tottoryの観てきた!クチコミ一覧

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凜として

凜として

東京ストーリーテラー

d-倉庫(東京都)

2019/10/24 (木) ~ 2019/10/28 (月)公演終了

満足度★★★★

名もない庶民が、戦争という時期を経てその傷にも関わらず力強く一歩を踏み出す姿。佐世保のとある漁村を舞台に長崎弁が飛び交う物語は、冒頭に提示された逸話を軸に巧みに織られて行く。「ストーリーテラー」とはよく名づけたもの、テキストに熟練を感じさせ、役者は堅実に演じて決め台詞を外さない。
「凜」とは物語の村の出来事を見つめ時に人の間に介入する、ある出来た親子(嫁と姑)の嫁の名でもある。
役者が言葉に命を吹き込む時、言葉はイデオロギーを超え言葉にひそむ陥穽を超える。その証左としてこの芝居で唯一、「戦争の欺瞞と愚かさ」を痛罵する直裁な言葉を凛の姑すえに吐かせる場面がある。他の村からこの漁村にやって来た女(パンパン)が戦時中非道を行った地元の顔役を発見し、復讐を企てた時、彼女の話を聴いたすえは彼女の報復を押し留め、息子を送り出した自分もこの男も同じ罪人だと己の胸を拳で叩いて嘆く。この言葉は戦争責任論で言う「一億総懺悔」(誰も責任を取らない結果に落ち着く)の類型に他ならないが、すえの口から零れ出た言葉は格別の意味を持つ。「私が誰かの掛け声に踊らされて死地へ送り出し、無残に死んで行った犠牲に報いるには、二度と踊らされない事だ。」
だが・・と、ひねた私はやはり考える。A級戦犯は裁かれ、死刑に処せられたが、処せられなかったA級戦犯もいる(例:安倍晋三の祖父岸信介)。裁かれる者と裁かれない者との境い目はどこか。。物語では、住職を騙って成りすましていた、かの女が見つけた顔役は、彼を和尚と信じる村の人々に尽くした事をもって村人に慕われ、偽和尚である事も咎め立てされない。徴兵を免れていた心臓病みの兄を、ヤロウの点数稼ぎに(との表現は芝居には出ないが)戦場に送られた女の復讐心は行き場を失う。
先日の『屠殺人ブッチャー』には復讐を成し遂げる女がいた。しかし日本人「同士」という意識からは、やはり「同じ被害者である」、同質であり同じ立場であるとして同民族内に区別や対立が生じるのを回避する殆ど無意識レベルの指向性がある。ある場合には悪習となるこの「美徳」は、本当の敵への訴追を阻み、社会が良い方へ前進しようとする気配をも拒んでしまう「被支配者たち」のありように帰結する。
もっとも「凛として」には的外れな論であるかも知れない。この芝居には人間の行動の裏側にある真の願望・心情へ届こうとする(すえにおいて体現される)眼差しがある。結論ありき・予定調和の要素が排されたその先に、このドラマは調和を手にした。真情のぶつかりが調和(平穏な日常)をもたらす保証はないが、「凛として」ではこの地を訪れた絵描きの頼みに殊勝に従い、年寄りまでを佐世保の海、九十九島を眺望する石岳へ登らせる。自然が織りなす美に人皆の心は溶け、解かれていく。所有を競う狭隘な世界観が、自然や美といった所有を拒む存在の前に砂粒と散る感覚。
細やかな人間心理の機微にフォーカスした作り手の術中に嵌り、幾度も涙した。

ノート

ノート

ティーファクトリー

吉祥寺シアター(東京都)

2019/10/24 (木) ~ 2019/11/04 (月)公演終了

満足度★★★★

初日を観た。川村氏程の熟練なら客の受け止め方を鋭く嗅ぎ分け、日々修正を加えるも手慣れていそうだ(個人の想像です)、という事を考えたのは出来立てナマ物な感触の舞台であったから。原稿用紙の鉛筆書き(かどうかは知らないが)の文字が背中から立ち上るような俳優の様子でもあり。これ即ち筆一本で世に挑む作家魂の顕われ方であろうか・・そんな事を思った。
オウム事件を題材に書かれた戯曲。架空の教団を設定し、脚色はあるが国政選挙出馬から弁護士殺人事件、地下鉄サリン事件と、それと判る事跡を辿る。
当日パンフに川村氏は人間の忘却と記憶について記している。確かに事件は確実に風化している。自分の中でも・・若者たち、それも高学歴の者たちがサティアンなる工場まで建て、高度な技術を要する化学兵器を作って無差別殺人をやらかしてしまった。現代の病理が取り沙汰されたがあの問題はどうなったか。人間疎外(これも今や懐かしい単語)が再生産される構造は所与のもの、この世の自然な姿と受容されている、という事ではないか(別の見解もありそうだが)。
リアルタイムで知る者には未解決のまま思考放棄した疼きのある事件。このテーマに対峙した舞台だ。

ネタバレBOX

この戯曲での事件への言及の仕方は、一人の若い死刑囚(=事件の執行部隊)が事件の記憶を失い、そこへ(後で分かるが)既に刑死した他の幹部メンバーたちが彼に語りかけるという形。主に前半では個々の事件が焦点になるが、印象的なのは後半、各人の入団へ至るいきさつを語る場面だ。皆自分なりの必然性を実感的に語る演技は、無論実際の主犯格たちの事情を網羅していないだろうにせよこの戯曲の核であり、「勝負所」かも知れない。彼らは特殊な人間ではなかった・・むしろ時代性を担う典型的な人格であった・・。
個人史を語る者は誰しも生き生きとする。ちょうど老人から航空兵に憧れて予科練を目指した戦争末期の話を聴く時のような。戦争は悲劇だと判っていても彼の青春は他に譲ることのできない彼自身のものだ。日常生活に倦み、麻原に出会い、教えに魅了された者が確かに居た。
「いつ間違ったのか」・・どう総括し反省するべきかを事件を起こした当人(教団側)が追及する事は重要であるし、彼らを監視する事も大事だが、犯罪は往々にしてそれを生んだ社会に問いを投げる。社会の側は彼らにどういう反省を求めるのか、また何故彼らのような存在、また事件を社会は生み出してしまったか。
この芝居の1名を除く登場人物は皆教団に属する人間だが、彼らは死者である事により、一歩社会の側に寄った視線を兼ね、密かに問いを投げている。
リヤの三人娘

リヤの三人娘

まじんプロジェクト

劇場MOMO(東京都)

2019/10/22 (火) ~ 2019/10/27 (日)公演終了

寡作で公演実績は片手で収まる「まじんプロジェクト」を知ったのは、長田育恵が(おそらく初めて)在日朝鮮人を題材に書き下した「くれない坂の猫」の上演。もっともチラシを見た時には公演(再演)は終えていて歯噛みした記憶が。戦後まだ皆が貧しかった頃、高台にある診療所を舞台に繰り広げられる心温まる話とかで、芝居は観てないが、高台から見下ろす古い町並みと猫の絵の温かいチラシがイコール「まじん」となって久しかった。
そこへ今回の「リヤ」。こちらもチラシにまず惹かれ(宣伝美術:荒巻まりの・・「くれない坂」に出演もしていた事を先程知った)、奥泉光の戯曲、出演に林田麻里を認め、観劇を決めた。
もう一つの関心は奥泉光、データを後でみると芥川賞受賞が94年、氏の初戯曲という本作は近年の作かと思いきや、翌年95年3月(オウム事件直後)に初演とあり、シェイクスピアカンパニーで三度再演と大事にされた演目らしい。この4人芝居のゴリネル(リア王の長女)役は何れも奈良谷優季(まじんプロ主宰、当時はラッパ屋所属)と、所縁ある演目であった。
芥川賞作「石の来歴」以来2、3読んだ奥泉作品の印象は少々アカデミックな趣き、ミステリー調。アクロバティックな言辞を文体を崩さず駆使できるコトバの使い手。だがこの文章特技は戯曲には(特に会話には)馴染まないので、氏の劇作家としての力量にあまり期待せず、それでも演劇に魅せられて氏が戯曲を書いてしまう部分に興味があった。作者的にはこの処女作を苦悶の末に書き、今読めば未熟さが見えるとはパンフの一節。
だが、シェイクスピアの原作に則った格調とユーモアを保持した長台詞を織り込んだ翻案は、職人的文才(彫刻の美を想起させるので)・三島由紀夫を思い出す。「話が面白いかどうか」はまた別だが奥泉流が生かされていた。

といった所でそろそろ中身の話へ・・と行きたいが、実は後半の殆どを爆睡し、不覚にも眠りの最中で終演を迎えてしまった(おいおいQ)。
要因は第一に体調であったが、芝居の方も、「リア王」の知名度に頼んでか、ドラマの航海へと進水する初期の起爆がなく、エンジンをふかして前へ進む物語の「意志」を掴み損ね、私は沈没してしまった。
開幕の地獄の風景。これは悪くないが、全編一幕同じ場面、昼夜知れない薄暗めの照明では、逆に息苦しくなってくる(光はしっかり当たっているが夜の灯り)。煉獄での会話劇であるサルトルの「出口なし」はシリアスな会話劇で緊張を強いるが、こちら「リヤ」は基本が喜劇。地獄に堕ちた己らを嘆き、強がり、いがみ合う姉妹を、笑う視線を想定して書かれている。
中央には単管パイプで組まれた、ちょうど土に縦に掘った井戸を柵で囲い、釣瓶を支える塔を据えたようなヤツに(綱の代わりに)鎖を垂らす等は不気味に鈍く光って構図はいい。すばしこい「地獄小僧」役がそこに飛び乗ったりと動きの上下の効果もある。が、使われる事の無い鎖が時間経過とともに淋しく見えてきた。
荒唐無稽な地獄での話では、風景にも、人物たちにも、落語「地獄八景亡者戯」の底抜けの明るさがあって良いように思う。
明るさの加減については、「湿っぽさ」の領域に1ミリもはみ出てはならない、と行きたい。姉妹は同情を買ってはならない。
(後日若干追記)

「隣の家-THE NEIGHBOURS」 「屠殺人 ブッチャー」

「隣の家-THE NEIGHBOURS」 「屠殺人 ブッチャー」

名取事務所

「劇」小劇場(東京都)

2019/10/17 (木) ~ 2019/10/29 (火)公演終了

満足度★★★★★

カナダの作家ビヨンの2作品公演。初演を見逃した『屠殺人ブッチャー』を数ヶ月前から今かと待ち続け、観劇日を迎えた。2年前に同じ「劇」小劇場で上演された同じ扇田拓也演出による『エレファント・ソング』も同じ作者。今回の一方の作品『隣の家』は名取事務所への書き下ろしという。
再演ではキャストが2名変わり、ついその事を意識して観てしまう。男性3名と女性1名の4人芝居。女役は初演が森尾舞(今回「隣の家」に出演)の所、渋谷はるか(中々見合う人選だ)。若い弁護士役も名取事務所の常連・佐川和正の所、西山聖了。演出者も初演の小笠原響は今回「隣の家」演出のため、代わって『エレファント・ソング』を演出した扇田拓也が当った。
という事で、果たしてどんな違いが・・と言っても初演は観ていないので想像しながらであったが、最終的にはそんな事は忘れた。上演前半で各所に残した違和感は全て回収され、この架空の国をめぐる実しやかなドラマをリアルに想像させられた。
久々に舞台で観た渋谷はるかはやはり印象に残る演技者。

ネタバレBOX

謎解きの面白さも然る事ながら、究極、復讐というものをどう考えるかを迫られる劇。
近代以降の国民国家では、国民は国家権力を唯一の暴力装置として承認し、仇討ちの権利は返上した。銃刀を所持することは禁じられ、ある無法な所行がどのような罰則に値するかを決定するのは国家であり、加害者を罪人と認定し、刑罰を下すのも国家である(民主国家は民意によって実定法の改廃は出来ても権力装置の本質を変えるのは困難)。国家の秩序維持のための方法は、加害行為に応報する効果は第一義でないのに国民国家の「常識」として受容されている訳だ。果たしてそれは正しいあり方なのだろうか・・。
芝居では、ある国で起きた内戦で一方が収容所を作り民族蹂躙の陰惨な手法を実践し、紛争終結後に逃亡した将校の最後の一人が、対立民族側の追跡組織につかまり、制裁を加える場面が後半展開する。
必殺仕事人は必要であったという話なわけだが、現実起こった事として女がそれを語るとき、泣き寝入りさせられたあらゆる「被害」に対しもう一つの選択肢について考える事を促される気がする。
女は自らが体験した悲惨な出来事ゆえに、加害者に対する感情を切り離す事はできないが、組織の一員として正義が行われる事への信念を貫いている形象があった。
過去の自分(少女)を見つめ、己の今の在り方を検証するかのような終幕の構図は、「解決」の甘味な後味を遠ざけ、秘かに問いを残した。
ビニールの城

ビニールの城

劇団唐組

下北沢特設紅テント 本多劇場グループ テント企画 (仮称)下北沢交番横小田急線跡地 (東京都)

2019/10/18 (金) ~ 2019/10/20 (日)公演終了

満足度★★★★★

「不評」投稿が続いたが、これは手放しの賛辞。下北沢の空き地にテント初進出の巻。ネタバレになるが(凡そ想像される事だが)屋台崩しの真正面は新しくなった小田急及び京王の駅舎のネオン。夜の灯りを見せるラストと言えば我が初観劇新宿梁山泊「青き美しきアジア」の都庁ビルの窓明かり(25年前)を思い出す(実際その後このパターンは無く、上記観劇の衝撃を思い出した瞬間だった。
「ビニールの城」は一風変わった屈折した者同士の恋愛ストーリーで主役は男女とも一人ずつ、判りやすい。初演は第七病棟で石橋蓮司と緑魔子がこれをやったのかと思いながら、「復活!」したらしい稲荷氏とお馴染み藤井由紀の掛け合いを眺めた。唐組俳優を初めて観たオフィスコットーネ『密会』、その異常性人格を本物かと疑うリアルさで演じて以来の主役・稲荷卓央。彼不在でこの演目はやれなかったのではないか・・とさえ。
予約して訪れたが立見。しかし疲れを忘れて、目が望遠機能を持ったかのような錯覚に陥りながら役者の身体に釘づけであった。この心地よさは何だろうか。

パーマ屋スミレ

パーマ屋スミレ

よこはま壱座

KAAT神奈川芸術劇場・大スタジオ(神奈川県)

2019/10/18 (金) ~ 2019/10/20 (日)公演終了

満足度★★★★

TAK in KAATという地元劇団枠に、アマ劇団での上演をあまり聞かない鄭義信作品が登場。どう料理されるのか興味が湧いた。
戯曲に書かれたある状況での感情の迸りを精一杯演じ、見せ場をクリアしていた。が、限界のようなものも感じる。一つは戯曲そのものについて。鄭の在日三部作の一つとされるが『焼肉ドラゴン』も含め辛酸を舐めた先人と後の世代への継承の風景が美しく描かれる。素材は在日社会でも、ドラマには普遍性がある、悪く言えば一般的なのだ。笑いを必ず忍ばせる鄭氏だがこの「笑い」は共有される苦しみ悲しみが深いほど生きて来る。ただし苦しみがそこそこ程度でも笑いは成立するように書かれている。水面下の苦しみ怒り哀しみ辛さ、理不尽な思い、絶望・・鄭氏はそこに光を当てる事に拘泥しないが、台詞以前の人物の存在そのものから滲み出るものがリアルの、引いては笑いの土台になる。要は「難しい」戯曲には違いないのである。
例えば民族文化を負った在日らしさ、制度的な限界、そこから来る諦観、人生観、炭鉱という環境、経済成長という時代感覚のリアルが、掘り下げられれば掘り下げられるほどに情感が満ちて来る。芝居として一応成立するラインから、その先の厚みをもたらす伸びしろが長いタイプの作品という事になるか。

今回のよこはま壱座の舞台は、しっかりした美しいセットと役者の頑張りで(役年齢とのギャップに慣れるのに時間を要したものの)戯曲が求めるものをクリアし、胸を突く瞬間もあったが観終えてみるとやはり「その先」を求めている自分を見出す。特にラストに掛けては(終わり良ければというように)ドラマ=人々の人生が集約されていく、あるいは俯瞰される地点に連れて行く何らかの作り方が見たかった。
部分的な難点を挙げればきりがないが、例えばKAATの特徴だが袖幕がなく役者がはけるのに時間を要し、しかも隠れる場所が見切れ、ラストで引いていくリヤカーは上段の上手奥へとはけるが、奥には行けないらしくそのまま置かれて見えてしまっていたり、土の道をカーブして舞台となる床屋が平場に立っているが床が黒の板張りで床そのものに見えて興醒めだったり。また初日のせいか下手袖の裏から声や物の接触音がクリアに聞こえたり・・。演技面も結構できているだけに、ニュアンスを捉え損ねた物言いが一つ挟まれるだけでも素に戻りそうになる。寸分も気を抜けない芝居である。
この演目に挑戦しここまでのレベルに到達した事に敬意を表するが、この芝居をやる以上はもう一つ上に行きたかったというのも正直な感想。

ファーム

ファーム

フェスティバル/トーキョー実行委員会

あうるすぽっと(東京都)

2019/10/19 (土) ~ 2019/10/20 (日)公演終了

満足度★★★

本年度より統括が変わり(3代目)新たな試みもあるらしいF/Tトーキョー、毎回1、2本観られればラッキーで今年もオープニングの「セノ派」のパフォーマンスは目にとどめたが、気になっていた松井周作「ファーム」韓国人演出バージョンもどうにか観る事ができた。
「ファーム」は私のサンプル初観劇の舞台で、芸劇らしい舞台の使い方と近未来の雰囲気と役者の佇まい、静かな会話の中からじわじわと異形が首をもたげる感じが好感触だった。
が今回の演出はまるで違った(演出家本人も作者の思いとは正反対の方向かも知れないと吐露)。その評価は難しく、字幕を介しての観劇という事もあり身体パフォーマンスに寄ったのかも知れないが、初演を観て期待した者としては、その片鱗だけでも感じたかった所、換骨奪胎というか、初演では「異形」の根底に静かに流れていた愛情・愛着のような気分を、激烈な愛情表現として前面に出してきた。
さて、それが作品の核であるはずの「近未来」の人間のありようを探る試みとしてどうだったかと言えば、クローン技術や遺伝子操作といった生命倫理の問題は吹き飛んでしまい、達者な俳優らの声色・身のこなしの芸を見ることは出来たがより高次な「作品」への貢献として印象づけられる事がなかった。
作り手はこの作品の上に乗っかって「遊んだ」のだろうが、作者が最も注意を割いた部分を(手に余ったのか)省いてしまった、と見えた。
残念ながら自分の感性ではこの舞台の意義を掬いとることができなかった。

『パンパンじゃもの、花じゃもの』

『パンパンじゃもの、花じゃもの』

劇団天然ポリエステル

小劇場B1(東京都)

2019/10/17 (木) ~ 2019/10/20 (日)公演終了

女性バージョンを観劇。
今月は初の劇団に見える機会を多く得た。一定水準の俳優を客演に呼べる分母を形成し得た若手集団の一つ、という所。初見でなかった俳優は真島一歌くらい(が観劇中は別の女優と勘違いしていた)。話もさる事ながら俳優に見せ場を作るドラマの趣、つまりは最後は皆良い人、過ちは許され、精一杯生きてるノダ、という。戦後の混乱期はそうしたドラマにはうってつけの背景設定で、女優冥利を体感するに外れなしと言われる役=娼婦たちの話(男優ならば兵士なのだそう)。
話はと言えば、自己犠牲の美学で批判精神の脆弱さを糊塗するお決まりの構図で、土地の権力者の横暴も「俺はお前に本当に惚れていたんだぁっ」の一言で免罪される心地悪さは、無論これを現実に置き換えればの話。芝居のほうはテンポよく俳優も見せ場でそれぞれの魅力を存分にアピール。生い話ではあるが伏線が思わぬ展開で回収な場面もあり、健気な女性たちの残像もあり、無為な時間を過ごすよりは幾らか良いと思えるちょっとした料理。

ネタバレBOX

マジメにエンゲキやってるとは思う。が、演劇やるならむしろフザケてほしい気がした。このドラマの精度で収まりの良さを狙うか・・というのが正直な所。娼婦はある意味反骨の象徴だがこの芝居と来たら真面目さを発揮して親方との良好な関係を維持して偽の愛に甘んじて終幕。親方の力の傘の下にある奴隷根性が美談にすり替わっている。
演劇が「今ここ」を反映するとすれば、まあ現状追認、今の僕らで十分と、、これは淋しい訳である。作り手の焦点はそこでは無かったのだろうとは思うが、史実の庭先を借りるなら、このモンダイに行き当たりたいもの。
小刻みに 戸惑う 神様

小刻みに 戸惑う 神様

劇団ジャブジャブサーキット

こまばアゴラ劇場(東京都)

2019/10/17 (木) ~ 2019/10/20 (日)公演終了

満足度★★★★

何作目のジャブジャブだろうか。今回は主宰はせ氏がリスペクトを表明する平田オリザの拠点、アゴラにて、今までになく「考えオチ」にこだわらず自然の流れを尊重した台詞運びが印象的な舞台であった(はせ独特のカーブのきつい端折り台詞も時折掠めるが)。
この「変化」は(記憶が正しければ)公演時いつもキャップを被って立つはせ氏が好々爺な装い、ベレー帽にチャンチャンコという変化とも関係するのだろうか。しかも物語はとある劇作家の葬儀が執り行われる斎場の控え室に出入りする者達の人間模様。よく判らない「釣り」関連の細かに挟まれる逸話などもどこかはせ氏らしいのだが、話の軸はシンプルに死者の弔いであり、湿っぽさを嫌うはせ氏の筆も、死者を偲ぶ残された者をサイコパスにする訳に行かず、理想的な離別が描かれている。
霊の一人として登場する劇作家本人の具体的なエピソードは控え目で、周囲の人間との「関係」が彼らの様子から逆照射するように浮かび上がる所は泣ける。はせ氏は自分に当てて生前葬よろしく理想的な別離の形を描いたものとシンプルに想像したが、冗談か本気かは判らない。だが少なくとも、同じ日に斎場の2階の会場で葬儀予定の元政治家に作者が当てつけたような最後の顛末(暗転中の録音音声で、家族葬のはずが通夜を明けての告別式には各地からぞくぞくと弔問客が訪れマイクロバスも仕出弁当も足りず電話はひっきりなし、数十の弔電は全て1階の楡原家に当てたものだとの報告等々がかまびすしく・・)は地味に笑えた。微妙なバランスの上に成立した秀作。
・・なのだが、これは芝居にも登場する二代目僧侶にどこか重なる「得体の知れない」作・演出はせ氏の意図に沿った結果なのかどうか・・作り手のこだわった部分とはズレた所で秀作か佳作かいまいちか、評価しているように思えたりする。はぐらかしのジャブジャブの後味はやはり残るのであった。演劇とは奇妙な代物だ。

なにもおきない

なにもおきない

燐光群

梅ヶ丘BOX(東京都)

2019/10/02 (水) ~ 2019/10/23 (水)公演終了

満足度★★★★

梅ヶ丘BOXの狭小空間の圧迫感を活用した舞台。チラシの時点で念頭にあった『屋根裏』(2002年以来再演を続けるヒット作)をやはり思い出させる、特徴ある空間に多彩なエピソードを盛り込んだ作り。四角の空間(屋根裏)や右から左へ下る坂(今作)じたいは、その実体をアピールしている訳だから、ひどく具体性を帯びるのに、言葉が喚起するイメージによって何かを象徴する抽象的な図形のように見えて来る。「屋根裏」のように、じっと見てると別物に見えて来る錯覚は、単なる傾斜の板だけでは起きなかったが、狭い斜面上を行き来する二次元感覚から、ふと奥行を見せる照明が入ったり、(観客を含めた)劇場空間を感じさせる演出など趣向は考えられている。
また今作では、奇妙な振り付けで無言で斜面を行進する姿や、シュールなシーンが多彩さを印象づける。失踪亭主や炭鉱、秘密の埋葬空間といったエピソードは具体的な「物語」に属するが、中でも炭鉱の筑豊方言を使っての台詞は書き手・坂手洋二の腕を見せつける名調子で、具体と抽象のバランスの崩れを巧みに回避していた。
ただ「なにもおきない」とはワードとして別物の「なにもしない」を接合するあたりは力技であった。伏線とその回収という点ではこのワードを示していれば収まりよかったかも知れないが、口当たりの良さを求めているのか君は、と一蹴され兼ねない気もする。

ネタバレBOX

坂手洋二・燐光群がしばしば作るアイデア舞台を思い出してみた。
1シーンを分数で縛った『8分間』、『3分間の女の一生』。
劇場の使い方に凝った『最後の一人までが全体である』(観客はステージ奥正面の少し高めの扉から入場、客席からの視線を浴びる。開演と同時に劇場に閉じ込められる)『ゴンドララドンゴ』(スズナリの何列目かに塀を据え、視界の下半分を見えなくした)、『お召し列車』(横長の座高円寺を列車の内部に。「8分間」は駅ホームだった)
そして特徴ある装置がコンセプトそのものである、『屋根裏』そして本作。
その他、翻訳物だが旅客機のコクピットのみで展開する、様々な航空機事故を再現する『CVR(チャーリー・ヴィクター・ロミオ)』。梅ヶ丘BOXだったが収容数僅かな間隔の空いた対面客席を作り、その間を役者が駈けずり回る『犀』。
梅ヶ丘で見た印象的な舞台には『象』『ブーツ・オン・ジ・アンダーグラウンド』もあった。長く観劇している劇団の一つではあるが観劇本数は最多かも。個人的な思い出に浸ってしまった。
どん底

どん底

新国立劇場

新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)

2019/10/03 (木) ~ 2019/10/20 (日)公演終了

満足度★★★★

黒沢明監督の日本版「どん底」以来つくづくこの作品が好きである、と今回も実感。ただし数年前初めて観た原作版の舞台は、黒沢版が染み付いているからか、最終盤のやり取りが長く間延びの印象は今回も然り。世の中を見切った者らがそれぞれの仕方で日々を傷つき傷つけ合いながら逞しく生きる様は、やはりどこか江戸の長屋話の登場人物に通じ、群像の中に輝く生が描かれる珠玉の一編であるのは確か。

ネタバレBOX

ボロを纏った心は錦の長屋住まい達が、空腹を忘れ利害を超える象徴的瞬間は歌。黒沢版ではサイコロ勝負をしながらお囃子を口ずさむ。「こ~んこ~んこんちきしょう」「おひゃいと~ろ」「てれつくつ、ちきちん」「へえどっこい!」(落語の「祇園祭」では拍手の起きる所)。今作はロシア風の旋律を群唱する(音楽:国広和毅)が、あうんの呼吸で節をリレーしてアンサンブルのある黒沢版の躍動感は変えがたい。斉唱だと「心は一つ」の瞬間を作るがそこが綺麗過ぎる(独立した個の存在が見えるような演出も可能かも知れないが難しそうである)。
文学座若手・五戸真理枝演出は初めてだがしっかりとした構成力を感じさせた。劇中劇の構成だが、煩わしくならず、加筆は最小限にとどめて効果的であった。視覚的に圧倒される舞台装置も効果的。ストーリーを知る者であるので、一風変わった場所での上演を堪能という所。
惜しい部分も。最後の顛末を知っている目には、物語上はそこに居ないはずの役をやる役者が皆に混じって歌っているのが、変に意味を持って見え、気になった。
またこれは原作の問題だがニヒリストのサーチンに、舞い来って風と消えたルカが憑依したかのように熱っぽく語る最終場面。黒沢版では三井弘次が遠い目をしながらふと「甘い」台詞を吐く、そんな自分にふと気づいて「おいおい」と戸惑う様子がうまく撮れていた。サーチンは普段の振る舞いの演技も中々大変な役どころで、舞台では私には大変そうに見えた。ちょっと映画版をなぞり過ぎか。
小川絵梨子・新芸術監督の下、主催公演はオーディション方式を採用。今回の出演者は殆どが知らない役者だったが実力あり。容姿端麗映像向きの女優は声がナチュラルで台詞が聞こえない、演劇としては押し出しが弱い面もあったが、他がよく出来ているので相対的にそこが目立ったのでもあるか。
しかし最後のサーチンの「主張」は、言葉の内容そのものを聞かせる、というのでは芝居として収まりが悪い気がした。昔ならともかく・・そうした言葉を吐いてしまう彼自身の中にある、「今」起きつつある変化とは何なのか、とか。しかしそこは「劇中劇」として見れば、あとは観客の解釈に・・という受け渡しが無理なく成立しているのであるが、もう一歩ぐっと踏み込み、迫って欲しい気がした。期待度が高すぎるか。
レッツゴーギャング

レッツゴーギャング

劇団東京ミルクホール

小劇場B1(東京都)

2019/10/09 (水) ~ 2019/10/14 (月)公演終了

満足度★★★★

演劇部をそのまま大人にしたような女子劇団がある一方、男子オンリーもある。開幕ペナントレースに近い雰囲気を感じたのは単にそのためか。男子体育会系。
もっともこちらは女役を男子がやる。主宰佐野バビ市本人が女装にこなれていて、大衆演劇の出し物よろしく途中日舞を披露。登場だけで拍手をもらっている。
この集団、以前space早稲田での北村想戯曲リーディングという企画の一作品を受け持ち、所属劇団員を含めた俳優の切れの良さと肩の力の抜けた劇の捉え方、自由さが印象的であった。いつか観たいと思って「漸く観劇に至った」という思いだが、随分歳月が流れたと思いきや未だ3年だった。
笑いのための台本で、ガバと黒幕を落とせば笑点の舞台。演者それぞれの物真似に始まり、本筋はリアル返上の荒唐無稽なスパイ物? 設定は昭和一桁としたがあちこちで現代が無節操に出入り自由。しかし犯罪集団と官憲との追跡劇の行方を、いつしか追っており、不意にホロリとさせる所も。だが基本お笑い興行。

PROMISED LAND~遥かなる道の果てへ~

PROMISED LAND~遥かなる道の果てへ~

ネオゼネレイター・プロジェクト

「劇」小劇場(東京都)

2019/10/09 (水) ~ 2019/10/13 (日)公演終了

満足度★★★★

初観劇の集団。昨年1月東神奈川での豪快活劇「浜の弥太っぺ」にも(ゲスト?)出演していた大西一郎主宰「ネオゼネ」を一度観たかったが、初見は躊躇するもので。俳優陣で観劇を決めた。神奈川に所縁のあるユニットと聞くが下北沢「劇」小劇場にて出迎えたスタッフや観客にも何処となく「所縁」な雰囲気が。
不思議な快い味わいは独自のもので、予期せぬ劇世界の発見は視界の開けるような嬉しい瞬間であった。多彩なうんちくを役者が喋る時間は(所属俳優がたまたま出演もしていたが)ジャブジャブはせひろいち氏の文体に似、後半はゴドーのもじり、というよりゴドーの二人に別役風な秀逸な対話をさせ、舞台には風が流れ、時に疾風が吹く。人は旅人(人生は旅)であるという暗喩、達観、旅人でありたい憧れと切望、言わばロマンこそ「物語」の命脈。出会い又別れ行くも旅人であるが故。人生の答えへ導く風の道が、あるいは扉が、人それぞれに隠されていると物語は告げているような。

終夜

終夜

風姿花伝プロデュース

シアター風姿花伝(東京都)

2019/09/29 (日) ~ 2019/10/27 (日)公演終了

満足度★★★★★

風姿花伝プロデュース第一弾を飾った「ボビー・フィッシャーはパサデナに棲んでいる」の同作者の作品。演出然り。「パサデナ」と同じく夜部屋で交わされる会話を聴き入る濃密な会話劇であるが、前回は何処か外出から帰宅した一家族のそれ、今回は母の葬儀で久々に顔を合わせた兄弟とその連れ合いとのそれ。老成による退廃と傲岸さ、ナイーブさは岡本健一にしか出せないのでは、と思わせる嵌り具合。栗田桃子、どこかで見たが誰だったか(例によって役者名チェックせず観劇)、思い出せない程の役柄の振り幅・・等々言葉にするだけ野暮に思えてくるので止めにする。
家族という内臓の脈動に4時間弱(途中休憩2回)、どっぷりと浸かる贅沢な時間であった。
亡くなった中嶋しゅう(「パサデナ」に出演)の「5回までは応援する」との言(遺言となった訳だが)に応えた風姿花伝プロデュースのその回を迎えたが、もう5回は続けて欲しい。演目の選定は大変だろうけれど。。

ネタバレBOX

4人の人物の柄がくっきりと分かれており、取り合わせが絶妙。一方のカップルの男は他方の女とどこか相性がよく、逆も然り。幸福な組み合わせでなかったらしい夫婦はしかし、互いの関係の取り結び方の模索を突き進めた結果である所の風景を垣間見せ、一方の非がより際立って見えるケースでさえ、ある種の対等さ(つまりそれが互酬関係を保持しているという事な訳だが)を感じさせる。特殊な例ではなく、大なり小なり男女が陥る倦怠を互いが言葉を探し、過激にせよ交わす事で、顕在化させているとも言える。人が見る夢が砕かれた時人はどう生きるかを眺める劇と言い換えるも可か。

男を困らせている女は、決別こそ最良の解決だと最後には思わせられる(同じタイプの女性をよく知るので非常によく判る)。だが彼女という存在を俯瞰で見れば(受話機を置いてみれば)、中毒患者と同じく己が桎梏から逃れようともがく存在。哀れで愛おしく見えてくる。
自分と同じ考えを相手に強要しながら甘えたがる身勝手な男は、ある時まではきっと女の関心を引き出し、最後には女に幻滅を与えたらしいと推測されるが、退廃的な兄より余程感情がストレートで人間的に見え、心の離れた妻に何も出来ない哀れさが募る。
この劇に何を思えばよいのか判らないが、人の心模様が充満し、役者の見事な台詞と身捌きを通してそれに触れる喜びがある。
ゆうめい『姿』

ゆうめい『姿』

ゆうめい

三鷹市芸術文化センター 星のホール(東京都)

2019/10/04 (金) ~ 2019/10/14 (月)公演終了

満足度★★★★

下北沢演劇祭いらい久々2度目のゆうめいat三鷹。情報ゼロ・期待せずの初観劇(at下北沢)は終ってみれば面白く、作者の分身である男が体現する被虐を若い俳優の持てるエネルギーがギリギリ昇華するも、昇華より被虐の事実性(ドキュメンタリー性)に利があった、という記憶。私小説的舞台だけにネタの枯渇を心配したが(勝手な心配だが)、その後も公演を打ち、今回の三鷹公演では、やはり被虐の体験告白的要素をベースにしながら、独特な舞台を作った。
体験に基づく事実性が滲む舞台と言えば、例えばハイバイがそう。これと守備範囲は異なるが、確かに現代性があり、ウェルメイドでなく痛みに向き合わせる舞台にこだわろうとする作り手の意思を感じる所あり、舞台が提供するものを素朴に楽しんだ。
今回足を運んだ決め手は俳優陣だったが(最近俳優で観劇を決める事がしばしばある)、期待にたがわず「独特」の劇世界を支えていた。

ワーニャ伯父さん

ワーニャ伯父さん

都市雄classicS

アトリエ春風舎(東京都)

2019/10/04 (金) ~ 2019/10/07 (月)公演終了

満足度★★★★

アトリエ春風舎で時に遭遇する才能の萌芽(いや既に練達の域?)。端的に面白かった。
ワーニャ役を演じる事になったうつ患者がだけが部屋着状態で、他はエンジ色の白衣(色付きでも白衣と言うらしい)をまとった医療スタッフ。このうち体型・髪型の似た女優2名の固体識別に時間を要し、また役の掛け持ちもあり、声量の加減も様々であるので今何が起きているのか分からない時間が結構ある(体調によってはそこで睡魔が襲う)。だから一度戯曲をおさらいして観るのが理想なのだろうが、前知識がなくとも見られる。で、きっと面白い。舞台には病院の時間が流れており、その枠組の外から透かし見る「ワーニャ」は、本題ではあるが形として本題でないという構造であるので、見れただけお得というやつ。さらに終盤では本域の芝居に浸かることが出来る。
うつ病患者の風情がよく出来ている。最初、劇をやってみようという構えから読みが始まり、やがて役になり切ったかにも見えるが、後半、暫くワーニャが登場しない場面では上手奥で他の役者が喋っている間、何やらロープを持って来て天井に掛けようとして諦めたり、水を張った洗面器を持ち込んで顔を突っ込んだ所を看護師に止められたり、どこからかナイフを手に入れ腕をまくった所で看護師に止められたり・・笑えないがコメディである。
演技エリアはほぼ上手奥のベッドとその周辺。舞台手前には来ない。他の役も同じくだが、役者自身と劇中の役との微妙な距離がキープされる。この「距離」があるからこそ、飲み込み易い青汁の如く、伝わってくるものがあり、作品の巧みな媒介のあり方が探られていた。笑える美味しい場面が多々ある。役者も柔軟に機敏によく演じていた。

役者と役との距離は、観客と役との距離を縮める、という仮説を立ててみると、「現代のどこかの病院での上演」という設定はチェーホフの時代との時間的距離の縮め、我々に近づけている。ベッド上で語る終幕前のソーニャの台詞が隣りに佇むワーニャ役の患者の中に沁み込んで行く様を、自分の事のように眺めていた。

異邦人

異邦人

劇団民藝

紀伊國屋サザンシアター TAKASHIMAYA(東京都)

2019/09/26 (木) ~ 2019/10/07 (月)公演終了

満足度★★★★

民藝への書き下ろし第2弾となる中津留章仁戯曲。悲壮感目一杯であった前作とはガラッと雰囲気を変え、地方都市の日常の変化をゆったり流れる時間の中に描き出していた。劇団銅鑼に合いそうな(イメージ狭すぎか)最後にはほのぼのとした大団円を迎える芝居は中津留作品では希少、確かにパンチが弱いと感じる。ただ「心温まるいきさつ」には、テーマである所の外国人(本作ではベトナム人)と、現在の日本社会と人が出会う接点のリアルな風景があった。

今作では外国人労働者(技能実習生)の搾取や人権無視の「被害」状況よりは、ベトナム人労働者と日本人との関係が一定程度形づくられた「その先」の段階が描かれている。取材先がそうだったのか、主役樫山文枝が生きるコメディ調に合う設定を選んだのか判らないが、舞台となる洋食屋をはじめ老齢で農家を営む男、外国人を雇い入れる地元企業の上司や管理職も、外国人との共存は大前提と考えている、事実接点がある、その状況での悲喜劇となっていた。

(中津留にしては)物足りないと感じるポイントは、地元企業で働くベトナム青年が職場に嫌気をさして仕事を休み、一方「ベトナム人従業員に手を焼いている」と主任が上司に相談している案件で、幾許か仄めかされた人権侵害や搾取の顕著な実態はなく、拍子抜けするあたり。
相談役になる団体職員が、件のベトナム青年と主任を引き合わせる事2回。やがて見えて来るのは文化の違いによる認識・感情のギャップであった。
ヘイトに通じるネグレクト、つまり互いをヘイト出来る距離が保たれたケースではなく、逆に関わりが生じたからこその問題。仲の良い者同士が比較的小さなこと(新婚夫婦が味付けの好みでぶつかる的な)で反目してしまうケース。これは歩み寄ろうとするが故にこじれ、離れてしまう、ある意味で一歩進んだ望ましい関係の提示とも言える。ファンタジー要素はあるが、舞台が地方都市である所に現実味がある。
程よい距離を持ちながらの共生という事では、外国人の居住する大半の地域でそれは実現されている事を考える。外国人が「知人」となる職場の風景を思い起こすと、相手が片言だろうと一旦認知してしまうと「○○国人」という属性は後退し「○○さん」になってしまう。だから問題化せず意識もされない(集団になればまた違うのだろうが)。パンフに曰く作者が「この問題を取り上げている作品を見ない」のも、そのあたりが理由かと推量した。
日本人にとっての「外国人」を意識させる、印象的なシーンがオーラスにある。・・それはただ、今や常連となったベトナム人たちがいつもの風景のように洋食屋に入って来る、というだけの描写なのだが。俳優のラインナップを見ると、店を訪れるだけのベトナム人役として5名ばかりが配されている。これが見事に「東南アジア人」となっている。髪型、会話の調子や風情は、私にはベトナム人かインドネシア人かフィリピン人かペルー人かの違いまでは判別できないが、ある共通性、開放的で直接的で、己に対する自然体の誇りがあり、人に対する愛着を表わす笑顔を持ち・・といった印象を体現している。
息子に店を譲ろうとしている一代目とその夫人が、彼らを迎える光景の中に、お題目でない共存を示唆する種を見る思いがした。言葉を連ねる作家だが、時にこういう場面を作る。そこが不思議な魅力でもあり、やはり捨てがたい作り手である。

ネタバレBOX

外国人労働者の受け入れ条件緩和をした先般の法改正は、「公式に外国人を受け入れる」即ち可視的状態に置く=踏み込んで認知するという事が、恐らく前提だろうと、我々は考える。
(むろん好意的解釈。嘘と掌返しの安倍政治に疑念の目を向ける人もいるだろうが・・私もその一人。)
が、芝居はその前提を尊重して作られている。ご都合主義は織り込み済みだが、実際、行政の末端職員や当事者は目の前に居る外国人労働者・実習生へ一定のコミットをしているのかも知れない。そのあたりの情報は先述の通り薄いが。
体育の時間

体育の時間

玉造小劇店

ザ・スズナリ(東京都)

2019/09/26 (木) ~ 2019/10/01 (火)公演終了

満足度★★★★

中島らもが生前リリパットアーミーなる劇団を作っていた事を随分後になって知り、震災の直後にあった公演『桃天紅』(山内圭哉演出)で、らも舞台の世界を垣間見た由。件の劇団の演出を担当したわかぎゑふが元団員らと立上げた劇団を知ってより2014、2015、2019と観てきて今年は2度目だが、中島作品とは皆どれも毛色の違う割かしマジメなストレートプレイであるので、これを関東で観る意味は何だろうとつい考えてしまう。
関西弁。約一名喋ればたちまち新喜劇臭が立ち籠める女優さんが居るが、風情ある関西弁の芝居と言えたのは前作くらい。関西弁自体に既にプレミア感は無い昨今だが。わかぎゑふ女史は歴史上の出来事を題材に戯曲を書く事が多いようだが、笑い多くフィクション性の高い演出が施される。
今回も要所で笑わせ、役者も元気があったり達者だったり(唯一見知っていた俳優みやなおこは前見たのと全く異なる役柄に感心。)
女子スポーツ界の黎明期を、十代が通う当時は珍しかったスポーツ専門の学校(女子体育学校)を舞台に描いた佳作である。運動選手役は一人を例外として皆男性が演じ、これが悪くない。現在のスポーツがどう成り立っているかを改めて考えさせる先人の苦労話であり英雄譚。
舞台となった時代(大正・昭和)、古い観念や女性蔑視・処遇格差の壁に向って挑んだ先人たちを、綺麗事でない側面も合わせ描いている。そこに作者の「思い」を感じ取ることはできた。

ネタバレBOX

「秀作」でなく「佳作」の語にとどめたくなる原因を探ってみた。「悪い人」が出てこない。醜さ(運動なんかやる女はそうだ、との言い)を描いたのは勇気であるし、男性が演じることが緩衝材となり客はためらい無く笑うも可となる。だが歴史を作った人達を「讃える」物語すなわちプロジェクトX(今はプロフェッショナル)は、取り上げた対象そのものが孕む問題でケチを付けづらい空気を作る。同じスポーツでも日本では全体が揃って動く規律を重んじるが、そうでない在り方を探る契機はこの芝居にはない。私は「メダルを幾つ取るか」を言い募る五輪報道の在り方にスポーツ界の腐臭を嗅ぐ思いがする。
劇中戦前のロス・オリンピックでメダルを取った有名な前畑秀子が体育学校を訪れるシーンがある。「私は天才」を連呼しながら自分を鼓舞し・・と笑えるシーンを置いた後、再び登場して主人公の走りに才能の原石を見て声をかける。先に主人公から「水泳は好きですか?」とシンプルな質問を受けて固まってしまった前畑が、その質問に答えるのだ。「天才となった瞬間から私にとって水泳は自分だけのものではなくなった。使命があるの」。国威の発揚、戦争の代替手段として戦う、といった「使命」のもと過酷な訓練に耐える日々を送る一流選手の像が浮かんで来るが、「これを美しい姿と感じてしまって良いのか・・?」という素朴な疑問が湧く。彼女らに期待しているのは誰だろうか、と。
この芝居のもう一つの評価点は、スポーツ専門の学校運営のため金策に奔走する校長の姿。スポーツをやるには「金」が要る事を(笑にまぶしているが)赤裸々に描いている。「汚い面」と見えなくないが、それはスポーツも人気商売、「好きな事に打ち込むこと」を許される言わば特権的立場か否か、という尺度があるという事でもある。
能力を伸ばす事は人の自然な感情に適っており、(厳しい訓練であっても)それに打ち込む事が、目的でありたい訳である。ところが国のためだの、応援者のためといった別の目的が(自ら望まず)生じた瞬間、苦しいことの言い訳に「使命」は使われ、使命のための労苦を何かで代償しようとする交換の余地が生じる。
本来「好きな事」に専念することが許される実力を持ち、それに対する応援者が現れる(即ち人気を得る)、シンプルな交換関係であるのに、なぜそこに「使命」が必要であるのか。「使命を背負うこと」で得られる利得は何か。いかがわしさが見えて来ないか。
そして舞台のラスト、校旗と日の丸を両手に持った生徒たちが校歌に合わせて踊る名物踊り披露される。日の丸の好き嫌いは人それぞれだが「何のためのスポーツか」を考える時に日の丸では、如何にも無神経な印象が残る。
娯楽性が高いか否かは好みの問題だが、別の在り方を見せる・当り前を疑う視点の有無は私には演劇の生命線。という意味では、現状追認な本とも言え、そこに淋しさがよぎる。
瘋癲老人日記

瘋癲老人日記

劇団印象-indian elephant-

小劇場B1(東京都)

2019/10/02 (水) ~ 2019/10/06 (日)公演終了

満足度★★★★

先般高円寺で二十年振りに拝んだ近藤弐吉の特権的肉体に再び見えた。
演出・鈴木アツト氏の名は幾度か目にしたが(あるいはリーディング企画か何かの演出を観たかも知れぬ)主宰ユニットは初めて。恐々会場に入り、開演を待つ。結果的には初感触の舞台であった。

原作者谷崎潤一郎自身が三度結婚をし、最初の妻をめぐっては友人に売り渡す話を付けるだの、作品のイメージに違わず「色」の気のある人物だったようで、『鍵』や本作など晩年の作は老齢となった作家自身がかなり投影されているにも違いないが、老人エロ小説でありながら売りはエロでなく赤裸々な一人の老人の性の苦悶と苦悶から滲み出す快楽である。
私の関心は究極に滑稽で痛切な人間模様をどう舞台に乗せたか、な訳だが、この題材で浮ぶのは三浦大輔の超写実的演出、または朗読にお芝居要素を添える程度の演出か。。本作はいずれでもなく、原文を尊重した作りでありながら(近藤氏をオファーした理由が判る)俳優の肉体が主役の舞台であった。

ネタバレBOX

日記の記者である老人卯木督介と、その息子浄吉の嫁である颯子(さつこ)の隠微な関係に、婆さん(督介の妻か家政婦か不明)、甥の春久が若干絡むという話。日記であるからして飽くまで督介の主観で話は進むが、息子の浄吉は今は仕事に執心らしく、よく家を留守にする。暇と精力を持て余した颯子は老人の目線に気づいてか、自らの関心からか督介の情欲をくすぐるアピールをし、やがて手玉に取る。心臓病みのある老人は己の情欲と病みとの狭間で苦悶する。

舞台では女優5人がコロスとなり颯子を入れ替わり立ち替わり演じる。若い俳優が演じる老人の分身が時折登場して、会話もする。俳優が掛け持ちするのは息子浄吉と甥の春吉だが、春吉は当て馬的役回りであるからか、面を付け動きのみ、声は背後から女優が出していた。婆さん役は一人が受け持つ。
「瘋癲老人日記」の舞台化が過去あったのか不勉強で知らないが、要所を巧く押さえて構成した一つの在り方に思えた。
その分だけ惜しいと思う部分もあったが、また後日。

難癖を仄めかして放置はアンフェアなので早く書き込まねばと思いつつ。。一部だけ記す。老人の分身、と言ってもジキルとハイドといった役割分担というより颯子と同じく役を演じる一人、頻度は少ないので補助的の範囲。彼は日記の朗読で冒頭、また時折登場し、春吉と浄吉もやるが、彼を仕切り役とするのかコロスに徹させるのか、という辺りが気になってしまった。若い俳優にさはしては鋭敏さを見せる所があり元気で良いが位置取りがややぼんやりしていた。老人の分身というだけで結構重要な役なので、他の役との質の違いを出してほしくもあった。五人颯子の登場のさせ方は中々秀逸だったが、個性バラバラな中に一つ何か役柄上の共通性があると、ぐいっと来たかな、と。
「海につくまで」

「海につくまで」

津あけぼの座

こまばアゴラ劇場(東京都)

2019/09/28 (土) ~ 2019/09/30 (月)公演終了

満足度★★★★★

アゴラ劇場と提携関係にある津あけぼの座(三重)プロデュースの二人芝居。出演は関西出身俳優・坂口氏と数年前三重へ拠点を移した第七劇場・小菅氏、共に三十代(確か)。劇場の企画の経緯は判らないが良い仕事になった。俳優の身体能力が実証される80分動きまくる「ロードムービー」は一人多役・多場面・映像並のカット転換によって見事に成立していた。チンピラ2人を主要登場人物としてその他様々な人生模様(二人ないし三人)が伏線的に挿入されるが、それぞれ経緯あって最後には皆、南の海へと辿りつく。冴えない二人の海を前にしてのラストが、他の様々な人生行路と(直接的な接触はないが)交差し、「世界の中・歴史の中で」たまさか生まれて終える小さな人生の悲哀と輝きを圧縮して見せる。上演中休みなく疾走する役者の身体(と汗)が必死に浮かび上がらせようとする人生を、観客は想像により補いながら掬い取る、水面下のコミュニケーションが会場の熱にもなっているが、適度な冷却としてアドリブ的場面の挿入もあり、それと意識しない内に乗せられてしまう。うまい。

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