ハンダラの観てきた!クチコミ一覧

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お披露目〜死体編〜

お披露目〜死体編〜

日本コメディ協会

小劇場B1(東京都)

2015/10/30 (金) ~ 2015/11/01 (日)公演終了

満足度★★★★

全体評価は星4つ
 「先生と私」「黒岩家のしあわせ家族計画」は黒い訳の~と書き直せる。「キャンピングデッド」「リバースするのに遠慮はいらない」4作品のオムニバスだが、各作家の個性の違いが作品傾向にもよく表れていて楽しめる公演だ。

ネタバレBOX

特に「リバース~」今作がこの4本の中では最も構造的・構成的である。というのも現実に起こっている事件をリアルタイムで演じる軸に対して、バグを起こした本来バーチャルであるべき世界が割り込んで来る不条理を設定することによって、バーチャルなのにリアルに割り込めることの矛盾が矛盾としてではなくリアルに噛み合ってしまう。それがどうなるかということを描くことによって、物理的に通常あり得ぬことが起こることになり、リアルとされるもの・世界の不安定性とアモルフとを暴き出す作品となっているからである。理知的に考え出すととても恐ろしい世界が描かれているのである。竹田 哲史氏の時間軸をいじる巧みなシナリオとセンスと軽妙にその才能を見せていた浅海 タクヤ氏の演出によるコラボが理性故の怖さをも表現するレベルに至った。見事である。
心中天網島

心中天網島

遊戯空間

上野ストアハウス(東京都)

2015/10/29 (木) ~ 2015/11/03 (火)公演終了

満足度★★★★★


 近松門左衛門の心中物の中でも最高傑作の誉れ高い今作であるが、義理(人が人として守るべき人倫の道)と人情(例えば恋、己の理性で律すること能ぬ本能の齎す欲求)の機微を、これほどドラマチックにまた悲劇的に同時に美的に描いた作品は古今東西実に稀である。(追記は文化的なレベルで述べる。前段はここまで。追記2015.11.1午前3時)

ネタバレBOX

だからこそ、日本のシェイクスピアとも評される、近松作品の心中物の中でも最高傑作との評価が為されるのであろう。まあ、一般受けする評価などはハッキリ言ってどうでも良い。問題は、観た自分が評価できるか否かに掛かっているからだ。結論から言えば、自分は高い評価を下す。現代日本との直接的関連性を演出家が直接的に意識しているかと問われれば、その点では若干弱いと思う。だが、今作を今、掛けることを選び取った嗅覚ともいえる感覚は確かなものだと思うのである。
愚衆ならいざ知らず、現代日本を単刀直入に見る目を持つほどの者ならば、日本がアメリカの植民地であることくらいは自明であろう。そして植民地として収奪され、誇りを奪われ、奴隷ですら持ちうる反抗の自由・権利を奪われて唯々諾々と従っている体たらくを情けないと思わぬ者は居まい。
近松の生きた時代、国と言えば各藩の領内、そして各藩を統べるのは、徳川幕府であった。して、徳川幕府は何をやったか? 儒教のうち朱子学を幕府御用の哲学として採用し、以て人倫を支配、各藩が持つ軍事力に対する抑えとしては武家諸法度・参勤交代を加えた。天皇家を中枢とする公家に対しては禁中並びに公家諸法度を用いて縛り付けたのである。無論、江戸時代の人口構成の90%以上を占めた庶民からは、総ての有効な武器を取り上げて反抗の為の道具を奪い、豊臣 秀吉の検知以降、人民の所在を明らかにすることに努めたのみならず、538年に伝来し国教ともなっていた仏教のイデオロギー的側面を骨抜きにし、ここでも御用宗教即ち御用哲学と為して、檀家制度の元、人別帳の徹底化・人民支配に利用したのである。百姓が、人口の90%以上を占めた時代の実態は、水呑み百姓が大多数であり、長子相続という形式を守ってさえ食うや食わずの生活であったから、その生活の悲惨は、容易に推察できる。最も端的にそれが分かるのは人口の増加率によってである。1603年から1868年迄の増加率を観てみれば基本的なことは足りる。私見によれば今に至る日本人の畜生根性は、太閤検地によって人別帳を明らかにされ、刀狩によって反抗の為の手段を奪われた民衆が更に徹底的にイデオロギー的にも宗教的にも為政者によって収奪された江戸時代の簒奪によって完成されたと思っている。即ち人民は、数百年、馴致の歴史を持っているということだ。
当時の世界の識字率の平均と比べて圧倒的に高い日本のそれは、この人口増加率の低さに矛盾したデータとして現れるのだが、そのことの意味する所が、今作の眼目でもある。
 江戸時代の日本語と三味線(中竿)、横笛、琵琶、太鼓、拍子木などと南京玉すだれのような形態のもっと重い木で作られた自家製の楽器などが用いられ、日本音階で奏でられるメロディー独特の声調とメロディアスな楽器としてのみならず、リズム楽器として用いられているのではないか(西洋の笛では殆ど考えられぬ)と感じられるような横笛の、空気を切り裂くような用い方が、時空を断ち切り、並行的な楽器のコラボレーションというより、輪唱のようなコラボレーションになっては、観客のイメージの中でいつか輪廻転生をも感じさせる。それが、今作にも表れる仏教観とも繋がり音楽と文学と哲学が微妙に折り重なりながら共鳴し合う。
 一方、ここには、道行以降異様に美しい日本語表現と共に、所謂封建制度下での制度的束縛より、人倫に悖るか否かの、即ち人としての倫理(義理)と恋(人情)に引き裂かれ苦悶する2つの実存の、深く切り裂かれた傷口から見える底知れぬ奈落へ、支えもなくずり落ちてゆく苦悩と共に、蟷螂の斧のように振り上げた反抗の意図もほの見えるようではないか。殊に五障の障りがあると山に入ることを禁じられる立場であった女性の小春が簡単に死ねないのはとどのつまり詰め腹を切らされるのが力の弱い女性であることの反証のようにも思えてならない。この辺りにも演劇の科白を単に意味を伝えるだけの記号ではないと捉えている演出家、篠本 賢一の姿勢が込められていると観た。
 無論、自分のように様々な理屈を持ち込む必要などなく、素直に様々な要素の輻輳する演劇のダイナミズムを楽しんでもらえれば、それで本質は掴めるように作られた舞台である。

シー・ザ・ライト

シー・ザ・ライト

もぴプロジェクト

高田馬場ラビネスト(東京都)

2015/10/28 (水) ~ 2015/11/03 (火)公演終了

満足度★★★★★

花五つ星
 小劇場のみならず表現する者の、位置を正確に見、正当な表現に迄高めた今後、期待すべき才能。前回の試みも、幅を広げる役を果たしているのではないか? シナリオの良さのみならず、演出の手順、役者陣のいずれ劣らぬ自然で示唆に富む表現も実によい。

ネタバレBOX

 舞台奥、下手側、上手側黒地に白塗りの板を隙間を開けて貼り付けたセンスがとても良い。無論、下手側では。2か所の出捌け口部分が設けられているし、上手側は、窓に擬した隙間が作られているが、基本的には観客の想像力に委ねられている。舞台上で用いられる器材は、半暗転時、役者達によって準備される。当初は、学校で用いられる簡易型の机と椅子のセットが2つ。それぞれのセットに対して約45度の角度に離れて置かれている。観客席に近い下手のそれは、絵の上手い佐久間の席で、机上にはスケッチブックが載っている。斜め奥にある席は、斉藤の席。彼は、忘れ物を取りに戻ったのだが、彼女は家に戻ると余り真面目に勉強に集中できないという理由で学校に遅くまで残って課題を片付けていたのだ。が、彼が忘れ物を取りに来た時には、ちょっと席を外していた。
彼は彼女を一目見るなり、その可愛らしさにぽ~っとなってしまう。一目ぼれだ。だが、彼女と漸く話をし、新たなスケッチが描けたら見せて貰う約束をしたにも関わらず、彼女は引っ越しを余儀なくされ、その後は会えずに居たのだった。が、大学進学後の彼にとっても、彼女は相変わらず、最愛の女であった。
 大学生時代、斉藤は、映画を作って過ごす。学生レベルでは高い評価を受け賞を取ったりもするのだが、卒業後、大学時代のメンバーを中心に立ち上げたプロ集団は鳴かず飛ばず。部外者としては客演の健一が居る。妻帯者の子持ちであるから、生活が掛かっている。
卒業後2年が過ぎ、プロになってからは受賞歴もなく愈々、正念場だ。因みにこの集団に属するのは、斉藤の元カノの晴香、後輩で斉藤が好きでついてきた真奈美、親友の慧、客演だが、斉藤も彼の作品も好きでずっと一緒に作品を作ってきた健一に斉藤を加えた5人である。
 新作を作るに当たり会議が開かれた。その場で、斉藤の今までの路線では、弱いという結論が出、新作は、既に評価された作品を斉藤が脚本化し、それを映画化するという話になったのだが、原作では絵の才能のある者の描いた作品も映像化しなければ作品として、どうしても傷になるという判断が出た。然し、5人の中にそんなに絵の上手な者は一人も居ない。困っている時、事務所に野菜を納入している業者がやって来た。若い女性である。それは、何と他人の魂を奮わせる絵の描ける佐久間であった。斉藤が彼女に気付き、自らの名を明かすと彼女も彼を覚えていた。映画制作を手伝ってくれることになって、彼女はヒロインに抜擢される。初めて参加する世界で新人だという意識を持つ佐久間は、献身的に雑務もこなし、応募することが決まったコンクールに向けてタイトなスケジュールを精力的にこなした。然し、無理が祟って倒れてしまう。彼女の心臓には欠陥があったのだ。幸い、買い物に出た彼女の帰りが遅いので様子を見に行った仲間が彼女の倒れているのを発見、至急救急車で病院へ運び命に別状はなかったのだが、その後、彼女は入院生活を送ることになる。この間、残ったメンバーの間では斉藤を中心とした女たちの嫉妬が渦巻く。無論、元カノの晴香は、最も敏感に反応した。自分と付き合っていた間も、好きなのかどうか分からないような彼の態度の背景に佐久間が在ったことを感じ取っていたのである。助監督役になっているしっかり者の真奈美にした所で、抑えてはいるものの、嫉妬の焔が燃え上がっていることに変わりはない。
 同時期、妻帯者で2歳になった娘を持つ健一の“遊びせむとや生まれけむ”という表現者の理想と、生活を守らなければならない現実の軋みも斉藤への指弾に繋がる。親友で冷静沈着な慧の優柔不断も重なる。
 追い詰められた斉藤は、ちらっと聞いたリストカットの話を思い出し、自ら試してみようかとカッターを取り出すが、すんでの所で断念。そこで、この所問題Mになっていたラストシーンのヒントを得て科白を書くことができた。無論、この時点で作者としてのしっかりした手応えがあったのである。彼は早速原稿化し上演へ向けてハードルを越える。大事なことは、悩み悩んだ作家が宇宙全体にたった独りで向き合うような孤独に耐えて先に進み得たということである。その為に彼自身が認識を新たにした。そして、作品を自立化した。だから、燃えカスになった。その彼に受賞発表日の2分前、連絡が入った。佐久間の訃報であった。ラストシーンで斉藤はカッターで腕を切る。死亡率5%とされたその行為に彼は遂に踏み込んだ。少なくとも踏み込むことによって不合理・不条理の側に自らの生を置くことを選んだのだ。若い才能がこのように痛々しいが、表現する者として正しい選択をしたことにエールを送らない恥知らずが居るだろうか? 居るとすれば、そのような連中は表現する者の名に値しない。 
オバケの太陽

オバケの太陽

劇団桟敷童子

すみだパークスタジオ倉(そう) | THEATER-SO(東京都)

2015/10/23 (金) ~ 2015/10/30 (金)公演終了

満足度★★★★★

焦点化
桟敷童子の特徴として以下に述べるような焦点化のうまさが挙げられよう。(追記後送)

ネタバレBOX

 東 憲司の焦点化の上手さについてである。今作でもそうであるが、決して目新しいお膳立てをしている訳ではない。大掛かりで効果的な舞台美術の使い方や、紙吹雪を使い演出効果を上げる方法は寧ろ極めてオーソドックスである。にも拘らず、桟敷童子の作品には、毎回心を打たれるのだ。単に自分が単純でアホなせいでもなさそうである。上手いのだ。何が? もって行き方がだ。終盤に向けて謎だったもの、懸案だったもの・ことが集中的に吟味され、否が応でも観客の集中を増す。その上で、メインプロットで不確かな部分を孕んでいた部分が、当に劇的に解消される。
私的恋愛ベスト〜全ての女に懺悔しな!〜

私的恋愛ベスト〜全ての女に懺悔しな!〜

元東京バンビ

スタジオ空洞(東京都)

2015/10/24 (土) ~ 2015/11/01 (日)公演終了

満足度★★★


他人の上手くいっている恋など犬にくれてやればよい。

ネタバレBOX

のろけるのも、のろけられるのもウンザリである。逆に他人の恋で面白いのは、失敗譚、若い恋人たちの悲恋、余りにも純粋な悲恋などに限られる。あとは、犯罪が絡めばミステリーの要素が入ってくるので無論楽しめる幅は増すが、これはもはや純粋な恋愛譚ではない。
 ところで今作を敢えて分類してみれば失敗譚ということになろう。だが、後味がすっきりしないのは、その内容のキモカワぶりより、作家と作品の双方の自立性がイマイチ弱いからであるような気がする。作品は、それが、キチンとしたものである限り、創造する者にとっては、我が子のような側面を有する。だから、作品から作者が自立し、作者から作品が自立する為には、臍の緒を切ることから、その肉体を腑分けして再構成するような大手術が必要である。それが、イマイチできていないのではないか。そんな印象を受けた。
 一所懸命なので、猶更残念である。作家は、シナリオを推敲をもう一度徹底してみたら如何だろうか? なに、どんな作家も皆、推敲することによってしか脱稿できないのだから、ご心配なく。
蟻と太陽

蟻と太陽

兎団

プロト・シアター(東京都)

2015/10/22 (木) ~ 2015/10/25 (日)公演終了

満足度★★★★★

ジェズイットと政治
 時は1627年三代将軍、家光の時代である。島原の乱収束に至る10年余を扱っている。

ネタバレBOX

九州は、天正の遣欧使節の関係もあり、キリシタンの多い地方であった。それも、ヨーロッパでは、その余りにも厳格な戒律の為に布教に行き詰ったジェズイット派である。一方、ジェズイット派の聖職者は、高い理想に燃え、命懸けで布教に生涯を捧げる優秀な者が多かったのも事実である。ヨーロッパの天才達の家系を辿ると、親族にジェズイットの聖職者を抱える家が多いのを見ても、彼らの優秀性を傍証することはできよう。
 何れにせよ、初期、南蛮貿易の利益を考慮してかキリシタンにも比較的鷹揚な態度を取っていた幕府であったが、二代目将軍秀忠が亡くなり三代目になると将軍の言うことを字義通りに実行しない者は、大名でも取り潰しに遭うなど幕府の締め付けは、どんどんきつくなっていった。キリシタンに対しても、禁止の触れは出しても実情は黙認からの変化が激しかった。取り押さえて水責め、拷問、火炙りなど残虐非道な弾圧が加えられたわけだ。それも成人男子ばかりではなく、妊婦、子供に迄類が及んだ。また、年貢の取り立ては、日照りや渇水、台風などで収穫が少なくとも減免されることはないばかりか、捉えられては拷問を加えられるのが、当時人口の大多数(90%)を占めていた農民の生活であった。(三代目になってから更に過酷になった収奪や拷問、虐殺について“現場を知らないお坊ちゃんで、自分の言ったことが実行されていないと、実行する為どんなこともする”という風に描かれているのは、無論、姑息で嘘つきの大馬鹿者、安倍をおちょくっているのは明らかだろう。)
 この虐殺と弾圧・圧政に終に立ち上がったのが、天草 四朗、敵対する勢力を次々に撃破し、島原に立て籠もった時点でその勢力は3万7千にも上ったという。遂には幕府が松平 定信を大将に10万の大軍で平定に向かうこととなった。然し、松平自身、自軍の犠牲も無駄な殺戮も望まなかった為、兵糧攻めを敢行。四朗たちの降伏を待つ作戦に出たが、信心に篤い一揆軍の士気を挫くことはできなかった。だが、籠城が長引くにつれ、夜も徹して監視下に置かれ食糧、薪などの調達もままならない一揆軍は、徐々に追い詰められてゆく。
 ともすれば士気の下がりそうになる面々を四朗は励まし続けるが松平も知恵者、徐々に反乱軍を追い詰めてゆく。遂にもうダメか、という瞬間、立て籠もる反乱軍と対峙する幕府軍の彼方に多くの軍勢が鬨の声を上げた。立て籠もった四朗達3万7千の十倍もの軍、それは九州全土から駈けつけたキリシタンであった。
 最初っからSF要素が輻輳されているので、史実には反する幕切れであるが、立ち上がれば勝てるのではないか? との若者からの問いかけと捉えることもできよう。現実は完全なディストピアの現代、せめて夢を実現する為に生きたいものである。夢の為に命を失うにしても何の惜しいことがあるものか。どうせ先には絶望しかないのだから。そしてこれだけは、はっきりしているのだから。と思い込めるほど、絶望的なのだから。
リクレイムド ランド

リクレイムド ランド

Oi-SCALE

駅前劇場(東京都)

2015/10/21 (水) ~ 2015/10/26 (月)公演終了

満足度★★★★

象徴をどう捉えることができるか
 象徴的な演出が目立つ舞台だ。それもそのはず、犯罪者と被害者家族の在り様を複眼的に観て描いているのだから。このことさえ、理解できれば実に考えさせる舞台である。そして、考えさせる為の契機はふんだんに鏤められていると言わねばなるまい。それを気付かないのは、観客の観察力の未熟と想像力の不足である。深い問題だけに誰でもが簡単に入ってゆくことはできない、というハードルの高さはあるにしてもだ。観て良い舞台であった。

無心

無心

劇団 東京フェスティバル

小劇場B1(東京都)

2015/10/23 (金) ~ 2015/10/28 (水)公演終了

満足度★★★★★

シマンチュも表現してほしい
 果たしてどれほどのヤマトンチュが、地位協定の真の姿を知っているだろう? 

ネタバレBOX

未だ知らない人は、創元社から刊行されている戦後再発見双書の「日米地位協定入門」はお勧め。編著者は、前泊 博盛さんだ。日本がアメリカの植民地であるという実態がよく分かる。その植民地ヤマトに植民地化されているのが、沖縄である。今現在、翁長知事が辺野古問題で国と戦っている訳だが、知事の一貫してぶれない筋の通った論理に対して、政府のやり方の理不尽で筋の通らぬ、また姑息で民主主義の根本を無視した「対応」は、腐りきったその実態を図らずも暴き出している。無論、一応、国家の体裁はとっている訳だから立場上、それより弱い所に対しては基本的に何でもできる。力の論理にというより、殺しも含めて力に論理で対抗することは基本的に意味が無いからである。アルキメデスやソクラテスを例に挙げるまでもない。バカに論理は通用しないのが現実というものである。安倍、菅、石破、佐藤、中谷ら、糞野郎総てがバカではないか!! 無論、法制局の横畠も下司そのものの面をしている。以下毎日新聞の報道である。http://mainichi.jp/select/news/20150928k0000m010102000c.html
 因みにアメリカに逆らう可能性のある政治家としてその政治生命を大幅に減じられた、小沢議員に関しても、検察の嘘が騒がれた。詳しくは最近鹿砦社から出された志岐 武彦さんの著書「一市民が斬る」をお読み頂きたいが、検察や最高裁が如何にアメリカの支配下で機能しているかが、読者にもキチンと想像できる内容になっている。伊達判決をひっくり返した田中最高裁長官(当時)が、当時、アメリカの駐日大使であった、マッカーサーに裁判の経緯、展望などについて逐一報告していたことと、本質的に変わらない。言っておくが、今時、植民地を支配するのに、軍事力を前面に押し出すバカな宗主国はない。情報をコントロールできるように、時には暗殺も含めて飴も用意しつつ言うことをきかせるのだ。これは、常識ですらない。当たり前のことである。恐らくは、既に古くなった方法に過ぎない。
 そこで、安倍政権だが、このように理不尽で腐りきった政府でも、権力を笠に着ることだけは得意で、「国」策として、アメリカの意思を言われるがままに実行する。そのおぞましさの下、ウンナンチュは、アンヴィヴァレンツな状態を強いられ自らの心と体を裁断される。
 ここには、無論、分かり易いことしか描かれてはいない。然し、多くのヤマトンチュはこの程度のことすら知らなかったハズである。恥を知れ!
にんじん

にんじん

劇団葡萄座

スペース・オルタ(神奈川県)

2015/10/24 (土) ~ 2015/10/25 (日)公演終了

満足度★★★★

受肉した言葉
  無論、原作はジュール・ルナールの有名な作品だし、一度は小学生くらいで読んだ経験を持つ方も多かろう。赤毛でそばかすが多い為、家族からにんじんという仇名で呼ばれる少年の話だ。年に2か月寄宿学校から帰省するが、母の理不尽な仕打ちに自殺まで実行しようとした、デリケートでナイーブなメンタリティーが、ルナールの肉声として伝わってくるような名作だ。戯曲訳としては有名な山田 珠樹の訳が用いられているが、用語が若干古めかしく感じられる場面があったのは残念。戯曲自体がしっかりした作品だし、フランソワ(にんじん)の成長が実に巧みに語られ、用いられている言葉自体が、作家が現存しているかのような“受肉した表現”になっている為、普遍的な作品として立ち上がってくる。それが今作に心を揺さぶられる理由だろう。

間違いは正しい

間違いは正しい

lovepunk

新宿シアター・ミラクル(東京都)

2015/10/20 (火) ~ 2015/10/25 (日)公演終了

満足度★★★

目の付け所はよいのだが
 元犯罪者ばかりが働くスナック“天使の羽”には、黒い噂が絶えない。週刊誌などでも報道され、知名度もかなり高いのだが、元ヤンキーママの美子の号令の下、ホステスたちは今日も新たなカモを狙って虎視眈眈。(追記後送)

Obtain~over the horizon~

Obtain~over the horizon~

風凛華斬

シアター風姿花伝(東京都)

2015/10/22 (木) ~ 2015/10/25 (日)公演終了

満足度★★★★

爽快
 キャプテン、ディルハムと伯爵令嬢、クローネの悲恋が強い流れを作り、純愛の爽快感をもたらしてくれる。(追記後送)

底ん処をよろしく

底ん処をよろしく

東京ストーリーテラー

高田馬場ラビネスト(東京都)

2015/10/19 (月) ~ 2015/10/25 (日)公演終了

満足度★★★★★

Aチームを拝見 Bチームもできれば拝見したい
 食は深い。

ネタバレBOX

実際、世界三大料理として知られる中国料理、フランス料理、トルコ料理で知られる国々の歴史・文化は、地政学的・政治的・経済的・哲学的・芸術的影響のみならず、世界中の人々のライフスタイルに大きな影響を与えてきたし、現在でも与え続けている。医食同源などと手垢のついた言葉を挙げるまでもないが、今作の科白にも出てくるように、料理をするということは、自分達が生きる為とはいえ、他の命を奪うことであり、喰らう為に調理するのであるから、魯山人ゆかりの割烹、銀座中嶋店舗前の石碑ではないが、真剣勝負である。当に命と命の争闘なのだ。この聖別されるべき行為を担う大衆食堂の人間関係を実に丁寧に、人情の機微を自然に滲ませる脚本は、決して派手ではないが、本当に旨い料理のようにシンプルでありながら深く、しみじみと人の心を打つ。
 この丁寧に書かれたシナリオに役者陣は、存在感を与えるという、役者本来のいい仕事をしている。大衆食堂だから、常連は庶民だ。訳アリの人々も登場する。その訳アリの人々を温かい目で見守りながら自然に受け入れている作品コンセプトにも気負いがなく、味のある作品に仕上がっている。味は、食べた者が皆、本物を発見し、生きていて良かったと思わせるほど素晴らしいのだが、街は人口も減り経営状況は厳しい。だが、それもひょんなことから、店に関わりを持つようになった休職中弁護士の働きで起死回生の飛躍を遂げる。それがどのように為されるかは観てのお楽しみ。だから、伏せておこう。じんわり、ゆったり本物の味を楽しみたい方にお勧めである。

荒野の三猿

荒野の三猿

劇団 EASTONES

ザ・ポケット(東京都)

2015/10/20 (火) ~ 2015/10/25 (日)公演終了

満足度★★★★

上質なエンターテインメント
 男の子!!

ネタバレBOX

 卒なく練られたシナリオに定番の価値観を上手く嵌め込み上質のエンターテインメントに仕上がっている。ホント、三猿、男の子だよね。仇役の新三郎、そして小姓としての蘭丸の哀れも、その病的な審美眼と犯罪への応用も見るべきものがある。
 だが、本当にこういう作りでいいのだろうか? 自分はラディカルな作品が好みだ。何故なら、其処に表現する者の念が込められていると思うからだ。何の為に、自らが表現するのか? という点である。破綻も含めて存在の有象無象が問題提起されるのは、このようなラディカリズムに於いてではなかろうか? 仕事で疲れた観客を楽しませるというのも無論立派な仕事ではあるが、表現する者として自分自身に不如意は感じないと言えるのだろうか? できれば、表現する己と観客の満足両方を目指してもらえたらと考える。
 作品自体は楽しませて頂いた。
MAD非正規雇用X

MAD非正規雇用X

岡本塾・ペーチカトライブ

Route Theater/ルートシアター(東京都)

2015/10/17 (土) ~ 2015/10/18 (日)公演終了

満足度★★★★

楽しめる
 面白いのは、日本を代表する企業のブラックサバスグループのCEOが、弱肉強食の論理が即ち真の平等だと捉えている点である。

ネタバレBOX

実際、この主張には一定のリアリティーがある、と思う者も居るだろう。戦後日本社会では、飛び抜けた能力を持っていても飛び級ができなかったり、会社では能力主義ではなく年功序列だったりと非効率的な制度が常態化していた。能力が極端に異なるのに皆と一緒にレベルの低い授業を受ける苦痛に対する配慮や、非合理的な判断しか下せない上司の下でも、一応は先輩を立てなければならないというのは時間と労力の無駄であることははっきりしているし、能力の高い者がインセンティブを失う契機にもなろう。
 CEOの認識はこのようなものであり、一定のリーダーシップを発揮するために論拠とするにあたって、CEOの社会への向き合い方が言葉通りなら、説得力を持つだろう。無論、背景には進化論の単純解釈や優性保護思想があるにしてもだ。今作でのCEOは、かなりその発する言葉通りのキャラクターとして描かれている。つまり強権を持ち、君主のように君臨していても下司ではない、ということだ。
 さて、にも関わらず、問題は起こるべくして起こる。何故か? 社会的格差が予め生じる余地を払拭していないからである。この件についてシャイン(shineと社員のWミーニング・もう一つの極は非正規雇用労働者。シャインが合言葉を述べる際、ナチ式の敬礼をするのは、無論おちょくり)の猪狩は、両極化した社会の是正を進言するが、幹部会で査問され、この世の果てと呼ばれるエリア、西浪のコンビニに左遷された。無論、彼の提言はCEOの所まで上がっていない。
 さて、猪狩は、このエリアで早速暴行の洗礼を受けるが、もともと、非正規雇用者の待遇改善を要求するような変り種であったし、IT技術を用いることもでき、シャインでもある所から非正規雇用労働者サイドにとっても利用価値がある為、命は救われる。彼らはある計画を立てていた。ある日、総ての非正規雇用者が、仕事をボイコットして休む計画であった。この計画実現後の待遇改善の為、彼らは猪狩と手を組んで本社へ乗り込む。
 現実の格差社会を経験している若い世代が多いグループであるから、力が入っていて観ていて気持ちが良い。
 もう一つ面白いのは“交渉は戦いと共に、戦いは交渉と共に在る”という発想である。このテーゼが今作を最近のデモや異議申し立てによくあるスタティックな姿勢にせず、ダイナミックでヴァイタルなものが湧き出ることを自然に導き出す。また、交渉術に関してのCEOや非正規雇用サイドの認識が、共通している為、格闘シーンが活性化することにも役立っている。エンターテインメントであることを意識した作りだから、こういう仕掛けは大切である。一方、同じエンタメ指向にしても皆がやっているからという理由で矢鱈にダンスを入れるのは如何なものか? シナリオと緊密な関係があって、ダンスに必然性があるように作ってほしいものだ。また、ブラックサバスの警備が軍隊並ということでマシンガンなどが登場するが、連射されてこれを棒っ切れ2本で防げる訳がない。まあ、ご愛嬌と言えばご愛嬌だが、折角正鵠を突いた良いシナリオで役者陣の演技も中々楽しませてもくれるのだから、この辺り、もう少しリアリティーなり何らかの技が欲しい。
 役者では、柔にして剛、剛にして柔の主役、猪狩を演じた町田 椋氏が特に気に入った。
 ラストで、彼がCEOとして、この世の涯のような西浪で起業するというオチも理想とのギャップは兎も角、納得のできる終わり方であった。
ワーニャ伯父さん

ワーニャ伯父さん

演劇研究会(慶應義塾大学公認学生団体)

慶應義塾大学日吉キャンパス塾生会館(神奈川県)

2015/10/17 (土) ~ 2015/10/20 (火)公演終了

満足度★★★★

熱演、力演 チェーホフにかぶせた植民地・日本
 既に戦争は始まった、と述べる言論人も存在する、昨今の昏い植民地だが、その時代を敏感に反映してか、チェーホフのワーニャ叔父さんである。
(花四つ星。)

ネタバレBOX

 有名な作品だから、筋などは一切省略するが、主役のワーニャを演じた内野 聡夢くんが素晴らしい。アーストロフ役稲岡 良純くんもグー。
 今作では、所謂既存の劇団によって演じられるワーニャ叔父さんより、ワーニャはエキセントリックで傷つき易い、そして至極全うであるが故に変人たらざるを得ない人物として描かれている点で、確かな演出が為されていると感じる。
 即ち、こういう形で当時のロシアの実情を浮かび上がらせているであろうと考えられるからだ。無論、医師のアーストロフは、ワーニャの謂わば影・精神的双生児という側面もあるだろう。一方、大学教授をやっていたアレクサンドルは、文学だ、芸術だ、論文だと言いつつ実際には何も分かっていない愚物だ、と言う指摘は、痛烈なアイロニーでもある。翻って我が「国」を思うとき、一体どれだけまともなエライサンが存在しているかとなれば、お寒い限りである。
 少しだけ実例を挙げておこうか。安倍が第二次政権でやった主だったことの総てはアメリカの指示通りだったことは、既に述べた。今回は、連合が武器輸出三原則撤廃に動いていたことを付け加えておこう。国民の命など何とも思わぬ下司共が共闘して我らの命を奪いに来ている。最も近くに居る我ら民衆の敵とは、即ちブルジョワジーであり、それにぶら下がって甘い汁を吸う官僚、政治屋という下司共である。これら下司共の悪行を暴かないメディアも敵、裁かない裁判官も敵、蜥蜴のしっぽ切りをやっている連中も敵である。
 ところで、東芝の不正経理の一番の根っこは、原発ではないのか? 世界が再生可能エネルギーに舵を切った頃になってウェスチングハウスを買い、大赤字を出したが、国策が絡んで居る為にそれをキチンと会計処理することができなかった結果ではないのか? ということだ。
 アホ極まる安倍はロナルド・レーガンに乗艦するし、レベルの低い漫画しか読めない麻生、国会答弁ではしどろもどろ、メディア発言では、答弁と矛盾することを平気で言って知らんぷりの中谷も一緒であった。軽挙妄動の極みである。政治家の風上にも置けないこういう下司共が、でかい面をしてふんぞり返っているのは、当にアレクサンドルの姿ではないのか? 我ら民衆は、先ず、ワーニャになって、キチンと下司共に異議申し立てをすべきなのである。
愛子のいえ

愛子のいえ

cineman

ワーサルシアター(東京都)

2015/10/15 (木) ~ 2015/10/18 (日)公演終了

満足度★★★

キャラクター作りの苦労
 何だか作家の視点が定まらない作品という印象を受けた。もう一度推敲を重ねなければ、少なくともキャラクターが存在感レベルで立ってこないように思われるのだ。ここに出てくるキャラクターはいずれも同工異曲、謂わば作家の「愚痴」的存在のような気がする。書くレベルで自分の納得のゆくまで各キャラクターの存在感を生み出す葛藤をしていない。

従軍中のウィトゲンシュタインが(略)

従軍中のウィトゲンシュタインが(略)

Théâtre des Annales

こまばアゴラ劇場(東京都)

2015/10/15 (木) ~ 2015/10/27 (火)公演終了

満足度★★★★

デュアリズム? シナリオ・演出浅いんでねえの?
 余りにも有名でカッコイイ「論理哲学論考」の一節“およそ語り得るものについては明晰に語られ得る。しかし語り得ぬことについて人は沈黙せねばならない”についての作品である(追記2015.10.20)

ネタバレBOX

 彼は第一次大戦中、オーストリア軍兵士として最前線に志願兵として赴いた。敵弾の舞う哨戒塔上で彼はその理系の知識を生かした。然し、戦争には、負けた。
 このフレーズは、そのような戦場で生まれたという。前線兵士達の感じていた緊張感、恐怖、寄る辺なさや、底知れぬ慄きを観客に体感させる為に、戦況分析の後の長い暗転の中で演じられる表現は今作の演劇的ハイライトだろう。
 唯、物理・数学・工学にも詳しかった彼が、その哲学に於いて、今作ではデュアリズムに陥っているように見えたのは自分だけだろうか? 自分が言いたいのはディメンションを余り扱わなかったということである。無論、絵画論に触れた所で、三点透視法について言及している訳だから、三次元を二次元に移す方法として絵画を考えていたのだろう。実際、彼自身彫刻や絵画にも手を染めている。オーストリアを代表するブルジョアのぼんぼんとして、その程度は当然のことではあろうが。当然のことながらそれは、彼が言語によって世界を定めようとしたからだろう。そしてその方法こそ、彼の生前に彼自身認めた著作が「論理哲学論考」のみであるという事実をも裏書きしているのではないか? 
 ところで、と自分は言いたい。この有名なテーゼでウィトゲンシュタイン自身は、爪を引っ掻き乍ら存在をずり落ちて行くレヴェルで己を問うていたのか? についてを! この問題こそ、ナチに加担したとして批判に晒されたハイデガーの原点であろう。即ち、ザインではなくてダーザインの問題である。だが、実存は、政治レベルの問題ではなく、存在そのものへの疑義の問題である。世の馬鹿共の抜かす浅い問題ではないのだ。
 世の中には混同が多い。否、混同が齎した誤った判断が、多数決というコンセンサスを得て敷衍するケースが余りに多く、その可也の部分が間違っている。おまけとして愚衆が増える訳だ! これら愚衆に反してそれなりにキチンとした思考をし得るインテリ及び知恵のある者がどれほど深い絶望を抱えているかは、そうでない大多数には及びもつくまい。幸か不幸かウィトゲンシュタインは、このマイノリティーに属している。だが、ロマンティストという時代の限界をも抱えているであろう。その彼のテーゼを有難がること自体が危険である。哲学は、常にここから始まる。我々の為すべき唯一のことは、裸の自分と向き合うことである。
かみさまのメガホン

かみさまのメガホン

夢幻舞台

中野スタジオあくとれ(東京都)

2015/10/16 (金) ~ 2015/10/18 (日)公演終了

満足度★★★★★

表現する者から表現する者へのエール

  シナリオを書いている作家の視座がいい。最近、若い人たちで構成される劇団で多用されるダンスは、今作でも用いられているが、オープニング早々踊られるダンスにも、現在の若者像を象徴する側面があり、決して浮ついたものではなかった。それも当然のことだということが、ラストではっきり分かるのだが、しょっぱなのダンスを見ただけでそれを感じさせる組み立ても良い。無論、若い人たちの劇団だから、荒いと言える側面もある。ステンドグラスが観客席正面のど真ん中に描かれているので、経済的ゆとりさえあれば、出捌け口を変えたり、或いは、場面にそぐわない場合は、目隠しをするなどのことはできようが、そこまで部費で賄うのはしんどかろう。だから、自分はそういうことは、問わない。問題にするのは本質である。今作を序として破急も三部作として、或いは起承転結の四部作でも描ける連続性を持つ内容である。但し、作家は、物凄く格闘しなければならないが。どうやら、公演のパンフレットを持ち帰ることすら忘れるほど、夢中になってしまったらしい。本質に於いて、それだけ素晴らしい舞台だったということだ。自分は、若い人の作品は、期待できそうな延びシロを+して評価するよう努めているが、このオリジナル作品の作者は、己の最も深い所を忘れさえしなければ、今後、その才能で食ってゆけるであろう。そう思うのでこのタイトルにした。(追記後送)

リボーン・チャンス

リボーン・チャンス

カムヰヤッセン

ワテラスコモンホール(東京都)

2015/10/14 (水) ~ 2015/10/18 (日)公演終了

満足度★★★★

花四つ星
 良い舞台というのは、無論、脚本、演出、演技を中心に舞台美術、空間処理、音響、照明、スタッフの誘導体制、対応など総ての要素を含むが、自分は、脚本から照明迄を特に重要視する。

ネタバレBOX


劇団関係のスタッフ関係は、概ね良い。(但し、官公庁がでしゃばる公演は最低レベルの者が多い。受付時の要領の悪さ・対応のまずさなどが代表であるが、何を勘違いしているのか、猛省を望む。)今公演は、地域コミュニティーのコア施設にあるホールでの開催。スタッフ対応も自然であった。
 本題に戻ろう。良い舞台についてである。シナリオ段階で、不用意に内容を明かさない。明かすこと自体を制御することで、ドラマツルギーのポテンシャルを上げてゆくのだ。どの時点でどの程度伏線を入れるかが作家・演出家の腕の見せ所である。今作も、その点では、かなりいい線を行っている。役者の演技も合格点、殊に弁護士千代田役、コロ、川邊洋服店経理小宮役、ししど ともこ、川邊家長女すず音役、永井 久喜の役作りが気に入った。
 惜しむらくは、描かれる対象の枠が、やはりこじんまりし過ぎていることだ。更に広く、深く世界と己を見つめてほしい。星は花四つ星。






わたしたち、ちょっと、こじらせちゃったの…

わたしたち、ちょっと、こじらせちゃったの…

黒ヰ乙姫団

名曲喫茶ヴィオロン(東京都)

2015/10/10 (土) ~ 2015/10/11 (日)公演終了

満足度★★★★

見きれ残念にゃ~~~~~~~~
 お姉たま達の何とも可愛らしい決起集会である

ネタバレBOX

。踊っているのは、浮気性のあゆこや「赤毛のアン」に因んで互いにアン、ダイアナと呼び合う金持ちの子女二人組、アンはハードニート、ダイアナは同じハードニートでも多少自立性ありなのだ。
 舞台は、これらの人々が出入りする喫茶店、復帰したベテランウェイトレスの重田さんが、重石役。スリーパートに別れた話だが、重田さんの落ち着いた物言いと控えめな態度で提起されるこの店のマナー(即ち禁止事項)が、全き日常を女として生きる登場人物それぞれにハードルを課し、そのハードルを各々が乗り越えようとするところに、劇的なものが生まれてくる。とても上手なシナリオである。
 同時に演出も、出吐けのタイミングや役柄転換の妙味を意図した洒落たもの。同じ役者が異なる登場人物になって現れているのに、一瞬、その事実に気付かないほど、化ける女優達の演技力及び素早く巧みなキャラクター転換には正直恐れ入った。
 シナリオは、基本的に普通の女性が過ごす生活を描いているのでそんなに大きな波風が立つ訳ではない。浮気症のあゆこにした所で浮気程度のことは、70%程度の主婦がしていることだというから、大したことではない。それどころか日常の一コマだろう。ただ、演劇的に大切なことは、日常はそれだけでは演劇になれない、ということだ。
 その点で、家庭ではなく、話が進む場所が喫茶店という、日常の中にあって家庭とはずれがある空間であること、更に、重田さんが、禁止事項を持ち出すことによって超えるべきハードルが設定されること、そのハードルを越えようとして、登場するキャラクター達が各々自分の存在を押し広げようとすること。当然、この両者の関係には軋轢が生まれそのことがドラマツルギーを構成することなど、実に理路整然としたつくりである。
 惜しむらくは、本当の喫茶店での公演である為、座る場所によって見切れが多々出ることで、雰囲気のあるいい喫茶店だし、自分の入った時にはアベマリアが流れていて、選曲の良さも感じさせる。(讃美歌の中でこの曲が自分は最も好みである。無神論者であるから、讃美歌総てを聴いた訳ではないが)以上、お姉たま方ありがとうございましにゃん!
 ところで、このタイトルの付け方も、平安時代から続く日本の女性文学の伝統というかDNAを感じる。

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