串田和美。十二夜)以外は自由劇場時代からの大森博史をのぞけばゲスト出演だが、王妃の大空ゆうひ、若い山野康弘、体躯で圧倒する体操出身の大野明香音など、結構しっかり個性的で今後の劇団活動が楽しめそう。
問題は入りで、倉は大きい小屋だが、ここで8割弱。夜公演だったが30-40歳代の女性が軸。若者が来るようにというのは、酷な注文だがそこに応えてこその串田和美だ。
先日見た松本修も右顧左眄していない。この年代なかなかしぶとい。岩松了、北村想、川村毅、がんばれ。あなた方の健闘が日本の新劇を支える。
さようなら、シュルツ先生
MODE
座・高円寺1(東京都)
2024/10/18 (金) ~ 2024/10/27 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
久しぶり!!松本修である。地方から戻ってきたと聞くが、全く昔日の輝きを失っていない。
カフカの連作は確かに代表作だろうが、柳美里の本でやった「魚の祭」とか「プラトーノフ」とか記憶に残っている。スタイリッシュに耽美的にまとめられた舞台、個の俳優と全体の舞台が巧みに演出されている。カフカ連作では、KERAに先行して独自の世界を作り上げた。対談してお互いのリスペクトもあって切磋琢磨いい舞台を見せてくれた。ちょっと助平ったらしいところも両者似ていて好敵手だった。
その松本修の帰郷第一作はカフカ系のポーランド作家の作品コラージュで、手法はカフカのときと同じである。まず小手調べというところかもしれないが、かつてのMODEの俳優も参加しているがほとんどが新しい顔ぶれのMODEである。
さすが!と思うのはこのあまり知らないModeの俳優たちが、動きの細かい松本演出をこなしていて、ほとんど破綻がなかったことが第一。これだけ形で見せるシーンが多いと、技術も重要で、うまい若い俳優たちが多かった。音楽の使い方もうまいものだが、(かつてはレコード音楽編集だった)今回は音源が苦しい。
肝心の作品。ブルーのシュルツの作品からのコラージュだが、この作者ほとんど知らなかった。カフカの後継の作者のようだが、その世界はかなり甘い。大筋は現代社会でははみ出して生きた男とその家族をめぐる一種の現世逃走譚で、舞台を見ていれば、懐かしい風景と見とれてしまうが、内容的にはかなり物足りない。せっかくカフカなどという世紀の大物も食ってきた松本修なら、せめて、カズオイシグロくらいは食ってほしいところだ。
まだここ通ってない
KAAT神奈川芸術劇場
KAAT神奈川芸術劇場・ホール(神奈川県)
2024/10/18 (金) ~ 2024/10/20 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
公共劇場らしい有意義な試みである。
演劇は、そのアートの原型として他の領域との交流がさけられないものであるが、このイベントのように、科学と身体表現(ここではダンス)の交流の場を、考察し、実施してみたのはなじめてのことではないか。確かに「まだここ通っていない」領域である。
科学の方では、「AIなどの人工意思の表現」、演劇の方からは、「言語(戯曲)に束縛されてきた表現からの脱皮。この一つの成果として最近のダンス」。この二つのものを交流させてみる。
科学者としては東大の物理学の教授・池上高志の発想、演劇側ではコンテンポラリーで実績のある山田うん。もちろん、先端領域の人々の考えは一般観客の一人である私などには雲をつかむような話で、まずとっかかりがまるでない。かなり客は入っていて、ほぼ客席は埋まって、130名ほどだが、関係者を除いて、このイベントの意図を開演前に把握していた人は多くないし、私の解釈にも誤解があるに違いない。
そこをこのイベントはかなりうまくやった。そこは五つ星である。
まず、開演前に池上高志教授が出てきて、黒板を前に解説をやる。5分ほど、心得ておいてもらいたいことが三つある、とか言って内容を紹介する。ドローンを使っているから、劇場内電波が弱いので、頭上に落ちるかもしれないが心配ない、などというのは誰にでもわかるが、AIの基礎的な科学が、どう装置に使ってあるか、という初歩的ブリーフィングもあるが、ここでもう、私などはわからない。わかるのは、舞台に二十株ほど、ススキがたっているが、これは仙石原の薄の原で薄が風になびく動きが、どう制御されるのか、やってみたものだ、という解説。ふーん、と聞いてはみるもの、よくわからない。
舞台の後方には上手にドローンなどを操作する技術者。下手に電子楽器、演奏者一人と池上教授。あとでわかったが、この楽器の演奏者がなんと!高橋悠治ではないか。パンフレットを見てびっくり、専門家は知っていただろうが、素人は帰国していたとも知らなかった。まったく昔と変わらぬ前衛音楽の演奏である。
始まった舞台は、コンテンポラリーダンスで、身体がいい男女五人のよく訓練されているダンサーたちと、最初に床に置かれた三十もあろうかというドローンの光体との共演になる。前説通り、いくつかのドローンは床に落ちる。
ストーリーもあるのだろうがそこはよくわからない。後半になると、薄の原もなるほど、ということにはなるが、言葉で説明されるわけではない。結局、制御されていたと見えた薄の原は暴風の後のように乱雑に荒らされて終わる。
このイベントのいいところはここから40分である。
演技終了後ただちにトークになる。芸術監督の長塚圭史が聞き手になって、池上高志と、簡単に言えば、解説が始まる。ここで、長塚のきき方が実にうまい。よくこういう機会だと、芸術監督は創作側に回って、観客を忘れてしまっていい格好をするだけになるものだが、観客が疑問に思うことを、巧みに掬い上げてひとつづつ、わかりやすい言葉にしていく。
現代のアートのテーマは人間の記憶にあるのだが、それを演劇にどうすれば引き出せるか、、あるいは表現できるか、その時現在の科学の力をどのように借りる可能性があるのか、人間の記憶そのものの科学的、時間的構造、など素人にもわかりやすく解説されていく。
二時間足らずのイベントではよく呑み込めないが、かつてのように、ダンスの身振りの解説を聞いたり、科学との共存と称して、ドローン人形と共演したりした子供じみた理解とは全く違う演劇と科学への現状認識を新たにできた。
阿佐スパの初期、やんちゃ坊主だった長塚もよく周囲の見える芸術監督が務まるようになったと感慨無量だが、本人も、そういえば、このテーマにつながる舞台「老いと建築」(2021)をやったことがあるし、今年はKERAも別の形で「江戸時代の思い出」という舞台を作っている。時宜を得た「記憶」をテーマに、公共劇場らしい取り組みが評価されるところだ。
THE STUBBORNS
THE ROB CARLTON
三鷹市芸術文化センター 星のホール(東京都)
2024/10/04 (金) ~ 2024/10/14 (月)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★
登場人物三人の演芸に近いコントコメディである。男二人、女一人の仕事中の休憩室のような場所のワン・シチュエーションだが、面白さを、各人の言葉、話の取り違えだけの笑いを種にしているので、話が弾まない。関西ものらしい破天荒さもなく、なんとなくいじましい。会話が全部台詞に書いてあるところや、ストーリーがあることから演劇としているのだろうが、これはやはり演芸だろう。台詞も、全員外国人でヘンな日本語や所作で話すというあたりも、しらける。素直に笑えないのである。三鷹の星のホールの若い劇団を上演させる試みは00年代には生きの良い面白い劇団がここから続々と現われてきたものだが、それも10年近く前のiakuあたりを最後に、ここのところ面白い劇団に出合わない。若者の方もこの場所に魅力を感じなくなったのかも知れない。今日の開場は三割30人ほどの入り、この観客では、こういう笑うだけが狙いの作品にはきつかったかも知れない。だが、そこへ行く前に、登場人物やシチュエーションの設定などが安易すぎることも主催者は指摘してあげないとこういう試みは役に立たない。
広い世界のほとりに
劇団昴
あうるすぽっと(東京都)
2024/10/02 (水) ~ 2024/10/06 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★
近代劇以降、どこの国にも「家庭劇(家族劇)」の伝統はある。ことにイギリスには、テレンス・ラティガンを始め、よく上演されるこのジャンルの劇がいくつもあり、その幾つかは我が国でも翻訳上演されてきた。今月も俳優座で上演された「夜の来訪者」(プリーストリー)もミステリ劇だが、家庭を舞台にしている。この作品は今世紀になって発表され、しかも初演はドイツと言うから、前世紀とは事情は違うあろうがやはりお国なまりは抜けない。紛れもないイギリスらしい芝居である。
物語は格別事々しいことはなく、工業都市のマンチェスター近郊の三世代が身を寄せて住む家族の変転である。冒頭、末の孫世代ののむすめが交通事故で死んだところから始まるが、このような事件は以後起きず、祖父にはがんが見つかり、父母は過ぎ去った青春に果たせない焦燥感を持ち、青春期の孫ははじめて女友達と、旅行を試みて親と対立し、それを包むように父の左官工の職場の一コマが描かれ、交通事故を起こした加害者は陳謝に訪れ、男たちは祖父、父、孫それぞれに不器用に会話をし、女たちはお互いにどこかにわだかまりを持ちながらともに暮らす。それは今までにも見た家庭劇の再現でもあるようだし、先世紀の家庭劇にはなかった情景でもある。
日本で東京が遠いようにイギリスでもロンドンは遠いところに暮らす人々は多い。しかし僅かながらでも時代の風景は動く。
今は現代だけの人と事件の情景から出来ている舞台も翻訳劇でたくさん見ることが出来るが、この辺がイギリスの市民社会の平準的な風景なのだろう。日本で言えば、横山拓也の作品と言ったところだ。
今回は俳優座の真鍋卓嗣の演出で、翻訳はこのところ小洒落た作品をこなす若手の広田敦郎。台本作りも上手く、テンポも良い演出で二幕ほぼ三時間(休憩10分)の長丁場である。翻訳劇には慣れた昴のベテランから新人まで舞台面にソツはないが、台詞の音量が揃っていない。一部の俳優の台詞は劇場(あうるすぽっと)の中段までも届いていない。現代語で早くなると母音の芯がしっかり出来ていないから訳がわからない。俳優座は劇場があったから、ここで俳優座の俳優は訓練される。昴では大山の小劇場で台詞が通ったからと安心したのが裏目に出て、俳優座劇場クラスのあうるすぽっとでは、10段目の周囲の客はついていけずお休みの方も少なくない。人間関係が結構複雑な展開だから、ここはもっと気遣いが必要だろう。
開いてから日はたっていないが、招待客も多く実態は半分の入り。折角大きめの劇場を抑えたのに残念な入りだった。
灯に佇む
加藤健一事務所
紀伊國屋ホール(東京都)
2024/10/03 (木) ~ 2024/10/13 (日)公演終了
実演鑑賞
カトケンはいい役者である。役を芝居らしい表現で見せる力量がある。喜劇も悲劇も出来る。舞台を仕事の中心においてブレない。芝居の好みにこだわる。個人事務所で自ら役を選ぶ。結果、いまもなおその居場所が決まっていない。珍しい俳優である。
加藤健一事務所は年に二三本の主演公演をやって40年になるという。その初期に「寿歌」(81)を見たのも、この紀伊國屋ホールだった。小劇場の一つのあり方を実践してきた。再演も多いが、公演していると、たまに見たくなる。
今回は創作劇である。医療の現場の問題を扱った「新劇」である。カトケンは地域に生きる老開業医である。次々の難題は降りかかるが、地方の開業医には自分の医師としてのささやかな志も生かせる環境がない。かつては手近なところにあった医師と地域の関係も今は遠い。こういう役に時代の未来を重ねなければならないところにも、日本の疲弊した現状が見える。
観客層は民藝に近く、昼公演が断然多くなったが、それでも七割の入りだ。出演メンバーも顔ぶれの幅が狭くなっている。今回は占部房子が初参加ではないだろうか。そこに僅かに新しい風が吹く。
セチュアンの善人
劇団俳優座
俳優座劇場(東京都)
2024/09/20 (金) ~ 2024/09/28 (土)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
俳優座劇場で何度も見たあの俳優座のブレヒトである、
市原悦子も栗原小巻も、その年の演劇界の芸術的成果の代表作としてみた。シーンごとに天井から降りてくる大きなプラカードに示される活字体の説明に従ってのその場を客観的に見る、観客は、舞台に感情移入させて見てはならぬ、とか、音楽はジンタのようなものが良いのだ、とかさまざまにブレヒト劇の見方を学習したものだが、どこか腑に落ちない。当時、映画、テレビでもおなじみだった俳優座の名優たちの演技はお見事でもあったが、落ち着いてみれば展開する物語はよくできた寓話で、そんな大げさなものでもない。
当時ポスト「新劇黄金時代」の旗手として上演されたのがブレヒト戯曲には不幸だったようで、やがて、反新劇の唐十郎から、つかこうへいの登場に至ってブレヒト神話は粉砕されてしばらくは、お茶を引くことになった。それから50年。世紀が変わる。
時代は変わって、劇場の最後の上演として「セチュアン」を見ることになろうとは!
しかもその上演は過去の上演とは全く違う。物語の主なスジは原作のものだが、一人二役の資本主義そのものの主演者のシエン・タ(森山知寬)は、女優ではなく男優になり、シーンごとにプラカードで示された場面は、ホリゾントを大きな半円で囲むすだれのカーテンの内側の丸い場面一つになった。物語も後半は大きく変えられているが、ほぼ、3時間ちょっとの長丁場を何曲か歌入りで10分の休憩だけ一気呵成につないでいく。(かつての上演よりは30分は短くなっていると思うがそれでも長い)。テキストは現代風で、昔の上演を思わせるものは何もないが、演劇は時代と共に生きる。そういうものだ。
かつて、劇団任せだった新人演劇人養成を新しく担うことになった桐朋学園とは提携していて優秀な学生は俳優座がスカウトして華々しくデビューしたものだ(多くの名優を生んだ、その功績は大きい)。ラストステージでも、今年卒業の学生たちが大挙出演している。現在の俳優座のベテランに混じって水売りの女(渡辺咲和)や神様のひとり(今野まい)のような重要な役にも出演していて、これが初々しくてなかなか良い。役の登場人物18名に俳優座のベテラン。そこに桐朋学園の学生が20名。演出は劇団の若手俳優でもあり演出家でもある田中壮太郎。さまざまなクレジットのついた大公演である。
で、どうだったのか。
観客も又変わる、舞台も変わる。こういう名作を日本初演から見ているものにとっては感無量としか言いようがない。最近ブレヒトがちょくちょく再演されるようになった。解らぬでもない。話が東映のヤクザ映画みたいに単純に面白く出来ているのだ。
戦時中をヨーロッパからアメリカへ、戦後冷戦下を東西両陣営で生き抜いたブレヒトはやはりただ者ではない。
『ミネムラさん』
劇壇ガルバ
新宿シアタートップス(東京都)
2024/09/13 (金) ~ 2024/09/23 (月)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
劇壇ガルバは山崎一が主宰する個人劇団で面白いプロデュースをする。集まった者の賛同さえ得られれば、何をやってもいいと言う自由さがある。主演者は峯村リエで、彼女を当てて三人の作者が短編を書く。当て書きをする。できあがった三編の短編は細川洋平「フメイの家」、笠木泉「世界一周サークルゲーム」、山崎元晴「眠い」。できあがったところで、三編を混ぜ合わせて(並べてではない)一本の作品をつくる。まとめ役は演出の文学座の西本由香(気がつけば今週は文学座女性演出家の三連投だ!)が一本にする。普通考えれば、こういう企画は大方の作者は嫌がる。上手くいくはずがないし、結局後味の悪いことになる。そこをよってたかって面白がりながら一本にしてしまったところがこの珍しい企画の手柄である。作者でもなく制作者でもない山崎一にしか出来ない芸である。
テーマは「女性」で峯村リエに当てたわけではない(ことはないだろうが)が、演者が峯村リエになったので、ついでに?タイトルも「峯村さん」にした??ホントかどうかは解らないがパンフレットを読めばそういうことだ。現実に俳優としては、正体不明な魅力のある峯村リエがそういう芝居の主役を演じるところも良い。
作者はそれぞれ一癖ある中年前期の世代の作者たちである。皆それぞれシーン作りが上手い。だが、最初から一本にしようという強い縛りはなかったようである。パンフレットを見れば、出来た後でどのようにバラバラにして、スジをつけて再構成したのか書いてある。やはり一本の作品としてはどこか、いびつな出来で、ファンタジーなのか、現代ホンネ女性ものなのか、フラつく。不条理劇の極みでもあるが、でも、こんな女いるよね、げんに峯村リエが演じると結構魅力的でもある。こうして「誰かであり、誰でもない」峯村さんができあがった。演出者はこのドラマは「不在」がテーマだと難しいことを言う。そういえば、最初、峯村さん宛に書かれ、郵便で送られた手紙は「宛先フメイ」で届かない。
舞台の半ばを過ぎたあたりで、突然30年ほど時間が飛ぶ。ここが良い。このドラマに実際の時間がはいったことで、現実は過去と今のとの交差点であり、そこにしか人間は存在できないことを示すことが出来た。そこでミネムラさんが実在する、このあたりから、彼女の半生を彩ったさまざまな人々との過去は精彩を持ってロンド(輪舞)して現代のドラマになった。愉快な一夜のユニークなエンタテイメントでもあった。
リビングルームのメタモルフォーシス
Precog
東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)
2024/09/20 (金) ~ 2024/09/29 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
チェルフィッチュはだんだん難しくなって、「三月の五日間」のようなパンチの効いた平明さがなくなった。しかし、不思議なことに、難しくなっても、最後には、フーンこういうことか、と納得させられてしまう。今回の物語は家主から突然退居を迫られた借家人のリビングルームから始まる。借主は借家人の方に法的権利はあると主張して家主をやり込める。ここまで第一部、だがその見晴らしのいい岡の上にある借家の部屋の空気はなんだか知らないがすこしづつ変わっていく。(第二部)どうやら、ここには穴が開いていて、ここの空気は少しづつ抜けていくようだ。こうしてリビングルームはメタモルフォーゼ(変態)する。
結果、整理整頓されたモダンリビングは、怪獣めいたかぶり物が跋扈するガラクタ家具の置き場のようになってしまう(第三部)。作者演出家・岡田利規の劇場パンフによれば「フィクションを帯びた身体を媒介にして、空間にフィクショナルな変容を施してみる」と言うことになり、その空間を音楽が注ぎ込まれる容器にすることで、新しい音楽劇にした、と言うことになる。
変貌していくリビングルームが下手奥にあり上手は何もない空間。その前面に室内楽演奏の楽員(V2.Vla Cello。Fg. Cl。Tuba.Pf>が横に並び演奏が続く。観客は楽員越しに舞台度芝居を見ることになるが、東芸のイーストではあまり煩わしくはない。音楽は俳優(役も含めて)の内面の感情と結びつく者ではなく、俳優によって生み出された空間と結びつく。いまある一般的なミュージカルから見れば「根本的新しい音楽劇」である。要するに一そこにあるスジや役者の感情で見ないで、チェルフィッチュが作り出したここにある空間の感情を読み取ってくれ、と言うわけであるが。さらに解りよく言えば、気候温暖化時代の地球環境とか、都市空間とかの問題を、文化ツールである演劇や音楽の舞台を通してみるとこうなる、どう?という世界の出来事の一つである。それは「わたしの世界の出来事・宇宙の事象を捉える際の人間的・人間中心的な態度に態度の変容を施したい」という理由からくるもので、これからも「その努力をコツコツ積み重ねたい」という。次も見たくなるではないか。
西ドイツでの招聘制作。90分。休憩なし。場内シーンとして名演奏家名演を拝聴する感じ。そんなに堅くならなくても良いのに。もちろん満席である。もちろん、つまらなくはない。
『ミネムラさん』
劇壇ガルバ
新宿シアタートップス(東京都)
2024/09/13 (金) ~ 2024/09/23 (月)公演終了
三人吉三廓初買
木ノ下歌舞伎
東京芸術劇場 プレイハウス(東京都)
2024/09/15 (日) ~ 2024/09/29 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
「三人吉三」と言えば、あの名台詞。「月も朧に白魚の、篝もかすむ春の宵、・・」。
節分の夜、大川端で百両の金包みを手に入れた小悪党がしめしめと「こいつは春から縁起がいいわえ」。駘蕩とした江戸の雰囲気。
大歌舞伎でいまもよく上演されるから、少し歌舞伎を見たものなら一度は見たことがある。良い気分で歌舞伎見物に酔える舞台だが、これを木ノ下歌舞伎上演するという。実はコロナの初期(確か20年6月)に同じ劇場で公演されることが予告されていて、既に関西での上演では賞をえていたから大いに期待して心待ちにしていた。五年待たされて、念願の上演である。
今回は、役者も川平慈英や緒川たまきや、テレビでも顔の知れた俳優もキャストして、音楽も解説的なラップもはいっている。幕見もあれば、オリジナルお土産もロビーで売っている。だが、客席は薄い。一階席は8割、上の階は空席が目立った。
幾つかポイントを絞ると、1)木ノ下歌舞伎が大劇場で上演される(東京で)ことは少ない。大歌舞伎の観客もかなりいる。彼らはスタンでイングオベーションになれていない。(つまり、木ノ下歌舞伎の見方を知らない)
2)黙阿弥の原作が非常に長い。今回の上演でも藝ナカ、五時間。原作通り(は初演以来やっていないが)間違いなく10時間をかなり超える。3)非常に入り組んだ百両と、盗まれた名刀を廻る小悪党と彼らを取り巻く市民の因果話に現代の観客がついてくるか。そこにどのような現代人を打つリアルがあるか。
木ノ下歌舞伎のこれまでの活動を評価することにはやぶさかではない。正直上手くいったものもあるし、残念というのもある。今回も、力が入っているだけに甲論乙駁、これから賑やかなことだろうと思う。言い始めれば長くなる。
「見てきた」見物批評で言えば、今回はいつものゆとりが乏しかった。「櫻姫」で試みた大向こうのかけ声を入れてみるのはどうだろうか。これは卓抜なアイデアだと思ったが、今回の、大劇場の冷え切った客席に役者が空転しているのを見ると、役立つのではないかと思った。見物的には、物語のテキストレジはこうするしかないだろうけど、各幕で空気をガラリと変えた方が(スジの柱も変えているのだから)見やすいのではないか。三幕の丁子屋長屋のカット代わりのようなスジの運びの処理はいかがか。と思った。
円盤に乗る派 『仮想的な失調』
東京芸術祭
東京芸術劇場 シアターウエスト(東京都)
2024/09/19 (木) ~ 2024/09/22 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
始めて見る舞台に予習をしていかない観客も失礼とは思うが、上演側はあまり予習を望んでもいないらしく、劇場ビラには小さい字で短く能の原作のあらすじが数行印刷されているだけである。無愛想な劇場ビラを見ていると、隅っこに「幽霊、自我の喪失、顔の見えない誰かの欲望・・すべてが仮想的な時代における、物語の失調」と上演意図のようなコピーが刷られていた。
能狂言や歌舞伎の現代化上演ではその意味や手法が舞台でも、パンフレットでも概ね詳しく解説されるのが普通なのだが、何という簡素さ。時間になると、溶暗して舞台は始まる。謡や囃子はなく、よく選択されてはいるが日常の衣装と、日常会話の台詞で物語が進む。BGMにはよくわからないが電子楽器のリズムが反復して流れている。ほぼ何もないような舞台に俳優が登場して90分ほどの上演時間の前半は「名取川」による作品、休憩10分後の後半は「船弁慶」の現代ドラマとしての上演である。こちらは予習していないから仔細は解らないが、名取川は、旅に出る兄弟を送る宴会を開いて別れを惜しんだ、と言う話、船弁慶は女性関係がこじれたまま、関係者がドライブした、と言う話らしい。後半の船弁慶にはベニヤ板にヘッドランプをつけただけの乗用車も登場し、そこでの道行きもある。何しろ、名取川では旅に残していく飼い犬が本役で人間のママ、犬として演じ、抱擁もすれば、大詰めはその犬の別れを惜しむ踊り(と言っても、犬だから単純な振付を繰り返すだけなのだが)で心を許した主人を送り出すし、「船弁慶」では雨の中のドライブの途中で恨みを持つ知盛が、薄暗い舞台の隅にレインコート姿の女性として観客に背を向けて現われることになる。
全体に、非常にスタイリッシュでよく整理されていて、見る方も見るコツを飲み込めば、面白く見られると思う。事実、解らないながらも結構飽きずに見た。
この舞台からは、今までの古典の舞台からは読み解けなかった感情が伝わってきたからである。犬が踊ったり、何やら解らぬものが立っているだけで、伝わってきたた感情は民族が古典芸能に込めた日常の心情をそのままナマっぽくすくい取った言葉にしにくい感情だったのである。普通、現代人が古典作品を見て、冗長と感じたり、どうでも良いスジとして眠ってしまう部分にその感情表現は隠れていて、この公演はその部分を解りやすく現代化して見せてくれたわけだ。たぶん。
そこは、古典作品を現代風に説明する現代化とは違う素直な良さがあった。
劇場の帰途、ふと、コロナ禍のさなかで急死して、弔いにも行けなかった若い仕事仲間のことを思い出した。それはいまの時期がお彼岸だったと言うことばかりではない。
例年開催される池袋の東京芸術祭の一環で本拠となる東京芸術劇場の地下の劇場での上演で、若者も多く男女取り混ぜほぼ満席だった。祭りのイベントとしては上演後「感想会」も開かれる由だが、これは感想を共有すればいいというる舞台ではないだろう。むしろ、感想会で解ったような気になるのを戒めてもいる。しかし、共有しないと落ち着かないというのも現代病は蔓延していて、それを作者は「失調」と言っている。