ぬれぎぬ 公演情報 アマヤドリ「ぬれぎぬ」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★

    白ネコとはんぺん のような境界線
    私は 酔っ払いサラリーマンに対しても、「丁寧」に対応する。

    相手がへべろけに解らないことを質問すればすぐ教えるし、世間話を求めてくれば、熟睡するまで繰り広げてしまう。


    ピンク色の肌をした男性は 私に こう語った。

    「あんた…本当に親切な方だね、親切な方だねえ。こんな どうしようもない酔っ払いをさ…」




    酔っ払い に限らず、人は老人だとか、ホームレスだとか、そういった弱者と接する時、明確に、その存在を区別しているのではないか。つまり、友達グループのような「輪」にいる、共感者としての自分自身はいない。

    私は それができず、場合によっては子供にも敬語を使う。



    『アマヤドリ』は 世の中の「悪人」に接する、「わたしたち側」の皮肉性だった。
    民間刑務所収容者を更生させる職業人=限定社員が、境界を明確に区別する「わたしたち側」だとしたら、この構図は相当、挑発的である。

    なぜなら、受刑者が陥っている「愛と憎悪」のジレンマを、矯正しなければならい職業人も抱え、それがコーラのバニラアイスのように境界線を曖昧かつ、接合させているからである。


    実際の民間刑務所ではまずないことだろう。受刑者と職業人の間に張られたロープが緩む姿を かなり明示的に演技するキャスト陣だった。

    ネタバレBOX

    ホワイト・デスクが三つ、客席から斜めに配置されている。
    照明が当たらない壁には椅子があり、出番のないキャストは そこに待機することになっている。

    この空間自体、リーディング公演等にも多用されているが、特筆すべきは 幕外にはけるキャストも 同時にいる点だろう。
    これは自然な入り方を守ることで、舞台の哲学、静寂を害さない演出方法である。

    私は、『アマヤドリ』を躍動する身体観から高く評価してきた。そして、シェイクスピアより続く演劇の意味である「愛と社会」の相克を問う立派な劇団であると。


    しかし、彼らは音響、照明、ダンスを排した空間構造のなか、は っきりと内面に深く迫るスタイルを表明してくれた。

    20ステージ以上を予定し、「一日、一日が新しい作品」(広田氏)らしい。


    現在進行形ということである。


    アフター・トークでの広田氏は「愛と憎悪はコインの表裏だ。愛が大きいだけ、悪もパワーをもつ」と述べていた。

    この視点は戦争、民族紛争にも通じる。だからこそ、『アマヤドリ』という団体が政治劇を扱っても、躍動する身体観とは別に また「人間臭さ」が あったのだろう。

    社会派は 彼らのように思想というか、斜めに構える定理なるものを保持する必要はないか。


    アメリカに「マシンガン・ティーチャー」がいる。アフリカ内戦地に赴き、誘拐された子供を救出するため機関銃を手に武装組織と戦う牧師だ。

    実話映画のラスト。実際の牧師が登場するインタビューが流され、「俺を批判する人々がいる。無関心でいろと。しかし、あなたの家族が誘拐されても同じことが言えるでしょうか?」


    私にはこの牧師が広田氏のいう「コイン」を象徴しているように思えた。


    理念こそ「子供救出」という まさに「愛」なのだが、それが当事者ではなく、解釈の範囲を無制限に与えられた立場であるため、「武装組織を殺す」という「憎悪」が羽飛び散る。



    さて、それでもなお、「愛と憎悪」の相克だと偉そーな仮説を設けても、それを包括するのは「利己主義」だと広田氏はいう。


    【悪について書きたい、と思ったのはあまりに自分が善人でイヤ気がさしてしまったからだ。いや、冗談ではない。本気で言っている。嫌なヤツだと思われることは簡単だが、そうと知りつつ悪を行うのは臆病な人間にとってそんなに簡単なことではない。少なくとも善人を演じていたほうが社会というのは過ごしやすくできているし、おかげで僕は、良いと信じて善を行うのではなく、過ごしやすさのために善を選んで生きている。】(ごあいさつ 文より)




    バカ正直すぎる。だが、有島(笠井里美)と向井(松下仁)が妊娠中の子供をどうするか議論する場面をみれば、いかに人間は「利己主義」なのか、直面せざるをえない。

    「愛と憎悪」はストーリーだった。

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    2014/04/14 00:17

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