tottoryの観てきた!クチコミ一覧

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ドッグマンノーライフ

ドッグマンノーライフ

オフィスマウンテン

STスポット(神奈川県)

2018/01/17 (水) ~ 2018/01/21 (日)公演終了

満足度★★★★

STスポットも地元の範疇。

ネタバレBOX

考察に値するかしないか、迷うパフォーマンス。そこからかい・・と言われそうだが、実際そうだ。まんず初期チェルフィッチュ(映像での『三月の5日間』しか見てないが)が、間違いなく母体である所のパフォーマンスが開演と同時に始まっている。ただしかの舞台のように饒舌ではない。作家が第一に言葉に託す(書く)行為を完結させる必要は、パフォーマーである山縣氏にはないと理解。言葉を重視しないのでなく、むしろ少ない発語に凝縮されるが、それが独特だ。正直「粋な省略」台詞と、「駄洒落」以上でない呟きと、玉石混交の印象である。
そう見える原因を同時進行で探るに、一言で言えばパフォーマー個々の力量と、方向性?のばらつき、ではないかと思える瞬間が。。
山縣氏の描く「劇」は自立したテキストを要せず、俳優のパフォーマンスと補完し合って仕上がる「表れ」、従ってパフォーマンスがどこを目指して為されているのか、が見えてこなければならないが、理解が及ばず。役者一人一人はどのようにしてそこに「立っている」のか・・?という事な訳だが、一旦保留しても考えは進められそうなのでそうしてみる。
『三月の5日間』は多様な魅力を持っていて、台詞(発語)と身体動作の関係の異化、語りの対象の曖昧さ、それらにもかかわらず何かを伝えるパフォーマンスが成立しているという衝撃があれにはあった。その場に山縣氏や、「ドッグマン」初演に出演した松村翔子女史も居合せた訳だが、特に発語と身体動作の関係に山縣氏は「目指すに値する」境地を見出した、と推測でき、今回見てその印象は確かになった。それだけに、予想をもう一段上回る何かを期待したというのもある。
「喋り」の口跡がいまいち、という場面(人)が一度(一人)ならずあったのが結構大きい。声は心情を表わすが、それに代わる意思が前面に来る場合もある。口跡の問題は、発語がそのどちらにも属さず空に漂ってしまったような印象を与えた。
山縣氏が有する声だからこそ「是」とされるパフォーマンスが、未熟な身体では表現として自立する域に到達するのは至難ではないか。
登場している間、絶えず意識とは乖離した生物体のように動き・居続ける俳優の「身体部門」での頑張りも良いが、未熟を露呈してしまう滑舌をもっと鍛えるべきでないか・・そんな事を思ってしまうのだった。
松村女史の「三月・・」でのパフォーマンスはある種天性の勘の良さで成立・自立したもののように見える。他の俳優らも粒ぞろいに見えたが、それは役者の力量でなく方法論、アプローチの為せるものである、という風に(とりあえずは)考えていた。だがそのお陰では、必ずしも無かった、という予感がよぎる。これは山縣氏の試みの全否定になるだろうか・・?
高度な遊びを「遊び切った」と見えないのは、テキスト・構成の問題か、役者の力量の問題かのどちらかだ。
何度も恐縮、「三月の5日間」に登場していた若者たちそれぞれの身体性、個性は強く、ニュアンスを湛えていたが、それは「喋る」行為を主とし、身体が従であったからこそ身体が異化として機能したと考えられる。今回はその逆、即ち身体動作が主で、(極めて少ない)「喋り」が従とならざるを得ないとき、身体がより雄弁である事を求められ、「喋り」は凝縮された何かを露呈する瞬間でありたい。果たしてどうだったか。喋り続ける脳の価値を肉体がせり上げる、でなく、動き続ける肉体の価値を喋り=脳が価値付ける、という関係が、今回の作品のフォーマットで、中々難しい課題だったのだろう。また、一つの有機体でもあるこの出し物を相互に高めあえる出演者の「棲み分け」が成功していたかどうか・・初演が気になる。
黒蜥蜴

黒蜥蜴

梅田芸術劇場

日生劇場(東京都)

2018/01/09 (火) ~ 2018/01/28 (日)公演終了

満足度★★★★

「黒蜥蜴」は最近も三輪明宏版、花組芝居版と人気演目だが、SPACの舞台に心酔した者としては、三島由紀夫脚色「黒蜥蜴」だからこそ、敷居の高い劇場へと足を運んだ由。江戸川乱歩の原作も面白かったが、三島戯曲では追跡劇の躍動感を残しながら人物像の掘り下げが正面からなされていて、人間ドラマの骨格がある。デイヴィッド・ルヴォーの演出も初めての事で一目見ておきたく観劇。
日生劇場も初である。昨年の初クリエに続き、主婦層占有エリア(偏見?)におずおずと立ち入れば、主婦率は高いものの客層は多様であった。
先日の「近松」同様、二幕以降のめり込む。喧騒から束の間離れた時間、じっくりと交わされる会話というのは固唾を呑むサスペンスだ。
さて休憩時にパンフで役者を確認、主役は中谷美紀、そうだった(チラシに写真載ってたじゃん)。二階席からは顔の判別できず、声でも判定できずで。・・この「大」女優の舞台での力量は未知だったが、カーテンコールで一回り大きな拍手を受けるのが当然と思える緩急自在な立ち回り、屈折愛の表現など、遠目に見た評価だが出色、引き込むものがあった。対する明智小五郎(井上芳雄)は、特に声が、役柄に比してかなり若くみえた。
注目点は中谷の演技と、演出(デヴィッド・ルヴォー)、と普通なコメントでつまらないが仕方ない。ルヴォー初心者、中谷初お目見え、両者ともその芸の浸透力(普遍性)を感じさせた。そして、「黒蜥蜴」はやっぱしいい。

ネタバレBOX

ラスト、明智は依頼者である社長に高価な宝石と彼の娘を引き渡した後、今自死を遂げた黒蜥蜴をかき抱きながら、社長の扱う商品=宝石の価値をこき下ろし、世界の全ては色あせて見えると嘆く。「なぜなら、本当に美しい宝石はもう死んでしまったのだから・・。」
三島の追い求めた「美」が視覚的なそれ、また芸術のそれにとどまらず「生き方」に見出されている事、そしてそれがある種説得力を持ちえている事に、是非の議論はともかく、言いようのない危険な魅力を感じる。
そう考えると、大きな舞台で実力派とは言え「大型女優」を使い高名な演出家によって、「美」が作られてしまうと、変な言い方だが戯曲との緊張関係は意味論的には減退する。SPACでの「黒蜥蜴」は世間一般には無名の役者によって演じられ、作品の普遍的魅力が示された。SPAC版は硬質な作りで、彼らの生きる場を象徴するような、一面の黒は、忘れがたい。
ルヴォーの演出には息を飲む場面も幾つもあったが、この演出家が向かっている目的地は何なのだろう・・そこに関心が向く。三島作品は初めてでなく、古典名作を多く演出している事から、「新たな切り口」をもって挑もうとする演出家魂の持ち主のようだ・・と推測し、考察はまたの機会に。
郷愁の丘ロマントピア

郷愁の丘ロマントピア

ホエイ

こまばアゴラ劇場(東京都)

2018/01/11 (木) ~ 2018/01/21 (日)公演終了

満足度★★★★

ホエイは舞台に金をかけず、戯曲で勝負、役者は体で勝負。「珈琲法要」「麦とくしゃみ」に続き北海道三部作を完結させる今作は、時代を戦後、題材を炭坑町・夕張にとったお話。
台詞を聞いていると詳細なデータが踏まえられ、事実としては深刻だが、芝居はトボけている。
三部作の一作目が江戸後期に津軽藩から送られた開拓使の話だった事を思い出し、今更ながら北海道の歴史(有史)はごく短いという事実に思い当たる。(アイヌ民族は文字を持たなかった)
看過されがちなこの彼我の違い(沖縄の歴史意識も然り)を、作者山田氏はディテイル描写によって巧妙に際立たせる。
「珈琲法要」では病気になっていく過程を細かく幾段階かに分けて描写していた。ドラマ性を演出するならそこは見せなくて良く、想像させて共感を掴むのが得策なのに、それをやらない。
今作では、SEを一つも使わなかった。風や、水辺のさざ波や、木々のこすれる音など、背景に流れるだけでも情感が漂い、「郷愁」を揺さぶるだろうに・・。
この潔い(?)勝負の仕方は、演劇を「心地よさ」に浸る場所としない、こだわり故だろうか?
妙に味わいある芝居なのには、違いない。

ハマの弥太っぺ

ハマの弥太っぺ

theater 045 syndicate

横浜ベイサイドスタジオ(神奈川県)

2018/01/12 (金) ~ 2018/01/15 (月)公演終了

満足度★★★★★

初見かつ来歴も全く知らない(名からすると地元横浜の)ユニットに佃典彦が書き下ろした作品という。京急神奈川新町駅近くの古い鉄筋ビル2階のスタジオで上演。30分以内で行ける劇場はそうなく、どうしたって同郷感覚が芽生える。加えて上出来の舞台であれば尚の事。観たのは千秋楽で人に紹介しても観てもらえないのが悔しい。
アウトローたちの飛ばす啖呵の応酬がおいしいハードボイルドな世界、そこに女あり、人生哲学あり。尋常ならざる「弥太っぺ」という傑物を演ずるに不足ない俳優を得、またそれぞれに不足ない脇役を得て、「乱暴」スレスレの照明、美術ともみくちゃに摩擦熱を上げながら、鎮火されず最後まで走り切った。佃氏らしい?ハチャメチャな局面もきっちり物語に回収される堅固な戯曲は見事で、男の芝居である。めっけもの。

秘密の花園

秘密の花園

東京芸術劇場

東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)

2018/01/13 (土) ~ 2018/02/04 (日)公演終了

満足度★★★★

テントでも狭い小屋でもなく芸劇で唐十郎をやる。蜷川はコクーンでやったし駅前劇場で所狭しとやった木野花演出のもあった。小屋っぽい場所でやるのは正統、大劇場でたっぷりやるのも趣向、だが芸劇イーストでどうやって・・
作品は82年本多劇場杮落としで初演、少し前の唐組テント上演がバッタ本の中でキラッと光った印象だったが、既成の枠に囚われない福原演出は、適役寺島しのぶを謎の女に配して、恐らく最大限頑張っていた。こうして見ると難しい芝居の世界だと思う。演出も演技も、唐十郎本人、あるいは唐の脳味噌を感覚的に飲み込んだ身体なら自然とやるのだろうそれを、折り目正しい現代俳優に精一杯寄り添わせ、再構成した手触り。忙しなくモード変転する台詞(照明変化と共に)、姿形が似る二人の女の彼女はどちらなのか次第に不分明になっていく過程、そこに絡む奇妙な人たちの奇行・・難物に挑み、現代的な処理もされ笑いを取っていた。

ネタバレBOX

よくやった、と思うが、ここまでやれば最後は屋台崩し(正面にある部屋の壁が取り払われる)を期待してしまう。音量等の最大値を、このラストに持って来るのが正統であったが、今回はラストを哀感漂う情景で閉じくくった。苦肉の策とも言えようが、その構成も、形としても、もう一段上がほしかった。
近松心中物語

近松心中物語

シス・カンパニー

新国立劇場 中劇場(東京都)

2018/01/10 (水) ~ 2018/02/18 (日)公演終了

満足度★★★★

劇団☆新感線を自ら観ることはないと思っていたが、かの秋元松代の戯曲をいのうえひでのりが演出というので物見高く観劇と決めた。
「伝説」のように言われる蜷川幸雄演出舞台を私は知らないが、壮観な装置と流れるような転換(それも場面の一つであるかのよう)は蜷川「身毒丸」を彷彿とさせる。
が、新国立中劇場を使いこなす松井るみの美術(蜷川演出では朝倉摂)と演出いのうえのタッグの成果も認められた。
美しい「形」や「様式」には、それが形や様式に過ぎないと分かっても浸ってみたくなるものがある。休憩を挟んだ後半、心中の道行きを辿ることになる二組の男女の一対一の会話や、逼迫した状況を演出する追っ手の登場などでズームが人物に寄り、舞台が立体に見えてくる。
前半には「買う」道楽と無縁の忠兵衛が女郎・梅川と遭遇し、互いに一目ぼれしあう場面があったはずだが見逃している。もう一組の男女、与兵衛とおカメ(だったか)を知らず、与兵衛と忠兵衛を同一視したりで筋が飲み込めず前半を終えたが、後半で理解できた。
新国立中劇場は2年以上ご無沙汰、にもかかわらず床の黒や奥行きの特徴に「ああ」と懐かしさがよぎった。
空間を存分に生かした美術は、とりわけ終盤、目に飛び込む刺激だけでご飯が進むが如し。もとい、芝居が極上の料理の如くになり。
「心中」が日本人の深層に訴えるものでありエンタテインメントたり得ることを再認識。「心中」を鏡にして浮かぶ江戸の庶民の姿(悲哀を帯びながらも現世の春をしたたかに謳歌する)こそが、物語の主役として浮上する、という構図が今回の演出にもあり、これを見事に図案化してみせた確かな仕事があった。

ネタバレBOX

舞台づくりの優先順位を意識しながら見ていると、中劇場の宿命=声の届かなさは、この舞台では仕込みマイクを通すことによる音質の違和感として表れた。台詞が聞き取れる事を優先した訳である。心情の「演技」よりはテンポや動きのメリハリが優先。心情の連続性や場の(心情面の)連続性よりは人の滑らかな移動や華麗な動きや展開(見た目の美観)を優先。
前半の「分からなさ」は、(私の感覚では)心情表出の精度に拠った気がしている。また序盤での与兵衛と忠兵衛のキャラ分けは欲しかった。平場での(日常ベースの)やり取りではリアルな演技が物を言う。もっともまだ水面下で台詞に四苦八苦する役者・場面がしばしばみられ、大変だなと思う。
演技としては、堤真一は主役4名の中でも主役である者だが、ナイーブさがもう一つ出せていない。声量を意識し、声を張ると繊細な演技ができず台詞の後半で感情面の帳尻を合わせる「探り」の発語が見られた。百戦錬磨の池田成志が緩急自在なのと印象が好対照となる。風貌で多くを語らせてきた映像主体の堤氏は、声を張らない演技に徹した方が良かったのでは・・と余計な事を考えたが、いのうえ演出ではそれは無い、のだろう。無いものねだりかも知れないが、どこか一度でも役を自分のものにねじ伏せた、と感じとれる一瞬が欲しかった。
モナカ

モナカ

Co.山田うん

スパイラルホール(東京都)

2018/01/05 (金) ~ 2018/01/08 (月)公演終了

満足度★★★★★

久々にダンス公演に興奮した。言葉のない舞踊は、補完要素としての「音楽」と密接に関係し、影響される(同じ事をいつだったか書いたが)。
エッジの効いた「音」に拮抗せんと身体まるごと総動員で挑みかかる姿は、スポーツに似て理屈抜きに観る者を揺さぶる。別役実曰く、観客が演じ手の身体の動き(静止していても呼吸し生存する意味でその時間のあいだ演者は「動いている」。)に引き込まれ、観客の身体が演者のそれに(今で言う所の)同期する事を(「共感」ではなく)「共振」「共鳴」と言う。今回、ほとんどがアンサンブルであり群舞であったが、時折ソロ・パートがあり、その時かの「共振」状態にふと陥る。目の前の体の動きに見入り、共時体験しようとしてふとそうなるのだが、あまりに高度で華麗な動きは観る者の「予測」を超えて行き、共振作用があるトランス状態をもたらす。
プロローグとエピローグに挟まれた三部という全体の構成で、始まりはスピーディな群舞、様々な色彩の舞いが展開し、最後には冒頭に似たスピーディな音楽に戻り、「汗」をかき切って終演となる。
ローザス「ドラミング」を思い出させる群舞は、交錯する基本スキップか走りの移動。グループが作られたり、離合集散し、異なる振りのパーツが同時進行で進み、滞留時間が微妙にずれたり、「決して繰り返さないが何らかの規則がありそうに見える」分子運動状の動きが延々と続いて、浜辺の波のように単調だが見飽きない。
これらの動きは何を表すのか・・というより、私は何を感じたのか、だが、意識下で感知する何かを今は言葉にできない。
強烈なイメージは終盤に凝縮されている。
超絶なソロ・ダンスを見せる女性はカンパニーの中心ダンサーだろうか、筋肉の摩擦による熱で狂乱の度が増し、先程から音楽が空気の分子運動も活発化させていて、にも関わらず、大詰めの光景・・腰で体を支える倒れた人間が何体も転がり、倒れた者の片手を握って引っぱろうとする者が次々と付いて生まれたコンビは、「最大限動いている」様相をみせているのに速度は限りなくゼロに近いという異様な現象から、破滅的に重くなった人体が今出現したかのような錯覚に陥る・・・そんな(風にみえる)現象の視覚的イメージはただもう強烈だ。何だこれは一体・・?
この終局に至って山田うんの舞踊の言語の多様さはローザス(「ドラミング」の)と比べるべきものでなかった。「言語」の解読はできないが・・
開演当初は踊り手個々の動作に目が行ったが、最後は演出(作り手)の頭の中を覗き見るようだった。

ハイサイせば

ハイサイせば

渡辺源四郎商店

こまばアゴラ劇場(東京都)

2018/01/06 (土) ~ 2018/01/08 (月)公演終了

満足度★★★★★

アゴラ劇場は満席。沖縄の団体とのコラボは要注目、というのも、畑澤聖悟氏は一貫して地元青森にこだわり、作品を生み続けてきた。そこへ「沖縄」である。気にならない方が不思議である。
しかし、沖縄と青森の(特に方言が中心の)あるある話をこんな形で紹介されるとは・・。ネタ一つ一つ思い出すと、まだニヤけてしまう。だが・・
二地域のリアル現地人がいる実在感は、(物語の舞台である)戦争末期の現実と2018年の今の現実を、(役者自身が意図するまでもなく)裏打ちする。
裏切りと分断を強いる力にもかかわらず、目を見合ってしっかり出会おうとする、その意思を伝えようとする青森のおばちゃんと、どうにかこうにかそれに応じた(同郷の沖縄人を)裏切った者。それまでの時間が「現実」に属する時間だとすれば(それがためにコミカルに描いてもいる)、そこから先のおばちゃんの行動は「現実」の彼岸を見ようとする祈りになる。「民」同士が、お上の目の届く場所で許される形ではなく、損得でもなく、出会い直そうとするのがその場面だ。
方言作戦の奇妙な予行練習から、作戦「遂行」(英国大使館に電話する)の緊迫の時間を経て、そこから解かれた和やかな時間、おばちゃんに伝言を頼んできた沖縄の男を実は炙り出すための作戦であった事が明らかになる。絵に描いたようなノンポリ差別主義の相撲取り(青森人)が、戻って来た軍人に「何か頼んでましたよ」とチクる。途端に場の空気が凍りつき、おばちゃんが苦しいながらに嘘の証言をすると、もう一人の沖縄の男がそばで聞いたままを報告し、相手を売ったのだ。
「沖縄に返してくれるんですよね」と軍人に言い、「(捕えた男の)命は取らない約束でしたね」とも言うが、虚しく響く。
他の者が去った後である。それに続いて去ろうとする男におばちゃんがこう尋ねる。「なんであんな事言ったの」、責める口調でなく、真っ白な疑問を投げることが最大の責め苦となる。別の言い方をすると、「あなたはそんな人じゃないのに」が枕にある。三上晴佳のおばちゃん力の本領だ。・・心が崩れていく男に、「手紙を送ります」と言うおばちゃん。浦添に戻ってもどこに住む事になるか・・、「浦添の比嘉さん宛に送ります」、とおばちゃん。住民の4割が比嘉です、と男。「浦添の比嘉さん全員に手紙を送ります」、とおばちゃん。両頬を涙で濡らして頷く男。
「戦争」の国民的記憶と言えるものがあり、しかし「戦争」は異なる様相を持ち得る21世紀の今、古い印象を与えかねない。渡辺源四郎商店はそこをうまく扱っている。

高校演劇サミット2017

高校演劇サミット2017

高校演劇サミット

こまばアゴラ劇場(東京都)

2017/12/28 (木) ~ 2017/12/30 (土)公演終了

満足度★★★★

いわき総合、新座柳瀬の二校を観劇。全国上位を集めた訳ではないが、高校演劇侮る勿れ、と実感(先日見た畑澤聖悟の顔が・・) 被災地福島いわきからは、被災の事実がどういう「過去」となっているか、非常に興味深いものがあった。十代の彼らは震災時小学校の中高学年。「今」、テレビ報道が関東のそれと同じ内容なら、震災は遠い過去。そういう空気がまずある。その空気感を敢えて表現する場面が劇中にもある。だがそれは世間の「空気」を読んでのことなのか、実際かの地でもそうなのか・・。溌剌としてエネルギッシュな総勢20数名の彼らの顔には影一つ見えなかった。そしてまた思う。元気すぎないか・・。
好対照の新座柳瀬は8名の男女によるフランス軽演劇風の喜劇。どう見ても原作ありに見えたが、上演台本は(恐らく)顧問の名と、オリジナルの題名のみ書かれていて、「ありそう」とは言え新作なら見事な構成。生徒たちも喜劇的な跳躍を演技に見せていて、会場は(ややフライング気味だったが)笑いが絶えなかった。最後に並んだ当人たちの顔には、やや戸惑いが。
最後の駒場も見て、ホクホクの一日と行きたかったが、十分嬉しい休日になった。

扉のむこうのコト

扉のむこうのコト

東京エスカルゴ。

シアター711(東京都)

2017/12/20 (水) ~ 2017/12/26 (火)公演終了

満足度★★★★

以前一度くらい名を聞いた程度で、異例の初観劇。独自色がありそうで身構えてると、意外に普通、というか真っ当に稽古して頑張って芝居やってる感のある、それもコメディ。劇団俳優は三名も?居て、ナグリ持って建て込みもやってそうな。
ただし劇団的な一体感はさほどなく、プロデュース公演(仲良し系?)の乗り。特徴と言えばオーバーアクション気味な演技を繰り出す劇団役者、「それほどイケてないけど本人ヤリたがってるんだから」と周囲を看過させるキャラを持ち、映像畑でも拾ってもらえそう、的なあたり。役者顔見世興行とは言わないが、確信犯的ご都合主義なコメディ。
・・要はよくある若者のドタバタ芝居のカテゴリーで、吐かれる台詞の中身は殆どなし(作者自身も切に訴えたい言葉は殆どないだろう。目的は役者を輝かせる事なのだから)、だが演劇公演の舞台裏の話でもあり、リアルな感覚はベースにあり、それが細部で説得力を発揮している。主役のベテラン女優のデフォルメされた「大物」ぶりも、(通常ならあり得ない)失敗続きの舞台を一人背負って「行くわよ!」とマネージャーに言い置いて舞台へと去る「感動」の後姿の演出も、笑ってしまう代物だが、一本辛うじて線が残っているのは、役者たちの本気度。とりわけ、真面目な役だがズッコケを「やらされてる」感を残しつつラストまで持ち越せた女優二名が、恐らくは芝居の「感動」部門の下支えになっており、男優はその上で優雅に遊んでいる(それはそれで重要な役割だが)という構図ではなかったろうか。
記憶は朧ろだが「独自色」は、あった。処置に困る奇妙な「間」。笑いへのチャレンジングな姿勢はウェルカム、願わくはウェルメイドでない破壊的な笑いを。

「標〜shirube〜」

「標〜shirube〜」

劇団桟敷童子

すみだパークスタジオ倉(そう) | THEATER-SO(東京都)

2017/12/12 (火) ~ 2017/12/25 (月)公演終了

満足度★★★★★

楽日前のステージを観劇。公演期間終盤に足を運んだのは初桟敷の「海獣」以来だろうか。開演前から役者(会場案内に出張る)の熱が伝わってくる。それは芝居の中で情念の渦となり回転する独楽のようにぶつかって火花を散らしていた。
「体夢」以降、私は桟敷童子の「模索」の時と(勝手に)認識しているが、「蝉の詩」そして今作と、何にも囚われない桟敷童子らしさが追求され磨かれた舞台が現前したように思った。
お話は戦争末期、不遇の女たち(夫を戦争にとられた)七人が海に近い場所に集落を作り、幸福(夫)を海の向こうから呼び起こすための儀式を行うべく、古文書にある通り「人柱」となる者を探している所、自殺の名所でもあるその場所を脱走兵3人が訪れ、行き場を失って死のうとするがそこに立てられた看板の奇妙な文字「条件により相談にのります」に疑問が湧き、そうする内に七人衆に取り囲まれ、彼女らの不幸な身の上を聞いて「一度死のうとした身」、儀式に必要な生け贄となる事を約する(一人は消極的)。このあたりの展開、「自死」する羽目になった自らの境遇とまだ若くエネルギッシュな様子とのギャップも手伝い、笑える場面にもなっているが、その後、彼女らを良く思わない村人たち、また(海に落ちたのを見棄たので死んだと思っていた)彼らの上官、七人衆それぞれの事情も絡んで螺旋状にドラマが展開し、思いもつかない進み方をする。通常ドラマの葛藤は対立する二つの要素の相克に収斂されるところ、今作では登場人物が新たな要素を持ち込み、焦点そのものが遷移して行く。
役者としては、今回は客演に朴ろ美(漢字がない)と円の男優、朴は元娼婦の女リーダー役を(鬼龍院花子の夏目雅子ばりに)気を張って演じていたが「力み」を周到に桟敷女優らが中和、最後にはその力みも違和感なく人物らしく見え、総じた所の劇団の俳優の底力と、書き手の更なる成熟をみてホクホクと帰路についた。

君のそれはなんだ

君のそれはなんだ

オイスターズ

こまばアゴラ劇場(東京都)

2017/12/22 (金) ~ 2017/12/24 (日)公演終了

満足度★★★★

年末の忙しない頭で臨んだ毎度オイスターズの妙ょー芝居、少々追いつけず途中睡魔に。
夜のタクシー営業、人通り少ない山あいの道に大きなカバンを片手に提げた女性、次に現れたのがやはりカバンを提げた男性、それから・・。我らが運転手は彼らが怪しいとギャァギャァ騒いでいる、その奇妙。人物らの会話の奇妙。
そして最後の登場人物が「この事態」の謎解きを担い、タクシー運転手(別の)として介入。冒頭からの設問であった「果たして彼らは幽霊か」(もしや騒いでる男本人が幽霊か)の答えが予期しない姿で解明され、信じてもらえなかった不本意が劇として溜飲を下げる「形」は、笑えもし、哀感も滲ませる。
不条理なのに「イイ話っぽさ」が匂う平塚戯曲のこれは成功例ではないか。
余剰を削いで、以前よりシンプルになったテキスト(と感じさせる演技?)も良い余韻を残した。

新年工場見学会2018

新年工場見学会2018

五反田団

アトリエヘリコプター(東京都)

2018/01/02 (火) ~ 2018/01/05 (金)公演終了

満足度★★★★

年末が近づいて「あ、そうだ」と調べたら早々と完売に。当日会場に赴いて観た。
前半の五反田団は劇中劇の鴻上尚史風が劇全体を侵食していく感じの作り。後半ハイバイは別役+城山羊の会風(当日パンフ通り)。岩井氏は必ず何か新しいものを「こんなの出来ました」と見せる。獅子舞が今年はモダンダンスとの融合、何やら奇妙なストーリー性もあって、伝統と言いながら意外に新鮮。プーチンズ改めザ・プ~も久々に。秀逸は恒例のポリスキル。黒田の「怒り」演技は毎回マックスで、それを笑うような芸だが、今回は自然に湧き上がる怒りをみた気がしたのは・・映画「恋人たち」(黒田氏出演)が頭をよぎった。

三人姉妹

三人姉妹

桜美林大学パフォーミングアーツ・レッスンズ<OPAL>

PRUNUS HALL(桜美林大学内)(神奈川県)

2017/12/17 (日) ~ 2017/12/24 (日)公演終了

満足度★★★★

OPAL桜美林・鐘下組学生による高ボルテージ芝居は「汚れつちまつた悲しみに」以来二度目。訪れた甲斐あり、「ボルテージ優位」ゆえの演技のばらつきや、拙さを全く意に介さない緊迫の二時間。三人姉妹まで鐘下流に組み敷いたかと、唖然とした。

ペール・ギュント

ペール・ギュント

世田谷パブリックシアター+兵庫県立芸術文化センター

世田谷パブリックシアター(東京都)

2017/12/06 (水) ~ 2017/12/24 (日)公演終了

満足度★★★★

初めてライブビューイングなるシステムで、冒頭は欠けたが何とか「観劇」にこぎ着けた。40~50人位の「観客」のうち、98%が女性(恐らくたいはんが主婦)。2%が私。映画館の画面ではアップもあって見やすく迫力もあるが、撮られた画(たとえ生でも)と判る映像では1枚壁を隔てた感じを否めず、熱量は伝わらない。終演しても拍手は起きない(多分外国なら起きる。根拠はないが)。逆に定点で撮影し、遠慮がちにパンやズームを使う程度なら、違ったか・・これも判らないが、「制約」の中で観ている共感が醸成されたかも・・だがそれだとチケット代に不服が漏れそう、そもそもDVD化を兼ねての撮影だろうし、云々とあれこれ考えた。

終演後の挨拶で日韓合作という文句を主役の浦(あれなんだったっけ)氏が連呼していたが、手練れの韓国人俳優たちも存在感を示す。日本語でも喋るが時折韓国語で喋り、そこであの韓流コメディ特有の甘えっぽく「文句を言う」抑揚が耳に入った時、韓流流行りの全盛期とは違って聴こえるのを感知。
韓流モードで聞けば笑えただろうが、笑いに繋げる表現、そのモードを作る難しさや、表現の彼我の違いを超える事、などについてふと考えた。米国式のらしい(振りの多い)表現というものもあるが、果して押し並べてそうなのか、万国共通普遍の表現とは、とか。。
考える余地が生まれるというのも、ライブビューイングならでは?などと「考え」たり。

韓国人演出家のとにかくも才気を感じさせる箇所が随所にあり、個人的には辻田暁の舞いがかくも秀逸に舞台上に嵌め込まれていて嬉しく、両国ともに魅力ある俳優の見せ場があり、ペール・ギュントの旅というフォームを借りた大々的見世物小屋の様相。

ペールの旅は最後に望ましい場所へ導かれる旅ではない。近代演劇の祖イプセンの異色の作品だが、どことなくの作者自身の人生を老境にあって見つめた作品に感じられて来る(何歳に書いたかは知らない)。人間の生き方を厳しく問うイプセンはそこにはなく、「お前は何者であった(あり続けた)のか」と問われて答えられない老いたペールを、否定も肯定もせず、優しく結末へと誘っていた。

アカメ

アカメ

wonder×works

座・高円寺1(東京都)

2017/12/13 (水) ~ 2017/12/17 (日)公演終了

満足度★★★★

当日夜の戯曲賞公開審査の審査対象となる作品を直前に観劇という格好。審査会でも「先程舞台を観たが...」と前置きして感想を述べる審査員もいたが、審査会での言い得たコメントが自分の感想を上書きした可能性もありつつ少しく述べれば、
マキノノゾミ氏の寸評に同意したのは説明台詞を端折る作者の「書き癖」。端折り過ぎてよく解らないまま通過した箇所が幾つかあったり。一方、比較的淡々としたやり取りが(人里離れた酷寒の山間のレストランに似つかわしく)続くかと思いきや、ちょっとドラマティックな展開に持って行こうとする後半の箇所で、「別に盛り上げなくていいかなあ」と、思う自分が居てしまった。冬山で、動き過ぎるかな、と。(年を取ったせいか。。)
人物らの逗留の目的は、鹿狩り。が、ディアハンターたちの狩りの「現場」はここで当然だが語られるのみ。だが騒がしい混乱の最後、正面の窓の向こうに鹿が姿を現す。この造形は素晴らしかった、

前世でも来世でも君は僕のことが嫌

前世でも来世でも君は僕のことが嫌

キュイ

アトリエ春風舎(東京都)

2017/12/14 (木) ~ 2017/12/24 (日)公演終了

満足度★★★★

仕掛けられた爆弾で死ぬ、がピリオドの幾種かのシーンが重ねられる。フリダシに戻って「またかよ」とこぼす〈主人公〉?が振舞いを変えてみたりしても結局無駄、というオチがつくバスジャックのシーンが相対的に多いが、自分が乗っ取るバスに爆弾を仕掛ける行動には解かれるべき疑問があるのに多くを説明しない事、などから、これは様々な連想を喚起する仕掛けとしての演劇、具象のようで抽象である絵画、として観てしまった。
テンポはよく、何かすっきり感もあるので背後関係の整合性は考えられているのだろう、位が関の山。
死、すなわち命の扱いが演劇の中でゲーム感覚に軽くなっていくプロセスを、突き抜けた先の感覚麻痺が狙いだとすれば、その意図は買いである。
何度も訪れる爆死をさほど嫌悪感なく受け入れられたのだったが、やはり、というか、リアリズムに軸足を置かない芝居=抽象世界は記憶に残りにくい(個人の感想だが)。抽象世界にはその世界に雄弁な方途、視覚的聴覚的な刺激の創出が、通常以上の意味を持つのではないか、などと考える。その意味で今回の舞台、言葉だけの「一人歩き」を免れた点が評価されようが、この挑戦にはもっと上があるような。。

『北国の春』『サド侯爵夫人(第二幕)』

『北国の春』『サド侯爵夫人(第二幕)』

SCOT

吉祥寺シアター(東京都)

2017/12/15 (金) ~ 2017/12/24 (日)公演終了

満足度★★★

漸くにして鈴木忠志演出舞台を観た。

ネタバレBOX

「北国」「サド」両作品か、一作品+トークか、という所で、予約状況により「北国の春」のみ観劇。観終えた後少々後悔した(二作品観ればよかった)。
「北国」は鈴木作であり、「演出」の職人(と評価されている)鈴木忠志の真価は「サド」に拠らねば知れなかったなァ・・という感想。
「北国」は現代の引きこもりをテーマしたというが、劇として判りづらい。恐らくは劇的なるものの情報は台詞に託され、「形」には見られない。
作品概要を少しでも知った上で観るのが正解だ。(が、どこで知るのだろう。)

吉祥寺シアターの最後列からは、動きが見えず、元々動きの少ない舞台。しかも照明が自ら機具を持って顔に当てるというもので、全体が暗くて見づらい。声はするが、誰が発しているのかも認識しづらい。能が例外なく人を眠らせるのもそういう効果だ。

上演は利賀の舞台が想定されたもので、吉祥寺シアターは良い劇場だと鈴木氏がトークで言っていたが、利賀にはない後列座席への気遣いはしていないに違いない。ちゃんと観たいなら利賀へ来なさい、という事か。確かに、利賀山房(行った事はないが)を想定した時に成立するあれこれを、後から想像することはできる。だが一応お金は取るのだから、上演するならその場の条件で「どう見せるか」を考えて欲しかった、とは無理な相談か。
利賀には一度、と願ってはいるが・・・
荒れ野

荒れ野

穂の国とよはし芸術劇場PLAT【指定管理者:(公財)豊橋文化振興財団】

【閉館】SPACE 雑遊(東京都)

2017/12/14 (木) ~ 2017/12/22 (金)公演終了

満足度★★★★

space雑遊もはずれが殆ど無い劇場の一つ(個人の感想です)。公演そのものが上質(利用劇団も上質)という事もあろうが、劇場の作りも恐らく無関係でない。芝居の世界と現実世界の境界を意識させない、舞台の熱量が客席にダイレクトに伝わる・・。理由は判らないがスズナリも雑遊も、「黒」(闇)が蠱惑的だ。

桑原裕子作演出@アルカンパニー『荒れ野』には期待しこそすれ不安など過ぎりもせず。三浦大輔作演出@アルカンパニーも雑遊で緊迫の舞台だったが、そのハードル?をものとせず桑原女史の筆が乗った様子が浮かぶような気持ちの良い舞台だった。冒頭、鼻歌から熱唱に至る「あなたならどうする」。音楽畑の中尾諭介の耳をくすぐる美声で幕を開ける。掴みはOK。深夜の大規模火災から逃れて、知人の女性のマンションの一室にやってきた三人家族(父母と学生の娘)。ところが一人暮らしの彼女の部屋には一組の親子が我が物顔に出入りしていた。
一軒家を建てた家族は、マンションのテラスから火災の方向を見ながらも、この距離は「家(家族)」の現在と歴史を、客観視することを可能にする。設定のうまさ。謎の親子の正体が物語の傍流とすれば、本流は避難してきた家族、特に夫婦関係と、学生の頃からの知人である独身を貫く女性(部屋の主)との関係。家が無事かどうかを見届ける事を諦めた後、深夜となった後半、話は現在から過去へ、本腰を入れて突入。ビビッドな話題を推し進めようとするのは妻。学生時代から夫は部屋の主の女性に思いを寄せていて、今もそうだ、それが証拠に・・。増子倭文江が、妻役を実に実に好演(「ボビーフィッシャーはパサデナに…」を彷彿)。
桑原女史の<おばさん愛>が涙に霞む、一夜の物語である。

管理人

管理人

世田谷パブリックシアター

シアタートラム(東京都)

2017/11/26 (日) ~ 2017/12/17 (日)公演終了

満足度★★★★★

トラムは小劇場と言われるが、本多と同様決して狭くない。天井も高い。その舞台いっぱいに奥行きとタッパのあるアパートの一室がズドンと、イイ具合にリアルに作りこまれ、のっけから目がさめる。記号としては窓のある奥の壁、そこから手前に広がる舞台式遠近法(右端の席だったが横の壁がギリ見えた)。唯一の出入口(ドア)が下手手前。右手前と左手奥にベッド。これらをランドマークに見ようと身構える。が、程なく「人物」にひきこまれた。
男3人の芝居。アパートの所有者、及び住人である若い兄弟(溝端&忍成)、そこへ連れられて来た中年(老年?)下層労働者(温水)。場面は暗転を挟み、時系列で進むが、観客は「初めてこの部屋にやってきた」労働者の視点で、謎めいた兄弟を眺める事になる。失職したばかりの労働者にとって、招き入れられた場所=アパートは重要なアイテム。このアパートと兄弟を巡る事情が少しずつ明らかになる経過と、労働者がふいに手にした恩恵を増幅させようと(まるで僅かな稼ぎを一攫千金とギャンブルに投げ出すノリ)奇行に走る哀れ。考えの無い行動が引き起こして行く結末は、不信仰なキリストの弟子らを思い出させた。私らの日常の中でも生起しては過ぎて行く何とはない光景を、ピンターは人生の本質を照らすものとして(あるいは、であるかのように)、絶妙な筆でサスペンスフルに描き出している。
ピンター作品初見は数年前の新国立『温室』、深津演出は美術が抽象的、演技も機械的で残念ながら「戯曲」を読んだ面白さを超えなかったが、今回の森新太郎演出は(演目は違うが)美術も衣裳も、演技もリアルベースで見せた(通常の)劇。リアルな人間像から立ち上る奇異さ、不気味さが、観る者にとっては快感。終演後に拍手したくなるのは役者が体を張って表現したものを受け取った、という実感からだろう。
著名俳優の競演には逆に心配もよぎったが予想外の(失礼ながら)出来。

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