ビリー・エリオット
TBS/ホリプロ/梅田芸術劇場/WOWOW
赤坂ACTシアター(東京都)
2017/07/19 (水) ~ 2017/10/01 (日)公演終了
満足度★★★★
「市民」の付くミュージカルには何度か巡り合ったが、「本格的」なミュージカルは初めて(映像で『Rent』を見た位)。本格的、の範疇が「ある」と考えている理由はあるのだがそれはともかく・・。音楽(歌)、踊り、芝居(演技)の三要素が拮抗し、相乗効果をなして一つのドラマが構築されるミュージカルでは、技術の鍛錬や稽古、つまり努力によって合格ラインに到達するという舞台裏のストーリーがあり、洗練された技術、芸に対する感動にはこの要素が不可分にある。
今回の「ビリー・エリオット」はリトル・ダンサーという副題(原題)通り、ダンスに目覚めた少年が困難の中、その道を進むという話。イギリスの炭鉱町が舞台だ。
この英国ミュージカルの日本版、私は全国の応募者(確か1000人位)が一年間のワークショップを経て最終的に5人が勝ち残る、との報に触れて単純に興味が湧いた。「舞台裏のストーリー」をウォッチし始め、まんまと宣伝に乗せられた訳である。
「訓練期間」を兼ねたワークショップという手法もうまい。結果的に不合格となった子供たちも一年を無駄とは思わないに違いない。その子らやその親族関係者も一定程度観客動員に見込めるという制作上の戦術もありそうだ。
舞台は「Rent」や映画の「WestsideStory」もそうだが社会性が高い。エネルギー政策の転換時期を迎えた炭鉱町でストライキだ何だと会社との「闘争」に明け暮れる町の人々。日本では1950年代だったがイギリスではサッチャー時代、80年代に今で言う新自由主義路線へ舵切りがなされて労働争議が燃え上がる。その報道映像が冒頭に流される。
少年がダンスに触れ、教室の先生に見込まれていくストーリーと、炭鉱の物語が並行し、時に少年にとって障壁として立ちはだかるが、最初に流れるドラマの基調となる音楽は「闘争」の場面で労働者が機動隊と対峙して正義を問う歌だ。このモチーフが中心に据えられ、ユーモラスで多彩な場面・歌が展開する。そして披露される少年のダンス、そして「成長した(あるいは本人の夢の)ビリー」と競演するシーンには「舞台裏」のストーリーが重なる。「本格的」ミュージカルの本領が発揮される瞬間の一つでもある。だがそれだけでは「本格的」には達しない。楽曲がよくなければならない。ドラマの創造ともう一つの柱が楽曲であり、これが世界観を作る。
ミュージカルファンは(多分)、耳が捉える抵抗しがたい甘味な音を、想定して客席に座る。演劇にも音楽が大きい役割を果たすことがあるが、それは結果論で、ミュージカルを見ようとする心は、その結果を見越しているのだ。この種の感動が、演劇の感動の一つとは言えても中心的なものだと言えるかどうか(否、と私は言うが)。
だが、これはドラマであり、ドラマ性を濃縮した表現だ。
奇想の前提
鵺的(ぬえてき)
テアトルBONBON(東京都)
2017/07/21 (金) ~ 2017/07/30 (日)公演終了
満足度★★★★
鵺的4公演目の観劇。「この世の楽園」あたりで劇団名を認知、「丘の上、ただひとつの家」で漸く初観劇、ヒューマンドラマかサイコドラマか・・「悪魔を汚せ」でサイコホラー路線を確信。これは作者の志向というより好みの問題だろう、と。また同公演から寺十吾を演出に迎え、今回も同コンビ。そして少年王者館・夕沈ほか俳優陣のユニークさが目を引いた。
装置はパノラマ島に建設された異様な建造物の内側。照明効果で闇になじむ建物を、若者三人(男一人女二人)が訪れ、二人に「ここすごく気に入った」と言わせ、一人に「耐えられない」と言わせる。その台詞が納得の舞台上の空気がまず観客を引き込み、事態の経過が見守られていく。
結論的には、脚本の粗さを、大胆にホラー色に突っ込んだ演出がフォローしたか、むしろ粗さを際立たせたか・・評価が分かれる所だろうか。
『部屋に流れる時間の旅』東京公演
チェルフィッチュ
シアタートラム(東京都)
2017/06/16 (金) ~ 2017/06/25 (日)公演終了
満足度★★★★
☆思い出し投稿☆
「現在地」を観たときに通じる、よ~く観て聴いていないと「ほわ~ん」とした時間の流れに心地よく浮かんで流されてしまう、静かな演劇。「現在地」より音楽は押さえ気味か。その分、親切でないが、言葉で広がる世界を重視したのだろう。
「現在地」は震災後の人間の「関係」と「心」に起こり得る現象を、先取るように描こうとした意欲作だったが、「恐れ」が現実から目を背けさせ、今に安住させる、ある種の自己操作を行なう人間のあり方が対話の中で顔を覗かせる。被災地にとどまる人間の心情を台詞化したようなもの、と私は感じ、「だから何だ」と思わなくもなかった。
「とどまる人々」が蔑視される現実どころか、「脱出した人々」が白眼視される現実が、すでに当時、公の部門が被害を「認めない」姿勢から必然に導かれることへの心配のほうが大きかった。
今回は、大変シンプルな、三人のみによる舞台だ。現在を生きる夫婦(恋人同士だったか)の家に、男の元妻だった女が霊として登場し、特に後半は延々と、自分の死を含むあれこれを語る。能のイメージが重なった瞬間もあった。三者は会話を錯綜させず、「現在・未来」へと向かおうとする女と男、過去の事柄を語り続ける女とその話を聴く男・・その単純な構図も、そのイメージに繋がるものがあった。
が、言葉の大半が耳に入って来ず(例によって睡魔にも襲われたが)、どの被災について言っているのか、あるいは特定していないのか、焦点はその「災害」にある事を十二分に仄めかしながら、台詞の大部分はうまくそれを回避し、十二分にじらして「それ」に触れる、というそんなテンポで進行していたように記憶する(眠っていた時間のことはいい加減に書けないが)。
このテキストの「効果」は、日常の中に「災害」の事実を、いかに忍び込ませるか、という戦術上の効果だ。そして、それ以上ではない。
マス=不特定多数を意識する(とみえる)岡田氏は、被災の事実を多くが忘れているマスの大衆の感覚に寄り添いながら、周到に、「災害は、ホラ、ここに私がいるように、あったんだよね」と、やんわりと触れ、そして「災害を思い出す」地点に軟着陸させる、という事になるのだが、この「効果」のみに照準し、それのみを言ったという、この舞台をどう捉えれば良いのか私には分からない。
ある人々に対しては、大変有効な戦術なのだ、という事になるのかも知れない。政治的・時事的な事柄を扱う芝居は、受け止め方に大きな差が生じるものだろう。が、私にはこのリマインダー公演、総じて情報量が少なく、(台詞の)目新しさもなく、ネームバリューが料金を引き上げているな、というのが今の正直な感想だ。
-平成緊縛官能奇譚-『血花血縄』
吉野翼企画
こまばアゴラ劇場(東京都)
2017/06/22 (木) ~ 2017/06/24 (土)公演終了
満足度★★★★
☆思い出し投稿☆
岸田理生フェス観劇3年目(全演目は観ないが)。吉野翼企画は見ておきたいユニット・・という記憶を拠り所に、「血の縄に花咲く」なる怪しげな題名を訝りつつ観劇に臨む。緊縛師エリアが舞台奥。それを囲むように位置取った母と娘7人が一人の男の玩具になっている。それぞれのやり方で調教された女たちが淫靡に求めよがる様は、主人公である思春期の末娘が覗きみる(あるいは思い描く)「大人の(女の)世界」の光景である。娘が大人(女)に変わる瞬間がやがて訪れる。その契機は男の玩具に見えた女たちが己の欲望のために男を利用していたという反転に重なり、その時点で男は操り手を失った人形のように頭を垂れてひざをついたまま動かなくなる。
今や、女性が欲望の行使の主体である事など常識の枠内だが、ライブで奏でるクオリティの高いギターと声が女たちの高らかな宣言(欲望に生きる告白)に随伴し、クライマックスを演出するとき、爽快さが駆け抜けた。古さを感じながら、しかし「今改めて」という気にさせたのは、同時進行で情動を突き動かす音楽=生演奏の功績だ。舞台の視覚的な美と音の融合が見事なアート作品。
中橋公館
文学座
紀伊國屋ホール(東京都)
2017/06/30 (金) ~ 2017/07/09 (日)公演終了
満足度★★★★
文学座の「劇場公演」二度目の観劇。アトリエ公演との差異に驚いた「食いしん坊万歳!」に感じたのと同様の感想、即ち「あァ新劇団なり」。
同時期のあうるすぽっとでの三好十郎「その人を知らず」とも連携した、「戦争を考える」演目の上演という事で、あうる公演に感じ入った二日後、紀伊国屋ホールの後部座席で遠目にみる舞台はいま一つ、眠気を飛ばす熱量はなく、戯曲の時代的な限界もあるように思えた(作眞船豊)。舞台は終戦直前~戦後の北京。中国奥地やモンゴルでアヘン中毒の治療に奔走して数十年を殆ど家に寄らずに過ごした齢八十を超える家長と、その「身勝手さ」に反発する長男の対立構図を軸に、家長の妻、にぎやかしい娘たちとそれぞれが抱える家庭の成員、知人らが出入りし、最後には帰国を決意した長男との離別の場面を迎える。既に日本に住む彼の息子とのことを気遣い、離れ離れになっても家族であることを切々と説く母親の「思い」に家族が静かに心を寄せ、「時代」とそれに翻弄された自分らを振り返る・・皆がひとしく先行きの見えない身であるこの時をかみ締めつつ。・・そういう閉じ繰りであったと思うが、他郷に生まれ育った家族の、別れの中に「戦争」「侵略」は影を落としているものの、人物たちの「苦労」はせいぜい、その「離別」くらいである。反戦メッセージを戯曲そのものに重ねるには、現代では無理ではないだろうか。
異郷暮らしが二世代に渡った家族の時間を描いたということでは、貴重な「記録」ではあるが、今切実に知りたい情報でもなかったりする。。他郷暮らし、と言えば「在日」の境遇が問題群としては近いものがある。
基本コミカルなタッチ、上村演出は意表をつく「歌」の活用で、舞台の停滞をかわしていて、その部分はよい味を出していた。ただ、喜劇調が生きるのは、一方に厳しい状況や出来事が横たわる場合であるが、この芝居では状況の切迫感がなく、北京での日常が「逃亡」の必要さえもぼんやりとしか感じられず進んで行くように見える。コミカルさと切迫感の共存は無理である、と私は思ったが、それは高齢の父の「らしくない」形象に典型的に表れている、ように思えた。戯曲上、戦前の家長のリアルな芯がほしい所、年齢に届かない俳優が扮装してガシガシとかくしゃく老人を演じると、家に戻れば台風のように引っ掻き回す大男のコミカルさは見えるのだが、有無を言わさぬ威圧感、存在感が薄まり、ドラマも薄まった気がする。
不埒
TRASHMASTERS
駅前劇場(東京都)
2017/07/15 (土) ~ 2017/07/23 (日)公演終了
満足度★★★★
今回はキマった。カゴシマジロー、龍坐の姿を久々にTRASHで見る舞台でもあった。彼らを当て込んで厚みのある役を書き込んだかのように、芝居の進行につれ重度が増す印象は不思議な感覚である。「論」が勝つことなく、人間味溢れるドラマとして締めくくられていた。
前半は中津留節の強引さに戸惑うも、背景説明の手際の問題。徐々に見えて来る人間模様の風景と、そこから滲み出てくるテーマ性が鋭角的である。「次」を予測できず、目が離せない。
「身勝手な男」の本質とは何か・・この切り口で壮大な日本論を展開する作家の手腕に今改めて感服。「本人は真面目」で笑いを取れるカゴシマの強みが、終盤、説明的モノローグになろうと温かみを殺がれない人物の一貫性に発揮されて、溜飲を下げる。
対する龍坐の、終盤明かされる彼の「秘密」を巡ってのカゴシマとのやり取りを、星野卓誠が見ている構図も見事である。役者の勝利か、脚本の勝利か。答えは出ないだろう。(なぜなら彼らはTRASHと一体だから。)
「ドドンコ、ドドンコ、鬼が来た!」
椿組
花園神社(東京都)
2017/07/12 (水) ~ 2017/07/23 (日)公演終了
満足度★★★★
久々に椿組野外公演を観に参じた。全身汗まみれを覚悟である。
秋之桜子&松本祐子の作演出コンビ自体が初めてでその品定めも兼ねた。序盤、野外劇=祭り気分の盛り上りを先取りしたノリに、オッと躓きそうになりながら、前半駆け足で伏線を仕込んだ後の二幕は、じっくりと見せた。終わってみれば初日。屋台崩しも物語に即していて見事に決まった。役者は駈けずり回っていた。その汗と涙にもほだされた。これから酒を振舞うのだとか。夏は、そうだ祭だ。
怪談 牡丹燈籠
オフィスコットーネ
すみだパークスタジオ倉(そう) | THEATER-SO(東京都)
2017/07/14 (金) ~ 2017/07/30 (日)公演終了
満足度★★★★★
扉座、桟敷童子のとは一味違う〈すみだパークスタジオ〉。奥行間口は広いが天井低く、夜の倉庫の四隅や、視界の届かぬ向こうが闇に溶け、入れ替わり立ち替わる光景が幻のようで、現のようで。ある夜の寝物語にみた夢のように判然としない、あの錯覚を瞬き一つで起こす闇を背に、虚実の結界をゆらゆらと辿るような時間であった。
演出は大手プロデュース舞台を多く手掛ける森新太郎、俳優は抜かりない演技を繰り出すが、舞台中央に据えられた縦の軸にゆっくりと回る(時に速度を増し、時に止まる)横広のくすんだ厚布との間合いや位置取りは見た目以上に難事だったのでは・・。
太田緑ロランス、松本紀保、山本亨、西尾友樹、児玉貴志、青山勝、原口健太郎、花王おさむ、松金よね子・・(主賓らしい柳下大は名も顔も初見だったが)、現代の衣裳が次第に違和感なく、むしろ役者の的確な芝居により「牡丹燈籠」を確かな手触りでこの瞬間に存在せしめた。
人間の業に絡め取られ、欲に突き動かされ、あるいは巻き込まれ修羅の場に轟然と立ち尽くす終幕の彼らは血にまみれて立つマクベスのラストの残像に通じ、破滅のカタルシスをめらめらと放射していた。美しい。その場所に立つ事はないと信じて眺め興じる己らだが、自らがそこに立って生きやう(死なう)としたのがミシマであったという事かな、などとふと思う。
その人を知らず
劇団東演
あうるすぽっと(東京都)
2017/06/29 (木) ~ 2017/07/10 (月)公演終了
満足度★★★★
観た人から直に評判を聴き、観に行く。三好十郎作+鵜山仁演出と言えば一昨年だったか『廃墟』が鮮烈だった。東演+文化座合同で、自分は東演パラータだったが、文化座アトリエにしろ狭い劇場で唾と汗を飛ばす熱演を間近にみる観劇になったのに変りない。
今回は合同がさらに広がって新劇団5団体、上演時間も休憩込み三時間二十分。劇場が大きくなってあうるすぽっと、これが違う。後部座席では、少し厳しかった。芝居を演じられているその場の熱度、ディテイルが伝わらず、台詞の一部が聞えず、という事があり、しばしば入眠す。
第二幕では前の席に移る。と、見え方が全く異なり、確かに、ありありと、そこで起きている事に、引き付けられた。
大作であるためか台詞覚えに力を取られ、体全体での表現に至らない部分が、多かったのではないだろうか。後部からだと、俳優の身体を含めた情景として全体を眺める形になる。そこで、聞えてくる台詞の「言葉」そのものの表示する意味と、それを発する存在としての表現(身体)が、合致していなければ、意味が分からなくなる、という事が生じる。これが近くからだと、表情が見える、声の強弱がより聞き取りやすくなる、目で自然にフォーカス機能を使い、「理解しよう」と感覚器を駆使するわけである。(単に二幕で引き込む作品だった説も、あるが・・)
まあそんな事がありつつ、三好十郎がものした問題提起、情景描写は、痛烈で、日本の庶民の戦争責任を、戦後の彼らのあり方の中から探り、抉り出す作者の妥協のなさは激烈だ。それを浮き彫りにするための、主人公の人物像。純朴に「エス様」を信じて戦中投獄され、戦後は彼を導いた牧師の教会を再訪した際、そこに居合わせた信者・牧師との対比で益々その清廉さが際だつ、主人公の姿であった。
彼を鏡とすれば、現代の我々も、何かを諦め、それがために歪んだまま飲み込んでいる「おかしなこと」が随分ある事を思い知らされる。
三好戯曲が現代に生きる、これも一つの実証になった。
さよならだけが人生か
青年団
吉祥寺シアター(東京都)
2017/06/22 (木) ~ 2017/07/02 (日)公演終了
満足度★★★★
背中を向け何も喋らず、取り立ててストーリー展開に貢献する言葉も吐かない人が舞台上にいる・・それまでの演劇の常識の埒外だったその態様を芝居上に成立し得たことで、舞台概念の拡張に伴う隙間に「自由」の風が吹いた。その時々に芸術には風が吹いて古い建物を揺るがす。ここ100年ばかりの演劇(に限らずだが)の進化=深化のめまぐるしさは、物質文明、科学技術の発展が人間に「違う風景」を見せつづけ、その速度を増した100年だからでもあるだろう。そして今なお人は「自由」を求めている。(「自由からの逃走」現象もあるが)
平田オリザの現代口語演劇のインパクトは今活躍するトップの演劇人に影響を与え、また多様な表現に貢献しているのは間違いないが、日常のリプレイ「だけ」が平田演劇かと言えば全くそうではなく、巧みに「自然なふるまい」の連なりの中にそれを仕込ませ、狙いでなくある遭遇や合致や統一がなされて感動が起きる、そのドラマ構造が作られている(ポストドラマに非ず)。それでいながら、「ドラマチック」を注意深く回避する形跡がある。
今回の作品はテーマ性は特になく、会話がただ続く。異なるカテゴリーに属する人間が遭遇し反応するダイナミズムや、別れの悲しさや出会いの輝き、またそれらが幻想である事への諦観に立ち返る笑いなども書き込まれているが、少々淡白で、無意味性が強い。初期作品だけにそこに意図があり気だ。だがその淡白さや無意味性そのものに感動する(自由を覚える)時代は過ぎたのではないだろうか。
観客が観ようとするのは作品のそちらの側面でなく、やはりドラマ性の方なのである。と、思う。
もしそこに青年団の味があるのだとすれば、それをストイックに、盛り上げずに、芝居を色付ける音楽は一切使わず歌ならアカペラで、語るタッチである。だがこのタッチは、背後に渦巻くドラマ性や感情があってこそ、落差のある表現によって真実を仄めかす手法に相当し、それによって観客を納得させる芝居になる。
今回の作が客にどう響いたかは分からないが、私は淡白さを覚えた。淡白が狙いならば当然なわけだが、群像劇らしく諸々こぞって迎えるラストシーンで、それぞれの人生がその時と場に交差しているというドラマ性はあるのであり、そこへと誘っておいての肩透かしなら、ドラマ性の成立がまず問題になる。そして肩透かしはオプションで、しかも今やネタバレだがら、「現代口語演劇」の時代的検証以上のものにならない。そうなるのは役者、あるいは役の存在感のバラツキのせいか、演出の問題か判らないが。
観客(私)と舞台との距離(座った席の問題)にも影響されたか、、考え中。
ブリッジ
サンプル
KAAT神奈川芸術劇場・大スタジオ(神奈川県)
2017/06/14 (水) ~ 2017/06/25 (日)公演終了
満足度★★★★
ArtsChiyoda3331にて行なったワークインプログレス「ブリッジ」は、私には「完成度」高く、秀逸だった。場所も廊下の通行人が向こうに見える平場な空間で、「コスモオルガン協会」の集会を本当にこの場所でやってる臨場感が、むしろスリリングで、終始笑えた。
それを踏まえてのKAAT公演ははたして如何?という期待で観劇。もっとも3331で十分満足したので実は観る予定ではなかったのだが、時間が空いたのでスケジュールに入れた。古館寛治も見たかった。
3331上演版の何年後かの設定だ。同じく「集会」ではあるが、前半はメンバーそれぞれの「教祖」との奇妙な出会いエピソードが、回想式に描かれ、「モツコスモ」思想のさわりにも触れられる。そしていよいよ後半が、メンバーが椅子に座って並び、やり取りをする「現在」、3331版と同じ臨場感横溢せる時間がやって来る。
この部分の作りも、3331版が秀逸であった。設定を変えたことで幾つかのおいしい場面や要素を端折らねばならなかった事が窺えたが、大きな要素は「劇場」である事により、声も少し張らなければならないし、「芝居」的なイメージに寄らざるを得ず、「臨場感」の方は当然ではあるが減衰した。
コスモオルガン協会の思想の説明としては、やはり3331版のメンバーの奇っ態なやり取りに軍配が上がるが、KAAT版は、協会の内情に分け入り、歪な実態も露呈させて、具体的記述に踏み込んでいる。それにより、作者のカルトに対する否定的な視線が漏れ出ているようにも見えるが、最後はそんな判断の余地さえ与えないようなぶっ飛んだ奇怪な終わりである。今回なりの終わらせ方であり、まるで絶滅するはずの種がしぶとく生き残るかのような予感を残した。
つまり、作者はこの自ら生み出したモツコスモ思想に積極的に介入し、観客に思想の是非の判断を迫っている、かのような具合になっている。この思想の「プレゼン」をどう受け止めて良いのか、戸惑った客はいたかも知れない。・・いやいやこれはギャグですよギャグ・・と笑い飛ばせない何かが残るという。
恐らく創作の趣旨から言えばこのカルトに「否定」の評価を作り手が行なってはならず、しかしカルトの当然の帰結として危うさ醜さが露呈して来る・・しかしある思想や宗教的発想それじたいをみればそれが人間の財産になり得ないと断言する事はできない・・。このライン上に立たせて観客を迷わせること。その「狙い」に勝手に共鳴したような次第である。
『あゆみ』『TATAMI』
劇団しようよ
こまばアゴラ劇場(東京都)
2017/06/01 (木) ~ 2017/06/05 (月)公演終了
満足度★★★
=思い出し投稿=
アゴラで柴幸男作品とは普通に期待が膨らむ。だが、作者本人が冒頭で登場、彼の発案による男ばかりの「あゆみ」上演・・とは私の勘違いであったがしかしそう取って無理のない作者の贅沢なプレゼン付公演の、さて中身は。。他投稿にいまいちな反応があったが、同様、「試み」の難度に比べて俳優の「考えてなさ」に「おいおい」と、つい突っ込みが。
苦あり楽あり切なさあり、失望と妥協と諦観と・・諸々を飲み込んであゆみ来たった人生を俯瞰的に再生したときに訪れる感興が、「あゆみ」の魂であるところ、戯曲の持ち味を有難く再現するというでなく平然とスルーしている、かに見える。まるで体操競技の段取りをこなすスポーティな演技?要は言い方はきついが無神経な演技(実のところは、単に力量の足りなさ、なのだが)が目につく。それは、男が演じることの困難さと、どう折り合うかについての、思考を諦めた感じなのだ。
少しやれる役者は、「女性」性の役柄と齟齬がない線を辿れていたが、それで少しばかり芝居が見えてきたとして、しかし物語は既に折り返し地点を過ぎた頃。
しかも最後、再び作者が登場し、最初彼が役者らにやった「いじり」インタビューを逆転し、作者を質問責めにする。この部分だが、作者がこの集団に対し「趣向」として書いてプレゼントしたものなのか。・・だとしたらあまり成功しておらず、残念感が残る。もし、劇団からの申し出だとすると、おいおい。趣向でごまかせた気でいるなら大間違いだ・・と野次の一つを飛ばされて不思議はない。
酷評であるが、うまく行かなかったにしても、何に挑戦し、敗れたのか、その動機の部分が見えなかった事が、問題な気がする。(というより、「男だけのあゆみ、面白いでしょ」という動機一色だったのではないか、そう想像すると寒いものが走る。)
役者たちは真面目にやっていたので、☆は3つ。
子午線の祀り
世田谷パブリックシアター
世田谷パブリックシアター(東京都)
2017/07/01 (土) ~ 2017/07/23 (日)公演終了
満足度★★★★
休憩挟んで4時間近い観劇だが、苦痛感なく、興味深く観た。木下順二戯曲を味わう。平家物語の原文(恐らく)もテキスト上に引用し、従って全体に解読の難があるが、要所で意味合いが知られる台詞や展開を示して、飽きずに観られる。
なぜ子午線なのか。戯曲は緻密に周到に、歴史的事件(源平壇ノ浦の合戦)と天文の次元とをつなぎ、最後にしっかりと作家の狙いが結実する瞬間、えも言われぬ感懐に身を浸される。木下戯曲、さすが・・。
舞台装置の大胆かつさりげない技も光っていた。
大帝の葬送
ロデオ★座★ヘヴン
王子小劇場(東京都)
2017/06/28 (水) ~ 2017/07/02 (日)公演終了
満足度★★★★
柳井祥緒作品・最近の観劇はgallery&spaceしあんでの「タイムリーパー光源氏」。エンタメ性高く、お得感あり。
今回のは、「眠る羊」(十七戦地)、「幻書奇譚」に似た議論劇であり、野木萌葱ばりの「歴史事件物」、宮様の御付きも登場するから劇チョコ「治天の君」もよぎるが、対立を経て目的を一にする感動物語(プロジェクトX即ち肯定史観)に着地する意味で劇チョコとは一線を画する。
時折はさまれる笑いは、史実という後ろ盾をもつゆえの自信の表れに見える。寄らば大樹の陰ならぬ、寄らば歴史事件。寄り添って樹液を受益する芝居。
その関係性の中での笑いは、稲田防衛相の「笑み」に似て気味が悪い。自衛隊という後ろ盾があるつもりの、自信が、よく見ると表現されている。
こういう感じ取り方はやはり歴史への「認識」から来るのであって、いかんともできない。事実を知り深めることを、若き作家たちに望む。
(完全に年寄りの繰言だ。)
今が、オールタイムベスト
玉田企画
アトリエヘリコプター(東京都)
2017/06/27 (火) ~ 2017/07/04 (火)公演終了
満足度★★★★
アトリエヘリコプターでみる初めての玉田企画。モンダイ児を作者が演じる、前みた舞台(怪童がゆく?)に通じるモチーフの別バージョンという感じ。短時間を切り取ったストーリーだが、ガサガサ鳴る手作り感のある回転舞台で三場面が入れ替わり、笑える微細な齟齬の、その微細さを分母にとれば(ノミの目で見れば)、ダイナミズムのある舞台である、と言える。だが我々は人間なので、実際にはあっと言う間に過ぎ去る短時間の(結婚式前夜という事ではあるが)日常の延長におかれた、あるあるドラマだ。
ミズウミ
日本のラジオ
ギャラリーしあん(東京都)
2017/06/14 (水) ~ 2017/06/18 (日)公演終了
満足度★★★★
ギャラリーしあんには5度ばかり赴いて、場所の佇まいに馴染み、気持ちばかりは常連のそれだが芝居はその都度なわけで・・。
夜公演。静かな芝居、と感じた。日本のラジオ観劇久々の3作目だが、そう言えばどれも静かさがあった。細部は忘れたが物語は時代をまたがっての幻想譚で、ファンタジー志向性に同期できるならミステリータッチな語りに乗れる事だろう。私は背後関係を追う気力を持続できず(あの距離にして声が聞えない場面あり)、薄い靄のかかったような観劇になってしまったが。口調に拙さの残る感じは、狙いだろうか?
腰巻おぼろ 妖鯨篇
新宿梁山泊
花園神社(東京都)
2017/06/17 (土) ~ 2017/06/26 (月)公演終了
満足度★★★★★
(3日前に投稿したつもりが。。)
「腰巻」が付く唐十郎演目は初である。通常上演4時間を圧縮したという、唐の若い才気が鋭く光る作品。
20年前、演劇のエの字も知らない私の衝撃体験、それが新宿梁山泊のテント公演だったが(鄭義信も舞台に立っていた)、あの幸運な瞬間も過ぎる、熱くてコミカルで自然な情感の流れる珠玉の舞台・・と思った。個人的な思いがどの程度作用しているか知らないが。。大鶴義丹は下手でも許す。巨体を揺すりながらヒーロー然と飛び歩くのがテントの名物になればいい。申大樹は小柄で身軽に華麗に身をこなすが、今回、唐ドラマでは軸となる「翻弄される青年」(主役)は初?.. 役の人物の膨らみに目を瞠った。他の劇団俳優諸氏も、スポットの当る客演も、全体である種の紐帯が出来上がっているかに見えた事が、「熱くさせる」最大の理由であり、殆どウォッチャー的観劇の対象になっている梁山泊芝居に珍しく落涙した。
いい芝居では、女優も美しい。
キョーボーですよ!
劇団チャリT企画
新宿眼科画廊(東京都)
2017/06/09 (金) ~ 2017/06/13 (火)公演終了
満足度★★★★
共謀罪に焦点が当てられているが、改憲を経た近未来の設定。即ち今の政権が進めている「国民を監視し、口を封じ、本当のことを知らされない」真に権力に都合の良い「明るい未来」に向けた一連の動きの「庶民目線でみた怖さ」を、コンパクトな尺で「説明」した芝居である。
以前40minutesという企画に参加し、IS日本人人質殺害事件の顛末を説明した説明劇を持ち込んだのを見てチャリTの説明力(面白可笑しく分りやすく)に感服したが、長編より短編に心得がありそうである。
共謀罪の強行採決はエライ事であるし、他にも怪しからん(国益に反する売国的な)法律を通そうとしたり通したりしているらしい今の政権だが、危急な事態にもピリピリせず、飽くまでも「おかしな事態を笑いたおす」線で、コンスタントに風刺を紡ぎ上演し続けるチャリTの奇妙なしぶとさにも、笑ってしまう。
あ、カッコンの竹
コトリ会議
こまばアゴラ劇場(東京都)
2017/06/08 (木) ~ 2017/06/12 (月)公演終了
満足度★★★★
少し時間が経って感想を書こうとすると、ストーリーがよく思い出せないが奥行き感のある竹林の美術だけは月光の照明で出来た陰影とともに記憶に貼りついていた。ああ、宇宙人が出ていた。何組かの悩めるカップルがいた。ああ、竹林で出会った男女の愛の行方、みたいな要素も。そう言えば冒頭に二人の娘が超然と竹林に生息する風景。劇構造はわかりづらかったと思う。台詞を追えないと迷子になり、本当は大事なことが起きているのに見過ごしてしまったのか、大したことではなかったので見過ごしてしまったのか、分からない状態に。前者だったときのために、重い腰を上げて追跡体勢。何となく追えたような、追えなかったような。現にもう忘れてしまった。やはり月明かりのような青白いくっきりした明り(やはりLEDかな)が、何か「そぐう」ものだったという、その記憶を手がかりに考えると、「そぐう」場面というのは「一旦落ち着く」局面であるので、順繰りに巡ってくるエピソードのリレーの起点にその場面をすえて、巡るサイクルをイメージして劇が組み立てられたら、良かったのではないか・・などと、適当な意見ではあるが、不要な難解さがあったのは確かであるように思う。
タイム!魔法の言葉
動物電気
駅前劇場(東京都)
2017/06/03 (土) ~ 2017/06/11 (日)公演終了
満足度★★★★
初・動物電気。客いじりが上手でお芝居でも「間」の使い手。役者の「役者的エネルギー」あっての「笑い」満載舞台。ストーリーはあれどストーリーを逸脱する笑いの手を緩めず、ラストまでやりきっていた。