『部屋に流れる時間の旅』東京公演 公演情報 チェルフィッチュ「『部屋に流れる時間の旅』東京公演」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★

    ☆思い出し投稿☆
    「現在地」を観たときに通じる、よ~く観て聴いていないと「ほわ~ん」とした時間の流れに心地よく浮かんで流されてしまう、静かな演劇。「現在地」より音楽は押さえ気味か。その分、親切でないが、言葉で広がる世界を重視したのだろう。
    「現在地」は震災後の人間の「関係」と「心」に起こり得る現象を、先取るように描こうとした意欲作だったが、「恐れ」が現実から目を背けさせ、今に安住させる、ある種の自己操作を行なう人間のあり方が対話の中で顔を覗かせる。被災地にとどまる人間の心情を台詞化したようなもの、と私は感じ、「だから何だ」と思わなくもなかった。
    「とどまる人々」が蔑視される現実どころか、「脱出した人々」が白眼視される現実が、すでに当時、公の部門が被害を「認めない」姿勢から必然に導かれることへの心配のほうが大きかった。

    今回は、大変シンプルな、三人のみによる舞台だ。現在を生きる夫婦(恋人同士だったか)の家に、男の元妻だった女が霊として登場し、特に後半は延々と、自分の死を含むあれこれを語る。能のイメージが重なった瞬間もあった。三者は会話を錯綜させず、「現在・未来」へと向かおうとする女と男、過去の事柄を語り続ける女とその話を聴く男・・その単純な構図も、そのイメージに繋がるものがあった。
    が、言葉の大半が耳に入って来ず(例によって睡魔にも襲われたが)、どの被災について言っているのか、あるいは特定していないのか、焦点はその「災害」にある事を十二分に仄めかしながら、台詞の大部分はうまくそれを回避し、十二分にじらして「それ」に触れる、というそんなテンポで進行していたように記憶する(眠っていた時間のことはいい加減に書けないが)。
    このテキストの「効果」は、日常の中に「災害」の事実を、いかに忍び込ませるか、という戦術上の効果だ。そして、それ以上ではない。
    マス=不特定多数を意識する(とみえる)岡田氏は、被災の事実を多くが忘れているマスの大衆の感覚に寄り添いながら、周到に、「災害は、ホラ、ここに私がいるように、あったんだよね」と、やんわりと触れ、そして「災害を思い出す」地点に軟着陸させる、という事になるのだが、この「効果」のみに照準し、それのみを言ったという、この舞台をどう捉えれば良いのか私には分からない。
    ある人々に対しては、大変有効な戦術なのだ、という事になるのかも知れない。政治的・時事的な事柄を扱う芝居は、受け止め方に大きな差が生じるものだろう。が、私にはこのリマインダー公演、総じて情報量が少なく、(台詞の)目新しさもなく、ネームバリューが料金を引き上げているな、というのが今の正直な感想だ。

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    2017/07/25 00:20

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