tottoryの観てきた!クチコミ一覧

1301-1320件 / 1817件中
missing link

missing link

岩渕貞太 身体地図

こまばアゴラ劇場(東京都)

2017/12/01 (金) ~ 2017/12/05 (火)公演終了

満足度★★★★

前知識ゼロで観る。舞踏だ。前衛というのはカテゴリーに収まらないものを言うはずだが、「前衛舞踊」という分野に属する、という具合にカテゴライズしたくなる。まずはそういう入り方。身体の動きや姿形の美しさを「加速」機能として観る者を揺さぶる舞踊と異なり、舞踏は別の言語を模索する、その模索の様子を見せられるような気がする。「どうやらずっとこれで行くらしい」と悟ってから、漸く「意味」を思考し始めた。感じるのでなく、考えねばならぬらしい。・・が、既に感じてはいる。ただし「感じている」自分を楽しむという、舞踊の快楽ではなく、その感じたものの収め所について、候補がありすぎて思考を阻む。それが苦痛となる。missing linkという題名の意味をせめてチェックしておけば、全く見方は変わる。予め答えをもらい、その答え合わせをするのが鑑賞の時間となるわけだ。答えなくして荒れ野に放り出された後、答えを知った上で反芻しようにも、疲れ切ってその気分にならなかった。
イケメンで美麗系の舞踊で行けたかも知れないのに、なぜ室伏鴻なのか・・と、その疑問の方が終始脳内を巡った。

リーディングフェスタ2017 戯曲に乾杯!

リーディングフェスタ2017 戯曲に乾杯!

日本劇作家協会

座・高円寺2(東京都)

2017/12/16 (土) ~ 2017/12/17 (日)公演終了

満足度★★★★★

数年来楽しみにしているイベントだ。(毎回は行けてないが。)
劇作家の登竜門としては随一の、と言える劇作家協会新人戯曲賞の最終候補作数点を、著名劇作家たちが公開で審査をする。進行は若手劇作家瀬戸山美咲、審査員は川村毅、渡辺えり、土田英生、永井愛、マキノノゾミ、坂手洋二、佃典彦という錚々たる顔ぶれ。
これが面白いのは意見が割れる所だ。そして、何が読み手を捉えたのかが流石言葉を紡ぐ仕事のプロで、非常にうまくその観点を言葉で説明する。時に誤読が解かれたり、新たな観点が示されたり。その発言の数々が面白く、どの作品が選ばれるかもさる事ながら、一つの重要な決定を行なうに足る充実したやり取りを、台本もなく展開する様に感服させられる、この時間が何にも代え難い至福の時である。(殆ど個人的な感慨だがお赦しを・・今は亡き小松幹生氏の名進行は忘れ難い。)
さて、今年は最後まで割れた。第1ラウンドは進行役が各戯曲の概略説明し、その戯曲について意見を出し合う。5作品目までやって一人二票の投票を行なった所で休憩。
今回は例年に比べても優劣つけがたい作品が揃ったという5作の得票は1~4票の幅(0が無い!)、得票1票のみの作品を落として3つに絞り、改めて一人一票の投票で2,2、3と割れた。
作品プレゼン、討議の末、最終的な投票でも各自が推した作品に変更はなく、複数受賞の可能性もちらと言及されたものの今回は厳正に最多得票作品が、選ばれた。
(最優秀戯曲賞は『うかうかと終焉』に決定。お疲れ様でした!)

三月の5日間 リクリエーション

三月の5日間 リクリエーション

チェルフィッチュ

KAAT神奈川芸術劇場・大スタジオ(神奈川県)

2017/12/01 (金) ~ 2017/12/20 (水)公演終了

満足度★★★★

初演の映像を見る限りでは、この芝居の題材であるイラク戦争の翌年(2004年)、割とホットな時期に書かれ上演されたことによる「タイムリー性」の躍動が、狭い空間である事もあって舞台に横溢していた(客席と床続きの舞台で「デモ」との地続き感も出ていた)。同時に風景の切り取り方のユニークさ、台詞のユーモアにある一定の普遍性を思うところがあったが、大きな改稿が無かった今回の再演舞台でその事が確認できた。

一方、変わった部分も当然ある。若いキャストは、癖のあるキャラの立った初演のキャストよりは淡白で、初々しく、瑞々しさと物足りなさと両面がある。会場が立派なKAAT大スタジオであるのも、大きな違いだ。初演の狭いスペースに比べ臨場感が大きく遠のき、「作品」としての形が追求された感じがどうしても付きまとう。台詞とリンクしない奇態な動きも初演ほど出ていない。にもかかわらず面白く観られたのは、テキストの強さと、若者たちの「突出」と「自然さ」のうまいバランスにあったのだろうと思う。

ネタバレBOX

ただ、若手演劇志望者の性別比を反映するかのように、女性キャストの比率が高い。オーディションの結果、魅力ある女性を「捨てられなかった」のか、魅力ある男性が「思うほど集まらなかった」のかは判らないが、恐らくこの事で初演の大変ユーモアのある場面は端折るしかなかった。
今回の二男優はそれでなくとも役の掛け持ちが多いが、初演で秀逸だったシーンの「再創造」が難しいのはデモのシーンで、その影響かデモ参加者が近隣の迷惑について「叱られる」シーンもニュアンスが変わっていた。
デモが「現在」の時に渦巻く現実を背景に、一方でラブホでやりまくる男女とその周辺の(特段無くてはならない訳ではない)他愛のないエピソード、そして周辺ですらないが、情景としては物語の重要な背景色となっているイラク戦争開戦に抗議するデモの、至近にある「さほど熱くない若者」二人のこれも他愛ない会話をそれとの距離感を表現したシーンだったが、デモを肯定も否定もしない絶妙な位置を確保できていた。
だが、今回はそれが無く、デモのシーンは中途半端に終了し、「叱られる」場面は、初演では「○○の場面をやりまーす」と予告して、相手の男性から何やら話をされていて最後まで聞いてみるとどうやら論難されていたらしいと気づく、そして「叱られるの場面でした」とオチがつく、ちょっとしたエピソード紹介の態で面白いシーンだったが、今回はイラク戦争反対デモの到着地であるアメリカ大使館の近辺に住む主婦から、先ほどの若者二人が騒音についての抗議を受ける。この口調が激しい。2004年の状況では、そこまでは言わないしその台詞は浮いた事だろうが、イラク戦争も原発事故さえも6年前へと遠のいた2017年の今の感性では、デモの音にマジギレする主婦は、「あり得る」風景である。(実際にデモへの抗議が当時無かったという事でなく、芝居に取り込む演劇的効果に関する判断のこと。)
2004年当時入り込むことのなかった場面が、「現在」の風潮の反映として2004年当時あった事として新たに描かれるというのはどういう事だろう・・? 作者はどう意識的にこの場面の変更を行ったのか。デモを普通に行う事が何か不穏を撒き散らすことでもあるように喧伝され、それを受容させられている日本の今を、岡田氏はどう感じ取り、この場面を入れたのか、非常に気になる。

正直、私はあまり良い感じを受けなかった。主婦に言わせっぱなしは「笑える」シーンにならないし、むしろ主婦の意見が正当だという感性のほうが、今は支配的だろう。それをなぞってどうするのか、という話。
「イベント的にデモをやってるだけ!」という部分で主婦のテンションは最高潮に達し、正論を吐ききった恍惚感さえあるが、初演での「最前列の熱気」と距離をとりながらデモ後列でとぼけた会話をする若者二人という皮肉りと、デモそのものを「騒ぎたい奴らがやってるだけ」と批判する事とは論理が別物だ。イベント気分なのはその二人だったのであって(だから「すんません!」と謝るオチがつく)、では二人が距離をとっていた最前列の「熱気」も自分たち同様にイベント気分だと推論するのは奇妙だし、芝居としては、彼ら二人がデモ全体を代表して謝罪している格好で、物事に対する一方の見方を平然と採用して一方を貶める(無意識的か意識的かの)処理が、気になる。
「物申す」事に対するバッシングの言辞をそのままテキストに取り上げて、言わせたままで終えるという後味の悪さは、岡田氏の「勝負できなさ」なのか「勘違い」なのか、どっちに転んでも私の目にはあまり良い態度という事にならないのが淋しい。
若者の平均的感性に取り入るために、批判しても安全そうな対象を罵倒して溜飲を下げさせた、というならそれは差別の構造に乗じて点数を稼ぐ輩と同じではないか。物書きがそれに気づかなくて済むんだ・・。
顔と名前を晒して表現する者と違って、批判する私など実害は一つも被らない。にしても・・(沈黙)
断罪

断罪

劇団青年座

青年座劇場(東京都)

2017/12/08 (金) ~ 2017/12/17 (日)公演終了

満足度★★★★

「新劇系」に書き下ろした中津留作品、以前民藝に書いた舞台は、中津留節の生臭さが新劇系演技によって緩和され、良い具合にリアルでメッセージ(作者の意図)の伝わりやすい舞台になっていた。
今回も同様のことが言える。
難点も多々あるが、主人公に課せられた正論をごり押しに叫びまくる役が、中盤までの「浮いた」(役の人物的にも俳優の演技的にも)存在から、最後には、そうする以外に手がない業界の惨状をそれよって表現していたのだ、と周囲に納得させることになる。つまり、あの男のようにガナり、叫び、語りかける事によって辛うじて、無残な現状の「無残さ」に見合う。その事に気付けよ、という作者の直の声が、役者を通して叫ばれている。確かに、その通りだ、と私は思う。

ただ、この芝居にもユートピアが描かれる。叫ぶ男のアクションに対して、「怯む」という受けの芝居で周囲の社員が男を立てる。観客から見ればそれによって男は救われる。また一方のヒロインの正義を貫こうとする女性社員の「涙」も見事で的確、貢献は多大であった。
「芸能事務所」という場に日本の情報統制を巡る問題の縮図を描こうとする作者の執念は、勝つか負けるか、殆ど勝負に出ている感がある。同様の主題を扱った芝居が今年は「ザ・空気」(永井愛)、「白い花を隠す」(石原燃)と続いたが、今作は中津留流でこれに果敢に迫った印象だ。
強引さはあるが、現状肯定したい人間の習性の前で、荒んだ現状を「荒んでいる」と言い切る困難に挑戦する姿勢には素直に感じ入る。現実の背景が、メタ・メッセージとしてこの芝居を成立させていた。という事は、現実をそう見ない観客には、届かないという事になるが。

変身

変身

SPAC・静岡県舞台芸術センター

静岡芸術劇場(静岡県)

2017/11/18 (土) ~ 2017/12/10 (日)公演終了

満足度★★★★★

久々のSPACへの贅沢な旅。『変身』は原作からして気になる演目で、戯曲というより舞台構成に関心。数年前森山未来主演で上演されたのも(未見だが)舞踊を中心に作られたというし。朝目が覚めたら毒虫に変わっていた始まりから、家族に見放され死に至るという単線的な物語を舞台化するとは、ストーリー説明でない要素、物語全体をどういう心理的情景の中に描くか、どういうスタイルで描くか、非言語表現を駆使して構成するという「創作」がなされるという事だ。
小野寺修二の身体言語をSPAC俳優は舞踊家と遜色なく使いこなしている。もっとも小野寺の動きはダンサーでない俳優にも可能なもので、秀逸なのはコンビネーション。だから時間的な正確さがむしろ要求されるだろう。
それにしても小野寺の持つ引き出しの多さと言い、阿部海太郎の音楽の緻密な絡み具合と言い、唸らされる。個人的には音楽がツボであった。
動作の緩急、場面の変遷、喧騒と静寂・・パフォーマンス全体が一つの音楽だと言っても良い。人間の恐ろしさ、興味深さ、哀しさが、視覚的快楽であるパフォーマンスの間隙から滲み出てくる。
ラストのニュアンスは私の原作への思いとは違ったが、いずれにせよ優れた「芸術作品」、という語を使って憚らない。

ちゅらと修羅

ちゅらと修羅

風琴工房

ザ・スズナリ(東京都)

2017/12/07 (木) ~ 2017/12/13 (水)公演終了

満足度★★★★★

最終公演にかける気合の表われか、どストレートに沖縄の今に言及する芝居になった。言いたい事、知っておかねばならない事、書き殴った印象さえある。ただし現実は今時点日本の南西の地にあり、事実をぼやかす脚色は許されない。高江ヘリパット、辺野古基地建設反対行動の現場は現実だ。闘争の現場に本土の人間が駆けつけているのも現実で、その事情を反映した登場人物が配置され、主人公は本土から今日やってきた若い青年だ。「彼と沖縄の人たちとの出会い」を縦糸に、「現在の沖縄の状況の推移」を横糸にドラマが紡がれる。坂手洋二の戯曲を思い出させるのは、「沖縄の闘争に言及している」からで、それだけの事が特色になる位、日本ではこの問題を自由に語る場がない。触れてはならぬ項目の一つだ。なぜならそこに権力の強い意志を感じるからだ。下手すれば抹殺されかねない。
作演出の詩森はこの舞台にも風琴らしい演出を施している。登場人物紹介コーナーが戦隊物のメンバー紹介に使われそうなBGMの中、戯曲が実際この運動の立役者的な人物を配している事で紹介も声高に。それでいいのか?(人選が)と懸念ももたげるが、それで良いのだ、という戯曲上の答えが後にわかる。
もう一つの「仕掛け」は、主人公とのみ対話をし、主人公に選ばせて沖縄のエポックメイクな事件へタイムトリップをさせる、時空を超越した「人間でない者」の存在だ。
タイムトリップの場面は実質2つだが、これは沖縄の歴史を俯瞰させる役割にとどまらず、もう一つの重要な命題が隠されている。各時代に登場する人物が皆、「現在」の場面で登場したのと同じ衣裳をまとって登場するのだが、トリップ先の風景は最初と変わらず衣裳さえ変わらないので、主人公も観客も、「あなた、××さんでしょう」(つまり「時代変わってないっしょ」と突っ込みたくなるのだが、ちゃんと聴いていると、その時代の状況でなければ出てこない台詞を喋っている。次の旅の時も同じ。そして次の時、「結局同じ人たちなんでしょ」と思わず「人間でない存在」に向って言った後、気付くのである。沖縄の状況は戦前戦後もずっと変わっておらず、人々が演じてきた役割も同じなのだ・・という、不変の構造を主人公は知ることになるのだ。
終盤、主人公は既に、自分がある宿命にあること、つまり「人間でない者」の指し示す所へ行くしかないことに気付いているが、「次に行く場所は100年後の沖縄だ」と言われ、その意味する所を吟味しつつそれを受け入れる。そして現実世界、次世代を担う本土から里帰りした学生の女の子との会話の中、「100年後の沖縄が見れるとしたら、見てみたい?」と訊いてみる。彼女は「見たくない」と答え、その理由を語る・・もし基地がなくなってたとしたら、自分は今その時のために頑張るんだし、悲しい現実があったとしてもそれが今の自分を変えることはない。私が居る場所は今ここなのだもの(殆ど意訳)。
青年はこれから100年後へと旅立とうとしている。戻れるかどうか判らない。だが恐らく100年後を「今」と感じた瞬間、彼はその沖縄の時間から生きようとするのだろう、とぼんやり想像した。同時に、ここから百年後へ旅立とうとしているのは、今の私たちなのである、という含意も無論ある。二重三重の含みを持たせた戯曲を書くこの作家は、着想の時点で快哉を叫ぶのだろうか。苦悶の末そこに辿り着くのか。それとも、たまたまそうなっただけなのか。
昨年に続き、年末の風琴工房秀作を出すの巻であった。

ジ・アース

ジ・アース

十七戦地

ギャラリーLE DECO(東京都)

2017/12/13 (水) ~ 2017/12/17 (日)公演終了

満足度★★★

ギャラリーLE DECOを初めて訪れた。同じく狭小スペースのspaceEDGEは複数回訪れているが、画像からしてもっと小洒落た空間、また3フロアあって、地理的に近いのにステータス的に随分上、という印象を勝手に持っていた。
が、今回訪れたその場所、5Fがそうなのか、単なるギャラリーである。照明設備はなし(あり物使用)、イスは数は少ないのに平坦な分、二列目でも見づらい。
その条件の中での上演、観劇である。
題材(というか作品)は三つあり、それらは変則的に繋げて一つの作品として上演されたという事だ。
私はその事が判らず、別作品を接続しているなら脈絡が見えなくて当然だが、脈絡があるはずなのに見えてこない・・その事が(この所の体調のせいもあるが)睡魔に繋がった。いつまで待っても「次の作品」にならない。実は3つの作品を別ステージで上演するのだったか? という考えが頭を巡ったり。場面(作品)が変わるたびに目を開くが、繋がりが見えてこない(当然だが)。
「最初の作品はよく判らない作品なのだな」と、次に期待しようと決め込んだというのもある。大いなる誤解であった。

要は、3つの作品を転換のたびに頭を切り替えて「観る」観劇の仕方を、知っておくか早々に気付く必要があったわけだ。
今思えば「着替える」時間が作品転換の合図だったが、照明が使えない事による芝居のルール伝達の不十分は、何らか埋め合わせをすべきでなかったか。
今後観ようとする方には、その事に注意をされたし。

そんな事で、作品の内容について評する事ができないが、共通するのは二人の役者による会話劇だという事。現代を反映したどんな会話が交わされたのだろう・・少しでも耳にとどめたかった。

ネタバレBOX

苦言を呈するなら、こういう環境でやるなら二列目は立って観ても良いことにしてほしい(席の並べ方をずらすとかもアリ)。
また、上演環境的には路上演劇に近いので、気楽な姿勢で観ることができ、そして劇中役者から時おり客いじりがあったりする・・そんなのも良いのにな、と勝手ながら思った次第。
劇場としての機能を削ぎ落とした「エンゲキ」の形を探る、という試みの機会として、突き詰めてみても良かったかと。

十七戦地が「久々の公演」とは認識しなかった。柳井作品は方ぼうで上演されていたので・・。「劇団」活動を大事にされるなら、劇団色を打ち出して行きたい。もう一人の役者が「十七戦地」の役者なのかどうかも、明示してほしかった。
相談者たち

相談者たち

城山羊の会

三鷹市芸術文化センター 星のホール(東京都)

2017/11/30 (木) ~ 2017/12/10 (日)公演終了

満足度★★★★

この劇団を初めて観た池袋での舞台を思い出した。(最低な舞台・・とどこかで書いた感想の原因を思い出した。)
三鷹での前回は同じく吹越満出演で、リアルを踏み外す要素があってもうまく作られた濃密な芝居だった。それと比較すると、演技陣の仕事には感心しきりだが、作劇が苦労の途上に感じられ、隙間が多い。観劇後に穴を埋めていく事は可能だが・・面白いが惜しいという感想。

ネタバレBOX

舞台はゆったりとした夜のリビング。富裕層のそれらしく大きな絵画が吊られたりしている。人物は吹越演じる父(何か忘れたがある分野で一定の評価と地位を得ているらしい)、若い浮気相手(鄭亜美)、別れようとしない妻、会社勤めの娘、その交際相手、そして若い女とのかつての交際相手(父と元同じ職場の後輩)。リビングにはまず熟年の夫婦、そこへ娘とその同僚兼交際相手(どうやら初めて紹介するつもり)、最後にたずねてくるのが外部の者たち。何やら抜き差しならぬ事情がありそうだが、実は父の浮気相手とその元?交際相手である彼らがなぜ夜に時間帯にやって来たのか、彼らの正体は何かが顕わにならない時間が長い。誰もそこを突っ込まないのも不自然。修羅場と化すはずのリビングだが、表面上冷静さが装われ、説明的な台詞のやり取りも可能。だが冷静さが表面上だけでなく実際冷静なんではないかと見える憾みあり。話題に直接関係のない娘と恋人のカップルが、父に「あっちいってろ」と言われても何だかだとタイミングが合わずに去らない、というのも娘のデリカシー的にどうか・・結局殆どの時間、引っ込まずにリビングで父の醜態も含めて「見ている」。そのシュールさは狙いであろうし、それ自体はよいのだが。緩急という面ではスピーディに展開する時間の割合が低いことと「リアル」を潰している部分の総合点で、評価は下がるのだろう。
 だが、全体としてはリアルに「あり得る」話だ。たとえば台詞には微かなヒントしかない要素が、女にとってのステータス。すなわち若いその浮気相手が、前の交際相手の男性を見限った理由だ。・・離婚してくれといくら頼んでも彼が煮え切らなかったので冷めてしまった、と女は説明したが、その「彼」は本気で妻との離婚協議を粘り強く進め、何もかもを失ってついに離婚を成立させた、ところが彼女は「父」に乗り替えていた、そこでこの邸に踏み込み、熟年夫婦に「離婚しない」よう哀願しにきたという経過であった。
前の男性と交際期間が「かぶっていた」指摘に対してもめげず、女は父に向かって言葉を紡ぎ、如何に自分が父を敬い慕っているかを必死にプレゼンする。その見え透いた台詞が父には(彼女を生理的に(性的に)求めているので)ジャブとして効いていることも舞台上に見え、社会的ステータス的に「父」のほうがうんと上だという値踏みが、女をして彼を絶対得るべき相手と判断させ、「惚れた」という自己暗示を殆ど無意識に施したらしい軌跡が目に見えるような・・こういう役を演じる鄭亜美は無二である。
自立した娘にとっては父のスキャンダルも単なる軽蔑の対象でしかないが、今日は父母に自分の交際相手を正式に紹介しようとしてやってきた、という事が、この一件と「完全に無関係」を決め込めない要因になっているが、一方その交際相手は無関係を決め込んで良いはず・・なのだが、その彼が客観的な視点で身も蓋もないコメントや質問を「当事者」に差し挟んで介入していくのが笑いになる。恐らくどこか恵まれた環境で育ち、就職もして社会人としての常識も的確に身につけているが、どこか「天然」を感じさせるキャラが作られているのが、この介入の行為にも生きて笑える。
吹越夫の妻に対する「離婚」の申し出も、何やら子供がプラモデルを買いたいからお金をくれ、と言っている態度に似ていて、彼にとって若い女への欲求が「物」をほしがることと本質的に同じである事が仄めかされている。若い女もそのように自身をアピールして「売ろう」としており、男の方もこの種の欲求を育てる環境(社会的地位、経済力)にある。だが落語「千両みかん」の最後の番頭のようにトチ狂ってしまうのがこの男で、既に勝っているはずの恋敵の頭を玄関ロビー(客席から見えない)での乱闘の合間、大きな灰皿で殴打してしまう(見えないが死亡が予想される)。騒ぎの興奮を性的興奮に転化した二人は母の見ている前で互いに唇を奪い合い、二人の荒い息遣いと、力ない母の「ここではやめて」の台詞を残してフェードアウトとなる。ストーリーラインは女の元交際相手からの直談判と、その中で事実関係が説明されていく、というもの。説明の順序の工夫で「謎解き」の面白さ、それに対するリアクションの面白さはあるが、コンテンツ的にはやや淋しい。
最後のキスシーンも不要に長いが、この作り手は観客が「濡れ場」を期待してやってきていると勘違いしているのではないか。
ホテル・ミラクル5

ホテル・ミラクル5

feblaboプロデュース

新宿シアター・ミラクル(東京都)

2017/12/01 (金) ~ 2017/12/10 (日)公演終了

満足度★★★★

なるほど・・ラブホの室内という舞台設定が既にして登場人物らの関係の濃密さを約束し、ノーマルな恋人同士以外の設定をひねり出した作家の工夫をしても関係の薄い設定にはならない(全くの他人が居合わせてしまう設定もなくはない=中川安奈と大竹まことが出た映画がそんなだった=が、一見うまそうな設定は正当化に苦慮し、喜劇調を免れない)。・・と考えると、設定が閃けば、話は半分決まったようなもの(なぜなら恋人でない同士が同室する必然性じたいにストーリーは埋め込まれている)。どんな設定かが勝負である(作家の心の声)。
さて、リング上には四作家の命を帯びた俳優らが、演出のコーチをくぐって、いざ出場。
一人で全作を演出というのも、一つの着目点。統一感より多様さが印象だが、各作品の個性を生かしながら全体としてのまとまりも重要。
4作中3作は音楽不使用で、時間と共に進行するドラマ。残る1作は時系列を軽やかに跳ぶタイプで、直裁的エロシーンには奇天烈な音楽が鳴った。
河西氏以外の作家の舞台は観ていたが、開演に駆け込んで程なくフェイドアウトした目ではパンフの字が読めず、上演順序を知らないまま終演まで観劇する。後で作者を照合し、意外な作風、予想範囲の作風・・嬉しい発見もあった。
この種の企画(「15 minutes made」など)は複数の作り手を並べて観られるのが魅力。取り合わせや順序も恐らく重要だろうが、今回初めて目にした「5」も一定のクオリティを見せていた。
最終的には「本音」が語られる場所が舞台である事が、作り手としてはこのシリーズの魅力であろうし、作り手側から染み出す躍動も舞台の魅力に寄与している。

ネタバレBOX

生キスシーンの多さから、想起されたのが三浦大輔の超リアルな男女の行為を伴う芝居。次の瞬間には全裸になり兼ねない勢いまで舞台上に再現し、実際脱がせたりする。通常の芝居では一定の処理を施す。それはそれで良いが「ホテルミラクル」の場合ホテルの室内が舞台。艶やかなる局面を形にする宿命を逃れられない。そこで何度か、ああこれ以上の展開は物理的な事情により、無いな、と読めてしまうのが惜しい。
また、物理的なこととして、ちょうど自分の真上にはプロジェクターがあってかなりの騒音を出していた。安ホテルの室内を表わす環境音として活用しているなら別だが、シンプルなタイトル表示だけのプロジェクターなら、考え物だ。最後の演目では何箇所か言葉が聞き取れず、もどかしさあり。
グレーのこと

グレーのこと

ONEOR8

浅草九劇(東京都)

2017/11/29 (水) ~ 2017/12/10 (日)公演終了

満足度★★★★

パンフを見ると羽田美智子とある。あれあの?と思うや羽田美智子似の女優(否当人)が冒頭から登場し、これはどういう成り立ちの劇団だったか、と一瞬目を泳がせた(多分)。そうだった、前回(世界は嘘でできている)も私は見ており、「タレントが出演する舞台」への難癖を書いた事を思い出した。
しかし、今回はアウェイ感も気遣い感も全く感じられず、舞台に集中できた。
ドラマ的には「不幸」を乗り越えて行こうのドンマイ話に着地するが、そこに至るまでの時間、ナゾをナゾとしておきながら明かす部分は明かして笑いを成立させ、ペンディング期間延長の苛々を感じさせない。着地点への「待ち時間」を楽しく過ごせるサービス行き渡った電車の旅である。
クライマックス(謎解かれた過去の事実)の情景は悪くなく、これは羽田女史を起用の狙いが判るところ。
ただ、一人親の子育ての行き詰まりは判るとして、ぼんやり火を眺めてしまった理由が、息子から「今後親を頼らない」と宣言されたその事実であるのか・・というあたりでリアルな想像が及ばない。色々と矛盾を感じるところだ。

ネタバレBOX

最大の矛盾は、自分が火元なのに自分だけ生き残り、他の住人が皆死んでしまったこと。
次の違和感は、「茫然自失」での不作為の火災なら、「こんな犯罪者を生んでしまって」云々をリアルベースの演技で言ってしまうと違うだろう。もっと悪い犯罪者は沢山いるわけで。
母親に対して息子が「あなたとは暮らさない。連絡先も教えない」という宣告じたい、どういうシチュエーションでそうなるのかが判らない。もっと別な母親像でないと息子はそんな事言わない。
アパートの住人と息子との本当の関係もいまいち見えてこない。だから母の本当の「罪」についての診断も下しようがない。

等々、難点は色々あるにしても、役者の演技は達者なものでその魅力を引き出す舞台にはなっていた(苦しいか)。
「ベルナルダ・アルバの家」

「ベルナルダ・アルバの家」

無名塾

無名塾 仲代劇堂(東京都)

2017/11/23 (木) ~ 2017/12/03 (日)公演終了

満足度★★★★

初めて降り立った東急線用賀駅から、住宅街の中に構えられた「劇堂」へ辿り着き、潜り込んだ。初めてというのは何にせよわくわくする。不安もある。ゆったりとした玄関ロビーから住宅内のような部屋を通って入れば、立派な劇場、否劇堂である。
叩き上げの仲代達也はエリートの加藤剛とは出来が違う・・と私の居た中学校の教師(演劇部顧問や地域の演劇鑑賞会もやっていた)が言っていたが、成人になってからは「過剰な演技が臭い」と言う声も聞いた。
そんな昔の事をふと思い出したのは開演直後。今回演出も手がけた小間使い役がいかにも「型」で表現しようとする演技を繰り出す。関係性が判らず困惑する。仲代の塾はそうなんだ・・と見ていたところが次第に「言葉」が物語を伝え始めた。冒頭の違和感いつしか解消のパターン。ある種の劇世界のルールをざっくりと見せる、という手法であったかと思う所も(好意的解釈・・後付けかも知れんが)。
次に思い出したのは、同じガルシア・ロルカ作『血の婚礼』。どちらも「家」が舞台だ。家というコミュニティと他者(略奪者・侵略者)を巡る物語と見ることが出来る。
どこからそう確証したのか明言できないが、やり取りを聞く内に、これが近代的な法支配の埒外の時空であると感じる。貨幣は頻用されず土地と作物、交換価値のあるものとの交換によって暮らしが営まれており、ある場合には若い女性も交換、また略奪の対象となる。
ベルナルダ・アルバ(未亡人)の家の年頃の娘たちは、一人の男を巡って利害対立状態にあり、許婚であるはずの娘、思い募りながら諦めた娘、そして陰で男と逢っていた娘、この構図が薄明かりの中にぼんやりと輪郭が浮かび上がるように、次第に見えて来る。そして明白になったと思いきやドラマは一気呵成にラストを迎える。家の中は身内、外は敵だ。娘は「内」になろうとする男と密通する事で男と共に「敵」となり、ただし態度を明白にしたのは事実が露呈した瞬間であり、今まさに男が娘を連れ去ろうと迎えに来ようとする時。そして悲劇の結末を迎える。『血の婚礼』(新国立劇場研修所公演)の時ふと嗅いだ気がした「血」の匂いがした。原初的で赤裸々で、実はその黒々とした人の群れの中に自分も埋もれ、そんな存在である人間を、審判しようとする観客は恐らく居まい。静かに慈しみ、愛おしむ事しか出来ない。・・劇堂での、女だけの芝居は、この結末に辿り着かせてくれた。

ネタバレBOX

一人年輩のベルナルダ・アルバを演じた岡本舞という名には覚えがあり、声と喋り方から、中原俊監督『櫻の園』の演劇部顧問の役の女性に思い当たった。風貌ではなく音の片鱗から、眠っていた記憶が呼び覚まされ、懐かしい思いと同時に人間の個体識別の力を思わせられた。
が、若手の女優の一人は終盤になって「そう言えばどこかで」と思い出し、調べるとどうやら温泉ドラゴンの先の公演。・・識別力というより、若い頃の記憶力はえらいという事か。

十代の頃から認知していた唯一の劇団名「無名塾」を漸く目にしたという感慨もあって、やや興奮気味に会場を後にした。
墓掘り人と無駄骨

墓掘り人と無駄骨

MCR

ザ・スズナリ(東京都)

2017/11/08 (水) ~ 2017/11/13 (月)公演終了

満足度★★★★

想像のつかない劇団名の実像を垣間見ようと、タイトルにも惹かれて観劇。吐かれる言葉にはもっと凝縮、あと少しばかり推測の範囲の先を行くチョイスが欲しかったが、この多弁はドラマをある感動に押し上げるのに必要な量でもあったのかな・・そんな感触もある。はっきり言ってストーリーは追えなかった。終盤までは重ならない二つのドラマが、最後に繋がるのがオチで、人間の感動の類型の一つ「統合」に該当する。
ただ、メインの筋と従属する筋とがあり、メイン筋での主たる問題が、従属筋との統合を果たした時点で、どうなったのか(宙に浮いたのでは)が今ひとつ判らなかった。
幾つもの趣向が凝らされていたが、それらが劇団の特徴なのかどうか。途中注意深く観られない時間が生じ、掴みそこねた。

冬雷

冬雷

下鴨車窓

こまばアゴラ劇場(東京都)

2017/11/08 (水) ~ 2017/11/12 (日)公演終了

満足度★★★★

アゴラ劇場でお馴染みになった感もあるユニット。関西方面の純文学系演劇(軽率な呼び方ではあるが)の書き手として独特な味をみせる。
最初見えている、親族や知己が集うある種理解可能な光景の背後に、あるいは水面下に、生じているドラマを想像させ、想像させたまま答えは半分明かし残りは明かさずに終わる。後半にねじ込まれた伏線が回収されるのが終盤だからそれはやむを得ないかも知れないが。
焦点が過去なのか現在なのか・・、勿論「未来を見通す」べき現在が、過去から離陸しようとする「時」はそこはかとなくあるが、人はそうたやすく変わるとは限らない。その変わらない代表選手は、舞台となる小さな町の議員に立候補すると吹聴する変人。(元?)唐組俳優・気田睦が演じ、ドラマに不穏な要素を与えていた。

三人義理姉妹

三人義理姉妹

年年有魚

駅前劇場(東京都)

2017/11/15 (水) ~ 2017/11/19 (日)公演終了

満足度★★★★

投稿未遂につき書き直し。記憶が薄まり不正確はご容赦の程。・・地方議会の議員とは言え先代の地盤を継承した一家、家屋の奥行など劇場を贅沢に使い(その分客席数を減らしている)、運転手や、正体の知れない婦人(幽霊のようでいながら皆に認知されているらしい、正体不特定の不思議な存在・・実力派を配し、笑いを取っていた)も出入りして不自然でないセミパブリック空間を「広さ」で実現していた。
この舞台で、地方の名家の内部、にしては割合い健全な人間模様が、微妙な間、という異化を馴染ませた「語り口」で描写される。
議員(候補?)である家主(30代後半位の設定か)の妻、働かない兄の妻、教員である実の妹・・タイトルも吟味せず観ていて「姉妹の物語だな」と感じさせるのは後半。それぞれが別個の人生を歩んで居り、言わば他人、単に空間的に接点を持つに過ぎなかった者同士が、会話を交わす程度には繋がりはじめ、互いの人生をささやかな眼差しではあるが照射し合うという仕立ては、テキストと演出、舞台の設えが関連し合って全体を構成した結果としての効果に思われ、才能のありかを感じさせた。
観劇後も瞼に残るのは、「家」。生き物のようで、人間の儚い人生を見詰める存在を体現させたような。悪くない後味であった。

そんな訳で、活動停止とは恐らく発展的解消であろうと、勝手に推察している。

すべての四月のために

すべての四月のために

パルコ・プロデュース

東京芸術劇場 プレイハウス(東京都)

2017/11/11 (土) ~ 2017/11/29 (水)公演終了

満足度★★★★

「焼肉ドラゴン」や「パーマ屋スミレ」の設定を混ぜてナニした意図を作者に尋ねたい気分。吉本新喜劇風をモロ援用し、観客に向けて喋ったり踊ったりする演出にした理由は、「お笑い」要素という事で分かるのだが・・。
休憩込み3時間弱の「家族の物語」は、朝鮮・日本の不幸な歴史の物語が語り尽くされるという事が無いことを暗に伝えようとした作者のある種の屈折表現だろうか。

制服

制服

さんらん

ひつじ座(東京都)

2017/11/22 (水) ~ 2017/11/26 (日)公演終了

満足度★★★★

昨年5月の「楽屋フェス」参加で始動した後もコンスタントに公演を打ち、趣向の異なる公演四種を繰り出した後の安部公房作品舞台第二弾。前回の「どれい狩り(ウェー)」に続く50年代の安部作品を、小劇場(というより狭小劇場)で観る貴重な機会だ。
「制服」上演は65分。以前戯曲を読んだ時はもっと複雑に感じたが、舞台化してみれば・・というのも変だがコンパクトかつシンプルな舞台になっていた。このところ自分は別役づいているが「制服」にも別役実を彷彿とさせる台詞があった。もっとも別役の戯曲執筆は60年代以降で、後輩になる。共に満州からの引揚げ者で、異国語の如く日本語を用いる独特な筆致、という共通点を見出して括ることは可能ではないかと個人的には感じているが、不条理性を持つ安部の渇いた劇世界が別役の代名詞「不条理劇」の先行形態としてあった、と見る事もできるかも知れない。
ただ、安部戯曲は別役が小劇場向けのテキストであるのに比してまだ新劇の文脈の延長にあり、大劇場向きの「大状況」を叙述する要素がある。それを(経済事情もあるのだろうが)space雑遊や今回のひつじ座などの狭い劇場で上演するさんらんの作品解釈的な狙いは何か・・。そんなハテナを燻らせながら会場へ赴いた。
舞台化された「制服」は喜劇であった。はっきり「喜劇」へと舵を切る瞬間は劇の終盤であるが、前半よりその伏線はあり、人間の哀れをドライに、カラッと揚げて別役的に収めたのが今回の演出の方向性と理解した。
ただ、この作品の大状況(敗戦直前の朝鮮半島に住む日本人たち)は、他の設定と代替可能なシチュエーションではない。もっとも作者的には、太平洋戦争末期の植民地下朝鮮という設定は「事件」を多角的に照らす絶好の舞台設定だ、という事であり、権力・差別構造の上に、強烈な個々の人間の境遇や性質が絡んで、必ずしも被害と加害といった単一のテーマに収斂されない複雑な様相が描き出されている、という意味で、この劇は当時のステロタイプへの「アンチ」として提示されたものとも推察できる。・・のではあるが、(作家が不謹慎であるべきでない、というのでなく)「大状況」の事実性が立ち昇らせるテーマ性からは逃れられないのも確かな事で、事実その要素はドラマに書きこまれている。
一方、現在の日本ではステロタイプそれ自体が既に溶解し、戯曲を新鮮に読むことができる反面、暗に想定されている背景色を捉え損なうと、新鮮味を生むか、戯曲の魅力を失うか、微妙である。評価しづらかった前回の「奴隷狩り」にはその微妙さを感じたが、今回は短編でもあり、渇いた喜劇性をオチとしたのは(終わり良ければ何とやら)、正解だった。問題はその喜劇性とテーマ性との両立、それが今安部作品を上演する際の課題だと思えるのは、新劇テイストの残るテキストゆえだろうか。

ネタバレBOX

上記課題に関わるかどうか分からないが、俳優が皆若く、老獪に見えて素朴に倫理的である「ひげ」や、間もなく死のうとしている「片足」等の役の風情については、テキストが想定する像の形象は難しいようであった。戯曲が書き分けた役のキャラに近づいて初めて状況が立ち上がるという所も、別役作品を想起させた。
くじらと見た夢

くじらと見た夢

燐光群

座・高円寺1(東京都)

2017/11/17 (金) ~ 2017/11/26 (日)公演終了

満足度★★★★

前作をスルーしただけだが燐光群随分久々な印象。「くじらの墓標」再演から一年経たない今回、坂手氏のくじらモノの集大成という。それぞれ舞台となる土地、国そしてテーマも異なる過去三作が、作者によればバラバラだったそれらが今つながった、と書かれてある。「くじら」で繋がってるじゃん。と思うがさにあらず。繋ぐべき多くを繋ぎ現在劇たらしめた坂手氏に最後は脱帽する。

汝、公正たれ Let us see YOUR own justice.

汝、公正たれ Let us see YOUR own justice.

まごころ18番勝負

シアター・バビロンの流れのほとりにて(東京都)

2017/10/31 (火) ~ 2017/11/05 (日)公演終了

満足度★★★★

数年振り二度目のまごころ18番勝負は、前観たのとはガラリと様変わり。が、以前の作も事件解明モノで事実の詳細に分け入って話を作りこんでいた印象からすると、通じるものがある。

ネタバレBOX

「殺人罪2」を観劇。今回の趣向=参加型であること=を知らず、うかうかと会場を訪れたが、渡された番号の席へ案内されるとそこは数人の一般客が囲む丸テーブル。公演のバージョン4つには罪名が付されているし、会場の様子をみても、法廷に参加する芝居だと分かった。だが今回は「気分だけ(傍聴人)」とか、出来上がった芝居の中で限定的に意思表示タイムがある、程度ではなく、がっつり参加する形態だった。
これを一つの娯楽として成立させている点は感心させられる。

印象の一つとして、参加者の意見を入れながらも、ある結論へと誘導されている「物語」的な仕掛けをそこはかとなく感じるという事がある。だがそれは強引な誘導でなく、違和感を覚えない程度の、しかしある種の誘導である。「娯楽」としての成立のためには、最初の印象付け、それを覆す意外な側面、またそれを覆す要素・・と、起伏のあるシナリオがやはり必要なのだ、と納得する。
最終的にはあるルールに則って判決、量刑が下され、手続きそのものは公正さを担保している。だが、シナリオ、あるいは「誘導」に乗らず、事件のどこに着目することが真に公平、公正な判断かを、探るのが本来的なあり方だとすれば、参加者の多くが誘導に負けているのではないか、と思う所があった。
その大きな理由は、私の座ったテーブルのみ、量刑が低く、他はどこも高かったこと。他のテーブルでどんな話が交わされ、私のテーブルは何が違ったのかは分からないが、被告の年齢、犯罪に至る特殊な背景は、それを更生し得る社会でありたいと願わずにいないものだった(そう私は感じた)。その印象からすると他はいずれも厳罰主義で如何にも重い。偶然にも?今報じられている殺人事件に重なるものがあったが、似て非なるものだ。(「心証」による違いに過ぎないが、一応判断の根拠はある。)
その結果、犯罪の「程度」を見極め、重い罪といえども、その中にも罪の軽重(特に軽)を見ようとする視点を私は持つべきだと考えるが、素人にそれができるのか・・という素朴な疑問が湧いた。
犯罪者を軽く処罰した事で、「もしそれが悪い結果につながったら」という「責任」を意識すると、どうしたって厳罰になる。だが、彼をある境遇に追い込み、掬い上げる事のできなかった社会の一員としての「責任」はどうなのか。自らもそう遇されて仕方ない、自己責任思想が浸透した証しだろうか。自分はそうならない、という強い思いを持たねばやって行けない若者が多いのだろうか。それは自分が落ちそうな予感と背中合わせの証左でないのか。(単に各テーブルを担当したファシリテータの影響かも知れないが・・。)
意外な結果への驚きから、あれこれ考えさせられたが、「厳罰に処して当然」という判決文は集計結果のランクから選ばれたもので、もっと軽い場合にはそれ用の判決文が用意されていた事と思う(そこは作者を信じたい)。
鼻

文学座

紀伊國屋サザンシアター TAKASHIMAYA(東京都)

2017/10/21 (土) ~ 2017/10/30 (月)公演終了

満足度★★★★

2015年別役実フェスティバルの発起人にして別役作品未演出、昴で初演出した鵜山仁が、今度は実家である文学座でじっくり取り組んだ舞台、と言えるのだろう。
今や老優江守徹、間を取り持たせるかのように渡辺徹、主要な役に栗田桃子、得丸伸二を配して一定の成果をあげていた。
一方で別役作品を上演してきた劇団の伝統(具体的には俳優の「立ち方」)があり、一方で鵜山仁の演出家としての主張がある。
鵜山氏の主張とは、私の見方では、劇的カタルシスだ。演劇における特別な瞬間を求めて、今もしこしこと演劇を続けている・・的なコメントがパンフにあったのも、その感想を補強するものだ。「感動する別役実」・・初めての体験だ。
もちろん、他の作品にもある種の感動はあるのだが、考えたいのは今回の「感動」の種類について。
『鼻』ではシラノ・ド・ベルジュラックの舞台に立った「将軍」の過去が、種明かしのように露呈した終盤、彼は朗々とシラノの台詞を詠ずる。その舞台を今そこに観るという形で、感動の瞬間がその場に立ち上る按配である。
だが、かつて文学座でもシラノを演じた江守徹という俳優を舞台上に配して、ノスタルジーの仕掛けを周到に準備している事は演出意図による。江守徹がシラノの台詞を発する時だけ、栗田演じる女がそばに居て、微かな声でプロンプを入れていた(別の時にはそうしなかった)のも、演出意図だろう。お芝居の台詞だから老人に女が台詞を教えてやる、という設定でも芝居(本体)は成り立つ訳であり、それだけでなく、江守のリアルな身体とあいまってある種の哀愁が漂い、感動さえ沸き起こす。そこへ、これは終演後に知ったが、女の母(だと信じている女)が実はかつてシラノの相手役をやった女性で、病院内の離れた棟からその役の台詞を言うのが響いてくるその声が『鼻』初演で演じた杉村春子のものである事も、演出意図である。

鵜山仁がこの別役テキストを、ノスタルジーという共鳴装置に変じて何を打ち出そうとしたのか、と考えてみるとよく判らないが、ノスタルジー=感動だからそれでよいのかも知れない。ただ、懐古趣味に終わって良しとされるのはやはり文学座という、層の厚い演劇界の累年トップランナーならでは、なのかも知れない。

心中天の網島-2017リクリエーション版-

心中天の網島-2017リクリエーション版-

ロームシアター京都

横浜にぎわい座・のげシャーレ(神奈川県)

2017/11/06 (月) ~ 2017/11/18 (土)公演終了

満足度★★★★

木ノ下歌舞伎を久々に観ることが出来た。正直わくわく感を隠せなかったが、糸井氏演出という部分に一抹の不安も。
が、糸井幸之助を初めて評価した。相変わらずエッチ話を返しで無害化する「遅えよ!」と突っ込みたくなるやり取りは相変わらずだが(正直ウザい・・最近我慢が利かなくなった。失礼)、楽曲のクオリティが高い。今まで妙ーじかる楽曲を幾つも聴いたが、最もよく、劇にも絡んでおり、突出していたように思う。
心中話だけに、情念を切なく歌い上げる歌が似つかわしく、真顔でバタ臭く扇情的に、まるで苦界へ誘う客引きのように物語へと観客を誘う4名の脇役たちのカタチも申し分ない。心中に至るのに必要なテンション、エネルギー、モチベーションは、この演出の持つエロ力(ぢから)と、よく見れば精力あり気な人選も納得な4人のエロオーラが支えていた、と言えるか。道ならぬ恋であるのに応援したくなる主役二人の佇まいも、備えており。
裏切られた格好の女房の愛情・献身、治兵衛の嫉妬、太兵衛、侍の登場の一幕等を経て、久しぶりの再会を遂げた二人が手を取り合う死地への道行きは、何故か純粋で美しいものに見えている。これはどういうドラマ上の仕掛けだろうか・・。

余談だが、のげシャーレがあんなに広いとは知らなかった。うまく使えばそれなりの公演は打てるのでは・・と。地元でもっとやってもらえると私としては嬉しいのだが。

このページのQRコードです。

拡大