オペラ『遠野物語』
オペラシアターこんにゃく座
俳優座劇場(東京都)
2019/02/07 (木) ~ 2019/02/17 (日)公演終了
満足度★★★★★
上出来である。「遠野物語」の舞台化としては「奇ッ怪」シリーズ第3弾、前川知大脚本舞台を思い出す。柳田国男本人に対する処遇を通して、「異界」の豊かさを浸食して行く現実(戦争であったり恐怖政治であったり)が重ね合わせられていたが、肝心の「遠野物語」の逸話たちがあまり前面に出て来なかった。不可思議物語を周到緻密に立ち上げる前川氏には扱いが難しかったのだろうと推測した。
では長田育恵はどうだろうかと。さすがであった(考えてみれば長田作品をこれまであまり褒めた事はないが)。「遠野物語」では、書物に収録されたエピソード群がうまく物語に配置されていた。登場する柳田国男(髙野うるお)と同じ聞き手として観客も、東北出身の作家志望の青年の語る話を聞く。その物語が舞台上で演じられる部分が趣深く大変よい。
まず舞台高く作られた装置が岩肌のくすんだ色、上手寄り手前に控えめに顔を出す草に存在感がある。伊藤雅子は機能ばかりでなく美的印象も残す。
真鍋演出の指示なのかどうか、台詞のうち歌でなく普通に喋る部分を一定確保し、芝居として入り込めて歌も効果的に挿入される塩梅が良かった。三者による作曲は細かく場面ごとに割り振られていて、場面が変わると趣きが変わったり、物語との豊かな交流が実現していた。ちなみに楽器はピアノ、チェロ、フルートに打楽器であるが打楽器奏者がビブラフォンも用いるため音程のある楽器も4種類、場面の色合いに広がりが出た。
台詞だけの場面では、こんにゃく座の「歌役者」の達者な演技力を見せられたのも新鮮だった。
観終えればオーソドックスな遠野物語だが、そのオーソドックスを立ち上げた長田女史に「良く書いた」と感服である。遠野物語収録エピソードの厚みが、流れる現実の時間を対比的に見せている。そして現実のドラマでは遠野出身の青年を主人公に据え、(史実をどの程度反映しているか判らないが)彼の上京時点から東京の場面(柳田国男との接点)、帰郷後の生活までを辿り、うっすらと寒い世相を背景に人間存在の悲しみや滑稽さ、厳しさの中の温かさといったものが凝縮して見える終幕も、何げに上出来である。
平田オリザ・演劇展vol.6
青年団
こまばアゴラ劇場(東京都)
2019/02/15 (金) ~ 2019/03/11 (月)公演終了
満足度★★★★
「コントロールオフィサー」は新作のようで2020東京五輪を話題に取り上げた会話劇。華やかなイベントの舞台裏の下世話な人間模様がリアルタイムな話題だけに笑いを誘う。
唐版 風の又三郎
Bunkamura
Bunkamuraシアターコクーン(東京都)
2019/02/08 (金) ~ 2019/03/03 (日)公演終了
満足度★★★★★
新宿梁山泊のテント公演を観たのが2000何年かで10年以上前。休憩2回3幕構成の3時間をスシ詰めで見たが、金守珍演出のポテンシャルはテントが劇場になっても変わらず、屋台崩しに劣らぬ恍惚の終幕であった。
「ビリーエリオット」のダンス教師役以来の柚木礼音は華麗な歌と身のこなし、初見窪田正孝は繊細かつ飄然とした「精神危うげな」青年にピタリ、突出した二人を軸に各役どころが個性を発揮し、私としては梁山泊陣も芝居に噛んで満足。
新国立劇場演劇研修所「るつぼ」
新国立劇場演劇研修所
新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)
2019/02/08 (金) ~ 2019/02/13 (水)公演終了
満足度★★★★★
「セールスマンの死」のアーサー・ミラーによる隠れた?名戯曲(少し前まで私はT.ウィリアムズ作と勘違い)。2012年の新国立劇場主催・池内博之主演の「るつぼ」は評判を耳にしたが、演出は今回と同じ宮田慶子(前芸術監督)。魔女裁判という日本になじみの薄い題材だが、現代の日本での上演に耐える作品である事が今回の上演でも証明された。最近やたらコールをしたがる風習に「右に倣へ」な雰囲気(長い拍手で役者を呼び出す理由は「そうしたほうが良い」空気だけ。みたいな。)を感ずるが、この舞台の役者らの奮闘には引っ張り出してでも拍手で応えたくなった。3時間超えの「るつぼ」を演じる俳優は俳優修業の成果発表にとどまらない鬼気迫る空気があった。
今の日本に置き換えるなら痴漢冤罪の被害(若い女性の心無い告発で無罪男性が服役した事例は一つに留まらないという)を連想させたが、真実は何によって明らかにされるものなのか、誤謬からやがて捏造された事実が真実となるこの芝居のような悪夢は今の日本と無縁の事柄とは思えない。
理不尽な状況の中でただ信仰厚く気高く死を受け入れる女性、高尚な死など似合わないと嘆きながら最後には自らの採るべき道を決断する男、彼の「心」に最後まで寄り添り彼の選択に心から安堵した妻・・一方で言いようのない愚かさを描きながら、一方で誇り高き生(死)を選んだ者らも群像として刻印した事がこの戯曲の名作たる所以である。千秋楽、この物語を「生きた」演者たちも誇らしく立っていた。
ハイドロブラスト(太田信吾)「幽霊が乗るタクシー」
ハイドロブラスト
STスポット(神奈川県)
2019/02/15 (金) ~ 2019/02/17 (日)公演終了
満足度★★★
舞踊や映像等形態を跨いだ表現を追求‥的な文句に惹かれ随分前から公演情報を待っていた。速報時点では確か公演名は「領土」。舞台を見た印象もそうだが、内容を絞り切れず変転した事が窺えた。幽霊とは津波の被災地東北のそれ。演出者が現地で聞いた幽霊に関する証言が映像にも出てくる。ドキュメントな映像には説得力があるが、この素材が生きるような舞台が作られたかった。
出演者に託したもの・・まず幽霊に関する基礎知識。円山応挙の絵が日本の幽霊のイメージを作ったが他国では違うといった導入や、災害当事者の証言、映像にあった死んだ娘の冥界からの言葉、僧侶の出立ちで「朝には紅顔・・夕には白骨・・」とある蓮如の御文、など。映像が代弁する現実に対し、舞台ではその解釈的な事柄が展開する。つまり「説明」となっている。最終的に亡くなった娘は「良い子」が言うような台詞を吐き、幽霊とは自分自身の投影であるとの解釈で結論づけられる。
これら全て、私には冗長で不要に思われた。恐らく映像が持つ性質と舞台の性質の違いを把握した上で組み合わせる技術を持たなかったためではないかと想像した。舞台の補助手段として映像がある、のでなく今回は映像を軸に舞台を構成しようとした、その順序であればそれは難しかった。舞台人の補助を必要とする映像作品はあまり観ない。舞台を引き立てる映像なら、今その使い手は増えている。
RE/PLAY Dance Edit
Offsite Dance Project
吉祥寺シアター(東京都)
2019/02/09 (土) ~ 2019/02/11 (月)公演終了
満足度★★★★
「再生」のダンスバージョン。KAATでの岩井秀人演出版、本家(東京デスロック)版の上演と観てきた事でこのバージョンに大きな関心。が、「RE/PLAY」上演は今回初めてではなく、また舞踊家きたまりと多田淳之介との仕事も定例化して長いとか。
多田氏考案の「再生」とは、曲が流れ、それに合わせて動作が主体の芝居があり、30~40分続いて終わると、暫時の沈黙の後、同じパターンを繰り返す、というもの。通常3回。本家版はカラオケを順々に歌う形、岩井演出版は曲を聴きながら楽しんでいるパーティの風景。これの醍醐味は、選曲の妙と、役者らが段々と疲れて動作がいい加減になっていく所。厳密な意味での「再生」は(機械でない人体では)できない事を現象を通して実感し、「身体機能の延長」である機械の発達した現代という時代の身体性に思いを馳せる作品、と私は位置づけていた。
ダンス・バージョンでは、ダンスなりムーブなり、身体動作のプロがやる。しかも出演にAokid、岩渕貞太、きたまりと私でも知る名前に、アジア諸国のダンサー。彼らの「疲れる姿」を見ようと身構えたが、トークでの多田氏の話では、彼らは強靭な肉体の持ち主で「疲れない」事を特徴として見出し、その面白さを見ていた事が判った。また、「踊らないでくれ」とのダメをよく出したという。演劇では「芝居をするな」とよく言われるが・・
「RE/PLAY」はやや複雑な構成となっていた。一曲数分の動きを2回、また別曲(オブラディ・オブラダ)を10回リプレイし、そろそろ息遣いも荒くなった頃に、床にへばった彼らが会話を始める。日本語、英語、タガログ。その「生」の感じが良く、またそういうやり取りが設定されている。「出し物」としての身体性と異なる局面が見え、ここではダンサーから役者的身体(個性、人格が滲む所)として身を晒しているのが鮮やかな対照をみせる。
そして曲が流れ始める。躍動感ある曲に、ダンサーらは前半とは異なり、水を得たように得意な「ダンス」を披露する。面目躍如、ひたすら身体と動きの美に圧倒される時間となり、大団円と思いきや、これが終息すると再度同じ曲が流れ、「再生」プログラムがスタートする。たっぷり1時間半強の内容だったが、肉体の限界を味わう「再生」のコンセプトはここでは形態のみ継承され発展系となっていた。舞踊そのものがそうであるように言語化は難しいが、非舞踊の要素をノイズ的に混入する事により、舞踊の快楽を再照射するもの、だったろうか。
29回公演 フェードル
うずめ劇場
東京アートミュージアム(東京都)
2018/10/11 (木) ~ 2019/02/23 (土)公演終了
満足度★★★★
久々のうずめ劇場舞台を堪能。後藤まなみ、松尾容子、荒牧大道(藤沢友は相変わらず裏方)に、今回サルメカンパニーという若手グループが加わっての上演だった。
会場の東京アートミュージアムは細長い敷地に建てられた安藤忠雄設計の建築で、名前は洒落か?と思う位狭い。内部は「ああ安藤忠雄」と思わせるコンクリート打放しの内壁、中央あたりに細長い階段が壁に貼り付いてくの字に聳える。座席は入口から遠い側の奥に、横5~6人、5列程度設えられ、舞台の側には手前左側に伸びる階段と、それを避けて奥へ行き左側へはけるのと、出はけは2パターン。階段下あたりにはピアノがあり、時折役者がそれを鳴らす。「フェードル」はギリシャ悲劇を題材にとった17世紀の古典(発見されたのが近年だったか)、血の因縁にまつわる悲劇。主人公フェードルの「過ち」が彼女自身を苛み、若者らの残酷な死さが追い討ちを掛けて狂気に埋もれて行く猶予の時、吐かれる怨念、後悔、自己正当化の言葉が「劇的」を醸す悲劇の構造だ。暗鬱なクライマックスを体現する後藤まなみ始め俳優はよく演じていた。馴染みのない人にはストーリーが判りづらかったかも知れず、かく言う自分も判らなかったが類推しつつ「激情」の迸りを楽しんだ。
上演2時間、場所と演目の取り合わせもユニークで、土日中心にロングランの形態もいい。コンクリが石造りの劇場にも見え、ギリシャ悲劇が連想されたと推察した。ヨーロッパの主流であるレパートリー方式を引き寄せた感じだが(主宰のペーター・ゲスナー氏の問題意識は判らないが)、狭小空間で少数の観客という所は日本独自。借景芝居の宿命でも客としては贅沢感があってよい。会場の閉館時間を有意義に(廉価で)使えるなら、場所に根ざした事業として今後も継続して行ってほしい。
シェアハウス「過ぎたるは、なお」
渡辺源四郎商店
こまばアゴラ劇場(東京都)
2019/02/08 (金) ~ 2019/02/11 (月)公演終了
満足度★★★★
照明その他、技巧を排した淡白な演出、技巧はテキストで勝負というナベ源。手がかりが台詞という舞台は体調次第で睡魔に屈するが今回もそうなった。戯曲を買って読み直し、舞台風景と重ね合わせ、ある種の感動に導かれた。工藤千夏と畑澤聖悟のリレー執筆(相手が書いたのをいじるのも有り)で結実した作品だという。ユニークな戯曲で、ブラッシュアップというよりもっと膨らませられそうな素材だ(SFだけに厳密な設定が必要かも知れないが..)。
ロボットや核動力といったアイテムは珍しくないが物語は独自。主人公である「母」(ロボット=人間と同じく子供らに愛情を注ぐ。それを使命としてプログラムされている)が、同型機種が動力エネルギー(ブルーコア)の事故を起こした事でシェアハウスという名の隔離施設に収容されている。そこは快適で家庭での思い出に浸りながら母は平穏な生活を送っているが、ある時、実在する(人間の)息子らが訪ねてくる。兄弟は少年の頃の夢(芸術家)とはかけ離れた道へ進み、兄は他国へ派兵する自衛軍に入隊、弟はテログループに所属する。地下数百メートルの施設では知りえない現実の情勢が、自らの陣営に母を引き込む行動へ兄弟それぞれを突き動かしたという事だが、少年時代の再現風景ともあいまって、彼らの「母親」への愛情(マザコン性)を窺わせもしてほろ苦い。銃を向け合う兄弟に対し母親はかつてのように「やめなさい!」と厳しく叱り、自分の使命を繰り返す。「あなたたちが健康を保ち、仲良く暮らしていくこと」。・・感動巨編に膨らみそうなプロットが示されていると思うのだがどうか。
授業
劇団東京乾電池
アトリエ乾電池(東京都)
2019/02/08 (金) ~ 2019/02/11 (月)公演終了
満足度★★★★
乾電池、というより柄本明の持ちネタの一つなのだろう、ほぼ喋りまくる教授役の台詞をほぼ淀みなく繰り出していた。イヨネスコ作「授業」観劇は3度目となったが、昨年の西悟志演出による衝撃のSPAC版には遠く及ばないものの、以前見た青年団若手の抽象に抽象を掛けたバージョンよりうんと良い(作品の輪郭が分かるので)。だが古い戯曲である事は確か。また柄本明特有の?素に戻す笑いを挿入(約20年前たまたま世田谷パブリックで観た石橋蓮司との「ゴドー」でも冒頭あたりやっていた)。芝居なんてやってる自分がおかしい、恥ずかしい、照れ臭い、という基本姿勢を示すのが柄本明流だとすれば東京乾電池の色にも通じ納得ではあるのだが。
闇を蒔く~屍と書物と悪辣異端審問官~
虚飾集団廻天百眼
ザムザ阿佐谷(東京都)
2019/02/03 (日) ~ 2019/02/11 (月)公演終了
満足度★★★★
ザムザ阿佐ヶ谷を初訪問。映画を見歩いてた20代頃もラピュタへはついぞ訪れず、漸く足を踏み入れた。廻天百眼も久々2度目。身体的・精神的嗜虐の快楽と苦痛の相克にフォーカスした世界(と言語的に取り敢えず解釈)としては勘所を押さえて気持ちが良い。被虐の中で輝く女優は地下アイドルの雰囲気に通じるような。。勾配のある階段式客席から見下ろすステージは高さを使って前後がかなり狭いのだが、クライマックスで「書物」(即ち魔術)の使い手らが招び出した異形の怪物らが、巨大な武器を振るいながら擬闘を展開する場面は圧巻。普通あの狭い奥行では上手下手の位置は替えないだろう、しかも主役日毬が彼らの手前側に正面向きで立ち、嘆き混じりの台詞を吐いたりするなど、空間的密度が半端でない。音楽に合わせた生ドラムも臨場感の演出に効果。一種のライブでもある哉。
イーハトーボの劇列車
こまつ座
紀伊國屋ホール(東京都)
2019/02/05 (火) ~ 2019/02/24 (日)公演終了
満足度★★★★
たまに観るこまつ座(本当は「母と暮らせば」をとても観たかったんだが..)。今回何と完売続出の模様で、後方の席なら空いてるかと思いきや、空席は一つ目に入っただけ。ずらり。なるほど松田龍平の名前か、、他の俳優は舞台ではお馴染み、映像ではそこそこ、演目が特段惹きつけたものとは思われず、推測はそこに行き着く。集客力と、ギャラは直結しているだろうか。商売で言うところの自分が消費者になったような不快な気分から逃れるには、芝居の中身である。
冒頭逃してしまったが、終演後確認して演出は長塚圭史、なるほど舞台の色彩感と場転や汽車の音(シューと口で言う)などの泥臭さが頷ける。悪くなかった。一度読んだ戯曲だったがこれほど長い芝居だったか・・。松田氏のもったりした演技と、やり取りを正当化させるための間合を相手役が取るので、10分は伸びているだろう、と思ったりしたが、不快・不要な間合ではない。
広い知識と深慮から生まれた含蓄ある濃い~言語のやりとりは井上ひさしの真骨頂で、何とも言えず脳みそを潤す時間だった。
雨の夏、三十人のジュリエットが還ってきた
流山児★事務所
座・高円寺1(東京都)
2019/02/01 (金) ~ 2019/02/10 (日)公演終了
満足度★★★★
良い戯曲だと思った。舞台という魔物、死と亡霊のイメージが『楽屋』に重なる。三十人のジュリエットの登場という所に、蜷川幸雄とのタッグならではの企画性も漂う。事実総勢30名が空襲に追われた難民のように左右から蠢き現われ、照明一転「シャクナゲ歌劇団」メンバー30年振りの再会の喧噪となる場面は迫力で、数の力を実感。その後も続く30名の登場場面は処理も大変そうだが、長いタイトルのこの芝居はそのための芝居だと言っても間違いでなさそうである。
ストーリー的には三十名は補助的なアンサンブルで、意味的には主役のジュリエット役(松本紀保)と重なるし、後半に導入される演出で大勢のロミオが戦場送りとなる場面に類似するが、役柄としては彼女らは女性のみで構成される石楠花(しゃくなげ)少女歌劇団の団員であり、観客の視線はストーリーを追うべく主要登場人物の方に寄る。
舞台には、宝塚にありそうな豪華な幅広の高い階段、舞台両脇に大柱、総じて大理石に見えるセットが組まれ、実はここは百貨店の1階という設定だ。現実の時空ではあるがこの場所は架空の世界を立ち上げるに相応しい舞台空間にも見えており、つねに完璧な衣裳で登場するヒロイン・景子の想念の強さによって「ロミジュリ」の劇世界と、その場を劇場と解釈する二つの次元の行き来を見ている気になる。そこへ介入して来る「現実」の時空は、この劇世界&劇場という次元を否定的に干渉する事はなく、むしろ組み込まれて行き、劇世界が貫徹されるまでが描かれる。この劇で流れた時間は言わば一つの鎮魂のそれで、戦争とそこから離れた歳月を偲ぶ構造を持つ。
30年前結成された歌劇団のヒロイン・景子が記憶を失い、今もジュリエット役の稽古をし続けている背景については最後まで一切語られない。が、「戦争」を思い出させる象徴として十分である。当時の応援団バラ戦士の会の元メンバーで今や町の有力者(龍昇、甲津拓平、井村タカオ、池下重大の取り合わせがまた良し)が、かつてロミオ役で人気を博した俊(しゅん=伊藤弘子)不在のため、男性禁制であるからか唇に紅、アイシャドーを塗ってタキシード姿であたふたと代役を務める。
中心に居る景子は時に激しい発作(自分を百歳のおばあさんのように見るのはやめて!と周囲に罵り狂乱する)をしばしば起こすが、暫くたつと全くしこりを残した風もなく登場し、「さっきはごめんなさいネ、さ稽古やりましょう」となる。リセットの力と主役で舞台をけん引した風格が周囲のモチベーションを引き出している所は強調されていないので記憶に残りづらいが、女優という限りにおいて絶えず前向きな存在を演じる松本女史の貢献は地味に大きい。
舞台の世界をそこに見る力、信じる力は、前途ある若者に前向きな一歩を踏ましめる明るい情景をみせたにもかかわらず、俊の登場で「ロミオとジュリエット」が曲りなりにも終幕に導かれた直後、彼らに内在した「負」に報いるかのように、あれこれ言及する間を与えない「死」という方法で閉じ繰りが付けられる。
舞台世界が「そこにある」と信じる事で現出させる使命を終えて死に赴いた二人を、称揚する事が許されるように思えるのは何故だろう。自己言及式になるが(まあそういう舞台は多いが)演劇が成し得る仕事の貴重さ、大きさ、良さを信じるから、と言うと大仰だが、自分としては殆ど盛っていない。
拝啓、衆議院議長様
Pカンパニー
シアターグリーン BOX in BOX THEATER(東京都)
2019/02/06 (水) ~ 2019/02/11 (月)公演終了
満足度★★★★
他劇団からの新作要請に高頻度で応えて安定した評価を得ながら、劇団公演も怠らないという、着実に劇作家キャリアを重ねる古川健氏の劇団「外」舞台を観るのはトムプロ『挽歌』以来になるか。日澤雄介氏以外の演出に委ねた舞台となると(番外公演的なのを除けば)初めて。Pカンパニーの同じく社会的テーマを扱った秀作『白い花を隠す』の小笠原響氏演出は堅実な仕事振りである。
戯曲には「遺産」で顕著に感じられた特徴が今回もあって、実際に起こった出来事に果敢に挑む姿勢は以前に変わらないが、この所、簡潔な台詞のある意味淡々としたやり取りが、構成の妙で(場面の繋ぎも淡々としていたがこれは演出か)事実が語る力強さを持つ。
初日の「硬さ」とはこういうのを言うのか、描かれる人物はよりリアルを掘り下げる事歓迎の面持ちで、肉付き血の通う舞台に変貌する予感というか骨格をしっかり見せてもらった。
相模原事件を扱った芝居だとは知らなかったが、開演後間もなく、タイトルの趣旨も判る。出色は、この事件の犯人の人格に斬り込んでいる所。注文があるとすれば、施設職員の「苦労」だけでなく「喜び」を見せて欲しかった(これは演技の領域、難しい所だが)。
夜が摑む
オフィスコットーネ
シアター711(東京都)
2019/02/02 (土) ~ 2019/02/12 (火)公演終了
満足度★★★★
この数年オフィスコットーネで大竹野作品を数作鑑賞させてもらったが、会場、出演者、演出と趣向も毎度異なり、評伝の新作を出したりと色々工夫されている。
今回の詩森ろば氏の演出への起用は意外、というか何となしに合わない感じがあった。犯罪を好んで(?)題材にし、観客を道徳・通念の埒外へ迷い込ませる大竹野氏作品に、詩森氏の感覚が降りて行けるか、という所に。だがシアター711という、コットーネでも最も小さな会場でうまく舞台を捌いており、何より役者陣の力を引き出し、高い水準の舞台になっていた。
主人公の神経過敏な男(山田百次)を取り巻く団地住民(異儀田、有薗ほか)や、男の「家族」的存在(町田、塩野谷)による喜劇調のオイシイ場面は、役者の高い力量と、テンポ重視の詩森氏演出に拠る事は確か。
さて実際あった殺人事件を題材にした作品という事だが、舞台は抽象度が高く、私の印象では大竹野氏の作品にしてはドライである。そこで戯曲に改めて目を通してみたところ、なるほど自分が微かに感じた事が裏付けられた気がした。
結論的には、「不条理」に近い劇に見えたのは演出詩森氏の処理に拠るところが大きく、しかしそれは元々原作とはやや異なる。特に終盤で回収して行く伏線をあえて「回収しない」事で抽象化しているのが、今回詩森氏のとった選択のようなのだ。その是非は於くとして・・具体的な話はまた後日。
『本当は知らない。 』ソロ・グループ2本立て公演
lal banshees
こまばアゴラ劇場(東京都)
2019/01/30 (水) ~ 2019/02/03 (日)公演終了
満足度★★★★
昨年のトラム公演が気になって未見だったlal banshees、初観劇。今回はvol.3とはなっておらず、webを覗くと他にもナンバーの付かない上演があり、本公演とは区別している模様。タイトルも試作のような。主宰横山彰乃女史は東京ELECTRIC STAIRSのコアメンバーで、そのチラシにある思わず目を引く細密なイラストを描く本人でもある(後で知った)。
つい先日の舞踊系パフォーマンスに続き、馴染み深いアゴラ劇場で若い感性が光る踊りをみる。踊りも様々である。だが身体的動きとしては意外に制約があるのを痛感する。その中で独自の身体言語の体系を目指し、美を追求する。そのプロセスを見た感触というのはどの舞踊にも共通だったりするが、演劇の範疇に属するドラマ性や、テーマ性、ストーリー・・観客は(作り手は)何をそこに見ようとしているのだろう・・素朴な疑問が湧く。舞踊は第一義には身体の美であるのだが、古よりそれはしばしば神秘の領域を司るものとされ、そのようにして囲ったという事があるのだと思う。囲う必要は、身体それ自体の神秘=本能を制御する必要に他ならず、同様に現代も舞踊がテーマや物語といったものと親和性を持とうとする理由はそのような「理解可能(言語化可能)」な枠組みを与える事でとりあえずの安心をもたらしている。だがその内実は身体の神秘(美というものの神秘と通じる)に、おののきつつ浸る時間である、と言えるかも知れない。もちろん踊り手側の都合もあるだろう。「物語」「意味」の領域と手を携える事で効果的に身体の美を表出させる、その主体となる資格を持つ。。
さて前半は可愛らしげな衣裳の女子3人の踊り。最前列では暗めの照明という事もあって動きの早さと広がりが視野に収まりきらず、度々睡魔が。内、唯一lal banshees vol.1と2に参加した踊り手の後藤ゆうは、昨年STスポット「地上波 第四波」にソロ出演していて見覚えもあったのだが。。
休憩を挟む間もなく横山女史の踊りに移るとなぜか目がパチッと開き(焦点が一箇所に絞れたから?)、身体の小さな動きも凝視できた。前半のもそうだが音楽主体で構成されるタイプのステージ。足首を上下、または左右に動かす動作を取り入れているのが横山氏の特徴で、前半の踊り手もやっていたが、様になるには技量が必要、とリーダーの踊りを見て実感。
黒い三方の壁には大型ペットボトル(1.5~2リットル)をバインド線で吊るされ、照明で効果を出していた。
切れ味鋭い身体さばきの中に、「この先」への希望、期待を見る。完成された何かではなく。
ストアハウスコレクション・タイ週間Vol.3
ストアハウス
上野ストアハウス(東京都)
2019/01/30 (水) ~ 2019/02/03 (日)公演終了
満足度★★★★
ストアハウスカンパニーは自作と海外グループの作品の二本立て公演を打ち続けている。韓国、マレーシア、今回はタイ。このシリーズを観る機会を今回初めて得た。この種の企画をコンスタントに打ち続ける精力的活動の、問題は舞台の中身なのだが、事前情報はなにぶん少ない。百語は一見に如かず。想像した事と言えばこの「コンスタント」さが質の低下をもたらさないか・・というネガティブな連想くらい。
2時間超えと聞いて耐えられるかと懸念したが自分には全く杞憂であった。
最初のグループをタイのグループと思い込んだまま終演まで観た。なぜ思い込んだか・・言葉を発しないのも大きな理由だが、背後の入口からゆっくりと順次出て来た役者の風情、彫りの深いのや、山岳地帯の先住民「ぽい」人、アジア系美人っぽい人などが揃っている。だが実は逆であった事を休憩のアナウンスで判った(苦)。
好感触な舞台は、叙情的な音楽が基調になり、時に無機質な音、急き立てるようなリズム音、など多彩に場面を作っている。「世界(人間)、この悲しきもの」・・抜き差しならぬ緊張が身体を満たし、溢れ出るものを交換し合う事で濃密な舞台空間を作っている。絶えず動き、言語でない声を発する。大きく変化する1時間強の進展の最初は、まず人が歩き始める。そこに流れが生まれる。流転する自然界や社会や、一個の人生を想像させる。やがて音楽が激しくなりテンポが上がり、正面を向き、足踏みを始める、という要素が加わる。・・これは変転する舞台上の現象のほんの一部だ。人間ー自然がシンクロして見える描写が、最後には「生物」限定の「性」イメージに変わって長く展開し、そこに孤独や倦みなど人間的感情が表出するような按配だが、私には異質な要素を接ぎ足したように感じられた。しかし今作から非日本人的な精神世界を旅する感覚をおぼえた理由は何だろう。日本人的、とは大雑把な概念だが、小市民的自虐的「あるある」(そこを突かれてもさして痛くない)が今思い当たるそれだが。。作り手の照準はそこから遠い場所にあるように感じられる。
二番目のタイのグループの作品はさらに好感触。5人が舞踊(各々別のタイプの)への習熟を感じさせる身体の線を見せ、それぞれの人的持ち味を出し合いながら全体としての蠱惑的な群像が生まれる、楽しくも高度に抽象化された作品だった。
多様な場面を作るテクニックもさる事ながら、脈絡に自然に身を置き、存在している。個人的に凝視し引き込まれてしまったのは、舞台上のこの存在の仕方である。
例えば、動作のユニゾンはピッタリとは行かない。日本人ならそこを揃えるのに拘りそうだが、一つにはオンタイムでない打音をミックスした背景音を多用していて、揃えるのは難しい。
だがそれ以上に彼らがそれぞれ自立した動きを持ち、自由な相互作用に委ねた事により場面の自然な成立があり、各人のキャラがみえて楽しい・面白いという感覚が凌駕する。男3人、女2人が、くすんだ灰色や薄い褐色の薄汚れたボロを、ラフに着流したような洒脱さがあり、5人が一列に並んで動いている場面は並んでいるだけで目を喜ばせるものがある。
動きの自然さは、言わば意思・感情を持って移動しているかのよう。たとえば他者との距離が縮まり過ぎた場合、その不自然さをさりげなくフォローする術を普段私たちが使うように行使する。ちょっとおどけたり、わざとそうやったんだと見せてごまかす、プログラム化されているとすればかなり緻密な作りだが、この絶妙な按配は、この舞台がわが家であるかのような自然な態度から湧き出ているように私には見えた。要はパフォーマーとして良い状態(良い意味のリラックス)、身体が表現意思の対象との距離を自在に案配している状態が、まるで自分の家に居るような直裁な「心身の状態の伝達」を可能にする。私の感じ方が一般的ならば伝達において相当に効率的なコミュニケーションが生じている事になる。
「意味」は分からない。多彩な場面が数珠繋ぎに現われ、変化するが、変化それ自体には意味はない(昨夜と逆を書いてるが)。ただ断片に人間個体の感応的閃きがあり、それで十分。
罪と罰
Bunkamura
Bunkamuraシアターコクーン(東京都)
2019/01/09 (水) ~ 2019/02/01 (金)公演終了
満足度★★★★★
文句の付け所のない文学作品の舞台化であるが、学生時代から三度挑んで遂げず、それでもいつか読了し「一応『罪と罰』は読んだ」人生として終えたいと望んでいた作品を舞台で易々と味わう事となり、複雑な心境だ。
・・それはさておき、小説を読み始めの雰囲気、ロシアの片田舎の酒場や価値観の雑然とした風景そのままに、階段式に奥が高い斜面全体が雑多な家具等で覆われ、中段もしくは下段の平場で芝居が展開するが、その雑然と置かれた物を移動する事で(まるで散らかった部屋で座る場所を作るような)場面転換になるといった進行である。茶褐色が埃を被ったようなくすんだ色に、ちょっとした赤や緑や青が仄かに浮かび上る色彩の収め方を確認した上で、台詞に聞き入る。・・娘が体を売って稼いだ金が今自分が飲んでいる酒に化けた事をラスコーリニコフに自虐的に話す親父役の台詞が、早速聞き取りづらい。ラスコーリニコフの台詞も時折聞き取れないのだが、マイクを仕込んで増幅してスピーカーから言語情報を伝えるより、舞台上の世界で展開する現象それ自体を「見る」よう作り手が望んでいると判断し、「見る」のに専念する事にした。
前半は大昔読んだ小説(4分の1も読めていないが)や耳知識で大方理解できたが、後半、予期しない展開もあった。よく出来た一大娯楽作品、とは友人の言だが、小説を読んでいる感覚も想像しながらストーリーを追った。主人公、またその妹もある意味で特殊な人物である事が物語の動力源となっているのは確かだが、ドストエフスキーという作家が一人の人間をその結末へ導くために膨大な文字を刻んだ、そのラストが見せる風景は「特殊」=個体差を超えた人間の姿である。
開幕以降主人公は懊悩に呻き続けているが、主人公が何かに開かれて行く過程を三浦春馬という俳優(初見だったか)は見事に辿っていた。
ドストエフスキーは「悪霊」でロシアの大地に近代というものがもたらすものの本質を抉り出した(小説ではなくアンジェイ・ワイダの映画を観ただけだが)が、「罪と罰」でもキリスト教の本質に触れる「神の赦し」を巡る作品であると同時に主人公の精神の中に(彼が頭脳明晰な学生という設定が示唆的)近代の病弊の典型的症状を描いてもいる。そして「人間とは何か」を問う作品である。
勝村政信演じる主人公と対峙する警官役が出色。休憩込み3時間40分。
大熊ワタルがこういう舞台の音楽もやるとは・・これも驚き。
韓国現代戯曲ドラマリーディング Vol.9
日韓演劇交流センター
座・高円寺1(東京都)
2019/01/23 (水) ~ 2019/01/27 (日)公演終了
満足度★★★★
[少年Bが住む家」を観劇。最終日のシンポジウムに来場した作者はおっとり系書斎派に見え(あくまで外見)、戯曲が醸している鋭さとギャップあり。先日観たのと比べて非常に分かりやすい(比較対象の問題か)家族の物語。犯罪当事者(加害者)の一人となった息子(デファン)を持つ父母、外で暮らす娘(息子の姉)、通り向かいに越してきた妊婦らが登場。屋根裏に住まわせた息子を巡っての夫婦間のピリピリとした空気、その緊張の奇妙な緩和の仕方、外界への警戒心、それら病み=闇を覗かせる人物の心理を丁寧に描いていた。
3作の内1作を断念、残りを選ぶのに迷ったが新国立研修所出身の荒巻女史が出演の今作に決める。能天気な娘役だが最後には家族を日の当たる場所へ連れ出す役回りを予感させる、太陽の存在で照明も暗めのドラマに華をもたらし、個人的に満悦至極。
「判りやすさ」もさりながら役者皆的確に演じ、動線や舞台処理、衣裳の色彩、褐色系の照明もうまく使って視覚的な効果も高い。主人公デファンにはその化身のような存在が二人居て(黒装束)、台詞を言う人物のそばに移動して見守ったり、デファンの心理や潜在意識を表すかのようで(戯曲指定でなく演出との事)。少年Bの「B」とは主犯格をAと言うのに対して受動的、消極的に事件に巻き込まれた人の符丁として用いたらしく、シンポジウムで言及された昨年の瀬戸山美咲の「残り火」(交通事故の被害者と加害者との間にどのような「償い」と「赦し」があり得るのかを問うた昨年の秀作)に通じる。本作では加害家族は精神的に十分な「罰」を被っているように見え、「人の噂」「偏見」といった世間の冷たい風は被害者よりは赤の他人が吹かせている事を想像する。娘を除いた家族が、罪状の前に自ら伏しているというのが、日本ではあまり書かれない設定であるかも知れない(加害者がのうのうと生きている、法的に裁く事はできないが法の埒外で加害者に罰を与える方法はないか・・を探る視点が圧倒的だと思う)。そう言えばイ・チャンドン監督「密陽-シークレット・サンシャイン-」がこのテーマを独特な味付けで描いていた。
ショウジョジゴク
日本のラジオ
新宿眼科画廊(東京都)
2019/01/18 (金) ~ 2019/01/22 (火)公演終了
満足度★★★★
「新青年」な幻想怪奇との接点は二昔も前、青林堂の漫画。小説は殆ど読まず夢野久作の「少女地獄」「ドグラマグラ」も本棚に飾ったまま。「ドグラ・・」は映画と舞台で、「少女地獄」は今回初めてストーリーを知った。
知ったと言っても、今回の舞台はストーリーがくっきりと浮かび上がる仕様でなく、謎めいたバスの運転手と女車掌、女子学校の生徒らと男教師、ある看護師と医師の逸話がそれぞれあって、時々接点を持つ形。開幕、小さな四角の舞台の四隅に白衣の女性が座り、客を患者に見立てた前説を思わせぶりな口調で斉唱する。男は医師、バス運転手、学校教師と役は固定、女優陣も車掌、看護師、学生と固定の役で、場面が変れば女優は椅子に着いたり離れたり、男優は袖から出入りをするので、別個のエピソードが並行していると理解される。特にバス運転手の逸話は独立していて、時々他のエピソードの人物がバスに乗って来る形の絡ませ方だ。
怪奇の体験者(=語り手)と、その観察対象となる怪しい人物の存在という構図に加え、各エピソードをぼんやり程度、間接的に知る者として別エピソードの人物が配されている格好なのだが、演者の雰囲気や場面に幻想怪奇の風味があって心地よいものの、ストーリー自体は薄味に終わる感がある。後で調べると小説は独立した三つの短編から成るらしく、物語全体を語り切るのでなくそのテイストを摘出して舞台に上げて見せたという事のようである。
幻想怪奇譚は「謎」が解かれるオチへ辿り着くことは大事だが、実際はオチはあっても怪奇は残り、オチはさほど重要でないという事も。原作を未読で何とも言えないが、今回、結末よりその世界観、即ち怪奇な場面・風情に重きを置いたとすれば、医師と看護婦、学生と教師の逸話のほうに「異常」な観察対象を観客も目で見る愉しさ、「異常さ」の片鱗が見えるか見えないかというスリリングさがあり、その線を追及するのも良かったのでは・・とも思う。無責任な意見だが。
唖蝉坊・知道の浅草を唄い語る
シアターX(カイ)
シアターX(東京都)
2019/01/20 (日) ~ 2019/01/20 (日)公演終了
満足度★★★★
添田唖蝉坊なる人物が誰か、ようやくにしてはっきり認知した頃に、チラシが目にとまった。基本はライブだが、土取利行氏の浅草界隈郷土史・芸能誌への造詣の深さ(博覧強記)に驚き、いとうせいこうのパフォーマンスの反骨精神にも驚き、見終えた感覚としては演劇の舞台を観たような濃さが後味として残った。音楽といっても「音」が持つ美よりは、歌詞の存在もそうだが唖蝉坊や界隈の人々の人生やドラマを想像しながらの2時間半で、満腹にさせてもらった。