ゴン太のクリスマス
さんらん
ギャラリーしあん(東京都)
2019/12/21 (土) ~ 2019/12/25 (水)公演終了
満足度★★★★
ギャラリーしあんを好んで使うさんらんの、この場所に相応しいオリジナル戯曲の2度目の観劇。小品なれどユーモラスで中々気の利いた劇。自然光で役者の素肌も見える間近な狭いスペースで異界が立ち上がるという面白さ。この芝居に集った演者も個性バラバラながら好演して愛らしい。久々のさんらんであったが着実に仕事を重ね劇団の地歩を築きつつある事が窺える公演でもあった。
終演後、お年を召したお隣様が「本当にいいものを見たねえ」と言いたげな晴れ晴れとした笑みをくれたので、「そうですね」と会釈で返答。この極小サイズで上演される芝居は目撃者も極僅かである事を(勿体ない意味で)つい考えるが、そんな狭量を霧散させる。
子供の世界を見ながら、ふと人生を思った。ゴン太は健気だが我が儘を言う。それが本心なのか、血の繋がらない親への気遣いという名の愛なのかは判らないが。ただ与えられる事、それに感謝する事(擬音はうっしっしでもいい)、そんなシンプルな人生の時間が、許されていいという事について、長らく忘れていた気がする。
トウキョウノート
青年団若手自主企画 堀企画
アトリエ春風舎(東京都)
2019/12/24 (火) ~ 2019/12/29 (日)公演終了
満足度★★★★
自分が「東京ノート」を知らなかった事に観ていて気づいた。以前観たのは矢内原美邦による舞台で個々の台詞も粗筋もよく分からないバージョン(「東京ノート」を知る人が演出を楽しむ作品)が唯一だったようで。
非常に繊細な、演出の志向がよく伝わって来る舞台。作品は75分という時間が示すように(タイトル表記も変えてある)原作の「物語」を辿るというより、場面や台詞をコラージュし絵画的に提示したものと思われた(粗筋を知らないのでそう見えただけかも?)。
闇に親しみ静寂が際立つ演出で、主人公に据えているらしい坊薗女史の(悲劇の裏返しのような)晴れがましい笑みを湛えた様子と、その他の人間たちとの質的な差が、一方を死者もしくは生者と見せたり、その逆に見えたり、場面が原作モチーフである絵画に見えたり、ミザンスと照明に非常にこだわった演出である。特徴的な演出だが、それが技巧としてでなく情感そのものとして(粗筋は判らなくとも)じんわり伝えてくるのが心地よく、作り手へのある種の信頼を獲得していたと思う。今後が楽しみ。
libido:青い鳥
libido:
こまばアゴラ劇場(東京都)
2019/12/19 (木) ~ 2019/12/22 (日)公演終了
満足度★★★★
利賀演劇人コンクールで2017年の優秀賞を取った3名(いずれも「青い鳥」演出で/最優秀賞無し)の内、二席(二等)の受賞者・岩澤哲野氏による作品。但し利賀では60分、本作は15分ばかり長いバージョン、さすが「演出」コンペ受賞作とあって演出で魅せていた。
利賀での他の受賞者は一席・松村翔子(モメラス)、三席・Ash(カワサキアリス)。「青い鳥」3バージョンを是非セットで観たいと思ったものだが、上の二名の「青い鳥」(一つは受賞作そのものではないが)は目にしたのでこれでピースが揃った事になる。Ash氏のは「利賀では端折ってしまった箇所」(「青い鳥」後半、誕生を待つ魂の世界)をモチーフにした独特な二人芝居で中々興味深かったが、松村氏のはほぼ利賀上演版でSTスポットという狭い場所で観た。コンペが「テキストvs演出」のバトルを見るものとすれば、前者はオリジナル・テキストのため考察できないが、後者及び今回のは確かに演出的側面の色濃い舞台。松村演出は(細部は忘れたが)空間を四角く縁取り、窓を思わせる木枠を使い回して細やかに場面を転回する俳優の動きが印象的だった。今回のはチルチルとミチルを男女の性別通り特定の二名を配し、他は黒っぽい被り物的羽織をまとい、コロス的に立ち回る。二人の演技がナチュラルであるのが(この場合)特徴と言えるだろうか。今回アゴラの通常の入口側をステージとしたが、その理由がラストに判る。寝ている兄をそのままにして、妹が扉を開けると、現実の光が差し込む。自然光の雄弁さが際立った(これは時間帯を選ぶが、会場に合わせた演出なら今回だけの特典という事に)。
キレイ -神様と待ち合わせした女-
Bunkamura
Bunkamuraシアターコクーン(東京都)
2019/12/04 (水) ~ 2019/12/29 (日)公演終了
満足度★★★★★
「観たい!」投稿をしようとした何ヶ月前はこのページは無かった。その時点では既に完売、立見席発売日も開始30分後には売り切れ。キャストの影響と思われるが、前日の当日券予約電話、しかもワンチャンスで通じるとは思わなかった。劇場には座席確保時間内ギリギリに到着し、「最後に残った」二階立見席で観た。不思議と全く立ちが苦にならず、打ち寄せる情動の波に委ねた3時間40分であった。
初演、再演を映像で見、5年前の再々演ではやや失望の感があった(期待値も高かった)が、前回はキャスティング変更程度であったが今回はあらゆる点で刷新、改良が図られていた。
キャスティング面では著名人多数である事もそうだが、歌唱面がぐっと上り、決定的なのは各俳優が役のキャラクターの掘り下げ、新解釈と言って良い人物像の提示があった。これが実に合っており、新たな側面を見せ、さらに楽曲変更あり、新たな歌場面追加もあり、また荒唐無稽を潔しとした元の脚本に意外にもリアルの補強があり、付け焼刃でなく自然な流れを作っており、また恐らく松尾スズキ自身がキャストで登場していた前回までは松尾トーンで舞台も回っていた、その構図を変え、ピースとしての人物らに自立した存在感を持たせていた。
期待半々で赴いたが大きく上回った。松尾氏はコクーンの新芸術監督となるという。力の程を示したと言える。
舞台美術は、基本構成は変わらないものの今回はアジアン・エスニックな雰囲気。全くの抽象から、ある地域を想起させるプランへの変更の理由は判らないが、そぐわしく感じた。
とにかく「キレイ」好きには贅沢な時間。
モジョ ミキボー
イマシバシノアヤウサ
シアタートラム(東京都)
2019/12/14 (土) ~ 2019/12/21 (土)公演終了
満足度★★★★
秋に同ユニットがOFFOFFで上演した『アイランド』(アゾル・フガード作の著名な二人芝居)を見逃したが、再演を重ねた(2010/2013)ネタを広いトラムで持ち込んでの公演に予約無しで観劇した。後で確認した所、あの『ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ』(2015)もこの三人組(鵜山演出を入れて)の上演であった(その時は上演主体は誰なのかチラシを幾ら眺めても判然としなかったが今年漸くイマシバシノアヤウサと名を付けたという)。
大の大人が渋みのある声で、実は子どもを演じていると程なく気づき、大の大人の奮戦を一つ眺めてやろうぞ、と構えて舞台に対した。一面に散らした手描き絵の小道具、というかミニ書割を縫って、二人は妙に活発に歩く。子どもだからだ。だが体力が子どもと違うので疲れるとぞんざいになる。その居直り方も含め、愛らしく思えてくる。
英国のとある街が舞台。学校では異端の類である二人は、町で互いの相棒を見出したのだった。そして二人の冒険の日々が一日一日と重なる。何と言っても二人のテンションを高めているのは、町の映画館で見た『明日に向って撃て!』(1970。原題は「ブッチ・キャシディとサンダンス・キッド」ブッチはポール・ニューマン、サンダンスがロバート・レッドフォード)。映画の休憩時間、二人はどっちがブッチでどっちがサンダンスかを決め、後半の続きを見る。正面を向いて映画を見る二人の背後に映像が流れるが、よく見れば出演俳優二人が映画になりきって撮った映像である。有名な♪「雨にぬれても」のキャサリン・ロスとポールとの自転車二人乗りの場面は、ウィッグを付けた浅野とペダルを漕ぐ石橋。
自分が20代前半に心酔したアメリカン・ニューシネマの代表作であるので、「これを使うとはズルイ」と呟きながらも2人のはしゃぐ気持ちは我が事の如くで、衝撃的なラストの実際の音が流れ、画面をじっと見詰める二人に自分はただ共感するのみ。
二人の蜜月は終りを迎え、やがて大人になったモジョ(浅野雅博)が町を訪れ、建物の陰にかつての相棒ミキボー(石橋徹郎)を見つけるが、芝居の冒頭はそのシーンであった事が分る。ここで交わされる台詞は作家の最も力が入る所だろう。過ぎた時間の振り返りをしない事を二人に瞬時に合意させた部分に、作家の願望を見る。子ども時代の二人を決別させる事になった「事件」、即ち「大人の事情」の惨い結末は、それでも二人を決定的断絶に導くものではなかった、という願いである。作家の思いを体現するべく二人はブッチとサンダンスの最後をやって見せるが、ラストシーンというのが皮肉で屈折した余韻を残す。佳品である。
THE CHILDREN'S HOUR 子供の時間
秋田雨雀・土方与志記念 青年劇場
青年劇場スタジオ結(YUI) (東京都)
2019/12/12 (木) ~ 2019/12/24 (火)公演終了
満足度★★★★
以前俳小の上演を観た時は随分寝たと記憶していたが、観ている内に筋を思い出した。独特な戯曲で、二人の女性が苦労して設立した寄宿舎付の教育施設を舞台とし、前半は善悪の彼岸にある子供達の混沌・殺伐とした世界を垣間見せ、後半は問題児の「嘘」が引き起こした出来事とその後の哀しい顛末が描かれる。独特であるのは、前半と後半とで物語の色合いが変わって来るところ。
前半は善悪が不分明な、否「大人を騙す」事に命をかけているかのような「問題児」(劇中ではその語で呼ばれる)とそれに翻弄される生徒たちの世界が、現代の私たちが直面する「なぜ人を殺してはならないのか」「なぜ嘘をついてはならないのか」といった根源的問いやイジメという問題範疇へいざなう。対して後半では「嘘」がもたらした悲惨な結果を告発するトーンがあり、それと並行して、ここが本作の頂点というか、どんでん返しでもあるのだが、その事件によって「嘘」であったはずの誹謗中傷が、真実であった可能性について当事者の一方が内省の結果確信し始めるという、「告発」の訴状を無化する話がもたげてくる。その当事者はもう一方の当事者に語りかけて行くに従い、相手を前にそれを確信し、信頼する相手に告白するのだが、あたかも誹謗を受け止め是認したかのように自分への制裁を行なってしまう。
この戯曲で(恐らくたまたま)扱われているジェンダー問題は、書かれた前世紀前半という時代では未だ「権利」の問題としては認識されておらず、ただこの戯曲はその存在を、辿らせた運命は厳しくとも、優しく存在させている、という点で特異な作品だと思う。
さて男性一人、その他全て女性という芝居。配役2チームあり、主要な役もダブルとしていた。
「子供の世界」は秀逸に描かれていた。一方大人の方は戯曲の問題(時代のギャップ)もあって硬質で演じづらい面がありそうであった。前半ラスト、嘘の張本人である生徒を追い詰め、嘘である事を暴こうとする場面で、その追及の甘さが気になってしまう。「そう訊いてしまったら言い逃れできちゃうじゃん」とか。一度他の大人を信じこませてしまった証言を、逐一反証する困難はあるが、しかし都合の良い時に泣き、被害者的態度を昂然として(まるで全身で闘いを挑むよう)とって来るその女生徒が、証言の矛盾をつかれてその証言が自分ではない別の女生徒からの伝聞であったと証言を翻したのに、教師ら大人はそのもう一人の生徒を呼び出して「それを本当に見たのか」と訊いてしまう。証言の信憑性が疑われたはずの問題児の、追及逃れに等しい証言を、疑うのでなく「真実である可能性」を求めるかのように訊き質してしまうのだ。もっと高飛車に「あなたは何を(問題児に)伝えたのか」と、訊かねばならない。もっともそう訊いたとて、転嫁した相手の女生徒の「弱み」を握っている問題児は、証言を引き出してみせただろうが。
戯曲にある、問題児が女生徒の(嘘の)証言を引き出すためにこれみよがしに「弱み」を連想させる単語を口にする、その不自然さに違和感を持たない大人というのも、演じにくいと言えばその通りだろう。
現代の比較的言語力・反駁力のある風情が出てしまうと、問題をスルーしてしまう事が腹立たしくなる。虚偽証言で貶められた大人は、無残に子供に敗北を喫したが、果たして反証を展開して真実を実証できるのか、という所に注目する動機付けが強く刻印される。しかし話はその「闘い」の経過を端折り、名誉毀損を訴えた法廷で敗訴した結果、人が寄り付かなくなった学校に設立者の女性二人が暗鬱に佇む場面になっている。問題児とやり合ってすんでの所で追及しきれなかった、という後味は、真実追及問題を未消化で残してしまう。難しい所だが、子供との対決では大人は子どもに及びもしなかった、という後味が相応しかったのではないか。
その要素として、流されたデマの「内容」が当時の社会(キリスト教国である米国のとある地方)では生理的な拒絶とでも言うべき反応を引き起こすもので、いささか理性的でないやり取りが不可避に生じてしまう背景を、確信させる何か時代考証的な要素が(大変難しい課題ではあるが)欲しかったかも知れない。
以上は戯曲上後半場面への接続を考えれば、の話である。これを現代の上演として見れば、前半の子ども達(特に問題児)の行動線はイジメの構図を仄めかして秀逸ではあった。
ただ最後(注文を続ければ)、問題の諸々が膿を吐き出すようによくも悪くも滞留を解かれて一つの区切りを迎えた時。神経を衰弱させていた主要人物である教師の片割れが、ようやく「外」の空気を吸う勇気を得て、そっと木枠の窓を開ける終幕の図がある。光注ぐ月を彼女が見詰める時間であるが、これが少々長かった。あの尺を取るなら役者は何でもいい心の変化を見せてほしい、という、まあ小さな事と言えば小さな事だが、そういう部分を生かさない所には勿体無さを感じる。照明のアウトが単に遅れただけかも知れないが...。
この小さな部分に自分が引っ掛かる理由は、一応ある。役者が提示すべき事はしっかりと提示されており、後は観客の想像に委ねられる領域となる・・という説明は可能だろう。だが、親切すぎない提示の仕方である方が良い場合と、真実であると信じさせる演技がもっと掘り下げられて良い場合があるとすれば、終幕に月を眺める主人公は、後者であると思う。恐らく解答は無数にあり、もしかするとふと頭に過ぎったパートナーとの楽しい思い出に小さく笑みが浮かぶかも知れない。あるいは教育を目指した若い頃、学問の神秘に向って大きく見開かれた目を、今また宇宙に向かって開いているかも知れない。あるいはただ少し寒さを覚えて身を震わせたが、それでも彼女のある強い意志が視線をいよいよ強くしていくかも知れない。涙を浮かべても良いのだと思う。そこに人間が居る、という事を確信できる事以上に観客が得られる演劇の快感は、無いのではないかと思うこの頃である。
狂人教育
池の下
d-倉庫(東京都)
2019/12/13 (金) ~ 2019/12/15 (日)公演終了
満足度★★★★
数年前、確か北区pit/区域にて二階席(1階=ステージにあたる四角いエリアを吹き抜けの桟敷から覗き込む格好であった)で一度観た切であった池の下の今作は、寺山修司作の中でも印象深い演目。
前観たの池の下は「エレベーターの鍵」だったらしい。端正、隠微、形式美といった寺山修司風な仕上がりに「へえ」と思った記憶。今作は正に「人形」が登場するのでどハマりな演目だろうとぼんやり予想しながらd倉庫へ入場。前とは収容数も膨らんだが客席は中々の埋まりよう。舞台側では開演前から人形メイクと衣裳の俳優が4人、背中合わせにぐるり椅子に座り、天井近くの糸繰りから伸びた紐に腕をくくられ、操られている(そのように動いている)。
1時間にコンパクトにまとまった「狂人教育」であったが、作り手の関心は「操られた存在」=人間も然り、という点にあり(パンフに演出談)、それを反映して人形世界の芝居がメイン、即ち操られた人形の仕草が強調された演技。
一方、医師が残したという「この家族の中に一人狂人がいる」との言葉から犯人探しが始まり、皆が己を「異端」とされる事を恐れ、主人公の小児麻痺の女の子以外の家族は皆揃って同じ行動をするようになり、最終的にその彼女は処刑されるという排除の論理、全体主義のテーマについては、後退の感があった。つまり集団化の過程には人間らしさが濃厚に表れるはずなのだが人形の知能の度合いというか、思考力や認識力が「良くできた人形の仕草」によって低く見えてしまうので、私たち人間に起き得る話という風には(頭で連想を働かせないと)見えて来ない。
冒頭の唄に乗っての猫(紙製)の首切り(ハサミでチョン)、劇終盤の女の子の首切りと、手際よく処理していたが、さらっとやってしまうので余韻がない。さらっとやる所に残酷さを感じたいのだが私の感受性は追い付かなかった
私たちは何も知らない
ニ兎社
東京芸術劇場 シアターウエスト(東京都)
2019/11/29 (金) ~ 2019/12/22 (日)公演終了
満足度★★★★
平塚らいてうをはっきり主役に据えた作劇、そしてキャスティングで、凡そ想像していたビジュアル(雰囲気も)を全く裏切って、歴史劇(フィクション性は抑制され史実をなぞる劇)でありながら、演出的工夫により現代翻案に等しい舞台となっていた。
リーディングフェスタ2019 戯曲に乾杯
日本劇作家協会
座・高円寺2(東京都)
2019/12/14 (土) ~ 2019/12/15 (日)公演終了
満足度★★★★★
至福の公開審査。一篇も対象戯曲を読んでいないが、審査員のコメントからどんな作品かが彷彿としてくる。今回は女性劇作家の審査員を3名とした。川村氏、永井氏の姿が居なくとも、議論は充実。何より劇作の世界の深さを知り、可能性を展望する情熱と思考力、直感を言語化する力が迸る熱い場が、やはり好きである。
アサガオデン(劇場版)
少年王者舘
ザ・スズナリ(東京都)
2019/12/14 (土) ~ 2019/12/15 (日)公演終了
普段もストーリーがあるようで無いような少年王者舘舞台だが、今回はフィーチャリング・夕沈、パフォーマンス主体でもやはり、というかこれぞ少年王者舘という内容であった。クライマックスに夕沈の落語(上方落語)を持って来たがこれが秀逸で、様々な落語演目を想起させる働きアリを丁稚に見立てたお話。(「次の御用日」「七段目」「阿弥陀池」「愛宕山」等等を思い出しつつ聞いた。)
4人の白装束の女性、生演奏は坂本弘道氏で、絡みもある。脳が欣喜雀躍する1時間半。
RITA&RICO(リタとリコ)
SPAC・静岡県舞台芸術センター
静岡芸術劇場(静岡県)
2019/12/14 (土) ~ 2019/12/22 (日)公演終了
満足度★★★★★
面白い! SPAC団員・渡辺敬彦演出・脚色による『セチュアンの善人』。氏は演出経験者ではあるが所謂「演出家」ではなく、今回はブレヒトを「苦手」とする宮城聰氏が氏を抜擢したのだとか。演出とは言え「裏方」だからか長い髪を不精に伸ばし、締切り間際の物書きよろしく頭を掻きながら俯き加減にそのへんを動いていた。
世界観的にはSPACで上演された西悟志演出『授業』に近いものを感じた。テイストは違うが。才能の貯蔵庫であるSPACを憧憬する。
Butterflies in my stomach
青☆組
アトリエ春風舎(東京都)
2019/12/08 (日) ~ 2019/12/17 (火)公演終了
満足度★★★★★
開演少し前から一人、二人と登場する女優。青☆組らしい衣裳はボディラインを淡くぼかす長スカートと、シルクっぽくヒラッとした白ブラウスで揃えている。「交換可能」な7人の女優には「いち」「にい」「さん」と役名が振られ(パンフで確認)、それぞれ7歳、17歳・・67歳までの七子を担当するが、「いち」「にい」の数と年齢が規則的に対応しておらず、「なんで?」と疑問が湧く。
と、客電落ち直前に見たパンフの箇所にこれはOn7(オンナナ)立ち上げ公演へ書下した作品、とあった。個性と主張の強いOn7メンバーとの共同作業の足跡を残したのだろう「いち」「にい」だと納得し、さらに開演冒頭の自己紹介で(役名でなく)役者名を言うあたりにもOn7始動宣言の模様を重ねるとそれが見事な導入となり、役者の挙動を追う内に早くも目頭が熱くなった。
ストーリーは七子の生涯。幼少から老年へと時系列に進む。各女優は受持ちの(年齢の)七子でない七子の台詞も喋ったりとフレキシブル。周辺人物たちも七子以外の役者がコロス風に入れ換わって演じる。
気付けばOn7の姿は何時の間にか消え、この座組としての躍動的な七子物語が紡がれていた。七名はサッカーや新体操のようにフォーメーションを変えポジションを変えて流れるように動き、道具と声を使って音響効果も担う。
青春の日々。それを予感する少女時代。クラスでは女子の眼中にない男子、そこに現われた転校生。恋、そして別れ。いつの間にかしていた結婚。子育て期、倦怠期、老年期。いつしか背景にうっすらと、例の眼中になかった地味な男を伴侶とした、地味だがそれでも丁寧に歩んだ人生の、終末期にその夫への疼きに近い心情が観客の想像力をくすぐる程度にふっと流れる。地味男(夫)専属の福寿奈央の演技はやや突き出ており、遊びがある。
音楽は(確か)使わず、全て役者のアンサンブルが芝居のリズム(うねり)を作り、出来事・行為の「行間」に漂うエーテルのような情感が、打ち寄せるさざ波のように観客を揺さぶるのだ。
365度人生
張ち切れパンダ
小劇場B1(東京都)
2019/12/07 (土) ~ 2019/12/15 (日)公演終了
満足度★★★★★
「365度・人生」・・タイトルの謎解きは本編の台詞になっているのでご安心を。。
今回は張ち切れパンダの「劇団」的キャラを近しく感じる観劇となった。無論その大きな要素は芝居そのものにあり、「七子」という存在を作家と役者が作り上げたこと(薩川女史の持ち味も生かされていそう)。基礎学力に難有り、現実的なビジョンが苦手でその場のノリに弱く、それでも人並みに人情があり情熱的でもあり夢を描く、しかしピントがずれていたりもする。男から見ると(彼女の父のように)叱りたくなり、もしくは遊びたくなる女の範疇。本来多面的である丸ごと一個の人間を薩川朋子が全身で表現した。団員中島が異色キャラを担うが客演陣もそれぞれ細密度の高い人物造形。
書き手は男子に辛辣で、課題解消せず自己責任と放逐するが、七子の生きる姿の前には男の悩みなど霞のよう。女性讃歌であり人間讃歌。物語もさる事ながら、役者たちの「演じる」佇まいに胸を熱くした。
熱海殺人事件『売春捜査官』
Project Nyx
芝居砦・満天星(東京都)
2019/11/29 (金) ~ 2019/12/08 (日)公演終了
満足度★★★★
つかこうへいの代表作を味わいたく久々の女性(nyosho)の館・Project Nyxへ。場違い感に抗う構えで、芝居砦・満天星をこちらも久々に訪れたが、小屋の佇まいも何時からか仮住まいを脱して年季の入った喫茶店のようにひっそりとながら図太い存在感を醸していた。
梁山泊で主役級を10年ばかり?やった申大樹が此度は演出(監修に金守珍がしっかり付いてるとは言え)という事で密かに期待を膨らませて開演を待った。パンフによれば北区つか劇団に所属歴があり、念願であったという。
主役を務めた傳田圭菜は彼女の新宿梁山泊(ほぼ)デビューの舞台で役者名を連呼する金守珍の甲高い声の中でその風変りな名前の響きと、初々しく緊張した顔とで記憶にたまたま残り続けた女優だったが、劇団にもしぶとく居続け、近年妖しく開花。今舞台ではスター・システム批判もしなる脚で蹴散らし、堂々たる主役振りを見せた。終演後は礼賛礼賛の拍手。
とは言え、作劇(翻案)と、その演技には難渋の跡も見られ、テキストとしては原作をちゃんと読んでみたく思った(つか氏は「原作」などクソ食らえと言いそうだが)。昨夏の燐光群版は坂手洋二流の翻案は織り込み済みであったが、こちらも加筆されたらしい朝鮮半島絡みの逸話の比重が嵩み、脇筋が膨らむ感じも坂手並みの感あり。
・・もっとも「原作」知らないから何とも、だが。
手の内の多くなく、恐らくは没入型演技の不得意な(今回見ていてそう思った)傳田女史が、女史なりに勢いでもって(滑りそうになりながらも)快調に場面を乗り切って行く様は何とも痛快。台詞が要請する伏線が辿れているとは言えない箇所は多々あったが(演出の問題かも知れない)、登場人物ら及び観客の「期待」を一身に背負って風を切る傳田自身の姿をいつしか観客は追い、終局に至って初めて彼女(傳田女史もしくは木村伝兵衛)が「弱さ」を垣間見せるが、そこから歩み出す後姿は美しく、伏線回収不十分を補って余る力強さがあった。つか舞台は、役者を酷使し、輝かせる仕掛けである(現時点の仮説)。
メモリアル
文学座
文学座アトリエ(東京都)
2019/12/03 (火) ~ 2019/12/15 (日)公演終了
満足度★★★★★
地点による上演「忘れる日本人」「山山」で登場した新鋭・松原俊太郎(新鋭なる呼称が古いか?)の書き下ろし舞台を、演出経験を持つ俳優・今井朋彦が本拠地文学座で企画し、上演した。
今井氏は20年以上前から青年団に傾倒し、そこを母胎とする地点の独特な舞台にも触れて刺激を受けたという。松原氏の戯曲が地点の手法以外で果して舞台化され得るのか、これが最大の関心事であり、文学座としてはかつての別役戯曲以来の「文体」との格闘となるのではないか、と予想したが、挑戦は確実な成果を手にし、新しい一歩を標したと私には感じられた。勿論地点とは異なる方法で、である(本質の部分では共通項がありそうだが)。
何より松原氏が書きなぐった言葉が鋭角的でありながら熱情を帯び、身体の脈動が視覚的刺激を絶やさない地点に比べ、こなれない身体を通した言葉が迷走する時間もあったが、斬られた断面が放つ生々しさを持つ言葉は乱暴に、かつ繊細さをもって脳を打って来た。
「冒した者」2019
劇団速度
こまばアゴラ劇場(東京都)
2019/12/05 (木) ~ 2019/12/08 (日)公演終了
満足度★★★★
昨年のアゴラ演出家コンクールの出品作品(20分程度、中身は忘れた)で独自な才能を見せていた印象の(よく喋る)演出者の主宰ユニット。本作は2018年夏の利賀で優秀賞を取った舞台の長尺版。『冒した者』は青空文庫に出ていたが結局読めず。はっきりハイ・アートの領域。象徴的表現と異形の発語方法のバリエーションとマッチングが良い、とは感じる。何がどうなっているか分らず不眠の体には絶好のうたた寝時間、ではあったが深寝はせず舞台風景はほぼ眺めた(台詞の意味は入って来なかったが)。
90分の舞台は、利賀で発表した60分からどう変わったか・・終盤妙にポジティブ異形やってた部分?と想像したり。演出がコンペでは涙を飲んだ削除シーンを入れての90分なのか、単独公演のため尺を伸ばしたのか、とか。
風船の空気の出し入れ、俳優らの呼吸(困難)、粘土床、ほぼ使われないソファ、椅子。空間の設えは悪くない。
今回の舞台単体では何とも評し難く捉えがたいが、無駄に難解だったり、神妙にして底浅いパターンには堕さず、刺激される所あり。
トークゲストに合わせて予約したが正解であった。(後日詳述、かも)
ヤポネシア
サイマル演劇団
サブテレニアン(東京都)
2019/12/05 (木) ~ 2019/12/08 (日)公演終了
満足度★★★★
当日は電車検索の入力時刻を誤り、余裕ぶっこいて本命と次点共に逃し、急遽三番手のこちらを観劇。
内容全く未知数(舞台スタイルは予想の範囲)、「ヤポネシア」という概念を提唱した(よくは知らないのだが)島尾敏男にまつわる作品という事ではるばる板橋へ。
また前回の「狂人と尼僧」で怪演を見せていた葉月結子(先刻シアターXで予期せず舞台上に発見したが普通に演じていた)を見る楽しみもあったが期待通りであった。
ただし舞台はリアル・ナチュラルな喋りは皆無、二組の男女の会話(一応そのようにも見れる)を一人の持ち時間長く詩のボクシングよろしく力強く金梃子を押し付けるように発する。単調と言えば単調だが「気」を張り詰めた演技の成果は4名とも。
なお男女二組はそれぞれ交わらず(一方は島尾+夫人らしいが一方は不明)、今どちらの組の会話であるかは照明等で分るようにはなっている。前作同様に、背後では時計の無慈悲な秒刻が鳴り、舞台は抜き差しならぬ空気を醸しているが、どういうドラマであるのかは良く分らず、しかしそれでも良いのではないかと思ったりもする。
夫婦の気持ちのすれ違い、妻の精神的逼迫が、目の前の役者の姿から窺えるが、しかしその具体的な原因や、解決策を考える材料が説明される事はなく、人物の心模様が何やら言葉を連ねているらしい「声」に乗って伝わって来る、それ以上のものではない。
今なぜこれをやったのか演出者に訊いてみたい気がするが、劇場では思い至らなかった。(65分)
獣唄
劇団桟敷童子
すみだパークスタジオ倉(そう) | THEATER-SO(東京都)
2019/12/03 (火) ~ 2019/12/15 (日)公演終了
満足度★★★★★
山間の村、神聖な伝統家業(世襲制?)そして大東亜戦争と、桟敷童子のアイテムがそろった舞台だが、花採り業というオリジナルな素材を据え、悲劇性の高い作品となっていた。個人的な感覚だが、桟敷童子の「お家芸」とは言え、新たな素材というだけでなく最近の桟敷作品にある濁った感触、話の筋だけを追えばそれなりなのだが、行間にと言えば良いのか、ザラついたものを感じる。戦争戦死という脇筋も「悲話」という物語性のツマにさせおかない、逼迫した様相(現在に刺さるもの)を滲ませていた。(微細な部分から感じ取った所で、ある種の投影があるかもだが。)
女友達
タカハ劇団
スタジオ空洞(東京都)
2019/12/03 (火) ~ 2019/12/07 (土)公演終了
満足度★★★
初の劇団だが異儀田夏葉、高野ゆらこ両女優の名をみて劇場へ。スタジオ空洞の規模からして小品と予想したがその通り、小ぶりな会話劇。本としては序盤から諸々引っかかる所あり、ブラッシュアップしたい衝動を覚えた。演技は手堅いながら台詞の流れに無理があるのでリアルを積み重ねづらく熱が生じない。それで本来「驚く」演技であるべき所がスルーされたり、その割に妙な所で「え~」と驚き表現を見せたりの塩梅まで調子がズレる。しかしそれでも、場を温めていたのは役者。最後には戯曲の「構造」が見え(メタ処理に逃げた感も有りだが)、強引ながらうまく収めてはいた。が、されば尚の事、前半からの「状況解明」台詞についてはやはり推敲願いたくなる。
高羽女史の個人史を重ねたような?作品で、声援を送りたくなる情感が終盤にふっと掠めるが、例によって「何が問題か/どうすればいいか」を考えてしまう方の舞台であった。
唐十郎楼閣興信所通信
鳥山企画ミリアヤド
シアターグリーン BOX in BOX THEATER(東京都)
2019/11/27 (水) ~ 2019/12/01 (日)公演終了
満足度★★★★
唐十郎作品の舞台でこういうのは観た事がない。よくみると戯曲でなく小説の舞台化であった。泉鏡花×鳥山昌克シリーズは前回あたりからチラシを目にして気になってをり。但し過去作は俳優・鳥山氏が唐十郎作品を構成し演じる一人芝居で、今回のような大所帯(といっても7、8人だが)での上演は異色のよう。近藤結宥花の名もあって観劇に及んだ。
テキストは再構成したのだろうが、唐流の詩情が溢れている。劇は冒頭を見逃したが、場面ごとに闇から浮かび出る美術(具象)と、切なく情感をかき立てる音楽(悲恋物の洋画に流れそう)で、耽美な物語世界が描かれていた。原作がそうなのか演出なのか、乱歩の趣あり。
原作の小説「紙女房」は短編集との事で、舞台は3エピソードで構成していた。「楼閣興信所通信」とは原作に付いている副題。その興信所の所在地は東池袋の設定らしく、劇場のロケーションには拘ったに違いない。
一つオーラス暗転直前の場面が、はっきり記憶にないが、探偵と助手のやり取りだったか、もう少しスマートに行きたく思った。(終わり良ければ○○)