満足度★★★★
幾重にも跳ね返される展開の底に潜む病の深刻さが、物語の本質、恋を純化してゆく点に今作のシナリオの良さがある。
ネタバレBOX
恋とは微妙な成り行きだ。釦の掛け違え一つで、それは命に或いは命より大切だと思える何かを破壊し去ってしまう。そんな状況を病と生命そのものの炎の鬩ぎ合い、時として魂の崩壊を齎す事例として提示した。
満足度★★★
舞台美術とそこで演じられる内容との齟齬を感じた舞台。
ネタバレBOX
色々な意味でアンバランスである。舞台美術と役者数がマッチしていない。話の進行する場は職員室なのであるが、使われない道具類が多すぎる。(コピー機、上手壁際に置かれた段ボール箱、体育教師の机横の塵、上手奥のロッカー等々)。また、職員室が中心で話が進むなら先生方の席はそれぞれ決まって居るハズ。ところが、殆どの教師が、誰の席か分からない所に腰かけたり、登場する教師数と机の数が食い違ったりして、虚構の成立する場としての舞台空間に安定性が無いのである。このことを含めて“絶句するコンテクスト”なのだとしたら、この設定は失敗と謂わざるを得ない。絶句するほどのコンテクストを表現する為の舞台設定には絶対的バランスが必要だからである。それさえあればシナリオが活きてくるだろう。その為には、舞台はもっと抽象的であっても良かったかも知れぬ。そして職員室でなくても良かったかも知れぬ。例えば、体育館。それも災害があって皆が其処に避難しているという情況設定にして、仮に作られたプライバシー保護空間での出来事、などとするのである。
満足度★★★★★
ほどなる。タイトルにも捻りがあった。祝20年!
ネタバレBOX
。舞台の作り込みにもセンスを感じる。センターに応接セットと利用案内のパンフレット、珈琲マシンなどの接客用備品を配し、ここを中心にシンメトリカルに部屋が各1。上手・下手の壁際が出捌け口になっている。シンメトリックな部屋が良く整頓されているのに上手の椅子が一脚だけ、手前に倒れている。これだけでドラマが成立しているというセンスの良さに先ず感心した。無論シンメトリーは、安定感とホテルとしての品格をそれとなく表現してもいる。
或る程度の数、舞台を拝見していると舞台美術を見ただけで、作品の質が評価できるものだ。良い舞台を作る劇団の作品は基本的に質が高い。今作もこの原則を裏切らなかった。
シナリオが抜群である。オープニング数分間の演技で鈴木 幹子役が少し演技過剰と感じたが、この点を除けば役者の演技、演出の付け方も素晴らしい。初日でちょっと硬くなった点もあるだろうし、笑いを取りに来ている側面もあったので、或いはわざとあざとい演技をさせたのかも知れないが。ヒロイン平沢 夏美役の熱演も素晴らしい。
ところで、シンメトリックに配置されたルームには仕掛けがある。顧客カードで、このホテルの御泊り客が出入りするのである。その模様がどんなものかは想像してのお楽しみ。ヒントは“タイトルにも絡む”。この仕掛けで動く装置が、それらしくてスマートなのも見所の一つ。
さてさて、此処から先は、ネタバレが多いので、先に観劇したい方は、先ず、観劇することをお勧めする。
シナリオの良さには、エンバーミングとその行為への深く適切な知識や新人研修という形で多くの業界用語を知らせ、観客にその特殊性を深め納得させる一方、同時に般化し普遍化している点に齟齬がなく、掛かるが故に人情の機微を上手く溶かし込んで、実にスムースにバランスよく、それでいて物語の山・谷を随所に鏤めながら仕上げていることが評価できる。
照明、音響などのタイミング、効果も上手い。役者の演技レベルも高い。
満足度★★★★
全面黒の板上にやや右肩上がりに組まれた平台や箱馬。観客席側はマンションのベランダ。この窓辺からは、近隣の工場の高い煙突が見え、風下に当たることが多いこのマンションには、臭気が漂ってくると、さくらは言う。
ネタバレBOX
臭いがあるから原発関連ではないが、人間が作り上げた技術の齎す害という意味では共通項がある。而も空焚きというタイトルや締め切った部屋で暮らす「主婦」、さくらの精神的崩壊をも考慮に入れるなら、原発人災の検証として創造的に構築し、且つ想像力的にマッチングさせた方が、更に刺激的且つ風刺の効いた作品に仕上がったであろう。
何れにせよ、結婚詐偽師、さくら(かな)の虚ろな心象に映りこむもの・ことが本当にあるのか否かについて、劇団の傾向もよく分からないまま今作だけで即断することはできないが、原発人災や人間の作り上げた技術の齎した虚ろの抱える退廃だけは確かなものであるように思われる。
オープニングのケンジの独白にリアリティーが無いと感じたが、物語の進行につれて、これはこれで良いのではないかと考えるに至った。何故ならここではケンジの受け身の姿勢を強調する今回の演出で良いと思えるからだ。ところで、随所に挿入されるボレロの使い方もユニークである。通常、ボレロが掛かるシーンでは感情を最大限盛り上げてその高揚と共に音響も高鳴ってゆくのだが、今作では掛かる度にその意味合いが異なる。而も総てに共通しているのは、通常の用い方の箍を外すという方向性である。即ち、空虚に飲み込まれてゆく総ての人間的努力の空しさを補完するような形で用いられているのである。考えさせる作品である。
満足度★★★★★
死んだフリをしているつもりか、多くの者が死の彷徨しかしていないこの植民地で、久しぶりに高校生ものらしい健全な精神の作品に出合った。花5つ星 断固観るべし!
ネタバレBOX
大人たちは矛盾だらけだということは、三歳の子供の目からもハッキリ見て取れる。寧ろ三歳は遅い位だ。それでも大人が自分の犯している矛盾に気付き、精神的な葛藤をしているのなら未だ救いもあろうが、大抵の大人は、そんなことに関わって思い悩むことは「大人げない」ことだとして一切向き合おうともしない。その結果が、現在、この植民地の体たらくである。無能で冒険主義的而も無責任この上もない安倍某とかいう嘘吐きキ印を頂点に置き、恬として恥じることすらない。こんな芸当ができるのも、彼らが本当はその精神に於いて死んでいるからにほかなるまい。そして、多くの思春期の少年・少女たちが、この悪しき影響を受け、謂わばゾンビの檻の中で生かされているのだが、今作は、この生きながらの死を打開すべく立ち上がった高校生を描いて秀逸である。実に良く高校生の雰囲気が出ており、教師たちの対応もそれらしい。何より所謂秀才と謂われる者達の本質が、社会の歯車として行儀よく・合理的に生活し、協調力に富み且つ上意下達に都合の良い人間でしかないこと、そしてそれが唯一の正解であるかのように押し付けてくる社会に対する異議申し立てこそ、若者が最初に為すべきことであり、若者のそのように健全な反発が失われると社会は急激に老い停滞する。掛かるが故に造反有理なのである。このような若者精神を見事に造形化した。
満足度★★★★
タイトルのLadybird Ladybirdは魔法の言葉。
ネタバレBOX
森の中では”ネエ”と呼ばれていた名無しのアンがお母さんから教わった魔法の言葉。親を目の前で惨殺されたアンが、前のめりに生きてゆく為の魔法の言葉。
大人から子供迄幅広い人々に観てもらうことを前提としたつくりだから、シチュエイションは単純である。森、虫篭の中、そして屋根裏。脱出口としては窓。開演時舞台中央奥には、虫たちの飼い主渡辺さんの家の窓が設えられているが、森に大きな捕虫網を持ってやってきた渡辺さんに囚われたアンとエリーの話に移るや、この窓は取り払われ、代わりに手前に設置してあったL字型が、適宜90°回転して窓枠になる。この仕掛けで虫篭の中の世界が舞台全面に広がる訳だ。と同時に閉じ込められているという現実が提示され続けるのである。
ところで、どこの世界にも皆の世界観に入ってゆけない者が居るものだが、此処にも一匹デペイズマンというよりは、自意識の罠に捉えられたアゲハチョウの若虫が居る。彼女は、屋根裏から降りてきた蜘蛛の誘いに乗ってその住処へ出掛けてゆく。他にも都会育ちの♀カブトムシが同行。虫が居なくなったことを知った渡辺さんは半狂乱を呈する。この騒動を解決しようとアンは屋根裏へ出掛けてゆくが、蜘蛛の提供する好みの食べ物と自由に浸った脱走者達は容易に虫篭に戻ろうとはしない。無論、蜘蛛がおいしい餌を与えるのは太らせて食べる為であるが、その道理もすっかり肝を抜かれた脱走者達には通じない。そんな中、アンは初めて、Ladybirdの歌の意味、目の前で惨殺された母のことを語ることになる。こうして森の中からの友情を漸く取り戻した虫たちは元の虫篭に帰ってきた。
この物語を主筋に、二夏を過ごし、既にボロボロのツクツクボウシのゲンゴロウや、娘を失くした離婚カマキリ夫婦、♀カブトムシに似ているか居ないか素っ頓狂な話で箍を外す、ゴキブリ&♀カブトムシ、5万数千匹の働き蜂の中の上位4匹、森の仲間であったが女王蜂になったハナの盛衰、強烈な臭気で皆を従えるカメムシ等々の逸話が絡んでストーリー的にも楽しませてくれる。多くの少女たちがダンサーとして登場するが、一所懸命に踊る姿が健やかで可愛らしい。
満足度★★★★
AIの定義は、未だ定まっていないのでかなり想像にも幅がある。
ネタバレBOX
自分はシンギュラリティーを超えたレベルでのAIが人間なんぞに媚びを売る必要は一切ないと考えているが、今作のような展開も可能性は低いと考えるものの、描かれている内実に関しては極めて興味深いものがある。ロシア革命以前のロシア貴族を描いた「オブローモフ」を挙げるまでもなく、人間というものは際限なく堕落し得る存在である。その退屈の果てにとんでもないことをやらかし得る存在であることも、サド作品などを読めば明らかであろう。尤も日本のサド裁判では、澁澤龍彦が指摘した通り、最も肝要な部分を裁判官たちは判断せず、下らない風俗紊乱などで断罪したのは、彼らの文化的レベルの低さを見事に表していて悲惨そのものであるが。
閑話休題。今作の興味深い点は、シンギュラリティーを超えたレベルのAIが搭載されたヒューマノイドが、人間らしさに憧れ、それを身に付けようと努力し且つ進化して、人間をサポートした結果、人間はその本能以外に何ら自らの意思で社会に発現する道を閉ざされることによって壊れてゆく過程を描いていると同時に、そのような欠陥をしも真似ようとする優秀なヒューマノイドが今後を担ってゆくことが最後に示唆される点である。その人間存在の闇を能力の高い者が実践したら、ガイアは確実に終わる。そのような不気味をキチンと提示している点が非常に興味深いのである。この人間というガイアのウィルスが滅びる必然性を、不気味の谷に通じるようなテイストで表している点に共鳴する者としない者で評価は正反対になるであろう。
説明を読んである程度は感じていたことなのだが、寺山解釈云々よりも、演者たちと我々学生運動世代の背負ってきたもの、背負っているものの質的な違いが大きい。(以下の理由から今回評価点は遠慮させて頂いた)
ネタバレBOX
寺山は、三沢など米軍基地で米兵と日本人とがどのような関係であったのかを体験し、深く傷ついた世代である。自分も多くの者が米国を支持し始めていた時代にあって米国大嫌いであるのは、物心つく前に米軍将校たちと日本の女たちとの関係をうば車から見ていたせいだろう。それだけ屈辱的なものであった。
こんな訳で自分であれば、パフォーマンスとしては寺山も良く用いたフリークスを用いるか、さもなければ土方 巽の創始した暗黒舞踏の動きを取り入れたに違いない。それが、敗戦後に生まれた日本人としての抵抗であり、自嘲であり、屈辱を屈辱として再認識した上で、アメリカに対峙する方法だったのだと考える。またそれが「僕は僕する」というタイトル。即ち自らを盾にした非占領者宣言でもあったハズなのである。
だが、今回拝見した作品には、我々のような屈折は見受けなかった。一所懸命に体を動かしているのだが、日本人としての身体性を意識した土方の舞踏などは微塵も感じさせない、素直で西洋的なパフォーマンスであった。良いとか悪いとかではなく、そこに我らと現代日本を生きる若い人々との決定的なギャップを感じたのである。
以上のような訳で今回評価点をつけることは遠慮させて頂くが、科白は原作に忠実なだけに演じ方・演出でこうも作品から受ける印象が異なるということを如実に示してくれたことには大きな意味があるだろう。
満足度★★★
タイトルからしてパロディーなのだが、他にも映画をパロッた内容が随所に盛り込まれ、シナリオを重層化させている。
ネタバレBOX
だが、最も基本的な主張であるハズの格差社会自体を今一つパロッてみると非常に強いメッセージ性を持つように思う。その意味で、非正規雇用者の昏い情熱や社会の底辺で蠢く悔しさなどは出すより、痛烈に作品内でその位置を自嘲して見せることによって、アイロニーとしての毒で作品内のキャラクターをメタ化し痛烈なメスで観客を突き刺すような意識は弱まってしまった。観客へのサービス精神で悩むことも大切ではあるにせよ、作家の内的な葛藤を鋭い刃に磨きあげて欲しいとも思う。
満足度★★★
この危なっかしいタイトルに惹かれて観に来たのだが、
ネタバレBOX
体内細菌や諸々の機構、防御網などの代表的なものに一つ一つキャラクターを与え、擬人化した上で、外部からやってくるウィルスや体内細菌同士の干渉作用、エネルギー源としての食物摂取や細胞膜内に取り込まねばならない水分摂取など生命維持に必要な諸手続き、それを阻害するダイエットやメンタルな影響を各キャラの争闘とギャグによって構成した作品。
体内がミクロコスモスとして表現されている訳だが、TV番組の超人モノ的なキャラ設定が、物語を宙ぶらりんにしてしまった。もっと科学的なセンスで勝負する方が良かったような気がする。描かれている内容は、ミクロコスモスとしての人体なのだし、それはそれ自体、科学として面白い話なのだから。
満足度★★★★
ぽっかり心に穴が開いてしまったような状態を体験しなかった者は幸せである。
ネタバレBOX
実際にそのように恵まれた者が存在するか否かは問うのも愚かなことかも知れない。何れにせよ傷つかなかった心などありはすまい。然し、心にいつも虚ろを抱え込んだ生というものは決して楽なものではない。様々な理由で親を亡くし、この施設で育った子供たちに里子制度による親が出来たのだが、貰われていった3姉妹は実の姉妹。だが里子に出された家庭は別々であった為、姉妹の誰一人として心底からの幸せに到達できない。親・子双方が各々悩むが子供同士が離れたくないのであれば、親が子供から離れ彼女らの思いを尊重しようと各親同士が約束を交わし子供たちは元の鞘に収まったが。この後、更なる協議の末に、誰もが納得のゆく結論を出し物語は新たな局面に入る。
上演中故、ネタバレはここまで、あとは確認してちょ。
満足度★★★★
ぽっかり心に穴が開いてしまったような状態を体験しなかった者は幸せである。
ネタバレBOX
実際にそのように恵まれた者が存在するか否かは問うのも愚かなことかも知れない。何れにせよ傷つかなかった心などありはすまい。然し、心にいつも虚ろを抱え込んだ生というものは決して楽なものではない。様々な理由で親を亡くし、この施設で育った子供たちに里子制度による親が出来たのだが、貰われていった3姉妹は実の姉妹。だが里子に出された家庭は別々であった為、姉妹の誰一人として心底からの幸せに到達できない。親・子双方が各々悩むが子供同士が離れたくないのであれば、親が子供から離れ彼女らの思いを尊重しようと各親同士が約束を交わし子供たちは元の鞘に収まったが。この後、更なる協議の末に、誰もが納得のゆく結論を出し物語は新たな局面に入る。
上演中故、ネタバレはここまで、あとは確認してちょ。
満足度★★★★★
小屋の作りの関係で座る場所によって見切れができてしまうので、可動椅子の場合は、
半身ずらしで並べるなどの配慮が欲しい所だ。キチンと見えさえすれば多くの人が更に高得点をくれるだけの内容である。
ネタバレBOX
都内にある沖縄料理店。店主は娘ばかり4人を持つ。妻は癌で既に亡くなっているが、孫娘にも恵まれ、常連客も互いに仲の良い極めて家族的な店である。無論、従業員も沖縄大好きおヤマトンチュー。そして医者を目指す中々優秀な留学生。
笑いには、各キャラクターの言語表現の癖を用いたり、発音上の難点を用いたりを多用しとって付けたようなギャグが少ないので、沖縄の苦悩の歴史を背景にした物語を自然に成立させている。物語の縦軸は、三女・恵美の夫・光央の闘病生活だが、それを支える場として沖縄料理店の日常が活写されている点は見逃せない。というのも、日常を劇化するということは、難易度が高いのである。無論、ドラマティックな部分は、光央の闘病に纏わる部分だが、日常がしっかり描き込まれていないと芝居は観客に迫ってこない。この辺りの呼吸をしっかり舞台美術を含めて表現してくれている。もともと、この小屋は天井タッパがかなり高い。店の営業中は、下手の高い部分に地味な色地の布を用いた目隠しがそれとなく配されているのだが、物語の進展で必要になると、そこは病室であったりと実に効果的に用いられているのみならず、上手天井近くにはエル字型に提灯が下げられて、観客の目が自然に演者に向かうように作られている。
また、人々の哀しみや喜びを表すのに沖縄の歌は最高の表現の一つだと思われるが、三線の生演奏や歌が実によく按配されている点も見所、聴き所である。
満足度★★★★★
1975年当時の本質的な新宿(歌舞伎町・ゴールデン街・二丁目)のちょっと斜めに構えながら、ホントに優しい街の雰囲気を見事に表出した作品。
ネタバレBOX
更に付け加えておくならメタ化された作品は、それなりに存在しているのだが、ハッピー圏外特有のトリックスター、後藤田さんの名乗りをメタ化しているのには驚いた。原作は小説にもなっているとのことで月末辺りから都内本屋には並びそうだ。
新宿のこの頃は実に面白い街であった。無論、表面的にはぼったくりとか、カツアゲやチンピラに喧嘩を吹っかけられて、袋叩きにされる連中も居たし物騒だという側面があったのも事実だが、ディープな関わりをしている人間には極めて優しい街であったのも事実であり、ホントにピンからキリまで総てのタイプの人間が集まる坩堝であった。マッポの手が届かない人脈・ルートがあったのも事実である。掃除屋というキャラクターが、当時の新宿の象徴として描かれ、悲劇のヒロインや街の優しさ表現にも極めて効果的で斬新な表現が採られている点、そしてそれらが、本質を見事に抉り出している点で、この劇団の質の高さと優しい感性、真摯な態度に共鳴する。
満足度★★
かなり病んでいるような内容だが、シナリオが未だ3人称の立ち位置から書かれていない。その為だろう。切れが悪いのである。
ネタバレBOX
タイトルは「蟻とキリギリス」をもじったものだし、劇中何度も原話の解釈や、クイズの解答として蟻を選ぶかキリギリスを選ぶかなどの設問も出てくるのだが、それが話の全体と有機的に関わっているとは言い難い。而も、描かれているのは拉致・監禁の上での虐待(気絶するほど強力なスタンガンを用いた)なのだからパンフに謳われているような喜劇というには程遠い。而も、劇中襲撃者は悪を働く自分が喜びを感じることに酔う反面、少しは呪ってもいるのである。こんな中途半端を描くなら、いっそのこと徹底した悪を描いた方が作品としては数段面白くなる。例えばキューブリックの「時計仕掛けのオレンジ」に登場するアレックスのような暴力である。
満足度★★★★
東西南北、どの国からみても最も国境に近い真空地帯に位置する、食堂。その名を独立愚連飯店。(Bチームを拝見)
ネタバレBOX
マスターには伝説があって滅法強いことは確からしく、この店唯一の掟は例え戦闘中の敵同士であっても、店に入った以上「仲良く飯を食え」である。マスターの威厳を恐れてこの掟を破った者は居ない。
このことが戦争の非人間性や、殺戮を旨とした生活から精神にダメージを受けた者、ホントに嫌気がさした者達にとって、心平らかに安らぎ居心地の良い唯一の場所になっていた。然し、各国の戦争はまだ続いている。そんな時、この食堂に東の国の兵士が2人紛れ込んできた。敵対国の兵士たちなので、常連たちも身構える。が、皆、人を殺したい訳でも殺されたい訳でもないので、女将が拾ってきた2人の兵士を皆で匿うことになったのだが、この国の兵士が、敵兵が潜入しているのではないか? と捜索に来たり、高級参謀用の兵法書が盗まれたらしいとの情報も入り、疑心暗鬼渦巻く中で、人として生きること、人間らしさが問われてゆく。同時に軍の根本的発想、人間を人間として扱わず“単に駒として考えよ”という兵法書の極意なども明かされ、戦争遂行の為に国家が「国民」に要求するものが何であるかを提示している。更にこの体制を維持する為の立法として共謀罪が登場するのだが、アメリカの植民地であるこの「国」の人々への注意喚起にもなっていることに注意したい。スノーデンの指摘を待つまでもなく電磁データの総てをアメリカは日本から原理的に盗むことができる。スノーデンの指摘した手法プリズムはエシュロンの発展形であろう。而もエシュロンの基地が、日本にあることは周知の事実である。トモダチ作戦の目的はいくつもあったが、そのうち最も比重が重かったのが、エシュロンの基地を守ることだったのではないか? との疑いを自分は持っている。何故ならエシュロンの基地は三沢の米軍基地内にあるからである。
ところで、共謀罪である。何故、安倍の如きパシリが、共謀罪に此処までこだわるのか? という点についてである。エシュロンやプリズムで電磁データの総てを原理的に盗めるということであれば、情報収集サイドの穴は何処にあるか? これを考えてみればよかろう。答えは各自で出したまえ。
何れにせよ、共謀罪を無理矢理成立させる必要などない、ということは日弁連の主張などを見ても納得がゆく。https://www.nichibenren.or.jp/activity/criminal/complicity.html
満足度★★★★
板上は、素舞台。箱馬が腰かけやテーブルとして用いられている他、必要に応じて劇中、話の内容に応じたパーティー会場作りなどもされ、自然な流れが作られているので、伏線が、それと感づかれないままに巧みに埋め込まれている。この演出の手際は鮮やかと言って良い。花四つ星
ネタバレBOX
物語は、街中のスポーツジム。一般に喧伝されている日本最初のスポーツジムより、ホントは歴史のあるジムが、存亡の危機に瀕していた。建物、設備、インストラクター等、どれをとってもガタがきたジムだったが、存亡の危機が伝えられると多くの人々から基金が寄せられリニューアルすることができた。心機一転、新たにチャレンジしようと考えた二代目は地元TV局にプロモーションヴィデオの制作を依頼した。PV試写などで再会したTVディレクターと二代目の会話から、TV取材が入ることになったが、リニューアルはしたものの、話の内容の殆どが嘘。然しTV局の取材が入るとなれば何としても体面を繕わなければならないと“まっする東京すぽーつじむ”関係者はてんやわんやの準備、打ち合わせなどに追われる。実際に現役で活動しているインストラクターは高齢者ばかりの為、偶々、二代目がTV局スタッフにジムを案内した際、会員になりすましピンチヒッターを務めた小劇団メンバーは即席インストラクターを演じることになり、本物のインストラクターたちは、かつて行われていた交流会の観客として参加することになった。TV局はこの交流会をメインに取材することになっていたのだが、地方局と雖もそこはプロ、すぽーつじむ側の嘘を見破ってしまう。然し、伏線で触れられていた謎が、起死回生の妙薬となった。その謎とは、ジム開設者である必敗のプロレスラーが何故人気レスラーだったのか? という謎であった。ミル・マスカラス、タイガーマスク(殊に初代)、猪木、ブッチャー、デストロイヤー、馬場などが何故人気レスラーだったかをみれば明らかであろう。カッコいいし、強いからと両面揃っているか、強いからであった。因みにこのスポーツジムの名称は“まっする東京すぽーつじむ”プロレスラー“まっする東京”のリングネームから取られた名である。そして名のあるプロレスラーなら皆持っている必殺技としてまっする東京が持っていた技の名をジャッジビンタという。
学校で苛められたり、孤立して辛い思いをしている子供達の意を自ら受けて、彼ら彼女らの悔しさ、苦しさを解消し優しく包み込んでやっていたのである。この優しさに救われた子供達、或いは社会的弱者たちがどれだけ多く居たことか。廃業止む無しという所迄追い詰められたジムの再建資金を提供してくれた人々こそ、まっする東京に救われた成長後の子供達であった。
この事実に気付いた優秀なTVディレクターは、番組内容を変更してドキュメンタリーに切り替える。そしてこの国で最も早くできたスポーツジムの縁起として番組を制作する。
シナリオで嘘を批判的に描くのではなく、その嘘が何故吐かれなければならなかったかに注目し、拠って来た所をハッキリさせて事実を再構成することによって作品を完成させてゆくというメタ構造を持たせた点に今作成功の理由があろう。この文章の最初で述べたように伏線の上手さも特筆に値する。うらぶれた雰囲気を出す為に役者陣もかなり工夫を凝らしたに違いない。劇団員の生活がそれとなく描かれていることも、この論点を保障するのではないだろうか。同時に生きてゆく者の求める答えも提示されているように思う。心を撃つ作品である。
満足度★★★★★
落語は、無論滑稽をその情趣とするが、人情ものの作品数も極めて多く、作品数からいうと滑稽譚に次ぐ位置を占める。
ネタバレBOX
所謂古典落語の世界を成立させた社会というのは、近代以前から国民国家を形成しようとした時期に当たる。この間、為政者同士の争闘も紛争の様相を呈したことは誰でも知っていよう。幕藩体制から大政奉還を経て廃藩置県と言う名の行政単位に移行する中で、我々は初めて国家意識を強要されるに至った。これは、我々より早く国民国家を作り上げ、世界中を植民地化していった欧米列強が一足先に歩んできた道である。遅れた我々は、その劣勢の総てを甘んじて受容すべく、教育によって洗脳され、天皇を頂点とする忠君愛国の滅私奉公に駆り出されることとなった。当然、私権は制御され、理不尽は民衆に押し付けられた。そんな状況の中で警察権力が肥大し、軍部が跋扈する時代が長く続いたのは周知の事実である。そんなガンジガラメの只中で庶民がホッと息継ぎすることができたのが、シャレノメスことと人間らしさを保つ人情の機微に訴える手法であったに違いない。落語の発達と隆盛は以上のような条件下での文化的必然であったと看做すことができる。
今作は現在の日本で起こっている落語の再燃現象を意識しつつ、落語の二大本質の一つ人情噺に重点を置いて作られている。古典落語も新作落語も登場するし、所謂腐女子御用達の二次元キャラの影響力なども加味されつつ、多様な次元、多様な局面を上下二つの高座を利用し、下段に於いては科白の入った演技が、上段に於いてはやや昏い照明の中で身体のみの演技が同時に為され、その様たるや恰も子を案じる親やその霊が、頻りに背後や草葉の陰から応援しているような風情を醸し出し見事なメタ構造で深い人情を表している。
脚本の良さは、作家の落語に対する本質的で深い理解を前提とし、その上で現在の我々の心の襞に過不足なくフィットする作りになっており、舞台構造は、この微妙なバランスを表現するに適した合理的な作りである。演出の細かな摺り合せと大胆で細心の指示、これら総てを背負い演じる役者達の演技。殊に主要な配役を務める役者達の演技が良い。華子の初々しさ、だん次の師匠らしさと人情表現の素晴らしさ、素めんの婿入りでもしたような弱い立場の表現、そして、開演前に噺をしてくれる作家の落語の上手さ等々。惜しむらくはせん華役、落語を演じる時だけは、もう少し天才の持つ狂気を出しても良いように思ったが。
満足度★★★★
板上正面には、スナックカウンターが設えられ、ドイツ自動車のナンバープレート等がカウンターの壁面などに貼られている。カウンター手前には、ボックス席。劇が進行する場としてはオーソドックスな作りである。
ネタバレBOX
下手奥には、ちょっと大きなラジカセがあり、ドリーム何とかという大企業のプロパガンダが開演前から流れている。因みにこのスナックは、いつまでの森に在ったのだが、立ち退きを迫られて現在の場所に引っ越してきた。立ち退きの理由は自然そのものである森を守り同時にエネルギーを自然を守ることによってこそ得るということを壮大なプロジェクトとして打ち上げているドリーム何チャラの計画推進の為であった。巨大企業の反対しにくい論理の前に、森の住民のうち多くの者が他の場所に移っていった。このスナックに集まるのは移住を拒否した人々である。
養蜂家、森の花の活性的利用によって人気の高かったフラワーデザイナー、このスナックを陰ながら応援しているママの同級生、そしてこの地に”いつまで”を探しに来た研究者等々の生活の変化を通し、また研究者の齎したデータによって、ドリーム何チャラの欺瞞に満ち満ちた研究と制御できない技術を人間世界に取り込んだことの弊害が徐々に明らかになってくる。具体的に、自分が解釈したのは、F1人災で誰の目にも明らかになった核問題であるが、別に核に限定する必要は無論ない。ただ、作り出したヒトが、制御できない技術という化け物に対して、我々は何をどのように考え、対処すべきであるのか? このF1人災以来最も喫緊の課題を蔑にし続けるのみならず、被害の実態を矮小化して報じる政治屋や、その論理を裏付けるのに力を貸す下司インテリ、政治屋に対する批判精神を失った意味の無いマス塵、利害に敏いだけの官僚と言う名の糞野郎ども、これらの下司を利害によって操る巨大企業の傲然たる嘘に対し、真実が偶に命懸けで提起されようともこれらの下司の一部でさえ討ち取ることのできない鵺のような社会に対して、我らは有効なアンチを提起できているのか? を真っ向から問うた意欲作。
願わくば、更に文学的表現迄昇華して欲しかった。
満足度★★★★★
火葬場、人生の最後にお世話になる場所である。今回は、その火葬場でのオハナシ!! 花5つ星
ネタバレBOX
厳粛を旨とするこのような場所を喜劇として如何に描くか? 最初から高いハードルを設定している作品だけに、どう料理するか? 観劇前の期待値の大きさは、誰にもあったであろう。結果、期待は裏切られなかった。思いもよらぬ形で進行する物語とオープニングでスクリーンに映し出された映像が、スクリーンを落とすと同時に生きた役者群が現れる演出の素晴らしさでいきなり引き込まれてしまう。空海の密教からの文章等が映写されたりという前提があり、焼き場の炎の描写があったりで、現れた役者達の炎を表すダンスが生々しく迫ってくるのだ。焼き場では、火夫が焼骨の歌等を歌いながら仕事をしている。火葬をお願いした一家、鳴沢家の人々の故人に纏わる雑談などが演じられる。火葬場スタッフ同士の場面、成沢家の人々と火葬場スタッフとの打ち合わせ場面などが、小気味よいテンポの場面転換で過不足なく紡がれ、仕込まれた様々なギャグと伏線、脱線、脱臼等々喜劇を作る際の様々なテクニックが縦横に配され、観客は笑いながら、箍を外され、思いがけない展開に翻弄される楽しみにしたたかに酔う。無論、更なる驚きと緊張が仕組まれている。詳細は上演中故敢えて書かないが、このもう一つの大きな柱によって、物語は単なる喜劇の枠を超えて深く哲学的であると同時に、厳粛であるべき葬儀という題材に対して決して礼を失することの無い優れた作品に仕上がっている。それは、死と再生の物語という普遍性に達し、仏教の極めて特徴的な思想である輪廻転生にも通じる。焼骨の歌の歌詞が、冒頭で歌われていた物とはまるで変って宮澤 賢治の「星めぐりの歌」になるのは、正しく象徴的である。無論、このようになることは、巧みな伏線によって示唆されている。今作も何度も観たい舞台だ。