新作『トロイメライ』/『ジョルジュ』
座・高円寺
座・高円寺1(東京都)
2024/12/19 (木) ~ 2024/12/25 (水)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
12月、冬の訪れの時期に毎年上演される座・高円寺の音楽を取り込んだステージである。形としては朗読劇といった作りだが、小品ながら音楽として成立している演奏を取り込んでいる。今回は芸術監督に新しく就任したシライケイタの作・演出でシューマン(亀田佳明)と妻・クララ(月影瞳)の交わした往復書簡を読みながら何曲か秋山沙穂が演奏する。休憩15分を挟んで2時間30分。
このシリーズはもう20年を超える実績がある。今年は例年好演されてきたアメリカのジャズを素材にした「アメリカンラプソディ」に替わって「トロイメライ」になった。シューマンの音楽が演奏されるのだからシューマンの話か、地味じゃないか、と思いながら見ていると、半ばでシューマンは若死にして、後半はブラームスとのの往復書簡になる。これは、妻クララの話なのである。シライケイタ、ラストに余白の日記を出したり、構成はうまいものである。
19世紀、男性社会だったウイーン音楽界に演奏家として受け入れられ、女性音楽家として初めて音楽界でリーダーになっていくクララの生涯が演奏と共に語られる。亀田はこういった役回りはお得意で今回もシューマンやブラームスを過不足なく読む。月影が父に反発しながらローティーンの頃からシューマンとの純愛に生き、たくさんの子供たちをもうけ、毅然として演奏家としてヨーロッパ中を巡演していく自立する女を読む。好演である。
自立する女性物語として古いが王道の話で初演ながら客席は老若男女バランスの良いいかにもの「杉並区民」で満席であった。
この企画も10年を超えれば劇場名物になる。こういうシリーズ公演を一つでも持っていることは自治体劇場としては大成功である。組み合わせるショパンの「GEORGE」は定評ありの公演だがピアノで固めるのも一案だが、やはり前作のように軽音楽系の物語欲しい。芝居に比べれば仕込みは楽なのだから三本立てでも意のではないかと思った。客席300クラスの劇場がそれぞれ四季にあわせ名物公演を持てれば東京も素晴らしい演劇都市になる。なれば良いなぁ。
穏やかな人と機
劇団青年座
新宿シアタートップス(東京都)
2024/12/12 (木) ~ 2024/12/22 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★
「人と機」は「ひととき」と読む。それが一時なのか、人間と機械という意味なのか解らない。まぁ解らないままで良いと思ってるのだろうが、そういうところが困った作品である。昨年、「悼めば尊し」(コンビニ店員の飯田さん・公演)を見た池内風の青年座の書き下ろし作である。作品をたくさん見たわけではないし、この劇の素材と狙いが劇団と作者の間でどのように合意されていったかは知らない。だが一つの舞台をそういう訳のわからない韜晦趣味で「穏やかに」乗り切れると思っているところが致命的欠陥になっている。
内容は企業ドラマである。中小企業の介護用品製作会社を舞台にして、製品の制作部から製品検品に異動させられた中年のリーダーを主な主人公に、ホットな話題のAI機能の採否、から現代の会社・業界内部の組織経営の話題まで広く織り込んでドラマにしている。
現代の企業に生きる人間たちを描くのは、現代演劇に残された大きな素材領域で、最近でも、中津留、中村ノブアキ、横山と若い人たちもよく素材に選ぶ。みなだんだん上手くなってきた。この池内作品は、とにかく台詞頼み、ほとんど全編登場人物が言葉で説明していく。台詞のテンポは速く、さすがの青年座でも台詞を噛む俳優も少なくない。それでも人物設定が極めて類型的なので話はわかる。そこで何も観客が?と人間的にひかかることがないところが困ったところである。休憩なしの2時間。
前作の「悼めば尊し」は現代の青春物として新鮮だった。ここでは?が現代の若い人たちの心情を見せる糸口になっていた。この新作には見るべき発見がない。次頑張って欲しい。
桜の園
シス・カンパニー
世田谷パブリックシアター(東京都)
2024/12/08 (日) ~ 2024/12/27 (金)上演中
実演鑑賞
満足度★★★★★
チケットの抽選に次々と落選。最後に立ち見席に辛うじて当選。85分、休憩15分、75分。計3時間の立ち見の「桜の園」である。
世の中の動きに目を瞑り、異郷の大都市で放埒に生きてきた女性が、一族共々時代の流れの中で故郷から放逐されるふるさと物語り。19世紀から20世紀にかけて世界の各地でさまざまな形で起きた近代から現代への社会変動を背景にした20世紀演劇で最も広く上演された作品の一つだ。だが、その「桜の園」も随分変わった。それが如実に現われたのがラネーフスカヤを演じる女優の年齢である。今は東山千栄子のラネーフスカヤを実際に見た人は少なくなっているだろうが、見た世代では、この女主人公は60才過ぎの老人としてすり込まれている。かつて新劇の代表作とされたこの作品の女主人公を演じた名優たち、細川ちか子、杉村春子も老年になってからの主役であった。
昨年パルコ劇場での上演では原田美枝子(演出はイギリス人)、今回は天海祐希。ちょっと昔になるが、2003年の蜷川演出では麻美れい。一つ。いのちある俳優によってしか表現できない演劇では、俳優も又同時代の顔になる。観客も又共に時代を生きなければならない。
今回の演出はケラリーノサンドロヴィッチ。彼の舞台としては静かな舞台だが、今の時代と併走する円熟の舞台だった。ケラも歳をとる。コロナで上演寸前に上演中止になってから5年。多作のKERAの作品のなかでもあまり本をいじらず「演出」の代表作のひとつだ。
ラネーフスカヤを演じる女優が若くなったのに従って、戯曲の読み方が大きく変わった。
二つ。没落貴族の哀切のドラマから、新時代を拓く若者の解放のドラマへ。戯曲の中で重点の置き方が創る側でも見る側でもほとんど180度変わった。それが、ドラマの構造から各登場人物のキャラ作りにも及んでいる。KERAの演出は細部にまで細かく手がはいっている。中止になった舞台からはキャストが替わった役もあるが、みな過去に見なかった役の演じ方をしている。しかも、理に落ちた芝居をしていない。荒川良々、山崎一、緒川たまき、さらに藤田秀世(ピーシチク)、鈴木浩介。だからこそ、役者たちもラストの名台詞も生きている、ケラはかつて「若者は常に正しい」と言い切ったことがある。ここが三つ。
故郷へ帰る汽車の汽笛から始まり、全く意外にも軽かった幕切れの時代が変わる音で締めた音響設計。さらに保守的だがまとまりの良い美術をも良かった。ここが四つ。
年末に「ヴェニス」と共に「桜」も本年屈指の作品だった。
ヴェニスの商人
TBS/CULEN
日本青年館ホール(東京都)
2024/12/06 (金) ~ 2024/12/22 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
本年随一のシェイクスピア作品の上演だが、ファンクラブのお好み上演と判断され、一席の余地もない草薙ファンの客席である。これは映像で見ても仕方がない、演劇ならばこそのナマの現代最高レベルの舞台である。だが、きっと演劇ファンにはチケットが手に入らなかっただろう。演劇ファンには残念、チョー大いに残念である。
青年館ホールのノーセットの舞台に十七人の俳優たちが登場して舞台奥の横一列に並ぶ、薄暗かった舞台に明かりが入って、ここから一幕二幕とも70分、休憩20分の「ヴェニスの商人」が裸舞台でほとんど原テキスト(松岡訳)通りに展開する。
花嫁の三つの箱選びまでが一幕。ここまでは、ユダヤ人や金融商人の仕組みを含め、あまりなじみのないヴェニスの社会事情を基にした葛藤があっていささかダレるが、それを救ったのは、ポーシャ役の佐久間由衣の大健闘。バサーニョの富裕層ぶり。も面白い。ここをそれぞれの登場人物の生き生きとした自己主張でつないでいったところが上手い。ここを既存の位置づけで了解してしまうと、この後が、勧善懲悪の話になってしまう。二幕はバサーニョの箱選びから、舞台はヴェニスへ。後は一瀉千里で大詰めの裁判になる。
なんと言っても草薙剛のシャイロックで、今までにない被差別の地位から主張する見たことのないシャイロックである。世間に負けず力強い。今までに娘にヨワイ、男の友情なぞという作りのこの作品は見たことがあるが、社会と戦う(しかも負けない)シャイロックで社会劇、人間劇としても成功している。演出者(森新太郎)の芝居のもくろみが首尾一貫して気持ちが良い。
制作会社がCulenとなじみのない会社で、これはジャニーズ脱退組のSMAPの三人の会社である。一見芝居の座組慣れしていないキャステキングで、これで演劇ファンは逃げたのではないかとも思うが、先の佐久間、野村をはじめ、全員上手くはまっている。森新太郎の演出力は大いに買って良い。名ばかりは有名な箱選びと裁判の場以外は説明が多く盛り上がらない戯曲をノーセットの舞台でここまで持ってきたのにはびっくり!であった。
ロミオとジュリエット
新国立劇場演劇研修所
新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)
2024/12/07 (土) ~ 2024/12/12 (木)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★
新国立の演劇研修生制度は、初期の(三代目か?)の芸術監督だった栗山民也の新国立を日本の現代演劇の基礎を固める場所にする構想の一つとして成立した(と記憶している)、それからほぼ20年、18期の修了生の公演である。国立の古典芸能養成はもっと長い実績があり、現に今の歌舞伎はこの養成所出身者がいなくては大歌舞伎も文楽も上演できない(もし欠ければ上演の質は確実に落ちる)と言われている。古典の方は、伝統の制度と新しい研修制度がかみ合って舞台が成立しているが、現代演劇の方はなかなか上手くかみ合わない。しかし、現代演劇もここのところ元気が良いだけではろくなことにならないと解ってきて、周囲を見渡せば、この研修所出身の俳優たちが大小の舞台でしっかり舞台を固めている。
このロミジュリは、岡本健一の演出。中央に三間四方の黒の裸舞台を置き、男女全員同じ委ギリシャ風の衣装の出演者はその周囲を回ったり台に上がったりしながらそれぞれの役を演じ台詞を言う。かつて蜷川が日生劇場で公演したロミジュリを全キャストに拡大して全員で青春を演じる。今まで見たこの研修公演は近代以降の戯曲をほぼ、戯曲に沿った解釈で演じる舞台が多かったが、これは、ダンスに連なる新しい舞台訓練も収めた終了公演である。1時間半ほどにまとめているが、ほぼ全編声を出し動いていなければならないので若い研修生も大変だ。後半は声もかれてヘトヘトという感じである。
舞台そのものの成果を問う公演ではないが、最近の俳優はこういう研修から生まれていると知った。ここ
栗山民也の後、内外トラブル続きで舞台の成果も見るべきことがなかったこの劇場も芸術監督も替わることだし、心機一転現代劇の基礎を固めるという栗山の初期の構想に戻って日本の現代演劇を分厚いものにしてほしいものだ。
囲われた空
劇団民藝
紀伊國屋サザンシアター TAKASHIMAYA(東京都)
2024/12/07 (土) ~ 2024/12/15 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★
「アンネの日記」以降、ナチス暴虐を背景にしたメロドラマは数多く作られたが、次第に種も尽きて、この作品は映画「ジョジョラビット」の原作小説の戯曲化。それなりに欧米でもあたった舞台だろうが、かつて劇団民藝が何年も再演を繰り返し大当たりした「アンネの日記」には及ぶべくもないだろう。それは一言で言えば時代が変わったからで、いまは舞台にリアルを盛り込むのに苦しみ、ファンタジーに行き場を求めている。昔なら、二番煎じと誹られるところだが、久方ぶりの民藝見物だが良いところもある。
主演を務めた若者の二人が良い。民藝育ちで神保有紀美はそろそろ10年の中堅。一ノ瀬朝登は、まだ入団したばかりの新人だが、柔軟に「囲まれた世界」の青春ものと割りきって演じきった。演出も無理強いをしていない。みなナチ時代なぞ想像も出来ない世代である。
ファンタジー色を強めたらかえって若者にも理解できるところが増えたかも知れない。
日色ともえはその辺解っているのか、老優名演に徹した座長芝居である。しかし、この芝居、どう見ても日色の舞台ではない。日色は健闘しているが、(さすが、と言ってもいい)芝居全体としては後半の二幕、展開に苦しいところが多い。ここを整理するには外部演出の若い小笠原響では荷が重い。加藤健一事務所のように割り切れないのは、なまじ演劇界のリーダーだった過去が今も劇団に重くのしかかっている。
数少ない夜公演だが後半分の席は関係者が多かった。
白衛軍 The White Guard
新国立劇場
新国立劇場 中劇場(東京都)
2024/12/03 (火) ~ 2024/12/22 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
ちょうど百年前のソ連(ロシア)の戯曲(大河戦争小説の劇化)による舞台だ。ロシア革命の時のウクライナのキエフ近郊が舞台になっているから時宜を得た企画ともいえるのだが、何せ百年前の話だから王党派などもでてきて、今も似たような権力構造はあるものの現代に引き寄せるのはムリというものだ。その代わり、この舞台には、演劇的スペクタクルがあって、そこが見どころだろう。
演出は、ここからこの劇場の芸術監督の仕事になる上村聡史で、もともとこのように大劇場の舞台機構を使うのはうまいものだったから、このロシア内乱の戦争の最前線をうまく見せてくれる。スペクタクルというと、映画やテレビの映像の世界と重なって、もちろん演劇は圧倒的不利なのだが、観客に深い感動を呼ぶ劇場(演劇)的スペクタクルと技術はある(レミゼのフランス革命、いくつものミュージカルの名場面(キャッツの「メモリー」)歌舞伎の宙乗りなどなど)もので、新劇系では最先端の舞台機能を持つこの劇場に上村聡史が就任したのは、これからが楽しみである。
今回は小手調べだろうが、始まって間もなく、舞台奥からフルセットのウクライナの将校の家の居間が劇場中央(前列10隻をつぶしている)にせり出してくるところなど、客席機構と連動しているからほかの劇場では出来ない技で(できなくはないだろうが、スペクタクルの効果が上がらない)、ここで演出家は、これは戦争ものだが、ホームドラマだよ、と言っている。
一幕が2時間、二幕がほぼ1時間で長いが、複雑極まるロシア国内内乱の物語をスペクタクルとともに絵解きしてくれた。飽きないがさすがになじみのない世界で客の入りは半分というところだった。まぁいろいろ注文が山積しているこの劇場もこれからは大きく変わっていきそうだ。くれぐれも自分のことしかわからない官僚は口を出してこの劇場を舞台に何度も繰り返した税金の無駄使いしないように。
沖縄戦と琉球泡盛
燐光群
吉祥寺シアター(東京都)
2024/11/30 (土) ~ 2024/12/08 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
タイトルそのままの内容である。
坂手洋二は90年代から、一貫して政治的立場(支持政党という意味ではない)を明らかにして演劇を作り続けてきた演劇人でその演劇を上演する自ら主宰する燐光群もまたいくつかの他の作家作品もあるが、坂手作品を上演し続けてきた。出発は小劇場だから、旧党派的左翼演劇とは明確に一線を画し、ポジションを言えばいわゆる「リベラル・左派」といったところだろうか、旧弊としか言いようのない旧新劇の主流と異なる体制批判演劇を作ってきた。時代とともにスタイルも新しい。レッテル張りは坂手の望むところではないだろうが、その立場からいくつかの世に広く受け入れられた優れた作品もある。もともと素材の選び方も、芝居のつくりも「うまい」作家なのである。
坂手が推進した社会の現実の葛藤とその進むべき道筋にドラマを見るいわゆる「社会派」作品も時代とともにかわってきた。
ここ十年ほどは、中津留章仁。古川健。横山拓也、シライケイタ、と若い作家の台頭も著しい。彼らは、体制や政治批判に軸足を置くときも、坂手以前の作家が置いたように、敵役に安易に批判対象を置いたりしない。敵役もまたこの社会の中で機能を持っている現実をよく知っているからである。彼らは左右を問わず政治的党派の言説を鵜呑みにしたりはしていない。彼らは事実やデータを重視する。カポーテ以来のニュージャーナリズムに近い。
この坂手の新作は、根底に日本の琉球に対する長年の批判があるが、それを琉球の酒事情の事実から解こうとしている。ドキュメンタリ-演劇といったスタイルである。作家本人が酒好きだなと、思わせるところもあって、そういうところでは足を取られない長年ぶれずに作品を発表し続けてきた円熟さが見えた。
それにしても長年劇団を支え、最近ではテレビや映画のいい脇役が務まるようになった長年の戦友の俳優たちも年輪を重ねたなぁ。長い公演だがほぼ満席。
品川猿の告白 Confessions of a Shinagawa Monkey
KAAT神奈川芸術劇場、Vanishing Point Theatre Company
KAAT神奈川芸術劇場・大スタジオ(神奈川県)
2024/11/28 (木) ~ 2024/12/08 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
一言で言えば、宣伝にあるとおり、幻想的なコミックミステリーである。世界的な人気作家・村上春樹の短編から、主人公が共通の二作を、KAAT芸術監督の長塚圭史がイギリス滞在中に見た英国劇団(Vanishing point)と、日英の俳優、舞台技術を出し合った共同制作の舞台だ。二作をつなぐ主人公は人語を解し語る大きな白い尻尾を待つ猿である。物語は、巧みな人形操作を伴いながらイギリス人俳優が演じるこの「品川猿」が、群馬の鄙びた温泉宿の湯男として旅人の前に現れるところから始まる。ファンタジックであり、同時に日本の風俗も生かしたユニークな発端である。この猿が、日本語を教育した先生の仕込みで音楽の好みはRシュトラウスと聞くと、これはきっと村上春樹流のブッキシュな趣向の心得が必要ではないかと身構えてしまう。
だが、(言葉の問題は後で触れるが)難しい心配はご無用で、旅人と猿は就寝時間になった深夜、ひそかに寝酒を楽しんだりする。この発端のエピソードと並んで、港区の高級住宅で、いつの間にか、かつてつけていた自分の名札から「名前」を盗まれたと訴える若い妻とその相談に乗るカウンセラーの物語が展開する。名札を盗んで人間になりたかった猿の犯行で、その犯人を現代の都会の地下の巨大な排水管で追うのが後半の展開である。
あらすじを追うと、荒唐無稽なファンタジックなコメディになるが、その仕掛けはうまく出来ていて面白く見られる。舞台は何もない抽象舞台から始まるが、設定は二つに絞られていて一方は、古来の日本の生活伝統を残す群馬の温泉宿、一方は日本の先端の住宅地港区の地上マンションとその地下である。そこに顕れる品川猿によって、この日本の現代人の生活がコメディになっていく。構成演出のマシュー・レントンはうまいもので、原作を生かしながら、スタイリッシュにテンポよくその世界を進めていく。品川猿に出会うことで、現代人が直面する男女関係や社会での人間関係の在り方は多面的だが、ツボを押さえていて笑いながら、見られる。
休憩なしの1時間30分。
演劇の国際共同制作は最近多面的になっているが、この作品は原作も舞台設定もツーリスティックな風俗的興味からスタートしていながら、その先に現代社会のテーマを見、しかもその謎解きサスペンスに人語を話す猿というユニークな登場人物を配することでコメディとしても成功している。
だがその中で、いつも共通の問題を上げれば、共同制作の言葉の問題だろう。今回は舞台の上部の黒い空間にすべてのセリフを英語と日本語で横書きに表示していくという手法で解決している。悪くはないが、やはり隔靴掻痒の感はぬぐえない。AI時代で最も演劇にとって有効なのは言葉の即時翻訳の発明だと改めて感じた。
来年はイギリスでも地方を皮切りにロンドンを目指すのだろうが、日本の宮崎駿ばかりがおもてはやされているロンドン劇界にも新しい日本発見をもたらすものと期待できる。
メイジー・ダガンの遺骸
名取事務所
新宿シアタートップス(東京都)
2024/11/30 (土) ~ 2024/12/08 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
アイルランド演劇らしい通夜ものである。アイルランドの演劇もかなりおなじみになって、この舞台は初めて見る作者だが、生者、死者入り乱れるエグイ展開を喜劇だと作者に言われてもさして驚きはない。母親が事故で急死して、頼りない父(高山春夫)と気のいいだけの弟(森永友基)だけではと、ロンドンにいる気の強い娘(滝沢花野)が故郷に帰ってくる。案の定、棺の用意もない。そこへ、死んで二階に寝かせてあるはずの母親(谷川清美)も登場してアイルランドの片田舎の貧しさ、家族の中の虐待、共依存、差別、本人のジェンダーの葛藤などが次々とあらわになっていく。見たような話なのだが、飽きないのはこの公演が上演台本作成、演出、俳優、美術、音響効果あいまって、舞台として成功しているからである。普通は良いところから引き算になるものだが、珍しくすべてが足し算になっている。休憩なしの二時間。
パンフレットによると顔寄せで、製作者(名取敏行)は、よくわからん本だけど、寺十さんよろしく、と言ったそうだが、とにかく過不足ない制作費に見合ったいい座組ができたのが一番である。こういうことは珍しい。
一つづつ挙げれば、最近はやりのドラマトウルグの専門家、坂内太が知識を振りかざしたりせず、舞台の面白さを生かした上演台本にしていること。寺十吾は円のピローマンが良かったが、一層この世界に磨きがかかって、おどろおどろの島物語にしないで人間喜劇にまとめていること。俳優は谷川は言わずもがな、彼女を囲む脇役の人たちが実力を発揮していること。高山は若い時の利賀村での古典修業が生きているし、滝沢は少し経験不足で一本調子になっているが、歌えるしジェンダーの問題をうまく見せている。森永はこういう愚者役は底なしになってしまいがちなのだが、寸止めのところがいい。美術(田中敏恵)は農家の一室だけだが舞台中央の小さなセリを生かしたり、下手の隅に二階への階段をちらっと見せてみたり、上手に意味ありげに藁人形っぽいものを飾ってみたりと芸が細かい。音響効果(岩野直人)は、歌だけでなくBGM音楽の選曲がいい。舞台の進行に合わせて、隙間なく音がドラマをフォローして効果を上げている。ドラマに対する音の勘がいい。
この作品の原語のタイトルはThe remains of Maisie Duggan で、思い出したのはカズオイシグロのRemains of the Dayである。同じremainsでも一方は「遺骸」、片や「名残り」と訳され、ともに内容に的確な名訳だが、日本語で同じように使える言葉は思いつかない。だが、そのことば使いの「同一」と「差異」に、それぞれの地域で実感を込めて使っている言葉の面白さが感じられる。同じ言葉の翻訳と原語の視点からも、言葉が国境を超えることによる「変態」からも一つの作品が読めるような気もする。
長崎蝗駆經
花組芝居
小劇場B1(東京都)
2024/11/20 (水) ~ 2024/11/26 (火)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★
花組芝居の新企画、花組ヌーベルシリーズの作品で、原作は岡本綺堂の「平家蟹」、作者はかつて劇団に在籍したこともあり今はあやめ十八番を主宰している堀越涼。下北沢のB1である。「平家蟹」は,一種の源氏平家の乱にまつわる2幕の妖異綺譚。壇ノ浦で滅んだ平家の人々が蟹になって報復する話で大歌舞伎でも滅多にやらない演目だ。
この作は蟹を蝗に,源平の争いを現代の公害の蝗駆除と、自然保護の話に置き換えているが、それはご愛敬と言ったところで,本筋は作者が夏のあやめ十八番で書いた神社の相続にまつわる「雑種小夜の月」のように,誰が家を継ぐか、という家族相続の話でまとめている。花組芝居らしく表紙、裏表紙にも薩摩琵琶の演者(平家物語の連想だろう)が出てくるが、肝心の中身の現代の蝗退治とその蝗を自然食品にして有効活用、僻地産業振興とする話が原作の世界と上手くかみ合っていない。堀越の本は現代のマンガに通じる面白さがあって、そこを無理矢理,花組流歌舞劇とつじつまを合わせたところは花組(演出・加納幸和)の力業である。4コママンガはよく家族を舞台にして、父母兄弟に家族・親戚とそこでキャラを作って成功させるが、こういう因果因縁の暗い話の枠取りには向いていない。「雑種小夜の月」では成功したがどこでも使えるわけではないだろう。
来春には,綺堂の平家蟹そのものを花組の本公演でやると言うから、それも見てみたいものである。
コウセイネン
演劇集団円
吉祥寺シアター(東京都)
2024/11/14 (木) ~ 2024/11/24 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
みな直さなければと解っているのに、放置されていることは現実にたくさんある。丁度選挙の時期で、今のネット時代を背景に、大小の困ったことでさまざまの議論が起きた。演劇にとってはテーマに困らない絶好の時期ではあるのだが、もちろん、演劇で解決できるわけではない。しかし、社会の問題解決を考えさせるきっかけになれば、という提案の社会ネタの演劇は一つのジャンルにもなっている。
中津留、中村ノブアキ、シライケイタ,歴史ネタになると古川健、と今世紀になってから、このジャンルは現実再現から次第に現実社会の切り込み方も深くなって、自分の周囲だけで満足の小劇場や歌って踊ればコワくないの若者演劇を駆逐してきた。一方で、便宜的な筋書きで無難な結論や「推奨マーク」をつけてきた運動体の旧新劇団は、数少ない絶滅危惧種、ほぼ宗教団体になっている。松本哲也もその流れに連なって頭角を現してきた小劇場の作者だが、今回は円の発註で,犯罪更生者と一般社会とのズレをテーマにしている。現実に更正のための保護司が殺害される事件が起きた背景もあるだろうが,このドラマは、結論を急がないで幾つかの現実社会にありそうな事例を舞台化している(このジャンルでは桑原裕子「ひとよ」(KAKUTA)という秀作があった)。
多様化している現代の社会問題との取組みは、現代演劇の一つの旗印でもあるので,新劇団は時代をキャッチアップしてテーマを深化させてほしいものだ。
この舞台は、社会が個人の犯罪に向き合うシステムの難しさを問うている。犯罪に向き合う社会もそれぞれ個人(保護司のシステムや家族の自助)を立てているので、犯罪をきっかけに向き合わざる得なくなった個人の領域に踏み込んでいる。無理な「推奨」的なストーリーを組んでいないので、最近、上手くなったなぁと思わせる「ドキュメンタリー劇」の世界が生きている。スジや解決に動かされると言うより、そこに居る人のありようで思わず、心打たれるシーンがあった。それは観客それぞれの生きている世界にもよるだろう。
まずは成功作で、2時間10分休憩なしの長さを持たせている。
どうかと思うのは,劇が終わった後、無理矢理直結で見せられる、5分と限定したアフタートークで、これが、なんと、内容とは関係ない出演者のウラ芸集。重苦しい話なので、これで客を帰しては,と言う配慮だろうが,折角の舞台を自ら崩壊させてしまっている。旧新劇の無神経が図らずも露呈したというところか。
テーバイ
新国立劇場
新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)
2024/11/07 (木) ~ 2024/11/24 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★
ギリシャ劇の登場人物をつなげてみた「グリークス」ソポクレス版、あるいはオイデプス版である。集められたのは「オイデプス王」「コロノスのオイデプス」ここまでが1幕1時間40分、この後2幕「アンチゴネ」で45分。ギリシャ劇をつなげてみる趣向は長いのも短いのもあって、蜷川の朝から晩まで10時間を超えるものもあったが、それぞれの物語を超えて新しい世界が見えたわけでもない。それぞれの役と物語が強烈すぎて集めてみてもその上に新しいテーマを発見できない。
蜷川の版(2000)はイギリスですでに成功した版(ジョン・バートン、ケネス・カヴァンダーによるRSC版)を基に当時の演劇界の大劇場俳優を集めた華やかな上演だった。(劇場はコクーン)話はトロイ戦争が中心で女性の視点から見ていて若干はわかりよくはなったが、原作以上の物語になったわけでもなかった。
今回の上演版は二つの原作・翻訳から新たに船岩祐太が上演台本に作り直したもので、新しい脚本である。「テーバイ」というギリシャ劇は何だったっけ?と思ったが、それはこの劇の場所からとった新しいタイトルである。テーバイを舞台にこれは原作の登場人物と話の枠を使った今の現代劇である。
良いところから行くと、演出の船岩祐太の歯切れが良い。冒頭から、オイデプスのクライマックスのシーンを次々と並べていて、複雑な親子夫婦関係でオイデプスが翻弄され悩むところが見せ場なのだが、あっさり、「そーいうこと」と進めてしまう。神託も「仕方ないよね」となる。先月は串田和美の「ガード下のオイデプス」も見たが、いずれも降りかかる運命に深刻になっていない。いろいろ大変な社会だから何でもありだよね、という不条理劇精神がギリシャ劇と拮抗している。そこが新しいし、今に通じる。個々の人間の懊悩よりも社会の動きの中の人間に向かおうとしていると窺える
それでこの芝居の世界が成立するのは、多分、ここが唯一見どころと思うがクレオンを1幕と3幕で中心に置いていることで、この融通無碍が得意な現代に通用する人物が軸になっているところで話が現代につながっている。このクレオンは今時の指導者の顔をしている。ギリシャ劇の世界とは無縁のようにツルッと演じた植本純米が快演している。
相変わらず、なんだかよくわからないのはこの新国立の取組みで、新人の船岩からよせられた分厚い計画書に従って一年がかりで何度も俳優が集まっては相談してまとめたプロジェクトと言うが、一体どんな計画で、どこを検討したのか、を公開してくれなくては、結局は延々と稽古しただけ、と言うことになってしまう。演劇の公演は何も答え合わせをやっているわけではない、と言うことが解っていない。これは金さえあれば出来ることである。それは舞台制作費の潤沢ぶりに見えている、
つきかげ
劇団チョコレートケーキ
駅前劇場(東京都)
2024/11/07 (木) ~ 2024/11/17 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
今春に見た同じ劇団チョコレートケーキの斎藤茂吉伝の後編。独立した二作としても見られるが、斎藤茂吉の実像をかなりフォローしているので、フィクションとは言っても伝記劇である。もうすっかり手練れになったチョコレートケーキで、全編とのカップリングもうまいものだ。
斎藤家の男たち、茂吉(緖方晋)、長男(浅井伸治)、次男(西尾友樹)、それに側近の歌人山口茂吉(岡本篤)のキャステイングはそのまま、前編が家族の男たちが物語を織りなす部分が多かったが、後編は女編、妻の輝子(音無美紀子)、長女の桃子(帯金ゆかり)、次女の雅子(宇野愛海)が物語の中心を占める。前編は終戦によって東京での生活が出来なくなった茂吉一家の疎開生活での家族の物語だったが、後編は東京で戦後の新しい家ができあがる直前の物語である。今回は、茂吉と戦争の葛藤には全くと言って良いほど触れられて居ず、最晩年を迎えた茂吉の老いとの葛藤が、家族それぞれの父との別離の予感の中に描かれていく。男たちについては病院経営を背負うことになった長男、ヨーロッパを見たいと願った次男の海洋観測船への乗船、側近の山口茂吉では茂吉の個人全集の編集、などのストーリーはあるが、今回は女たちの活躍がめざましい。
ようやく茂吉と共に生活することになリ家族を取り仕切ることになった妻・輝子の生来の奔放な自己中心的な生活信条と、しかし茂吉との長い生活から生まれた夫婦(男女)の情愛のある生活描写が音無美紀子の熱演(こんなに上手い女優と思ったことがなかった。前編への夫・村井國夫の突然降板への埋め合わせか)で活写される。こういうキャラクターは、現代の女性にはよくあるタイプだが、本質的なところで違う。それは、長女の贅沢好きにも、次女の家庭万能主義にも通底するもので、今の女性にはないものだ。こういうキャラクターは、終戦後もまだ東京のそこここに残っていた大正モガの末裔で、音無の周囲にも居たのかも知れない。古い松竹映画や劇団新派の芝居にもよく登場するが、この古川健の新作の女たちは生き生きとその時代を生きている。今作を買うとすればそこが第一で(音無はきっと今年の女優賞を受賞すると予言する)、茂吉が老年と人生の短さにおびえるところなどは型どおりで物足りない。
緖方晋も今回は老年になって、工夫の余地がなかった。若い姉妹はどこから見つけてきたのか新鮮で今後に大いに期待したいが、役となるとさすがに掴みきれず形からはいっている。茂吉の家の一杯セットで2時間5分、休憩なしで、十分に面白いが、前後編かと言うと内容が前編は戦争責任が表に出、後編は家族と人生と言うことで全く異質のものなので、併せて見るものでもなさそうだ。内容的には前編か。客的には今回も満席。
演劇島
鴎座
座・高円寺1(東京都)
2024/11/08 (金) ~ 2024/11/12 (火)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
昨年はムニューシキンの「金夢島」がやってきた。日本が舞台の新作で、佐渡に能まで振ってあったのに、世阿弥の「金島書」にまで言及した論考はなかったように思う。この佐藤信の「演劇島」は金島書に「倣う」と言って、フォーマットを取っている。ともに内容は一方は現代劇にファンタジーだし、こちらは佐藤信がこれまでに演出した作品の台詞のコラージュから構成した舞台だからともに世阿弥の作品とは遠いのだが、世阿弥の拓いた芝居作りの原点に回帰しているところがあり、しかもそれが今作られる劇として大きな効果を挙げているところが面白い。
「演劇島」のテキストは、世界各地の戯曲、演劇台本からコラージュしていて、原典の「小謡」に倣って、プロローグとエピローグに九編の短編と言う構成である。スジの枠取りにはシェイクスピアの「テンペスト」の島に流れ着いたものの流離譚が使われている。
ノーセットの舞台に男女7名づつの黒衣の演者が登場し上下に座を占めると、トップライトで四角い光の中に舞台が示され、そこに能楽師の桜間金記がすり足で登場する。台詞は謡曲になっている。この前後の部分と、ほかに二場に出る八十才を超える能楽師による能の様式性は、時に台詞は聞き取れないところがあっても(折角、テキストの原典を細々と字幕に出すのなら、ここは台詞を字幕でフォローしても良かったと思う)他の部分の全ての演劇やダンスの様式を圧倒する演劇的存在感がある。ここが本作の第一の見どころである。
九編のエピソードは、それぞれ「沈む船」とか、「王たち」「プロスペロー」とか副題が付いていて、テンペストで島に追放されたもの(桜間金記)が見る幻として、テンペストのスジを追うような、あるいは佐藤信の演劇人生を追うような形になっている。それぞれ十五分足らずで始めに登場した14名の黒テントの俳優たちとダンサー(振付)の竹屋啓子と客演の大木美奈が台詞とダンスを軸とした舞台表現で見せていく。ダンサーと黒テントの俳優ではかなりこういう舞台での表現能力に差があるが、立てるべきはたて、せりふは割ったり群読にしたりと、その処理は佐藤信お手の物で、世界演劇の世界、つまりは「演劇島」の世界に捕まってしまう。
演劇を見せるためのスジのパターンはそれほど多くないので、これで十分演じている中身は解るが、それでも世に知られているような部分(台詞も設定も)は概ね作中に置かれている部分が決まっているので、使い勝手で切り取ると、どんなに上手く構成してあっても、繰り返しのような感じになってしまう。そこを、退屈し始めると能楽師が登場するという趣向で、観客も目を覚まされ2時間、佐藤信のいつものようにスタイリッシュにきれいにまとめられた舞台を飽きずに見られた。舞台に寄せられた作者、演者、劇場、などの制作スタフの力量に会わせ、さらに劇場や興行などの環境、さらには演劇の伝統なども含めあらゆる演劇的ソースを動員して最大効果を上げているのは見事であった。ほぼ満席。
それにしても、能楽堂と座・高円寺の声の通りの差には驚いた。伝統舞台はすごいものである。
光の中のアリス
小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク
シアタートラム(東京都)
2024/11/01 (金) ~ 2024/11/10 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
松原俊太郎は数少ない「劇作家」である。もう生存劇作家は福田善之くらいではないか。皆、劇団を率いたり、地方の公務員を仲間に興行の一員になっている。演劇の一面に興行があることは事実だが、独立できてこその劇作家、その厳しい道を歩んでいる期待の劇作家だ。
今回の演出、劇団は小野彩加 中沢陽というダンスカンパニーのスペースノットブランクが公共劇場(世田パブ)の支援で上演した。数多いとは言えない観劇では、文学座(今井朋彦)地点(三浦基)を見ているが、今回は演出者と波長が合ったのか、完成度の高い出来上がりである。地点の作品は、日本人の神頼み、と言うテーマに面白く時事ネタを織り込んでいて、お神輿も出てわかりやすくもあった。今回は人間の生命とは何かという大テーマに迫っている。生命は、外が見えなければならない、動かなければならない。外には生命を導く光がある。で、アリスインワンダーランドを枠にとっての全7場。1時間40分。
舞台中央の既設のせりを上手く使っているほかはノーセットのいかにもコンテンポラリーダンスのカンパニーらしい取組みである。中央に鍵盤電子楽器があり、下手には常時手話通訳者(F)がいる。演者は5名(M3.F2)衣装は時に兎の耳のある帽子をかぶったりするが黒の単純なものだ。舞台中央に縦にスクリーンがあり、そこに活字体で各場のタイトルや、台詞、説明などが縦に流れる。
最初出演者が三々五々舞台に板突くまでを3分くらい、ダラダラ見せるが、ここは唯一の失敗で、ここでかなりダレる。ここを乗り切った後は快調で、アリスがらみの寓話を次々に見せていく。ダンスカンパニーだから、演劇のグループとは違った味があって、あれよあれよと見ている間に終わった。このあれよあれよと見せてしまうのは戯曲と演出の上手いところで、こんな抽象的な話を上手く見せてしまう。
今回のダンスカンパニーは初見だから、よくわからないが、演者の体の動きもよく演出は舞台の全体の造形が良く、一言で言えば、細部まで美しく出来ていて、この演出家の他の作品も見てみたいと思った。ことに主演のアリスを演じた新木知伽は舞台を引っ張っていく力がある。
見どころは、別役亡き後、力のある劇作家とこの主演者、演出者で本年屈指の舞台と言って良いだろう。客席はバランスの良い観客席だったが、トラムで10公演。9割という入りは上出来だ。
いびしない愛
(公財)可児市文化芸術振興財団
吉祥寺シアター(東京都)
2024/10/25 (金) ~ 2024/10/31 (木)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★
地方都市可児市(確か名古屋周辺)の公共劇場は芸術監督に東京の演劇人を迎えて演劇活動を行ってきた。東京から俳優も参加して東京公演も行ない積極的な活動をしてきたが、コロナ明けのこの公演の席ビラには芸術監督の名前は見当たらない。その詳細は解らないが、人間が身を挺してやる演劇にはコロナは様々な形で深い打撃を与えたのであろう。この作品は新人の劇作家、ベテランのプロ演出家による地方を舞台にした一幕劇である。
コロナ禍の中で出発した作者・竹田ももこは、故郷・高知南西部の独特の風土を舞台にしたこの作品で劇作家協会の公募作品に入賞して劇作家として出発した。演出のマキノノゾミはその最終選考にあたっている。舞台を製作した中京地方の可児市とは関係ないが地方の演劇団体が製作する作品として、選ばれたのかもしれない。1時間半の小品である。
内容は地方に生きる地場産業の工場(海産物の加工工場)が舞台に取られており、経営にあたることになったに二・三十代の女性姉妹の葛藤がドラマの軸になっている。こういう地域社会の特性を生かした舞台設定で成功した作品は多くある。四国のへき地はさまざまな作者に描かれたことがあるが、この作品も風土のなかに紛れもなく日本の現代の地域社会の課題を巧みにとらえている。登場人物の配置も、筋立てもうまいもので、ベテランのマキノは舞台にアクセントをつけて運んでいる。しかし、地域産業の課題、身体障碍も含む姉妹の葛藤、都会と地域の地域差に生きる人々の社会観など、多くのテーマを同時並行で一場(昔からある漁業の作業小屋の工場の事務室・このセットは非常に良く出来ていて感心するが)で五人の登場人物のやりくりで扱おうとしたために、全体として薄味になってしまってせっかくの特異な場面設定が生きていない。
かつて数年前にこの劇場で見た同じく漁村を舞台にした庭劇団のペニノの「笑顔の砦」のような圧倒的なリアル感が乏しい。僻地物でも蓬莱龍太の「デンキ島」の離島の少女の焦燥感のような存在感がない。そのような孤立感からは逃れているところがこの作品のいいところでもあるが、それならそこにもっと心を打つ真実が欲しい。それは東京でも上演される地方発の多くの作品にも言えることなのだが、無理を承知でi言えばそこを描いてこその地域演劇である。
ドクターズジレンマ
せんがわ劇場
調布市せんがわ劇場(東京都)
2024/10/18 (金) ~ 2024/10/27 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★
調布市の公共劇場のこけら落とし公演。劇場というより、階段付きスペースといった感じで、東京郊外に多くある地方自治体の文化施設である。小笠原響が芸術監督になってお披露目の舞台である。翻訳から出発している芸術監督だけに見落とされていた翻訳物作品を第一作として、地味なキャストで上演した。
いろいろ「見てきた」感想はあるが主なものをあげると。
この劇場で翻訳物を軸にすると(ことに、ショーなどというイギリス通好みのラインアップだと)、劇場が市民に親しまれる前に足が向かなくなるのではないかという危惧がある。
イギリスと言ってもいろいろあるが、今回のショーのような作品は、もともと大劇場のプロセニアム劇場で上演するように書かれていて、このような狭い平土間スペースを前提としていない。前世紀には商業劇場では登場人物の数まで設定するのが常識になっている(もちろん大群衆の出る芝居もあるが、このような都心商業劇場向け作品は、という意味である)中で書かれているので、よほど上演台本で地元向きに手を入れないと客は退屈する。今回は休憩10分入りで2時間35分。長い。テキストはここでやるなら、医師の方は三人位に絞ってはっきりキャラクター劇にしないと持たない。芸術監督は翻訳が多い人で、原作者に遠慮もあるだろうが、ここで、小劇場向きの新しい翻訳の在り方をやってみるというなら面白い路線だが、役者も贅沢が言えない中で原作紹介の路線は早めに考え直した方がいいように思う。確かに、イギリスやブロードウエイの周辺には日本未上演の素敵な客受けのいい戯曲がゴロゴロ放置されているが、日本の商業演劇が、向こうで当たったものを選びに選んで翻訳上演しているのには理由がある。(日本の客はなかなか当てさせてくれない)からで、芝居が良く出来ている、という単純な文人趣味の観点では劇場の興業はモタない。
付随して言うと、この劇場は劇場というより「スペース」である。道具の出し入れ、音響照明の装置、俳優の控室、客の対応窓口などとても劇場並みとは見えない。それは商業劇場だと商売だからいつの間にかそれらしくなってくるが、公共劇場のなかには、いつまでたっても劇場として機能していかないスペース止まりの劇場もどきはたくさんある。市の担当課にはかなりの覚悟と勉強がいる。外注するなら杉並区の様に丸投げの覚悟も必要である(高円寺はそれなりに成功した)
調布は都内から見に行くにも近い割にかなり不便で、現に、吉祥寺と三鷹でも一駅でもかなり差がつく。仙川では三鷹よりよりもさらに苦戦しそうだ。
調布市民と言ってもどう東京都民と違うのか、市役所職員も問われても困るだろうが、演劇を見るという行為については全然違うと思ったほうがいい。市場調査をきちんとやり直し、それにふさわしいスペースを設計することが勝負どころである。(もっとも、固定客だけを固めてしまうという方法もあるかもしれないが、ここからあまり遠くない民藝の稽古場劇場には客は足が向かない。公共劇場の「演劇」の苦しいところでもある)
今回の芝居の選択も、啓蒙的、良心的かもしれないが、演劇のフツーの客(野田流に言えば)から見れば古めかしい過去の巨匠の作品である。ショーはイギリスでは一時、司馬遼太郎並みの一国を代表する名声知名度とはいえ、作品の中身は、現在の医学や、医者の社会的地位がかつてのイギリスとは全く違っているから、今の調布市の舞台から、まるでつかめない。多分ウエストエンドでは爆笑のところがウンともスンともいわない。それは社会の違いだからいかんともしがたい。そこを見抜くのも芸術監督の仕事の大事なところである。現に世間知らずの芸術監督の失敗の具体的例がそこここにある。
芝居の中身については、俳優陣で若い芸術家のコンビ(石川湖太朗 大井川皐月)が役をよくこなしていてなかなか良かった。本も後半は今に通じるところがあり芝居の組みの良さも効果を上げているが、前半の爵位がらみの話は思い切って整理しないとテレビで「ドクターX]を見慣れている客には勝てそうもない。
ガード下のオイディプス
フライングシアター自由劇場
すみだパークシアター倉(東京都)
2024/10/18 (金) ~ 2024/10/28 (月)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
オイディプスを主役にするギリシャ悲劇群は、ずいぶん乱暴な親子関係が王の政権の変遷に織り込まれていて、現代人にはついていけない話と感じる。神話的寓話としては、いや、教養としては‥などというあさましい見方についなってしまう。
この串田和美のオイディプスは、今までのギリシャ劇とは全く違うタッチで「ガード下の」などと言いながら、主筋の話を原作に取っていながら陽気で寛容、六本木時代〈ほぼ60年前〉の自由劇場のような舞台を繰り広げる。
劇場のすみだ倉も当時の自由劇場のガラス店の倉庫というのに近く、劇場に入るとステージ中央に引かれた黒中幕ホリゾントも明けてあって道具の置かれた舞台裏まで見通せる。舞台の下手壁には、もう58年前になるという自由劇場初演の「イスメネ」(オイディプスのの妹を主役にした作品)のポスター、上手にこの公演のポスター。今見てもコカ・コーラの瓶を中心に置いたイスミネのポスターは古びていないし、現ポスターは宇野亜喜紀良である。串田和美らしい音楽劇の構成になっていて、音楽はDr.kyOn.。演奏するコンボが下手に乗っていて、ブレヒト劇風に進行に応じて演奏合唱する。これで「悲劇」性はかなり「寓話」風になって、人間運命の悲劇が、運命は避けがたし、笑ってしまって生きていこうぜ、の喜劇性に転化された。
いかにも串田和美らしく、かつての60年代の反逆精神は今も生き生きと息づいている。かつてテントに媚びなかったように、今風抽象舞台でもない。突っ張っているわけでもない。
時代を体現しているような近接ジャンルの才人とのコラボを忘れないのも変わらない。今回はDr.kyOn.の音楽が効いた。他には自由劇場からコクーンにかけて一緒に仕事をした古い仲間や新人が加わってぃる。松本から東京に戻ってまだ二年目だから俳優は、親子(串田和美。十二夜)以外は自由劇場時代からの大森博史をのぞけばゲスト出演だが、王妃の大空ゆうひ、若い山野康弘、体躯で圧倒する体操出身の大野明香音など、結構しっかり個性的で今後の劇団活動が楽しめそう。
問題は入りで、倉は大きい小屋だが、ここで8割弱。夜公演だったが30-40歳代の女性が軸。若者が来るようにというのは、酷な注文だがそこに応えてこその串田和美だ。
先日見た松本修も右顧左眄していない。この年代なかなかしぶとい。岩松了、北村想、川村毅、がんばれ。あなた方の健闘が日本の新劇を支える。
さようなら、シュルツ先生
MODE
座・高円寺1(東京都)
2024/10/18 (金) ~ 2024/10/27 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
久しぶり!!松本修である。地方から戻ってきたと聞くが、全く昔日の輝きを失っていない。
カフカの連作は確かに代表作だろうが、柳美里の本でやった「魚の祭」とか「プラトーノフ」とか記憶に残っている。スタイリッシュに耽美的にまとめられた舞台、個の俳優と全体の舞台が巧みに演出されている。カフカ連作では、KERAに先行して独自の世界を作り上げた。対談してお互いのリスペクトもあって切磋琢磨いい舞台を見せてくれた。ちょっと助平ったらしいところも両者似ていて好敵手だった。
その松本修の帰郷第一作はカフカ系のポーランド作家の作品コラージュで、手法はカフカのときと同じである。まず小手調べというところかもしれないが、かつてのMODEの俳優も参加しているがほとんどが新しい顔ぶれのMODEである。
さすが!と思うのはこのあまり知らないModeの俳優たちが、動きの細かい松本演出をこなしていて、ほとんど破綻がなかったことが第一。これだけ形で見せるシーンが多いと、技術も重要で、うまい若い俳優たちが多かった。音楽の使い方もうまいものだが、(かつてはレコード音楽編集だった)今回は音源が苦しい。
肝心の作品。ブルーのシュルツの作品からのコラージュだが、この作者ほとんど知らなかった。カフカの後継の作者のようだが、その世界はかなり甘い。大筋は現代社会でははみ出して生きた男とその家族をめぐる一種の現世逃走譚で、舞台を見ていれば、懐かしい風景と見とれてしまうが、内容的にはかなり物足りない。せっかくカフカなどという世紀の大物も食ってきた松本修なら、せめて、カズオイシグロくらいは食ってほしいところだ。