満足度★★★★
イキウメ初期作品を改作、私はオリジナルを知らないが宣伝文句によればプレイヤーとは即ち身体を失った者(=死者)の言葉を再生する者(いたこ的な)であり、改作版ではオリジナルの劇が劇中劇になっているという。
前川知大=イキウメのテイストはもちろん充満しているが、ある部分で長塚色(といっても三作品ばかりしか知らないが)が顔を出す。
超常現象の介在により、「科学」の仮面をかぶった「常識」の向こう側を予感させる時、イキウメの場合は不安と希望が混在した中、不可知領域に粛然としながらも「希望」にもなり得る可能性が救いとなるが、長塚圭史の人間観は暗い。プレイヤーという人間の新たな可能性が示されても、だから何だという感覚、それによって人間はどう存在し続けているのか、という眼差しが容易には変らない。だがその眼差しをすり抜けて事態が先行する可能性、そう考え得る余地は残される。
脚本としては主要人物の最後の行動は言行不一致に結果し、動機が分からないがドラマとしては引き締まる、という流れを優先していたかに見えるチョイスは、前川氏はやりそうになく、暗いが情緒的な劇世界に傾く長塚氏のチョイスというのは外れだろうか。
この芝居、ある地方作家の遺作であり未完成の戯曲を舞台化する稽古場が舞台。稽古風景と、劇中劇の展開がやがて交錯して劇だか現実だかが不分明となる。これはむろん意図的で、宣伝文句にも謳っている様相な訳だが、甚だ心地よい。もっとも目的は心地よくするためでなく、最終的なオチの迂遠な伏線であったという風にも言えるのだろうが、思いつく結語なのにかかわらず、意外に納得させられる終幕だった。
このお話が人間の体温の流れるドラマであった事を証しし、得体の知れなさも残るという、不安と希望の混在という本来の(人間にとって望ましい?)地点に帰着した。