
高知パルプ生コン事件
燐光群
「劇」小劇場(東京都)
2025/10/31 (金) ~ 2025/11/09 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
開いたばっかりだったからかもしれない、二日目の夜は50席ほどの劇場に6割ほどの入り。内訳は新聞学芸部記者らしき者10名。こちらも名前を知っていり劇界ライター、関係者、学者で10名。有料入場者の一般客は5名いたかどうか。いつも見るときは後半だから前半がこれほど良くないとは思わなかった。20日を超える劇団公演である。
内容は地方都市の公害垂れ流し問題であるが、さすが時代の変化もあって、昔の新劇団のように、悪玉代官資本家をやっつけろ、善玉無力市民は団結しろ!と口先で言うだけでは見る人はいなくなった。昔と同じく単純化すれば、この構図ハいまも変わりはしないが、次第に芝居も現実を踏まえなければ、となっている。この話の舞台は城下町の地方都市である。攻める者も、攻められる者も江戸時代以来の地方の構図が出来ていた。この実話の高知では、昭和三十年代、六十年も昔だが高知県衆議院全県一区では、必ず、日本共産党は、社会党が苦戦する中で必ず一人の議員を出し続けていた。労働組合も女性運動も強かった。こういう組織系の表向きの動向からは実情は計り知れない。革新系の燐光群は、長く立場を定めて主張のはっきりした作品を作り続けてきた。ここ三十年の中で、このドラマのように何も変わらなかったように見えるが、僅かながら変化は出てきている。昭和百年、これが日本の現実である。これで食える間は喰っていくと良い。そのうちに風向きは変わる。

私を探さないで
森崎事務所M&Oplays
本多劇場(東京都)
2025/10/11 (土) ~ 2025/11/03 (月)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
いままで何度も騙された岩松了作品である。タイトルで「わたしを探さないで」なんで宣戦布告されるとますます観客は作者の術中にはまってしまう。わたしって、だれ?
舞台は瀬戸なお海岸にある、小さな映画館が中心になるような小さな街。そこで高校まで育った男女4人とかつてはそこで国語の教師を務めいまは作家(小泉今日子)が再会する。そのきっかけは主人公(勝地涼)が結婚する事になり実家に報告すべく帰郷したからだ。
だが、卒業後十年近くたちそれぞれの環境も変わっている。主人公は、かつて、気になっていた少女がいたのだが、彼女は突然失踪してしまっていた。今回の帰郷で彼女(河合優美)のその後を確かめたい。街で見掛けたような気がしているが、誰に問いただすせる訳にもいかない。
小さな瀬戸内海の小さな町という環境の中で、十年前の青春前期と、現在の青春後期の間にそれぞれに出会い経験したドラマがじわじわ解っていく展開が、謎めいた青春物になっている。誰にもある秘められた、しかし明かされたくない物語は岩松了の本領発揮の世界で、(結構飽きる部分もあるのだが)、観客はその世界に吸い込まれていく。暑い日が多くて閉校した今年は、初めての十月末の突然寒い日だったが、本多劇場満席である。観客は三,四十才代の女性が軸だが、幅広い。2時間。休憩なし。
河合優美も小泉今日子も出ている場面は少ないが、勝地涼の視点の中に点在して、物語を引っ張っていく。例によって物語の回収の手順で見せていく所もあり、戯曲を読めば巧みに回収されているに違いないが、見ているうちに忘れてしまうところもある。肝心の少女の失踪の真実もその一つだが、それが青春というものと、作者が言っているようにも思える。かつて、映画館がはねるときに待ち伏せをした話とか、同窓生のかつての教師を囲む朗読会とか、生徒と教師がお互いに握っている青春期の個人のささやかな秘密とか、見ている方が辻褄合うように記憶していないことがこのドラマの主題なのかもしれない。
いずれ戯曲で確かめてみればいい話であるが、そういう芝居を岩松了はずっと書いてきた。まぁチェホフもそうだと言われればそうかもしれないし、演劇の面白さだとも言えるかもしれない。

エノケン
東宝
シアタークリエ(東京都)
2025/10/07 (火) ~ 2025/10/26 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★
日本の喜劇王と言われた田榎本健一の悲運の生涯伝である。昭和初期から戦争をまたいてTV初期まで、森繁以前に、日本の初期のレビュー音楽劇を制覇した男の生涯である。活躍した時期が悪かった。TVでも「お父さんの季節」など30分連ドラをやっているが、映像はほとんど残っていない。ましてや、カジノフォーリーズや笑いの天国はないし、映画は名前を看板にしたドタバタしかない。黒沢の勧進帳(中編)くらいしか見るべきものは残っていない。しかし、その存在が日本の音楽入り喜劇レビューミュージカルの嚆矢となったことはほとんどの演劇史が認めるところで、ここを素材にしたドラマは長く渇仰されてきた。
ようやく見ることが出来たのは、唯一横内健介の「菊谷物語」。再演までした作品だが、小劇場の作りで肝心のカジノフォーリーズの舞台などほとんどないし、菊谷のエノケンの舞台もない。だって、資料がないんだもん。横内は高校演劇の出身で小劇場から出ているが、そこはルールをよくわきまえて、礼儀正しいが、それではエノケンの本質に迫れない。ロッパや夢声は日記を書くこまめさがあったが、エノケンにはそれがない。だから、演劇の想像力が要る。そこを逃げたのか、知らないのか、参ったの出来である。
東宝が旗艦のクリエでエノケンをやると聞いた、しかも市村正親というので四月も前からチケット買っていた。
がっかりである。
まず、本がまるで出来ていない。シライケイタも腰がが入っていない。菊田一夫流の人情劇に纏めようとしたのが大失敗である。時代を越えようとした喜劇の天才が、時代と病魔に斃れる悲劇を背景にしたストレートな劇にすれば何年も上演できる芝居になって、パリの「天井桟敷の人々」に匹敵できる日本のバックステージものの傑作になって、歴代喜劇の覇者を目指す者は必ず挑戦する作品になったのに、みすみすそのチャンスを潰した。気軽に出来ると思った芸人の作者を責めるのも気恥ずかしい。「エノケン」にある時代と演劇への無神経は恐るべしである。
市村正親は現代のミュ-ジカル俳優である。上手いし、声もいい。歌も上手い。私の知っているエノケンは声も悪いし、歌はコミックソングである。もうほとんど昔日の動きの片鱗もなかった。それなのに、若いときはいわゆる「舞台の愛嬌」はスゴかっただろうと思わせはしたがったが、その実態のとっかかりがない。良かったのはポスターにあったシルエットだけである。ホントは舞台の動きを見せなければ芝居にならない。
だから、この際、今見るなら、新しいミュージカルに仕立て直して、歌あり、、踊りあり。巨大マッピングありの現代レビューに作り直して再演できるような舞台にして見せてほしかった。
超人気者だった名にあやかって。チケットは完売だそうだからいくら本当のことを書いても良いとして★はホントなら二つ星である。素材への取組みが致命傷である。

我ら宇宙の塵
EPOCH MAN〈エポックマン〉
新宿シアタートップス(東京都)
2025/10/19 (日) ~ 2025/11/03 (月)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
2023年の夏に偶然新宿の小劇場で見て、マッピングを上手に使った生きの良い新時代ファンタジーだと感心した。それから2年。
その間に、23年度の読売演劇大賞は「作品賞、「演出家賞。「主演女優賞を受賞、今年はロンドン公演もやってのけ(まぁ小劇場だろうが)多くの新聞があって劇評の多いロンドンでも、絶賛の星が並んだという(チラシの宣伝)。解らぬでもない。
演劇界を見れば、野田秀樹は確かに日本演劇のリーダーの作者だが、なかなか追いかける若者が出てこない。いつも、野田が焦れている。エポックマンは野田系のインプルーブ版であるが、まだ余力もあるし、期待も持てる。。
かつて初演(23年)を見たときは、パペットやマッピング、物語の作り方など、新しいセンスに感心したが、一方で登場人物の意外に地に着いた現代の単親の一人っ子物語(その子をパペットにしたところなど秀逸なアイデア)が生活感を持ってきめ細かく出来ているところ、などもよかった。(例えば、全自動シアターなどは、同じ路線で一人っ子モノで成功したが、結局、世相ギャグに終わって、野田を超える力がなかった。ようやく、最近リアリズム路線で横山拓也が追撃して見せたが、こちらは自分の世界のリアリズムへのこだわりが強くで野田の上を行稿とは考えていないだろう)。ここは野田と違うところで、野田はファンタジーに現実も寓話もなじませてしまウが、小沢は現代の現実の中にファンタジーを溶けこませてしまう。野田を追っても、独自性もしっかりあって。他の作品でも独自性を持ち、観客への訴求力(オセンチ)も上手い。再演(今回)はラストに近い父親とのシーンを固めに仕切り直している(後半)。ロンドンではこうしないとメルヘンに逃げて腰砕けと言われそうなので直しているのだろうが、そこをどうするかは課題だろう。
作風が現代の都会的センスで、しかも頭デッカチでないところも、野田のように最後に何が何でも情感に持っていき少女ファンを訳も分らず泣かせてしまおうとしないところも、(ことに80年代まではその傾向が強く野田クライマックスに閉口した見物も多かったのだ)新しい作家の登場を感じさせる。(私はラストの処理は初演の方が好きだが、もちろんロンドン帰りと思えば、そこでこれに変えられるのもたいした物だとは思う)。まぁこの三年ほどの中でみたもののなかでは必見の秀作とは言えよう。
一言付言すれば、作る側が、芝居は見せ物であることを忘れていないのが素晴らしい・

プンティラ旦那と下男のマッティ
MODE
座・高円寺1(東京都)
2025/10/17 (金) ~ 2025/10/26 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★
東西対立が厳しかった時代に、社会主義劇の代表、未来の民衆演劇の開祖ともてはやされたブレヒトは、もうソ連が崩壊してから、三十年もたつが、意外に寿命が長い。立場も逆に変えて立派に資本主義国で上演されているのだからたいしたモノだ。本人は第二次大戦中は資本主義国を放浪、この{プンティラ旦那と下男のマッティ}はフィンランドを舞台にした風刺喜劇風作品で、今となっては、かなり古めかしく、地主階級の扱いも労働階級の処理も、音楽(歌芝居)の趣向も、古めかしいが、話の展開や、キャラクターが生み出す喜劇的趣向や筋立ては、世の移り変りにかかわらず、芝居として面白く出来ている。
演出の松本修は二十年ほど前には小劇場MODEのリーダーとして、さまざまな現代劇を小綺麗なポストアングラ劇にして見せてくれて、固定フアンもあった。ケラに先立ってカフカの作品を芝居にして見せたシリーズなどフレッシュでよかったのに世紀が変わる頃、急に関西に本拠を移し、数年前に戻っているとは聞いていた。そういう放浪風なところはブレヒトに似ているのかもしれない。こういうのは本人の都合だから外からは窺えない。
だが、舞台作りは昔と基本的には変わっていない(ようだ)。東京の末期のMODEは、最後の頃はクセのある上手い俳優が男女あわせて十人足らずはいて、独得の劇団風があったが、帰京後の劇団に彼らの顔が見えず、それに変わるいまの役者がまだ、出来ていないのが残念なところだ。しかし、あまり作り方も変わっていないところを見ると、しばらくすれば、またかつてのMODE風の舞台が見られそうで楽しみだが、今は大方の若者劇団は、舞台に得になると見ると、どんどん客演を迎えて舞台そのものの充実を目指すようになっている。もちろんそれでもいいが、劇団として集団の充実を目指すのは、まどろっかしいが基本線ではある。
だが舞台の結果を考えれば。そこはあまり強情にならない方が良いのではないか。

ロンリー・アイランド
ティーファクトリー
ザ・スズナリ(東京都)
2025/10/10 (金) ~ 2025/10/19 (日)公演終了
実演鑑賞
今戦争を劇で扱うのは難しい時代になっている。ことに戦争を実際に体験(戦場ではないにせよ、戦争によって直接危険のある場にたった(例えば飢餓とか、集団行動の強制(疎開)とかの)体験のある)人達は非常に少なくなって、体験のない若い人達と言っても70才以下)に戦争の話をすれば、必ず、はぐらかされる思いをする。川村の戦争も、今は間接体験(戦後の混乱)でしかないだろう。前作はインド体験を基礎に書いた作品だったが、観客が、聞いたことのある話(インド)、と体験がある話(空襲や教科書黒塗り)では全然ちがう。別に、そのままをやれと言っているのではない。やはり戦争を扱うなら、観客の想像力を触発してせめて自分が作る物語に必要な戦争状況を観客に納得させなければうまくない。川村はそういうことにも慎重な作家だったが、さすが年を取った。こういうことは言いたくないが、こんな戦場のピクニックみたいな戦場が今の戦場にあるわけはないではないか。川村がやると、これでいいと思う若い作者がどんどん増えてしまう。ピンク地底人や、古川健もその方が楽となれば、そちらに流されるのは当然である。だって、知らないんだもん。それを乗り越えるのが劇作家の務めだろう。川村はアングラ期を受け継ぐ最後の劇作家だが時代とともにあるいい芝居、面白い芝居を求めて、世紀をまたぐ時代を乗り越えてきた。地上はこの作家にとって雑遊の場になったのかもしれない

ハムレットマシーン
サブテレニアン
サブテレニアン(東京都)
2025/08/29 (金) ~ 2025/08/31 (日)公演終了
実演鑑賞
本邦初演したときに見たような気がするがもうしっかりとはが覚えていない。訳が分らなかった、と言うよりは、どういう作りなのか理解できない、と言う気分だけが残っている。東西冷戦の終結期。西側にいると、東側は具体的には破綻しているらしい、と知っては居ても、全否定する根拠もない。新しい思想も持てない。八紘一宇だけは痛い目に遭った記憶が残っていてゴメンとは分っていても、浮かれているうちにバブルがきた。
我が国民に与えられた束の間の日々だった。そういう日々にマージナルな場の国民は、悩んでいたわけでそれがこの作品だ。今それを見るのは今の我が国民にとっては何らかの教訓にはなるだろう。
今となっては、この原作が設定した状況は「ハムレット」も「マシーン」もわかりやすいのではないかと思う。
だが、その原作はかなり変えてあって、「現在」に寄り添っているつもりかも知れないが、そこの手際が上手くなく、ますますわかりにくくなっている。分りよく!というのはこういう昔の芝居を今風に直してやるときの第一歩だろう。新国立も昨年、大仰に昔の東欧作品をやったが、見るも無惨な見当違いの作品になった。キワモノは難しい。今回のテキストはリーディングのようなものだが、それにしても、俳優たちももう少しは表現力がないと、舞台に立っている人もつらいだろう。客席40席弱、満席・出来だった。75分。
今回は若い人だから全く50年前の壁崩壊前夜は知らないだろう。それはそれで今やるには仕方がないいいのだが、これでわかったつもりになるのは最もまずい。

月の海 2025(東京)
日穏-bion-
テアトルBONBON(東京都)
2025/08/20 (水) ~ 2025/08/31 (日)公演終了
実演鑑賞
異色の劇団の公演を始めて見た。いろいろ驚いたが、今なお、こういう演劇は求められていると少しは納得した。韓国ドラマや2/5Dドラマが続けられるのも世情の反映である。もう四十年以上前に王子の篠原演芸場で梅沢武生(富美男の兄、早世した)劇団のショーを見たときの驚きに似ている。
演じられる演劇の構造も、役者も、客も周囲とは全然違う。エンタメの核芯がそこにあった。40年前にまだ若かった武生は自信満々だった。面白くもなさそうに小さな舞台で踊っていた弟を横目に、今に富美男は化けますよ、と言っていて、その通りになった。日穏には、何らかの意味でスターがいない。いくらよくできていても、ワッと来る観客の反応に生身で応えられなければ何ものにもなれない。
確かに時代は違う。だが、今TVでお客様第一とキャラクターを売って、自分は主役だとうそぶく芸を持つようになるのは容易な道ではない。80席は満席。だが、月のように美しく冷えている。点をつけるのは今回は棄権する。

三谷文楽『人形ぎらい』
パルコ・プロデュース
PARCO劇場(東京都)
2025/08/16 (土) ~ 2025/08/28 (木)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
文楽でパルコがほぼ2週間、満席になった。渋谷で会いましょう、の若い男女にとっても、見て面白い公演だった、からである。新幹線は出てくるわ、通天閣は出てくるわ、いや文楽の人形劇であることまでネタにして笑っている内にお開きになるⅠ時間40分である。
それは良い、日本の伝統演劇である文楽が危機に瀕している今、苦労ばかり多い文楽脚本を書いてみた三谷幸喜の労を謝するには人後に落ちないが、同時にさまざまな文楽を巡る課題広く言えば日本の舞台芸術のあり方の問題もここに現われている。いずれ本格的な論議もあるだろうし、作者も、現代の当たり狂言作家の立場から誠を持って応えられるだろうから、ここは一人の観客としての感想である。
今回の上演戯曲はもう、現代劇の爆笑喜劇と思った方が良い。今、文楽は大衆芸能としては、大衆の支持を失っている。今回上演の戯曲は、『槍の権三』に依っている。近松門左衛門の姦通ものの代表作の一つで、昭和の時代には映画(篠田正浩・監督)にもなった名作で、ある。私は運悪く原典の、文楽も歌舞伎も見ていないが、内容は知っている。はじめの権三とおさいが密通して、互いの帯を取り違えるところなどはなかなか面白い仕掛けで、どう芝居で持っていくか、一度みて見たいと思っているうちに人生も終わりそうだ。この姦通は、もちろん両人の不義の意思(やりたい)があってこそのものだが、(しなかったという説もあるところも面白い)そこから話が転がっていく。
今回の『人形ぎらい』はここからは原作の大筋だけは辛うじて形骸を残しているといった程度(現代劇にしているからそれで当然で、それは全く問題ない)だが、この程度の不義は日常茶飯事になってしまった現在になると、見終わると、オビを取り違えた情事のあと始末が、お家の大事や主人公たちの生死に関わっていく武家社会の義理人情が懐かしく体内回帰して、これを人情劇として親身に見ていられたら面白かったのに、と言うあまのじゃくな感想になってしまう。そこが文楽衰退の原因という議論はよく聞くが、やはりそれだけではない。
物語の男女の構造も今の女性上位の世界になってみるとみるべき所はあるし、知らない世界の面白さもある。
現にパルコの観客を見ると、まず、文楽でこの作品を見た人はものの十人もいないだろう。浄瑠璃でもの語りを持っていくのは文楽の要素で、今を流行りの朗読劇にも繋がらないでもないのだが、新曲を作ってまで変えるなら、この浄瑠璃による聞き取りにくいナレーションに一工夫あってもいいではないだろうか。それでは文楽ではなくなってしまうという識者の意見を、考えてみるのも役に立つと思う。作品そのものは、是非残して欲しい。なにしろ近松の『三姦もの』一つである。欧米の今に残る姦通ものに匹敵できる名作として、時代は変わっても楽しみたいものである。

【8/17追加公演決定!!】おどるシェイクスピア 『RARE〜リア王〜』
CHAiroiPLIN
六行会ホール(東京都)
2025/08/14 (木) ~ 2025/08/17 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★
ずいぶん昔、同じタイトルで「踊るシェイクスピア」とシリーズ(確か、中屋敷法仁だったか)を見たことがあったが、まもなく終わってしまった。口で言ったり、宣伝に使ったりするには分りやすいが、実行してみると上手くいかない。今度もきっと・・・、と思ったが、久し振りに伊藤キムが演劇と絡むし、中堅の俳優も出ているので首尾いかに、と新馬場へでかけた。
演劇や、ダンス、音楽の交流を甘く見てはいけない。惨敗の舞台である。まず基本のテキストが未熟である。「リア王」をどうやらレストランの相続とからめているらしいのだが、役が多すぎて、どのように原作と絡んでいるか分らない。このあたりのテキトー感が濃い。かつて夏夢をレストランの厨房一同の森へのピクニックに組み直した作品を見たことがあるが(よくできていたが、やはり違和感は残った)、リア王ならでは、の組むシチュエーションも考えられていない。
音楽仕立てにするなら、もっと上質の音楽でないと。流行歌と児童向け音楽を混ぜたような音楽では気が滅入る。舞台の目先はどんどん変わるのだが、名の知れた演技者が出ているところはそれなりに本人の工夫でなんとか持つが、群舞のところになると落差が激しい。目当てで行ったキムもさすがに独演では歌も踊りも際立つが、年は取った。全編から見れば2分程度の出である。
音楽はムリに作曲にしないで、選曲にすれば、かなり救えただろ。俳優たちも面倒になると、机を前に横に並べて横一列の割り台詞、というのは安易にすぎるだろう。劇団名は茶色のプリンと言うらしいが、横文字なので、チャランポランかと誤読してしまった。
久し振りに6行会ホール。見やすい良いホールだがこういう演劇には辛くなった。この世界も技術進歩は著しい、Ⅰ時間45分という予告だったが2時間かかった。

WAR BRIDE -アメリカと日本の架け橋 桂子・ハーン-
TBS/読売新聞社/TBSラジオ
よみうり大手町ホール(東京都)
2025/08/05 (火) ~ 2025/08/27 (水)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
チョコレートケーキの商業演劇登場である。副題に「アメリカと日本の架け橋桂子・ハーン」とあるから、主宰のマスメディアらしい終戦・実録ものの夏興行である。チョコレートケーキの作・演出が大劇場興行でどう戦うかも見どころである。
題材はチョコッレートケーキでは手慣れた戦時国境ものである。既にこの劇団は初期に「その頬熱二焼かれ」という原爆被爆少女たちの米国での整形を扱った再演を重ねた注目作作品がある。大手町の読売新聞のホールでの公演は、いつもの下北沢の百人規模の作品とは違って当然である。もともとはTBSの実録番組だが、今回は国際協調・和解に絞っていて、話は学校公演にありがちのウンザリするお説教に終わりがちだが、さすが、チョコレートケーキ、その中で人間和解への道を見せようと大健闘である。内容は「次世代に届けたい、戦争を乗り越えた真実の姿」という1行の表向きのキャプションを出ることはないが、そのなかで、まず、いいところ。
こういう話では、責めても意味のない敵役が出てくるものだが、そういう安い敵役が1幕はじめに出る主人公の同僚兵士以外、出てこない。それなのに、類型的でない戦後の空気を今の時代に通じるように作っている。ことに主人公の擁護派の父母の置き方が、この時代にも確かにいた戦中良識派の実感をきちんと表現していて上手い。テレビの朝ドラになりかねないところを救っている。アメリカの地方の差別は、行ってみれば呆れるほどのものだが、そこは普遍化しにくいので、苦労している。ここは少しわかりにくいが、そこはやむを得ない。現実は姉妹都市などになってみても解決しない、問題の核心である。
ということで、大衆劇という条件はあるにせよ大劇場、ノーセット階段風裸舞台で場内泣かせる技はたいしたものである。(終戦直後に見せられたアメリカ映画の味がする。観客が安心して泣ける)。
チョコレートらしからぬと感じたのは。第1幕(75分)はいいとしても(それでも5分は長い)。後半の90分は長過ぎる。2幕後半は落とし所を探っているようでもあり、話が行きつ戻りつしている。枠の現代記者たちはもう少し使い方があった(現代の視点)のではないだろうかと思う。ここは、商業演劇なのだから、そういうのは諦めて菊田一夫ばりに直球泣かせで行ったほうが良かったかとも思う。そこで照れても仕方がない。俳優、好演。ほぼ満席。

帰還の虹
タカハ劇団
座・高円寺1(東京都)
2025/08/07 (木) ~ 2025/08/13 (水)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★
高羽彩の旧作である。最初は旧作とは知らなかったが、10年も前にこれだけのものを書いているのに、去年だかに見たヒトラーの出てくる作品は、まぁもう二度と見たくない作品だった。波があるのは仕方がないが、これは人物設定も、時代設定も面白く出来ていて二時間あまり面白く見られた。
物語は太平洋戦争の末期。芸術家として、徴兵を免れた画家が四人、満州開拓で空き家になった農村の空き家に憲兵大佐の見張りのもと住んでいる この四人の組合わせが、図式的といえばその通りなのだがドラマ設定としては上手い.まずフランス帰りの戦争画の大家。絵に関しては何を書かせても上手い、今は時局便乗。次ぎに共産党崩れ。さらに自らの限界を知っている現実派。大家のモデルだった時局達観型の女(護あさな)。家に付いている家政婦とその家族。
戦争時の芸術家の生き方をそれぞれに託している。
幕開きから、メインの場面になる大家のアトリエに白布をかぶったおおきなカンバスが置かれていて、何かというと、そこへ観客の目が向くように作ってある。その謎を最後までひっぱっていく。これが、戦争と芸術家の葛藤というところに落としていくのはいいとしても、結局は個人の思いになっているところが弱い。(まぁこれでもいいのだが、これでは娯楽作になってしまう。そこがこの作品の焦点だろう。折角冒頭から画家たちや地元農民・市民、憲兵など、戦後生まれの本の知識だけで書いているにしてはかなりうまく出来ているのに、もっと、戦争と芸術というテーマに直面した芸術家、市民というものに迫らなければ、三好十郎に勝てない。これからは知らないものの強みで戦わなければならないが、アフタートークで出てきた戦争記録の映像作家の作品共々、これではまるで実感が出ていない。色つき立体映像と復元再生音声だけで再現が可能で、演劇に勝てると思っているところも同じで、人間のない面を舞台で見せなければただの面白いお話の絵解き絵本で風化していくだけだ。そこは前に見たヒトラーの話と同じ安易さである。)
と悪口に落ちていくが、いいところは、小劇場でよく見る役者たちがガラも生かして、画家四人など、小劇場らしい面白さも出している。高羽の演出については、そのつもりで見ていなかったが、演出の方がいいのかもしれない。女優も始めて見る人だが、男どもを押さえてタカラヅカばりにちゃんと演じきっている。

不可能の限りにおいて
世田谷パブリックシアター
シアタートラム(東京都)
2025/08/08 (金) ~ 2025/08/11 (月)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★
日本の8月はお盆の季節。おおきな犠牲を払った戦争の敗戦の日と、酷暑の日差しの下で先人を追悼する日が続く。世界のさまざまの所で「戦争」の影が濃くなった。いよいよ何らかの形で国民が戦争に直面することになるだろうとは米軍空襲の下で親に手を引かれて(それだけでも、家族が徴兵された家から見れば大いに幸運だったわけだが)逃げ惑った体験のある私なドは今は平和の最後の時かと震えてしまう。戦争の実感のない人はその恐ろしさを体験してみるといいのだが、こればかりは試しにやってみるわけにも行かない。平和の國にも疑似体験できる機会はある。それが戦後整備された国際機関で、このドラマリーディングは、その国際機関から紛争中の國へ派遣された各国の人々の手記から構成されている。若い俳優たちが17名巧みに構成された手記を相互に読んでいく。主の中東やアフリカなどの紛争地域に派遣された男女の平和維持部隊の記録が主だが、どこから見ても絶望的な環境の中で、正論を立てに紛争地国民の命を救うことを課せられる。15ほどのエピーソードな紹介されるが、平和呆けの我が国民も慄然とするような事実が次々と紹介される。そのエピソードの構成も、出ているやたらにシロ-とっぽい出演者を、何もない舞台をただ出演者を横に、縦に並べ替えるのを主軸にした演出もうまいもので、このメンバーでとにかくトラムをほぼ満席にしたのは、手記がホンモノのリアルさを持っていたことが第一だが、昨今の世間のキナ臭さも大いに影響しているだろう。どうか、先の戦争のように「バスに乗り送るな」などという軍官の下心のあるおだてに乗って身を誤ることがないように祈るばかりだ。生田みゆきの旨さを自分のことしか考えない輩に利用されないように。フランスで妻をめとってきた獅子文六(文学座の祖、岩田豊雄)だって、戦争が始ってしまえば戦争賛美のベストセラーを書かざるを得ない。何も実相を知らない82才以下の方々はだまされてからしまったと思っても遅い。自分が生きることがなによりもたいせつ。前のダメな首相はつい、国民は自助・共助、公助の順だとついホンネを漏らした。次ぎも、絶対に女性だと思って油断したりしてはいけませんぞ。

おーい、 救けてくれ!
鈴木製作所
雑遊(東京都)
2025/07/30 (水) ~ 2025/08/03 (日)公演終了
実演鑑賞
嘗ては女子大演劇のリーダーとしてならした鈴木裕美も小劇場劇団の自転車キンクリートで腕を上げ、いまや商業演劇の新橋演舞場、客の来る小劇場系公演も幅広くこなしている。芝居をまとめてどこか賑やか、どこか女学生らしい純情さ、一方で実は徹夜も辞さない大酒豪という噂も伝わってきて、女性の年齢を忖度するのは失礼だから止めるがそろそろ還暦だろう。その鈴木裕美が、若い俳優入り口の人を集めて一月ワークショップを開いてその結果を見せるというので見にいった。
テキストはサローヤンで、一頃、鈴木はアメリカ演劇のテレンス・ラティガンのような地味だが受けのいい作家の作品をしきりにやっていた。日本の同年代作家では、マキノノゾミとか。分る演劇を照れないでたやり続けたところがいい。
一方ではこういう新人育成のようなこともやっているんだと、見直すところもあった。ワークショップは徹底的に実践派で、型を教えているわけではないようで、解釈とそんれを体で相手を見ながらどう表現していくか、ということをやったようで現代演劇の基礎訓練だったようだ。嘗ての演出家先生の訳の分らぬ事w謹聴、拝聴するだけの訓練よりはよほど役に立ちそうだったが、新人の感性を引き出すには、演出の方も、よほどの経験と口先の旨さがなければ務まらずそろそろ還暦だろう。あつての蜷川のように、出来るまでやらせるというような演出はこれからは難しくなりそうだ。

vol.41 「廃墟」、vol.42 「そぞろの民」
TRASHMASTERS
駅前劇場(東京都)
2025/07/25 (金) ~ 2025/08/03 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
この劇団としては珍しく、中津留章仁の作品ではなく、随分前に亡くなった昭和の劇作家・三好十郎の、しかも、あまり知られていない戯曲を再演した。この企画が、意外に時代との響き合いがよく面白い。芝居はやってみないと分らないものである。
この公演の成功は、この作品をやってみようとした演出者の時局を見る眼に尽きる。
中身は、終戦直後の時局性の強い世相劇である。敗戦直後、心ならずも時の風潮に迎合した歴史学者の一家は戦災で家を焼かれ知人の一家の一隅に一部屋を借りて明日の食糧の配給を待ちながら細々と暮らしている.今劇場を埋める観客の全ての人(年齢を考えるとそうなる)は、ドラマ的設定と思うだろうが、私は十才たらずながらこの現実を実体験しているただ一人の観客(市民)だったのかも知れない。
舞台で繰り広げられる戸主である老碩学の実直に見えて、無責任、そこで育てられた子供たちの時局便乗、長男は共産主義新聞のお先棒を担ぎ、よくできた次男は市内のヤ指南や指南役になる。女たちは、それぞれの特技では暮らせず、そうなれば、当然の道しか残っていない。隣近所の市民生活の契約した金は必ず払わなければならぬというごく普通のルールも今夜の食の前にたちまち破壊する。家族の連帯も叔父、叔母程度にも遠くなれば、何ほどの役に立たない。
その時代を生きた者もしばらくは忘れていたが、こういう現実は昭和20年の敗戦後一二年にはどこにもあった.誰も経験があるし、責められないファクトである。
三好十郎はこの時代を生きて、そのままに書いた.それがこの戯曲である。少し後に書いた「夜の道連れ」は今年、新国立が贅沢に金をかけて新人の演出で上演した.この演出家は二三本見ているが、篤実な演出家とは思うが知らない世界を演出して全く違う人種になった今の日本人に提示できるほどには本の読み込みは出来ない.終戦ファッションの新国立的歴史修正のドラマになってしまっていた。経営はともかくそこは本人の責任ではないと言いたいだろう。その欺瞞を中津留は許さない。三好の筆力もある。
そこを、中津留のトラッシュマスターズは、PITの3分の1の高さもない天井のビルの仮設といってもいいような劇場で三好の戯曲をそのまま上演した。それが、図らずも、新国立の欺瞞を暴くことになった.演劇はそういうところがいいのである

寺山修司生誕90年記念認定事業「盲人書簡◉上海篇」
PSYCHOSIS
ザムザ阿佐谷(東京都)
2025/07/24 (木) ~ 2025/07/30 (水)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★
昨日に引き続いて、公的な助成機関である劇団協議会の後援の(詳しい後援の内容は知らない)舞台である。寺山が亡くなって年にもなる。今や、若者の中には唐と寺山の区別も出来ない(同じような作家と理解している)人も少なくないと聞くが、そのような年月の流れを感じさせる上演でもあった。
もともと、戯曲としては形が整っていなし、演出がダンス系の女性なのでいからやむを得ないが、やはりこういう風に劇場で上演を試みるなら、書翰とした寺山の言葉を意識して上演台本を作ったらいいのにと思った。シーンそれぞれの作りの意図は分るが、それがどう繋がなっていくのかがわからない、乱歩の少年探偵団はアングラ時代以降人気があって、いろんな扱い方をされてきたが、この作品の盲目の小林少年の置き方などはちょっと無理筋の感じがする。演出もシーンのなかで何か、一カ所決まりの形を舞台で見せればいいと、理解しているようなところがある。そこが、アングラ演劇でめずらしく「(詩の)言葉」を重視した寺山らしくなくしてしまったのではないか、とも思った。なんだか、ファッション化しているのは時間の流れでやむを得ないのだろうが。

キャプテン・アメイジング
世田谷パブリックシアター
シアタートラム(東京都)
2025/07/26 (土) ~ 2025/08/03 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★
劇場企画の一人芝居である。夏らしい勉強会、という企画でイギリスの知らない作家の新しい作品だ。労働者で、一人娘と暮らしている冴えない中年男が、スーパーマーケットの清掃係、あるいは案内係をスーパーマンの衣装でやっている。そのアメイジングなヒーローの日常と心象風景、寸足らずの赤マンとを羽織って演じる。主にモノローグと、娘らしい女性(出てこない)を相手に二役で話す、そのなかで日常が見えてくる。ここだけ書けば、おおよそ見当は衝く内容で、赤堀雅秋のイギリス版である。
内容は1時間10芸術監督と演出のトークが付いている。驚いたことに満席。これは酷暑36℃になると脅されている中で冷房の利きがいいからかもね、という意地悪を言いくなる。総体としては演出、演技ともⅠ時間15分、出ずっぱり、しゃべりぱなし、動きっぱなしで、似ているシーンが多いのによく取り違えをしないものだと感心してみたが、それ以上のこともない。私が見た回は松尾諭の回だったが、舞台をよくつとめたというところか。
注文。ポスターもチラシも三人の共演者を並べているが、はっきり(注意深く見ればそうともとれるが)出るのは三人の内一人だけ、と分るように表示すべきだろう。そろそろ三年目の白井晃医術監督白井晃らしい企画を出して欲しい。いかにも、のいいこちゃんの企画はつまらない。

みんな鳥になって
世田谷パブリックシアター
世田谷パブリックシアター(東京都)
2025/06/28 (土) ~ 2025/07/21 (月)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
ユニークな企画の現代劇公演である。作家のワジディ・ムワワドはレバノン生まれのフランス語。アラブ語の作家で、三軒茶屋の世田谷パブリックシアターで問題の多い中東地域で生きる人々の民族、宗教、家族の葛藤を描いたシリーズを上演してきた。演出は上村聡史。
これまでに三作(炎、、岸、森)をやっていて重厚なタッチで苛酷な環境(人間、自然)に生きる人間を描いてきた。固定ファンもいるらしく中年女性が主体の客席は満席である。しかし、これは、予習をしておくべきだった。こも地域は一度しか行ったことがないし、勉強不足で、登場人物が、恋人の間、親子の間、兄弟の間などで、出生や民族で対立し悩んでいくのがその理由がその場で頭に入っていかない。これが最大の問題で、重厚なタッチの演出(その物々しさだけでも十分舞台を引っ張っていく力がある)で集団感や個人の出生のドラマを追っていく。
上村聡史の見せる演出は見事だが、こういう地域民族演劇になってくると違和感もある。中東らしくないのである。もちろん最初の場面はNYの現代的図書館で、アラブ系のアメリカ人の男の子と、あまりもう民族意識も薄いユダヤ系ドイツ人の女の子が出会い恋物語の軸で始る。だが、どうしても、話が進んで主人公たちが次第に捕らわれていく民族が嘘っぽい。というより、日本人の役者で表現しきれないところが残ってしまう、というか、舞台の上でやられていることは、アラブの現代化で、そこで見る方は、言葉としては分っていくがリアルは抜けていく、とでも言うか。作今、「千と千尋」がロンドンのウエストエンドで好評というが、当たっていても芯はぬけているのではないかと、危惧してしまう。ユダヤ系を許さないアラブ系の父、というのも、役者の役解釈としてはこれでいいのだろうが、そして、近代劇としてみれば、これでなければ、各地各地では出来ないのだろうが、現代を背景にドラマの上演法の難しさしたあるのではないかと思う。
麻美れいと岡本健一がこのシリーズはよく出ていて、今回も役を果しているが、やはり日本の役者であることはわかりない。。

KYOTO
燐光群
ザ・スズナリ(東京都)
2025/06/27 (金) ~ 2025/07/13 (日)公演終了
実演鑑賞
いつも自然破壊となると話題になるCOP3(気候変動枠組み条約第三回締結国会議)、俗に言う京都会議、日本が、世界的なようやく締結の会議場になった珍しいケースを舞台に、記録劇というか、コメディというか、国際劇というか、とにかく現実を素材にして、国際関係これでいいのかと問題にしているところは相変わらず燐光群・坂手洋二だが、今回は、原作があって・それがイギリスの台本である。今年のオリビエ賞候補だという。イギリスの戯曲・演劇賞は、種類も部門も、候補も沢山あるから、今後このネタが国際的な場でどのようなことになるか、よくフォローしておくのも、これからは何かとこういう場に素材も作る方も俎上に上がるだろうから、勉強するにはいい機会だ。
おおむね、こういう形の問題劇に日本が登場することはめずらしい。この戯曲でも日本が舞台なのに、日本の登場人物は主要な役どことではなくて、自然保護をネタに商売にしてきたアメリカの弁護士が主人公で、お題目がいいので各国の政治家が、適当に乗ったのがこの排出ガス規制法で、現状ではほぼ、空文化している。しかし、そこを武器に国際間駆け引きは出来るわけで、そこは各国ともになければ取引が進まない関税と同じで、今のトランプの横暴がまかり通らざるを得ない現状では時宜にあったいい企画と言うことになるのだろう。本来はドラマ素材ではないんだが、この経緯をネタに喜劇を作ろうと思えば、ネタに困らない。
戯曲はおおむねそのレベルで、日本人は特殊な専門家(国際的な場が主戦場)以外はこういう場所の処理の仕方は知らないから、これで笑うだろうが、これを実際に食い扶持としてやっている人たちはいるし、本格的に劇化するならそこを踏まえなければ面白くならない。ところが、軸になっているCO2ガスの存在が空を掴むような話になっているところが難しい。また登場人物も人種間、地域間というような今は差別として取り上げにくい差別を基に作っているので専門家しか面白くない。だから中国的エゴ、インド的エゴ、あるいはソ連的強情、ヨーロッパ的、あるいはアメリカ的権威主義というのもこなれていない。今までは、主人公がおおやけの幸せのため、あるいは、真実のため、あるいは出身母国のために涙ぐましい孤軍奮闘するドラマで、できあがってきた世界が民が理想を希求するのそれでは上手くなくなった現状報告の最新作である。
燐光群もやりにくくなった。面白そうなのに、六分といった感じに入りだが、公演期間が長いので、関心を持っている人はあるのだろう。だが問題解決となると、芝居がどれほどの力になるか、これは各国の文化のレベルも関わってくるからますます難しい。俳優陣も各国代表を各国人でやりきるには、藝が足りない。タモリの四カ国麻雀のような芸が要る。それは燐光群の狙いとは違うのだから見る方は、うまく出来れば面白いだろうな、ト見るしかない。

海と日傘
R Plays Company
すみだパークシアター倉(東京都)
2025/07/09 (水) ~ 2025/07/21 (月)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★
普通に暮らす人々にとって、本人の人生にとっては大きなことだが、それ以外の人にとっては流れていく日々の生活の断片であることを鮮やかに切り取った前世紀末(1996)の名作の再演である。作者は存命だが、新進の演出家桐山知也による本をそのまま渡しての再演だろう。
ビニール幕に囲まれた畳敷きの部屋に座卓が一つ、だけの簡素な舞台装置である。幕外に俳優は常にいてシーンによって登場する。効果音は海に近いこの家に聞こえる波の音。外洋は意外に近いらしく時に高い。これ以外は特に役に戯曲以外の注文はなさそうで舞台は戯曲に従って淡々と進む。生命と向き合う日々がテーマだから、後は戯曲と俳優たちの舞台がどれだけその場の観客に伝わったか、というところが勝負(観客のそれぞれの満足度)である。
成功したところでは、全編の長崎言葉がよく統一がとれていた点。禁欲的な美術は、ときに現実感(戯曲は細かく日常を描いている)を損ないそうになるがよく耐えている。
問題点、有名なラスト近くの虹の中の夫婦のシーンだけ妻を上手中段の客席の通路に出して立たせて居るが、、ここだと約三割の客は台詞ごとにクビを振らないと、台詞を口にするそれぞれの俳優を見ることが出来ない。これはちょっとした致命傷である。
そのほかの問題点ではキャスティング。こういう繊細な本になると俳優の責任ではない地の肉体の形が影響する。ちゃんと考えてはいる南沢奈央には酷だが、三ヶ月と余命宣言されている女性には見えない。作者は別に薄命の人を見せて涙の種にしようとはしていないとが、設定に合わせるのも俳優である。演出が若いと言い出せないこともある。大野裕郎も、何か今時の若者で、努力は分るが生命が終わる者の傍らにいる実感が伴わない。隣の夫婦は逆に型どおりにハマりすぎ(じゃぁどうやればいいの!と問われると答えはないが、それを考え納得させるのも見せる側の責任でもある、)。
庭の木の剪定をするシーンなど一工夫欲しいところである。作者はテーマに沿ってちゃんとこのシーンを考えて書いている。
などなど、注文は出てくるが、この戯曲は観客も含めて難しい本なのである。七分の入りといったところだがまずまずの所だろう。