monzansiの観てきた!クチコミ一覧

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はつ恋

はつ恋

アーティストジャパン

カメリアホール(東京都)

2014/08/19 (火) ~ 2014/08/19 (火)公演終了

満足度★★★★

夢か現実か朗読か




「朗読劇力」が ある。
小説を読みふけった少女だ。
毛布の中のパラレル・ワールド。
月光や蛍の光のように、照明演出は繊細をきわめ、浮かぶ。モスクワ郊外の都市が1830年代のまま、それぞれの観客において再現していく。


長谷川あかりはテキストを句読点ごとに読んでいるようだった。そう強調するのは、彼女が「演技」していたためである。
21歳の令嬢を18歳の日本人少女が「語り継ぐ」わけだから およそナチュラルな演技だ。前者への「称賛」が 語り手への「真実」にも聴こえる。

だが、私が知る限り、長谷川は16歳の少年を弄ぶ趣味はない。インテリ階級の青年諸君を ペット化する豪快さはない。第一、女性に主張権のない封建社会だ。ロシア文学の虚構(憧れ)だろう。
「朗読劇」は 「わたし」の一人称であり、この内向性において、長谷川が演じる21歳の令嬢も、主人公である思春期少年の視線が注ぐ「像」が求められる。それが「初恋」相手なら ロシア一の女性だろう。

長谷川が「威圧感」の女王様と「清純」の21歳を冷静に分別し、時に惑わせたのは、この「像」狙いだと思う。


なお、『観たい!』に「若手の、若手による、若手のための朗読劇」と記したが、これは そうではなかった。












耳があるなら蒼に聞け ~龍馬と十四人の志士~

耳があるなら蒼に聞け ~龍馬と十四人の志士~

企画演劇集団ボクラ団義

ザ・ポケット(東京都)

2014/06/25 (水) ~ 2014/07/06 (日)公演終了

満足度★★★★

ここまで来たか「久保田マジック」
「幕末期」は一つの時代区分だが、「明治維新」後の国民だから「末」を定義できるのであって、渦中の志士は まさに「空白期」にいた。
この時代は150年先に至る日本の「礎」である。徳川幕府側の中心勢力・会津藩がプロセイン帝国に「軍事介入」を求める書簡を送付していたことが明らかになったが、鉄血宰相ビスマルクの「GO!」サイン次第により薩長連合は壊滅した かもしれない。そうなると「徳川 首相」だ。

2014年の今日においても徳川家の末裔は存命中。新党を結成して「お江戸維新」を達成する方が、多弱野党が「政権交代」を果たす よりはるかに現実味があるように思えてならない。
これは「ジョーク」だ。
しかし、戦後デモクラシーを有名無実化しうる、日本社会の本質をついた「ジョーク」である。

なぜなら「西南戦争」「戊辰戦争」は国家機構をめぐる政治パワー・バランスの決定打だったからだ。
山口県が総理大臣を「8人」輩出している ことに「長州閥」が関わっている説がある。「桂小五郎」の名をあげれば異論を挟む人はいない。
アメリカ合衆国においても「南北戦争」後、しばらくは北部州に基盤をもつ「共和党支配」が続いた。民主党も 主に南部派が分裂した政党だ。また、「ベルリンの壁」崩壊後、統一したドイツ連邦の首相に東ドイツ出身者が就任するまで16年の歳月を要した。

「吸収域帯」は政治パワーを削ぎ落とされる宿命にある。





私は「久保田マジック」をバカにしていた。「していた」という過去形である。つまり、 久保田が魅せる「ロジックと幻想」の魔法の粉に かかってしまったのである。

「これぞ、ボク団流 時代劇」。坂本龍馬が斬られた「近江屋事件」を事件サスペンスの手法で再構成するシーンの連鎖は『嘘ツキたちの唄』に近い。

沖野の坂本龍馬、三田寺の千葉 貞、大神の中岡慎太郎。いずれも「幕末」に生きた日本人の「情念」みたいなものを、独特なニュアンスで演技していた。
ダンスや殺陣を取り入れエンターテイメントも志向するが、「時代劇」として申し分のない完成度だ。

ネタバレBOX

私は、「久保田マジック」のうち、「ロジック」は甘いなと日頃から考えているが、氏は次の総括をした。「歴史学者なんかから言わせると 多分否定されると思いますが、舞台とか物語はこれでもいいのではないかなと思っています」。

たしかに坂本龍馬が死亡した、あの日の京都に渦巻いていた「幕末志士」の行動記録は別にあるのだろう。
しかしながら、新撰組、京都見廻組、長州藩、土佐藩、薩摩藩、徳川幕府の「権力図」は 歴史学者の「上」を行っている。
中岡慎太郎の叫び声に「裏の明治維新」を肌で感じずにはいられなかったのである。そして、チーム・ワークも さることながら、各組織内に「主役」が立派にいる。
「主役」と「主役」が歴史教科書を作成する。「脇役」など いないのである。


今日の日本の政治は「未完」であるとしたラストの字幕。
この一言が 「坂本龍馬の斬られた近江家事件」、その舞台化を意義深いものとした。
紅蓮、ふたたび

紅蓮、ふたたび

ACRAFT

笹塚ファクトリー(東京都)

2014/10/08 (水) ~ 2014/10/19 (日)公演終了

満足度★★★★

数年ぶりに感情移入できる「悪役」が現れた




「完成度」の高さである。

ロジックとイリュージョンの因数分解が世にいう「久保田マジック」だと定めよう。
彼は、主宰を務める『企画演劇集団ボクら団義』だけではなく、幅広い劇団とコラボする取り組みをみせているが、脚本数を重ねるごとにそれが魔術的に分解されていくのである。
竹石ら、座組のキャストを積極的に起用し、役者と脚本家両者が研鑽する好ましい循環をうみだしている。



今回の劇。殺陣のシーンが「鬼気迫る」ものだったと思う。 アニメーションを立体化した「2.5次元」のステージではない。
キャラクターの「背景」を しっくり描く一方、「殺陣」に その一連性はない。観客は、誰が負傷するか不詳だ。ちなみにこの感覚をラスト、展開面によっても再度、味わうことになる。これが「久保田マジック」である。

You'll Never Walk Alone

You'll Never Walk Alone

青春事情

ザ・スズナリ(東京都)

2020/11/26 (木) ~ 2020/11/29 (日)公演終了

満足度★★★★

いやはや。FC東京公認でもよいのではないか。それくらい、汎用性が高かった。実在する味の素スタジアムの観客席で応援する3組を、それぞれの物語から描いていくが、群像劇に見えなくもない。なぜか。やはり大観衆のサポーターという匿名性からだと思う。そこに色付けしていく快活さが魅力である。

観客というのは「観る」側であるが、ここでは客体ではなく主体となっている。サッカーの試合展開を感じられる臨場感は、彼らの応援やアナウンスによってものの見事に再現されている。

サラエヴォの黒い手【ご来場ありがとうございました!!】

サラエヴォの黒い手【ご来場ありがとうございました!!】

劇団チョコレートケーキ

駅前劇場(東京都)

2014/06/11 (水) ~ 2014/06/15 (日)公演終了

満足度★★★★

静かな台詞にも、地球規模のダイナミズムを感じる…
1914年に実在した「人々」が100年後、劇場にいる私たちを再び身震いさせる。


「サラエヴォ事件」は人類史上初の全面戦争となる、あの第一次世界大戦を誘発したセンセーショナルな出来事だ。今脚光を浴びる社会派『劇団チョコレートケーキ』。青年ボスニア、セルビア軍「黒手組」が関与していく、事件までの足跡を硬派な演技で示す。


青年ボスニア生存メンバー2名が「語り手」。時代は「ユースゴスラビア社会主義共和国連邦」である。1980年代のボスニア深夜に、歴史を変えた「思い出話」が咲く。さすがに2014年だと100歳を上回る御年齢だから それは そうだろう。


この「モザイク国家」は1990年代の「コソボ紛争」を経て、今は もう世界地図にない。【大袈裟に言えば、20世紀の人類の抱えた問題の基を辿ると、大体がこの戦争(※第一次世界大戦)の時期に行き着くのです。】という古川 健の分析は正しい。 なぜなら、オーストラリア・ハンガリー二重帝国の継承者が6月28日に倒れなければ、「ユースゴスラビア社会主義共和国連邦」成立も、その後の「コソボ紛争」も、AP通信は配信する必要などなかったからである。

かつての「ユースゴスラビア社会主義共和国連邦」は優等生国家だった。非同盟運動の指導者。非同盟諸国首脳会議の議長を連邦崩壊まで長らく務めた。1984年にはサラエボ冬季五輪を開催する。スロベニア共和国を中心に軽工業が発展し、市民生活は西側に迫る水準だった。首都ベオグラードはセルビア共和国。

「コソボ紛争」は いわばクロアチ対セルビアの戦争である。クロアチア人はカトリック系。対するセルビア人はスラブ系(東方正教)だ。
経済先進地帯の「クロアチア」が、ベオグラードに住むセルビア人官僚の支配する連邦政府から その財源を「取り戻す」ことが連邦離脱宣言の背景だったとされる。
80年以降、国家元首である「最高幹部会」議長は 6構成共和国の輪番制であった。こうした「社会工学」的なシステムは築くが、あっさり崩壊したニュースは記憶に新しい。

連邦軍のセルビア人部隊化。崩壊過程では 軍組織がミロシェヴィッチの「セルビア軍」に寝返った。しかしながら、どうしてクロアチア政府が 一ヶ月ほどの急しのぎで造った軍が、連邦軍(セルビア軍)に「抵抗」できる軍事プレゼンスを保有しえたか。

それは、ハンガリー経由で、大量の武器がクロアチア共和国内に持ち込まれたためである。クロアチア系が 一定数おり、文化的につながりの深い、統一ドイツ・ゲンシャー外相がイニシアチブを発揮した国際社会も「スラブ系」のロシアを除けば「クロアチア支援」の世論でまとまりつつあった。

もう一度、「サラエヴォ事件」時、1914年のバルカン関係を整理する。


セルビア+ロシア対オーストラリア・ハンガリー二重帝国+ドイツが当初の戦争当事者だった。すなわち、フランス、英国の動向こそ違うが、90年代から続いた「コソボ紛争」「ボスニア・ヘルツェゴビナ内戦」と等しい関係なのである。


古川の「大体は この戦争の時期に行き着くのです。」は正しい。




追記あり

少年期の脳みそ

少年期の脳みそ

玉田企画

アトリエ春風舎(東京都)

2014/06/20 (金) ~ 2014/06/29 (日)公演終了

満足度★★★★

細かく、描写力




「思春期」の淡く、愉快で、誰しもが心の原典として所持している、少年期しか味わえない記憶を呼び覚ます。


Aさんが台詞を放つ、Bさんが台詞を放つ、という単調さはない。
常に、役者の表情や、ナチュラルな その反応にもダイヤモンド級の価値がある作品だ。



「卓球部強化合宿」における「現役高校生とOB」という関係。
恋心を打ち明けるに適度な距離の関係であり、いわば奇妙な視点から描く「黄金郷」だ。


玉井自身「細かさ」を公言してはばからない。彼の次世代メソッドは、理研の顕微鏡をはるかに上回る精度で、爆笑を呼ぶ。それも、リアリティに裏付けられた確かな「共感力」がある。

「恥ずかしい」という10代の初々しい感情が、巧みな視線、意図した沈黙によりターゲット化されている。
じつに見事な舞台だ。
玉井氏は青年団を変革していく男かもしれない。






蟻の女王

蟻の女王

タッタタ探検組合

ザ・ポケット(東京都)

2014/05/14 (水) ~ 2014/05/18 (日)公演終了

満足度★★★★

「空想する力」を狂演とともにテーゼする小さな役者たち
「蟻」の生態系を、政治劇だったり、恋愛劇であったり、コメディであったり、純粋な観察記であったり、ミュージカルであったり、実に豊富なバリエーションで舞台化してくれる一大テーマパークだった。



私はタッタタ探検組合が『蟻の女王』上演する その情報から、「こんな感じかな…」という予測があった。
セットは洞窟のような、薄暗い黄土色で、蟻のコスチュームを着用したおじさん、おばさん達が4本の脚を動かすのだろうなと。映画作品でいえば『センター・オブ・ジ・アース』(ディズニー・ピクチャー)のミニチュア版である。



実際どうだったか。
黄土色のカラーは そのままだったが、立体的に、重層的に「巣窟」をイメージする舞台・美術セットであった。


感想を要約しておこう。それは一言「 やられました!」である。

ネタバレBOX

第一に、「ちびっこウェルカム・ステージ」は、交尾といった大人向けシーンがある以上、小学生の昆虫収集家には早すぎる内容だったと思う。このR指定問題は 演劇における「擬人化」は どこまで可能か、というリアリズムの行方に絡む。



第二に、政治劇における進め方である。「蟻を介したらこそ現代社会に還元しえる」脚本。

私が 心に残ったのは、次の台詞である。(ニュアンス)


「たぶん、若いあなた たちのためにこの国を…いや、今は止めておきましょう」/ソルト大佐(あおき けいこ)

「世の中の不条理は、みなが己が大義だと信じていることだ」/ソルト大佐(あおき けいこ)



社会派コメディ集団『チャリT企画』の室田渓人客演がデモンストレーションか。徴兵制復活まで議論される この現代社会。「若い働き蟻」が飢え、それを犠牲につつ、絶対権力者である「バルサミコ女王」が地域覇権を画策する 構造は、一種のリアル・メッセージだった。
フリー・ジャーナリスト・池上彰が、NHKの大学生向け講演会で、「歴史を学ぶことは、未来を予知することです」と語っていた。舞台における独裁政権が崩壊するメカニズムは 「ある国の例」であろう。


「バルサミコ女王」が失脚するハイライトは、「ブース!ブース!」を連呼した、演説中の抗議行動にある。「蟻の国民」の信任を全面的に失った原因も国営放送局によるラジオ中継だ。
最近の国際政治でいえば それはイギリス首相・ブラウンが2010年総選挙活動中に労働党支持者の女性宅を訪問後、公用車内で「ブスだ」と、その容姿を中傷していた事実が「ピンマイク」に拾われていた出来事だろう。
この失言ニュースを受け、労働党は惨敗をきし、「政権交代」が起こった。


つまり、これは私の指す「ある国の例」ではないが、マス・コミュニケーションの実践例を「蟻の国」に置き換えた、とてつもなく高度な政治劇である、という評価なのだ。
現職海上自衛官が軍隊所作指導に関与している点も注目に値する。



第三に、「擬人化の極限」である。
人間が他の動植物、昆虫、細菌と異なる習性は「宗教」だろう。



敵国の潜伏者が病床にひれ伏すシーン。


「捕虜の扱いを定めたアリス条約によれば…」/ホップ医師(柴田O介)

「何をいうか!女王を毒殺しようとした 者なのだぞ。捕虜ではない!」/兵隊アリ幹部


直後、潜伏者は死亡した。


その「蟻」の表情は、安らかであり、アニメ『フランダースの犬』最終回を印象付ける、まさしく「天に召された」亡骸だった。(照明、音響の演出効果はない。メインのシーンでもない)
ここで仮説を提示したい。
つまり、脚本段階に「ト書き」で そう指示されていたわけではなく、演出が「安らかな」その表情をアクセントしたのではないか。


働きアリ「あの、一つだけ、お願いがあります。お墓に入れてやってもいいですか?」


兵隊アリ幹部「別に構わんが」


働きアリ「同じ〈種〉には違わないので…」


「お墓」は「宗教」だ。結局のところそれが「擬人化の極限」を強調したシーンである。このことは「交尾におけるリアリズム」の問題に深く関与し、タッタタ探検組合からすれば かなり踏み込んだ演出だったのではないか、と思う。




第四に、「バルサミコ女王」を狂演した斎藤 啓子を評価したい。

女独裁者の威圧、妖艶、存在をウェーブするハスキー・ボイスは、観客における「引く」というリアクションを逆利用していたように思える。
『蟻の女王』を 小柄な巨体のおばさんが演じたわけだが、「女としての幸せ」を語るあたり、そこに人間らしい、少女のような「儚さ」を読み解く。タマゴの産卵シーンに関しても、その苦悩は「母親らしさ」である。
「恋愛」にしろ、「産卵」にしろ、「蟻」の雌が有する生物学的本能だろう。
これは第三の「擬人化の極限」と密接であるが、観客が「女性らしいな」「卵は大切なんだな」という人間的感覚に陥ったパーソンこそ斎藤 啓子であった。





2013年秋コレクションには こう記している。

【オジさん、オバさんが 負けない点も存在する。それは、3人掛かりで持ち上げるアクション•シーンだった。この時、スローモーション効果を多用していた〜】


2014年春コレクション『蟻の女王』は、序盤のミュージカル・テイストから上記のアクション・シーンへ至るフローである。
「蟻」のコスチュームが「衣装」や「黒子」に変身。何度も書くが一大テーマパークであった。

しかし、もし、タッタタ探検組合ならではの「スロー」と、ミュージカル・テイストが華やかに融合すれば、さらなる「アトラクション」が開業できたはず。

「蟻」のコスチュームも、触覚はいいのだが、キャストの顔面を覆い過ぎ。誰が誰だか分からなくなる、感情移入の妨害だろう。



今、「空想する力」は、子どもたちに最も要求されるべき能力だ。

この舞台を観劇したならば、公園で「蟻」を踏んだり、「巣」に オシッコを流入する子どもは消える。なぜなら、そこにソルト大佐が、タラゴンが、ニゲラが生活しているかもしれない。
特に、第三の「擬人化の極限」からいうと、「蟻」に死生観を与える教育効果がある。


そうした「空想する力」は演劇専売のイリュージョンである。
パイロキネシス

パイロキネシス

モリンチュ

明石スタジオ(東京都)

2014/04/17 (木) ~ 2014/04/20 (日)公演終了

満足度★★★★

笑顔だけは、ホンモノだ

女子レスラーの宿命は大相撲でいうところの同部屋対決である。

新人レスラーなら、場外バトルから観客を守る誘導員になるし、ゴングの汚れを取る清掃員にもなる。
つまり、ロープを行き来し怪我を負った後、さらなる仕事が待っているのだ。この「残業」を思えば判定待ちまで体力を消耗する選択はない。



ジャガー横田選手が「アイドル・レスラー」だった過去を覚えているファンも少数だろう。どんなに身体に怪我を負っても、女性であることを忘れ、観客が応援する限りラリーアタックする姿は羨望の眼差しである。
もちろん、それは、半身不随に陥るリスクと向き合う職業だ。新宿FACEで女子プロレスを観戦すると、前列には車椅子の元女子レスラーがぼーっと虚脱感を放出していた。会話すらままならない身体状況であった。


『パイロキネシス』は、「プロレス妄想癖」が特技のアイドルみるく・るみ(野崎万葉)の物語だ。
芸能界やインターネットの「当たり前」を暴く脚本と攻撃的な転換には かなり惹かれた。

ネタバレBOX


「アンチ商業演劇」を小劇場で実行する その意味は どこにあったのだろうか。
小塚建(舩木 勇佑)を主演に、草間(矢守忠彦)演出のもと開催された商業ストリート 舞台(劇中劇)は、どうも赤坂ACTシアターを暗示していた。松山ケンイチや堀北真希などのテレビドラマに活動の本拠地を置く俳優が、「舞台初挑戦!」なるキャッチフレーズで主演へ就任してしまうパターンがある。
このビジネスを「話題性」と呼ぶ。

本作『パイロキネシス』は、イケメン・アイドル俳優である小塚建や アイドルみるく・るみ を出演させ、第一段階において「話題性」を皮肉る。これこそ痛烈な商業演劇批判である。


ところが、第二段階においては小塚を「勉強させて下さい!」と演出家へ土下座させることにより、小劇場が「下克上」を達成するオチなのだ。あのシーンは「白昼夢」の処理方法であったが、本質的に そうした「救い」だと思う。



「炎上ビジネス」についても考察させられた。
「インターネットの脅威」は劇作家・鴻上氏らが「俺は世間から 求められている」とアピールしているが、矢守氏は その100m先をゆく最先端だった。
「炎上ビジネス」を芸能界と出版社の「持ちつ持たれつ」から指摘する見方は斬新である。
現状は「ネットユーザー」が主導者だとされる。にもかかわらず、仮に黒幕が操った「話題性」だとすれば、彼らは消費者のごとく小さな、単なる「受容者」に過ぎないということになってしまうではないか!
踊らされているのは君たちの方である。

『パイロキネシス』はフィクションではある。しかし、ゴーストライター騒動級の現実を告発している。
ルーシアの妹

ルーシアの妹

ライオン・パーマ

シアターグリーン BOX in BOX THEATER(東京都)

2014/05/15 (木) ~ 2014/05/18 (日)公演終了

満足度★★★★

絶妙な采配で笑わせる、RPG系 イチゴ大福
前説で登場した加藤 岳仁が、「しばらく時間が ございますので、本番中に携帯電話が鳴ったらどうなるか、をコントにしたいと思います」を提案し、即興設定の それは始まった。


加藤 岳仁は どうやら本編においても、「この国のエンターテイメントを支える人間」らしい。
シンドバッド『千夜一夜物語』とは違うが、前説を担当したリアル・タイムの男性、つまり部外者が「架空の王国」という絵本を訪ねるかのような冒険はエキサイティングである。



翻訳劇の文語体はシックであり、ルーシア役の前田 無有子は そのアクセントに完全に順応していたように思える。『ライオン・パーマ』のコミカルなアクションは言うまでもない。

「大福」という古臭い和菓子が、「イチゴ」というフレッシュな果物を内包する形状であろうか。そう、「イチゴ大福」だ。


RPG(原作はない)ではある。しかし、セットは簡素。観客も「落語シチュエーション力」をフル稼働しなければ、この『ルーシアの妹』は 小規模だ。


役者を一人挙げよう。それはアリ役の柳瀬 晴日である。彼女のことは3年前から存じ上げている。多摩美術大学在学中は『宗教劇団ピャー!!』に所属、相当 スキャンダラスな役(本人役、というか台詞があったのかさえ不明だが…)も演じた。

『ルーシアの妹』では少女アリを、明るく、内面的に、あっさりと演技する、アン・セパレーションであった。


私は思う。


柳瀬はアフレコに適任だと。

アキバ系・アニメーションは もちろんのこと、洋画の吹き替えにも ふさわしい独特な美声だ。

LIVE活動も するそうだが、柳瀬はアフレコ声優に推薦できる人物である。

ネタバレBOX

「世の中、正義だけでは回らない。その“ひずみ”の役割が◯家だとは 思ってはくれないだろうか」


文語体をディフォルト化するのではなく、そこに『ルーシアの妹』のメッセージを集約し、「寝技」(田原総一郎 命名)政治哲学すら肯定してしまう正直さには好感をもった。


私はピクニックの場面が「イチゴ」の赤い果肉だったと考える。


グッドマン司令官(橘本 一郎)「ふざけた顔をするな!」


アントーニオ(加藤 岳仁)「あの、これがふざけた顔なら、これから ずっと ふざけた顔なるんですけど…」


グッドマン司令官「はっはっは、ジョークだよジョーク。はっはっは」



観客は「前説シンドバッド」加藤の側にたつ。「特殊部隊」というコミュニティ内で奮闘する、その「異文化」は、笑の宝庫である。


このギャップは「イチゴ大福」のそれなりに合う感覚と同じだ。
子供の時間

子供の時間

スターダス・21カンパニー

阿佐ヶ谷アルシェ(東京都)

2014/06/22 (日) ~ 2014/06/29 (日)公演終了

満足度★★★★

【B】序盤の「寄宿舎」は雑踏に終ったが、とても高貴な翻訳劇である
阿佐ヶ谷の地下で、こんな高貴な物語を紡ぐとは衝撃的である。

少女の「嘘」が教師、親類、クラス・メイトの人生をも変えた、アメリカ片田舎の事件を追う。

「黒板」と西洋家具が連結した舞台装置はシック。音響も最小限に控えている。

この空間に対し、私が抱いた感想は次の通りである。2013公開映画「『ムーン・ライズ・キングダム』の色調だな」と。
タイトル『子供の時間』。英訳すると「KINDAR HOUR」。「黒板」に パリのカフェ従業員の書く字体で2時間10分占領する。(同文以外は消されている。)
これが、映画冒頭の「字幕」がアンティーク化するイメージと ぴったりだったのだ。

10代の「問題児」メアリー・ティルフォードに周りの大人が翻弄し、描かれるテーマも 「モラルと権威社会」で、ところどころが重なった。


いかにクラス・メイトを掌握していくか。いかに、祖母を騙し、大嫌いな寄宿学校を破綻させるか。
「問題児」を、滑稽に、子どもらしく、それでいて計算高く演じたのが荒川 真琴だった。

別の、彼女が登場しないシーンであっても、舞台袖にいながら他のキャストと共演する離れ業をみせた。それは、脚本どうこう以上に、荒川の演技に答えがあるように思う。


いやあ。子どもは残酷な生き物だ。

0号 -2014-

0号 -2014-

ゲキバカ

東京芸術劇場 シアターウエスト(東京都)

2014/07/17 (木) ~ 2014/07/21 (月)公演終了

満足度★★★★

最後まで、「本田圭佑」が抜けない


映画スタジオは都心郊外に立地するものだ。

大船(松竹)しかり、成城(東宝)しかり、調布(日活)しかり。
既に解体され、「旧地名所化」した土地もあるが、フィルムの中の「空気」そのもの は100年先にいたる孫世代の記憶だろう。


舞台『0号-2014』は 1938年から1944年までの「映画スタジオ」を、回想手段によって その激動期と「役者陣の汗」を描いている。
全編を観劇すれば「戦争もの」という題材は明らかだ。しかし、前半は「役者陣の汗」のみであり、激動期が 「トラブル」のように彼らを襲っていく構図だ。
こういうことだろう。例えば、ミュージシャンが演奏活動をするように、パティシエが新作タルトの調理しているかのごとく、そして劇団員が舞台の上で演じるように、その「毎日」を戦争が破壊してしまうシグナルである。


※追記あり

ネタバレBOX

映画撮影は「コマ撮り」だから3分間をカットなしで撮影することはしない。監督の動きも「リアリティ」に欠けている。

ところが、『ゲキバカ』の「楽しさ第一主義」は 洗練されており、「そんなの、いいですわ」という気分にさせてくれる。
「クレイジー劇団」ではない。
演劇とエンターテイメントをこよなく愛する者たちの集まりだ。
空 -SORA-

空 -SORA-

劇団ZAPPA

東京芸術劇場 シアターウエスト(東京都)

2014/08/21 (木) ~ 2014/08/31 (日)公演終了

満足度★★★★

そうか。夢と歴史の中間にいたのだ




勝新太郎が スクリーンと時を超えて再び貫禄をみせた。

設定上は「勝海舟の父」である。が、一度でも彼を映画で鑑賞した世代は知っている。この男、澤田正俊は勝新太郎だと。


私は昨年、文化庁委託事業であるデジタル補正版『座頭一』(監督 黒澤明)シリーズを鑑賞した。「豪快さと情」を、あの巨体が背負っていた。
そして、いよいよ観客に現れたのは、 “この部分”だったのである。


「明治維新」の世を舞台化する『空 -SORA-』。徳川幕政体と諸藩連合の戦だ。日本人にとり、女がキティちゃんを好きなように普遍的材料だろう。ところが、驚くべきことに、薩長が江戸攻撃を企む前夜、しかも、「勝海舟親子」へヒューマン・フォーカスしたのであった。稀と言わざるをえない。


彼らは、観客を「興奮の渦」に招待し、戦乱の世の一員にしてるようだった。客席通路を幾度となく往復したのだ。突然、ライトアップされた数秒後には「侍」が真剣な顔つきで歩く。観客と「交流」する姿ではない。日本刀は まだ光っていない。


史実をお構いなしとする脚本を正当化していく、ファンタジーの新権威主義。「歴史ファン」は観るべきではないし、お勧めもしない。だが、「演劇ファン」を認めるなら、何度も足を運ばなければならない作品だ。

暁の風に夢笛響いて

暁の風に夢笛響いて

COTA-rs

萬劇場(東京都)

2014/08/15 (金) ~ 2014/08/17 (日)公演終了

満足度★★★★

友情が平和を築く政治劇
「政治劇」は ありふれている。西暦以前のギリシア悲劇を遡っても、「忠誠心」に個人の試練を描く点は現代と変わらない。ある意味「マンネリ化」だ。

それでも、泣いた。少年のピュア・ハートと国家、組織、集団、命令に揺れ動く諜報兵演じる、SADAである。

感心したこと。それは「テレビ番組」の専売特許でもある「リセット」を、 その「政治劇」へ随所に散りばめた演出だ。いわば「三枚目」を担うキャストがアルマルベスと岩政であった。SADAが「政治劇」の伝統だったとすれば、この2人は「モダン」だろう。明治の日本に「和洋折衷」が実現したように、若々しく、ナチュラルな役割分担と合成を果たしている。

「テレビ番組」における「リセット」は たしかに説得力ある笑いだったのだが、岩政に関しては時折「台詞の呪縛」にもはまっていた。「台詞」が目的になっていた。

ネタバレBOX

鷹取が「開戦阻止」に暗躍しなかったり、虎之介が獅子丸に「真実」を告げなかった脚本は合理性に欠けるストーリー展開だろう。しかし、SADAと「三枚目」、香央里ら子ども役の熱演が光っていた良さを忘れてはならない。
狂喜乱舞~わらいや双六編~

狂喜乱舞~わらいや双六編~

外組

ザ・ポケット(東京都)

2014/07/30 (水) ~ 2014/08/03 (日)公演終了

満足度★★★★

熱っい木更津市の青春を、6人が「多演」する。有限力だ

応援団の学ラン服を洗濯したいか。それが、「青春時代」をめぐる個々人の立場を表す。

甲子園球場のカメラが放映する「青春フレーム」は、時に観戦席をズームし、猛暑だというのに学ラン姿で統一した男子高校生を紹介する。母校のスポーツ試合に熱風を送る「応援団」である。
君たちが「土ぼこり」なら、女子生徒によるチアリーディングは さながら「漂白剤」だろう。

さて、応援団の学ラン服は、創部当初の部長が着用していたものを代々「受け継ぐ」伝統が あるらしい。脱色防止のため、近所のコインランドリーに投入できない。「汚れ」が 勲章である。


応援団の学ラン服を洗濯したいか。この質問に、私は 富士山がなぜ世界自然遺産ではなく、世界文化遺産に登録されたのかを考慮しようと思う。



『外組』。前回公演において「3000人 集客できなければ劇団解散します」を公約に掲げた。政治家が「消費税引き上げません」公約を命を賭して反故にする世の中だから、たかだか6人衆の約束はインパクトであった。
浅草『アート•スクエア』にて観劇し、3000人の一人となっていた。


それで、本公演『わらいや~双六編~』であるが、「青春エナジー」とコメディ•エッセンスの融合に興奮してしまった。客演2名を含む6名の男優がカツラを被り、服を変え、性別を転換し役を演じる。

この「多演」が『外組』だ。

ネタバレBOX


木更津市に東京湾アクアラインが開通する直前の土地権利攻防に、やんちゃ水産高校生が渦中の栗を拾う。「木村」役の渋いパワフル演技は他を圧倒していた。
東京パフォーマンスドール PLAY×LIVE『1×0』(ワンバイゼロ)  NEW VERSION エピソード1&2&3

東京パフォーマンスドール PLAY×LIVE『1×0』(ワンバイゼロ) NEW VERSION エピソード1&2&3

キューブ

CBGKシブゲキ!!(東京都)

2014/03/24 (月) ~ 2014/04/08 (火)公演終了

満足度★★★★

平均年齢16歳を迎えつつある少女たちに訪れた「境地」とは
「この気持ち、わかりますか?」

終演後、涙ながらに語ったのはリーダー・高嶋菜七。劇中ケンカする小林晏夕とともにエピソード1の主要キャストだ。


「踊っている時も、演じている時も、みんなに支えられているんだなって。
今日ダメ…。なんか話せない(笑)」


東京パフォーマンスドール(TPD)。


昨年8月結成時、平均年齢15歳だった少女は16歳を迎えつつある。


同9月より渋谷『CBGK シブゲキ!』で「演劇×映像」の融合をうたい走り続けたのが『1×0』シリーズだった。


「エピソード1は全6回あるんですが、自分的には少ないです」(小林晏夕)


「進化し続けるTPD」は 、3月から始まった『1×0』リニューアル版も変わらない。


「私が演じたのは『セーラムーン』が好きな 女の子。もっと『セーラムーン』に なりきって、千秋楽までには『月に代わって お仕置きよ!』を うまく言いたいと思います」(小林晏夕)




経済新聞で取り上げらるなど、昨年以来、「融合」のシンボルであった『HMD』(ヘッドマウントディスプレイ)が『Smart Glass』(スマート グラス)に。
アイテムはSmart Glassシート(HMDシート)限定だが、リニューアル版からは全席に無線式リストバンド型ライト『FRE FLOW』が新たに登場する。


色はホワイト。腕時計のような形をしており、TPDのLIVEに合わせ 機器内LEDライトが点滅する仕組みだ。

ペンライト不所持の観客も「ファン」である。



また、「演劇×映像」融合のうち、映像部分をリフォームした。



※ネタバレ箇所


リニューアル版は全体のストーリー展開にも。よりシンプル、テンポよく進み、「衝突」一点が強調されていたエピソード1.小林晏夕へ「好奇心」を開花。

あからさまなメンバー同士の「対立」を避ける「素のTPD」であった。



第二部『ダンス サミット』ではCDメジャーデビュー曲となる新曲『BRAND NEW STORY』を披露。
洗練されたダンス、かわいらしい歌唱は「ザ アイドル ユニット」だった。

「異質」だったはずのTPD。
平均年齢16歳へ向かい動き始めた少女たちの これからは いかに。


ネタバレBOX

エピソード1 上空場面。
プロジェクターならではの「拡張感」がリアリティを与えない問題演出だった。
それをリニューアル版だと、クレヨンのような「アニメーション」に変え、「臨場感」のある音響効果が追加された結果、観客も「高度1万mにいる」感覚に陥った。
マナナン・マクリルの羅針盤

マナナン・マクリルの羅針盤

劇団ショウダウン

シアター風姿花伝(東京都)

2014/09/05 (金) ~ 2014/09/07 (日)公演終了

満足度★★★★

京都から やってきた芸達者
「ひとり芝居の概念」を拒絶している。「ひとり芝居の魅力」を引き出す演技をせず、それでいて、その「制約」を感じさせないディティールだったからである。
2014年『こども歌舞伎』(両国ホール)の千秋楽を観劇したのだが、主要演目【弁慶】で 台詞を飛ばした子役がいた。ステージ脇の師匠が小声のまま台詞の一行目だけを口ずさむ。助け舟だ。歌舞伎役者が記憶したのは「」だった。
一方、今回の「ひとり芝居」は 台詞と「モーション」を深く連携させていたように思う。これを「鈴木 奈々式」と呼ぶ。






そこに現れた、世界への「コンシェルジュ」は、少女であり お姉さん だった。年代が検討つかぬ。10代か、30代かも 本当に不明だったのである。(実年齢 は20代後半)



「海賊船」の一部甲板が 突き出す舞台。高級クラブの「カクテル」のような照明が、海だけではなく、中世の それを表現している。


この 冒険が「絵本」だったとしよう。ならば、海賊の争いを ただただ傍観する観客は 紙芝居に夢中になって帰宅を忘れる「幼児」にすぎない。
もちろん、単なる「こどもの城」ではなかった。物語はカリブ海の代名詞たる「冒険劇」なのだが、この「コンシェルジュ」は 読み聞かせをする者ではなかった。大人が 「幼児」以上にエンジョイできる 、立派なひとり芝居である。




日本人離れした感覚がある。『スターウォーズ』でいうC-3POのような「特別枠」とでもいえようか。いわば「正のキャラクター」(使い)である。


「冒険と疲れ」を供に追っていく ひとり芝居を ありがとう。







あやかし相談承りマス。 萬屋ツジモリ

あやかし相談承りマス。 萬屋ツジモリ

劇団ひまわり 第49期研究科

シアター代官山(東京都)

2014/04/04 (金) ~ 2014/04/06 (日)公演終了

満足度★★★★

演劇界で 再び顔を拝みたいキャスト陣








『あやかし相談承りマス 萬屋ツジモリ』であるが、一年近く前、『劇団だるま座』版を下北沢・劇小劇場にて観劇している。
その空間が爆笑に溢れていたことを重ねながら『劇団ひまわり』版も観劇した。



『劇団ひまわり』は子役のイメージが強く、映画作品クレジットの「協力」に掲載される数は業界随一だろう。


ところが、研修生修了公演に出演するキャスト陣は20歳に満たない若手であり、子役の実習公演とは全く違うアクターだった。



妖怪たち は派手な衣装を身に付け、「呪術」も発揮できるから、その分、存在感は確かである。
そうした妖怪コミュニティに冴えない主人公・○が「埋没」する様子は むしろ確信犯だろう。



パンフレットを読んだところ、ある講師が一年間を総評し、「それなり」を猛省するようコメントしていた。
「外に出たら ひまわり のようにはいかない」
「後半になるにつれ男性が減った」

という、他の講師陣のコメントも載せられれていた。


だから、そのパンフレットを読破した観客からすれば、「研修生修了公演、大丈夫かな?」である。

しかし、そうした「一抹」も払拭するアクターだったと私は思う。




ネタバレBOX

「それなりに」を感じたのは○だ。

学生時代、失恋によるショックで部屋の壁を破壊したらしい。その手段こそ「空手」であった。

コメディ・アクトだとすると、後味が悪い、身体だけのポーズでしかなかった。

硝子の途

硝子の途

劇団ヨロタミ

シアターグリーン BOX in BOX THEATER(東京都)

2015/09/25 (金) ~ 2015/09/28 (月)公演終了

満足度★★★★

ヨロしくおタのミもうしあげます
店員B「いやあ、歌あり、踊り あり、夢いっぱいの 2時間10分だったな」



店員A「おまえ、中澤さん から『今回はミュージカルは ない』と念 押されたろ!」



店員B「失礼しました」




店員A「さて、『劇団ヨロタミ』1年ぶりの本公演ですが、集団作業としてのブランクを微塵も感じさせない 舞台さばき 。これが 22回目の秘訣なのでしょうね。喫茶店マスター役の作・演出・坂本直季氏は奥の方から「少年犯罪、その後」を傍観する機会が 多かった。俺は、その 表情に 作り手の「感無量」が滲みでてると思ったけど」




店員B「うん。役者の 誰ひとり 現役高校生には みえなかった」




店員A「おまえ、表層的すぎるよ!」




店員B「松田聖子の セーラ服姿は事務所関係者が きっちり咎めるべきでした。いくら『聖子ちゃん』とは いえ、50代女性の常識、配慮というものが あって しかるべきです」




店員A「だから 何の話なんだよ!」




店員B「では、『少年犯罪』に ついて一言 述べさせて もらいますよ」





店員A「いいですよ」





店員B「今、小学生の暴力件数が 伸びていることが 文部科学省のデータで明らかに。
把握してるだけでも1万1468件」



店員A「人によって答えはバラバラだろうけど、地域のコミュニティが希薄だから かな」




店員B「いえ、いえ。
低学年の『暴力』は 防犯ブザー 効果てきめん だよね。
子どもは 子どもで いつ『加害者』になっても おかしくないってのにさ、ウチの子は『加害者』とは無縁だわ、ワタクチが心配するのは『被害者』になっちゃう、それに尽きるわ。はい?アホの戯言だぜ、まったく。

人様に迷惑を かける恐れも ある。
これがさ、世間の掟ってもんじゃん。
親は親で、仕方ない奴ばっか だよ、低学年の子もつ親はとくに。
『どうやって守るか』しか 案じないからさ。
スマホのGPS機能で居場所を 24時間 監視するわりには『どうやって世間を生きるか』の保護責任を放棄してるんですよ。
少子高齢化だから暴力件数の伸びは 実質2倍、3倍のペースだしね。
文科省は、中学校、高校の件数が鈍化してる、というか、グラフそのものは下がってきてます、とか いって詭弁をやめないけど、分母からしたら そりゃあ そうだろう、って話。
そのくせ、人工中絶率は いまやダントツの世界トップらしい。暗いよな、日本の未来は」
http://digital.asahi.com/sp/articles/ASH99560BH99UTIL02G.html



店員A「一言に しとけよ!」




店員B「もっと?」



店員A「いいよ、充分、充分」




店員B「『トンネルを抜ると、そこは雪国で あった』」



店員A「文字数 稼ごうと しなくていいよ、川端康成で!」





店員B「『エレベーターを抜けると、そこは劇団ヨロタミだった』」




店員A「文豪っぽく 語るんじゃねえ!舞台の感想まで いつに なったら辿り着くんだ!」




店員B「以下、ネタバレで」




店員A「いい加減にしろ!」




ネタバレBOX

工事中
ぬれぎぬ

ぬれぎぬ

アマヤドリ

シアター風姿花伝(東京都)

2014/04/01 (火) ~ 2014/04/23 (水)公演終了

満足度★★★★

白ネコとはんぺん のような境界線
私は 酔っ払いサラリーマンに対しても、「丁寧」に対応する。

相手がへべろけに解らないことを質問すればすぐ教えるし、世間話を求めてくれば、熟睡するまで繰り広げてしまう。


ピンク色の肌をした男性は 私に こう語った。

「あんた…本当に親切な方だね、親切な方だねえ。こんな どうしようもない酔っ払いをさ…」




酔っ払い に限らず、人は老人だとか、ホームレスだとか、そういった弱者と接する時、明確に、その存在を区別しているのではないか。つまり、友達グループのような「輪」にいる、共感者としての自分自身はいない。

私は それができず、場合によっては子供にも敬語を使う。



『アマヤドリ』は 世の中の「悪人」に接する、「わたしたち側」の皮肉性だった。
民間刑務所収容者を更生させる職業人=限定社員が、境界を明確に区別する「わたしたち側」だとしたら、この構図は相当、挑発的である。

なぜなら、受刑者が陥っている「愛と憎悪」のジレンマを、矯正しなければならい職業人も抱え、それがコーラのバニラアイスのように境界線を曖昧かつ、接合させているからである。


実際の民間刑務所ではまずないことだろう。受刑者と職業人の間に張られたロープが緩む姿を かなり明示的に演技するキャスト陣だった。

ネタバレBOX

ホワイト・デスクが三つ、客席から斜めに配置されている。
照明が当たらない壁には椅子があり、出番のないキャストは そこに待機することになっている。

この空間自体、リーディング公演等にも多用されているが、特筆すべきは 幕外にはけるキャストも 同時にいる点だろう。
これは自然な入り方を守ることで、舞台の哲学、静寂を害さない演出方法である。

私は、『アマヤドリ』を躍動する身体観から高く評価してきた。そして、シェイクスピアより続く演劇の意味である「愛と社会」の相克を問う立派な劇団であると。


しかし、彼らは音響、照明、ダンスを排した空間構造のなか、は っきりと内面に深く迫るスタイルを表明してくれた。

20ステージ以上を予定し、「一日、一日が新しい作品」(広田氏)らしい。


現在進行形ということである。


アフター・トークでの広田氏は「愛と憎悪はコインの表裏だ。愛が大きいだけ、悪もパワーをもつ」と述べていた。

この視点は戦争、民族紛争にも通じる。だからこそ、『アマヤドリ』という団体が政治劇を扱っても、躍動する身体観とは別に また「人間臭さ」が あったのだろう。

社会派は 彼らのように思想というか、斜めに構える定理なるものを保持する必要はないか。


アメリカに「マシンガン・ティーチャー」がいる。アフリカ内戦地に赴き、誘拐された子供を救出するため機関銃を手に武装組織と戦う牧師だ。

実話映画のラスト。実際の牧師が登場するインタビューが流され、「俺を批判する人々がいる。無関心でいろと。しかし、あなたの家族が誘拐されても同じことが言えるでしょうか?」


私にはこの牧師が広田氏のいう「コイン」を象徴しているように思えた。


理念こそ「子供救出」という まさに「愛」なのだが、それが当事者ではなく、解釈の範囲を無制限に与えられた立場であるため、「武装組織を殺す」という「憎悪」が羽飛び散る。



さて、それでもなお、「愛と憎悪」の相克だと偉そーな仮説を設けても、それを包括するのは「利己主義」だと広田氏はいう。


【悪について書きたい、と思ったのはあまりに自分が善人でイヤ気がさしてしまったからだ。いや、冗談ではない。本気で言っている。嫌なヤツだと思われることは簡単だが、そうと知りつつ悪を行うのは臆病な人間にとってそんなに簡単なことではない。少なくとも善人を演じていたほうが社会というのは過ごしやすくできているし、おかげで僕は、良いと信じて善を行うのではなく、過ごしやすさのために善を選んで生きている。】(ごあいさつ 文より)




バカ正直すぎる。だが、有島(笠井里美)と向井(松下仁)が妊娠中の子供をどうするか議論する場面をみれば、いかに人間は「利己主義」なのか、直面せざるをえない。

「愛と憎悪」はストーリーだった。
天召し-テンメシ- 【第28回池袋演劇祭参加作品】

天召し-テンメシ- 【第28回池袋演劇祭参加作品】

ラビット番長

シアターグリーン BOX in BOX THEATER(東京都)

2016/09/15 (木) ~ 2016/09/19 (月)公演終了

満足度★★★★

「小劇場の総合力」














「将棋を指す」とはいうけど、暗闇に光る、煌々とした 「一手」は、全霊を捧げる棋士の心をも映すようだ。
たまんないよね。「将棋」が題材なんだけど、一代記と呼ぶべき人間模様だぜ。「回想シーン」かすら班別つかずに一回きり?入れ替わる。これが在り来たりの一代記でなくす妙薬なんだよな。


申し訳ないけど、この舞台の「美術衣装」、羽生サンを超えたよ。どうしてかって?「スーツ」がすげぇジェントルマンだった。生地もいい。90年代の時代性を「スーツ」に込めたんだろうけど、あれ、買えるかな、西武百貨店本店で。


















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