ふじたんの観てきた!クチコミ一覧

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ビョードロ 終演いたしました!総動員2097人!どうもありがとうございました!

ビョードロ 終演いたしました!総動員2097人!どうもありがとうございました!

おぼんろ

d-倉庫(東京都)

2013/05/29 (水) ~ 2013/06/16 (日)公演終了

満足度★★★★★

芸術は,みんなのもので,もっと,心広くやってください。
劇団も小さな集団から,大きな集団に飛翔するときがあると思う。

そこで,小さなお金にしばられて,その活動が停滞するのなら,それは,あらゆる芸術活動の敗北であると思います。Corichのコメントする場合も,たくさん行って,たくさん落書きした人間ばかりが目立つのは問題に思います。その演劇に関わっている人間は,本当に良いものをめざしているのではないでしょうか。そこに,お金はたくさんあって,暇もあるおじさんたちが大挙して,東京都内を夜な夜な走りまわり,内容もないような書き込みを書き並べ,その数をCorichが集計して,評価させるのは,少し変だと思いました。

芸術活動を指向するのであれば,そのあたり少し考えないとダメな時期に来ているのではないでしょうか。

たとえば,おぼんろは,私の理解では,写真を撮って,どうぞ,宣伝して欲しいと言いました。しかし,その判断は,少しあいまいで,フラッシュをたく失敗があって,それを本人も十分あやまりました。劇団も,少し問題があると,思ったものの,なんとか我慢してくれました。しかし,一部ファンを代表してか,大変な攻撃をする輩がいました。彼は,劇団の判断を越えて,そのような批判ができるのでしょうか。確かに,一ファンなのであれば,人のまちがいをあげつらうのでなく,次回からは,頼むから,静かな世界を守りたいというべきです。劇団側から,最初にまよいこんだ観客に向かって,二度と来るな!というようなことを言うファンがあって良いのか,たいへん疑問です。

Corichのコメント,もっとちゃんとやってください。何度観たかとか,観客にバカがいたとか,そういうことばかりやっても何の発展もないのではないかと思います。二行や三行のコメントでなく,常連なら,少し内容をまとめてください。小学生のいたずらでもここまでひどくはないと思います。

お金がある人が,芸術を買い占めたのは,歴史的な事実です。でも,たとえば,このおぼんろには,本当このあといろいろな試練を経て,演劇の根底を覆すような夢の実現があろうかと思うものです。その場合,いろいろな劇団の失敗を研究して欲しいのです。でないと,大衆劇団の中には,結構新しい良いものを目指す演劇をやっている,とか思われちゃいます。くりかえします。芸術は,みんなのもので,もっと,心広くやってください。

舞台劇「セロ弾きのゴーシュ」

舞台劇「セロ弾きのゴーシュ」

ゴーシュ・アクティング・パーティ G.A.P.

ミュージックスタジオ・フォルテ(東京都)

2013/08/31 (土) ~ 2013/09/01 (日)公演終了

満足度★★★★★

いつも心にカレンちゃん。
素敵なねこでした。

また,作品がムダがなくひきしまっていました。

演劇『セロ弾きのゴーシュ』は,とても調和の取れた演劇です。まず,全員が楽団の役で,トランペットなどを吹くさまを演じます。怖いのは,楽長です,でも,楽団員役の子どもたちは,泣き出したりしません。じっと,その指示を待っています。いざ,ゴーシュを応援しようと決まると,動物のマネをして,ゴーシュを励まそうとするのです。楽団員の物まねの動物なら,ゴーシュは見抜くにちがいないのですが,実際の動物は,とってもリアルなのです。たとえば,何度もドアを破ろうとして,血だらけになるかっこうなど。

狸もほのぼのとして良かったのですが,やっぱり,野鼠がすごい。言葉が,ていねいであり,実感がこもっている。子どもの演技とは思えないくらい,ぐっと来た。そこで,人形劇的に子ねずみがいる。しかし,その分身として,本物の子どもも子ねずみを演じている。たいへん工夫してあって,感動した。自分は,最初の,猫役が,なんとも愛くるしくて瞼に焼き付いてしまった。ゴーシュの後ろに回って,親しげに語る様子もとても面白かった。この演劇『セロ弾きのゴーシュ』は,小時間なのだが,ミスがない,すきがない。

すると,猫は,肩をまるくして,目をすぼめてはいましたが,口の当たりでにやにやわらって云いました。
「先生,そうお怒りになっちゃ,おからだにさわります。それより,シューマンのトロイメライをひいてごらんなさい。きいてあげますから。」
「トロイメライ,ロマンチック,シューマン作曲」
「先生もうたくさんです。後生ですから,やめてください。」
しまいには,猫は,まるで風車のようにぐるぐるぐるぐるゴーシュを回りました。

野鴨

野鴨

演劇集団アクト青山

上野ストアハウス(東京都)

2016/11/16 (水) ~ 2016/11/20 (日)公演終了

満足度★★★★★

素晴らしい!
ヘッダーガプラとほぼ同じメンバーだったのかもしれない。

人形の家、ゆうれい、海夫人、棟梁ソルネス、ペールギュントを観劇して来た旅は、やっと野鴨にたどりついた。

かたくなに真実を曝こうとする人物、それに真摯に向き合おうとする魂の激突。

実際には、もっと要領よく人生をいきるひとたちも多いのでしょうし、そもそもの原因は大旦那さまの放縦。なんで、罪もない中学生が自殺に追い込まれるのか、考えさせられるところです。

ネタバレBOX

イプセンの『野鴨』をなつかしい上野ストアハウスで観劇した。

イプセン作品は,いつも鋭い人間観察とか,人間社会の裏舞台の暴露みたいなものが多い。そのために,どちらかといえば,楽しくミュージカルを鑑賞した方が気持ち的には楽である。しかし,名作を名演で理解し,問題点を自分なりに整理するのは,生きるための力を得ることもあって貴重だ。

直前にみた,『外道の絆』が,交通事故にあった家庭の,モラルに反した解決案にがっかりさせられたもの。しかし,これもまた立派な演劇だったと思う。

豪商ヴェルレが,実際の自分の孫に,最後財産を分配することになるこの物語は,そのような配慮が届く前に,ヘドヴィクを追いつめしまう。

まず,グレーゲルス・ヴェルレという主役は,終始一貫して,父親の偽善をあばく。さらに,運命に翻弄されるひとたちに,もっと真実を,もっと正義を,倫理を,と糾弾する。
これに対し,ヤルマール・エクダルは,騙されて結婚し,他人の子どもを育てていたにはちがいないが,それまでかわいがっていた娘に厳しく接する。そのような仕打ちは,はたして許されるものなのだろうか。

イプセン作品は,シェークスピア演劇のようなものとちがう。身近なスキャンダルをあつかう。そのこと自体が批判されるようだ。しかしながら,現在にも,多くの劇団で,手をほとんど加えず再演され続けるのは,その作品にいまも魅力がたくさん残っているからだろう。
良い演劇だったと思う。
虚像の礎

虚像の礎

TRASHMASTERS

座・高円寺1(東京都)

2014/03/06 (木) ~ 2014/03/16 (日)公演終了

満足度★★★★★

心の問題に深く拘泥していく作家
座・高円寺1,で『虚像の礎:Foundation of Virtual』をやっていた。上京したついでに演劇を観ることが多い。CoRichのTopになっていた本作品は,事前調査ではとにかく難しそうであった。高円寺座というところも,初めてだった。ここは,外観もホールの中もおしゃれな場所だ。実際舞台ステージの,配置もなんとなく雰囲気があって期待大だ。作品内容がやや高尚なせいか,観客席はさほど埋まっていない。当日券でも,席は確保できた。

始まってからしばらくの印象は,この作品は何かに似ている。おそらく,俳優座で観たサルトルの『汚れた手』ではないか,と思った。勿論,全体は全くちがうものだ。政治的対立がテーマの一つであるということ。さらに,正義とか,真理とかいうものは,時間がたってみると結構意味を失う。だから,当初,ある種の価値観を決めつけると,たいへんな間違いをすることがある,といったような教訓を扱っていると思うからだ。

この作品では,何度か,社会が進み過ぎ,人間はそれについていけないと言う。病気と指摘されたものでも,社会全体の歪みが原因なものについて,われわれはどうすると良いのだろう。ただ,精神を安定させる薬を飲ませるばかりで良いのだろうか。演劇の,演劇たる役割の一つは,心についての優れた洞察がある。音楽や,絵画などの芸術ほど,国家も予算をくれないかもしれないが,効率の悪い演劇活動は大事なものなのだ。

たとえば,心の問題に深く拘泥していく作家は,男女間の痴話喧嘩も表面的には捉えない。確かに,愛し合った男女の間で,男性が女性に暴力を振るうようになっていくと,男性の凶暴さばかり非難されて,二人はもはや引き離すことが唯一の解決となる。しかし,これを,演劇家が観察すると,女性側は,そのような暴力的な環境に自分の場所を依存しているような感じでもあり,その場合,女性は隔離されると,精神的に死んでしまう!

さて,魅力的だったのは,大がかりに作られた二階ステージである。うさんくさい政治家は,この場所で,演劇家に予算をつけることを渋っている。彼は,けちな男で,秘書に不倫疑惑を押し付けていた。そのために,秘書は,してもいない不倫の責めを受けて,妻からヒステリーな攻撃を受ける。冒頭で,男は,不倫をするものだ。まったく罪のない女性を苦しめるだけで,意味もない!というシーンは,実は,前提がガセネタであったのだ。

弱い立場の民族家は,いつもだまされ,うまく丸めこまれた。歴史的にも,もめごとは,連中によって持ち込まれた。だから,反発はある。しかし,どのように抵抗しても,自分たちの立場は劣悪になるばかりだ。いつか,民衆の不満は爆発するだろう。実際,政治家たちが,何も起こりません!と訴える中,遠方で,爆撃の況音が響きわたって幕となる。想像力を鍛える,それは,演劇では可能であろう。真実が見えやすくなるのだと。

飛龍伝

飛龍伝

COTA-rs

シアターサンモール(東京都)

2013/08/01 (木) ~ 2013/08/04 (日)公演終了

満足度★★★★★

ぼくには,別役さんに見えないものが見える。
演劇人で,小説家であった,つかこうへいが,2010.7.に,62歳で亡くなっている。知名度が高いものは,『熱海殺人事件』(戯曲)である。つかは,演出家としての活動が有名である。映画『鎌田行進曲』は,つかによる脚本である。1982.深作欣二監督で一世を風靡した。彼は日本生まれの韓国人であるが,その事実はあまり知られていなかった。つかの作品では,『戦争で死ねなかったお父さんのために』は,熱海とはかなり性格のちがうものだ。

『統一日報』の記事で,母親と初めて祖国の地を踏んだことが掲載された。朝日新聞にも,同様の内容が出ている。小説『鎌田行進曲』で,直木賞を受賞した頃の話である。熱海は,日本的なギャグの集積といえる。これを,韓国で上演することになる。原作をそのまま出すべきか,否か。『広島に原爆を落とす日』は,旧日本軍が,朝鮮の国王を殺害,妻と子どもを日本に強制移住させる話だ。つかは,非常に強い民族的気概を持った作家だ。

『戦争で死ねなかったお父さんのために』は,戦後30年経って,召集令状が岡山の許に届く。すべてはっきりしない幻想性。日本人の精神構造をからかったものか。人気のある作品が,作品的に文芸的価値から遠いことが,つかの場合ある。逆に,目だったものでなく文芸的に質の高い作品群が別にあるということになる。熱海などは,人を笑わせようとするギャグがくどい。事実究明もそっちのけ。つかの観客の笑いは,ナンセンスといえるのか,いや,そうではないのか。

『ロマンス』は,『いつも心に太陽を』として上演された。二人の競泳選手は,幼馴染で,国体で再会するが,片一方はそのことに気づいていない。平易だが,強い印象で書き出し,深い陰影を醸し出す作品である。小説作品が,高度に開花したのは,演劇『鎌田行進曲』の台本を小説化し,直木賞を受賞した時期である。演劇人は,舞台用の明瞭な台詞を第一に考える。そのために,小説,純文学に求められる,言語的な幅の広さが乏しくなる。また,他人と共有できるやさしい言葉で,新しい感覚を出すことを狙った。

つかは,作品そのものが面白くなければ話にならないと考えた。演出重視の姿勢である。その場合,主題は,いつも明瞭に意識されるとは限らない。つまり,作品のテーマより,まず,演出が第一なのである。これは,小説創作の引きこもり状態より,濃厚な人間関係がある演劇活動を愛した。初期の未熟な作品は,演劇活動をとおして,改作される。見事に昇華された。『初級革命講座 飛龍伝』が典型的な例である。ちなみに,評論という行為一般をとらえると,それは,純文学の世界のしろものであり,大衆文学にあっては,評論はさほど重視されないといえる。

熱海は,70年代演劇界に衝撃を与えた。笑いの要素を前面に押し出し,新風を吹き込んだ。富山県警から,捜査一課への転任する刑事。取調べは,ひどくでたらめ,でっちあげが起こる。容疑者は,長崎出身だ。つかの作品では,笑いの中に,いつも悲哀があった。つか全体では,熱海以外の作品では,くどいまでのギャグは姿を消していく。熱海と,飛龍が,改変につぐ改変であったのに比べ,『鎌田行進曲』には続編が出たものの,本編における改変はほとんどなく,基本構造は一貫している。『鎌田行進曲』の出来に,つか自身満足していたことによる。

一般的には,時代に合った新しいものに変えるのが,つか流である。原型を留めないほどの改変もある。飛龍はとくにその傾向が強い。左翼的運動で負傷した人々の悲哀。登場人物のあだ名の複雑性。場面転換の多さ。状況の進捗が見えにくい難解小説的である。神林美智子が,敵方に近付くストーリーが,途中で獲得される。熱海に比べ,飛龍の改変は,時代に合ったものという点では動機不十分である。現代史を作品に盛り込むことは,学生運動に対する共感があったものだろう。機動隊と全共闘委員長の禁断の恋。それしか,つかには,作品をうまく表現できなかったのだ。中卒の機動隊が,実は,社会的弱者でありながら,権力の,体制側の手先として消耗されていくのが,納得いかなかったのだろう。

在日コリアンとしての,作風を研究すべきか,否か。ある時期あった,つかの毒は何だったのか。つかの演劇では,あったはずの毒がなくなっていく。どぎつさ,猥雑さも薄くなっていく。ただ,つか現象が時代のものであったので,笑いの感覚の変化とともに,消えていったものもある。笑いから少し距離を置いて,弱い立場の人のことを多く考える。つか作品の人物は,なべて饒舌だ。自分の意見をとことん表明する。遠慮して立ち去るようなやわな存在はいない。ののしり,罵倒し,ヒステリックになりながら,言うべきときは,最後まではっきり言うのだ。

相手の本性を見るには,敬語を使え。突然,相手が敬語を使わなくなる。その時,何かが見える。つかの作品は,人間関係が安定している。運動家の木下は,神林美智子との出会いでは,ため口をきく。同棲し,やがて,神林美智子は,委員長になる。そこで,木下は口調を変える。

「ぼくには,別役さんに見えないものが見える」とつかは言う。この日本で,在日コリアンはどう生きるべきなのか。外国籍のまま公務員になれる国だって,世界にはある。「私には他の劇作家が見えないことも見えるのだ」。『広島に原爆を落とす日』の主人公は,日本軍に殺害された朝鮮国王の息子である。犬子恨一郎は,天皇を崇拝する。御前会議には召集されなかった。かわりに,真珠湾攻撃を命令される。うまく利用されたのだ。韓国に住みたい。しかし,自分は,うまく住めない。韓国の生活に関心はある。自身のことは,在任とはいわず,韓国人と言っている。

参考文献:つかこうへい 笑いと毒の彼方へ(元徳喜)

ジゼル

ジゼル

萌木の村

萌木の村特設野外劇場(山梨県)

2013/07/30 (火) ~ 2013/08/10 (土)公演終了

満足度★★★★★

『ジゼル』は,現代の不倫問題にも該当し,解釈によっては悲劇にもなる。
『ジゼル』は,現代の不倫問題にも該当し,解釈によっては悲劇にもなる。

タリオーニとエルスラーの時代は去った。カルロッタ・グリジの時代が来た。彼女は,7歳からバレエをやっている。15歳になったとき,24際だったジュール・ペローと出会う。ペローは,バレエの指導者として優秀で,その様子は,名画ドガ『踊り子』に残されている。当時,メートル・ド・バレエは,ジャン・コラーリであった。『ジゼル』を誰が振付するか。プリ・マドンナであったグリジは,振付もやっていた恋人ペローのいいなりであった。そのために,『ジゼル』の振付は,記録としては,ジャン・コラーリとなっているが,実際には,ジュール・ペローの振付である。

グリジは,ドニゼッティのオペラでのバレエ・シーンが,初舞台であった。五幕でなく二幕の『ジゼル』は,グリジには取り組み易く,彼女を有名にした。原題は,『Giselle, ou Les Wills』で,1842年,ボードレールも崇拝する文学者テオフィル・ゴーチエが,書き下ろしたものである。ゴーチエの作品としては,もう一つ『バラの精霊』がある。ハイネの民話からヒントを得て,ユーゴー作品中の舞踏会も参考にしている。ゴーチエ同様に,バレエ好きなアダンは音楽を担当した。アダンは,視覚的に,踊り子の足を見ることが快感であったことを告白している。

『ジゼル』は,ロマンチック・バレエなので,異国趣味の,妖精物語。淡いはかない貴族と,村娘の恋という以上の意図はなかった。しかし,これが,すぐに,ロシアに渡り改訂され,フランスで上演されなくなっても,人気を得ていく。1884年頃,マリウス・プティパが大規模に作品を手直ししている。貴族のきまぐれな恋の物語は,『フィガロの結婚』『二都物語』も同様である。しかし,『ジゼル』は,現代の不倫問題にも該当し,解釈によっては悲劇にもなる。


以下,ストーリーを追うと,

村娘ジゼルの笑顔は,人を引きつける。彼女は,ダンスがとても上手である。あるとき,とおりすがりの男は,この娘に出会い恋に落ちた。しかし,彼には,許婚がすでにいた。そのことを隠しても,娘に近付きたくなって,アルブレヒトは転落していく。

村娘ジゼルのことを村で一番想っていたヒラリオンは,アルブレヒトの許婚であるバディルドと,彼女の父親を,無理やり密会の現場に引きずり出す。愛するアルブレヒトに許婚がいたことに衝撃を受けたジゼルは,もはや生きている希望を失ってしまうのである。

村には言い伝えがあった。恋に盲目となり,身を滅ばした者は,妖精となって,暗い森を彷徨う。娘たちをだました男がその森を訪れたら,妖精は復讐をすれば良い。皆でからかってやるといい。祝宴を催し,酒をのませ,毒牙にかけて,ダンスの相手をさせるのだ。妖精には,疲れという言葉は存在しない。だから,妖精たちが気の済むまで,ダンスの相手したまぬけな男たちは,気が狂うか,絶命してしまうしかないのだ。

ある日,ジゼルたちの祝宴には,二人の懐かしい顔があった。ひとりは,一方的に自分にのぼせあがって,挙句に,アルブレヒトと自分の恋を見事に引き裂いた,ヒラリオンである。もう一人は,村にたまたま寄ったために,自分のダンスを見て,自分の美に釘付けになり,はからずも恋に落ちたアルブレヒトだった。妖精たちの判断は,まず,ヒラリオンを死ぬまで踊らせて,目的を果たす。しかし,次なる標的のアルブレヒトには,ジゼルはなんの恨みも抱いていなかった。しいていえば,許婚の存在を明かさなかったことだ。ただ,最初にそのような男を誘惑したのも自分であり,恨む筋合いでもなかったのだ。この男に,本当に罰を与えて良いものなのだろうか。

というようなことになると,『ジゼル』は,きまぐれな貴族の遊びにされた恋という意味を失う。現代人の恋,不倫的な気持ちが起こるのは,自然なものか,許されざるものか,そいうシリアスな劇になる。

ところで,『ジゼル』の時代は,靴も十分に完成されていない。技術を,足の筋肉で補うのが精一杯であった。『ジゼル』の少し前の,『ラ・シルフィールド』で,初めて爪先の利用,ポワントが出現する。鳥のように軽やかで地に足がついていないこと,これを示すために,どうしたら良いだろう。一回跳ぶあいだに二回交差して,元に戻ってみよう,これが,アントルシャ・カトルと呼ばれた。


バレエの語幹bal-は,ラテン語の「踊り」を意味する。詩と音楽の融合,さらに,演劇・美術を加え,四つの要素から「バレエ」は生まれる。「バレリーナ」は,伊ballere「踊る」から来た。「マリー・タリオーニ」は史上最大のバレリーナだ。彼女は,北欧生まれのイタリア人であり,パリ・オペラ座の学校に入る。1830年,パリ民衆は,王政復古を嫌って,七月革命を起こす。ここで,パリ・オペラ座は,ときの権力者の直轄機関から,民営企業にかわる。ルイ・ヴェロン総裁は,複雑な風俗コメディを捨てた。音楽・美術に優れ,ストーリーはシンプルだが,踊りが自然に流れ出て来るようなバレエを構築した。そこで,ヴェロンは,タリオーニに白羽の矢をたてた。歴史上,ロマンチック・バレエといわれるものは,このとき出現する。

タリオーニは,風の精という当たり役を得る。 このドラマは,スコットランド大農園の子息が,許嫁との式直前に,風の精=シルフィードに心を奪われるという設定だ。風の精を一目みて,心奪われ,ジェームスは,許嫁エフィをすっぽかしてしまう。彼には,森の中で出会った妖精たちのことがどうしても忘れられなくなる。格別心を奪われたのは,シルフィードという名の妖精だ。妖精たちと,一晩中踊り,唄い,語らい,微笑みあっていた時間はあっと言う間に過ぎた。シルフィードは,妖精なので,その手に抱きしめることはできない。それは,わかっていた。悩んでいると,悪魔のささやきがあった。魔法使いマッジが,特別なスカーフをあげた。それでお好みの妖精を捕獲してしまえ。恋の炎に身も心も燃えつきてしまったジェームスは,そのようなことをすれば恐ろしいことが起こることは察知していたが,とうとう我慢できなくなる。ある日,宴が終わろうとするとき,突然,ジェームスは蛮行に及ぶ。たしかに,魔法使いマッジのいうとおり,妖精シルフィードを一度スカーフに絡みとることには成功する。だが,妖精シルフィードの羽根は,脆くも崩壊し,同時に,シルフィードの息も絶える。

この上演は,その後のバレエ史上にはかり知れない影響を与える存在となっていく。最大の功罪は,バレエの名を一方で破格の地位に押し上げたという点。それと,女子ども向きのセンチメンタルで甘ったるいスペクタルとの評価を強めてしまったという点。情景設定が,異国であり,幻想的な要素を多分に含むものが,バレエであるという認識も確立された。白い薄もののスカートのコール・ド・バレエが定番となった。シルフィードの息の根を止めた「スカーフ」は,バレエ芸術に生命力を与えた。

「ラ・シルフィード」が,1832年に初演された。マリー・タリオーニは,1837年にパリ・オペラ座を去る。彼女をスターにしたヴェロンは,彼女にライバルを与えた。パリ・オペラ座では,スターに独断場を決して与えない伝統があった。ここで,ファニー・エルスラーが抜擢された。彼女は,オーストリア人でロンドンにいたところを引き抜かれる。ヴァイオリンの名手に特訓を受ける。タリオーニは,宙を漂うように舞う。エルスラーは,しっかりと地についた踊り方をした。エルスラーは,タリオーニにとって手ごわいライバルとなった。エルスラーが,タリオーニの当たり役「ラ・シルフィード」を踊ると騒ぎになった。やがて,エルスラー自身は,アメリカに渡り大歓迎を受ける。パリ・オペラ座から,しばらくスターはいなくなった。


参考文献:バレエの歴史(佐々木涼子)

狼少年ニ星屑ヲ  終演しました!沢山のご来場ありがとうございます!

狼少年ニ星屑ヲ 終演しました!沢山のご来場ありがとうございます!

おぼんろ

ワーサルシアター(東京都)

2016/10/25 (火) ~ 2016/10/30 (日)公演終了

満足度★★★★★

ガンバレわかばやしめぐみ!
おんぼろ、おぼんろ、の原点がわかった。好カード(^o^)

劇団の珠玉は、ビョードロだと思われます。作中人物で毎回抜群の存在感は、『弁士』だろうか。その低音の魅力、圧巻です。下北沢落語でもかつぜつの良さが発揮されていた。その『弁士』は、どうも、本公演に謎が隠されていたのだ。

本日の公演は、10*30と言ってみなに、一日違っている指摘を受けていた。

ネタバレBOX

イケメンのお兄さんがたくさんの若い女性に,夢のある物語をわかり易くつたえてくれる。キーワードは,文学の要点『想像力』。動きは,激しく狭い舞台を会場も含めて駆け回っていく。

独特の会話劇は,ときには神妙であり,涙をさそう。気が付くと,おおげさな展開に笑っていたりする。何本も作品を描き,スタッフはほとんど固定化し,はさみこむ「技巧」はワン・パターン。でも,かえってその中に,引きこまれる世界がある。

演劇は各種ある。その中で,独自色は大事だろう。生き残りたい。固定ファンに飽きられるのでは困ってしまう。演劇とは何だろう?とかいつも思っている場合,この団体のスタイルには考えさせられる問題提起が数あるだろう。

もうすこしこの劇団を見続けると,さらに何かが見えて来るのかもしれない。
My favorite songs !

My favorite songs !

まりりん

赤坂 YOANI スタ(東京都)

2016/10/29 (土) ~ 2016/10/29 (土)公演終了

満足度★★★★★

ホールニューワールドが、圧巻!
アラジンというミュージカルも、素晴らしい名曲があるようです。よく曲は、耳になじんでいましたから、余計楽しめました。

ベルサイユのばら、天空のラピタ、などついになってやる企画が印象的だった。

NEWSエンターテインメント12th★FESTIVAL

NEWSエンターテインメント12th★FESTIVAL

NEWSエンターテインメント

埼玉会館(埼玉県)

2013/05/05 (日) ~ 2013/05/06 (月)公演終了

満足度★★★★★

『くじらは虹色の音楽にのって2013』を観て
『くじらは虹色の音楽にのって2013』を観て

これは,どういうお話だろうか。主人公の家族は,あるとき,くじらを見るために海外旅行に出る。でも,そのスタートで,交通事故に会って,結果,家族崩壊が始まるのだ。

美里のダメージが大きく,原因不明の障害が頭に残る。夢であった,ヴァイオリニストは絶望的になる。親友も,友達の不幸が起きても,最初はその意味が理解できないので,かえって美里を苦しめる。病院に入院した美里のまわりには,実は,もっと原因不明の重い病人がいることもわかって来る。

この演劇は限りなく暗い。しかし,そこに,少し明るい場面もある。なんの病気かわからないが,とにかく子どもたちに人気のある冗談好きなオバサンの存在。それと,同じような子どもたちの病院生活をなんとか慰問しようとダンスを踊り,ショート・コントをやってみる小学生の存在だ。

この演劇に出て来る両親には,気の毒ではあるが,不注意に対する責任がある。しかし,最大の被害者,美里と,姉の事故を契機に学校生活で孤立していく理沙ふたりは,とてもあわれである。ふたりは,もがけばもがくほど,苦悩に呑みこまれていくのだ。そこには,大人の場当たりの助言も無駄である。

理沙は,最後に,病院のカベに,姉のために,くじらの大きな絵を描くのだ。そのスケールは,共同作業ゆえに巨大で,だれもがびっくりした。これは,夢も希望もなくして,この先泣いてばかり暮らすかもしれなかった,美里に少しだけ勇気,生きるための力を与えてくれた。美里に少しばかりの感動をもたらし,この演劇は終わる。

アニー

アニー

日本テレビ

新国立劇場 中劇場(東京都)

2015/04/25 (土) ~ 2015/05/17 (日)公演終了

満足度★★★★★

とても楽しいアニーでした。
2015ミュージカル『アニー』観劇,四度め

アニー,それもトゥモロー組ばかり四回となる。今回は,とうとう一番前の席だったが,惜しいことに通路の左がわ三個の場所。それでも,その中では一番中央よりだったから良かった。

ルースターが,アニーを消してしまえばいい,というとき,実際にナイフを手品で消していたような気がした。あと,モリ―とケートは,タップのときに少しだけ参加していた。別の少女たちだと思い込んでいたが,それはまちがいだった。

過去の書き込みで,映画に比べてなんと間のぬけたものかと,家族一同でがっかりしたと舞台版アニーを酷評しているものがあった。しかしながら,映画は,ワンカットを何度も取り直せる。舞台で,これ以上アニーにセリフを増やしたら,それは大人の演劇になってしまう。子どもが,生の舞台でやるものとしてはベストだ。

座席の位置のせいもあるが,毎回視点が少しかわる。大型ミュージカルは,観る場所がたくさんあるので,端役の楽し気な仕草やら,ちょっとしたアクションが目に入って来る。同じミュージカルを何度も観るひとたちの気持ちが少しわかるようだ。

花買わないか,の少女(少年)の声はのびがあって良い。ダンスも上手だ。

ゆうなっちは,どの公演でも,声がときどきひっくりかえる。ハスキーボイスというものも魅力の一つだ。たくさんの場面で笑いをとっているのも特徴だ。やり過ぎということではない。これも含めて,ゆうなっちアニーの色だと思う。

そんな笑いを多くとった舞台が終わると,後部座席では,目を真っ赤にして泣いているお母さんがいた。アニーが親を見つけられなかった気の毒さに,感情移入したのだろうか。それとも,小学生にしては,ここまでセリフを完全に覚え人を感動させている事実に,びっくりしたのだろうか。

ビョードロ 終演いたしました!総動員2097人!どうもありがとうございました!

ビョードロ 終演いたしました!総動員2097人!どうもありがとうございました!

おぼんろ

d-倉庫(東京都)

2013/05/29 (水) ~ 2013/06/16 (日)公演終了

満足度★★★★★

めざせ!シアター・コクーン
池袋d倉庫は,本当に,倉庫のようなものだった。この劇団のチラシが,あんまり魅力的だったので,足を伸ばした。「ビョードロ」とは,何だろう。この物語では,「ジョウキゲン」が場面の途中で生れる。この「ジョウキゲン」は,何かを感染させるものらしい。ビョードロの血によって,ワクチンが作られるという。それによって,「ジョウキゲン」は撃退できるのだ。空気感染するほどの影響力を持つにいたって,ガス・マスクのようなものが用意される。これを,ビョードロたちが使う。ガス・マスク使用中の,ビョードロたちは区別がつかない。片方のビョードロには父親がいたようだ。この父親は,頑固オヤジで,救いがない。終盤にはいって,あやまって,自分の息子を殺害してしまう。あわれ!

細菌兵器の存在を擬人化したものなのだろうか。そういう説明をしている例もある。しかし,具体的な説明は十分にはされない。「ビョードロ」「ジョウキゲン」と,頑固オヤジが,狭い倉庫内を,強烈なコスチュームと,スピード感で動き回っている。座布団も持参しているような人はいたが,それ以上に,どこから観たのがいいか疑問。ぼくたちの劇団は,出会い系の劇団なので,まずもって,隣の人とのトラブルを嫌います。まず,隣の人と十分に仲良くなってください。お互いに目と目をあわせて,ことばをかわしましょう。そうすれば,劇が進行して,ひざがぶつかり,足がからんでも,許しあえるでしょう。なるほど,観客は,役者と一心同体みたいなものってことかしら。

劇中の動画・カメラはOKです。ご自由に,ブログにアップしてくださいね。劇団おぼんろ第10回本公演 『ビョードロ~月色の森で抱きよせて~ 』を一人でもいいから,多くの人に紹介してください。動員数が伸びて,いつか『シアター・コクーン』にいけたらなあ。そのために,みなさん応援してください。

なるほどなあ。そうか。がんばっているなあ。じゃ,ちょっと目立つかもしれないが,舞台を壊さない程度に,数枚写真を撮らせていただこう。応援しちゃおう。

ところが,後日,フラッシュをたいたばかがいた,という話になってしまった。げえー。だって,普通のカメラしかない場合,自動フラッシュなんですけど。まずかったすか!

たいへん非常識な行為で,あいた口がふさがらない。こういうばかは,二度と,この劇団を観にくるんじゃない!という手厳しい見解。たしかに,そういわれたら,がっかり。

でも,このコメント者も,少し変ですよね。高姿勢は,まあいいが,ありがちなミスをここぞとばかり鬼の首を取ったようにアゲアシ取りですね。ばかは,どっち,ばーか,というシーンを思い出しました。

象徴的な演劇は,現実逃避に陥るっていうから,演劇を観るときは,なるべく論理的にしっかりしたものを観ている。でも,ときには,感覚的で,感傷的で,美しい,詩的な作品にも引かれる。今回の『ビョードロ~月色の森で抱きよせて~ 』は,その点で,たいへん満足している。また,観たいと思う。しかし,もう来るな!という常連がいるようなので,もう行きません。あとは,がんばって,シアター・コクーンをめざしてください。たいへんご迷惑かけたようで,心からお詫びします。ジョウキゲンのような心優しい存在に,何度も舞台に足を運ぶ人の中には,人のアゲアシばかり取る人もいるのでしょうか。

アニー

アニー

日本テレビ

新国立劇場 中劇場(東京都)

2015/04/25 (土) ~ 2015/05/17 (日)公演終了

満足度★★★★★

2015ミュージカル『アニー』観劇,三度め
2015ミュージカル『アニー』観劇,三度め

回を重ねて,三週め,2015年アニーは三度め。毎回少しずつ前進しているような席だ。とくに,本日は,右端の二列め。最初,前回の方が良かったと感じた。しかし,オーケストラが一望できた。さらに,出演者はなぜか右端に良く場面を作る。その点で,非常に面白い場所からの観劇だった。

東京公演アニーは,ツゥモロー組で全15回あるようだ。そのうち,毎週土日に観ることで,四回は見られるだろう。しかし,そもそも同じ演劇を何度も観る!?

それでも,たとえば,サンディ&ポリス場面は毎回違った。最初は,ほとんど素通り。二回目は,ベスト・タイミング。三度目は,ちょっともたつく。しかし,実は,もたつくことは微妙に信憑性が増したようだった。でも,サンディが動かないと,舞台は進まない。ふと思ったのは,サンディには代役はいるのだろうか。

公演直前のNYシティーへの表敬訪問は,アニーに若干の疲れをもたらした。しかし,本日は,声も演技も理想的だった。

三回めともなると,さらに,場所が前に進み,とくに,子どもたちの熱演に夢中になった。二人小さなメンバーは,声も出てるし,元気だと思った。

さて,泣いても笑っても,あと一週間で2015年アニーは終わってしまう。そのあと,地方公演が続くのだ。

マクベス

マクベス

東京二期会

東京文化会館 大ホール(東京都)

2013/05/01 (水) ~ 2013/05/04 (土)公演終了

満足度★★★★★

ヴェルディ『マクベス』
オペラという場合,ミュージカルとか,オペレッタというものは入らない。オペラは,宮廷文化から,近代市民社会への移行期に発展した。絶対王政の威光を表現したものだったから,オペラは,浪費芸術でもあった。もしかして,バッハは,プロテスタントで倹約思想家だったから,オペラを書いていないのかもしれない。

最初,古代ギリシアの悲劇復興をめざして,気がついたら,単なるショーであり,物語性より,スペクタル性の強いものになる。パターン化され,体制芸術といえる。グルックは,オペラの脱ショー化をめざす改革をおこなった。いずれにせよ,フランス革命までは,イタリア・オペラこそが,正当なものだった。ヨーロッパ全土で,イタリア語によるイタリア・スタイルが上演された。フランス流は,バレエを使い,合唱を重視した。また,音楽よりも,文学性に重点があった。

バロック・オペラにおいては,作品よりも,場に比重があったかもしれない。貴賓席にいることは,大衆を見下ろすことであり,また,彼らの視線を浴びることでもあった。一番前で観るのは,むしろはしたないことだった。

オペラが時代を超越して,普遍的な芸術になるには,モーツァルトの存在が大きい。彼は,喜劇をオペラとして,人間性のある作品で人気を得た。人間業とは思えないカストラートは目立たなくなる。テーマも,男と女の哀しいすれちがいを描く。

オペラの本質は,御用芸術であって,時の支配者の好みでスタイルは変わっていく。オペラの観客層は,やがて,教養ある貴族でなく,一般大衆も取り込んでいく。ナポレオンが失脚すると,また次の時代に突入する。ロッシーニ『ウィリアム・テル』が有名。グランンド・オペラの魅力は,音楽と台本と舞台が一体となる総合演劇といえる。ビジュアル性を尊び,事前に台本など読まなくても楽しめるようになっていく。視覚効果を重視したといえる。この頃,オペラの大衆化を見越し,ヴェロンは上階のボックス席を廃止し,天井桟敷に改造した。

18世紀まで,オペラにおいて,イタリア様式が唯一の国際様式だった。やがて,政治体制の不安定な国々で,国民オペラが生まれる。誰もが,いつかどこかで聴いたことのある,遠い民族の歌声の記憶,といったものだ。異国オペラと呼ぶべきものもある。異国を舞台として,白人と現地の娘との悲恋なども多かった。スッコットランドを舞台としたヴェルディ『マクベス』1847も,異国オペラに含まれるかと思う。

浅薄なイタリア,フランスのオペラを追放し,総合芸術としてのオペラを確立したのは,ワグナーということになる。オペラは,貴族の遊びで,シャンパンのように消えてゆく性格をもっていた。しかし,これを,文化財と考えるようになっていく。定番の名作,すなわち,レパートリー・オペラという言葉も1845年頃から,イタリアで使われる。ワグナーによる,総合芸術としてのオペラという理念が浸透するにつれて,オペラ上演における演出家の地位ははね上がる。映画という強力なライバルの出現により,自らの存在理由に,オペラは苦悩する。

参考文献:オペラの運命(岡田暁生)中公新書

ビョードロ 終演いたしました!総動員2097人!どうもありがとうございました!

ビョードロ 終演いたしました!総動員2097人!どうもありがとうございました!

おぼんろ

d-倉庫(東京都)

2013/05/29 (水) ~ 2013/06/16 (日)公演終了

満足度★★★★★

シェークスピアと,イプセンと,メーテルリンクと,チェーホフと,そして,『ビョードロ』
シェークスピアと,イプセンと,メーテルリンクと,チェーホフと,そして,『ビョードロ』

シェークスピアは素晴らしい作家で多くの作品を残しましたが,全作品には,ヒントになる事件,逸話があって,現代でいうところの,創作的なものはひとつもありません。その点では,いまいちです。イプセンは,人形の家を書いた立派な作家ですが,シェークスピアの偉大さを,せせこましい居間におしこめた人といわれました。メーテルリンクは,青い鳥で,はしか・しょうこうねつなど病気を運命に持ちながら生まれくる未来を暗示する傑作を残しましたが,最初犬・猫がわんわん吠えてうるさいと,バカにされました。チェーホフのかもめは,モスクワ芸術座の紋章になった作品ですが,当初その奇抜さに誰も評価できませんでした。

『ビョードロ』は,おそらく,劇団おぼんろで『かもめ』のような代表作品となると良いと思います。何度も何度も演じて,日本中を感動の嵐に陥れてください。作品はどこにもムダがないので,そのままの形を維持すべきです。チェーホフの手を離れ,『かもめ』ほか代表作が,さまざまに演出をされたように,もはやこの作品は一人歩きしはじめています。いつの日か,世界中の多くの演出家によって,いろいろなアプローチがさらに作品の世界を拡げるかもしれません。今回の役者・観客の全員が,タネになり,死んでしまったあと100年後,われわれの子孫は,非常におもしろい傑作を残してくれたと,いずこの劇場・倉庫で涙するでしょう。

東日本の地震で,福島の方たちが苦労しているのに,何を言っているのか,と申し訳ないけど,次のような感想を私は,持ちます。演劇などを自由に体験できる良い日本に生まれたと。現在日本演劇の源流は,私の考えでは,ロシア文学系だったり,フランス文学系だったりすると思われます。

一方のモスクワ芸術座では,スタニスラフスキーと,メイエルホルドの話があります。スタニスラフスキーは,システムを作ってみようと考えたり,メイエルホルドは,逆に演劇は,「演劇性」をどこまでも残せばいいじゃないか,とくいちがいました。しかし,心の中での対立はなく,二人は,最後まで演劇を愛する友人でした。しかし,メイエルホルドはスターリンに睨まれ,演劇人として粛清(殺害)されていきます。

フランス文学系は,浅利慶太さんが大好きな世界で,むしろ,ロシア系をきらうのですが,こっちにもいろいろな話があります。サルトルの『汚れた手』を最近俳優座で観たりしたのですが,調べてみると,サルトル自身,このような話は,反共政策に利用されるだけであると,ずっと上演を認めなかったようです。つまり,随分あとになって,傑作を観られる時代になったのです。

『ビョードロ』を観られる時代,このような美しい演劇を自由に,観られる時代に生まれて,われわれは幸せです。ぜひ,一人でも多くの日本人にしあわせを与えてほしいものです。この作品は,二度楽しめます。ひとつは,形式美としての演劇です。何も深く思考しないで,劇場をあとにしても良い印象がずっと残ります。もうひとつは,象徴の言語・寓話の世界として,何かを感じとり,想像力の世界に遊ぶ見方ができます。その場合,「ジョウキゲン」を,原子力と感じる人もいたり,あるいは,演劇愛と感じる読み方も自由です。あとは,親子の情愛は,結構深いが,また,それが,難しい状況を生むものだ,という見方もできます。

私は,しろうとなので,みなさんの愛するこの傑作『ビョードロ』をどのようにほめても,ご不満がでることは承知ですが,二回観劇させていただいて,以上のような感想を抱くものです。私自身は,子どものミュージカルでも観ていた方がしあわせな人間なので,この劇団を今後応援するというより,見守ることに専念し,深く干渉はしないと思いますが,よろしくご発展されるように祈ります。以上,最後の感想とします。

アニー

アニー

日本テレビ

新国立劇場 中劇場(東京都)

2015/04/25 (土) ~ 2015/05/17 (日)公演終了

満足度★★★★★

がんばれ!前田優奈!
ゴールデンウィークは,どこの映画館も満員だ。私は,ミュージカル『アニー』トゥモロー組を一日だけ観劇できた。当日券も,その日ははやばや売り切れとなっている。ソールド・アウト!って,なっていたけど,一枚くらいありませんか?とかだれか,来そうな気はした。実際,二年前の青山劇場では,私は当日券だったのだが。

さて,前回は一般では初日だったので,良い場所が取れなかった。座った感じは,ほぼど真ん中で視野も良好だとは思ったが,開演してすぐ気が付いたのは,もう少し前でないと表情までわからない。それどころか,タップなどでは,似たようなタイプもいるから,お目当てが特定できなかった。しかし,今回はバッチリだった。

アニーが,迷い犬とのめぐりあいの場面は感動的だ。映画では,ポリスから結構疑われる。一度や二度では,寄ってこない。やっぱり,サンディは,アニーにまだ懐いていないのか。そんな微妙なシーンがあるが,前回に比べて,ゆうなっちは早からず,遅からずで,サンディを呼びよせていた。大成功!

大富豪が,なぜか,「男どうしの話をしていいかな?」という場面で,アニーが,太い声で,「いいよ!」というところは,何回見てもおもしろい。演出といえば,演出だが,過去コントなども挑戦したゆうなっちの対応は,ぴったりだと思う。ほかにも,思わず笑えるようなしぐさも,上手だったと思う。

あと,前回も少し感じたが,三回~五回ほど,アニー自身の身体が宙に舞うところがある。お正月に,アクションスター?の学校だろうか,つばさ基地で.体操的なトレーニングをやっていて,ミュージカルになんの役にたつのか,と思ったものだ。でも,そういう体験などが,意外と役にたっているのかもしれない。

ミュージカルもたいした経験はないが,タップダンスもことはもっと知らない。これは,リズムタップでなく,身体全体で表現するミュージカル・タップというものか。もとは,やっぱり黒人独特のリズム感で始まったのだろう。今回,一番前まで,しばみやはなえさんが出て来て驚いた。すごく上手になっている。

不思議の国のアリスより

不思議の国のアリスより

劇団パラノワール(旧Voyantroupe)

サンモールスタジオ(東京都)

2013/06/20 (木) ~ 2013/07/01 (月)公演終了

満足度★★★★★

『不思議の国のアリス』
『不思議の国のアリス』

児童文学の世界では,挿絵は,作品の重要な一部である。作家ルイス・キャロルと,画家ジョン・テニエルは,歴史的な出会いであった。さらに,1832年生まれのキャロルは,1852年生まれのアリス・リデルと運命的な出会いをしている。オックスフォード大学の寮に,リデル一家がやって来た。当時,次女のアリスは,三歳であった。キャロルの趣味は,写真だった。レンズを通して,キャロルとアリスは見つめあった。そして,キャロルは,アリスの心をつかんだ。キャロルとアリスの出会いから,約160年が過ぎた。

テニエルが描いた美少女,実際には栗色のショート・カットであったが,金髪の美少女になっている。テニエルは,パンチ誌に勤務しながら,生涯38冊の本の挿絵を描いた。29歳のとき結婚したが,二年後に愛妻に先立たれた。師であり友であるジョン・リーチは,『クリスマス・キャロル』(ディケンズ)の挿絵画家である。テニエル(1820-1914)は,『船長の降船』で,プロイセン宰相のビスマルクを描いている。普仏戦争に勝利し,1871年ドイツは統一された。1890年皇帝ヴィルヘルム二世によって,ビスマルクは辞職に追い込まれる。そのときの風景である。テニエルは,20歳のとき,事故で左目を失明している。キャロルとの共同作業は,二作。アリスの中に出て来る白ウサギ,それは,どこかで一度は見ているようなイメージがある。ヴィクトリア朝時代,テニエルの挿絵で,アリスに親しみを覚えた。懐かしい気持ちになれたのだ。

『アリス』に人気が出て,キャロルは,劇化したいと思うようになった。挿絵も,当初自分で手がけようとしていたので,自分で脚本は書きたい。舞台装置も決め,俳優を選び,音楽などの演出もしたかった。キャロル自身,芝居好きであった。未完成ながら,四幕ものを手がけたこともあった。舞台上でアリスを見たいというキャロルの夢は,容易に実現できなかった。ここで,劇作家・演出家,サヴィル・クラークは,『アリス』を劇化しようとキャロルに提案する。キャロルは,これを受入れ,共同で舞台版『アリス』を作る。これは,1886年に上演された。キャロル自身は,二度上演を目にした後,亡くなっている。この演劇は,18回上演された後,衰退する。演劇としての『アリス』には,どのような問題があったのだろうか。

クラークは,子どもだけで上演したかったが,キャロルは,演技力のある大人をその中に入れるべきであると考えた。9歳下の,マイナーな劇作家に,キャロルは多くの意見を言ったが,演劇において自分はしろうとであるとの自覚はあった。初年度は好評であったが,その後は下火になっていく。キャロルは,演劇においても,もう少し言うべきは言わないといけなかった。

プリンス・オブ・ウェールズ劇場の幕があがる。妖精たちは,アリスを不思議の国に呼び起こす。わきでイモムシがパイプを吸う。白ウサギが,舞台を横切る。声をかけた白ウサギに,アリスは無視される。アリスは,チェシャ猫と踊り,歌う。そこに,帽子屋と,三月ウサギと,ネムリネズミがテーブルを用意する。帽子屋は悪いやつ。帽子屋は気違いだ。そのとおりさ。そのとおり。トランプたちが,入場する。女王は,チェシャ猫を処刑せよと言う。ハートのジャックには,罪はない。当時,『アリス』は子どものファンタジーに思われていた。その後,あらゆる大人の心をときめかすナンセンスの傑作となっていく。

挿絵画家テニエルは,『アリス』の持つ魅力を倍増した。これに対し,劇作家サヴィル・クラークはあまり評価されていない。キャロルのアドバイスでは,二作を融合させるのは至難であった。サヴィル・クラークは,凡人だったので,これに失敗した。後に続く者たちは,二作を上手に融合させている。一貫したストーリーはない『アリス』では,むしろ大胆な発想ができる。むしろ奇抜な場面を楽しむべきなのだ。常に新しいものを求めることこそ,『アリス』なのだ。芝居は,常に刷新されるべきものだ。芝居そのものを残すのでなく,人々の記憶に残る作品を作りたい。『アリス』の舞台化に失敗したサヴィル・クラークは,52歳で亡くなっている。1898年,サヴィル・クラークの『アリス』は,ミュージカルではなく,オペラとなった。

チャールズ・ラトウィッジ・ドットソン(1832-1898)は,牧師の息子だった。兄弟は全部で11人いて,彼が長男であった。11歳のとき,ダーズベリから,クロフトに移住している。母親は,47歳で亡くなっている。1868年には,牧師である父親が急逝している。児童文学としては,『不思議の国のアリス』は,まさに不思議な物語である。兄弟もいないし,友達を見つけようともしない。感銘する大人も出て来ない。冒険により,成長する主人の姿も見えない。ただ,ただ,アリスは誇り高い。キャロルの作品は,どういう出発点から生まれたのだろうか。

アリスは,未知の国に一人で迷いこむ。私はだれなの?お前はだれ?大きさが変わることは,別人になることなのか,否か。アイデンティティとは何か。イモムシの変態,身体が少しくらい変わっても,別人にはならない。自分がだれかは,自分ではなく,相手が決めるもの。ここにいるものは,みんな狂っている。おまえもだ。自己のアイデンティティの決定権をほぼ完全に他人にゆだねる。我慢ならない不条理の世界に,アリスは投げ込まれる。ひとびとが疑いを持たない地位・身分なんて,脆いものなのだ。背景がちがえば,価値などないのだ。

キャロルは,成長するにつれて,リデル家と,アリスと切り離されていく。キャロルとリデル家は,もともと住む世界がちがったのだ。横柄で冷酷な女王,人がいいだけの愚鈍な王,彼らのキャラクターは,実在したのだ。アリスを愛するキャロルから,遠ざけた無粋な大人たち。『アリス』作品中に出て来るのは,おかしげな大人の影,理解されないキャロル自身が批判的に感じた価値観だ。しかし,気位の高さ,と使命感に燃えるアリスは美しい。アリスのアリスらしいところは,自分を信じる勇気ある子どもであることだ。

参考文献:出会いの国のアリス(楠本君恵)

ヴェローナの二紳士

ヴェローナの二紳士

ハイリンド

吉祥寺シアター(東京都)

2013/07/08 (月) ~ 2013/07/15 (月)公演終了

満足度★★★★★

『ジゼル』と,不倫問題で共通している。
『ジゼル』は,現代の不倫問題にも該当し,解釈によっては悲劇にもなる。

タリオーニとエルスラーの時代は去った。カルロッタ・グリジの時代が来た。彼女は,7歳からバレエをやっている。15歳になったとき,24際だったジュール・ペローと出会う。ペローは,バレエの指導者として優秀で,その様子は,名画ドガ『踊り子』に残されている。当時,メートル・ド・バレエは,ジャン・コラーリであった。『ジゼル』を誰が振付するか。プリ・マドンナであったグリジは,振付もやっていた恋人ペローのいいなりであった。そのために,『ジゼル』の振付は,記録としては,ジャン・コラーリとなっているが,実際には,ジュール・ペローの振付である。

グリジは,ドニゼッティのオペラでのバレエ・シーンが,初舞台であった。五幕でなく二幕の『ジゼル』は,グリジには取り組み易く,彼女を有名にした。原題は,『Giselle, ou Les Wills』で,1842年,ボードレールも崇拝する文学者テオフィル・ゴーチエが,書き下ろしたものである。ゴーチエの作品としては,もう一つ『バラの精霊』がある。ハイネの民話からヒントを得て,ユーゴー作品中の舞踏会も参考にしている。ゴーチエ同様に,バレエ好きなアダンは音楽を担当した。アダンは,視覚的に,踊り子の足を見ることが快感であったことを告白している。

『ジゼル』は,ロマンチック・バレエなので,異国趣味の,妖精物語。淡いはかない貴族と,村娘の恋という以上の意図はなかった。しかし,これが,すぐに,ロシアに渡り改訂され,フランスで上演されなくなっても,人気を得ていく。1884年頃,マリウス・プティパが大規模に作品を手直ししている。貴族のきまぐれな恋の物語は,『フィガロの結婚』『二都物語』も同様である。しかし,『ジゼル』は,現代の不倫問題にも該当し,解釈によっては悲劇にもなる。


以下,ストーリーを追うと,

村娘ジゼルの笑顔は,人を引きつける。彼女は,ダンスがとても上手である。あるとき,とおりすがりの男は,この娘に出会い恋に落ちた。しかし,彼には,許婚がすでにいた。そのことを隠しても,娘に近付きたくなって,アルブレヒトは転落していく。

村娘ジゼルのことを村で一番想っていたヒラリオンは,アルブレヒトの許婚であるバディルドと,彼女の父親を,無理やり密会の現場に引きずり出す。愛するアルブレヒトに許婚がいたことに衝撃を受けたジゼルは,もはや生きている希望を失ってしまうのである。

村には言い伝えがあった。恋に盲目となり,身を滅ばした者は,妖精となって,暗い森を彷徨う。娘たちをだました男がその森を訪れたら,妖精は復讐をすれば良い。皆でからかってやるといい。祝宴を催し,酒をのませ,毒牙にかけて,ダンスの相手をさせるのだ。妖精には,疲れという言葉は存在しない。だから,妖精たちが気の済むまで,ダンスの相手したまぬけな男たちは,気が狂うか,絶命してしまうしかないのだ。

ある日,ジゼルたちの祝宴には,二人の懐かしい顔があった。ひとりは,一方的に自分にのぼせあがって,挙句に,アルブレヒトと自分の恋を見事に引き裂いた,ヒラリオンである。もう一人は,村にたまたま寄ったために,自分のダンスを見て,自分の美に釘付けになり,はからずも恋に落ちたアルブレヒトだった。妖精たちの判断は,まず,ヒラリオンを死ぬまで踊らせて,目的を果たす。しかし,次なる標的のアルブレヒトには,ジゼルはなんの恨みも抱いていなかった。しいていえば,許婚の存在を明かさなかったことだ。ただ,最初にそのような男を誘惑したのも自分であり,恨む筋合いでもなかったのだ。この男に,本当に罰を与えて良いものなのだろうか。

というようなことになると,『ジゼル』は,きまぐれな貴族の遊びにされた恋という意味を失う。現代人の恋,不倫的な気持ちが起こるのは,自然なものか,許されざるものか,そいうシリアスな劇になる。

ところで,『ジゼル』の時代は,靴も十分に完成されていない。技術を,足の筋肉で補うのが精一杯であった。『ジゼル』の少し前の,『ラ・シルフィールド』で,初めて爪先の利用,ポワントが出現する。鳥のように軽やかで地に足がついていないこと,これを示すために,どうしたら良いだろう。一回跳ぶあいだに二回交差して,元に戻ってみよう,これが,アントルシャ・カトルと呼ばれた。

参考文献:バレエの歴史(佐々木涼子)

こわれゆく部屋

こわれゆく部屋

水素74%

こまばアゴラ劇場(東京都)

2015/01/16 (金) ~ 2015/01/25 (日)公演終了

満足度★★★★★

初回の参加ですが,良かったです!
駒場アゴラ劇場には一度いってみたかった。内容は,なんでも良かった。退屈するかと心配したが,そんなことは全くなかった。むしろ,どんどん入りこんでいった。今までにも,なんとなく同じ雰囲気の演劇がなかったわけではないはずだが,演劇のあり方,劇の表現,セリフの発し方などに非常に特徴があって,興味が増した。

内容は,まず,事情があって,家出していた妹が,彼氏をつれて姉のもとにもどる。姉は,姉で,彼氏ができていた。ぎこちない,二組のカップルのぶつかり合いが前半のテーマだ。ひとりが少し何かを語ると,思いのほかおもしろいキャラクターがわかって来る。テーブルを囲んで,喧嘩したり,仲直りする場面に,たまたま自分が居合わせたような錯覚に陥る仕組みがある。

後半の,大きなテーマは,ざっくりというと,介護士の隠された苦悩だ。経験を積むと,医療関係者は,ひとの病とか,死についても,無感覚になって,慣れていってしまう。たくさんの事例を扱うことによって,このあいだまで遊んであげた少女の死を知って,その日のカツ丼が食えるのは,あって良いことかどうかと・・・

スピード感はほとんどない。ぶつぶつ,テーブルを挟んで,なんとなくつきあっている男女が,じつはどんな感覚を持っているのか,少しわかって来る。結婚しているひとたちには,それぞれに,なるほどこんな夫婦もいるのか,とか思っているのだろう。とても良い演劇であった。おそらく,こういう演劇がだんだんと支持される時代なのかもしれないと考えた。

イエドロ落語2016

イエドロ落語2016

OuBaiTo-Ri

小劇場 楽園(東京都)

2016/09/02 (金) ~ 2016/09/07 (水)公演終了

満足度★★★★★

新感覚、落語!ジョウキゲン
全体的に、とてもよくまとまっていて、それでいて、古典落語のノウハウも盛りだくさん!楽しめる一時間半だった。

死神の存在は、深読みをすれば、人生の教訓とか、空しさも湧き出る。そこを、三人が絶妙の掛け合いで時間が流れていく。すごい!

Nicky

Nicky

ミュージカル座

光が丘IMAホール(東京都)

2014/08/19 (火) ~ 2014/08/24 (日)公演終了

満足度★★★★★

『演劇論の変貌』の中で位置づけられるミュージカル『ニッキー』ほか。
『演劇論の変貌』の中で位置づけられるミュージカル『ニッキー』ほか。

『演劇論の変貌』という本の序で,毛利三弥氏は,われわれが日常的に楽しんでいる演劇について,大学ではどう研究されているか,説明している。

世界で最初の,演劇学科は,1923年に,ベルリン大学で設立された。このときまで研究者は,文学科の中にいて,ドラマ研究をしていた。演劇研究の中心は,テキストである「文学」ではなく,上演されたものでなくてはならない。

しかし,舞台表現は,完成と同時に消滅する。過去の舞台表現を再現することはできないのだ。演劇学科が出現する頃には,「演出家」の台頭というものがある。演出そのものの定義があいまいだが,それ以前にも,座長演出みたいなものはあったようだ。スタニスラフスキーなどは,役者兼演出だった。

文学テキストとしての戯曲が,読むだけでは想像できない舞台になる。そのとき,演劇は,文学の領域を飛び出してしまう。確かに,イプセンの戯曲を何度も読んでいるので気がつく。実際に目の前で上演されたものは,戯曲を読めばさらに理解が深まる。しかし,そうでない作品は,どこかぼやってとしている。

パフォーマンスということばは,大道芸みたいなものをイメージするだろうか。このパフォーマンス(performance)という言葉が,演劇・音楽・ダンスなどを総称して呼ぶうちに,いろいろな使い方がされ,キーワードに利用された。パフォーマティヴィティ(performativity)と抽象名詞化していく。

新しい演劇・ミュージカルの傾向には,いろいろな特徴がある。工業資本による娯楽性付加には,「お話」が重要で,保守的と思われるドラマ回帰が目立つ。(『ニッキー』みたいなものでしょうか?)。異文化接触上演intercultural performance(『ライオン・キング』が該当するかもしれません)。

先端テクノロジーに依存する舞台表現。これは,何を言っているのか。『ミス・サイゴン』で,ヘリコプターが飛ぶような仕掛けのことでしょうか。演劇よりダンス,あるいは,ダンステアターに,現代的前衛上演のあり方を求めている風潮。例えば,『葉っぱのフレディ』も『ココ・スマイル』もそうですね。一番すごかったのは,やっぱり,『ニッキー』でしょうか。

『演劇論の変貌』の一著者は,演劇の上演的側面をいかに美学的にとらえるかが,関心の中心となってしまう。ということは,論理的な問題,ストーリーは,二次的に観て良い,演劇・ミュージカルもあるということでしょうか。ただ,ストーリーも,大事なのだと私は思うのですが。

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