
ミセスフィクションズ夏の振替上演・上映会
Mrs.fictions
駅前劇場(東京都)
2018/08/17 (金) ~ 2018/08/20 (月)公演終了
満足度★★★★
Mrs.fictionsの長編舞台初観劇と期待した「月がとっても睨むから」の代わりに、『花柄八景』を映像で観た。ある劇場主催の落語縛りの企画に書き下ろしたものという。落語好きにも嬉しいディテイルが押さえられているだけでなく、ドラマトゥルギー的にも一々適ったりの筋立て。
TVで大失態を演じ、弟子にも逃げられた失意の師匠のくだりが一景、以後パンカーのカップルや、謎めいた少女、訪問販売員となった元弟子が師匠の部屋を出入りするようになる。八景とも師匠の部屋が舞台だが、バラエティに富む各場面とも収まり良く、景ごとに丁寧にシーンが仕立てられているあたりも何処となく落語の小咄の尺と小さなオチを踏襲するかのようで好印象。でもって物語も円満なラストを迎える。
冒頭の師匠の高座での喋り「地獄八景亡者戯」が振りとなっていて、珍妙な連中を弟子に入れて二つ目だ真打だと昇格させている一見元弟子の目にはヤケに映る師匠の振る舞いも、無念の内に実は死んでいた師匠の亡霊か、と。そうみれば納得もでき同情心も湧く。巧妙なのは師匠が既に亡き者なのか、今のは達観しきった姿なのか、確定できない曖昧さを残している点。
仕事の合間に暇を見つけては縁側に座って中の様子をみている元弟子が、師匠の姿を通して落語への愛を見いだして(思い出して)いる事だけは確実で、師匠が幽霊であるか生者であるかはその事にとっては二次的な問題だ。
・・「面白ければいい」言葉には出さないが、型破りなキャラと喋りのパンク男とパンク女、掴み所のない少女を通して、師匠はそう言いたいのではないかと想像されて来るし、実際観客は彼らの喋りを面白いと感じる。もっと聴いていたいと思わせる喋りの魅力を放たせるのに成功している。(「ねえ、あれやって」と少女に乞われてパンク女が一くさりオープニングを語るのが「シド&ナンシー」で、彼女が最大のリスペクトを捧げてそれを語り尽くすだろう事が全身から伝わって来るので、さわりだけやってお茶を濁したようには全然見えない。)
こんな落語があって悪い事はない、こんな落語家のなり方があっても構わない、落語の定義など誰が知っていようか・・そこに落語がある、そう思われればそれは落語だ。そして江戸の粋、これを説明する無粋を働きはしないが、武骨で馬鹿正直なパンクゆえにぶつかりあっているカップルは存在そのものが落語の登場人物をそのままにして体現しているし、「自分には何もない」事を一切恐れない存在である謎の少女も、相通ずるものがある。
彼らとのハチャメチャな師弟生活を営む師匠を眺める元弟子の眼差しも(恐らく)変化して行く。2013年の5人芝居。

記憶の通り路
東京演劇集団風
レパートリーシアターKAZE(東京都)
2018/08/28 (火) ~ 2018/09/02 (日)公演終了
満足度★★★★
名前だけは随分前に知っていた劇団。何と言っても目を引くのが<レパートリーシアターKAZE>なる自前の劇場だ。アトリエを持つ劇団は多いが、間借りのため制約があったり、古びたそれらとは一線を画して、表に高々と看板を掲げた十割自前な劇場である。大久保通りを背にして右手にある天井の高い展示スペース(普段は舞台装置やトラックでも収納しているのだろうか)の受付机で受付を済ませると、左手の建物の1階入口でなく、幅の広い外階段を昇って行く。幅が広いせいか?負担感がさほどない。体感的には2・5階ぐらいか、入ると階段式客席の裏手で、ぐるっと前に回って客席へ登っていく。そこにはこの劇団が望んだ理想的なサイズの劇場空間があった。水が張られた長方形の背後に板があり、照明を当てられた水面の波紋を映して絶えず影が揺れている。天井高く周囲は黒の闇に吸い込まれている。開演後「板」は動いてその浅いプールの屋根となったり、上へ引っ込んだり・・舞台上の視覚美が一貫して保たれ、詩のような幾つかの場面が重ねられていく。
さてその舞台。今年は30周年企画として数公演を掲げ、今回は何年か前に話題となったタイトル『なぜヘカベ』の作者による新作(この作者のものは幾つか上演している)。チェーホフ、ブレヒトと海外作品を中心にレパートリー上演を重ねる劇団の今回の上演は単体で評価できないものがある。(→ネタバレへ)

スマートコミュニティアンドメンタルヘルスケア
ホエイ
こまばアゴラ劇場(東京都)
2018/08/18 (土) ~ 2018/08/27 (月)公演終了
満足度★★★★
初演をみたときの正直な感想は、ノリで一晩で書いて推敲せずに出した代物、だった(うん、よく出来たと思う、と山田氏はパンフに書いてたが盛ってるな~と思った)。今回、作品が持つ良さがよく出ていた。会場が春風舎からアゴラに変って劇場が持つ「枠」の堅固さからか、大揺れな中身も安心感を持ってみられた事、また恐らく個々の演技もかなり微調整され「作為」の跡があった。他に見られない言わばぶっ飛んだ世界だが、しかし作る側としては骨のない軟体動物でなく、飽くまで脊椎動物な作品でありたい願望が漂っていて、受け止め方はやはり難しい。

ロリコンのすべて
NICE STALKER
ザ・スズナリ(東京都)
2018/08/15 (水) ~ 2018/08/19 (日)公演終了
満足度★★★★
初。数年前の『日本の劇』賞公演(新見南吉のお話)で純朴な女子学生姿で登場し、ラストをさらった白勢未生の名を見つけて観劇した。役名も白勢。白勢ありきの舞台だった(と私には見えた)。
本筋に当る「現代」の教師とある生徒との(教師の主観で描かれた)エピソードと、それに絡むおよそ2つのエピソードが順繰りに展開され時間経過を刻む。本筋エピソードでの、小中高と成長していく白勢と教師のやり取りの点描が印象的。「現代」とは、実は私達の現代(2010年代)のことで、芝居における「現代」は数十年?先の未来となっていて、その時代に発見された古い文書を元に2000年紀初頭のエピソードを復元した、という設定になっている。発想は面白いが、絡んで来るエピソードの位置づけが判りづらく、一組の男女のエピソード(未来の)が良い具合に煮詰まると、カットアウトで「・・という夢を見た」と話す女性とその聞き役の男との場面に移る。この二人がどの時代の話だったか思い出せないが(どの設定でもなかったかも知れない)ともかくこのエピソードがブリッジとしてはめ込まれているからか、深みの点ではどうにも浅く、厳しいものを感じた。
シーンによってハートウォーミングな展開が見られたり部分的に良さがあった。ただドラマとしては本筋に当たる教師と白勢の物語が、他のエピソードの挿入でお預けを食い、ようやく最後に十八歳になった白勢と教師の緊迫の対面を迎えると、やっと芝居らしくなる。この短いエピソードでは持たないから装飾を施してエピソードを増やしているような具合に見えるのも、リアリティに濃淡があるせいで、やはり「付け足し感」を拭う人物描写が欲しいというのは正直な感想。

お茶と同情 Tea and Sympathy
劇団フライングステージ
OFF OFFシアター(東京都)
2018/08/08 (水) ~ 2018/08/12 (日)公演終了
満足度★★★★
久々二度目のフライングステージ。公演を直前に知って運よく空き日に観劇できた。一回目は2016年「新・こころ」(初演2008)で、その頃よく名を目にしていた関根信一の正体は・・?と思っていたら氏主宰劇団の公演情報を知ったので新宿はspace梟門へ赴いた。実際はその一月前に舞台上で役者姿を目にしていたり、その後の演出作品・講師を務めたワークショップ等、等で正体不明でも何でもなくなったが、ただフライングステージという劇団の謎めきは未だ私の中にあって、また関根氏の演出にはスッキリと理に適った処理の跡が感じられ、気になる事の一つだった。
果たして舞台は二年前観たのと同じ独特な風合い(悪い意味でない)があった。「gayの視点」という事が大きいと思うのだがそのわけは、俳優が舞台上に立つ時(客演もいるし劇団員が必ずしもゲイとは限らないと思いつつも)「当事者性」が香り立つ(観る側の勝手な想像で)という効果が一つ。今一つは、これが重要に思われるが、ある事柄についての「共通了解」を持たない客を想定した提示の仕方(場面の切り取り方や言葉のチョイス)。gayという生き方に纏わる問題(差別・マイノリティといった)を学ぶ副読本かと思う程分かりやすく、前回観た「新・こころ」がやや婉曲表現であったというのもあるが今回はテーマを逸らさず直球であった。問題を立て、それを整理するような具合に、「物語」も一場面一場面が簡潔にまとめられて進む。「誤解」を生みやすい事柄を「説明」する順序の大事さ、周到さにおいて関根氏自身が手練れなのだろうけれど、無駄なく、キャラが明確、悶着あって鎮火、また何かあって落ち着く、という起伏を受け止める潤滑油に笑いがさり気なく、きっちりと仕込まれている。そうして物語はある逃れられない根本的な問題を浮かび上らせる。
普遍的テーマとして表現すればそれは「人に知られると不利益な真実」を抱えた個人と他者との関係のあり方。教育実習生として訪れた学校で主人公の青年は、全校集会での挨拶で「自分の事」を生徒に話しておきたいと希望したが教頭に反対され、他の教員が集まって討議したが結果的に彼は自らその希望を取り下げた、というのが冒頭。以降「彼ら」を見舞う困難によって最終的に、状況の側から「賭けに等しい選択」の道が主人公に用意され、彼はそれに応じるように、進み出る。
本作の解説にもあった米映画の王道と言えるドラマのモデル(感動しつつも日本ではああは行かないよな・・と嘆息が漏れるアレ)が思い起こされるが、言葉を選ぶように発する青年の台詞を、観客は一音も聞き逃すまいと注視していたと思う。・・二週間の実習を終えた月曜、全校集会で主人公は別れの挨拶をする事になっていたが、目の前にいる生徒の間から侮蔑語を投げつけられた事で、彼は逆に自分が本来そうしたいと願っていた言葉を言うのである。勇気を奮ってひと言目を声に出そうとする瞬間、葛藤や恐怖にふいに襲われ、一瞬だが言葉に詰まる。それまで表情に出さないタイプに見えた彼が初めて動揺を走らせる演技には「真に迫る」もの・・手垢のついた言葉だが・・があった。
人が持つ感情をさらりと見せるその瞬間は、それは演劇が普通に持つ力だが、この場合「露見」と言うに等しい。この舞台で持ったインパクトの背後事情は、こうだろう。・・「共通了解のない観客」を想定した、事実を淡々と描写して進行する劇とは、我々の現実>日常感覚から逸脱をしないという事である。「台詞によって説明された状況が役者の身体・顔で後追い的に説明される」と見える形式は、人物を作り上げる演技アプローチと異なり、淡々として見える代わりに、物語の饒舌な語り手となる。高校生同士のやり取りなど戯画化されているが、ボケと受けの掛合いで言うと戯画的形象(ボケ)は受ける側の真実を浮上させるコミット法、笑えるのはリアルが浮上するからだ。
たとえフィクションでもこの物語は恐らく「当事者」にとって日常の、現実の延長にある事を免れない性質の事柄だ。それゆえ殊更心理を説明しない情景描写(現実の光景を見る感覚を逸脱しない)にとどまる事が要求されるのではないか。
青年が一瞬見せた動揺(表現としての)は、テキストの指示に対する身体的「説明」ではあるが、抑制された物語叙述から「露見した」かに見えた(彼ら側からすれば「さらす」事となった)表情にはテキストが必ずしも要求していない(それが無くとも成立する)余剰が見え、それだけに際立った。観客は「事実」を受け取ったに近い出来事としてそれを見たと思う。
清々しく舞台が終わり、立ち並ぶ演者たちの表情には、観客である私達が感じているのと同じ地平にある風情があった。お金を取って舞台を努め「させて頂いた」と、恭しく礼をするのでも、お互いで濃密な劇場を作り上げた共闘者に向ける笑顔の挨拶でもない、素朴で愛着のある表情だった。

したため#6『文字移植』
したため
こまばアゴラ劇場(東京都)
2018/08/11 (土) ~ 2018/08/14 (火)公演終了
満足度★★★★
ポストトークは和田ながら+渋皮まろん、後者が前者の考えを聞き出す質問者役という図になっていて、和田女史の「演出家」職への若い野心を垣間見るトークだった。
窺えたのは和田ながらメソッドの片鱗ではなく、ただ取り組む対象である戯曲を前にしてその料理法を模索する、その自分なりの思考の進め方を持っている、という事のようだ。競技に挑むように戯曲に挑む、この遊びが楽しく、これを仕事にして行けたらどんなに良いか・・成長と拡がりの途上にある躍動がとりわけ伝わって来る。
今春の演出家コンクールでは二日とも和田演出の発表を見逃したから今回はリベンジでもあったのだが、渋皮氏によれば「コンクールとは印象が随分違う」という。だが和田氏は「実は同じなのだ」という。
同じ、とは演出家の姿勢が同じなのであって作品から受ける印象が違う、という事をどう作り手は思うのか、についての返答は聞かれなかった。そこを問題にしない強い作り手なのかも知れないし、自身の中の「これしかない」と思える答えが実は様々な選択肢の一つである事を相対化できていないだけなのかも知れない(相対化できる事が創造者にとって良い事なのかどうかは判らないが)。
さて舞台の方は、小説の地文を4人の役者(男女二人ずつ)が分担しつつ発し続け、しかも様々な「動き」を課せられる。このアプローチは地点を思い出させる。「テキストをどう役者の身体に負荷をかけつつ語らせるか」。演出家の発想が問われる。
私の感想だが、まずこの小説というのが、一人の女性翻訳家が一冊の本を訳す仕事のためにカナリア諸島の中のある島に逗留する、そのかんの主人公の苦闘と現地人との接触がもたらす思考の、一人称による語りなのだが、「翻訳」という作業に伴う苦悩(産みの苦しみ)がよく表現されている、と感じた。文体がそうであるし俳優の動きと語りも小説の世界を舞台上に立ち上げる事に貢献していた。
だがこの「翻訳家の苦悩と彷徨」の物語が万人の興味を持つものかと言えば疑問が生じる。私はひどく親しみを覚えて聞き入っていたが、一歩間違えば「どうでも良い」と思ってしまいかねない心許なさも時折よぎった。
それだけに終盤のアクティブな作りは、渋皮氏によれば前半との間に断絶があり、感想の中には「後半の巻き返しがすごい」というのもあって、この芝居をある意味言い当てていたが、終盤の<それ>はそれまでなぞっていた小説の世界からの離陸ではなかったか。原作を斜め読みすると、終盤主人公が何者かに追われて逃走するくだり、推測だが「翻訳」に伴うありとあらゆる煩わしさを戯画的に表現したものか、「苦悩」のパンチドランカー状態が見た狂気の夢か・・いずれにせよ翻訳の苦しみと、そのために地球の果てを訪れた自分に対する問いの延長に、逃走劇は置かれている・・と想像される。だが舞台のほうは「言葉」を言わせていた前半と、役者の身体ごと主人公の「逃げる」行為を体現する後半では、舞台の成り立ち方が異なり、後半は小説が持つニュアンスから空へ舞い飛んで行った印象だ。だがまあそれも有りなのかも知れぬ。
冒頭、姿の見えない俳優の声(小説の文をリレーで、妙な区切り方をして読んでいる)が響き、やがて照明がゆっくりと入ってくると、横一列につるされた4枚の(顔を隠す程度の)透明アクリル板の向こうに役者が立っている。目の前に飛び込んだのは知った女優の顔(アルカンパニー『荒れ野』で鮮烈だった)、暗闇では「演技しい」な声やなァ位に響いていた四人の声色が、視覚による情報が付加されると別の響きを持って来る。そう言えばチラシには役者名が書かれていなかった。演出家・和田の自負だろうか。・・そんなこんなで声と顔と、動きとを駆使し俳優はしっかりそれらをこなしていたものの、小説の地文を読む、即ちリーディングという今回の出し物にやはりほしかったのは、和田氏が「なぜこれを選んだか」、いや、そんな疑問さえ封じるほど必然に思える何か、である。

排気口
イデビアン・クルー
世田谷パブリックシアター(東京都)
2018/08/09 (木) ~ 2018/08/12 (日)公演終了
満足度★★★★
井手茂太氏による「演劇」舞台以外での、つまり舞踊でのパフォーマンスの鑑賞は初めてが。「それ」と思い出す事ができるのは少し古いがMODEのカフカ作品で、一人苦悩する主人公とその周りでシステマティックに集団化された動きとの対比が演劇的効果を上げていた。
舞踊という抽象性の高い表現形態では、表現された形(シニフィアン)がどの意味(シニフィエ)に対応するかを測りかねる事など「ごく普通」と言えるが、今回はある面で判りやすく、ある面で判りにくい・・その塩梅に特徴があるなとまず思った。
舞台は日本旅館の広い四角い一室、そこをメインに、スケルトンで左右・奥へ広がる空間が「黒」の中に浮かび上っている。要はそこが「旅館」であるのは間違いはなく、判りやすい。登場する人らの衣裳の殆どが着物で、旅館の仲居、小間使い、芸者、番頭といった風なキャラ分けがあり、着物以外を逗留者とするなら三、四人という所。
「何が起っているか」は具さに判らないがニュアンス的なものはしっかりと存在している。「音」が隙なく空間を彩り(音響:島猛)、全体に流れていた音楽が一ヵ所に絞られ、ラジオから流れ出る音に収まるといった、空間を意識させる技から、微かなノイズでも意図的だと分かる技術(性能)が、照明ともども空間の解像度を密にしている。これに見合う緻密な身体パフォーマンスになっているかと、目を凝らしている瞬間があった。
旅館での様々な人間模様が、描かれているに違いない。ただそれら一つ一つの「出来事」よりは人間観察の眼差しの行き着く先(人間観、のようなもの?)が、表現したいもののように思われる。ただそれが何かを明示する事はできない。できないが、終りに向かうにつれ輪郭と呼べるものを掴みそうな予感、のようなものはあった。
目に入ってくる形には「意味」を意識させるものがある(これが井手氏の振付が演劇向きな理由か)、が、実際のところ「逐語的」意味は伝えたい目的ではない。技術的に高度なのかそうでないのかも私には判らないが、快い瞬間は多々ある。ただ身体パフォーマンスの視覚的な快感に素直に浸れないのは、「意味」がチラついてそれを読み取ろうとしてしまうからだが、終局、そうした「意味」の片鱗は全体の中に溶け込んで、「意味」を成しえないものとしての人間の風景を見た、という着地であったように思う。時折見えた人物の表情や何やが、「見た」実感を支えていて、自分が「見ていた」のは人物たち(それぞれが担った役の?)だった気がする。
観劇の大きな要因は宮下今日子の名を出演者に見出した事で、今作でも私の目にはこの役者の実在感が半端でなかったが、特徴的な存在は他にももちろん居て、「場面を演じる」姿として強く色づけされている。総員がキャラを担って「物語」を構成しているらしい事は、判る。残影は群像劇の躍動より、そのバラバラ感にあり、哀しげであるのだが。

福島三部作 第一部「1961年:夜に昇る太陽」
DULL-COLORED POP
こまばアゴラ劇場(東京都)
2018/07/21 (土) ~ 2018/08/05 (日)公演終了
満足度★★★★
意表を突かれた内容だった。数年前アフタートークか何かで谷氏が福島取材について話していたが漸くお目見え、しかも三部作に結実する第一弾とあって期待全開、否、怖々覗き見た。
第一話は高度経済成長期の日本の地方と東京の構図が軸になっている。その二つを結ぶ鉄道の車中が、当時流行った歌謡曲(失念)がゆったり流れる中ムーヴで示され、一人去り二人去って残ったのが、物理学専攻の東大学生(主人公)、そして男女のカップル。行先は共に主人公の実家福島の双葉町とあって意気投合。芝居の主たる舞台はその双葉町、「日本のチベット」福島県の浜通りである。3年後の東京五輪もまだ遠い(情報伝達状況も当時は違う?)、だが未来は仄かに明るく、貧しくとも活力溢れ、戸外には子どもの世界が広がっていた時代、古き昭和の戦後の人びと(特に地方の)の意識・風俗がいささか戯画的にこれでもかと描写される。そ田舎へ、原発立地の話がやってくる。
「流れ」に抗うのが如何に厳しかったか、今振り返れば嘘であった「安全神話」を如何にして言い含められたか。そこにどんな「ドラマ」があったか。既に知られている歴史を辿る話ではある。だがそれだけに誘致の話がまとまった時、複雑な思いで見守る主人公(孫)に祖父が念を押すように三度言う「おまえは反対しなかった」、最後には泣きが入り、確信犯的に「現在」の目が重ねられる。それが反則にならず演劇的場面として成立した時、この話を始めた発端の事実(原発事故)が迫ってくる。

self document 01
早坂企画
アトリエ春風舎(東京都)
2018/08/03 (金) ~ 2018/08/05 (日)公演終了
満足度★★★
設問として掲げられた「嘘と本当」、こいつは演劇では一筋縄でない代物なわけで、この言葉を無前提に口にした時点で、発話者の嘘っぽさが滲む。というわけで「嘘と本当を見分ける」などという誘導には一切乗らず(乗れず)、それに代わる何らかの提起を待ったが、眠気に襲われない時間内にそれを発見する事ができず、終わってしまった。名乗られつつ姿を現さない名である(主宰の)早坂彩が、最後まで登場しない事により、結局真剣に観てもピースは埋まらないパズルを眺めさせられていた感。
うまく相手を喜ばせるための嘘になっておらなかったのでは・・と。「本当」を開陳したい衝動が「嘘」を支えている、あるいは本当を浮き彫りにするためにこそ嘘がある、というのが演劇における「本当と嘘」の関係であるなら、本来「嘘」だらけである演劇では「本当」にフォーカスするのが正しい探求の態度ではないか・・などと遊びのない理屈もつまらないものの一つではある。

枳殻の容
TOKYOハンバーグ
小劇場 楽園(東京都)
2018/08/02 (木) ~ 2018/08/05 (日)公演終了
満足度★★★★
作・演出大西氏の知己に当る実在の人物(サッカー界では有名らしい)が話の題材で、しかも女性による一人芝居。全く予想できない舞台風景を確かめようと「楽園」へ赴いた。主人公(舞台には居ないそのサッカー選手)の生前のパートナーが、永田女史演ずる役。これは世に最もありふれたドラマのシチュエーションだ。だが私の知る(さほど知ってはいないが)TOKYOハンバーグは単なるお涙頂戴にしないはず、と、さして根拠があるとは言えない予測をしながら、見始めた。大西氏の芝居は「後から分かってくる」印象があるが今回も例に漏れず。ただ作りは非常にシンプル、ほぼ時間経過に従って話は進んでいたように思う。特筆は一人の人間の(有限の)命という「概念」に還元せず、「彼」の実在感を空間に止めようとした事。生きた時間こそ愛おしい。媒介者である彼女が、それに全力で臨んでいた。

死ンデ、イル。
モダンスイマーズ
東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)
2018/07/20 (金) ~ 2018/07/29 (日)公演終了
満足度★★★★
1年強に1作ペースで打ち続けた劇団最新公演3作の一つ。どれも思い入れがあるが三部作中もう一度観るならこの作品だった。
この初演(2013)の一つ前、2012年吉祥寺での「楽園」再演(何かの賞を取ったらしい)は、私にはどこか限界感が感じられた公演だった。舞台総体はともかく俳優(個人)の背後にざわつきが見えてきて、この煮詰まりは「劇団を続ける意義」にまで及ぶ性質のものに感じたのだ。
劇団活動を着実に続け、やがて評価も高まったある時期に恐らく、劇団が揺さぶりにあう。劇団に帰属する事の恩恵と「出世」(映像に起用される等)の可能性とを天秤に掛ける瞬間、というのが一般的なのだろうが、さういふ状況を舞台から何とは無しに想像してしまった(俳優の周辺情報など一切知らず、単なる想像の先走りかも、だが)。少なからず食傷と幻滅に沈んだある時、webサイト上に劇団を刷新するPRが載っているのを見た。新人女優一名の入団、入場料一律3千円、劇団の原点に立ち返って先を見通し、探っていく・・イノセントな宣誓の文句が連ねられていた。
再生モダンスイマーズの第一弾が『死ンデ、イル。』である。「再出発」のきっかけが大なり小なり、東日本大震災の影響にある事は想像に難くなく、スズナリで上演されたこの芝居は被災地からの避難家族の話だった。
この時の舞台の出来は(少なくとも私の観た回は)あまり良いとは言えなかった。新団員の初々しくも拙い演技、スズナリという場所、震災にまつわる話である事、客演や古手の演技スタイル等々が、有機的に作用し切れず、「試み」の第一弾はギクシャクしたものだったと思う。が、新たな船出を期した記念碑的公演になった事は確かだ。(後の二作にも通ずる質的な何かを言い当てたいがうまく言えない)
今回の三部作連続上演は、新しい作品順のプログラムとなったが、再生の原点に照準が据えられた事に納得をする。個人的な話、この演目の番が回って来るとやはりこれは観て置かねばと急き立てられる思いになり、当日券に並んで後方の座席に座った。
シアターイーストに場所を変えた『死ンデ、イル。』はその事だけで一見小洒落た芝居に成り変わっているが、蓬莱戯曲の極小なドラマの手触りどこでやろうと変わらない。極小から視界を引いても細部の確かな遠景を見る事を約した舞台の水準は、入場料とのバランスで言えば笑ってしまう程だが、この劇団はやり抜いた。

草苅事件
しむじゃっく
高田馬場ラビネスト(東京都)
2018/07/21 (土) ~ 2018/07/29 (日)公演終了
満足度★★★★
スタッフ欄でよく名を目にするしむじゃっくを初観劇。肋骨蜜柑フジタタイセイ作・演出、即ちしむじゃっくプロデュース公演。
何やら賑やかでB級だけどそれが自由さで、面白味があった。狂躁曲に踊る「会見」の時間は演技態もリアルベースに非ず、冒頭とラストの「会見」前後の清掃員との肩の力を抜けた(ナチュラルな)会話にむしろ不得手感が滲む若者の舞台。
フジタ氏の戯曲には一、二度まみえたが現代思想の言語を大胆に台詞に織り込んでしまう。今回はヴィトゲンシュタインの「語り得ないもの」の解釈がさらりと語られ、ドラマに接続するにはあまりに大上段で面映ゆい台詞なのだがなぜか収まりが良い。(この書き手の戯曲の収まり所を言い当てているかも知れない)
記者会見場。とある文学賞の最優秀賞受賞作の作者が来席しておらず、代理人と称する女性が「受賞に値しないので辞退する」と告げにきた事に発して、紆余曲折の後のラスト、「その小説=物語は読んだ人の中で実を結んだに過ぎず、実際は白紙であった」という結論に向かう。ここに及んで脳内補完機能は発動、「観念として捉えれば面白い」モードで急場をしのぎつつ、「ドラマじたいは破綻」という結論を受忍すべく脳は体勢をとる。
この極論を場内の人物らが受容する事はリアルにみれば「狂気」であり、実はその様を描きたかったのでは(その線は役者の力量を超え、演出もそこを狙ったと思えなかったが)、そんな解釈を促す「飛躍」は、思想領域が純粋に生きる抽象世界を舞台化したい欲求から来るものだろうか。
役者が生き生き、楽しく演じている事が劇のアトモスフィアを醸成するという事があるが、この芝居での俳優のそれは「楽しく」もキワ物の部類、だがそれでもその効果はあるという事のようで、ともかく悪い気分でなかった。

青色文庫 ー其四、恋文小夜曲ー
青☆組
ゆうど(東京都)
2018/07/13 (金) ~ 2018/07/19 (木)公演終了
満足度★★★★
青色文庫と聞いて昨年アトリエ春風舎でやった歌入りの回(何故歌だったかも憶えてないが)の鮮烈な記憶が蘇り、今回さらに古民家での上演というので良い事ばかりを期待して(夏だし)、観に出掛けた。
変則形はなく、折り目正しいテキストの上演であったが、皺の数も分かる間近な距離が実は特殊であった事実はいつしか忘れ、成り行きを見守る。客席が組まれた四角のエリアの左手の廊下が役者の下手側の出はけ通路、こちらに小庭が見渡せるガラス戸がある。狭いステージの上手は壁、手前側に90㎝幅位に開いた別室への隙き間があってそこからも登退場。正面、左手に床の間、そこから右の方へ壁に組み込んであるような調度がうるさくなく配置され、そこここに硝子椀の中に灯された灯り(蝋燭?)が置かれる。
完成形のパフォーマンスをみたというより、青組が向かう所へ探り歩く時間を共にした、という感覚だったのは距離のせいだろうか。こう書くと、「模索」の段階に立ち合った感覚だった、要は正解に達しなかった舞台という内実を婉曲表現しただけのようだが、古民家とは言え日常領域の浸食を許している空間での、朗読である事とはそういう事でもあると思う。
朗読。前半は文豪が残した文(ふみ)の朗読、珍品を愛でる時間。藤川氏が読んだ松井須磨子へ宛てた島村抱月の長い泣き言のような手紙は感情を込める程に滑稽で笑えた。説明し過ぎる位にしつこく書かれているから観客を置いていく事がない。一方、女性同士の思い合う二人による往還の文は、二人の関係性が知られていない事と、比較的短文である事から、もっとゆっくりと、隠微に、仰々しくやってくれても良かった。親切にやるなら、という話だが。
親切と言えば、後半は吉田女史自身の戯曲からの抜粋で、着想はユニークだが劇の一場面の再現は、劇の「感動の再現」をもっと直截に狙って良かったのでは・・とも思った。例えば「海の五線譜」の、あの場面・・と朧ろに思い出す感動の箇所が再現されたのだが、物語の筋と人物の再構成が自分の中で追いつかず、取りこぼした感があった。観た芝居がそうであれば、況んや・・という事で、「手紙の紹介」が趣旨ではあっても、観客が「感動」へ飛び込めるよう演者は真摯に演じてくれていたものの、出典を知らなければ言葉の背景が分からない。戯曲の一部である以上それは致し方なく、従って出し物としてはこれにストーリーを補完する言葉を追加する、という事を欲してしまったのだが、それは邪道だろうか。

私は世界
ワンツーワークス
赤坂RED/THEATER(東京都)
2018/07/20 (金) ~ 2018/07/29 (日)公演終了
満足度★★★★
今まで観たワンツーワークスの印象通りの芝居。ドキュメンタリーシアターを主にみて来たから、別物を期待したが。ただし作り込まれたムーヴが冒頭あり、名物(らしい)を堪能。
さて、シリア入りしたフリージャーナリストが武装組織に拘束された例の事件(未だ帰還せず)を扱った劇である。
これを「自己責任」のワードで日本の若者の就職難や格差問題と関連付け、我々の日常と地続きに捉えようとした狙い?と思われるが、成果については微妙だ。「概念」を橋渡しに用いて概念の域を出ない事がもどかしい、つまり私の日常感覚に迫るものが薄まった。それは橋渡しとなる日本の現状についての言及が、(それを担う人物を据えてはいるが)一般的な説明を超えないように思えたからだろう。
以前チャリT企画が後藤某さんのISによる処刑事件を40分の劇にしていたのは優れた「説明」になっていたが、考察に必要な情報量と論理構成ゆえだ。
今作はドキュメンタリー性を排してドラマに寄っている。ならばもっと人間を描くドラマに徹して然るべきでは・・?と。

消えていくなら朝
新国立劇場
新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)
2018/07/12 (木) ~ 2018/07/29 (日)公演終了
満足度★★★★
蓬莱竜太の新国立書下ろしは二作品あった(『まほろば』『エネミイ』。忘れていたがどちらも観ていた。『まほろば』は再演で)。
宮田慶子芸術監督としての最終演出作という事で、「大味にならないかなァ」と一抹の懸念を抱きつつも(それで人を誘うのを躊躇ったが)、初めて目にする「誰も並んでいない」10時のチケット窓口で当日券を購入。
繊細な蓬莱戯曲と宮田演出の相性は悪くなかった。逆に、ナイーブな台詞で互いを刺し合い液状化する家族の劇は、新劇風笑いのテイストが良い具合に相殺して「ちょうどよく」なったかも知れない。
東京で演劇を続けている主人公は「公共劇場で上演される舞台の戯曲の執筆を依頼された」と、家族に告げる。十数年ぶりに訪れた実家には兄、妹も来て、独特の歓迎ぶりである。家に寄りつかなかった主人公への文句か嫌味か、はたまた純粋な質問かが口から放たれ、家族でない唯一の人(主人公が連れてきた恋人=女優)に聴かれることも厭わず感情が露わになっていく。応戦する主人公との言論戦は当初の「いささか粗野な挨拶」から離陸して次第に本音合戦となる。
蓬莱の台詞はどこまでも、台詞が足されるたび実在しそうな人格が輪郭を露わす補助的な役目を果たしている。ドラマをドラマティックにするための台詞というよりは、最もドラマティックであり謎である「人間」に新たな陰影を加えるためのものだ。・・とベタ褒めしたくなる程、人間本位の戯曲を書く人だと近年益々思う。
屋内の広いリビングに母、父、長男、妹、自分、恋人。そこから戸外に出ると、波の音がしていた。主人公と恋人が会話する場所として2,3回使われる、ただそれだけなのだが、設定を海の近くとした。恐らくは蓬莱氏が十代を過ごした能登半島のとある町なのだろう。終幕、背景にうっすら陽光が滲む程度のどんよりとした雲がホリゾントに映る。これも恐らく日本海の空だ。ドラマの骨格に関わってこないので、台本指定ではなく宮田演出の計らいだろうと思う。演劇人という設定といい、この芝居は蓬莱氏自身が濃く投影されたドラマである。
家族環境は特殊でも、1つずつを見れば誰にも起きる普遍的な人間の姿であり、あり得る心のすれ違い。孤独。人間の業。そして、罵りあう事の根底にある繋がり(これを否定すべきなのか肯定すべきなのかは分からないが)。
当日は学生の集団観劇、席の4分の3は高校生?の制服が占めていて圧倒されたが、観劇中そちらが気になった事は一度もなかった。終演直後、「すげえ」・・学生が言うのが耳に入り、心中ホッと安堵する。若い人達に良い演劇との出会いをしてほしい。

가모메 カルメギ
東京デスロック
KAAT神奈川芸術劇場・大スタジオ(神奈川県)
2018/06/30 (土) ~ 2018/07/08 (日)公演終了
満足度★★★★
日帝植民地時代の朝鮮に翻案した『かもめ』は原作を尊重した作りで重厚。一秒たりとも注意を怠れない、疲労を伴う観劇でこれに見合う感想の言葉を混沌とした感覚の海から拾い出すのも一作業だ。物語の進行と同時に、演出をみる観劇であり、対面客席の間に横に長くとって様々な大小の「ゴミ」が雑然と置かれたステージがまず観客に突きつけられている。
このステージの両脇には(恐らく反対側もそうだろう)モニターが地味に置かれており、中央には壊れた傾いた台が置かれ、端から昇った先でストンと降りる設定のため人物はその方向にしか移動せず、登退場も一方向だけである。従って役者はハケた先のドアから裏を通って会場の対角線の先まで移動して登場している事になる。
この方向が破られるのは一度、それまで殆ど目に止まらなかったモニター上の動きを観客は察知して注目する。出口には金網の扉があり、これが一度だけ施錠され、人々が閉じ込められた時間が暫時流れたあと、鍵を開けにやってくる男だけが逆方向を「許される」。
数々の演出のそこが私にとってのピークで、言わば「予感」と「期待」の時間であったが、その後「戦争」という局面に入って行くと、多田演出は尚も観客の注意を喚起する「場面の変化」のツールとして、地響きを多様したり思わせぶりな照明変化を入れてくるのだが、私の読み取りが凡庸なのか、同じ手に頼っているようにみえた。言葉にするなら、「実は・・」「実は・・」「いや実は・・」と、物語を聴く者の関心を繋ぎ止める手段を演出的な作為で行なおうとする、その「手」が長大な芝居ではカバーできなかった、という言い方になるだろうか。
「期待」と「予感」の時間の延長戦として登場した「戦争」の位置づけ方にも理由があるかも知れない。植民地で志願兵制度という名の緩い徴兵制が導入されたり、やがては徴用や労働力徴収(強制連行)と発展してゆく「背景」としての「日本がおっぱじめた戦争」というものが、朝鮮半島の生活にも浮上する。ただ、朝鮮人民にとってそれは自分らが都合良く利用される植民地時代というレジームの延長であり、平時から戦争体制という変化の意味合いは日本とは本質的に異なる。「戦争」が持つドラマ性に朝鮮人民が親和的になる事は、当事者にとって「恥」として回顧される類いであり、それこそが他国の支配がもたらす悲劇であったりする。即ち朝鮮人民の「分断」こそが悲劇であり、「戦争になったこと」そのもの以上に禍根を残すものだった、私はそう考える。
その意味では、「戦争」という事実の強調として地響きを用いる演出などは、私には違和感があった。思わず注目はするが何か薄まってしまうものを感じたのは正直なところ。
「期待」と「予感」の前半があまりに素晴らしいために、膨らんだ期待に見合う後半には届かなかった、という全体の印象の、それはほんの一瞬よぎったものにすぎないが。
だが、果敢な挑戦がもたらした舞台であり、ネタ切れ?とは言ったものの、演出という技術の可能性を発見させてもくれる大作だ。
韓国俳優陣も素晴らしく、女優(母)が息子トレープレフの感情的罵りに遭い、不意を突かれて自らの来歴にまで思いを馳せ「心が崩れた」瞬間を、動かない背中で演じた演技と演出は、彼女の人生がそこに包摂される歴史の悲劇も浮き彫りにし、圧巻というほか無かった。

ザ・空気 ver.2 誰も書いてはならぬ
ニ兎社
東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)
2018/06/23 (土) ~ 2018/07/16 (月)公演終了
満足度★★★★
「vol.1を期待してはいけない」と思いつつ当日を迎えたが、劇場に入れば当然だが期待は高まる。・・うまくまとめた戯曲ではあった。だが一作目が「空気」の怖さを鋭く伝えていたのに対し、二作目では「空気」の問題は背景化して薄まったように思う。「ザ・空気」のタイトルに偽りとまでは言わないけれど、もし残すなら単にvol.2ではなく副題を付す等が親切といえば親切?(国会記者会館屋上を封鎖せよ! とか。まぁそれはないが..)
演技の問題では、コメディとシリアスのバランスの取り方の点で、安田成美がシリアスを背負い切れないというか・・。
・・などと何か言いたくなるものの、時事や社会的問題を反映した作品が期間をおかず世に出される演劇の形は貴重で、この完成度に対して作品批評な言葉を連ねる事の申し訳なさ、もどかしさもあるのだが。

何度も壊れる赤い橋
The Stone Age ブライアント
小劇場 楽園(東京都)
2018/07/19 (木) ~ 2018/07/22 (日)公演終了
満足度★★★★
The StoneAgeブライアントは5月のコラボでの衝撃舞台からまだ2ヶ月。その以前に2回観た、説明少なめの芝居のテイストが戻っていた。同じ書き手とは思えない。緒方晋はこたびも緒方晋風味健在。舞台のほうは日常リアル感覚の延長にさらりと「鬼」を登場させ、行方を見守らせる。劇団10年やって見切りを付けるかどうか・・「青春の終わり」を迎えさせる事で鬼は鬼の世界に戻れるという、この設定が暗い陰を落とす。逆の設定なら、客も彼らの頑張りを応援し、期待の眼差しを寄せ、コメディタッチも可、ところが逆ときた。この設定の先に何を見せたいのか・・。
採用ケースは演劇によくある、「劇団10年やってきて30手前、見切りをつけるかどうか・・」。団員は四人。一人があるやむを得ない事情で退団させられるが、それをきっかけに三人は将来と向き合い、演劇を離れる決断をしてしまう。ここで絡むのが演劇志望者である彼らに安くアパートの部屋を貸している大家、人間が情熱を手放した(青春にさよならした)時に吐き出す言われる石を河原で探す妙齢の鬼のカップル、そうしたシステムもよく知らず教えを受ける女の子の鬼。
飄々とした拍子抜けな鬼の風情と、深刻がって「諦め」なる境地を身に引き受けてしまう人間との対比が何とも言えない。鬼はこの世界に一時的に寄留している事になっているが、様子からこの世に鬼は相当数いそうである。ただ両の存在はシステム上共生しえない。と、そこに先の退団させられた、最も情熱のある男をマークするていで見守っていた若い鬼、鬼ともつかない、人間に感化されつつある(かも知れない)彼女の存在が、ドラマに色を与え始める。
ただ、そこ止まりである。「ここから何をしようとするのか」「この後彼らはどうなるのか」までを見たい欲求は、そこここで残った。
ユニークな「楽園」の内部だが、装置としてステージ奥の90度の壁に模様の立体が貼り付けられていて、終演後に両面見える場所に立つと色彩バランスが良いのだが、客席からは片面を観続ける事になり、すると美的に難あり、なぜこうなのかと、妙に気になってしまった。

街ノ麦
少年王者舘
上野ストアハウス(東京都)
2018/07/05 (木) ~ 2018/07/09 (月)公演終了
満足度★★★★
天野天街的衝動が抑制された舞台の印象は、音楽(生演奏)がフィーチュアされているから、と途中で気づいた。前回公演に続き脚本は(天野氏でなく)虎馬鯨、原作者がそのバンドのリーダー加藤千晶であった。話のテーマは何だったろう。生きる場所、時間、過去と未来。歌い手・原マスミがヨレヨレコートで登場しヨレヨレと歌い始めるとそれまでの劇の風景が一点に凝縮し、詩の雫となって落ちた。奇抜な演出に隠された天野氏の詩情を覗きみた思い。夕沈がそれに相応しい主役として奮闘。

serialnumberのserialnumber
serial number(風琴工房改め)
The Fleming House(東京都)
2018/06/21 (木) ~ 2018/07/16 (月)公演終了
満足度★★★★
二本目「nursery」。小品におまけ付きのシリーズで、今回のは詩森、杉木による短い前日譚のリーディングとの事だったが、結構本域での芝居。もっともこれの評価は本編の出来次第。
問題の本編は昨年名取事務所がやった海外戯曲「エレファントソング」を思い出させる、精神科医と手強い患者の緊迫の台詞対決だったが、今作は二重人格を一つのあり方と了解した上でそれを手掛かりに「事実解明」に向かう。
上述の海外戯曲(映画化もされた秀作と比べるのも何だが。確か二重人格とも違った)では、新任医師の内面に鋭く斬り込んで翻弄する患者(青年)のズバ抜けた洞察力感知力との勝負の中で、患者である青年の精神性へと近づいていく。
今作は二重人格を必要とした青年の過去や精神性そのものより、二重人格の仕組みと事件(前任医師の死)との関係の解明が前面に出た印象だった。言葉による説明の比重が大きく、言葉の背後にある人物感情が見えづらかったのは演技の問題か脚本の問題か。
このエピソードの中に織り込まれた、新任医師の前任医師への「感情」が出来事を立体化し後半に情景を浮上させる鍵だったが、一方の青年個人の情景は、奇抜な表層からその奥には進めなかった感が残った。「犯されて可哀想」という憐憫(観る側にとってドラマティックさを掻き立てるフックとなる感情)にとどまったというあたりがそれ。
しかし俳優田島亮の活躍の場を作る事のために、難度の高い(そうな)二人芝居をそれなりのクオリティで三本も書く情熱、又は才能に注目な今回の公演である。