実演鑑賞
満足度★★★★★
アーサー・ミラー原作の作品である。板上はフラットの素舞台。ホリゾントはスクリーンになっており物語の場面に応じた絵画が映し出される。時代設定や場所はハッキリしないものの、イギリスの統治下にあった宗教性の強いアメリカという地域の或る地方の物語と解釈できそうだ。中心になる登場人物の要に地域で人気の高い農夫・ジョンとその妻・エリザベス。そしてジョンと不倫関係にあった元召使・アビゲイル。魔女裁判に至り、遂には刑死者迄出すというシリアス物だ。漠然ととある場所で起こった昔話というより寧ろ正しく現在の世界情勢とそのまま重なるような内容として観ることが出来、長い尺を一切感じさせないお勧め作品である。ミラーの慧眼も大したものだが、演劇ユニット、King’s Menを組む若い2人の表現者がこういった作品を選んでチャレンジしていることを高く評価したい。演出もこのユニットの篁エリさん・平澤トモユキ氏が共同で取り組み役者としても出演している。(追記後送)
ネタバレBOX
オープニング早々、子供たちと若い娘(牧師サミュエルの姪・アビゲイル)がこの地方(セイレム)の森で踊りを踊ったり何やらさざめきあって遊んでいるような場面、と急に一人の最年少と思われる少女(地主パットナムの娘・ルース)が倒れ込み動かなくなる。踊っていた少女たちの内の幾人かは、服を脱ぎ裸を晒す(舞台上では下着になることで裸を表現している)
ところでこの少女たちの様子を見ていた者がいた。この地域の牧師・サミュエルである。彼はハーバード卒を鼻にかけて偉ぶるような人物ではあるがこの地域に赴任して未だ浅く敵も多い。彼の管轄下にあるこの地域では、彼を嫌い敵対する住民が多く、この不可解な事件を魔女と結び付け彼を攻撃する材料として用いることが在り得ると考える彼は恐れ警戒していた。そこで子供たちと何をしており、どうしてルースが倒れ動けなくなったのかについてアビゲイルを難詰する。流石に牧師だけあってその追求は鋭いが、アビゲイルのしたたかさは、これを上回りかつて自分が召使として7か月働いていたが馘首にされた農夫・ジョンの妻・エリザベスが彼女を奴隷として扱いたがり非人間的で冷たいなどという話に切り替えると共に事件の肝心な部分を見抜くような懸念を述べていたサミュエルの問いから逃れることに成功。逆にエリザベスの評判を傷つけ、自らの評判を上げる種を撒くことに成功する一歩を踏み出した。
実演鑑賞
満足度★★★★★
フライヤーからはチャラけた芝居との印象を受けていたのだが、極めてまともなストレートプレイである。
ネタバレBOX
舞台美術も如何にも明治から大正にかけてのし上がった炭鉱成金の屋敷に相応しい調度が並び、なり上がり者の定見の無さを象徴している。例えばリモージュ焼きと思われる磁器の向こう側に洋画、その隣奥に信楽焼きと思われる陶器、その更に奥には、朝顔型の蓄音機、更に奥に家長の後妻である可奈子の居室があり、ベッドには天蓋から映画・クレオパトラの寝台に掛かっている幕のような、西アフリカで用いられる蚊帳のような天蓋部分に円形釣り具を付けそれに細かい目の布をあしらったような物が取り付けられており、ベッドの奥は布で仕切られ袖のように機能するが、劇中この袖は大変重要な役割を果たす。上手奥には中国や李氏朝鮮時代に多く作られたような形の一輪挿しの花瓶、ホリゾント中央には両開きの襖。その手前は畳敷きで平台で一段上げてある。更に客席側は洋間になっており洋式の椅子、ソファを始め中央に使用人を呼ぶ為のベルが載ったラウンドテーブルが真ん中に置かれている他洋間から和室に上がるのには上手に階段が設けられているものの、これも洋式。おまけに和室には木製屏風が上手・下手それぞれに置かれているという塩梅。まあ、日本は和洋中朝折衷文化が基本で我々は慣れ切っているので恐らく外国人が感じる程の奇異感は持たぬ者が殆どと思われるが。物語が展開する舞台美術は台詞だけでは表せない意味をも時に象徴しているので一応指摘しておく。
さて本筋について少し書いておこう。家長の名は伊藤 正久、長男・慎二(実は養子、甥)次男・兼次(正久の実子、使用人・ふゆが実母である)その他実勢は無いものの華族出身の比佐子(東京帝国大学学生慎二の婚約者)、そして先に挙げた可奈子(後妻に収まるまでは慎二の紹介でこの家の女中をしており、その後正久の妾となっていた)
ジェンダーレベルで見ると男性VS女性では女性の完全勝利である。というのも正久は女遊びに長けた積りの金持ちだが、女性達の心理を見抜くことに掛けては少年のようにプリミティブな思考しか持っていないのに対して、可奈子は慎二とはずっと恋仲であり後妻と決まって妾宅からこの家に移ってきた後もずっと隙をみて同衾しており、バレていない。また、正久の見立てでは古風な倫理観に縛られその倫理からは外れないと判断された比佐子は慎二が何をしているかを偶然知って後、その秘密を教えた頭は悪く無いものの同世代の悪童仲間どころか友人も持たない為精神的には幼稚な金次を唆し、褒美に同衾を約して兄銃撃事件を惹起する。而も事件で死んだのは金次の方で慎二は生き残ったのだが、貞淑だとか婚約の約束だとかを守るフリをして婚約解消は敢えて否定した。
このような状態の中、ラスト部分で可奈子は妊娠を告げる。(無論、どちらの子かは分からない)。この後事件の後片付けが終わったあとの展開がどうなるのか? 当然慎二と比佐子は結婚し子供も生まれよう、そうなると遺産相続争いが起きるに決まっている。女性陣で唯一昔風の倫理に生きているのはふゆのみであり、彼女は3人の女性の中で最も年上だから遺産象族争いが起きる頃にはリタイアしているか、亡くなっているかであろう。こんな続編を期待させる面白い作品であった。
実演鑑賞
満足度★★★★★
一言に不条理劇と謂うが、その意味する処をどれだけの人が理解しているであろうか?
(追記後送)
ネタバレBOX
演劇ファンを前に口幅ったいが、演劇は最も時代とその状況を反映する表現形式である。今作の原作は故別役 実氏、1967年の作だったと思う。冒頭こんなことを書くのは、今作が日本の不条理劇を代表する別役 実という劇作家の作品を基に創られていることと大いに関係がある。一言に不条理劇と謂うが、その意味する処をどれだけの人が理解しているであろうか? 先に挙げたように演劇は時代とその状況を本質的に極めて素早く而も的確に表現する総合芸術である。而も芝居という形式が要請する縛りの多い表現形式なのである。
以上のような条件から、それでも作品を創り上演する為には、極めて鋭く要を得た状況把握と膨大なデータの的確な分析、これらを素材として再構築し物語として紡ぐことのできる才能が必須である。
ところで、不条理劇が創られるのは、或いは創られて来た時代とは、どんな時代であったか? を若干再考してみよう。今作の原作は、現在別役実戯曲集に収められているものとは、内容に相違がある。今回、有機座公演では初演時の台本をベースとして用いたという。自分はこの双方を見比べた訳では無いので異同の詳細は分からないが、初演時の台本の方がより尖がり、先鋭的であった分だけ分かり難いかも知れないと想像した。実際、今回自分が書いていることは、この分かり難さを少しでも解消したいと思ったからである。
物語の舞台は国際航路の波止場。舞台美術は至ってシンプルで、板奥の天井からは万国旗が垂れ下がり、その手前中央よりやや上手に棺桶のような形のベンチ、その反対側・下手には、定番の電柱ならぬ電灯。板手前観客席に近い下手に救助用浮き、上手には繋留用の杭。大切なことは、物語が展開するのが国際航路の港だという点だ。
人種や国籍、肌の色や目の色、髪の毛の色、話す言葉の違い、衣装や文化、食べ物や仕草の違い等々様々な違いや、その時代、場所の違い等によってこれらの差異が様々な意味の違い、否意味する処の違いに重大な差を齎し時に取り返しのつかない事態を引き起こすことにもなる。
そして不条理劇の創造された時代にあった社会状況とは、多くの人々が判断の根拠を失い、自分達が属す社会も、己自身の普遍的価値観も信じることが出来なくなった時代では無かったか? 敢えてしょっぱな過去形で書いたが、無論現在もそれは刻々と更に深く不可視にされて進化・深化し続けている。
実演鑑賞
満足度★★★★★
板上は奥に平台を置き素舞台。それだけアクションの多い舞台である。物語は一見勧善懲悪物の体を為すようにもとれようが、総て表現された作品は、それを受容する者達の解釈次第でその消長が決まる。従って表面的には開演前にずっと流れている音楽の歌詞のように勧善懲悪とみえようとも解釈次第で実に深い、また極めて象徴的な意味を持つ作品に変貌するのだ。今作は、その実例と観た。兎に角、エネルギーが凄い。一見バカバカしいことに此処迄一所懸命に向き合い、打ち込む姿勢の底に何があるのか? 観劇中に何度も自問しつつ拝見して居た結果は追記で報告する。
実演鑑賞
満足度★★★★
う~~~~む。
ネタバレBOX
Fluctuat nec mergiturはラテン語で、揺蕩えど沈まずという意味だ。パリの標語である。今作、一応パリを日本に移築するというコンセプトの基に建てられたマンション住人たちの話なのでフライヤーにもこの標語が記されているということだ。
ただ、如何にも日本人のフランス被れらしくフランス語の間違いが多々ある。例えば友人などと別れる際、フランス人はau revoirを用い、決してadieuは用いない。後者は基本的に二度と会わない、会えない場合にのみ用いるからであるが、今作ではau revoirを用いるべき処でadieuが頻繁に用いられたのは実に嘆かわしい。またマンションの名前にLe appartement・・・という言い方をしているが、仏語は母音の衝突を嫌う為、正しい表記はL’ appartement となり定冠詞leのeが落ちる。こんな初歩的なミスがたくさんあるばかりでなく、台詞に‟パリのシャンパンは云々“というのがあって、これをパリで飲むシャンパンと解せば問題は無いのだが前後の関係からパリ産のとも取れる。後者の場合はフランスの法によって罰せられる。何となればシャンパンと名乗ることができるのはシャンパーニュ産のものだけだからである。日本でもスパークリングワインと呼ばれて製法が同じでも恰も異なる種類の酒と勘違いすることもできる呼称はこの法に縛られているからである。フランスを移入するという設定で而もパリで長く過ごしたという設定の人物が、こんなレベルで間違っていたのでは話にならない。
1か所だけ感心したのは終盤に掛かる辺りでシャンソンの歌える店にマンション住人らが出掛けるシーンがあるが、この時歌を披露する店の歌い手の歌が、シャンソンの心根を表現して見事である。この歌1曲だけで星の数を1つ増やした。
実演鑑賞
満足度★★★★★
ベシミル! 華5つ☆
SNSやユーチューバー、既に廃れたかに見えるブロガー等を含めてネット環境を利用しての発信、受容の拡大再生産は破竹の勢いだ。これに乗じて若い世代が稼いだなどという話も拡散されている。この物語はこんな時代の表層と表層の炎上や、既存メディアの報じる炎上を原因とする著名人の自殺等の社会現象の底にある生の生活を実に奇想天外且つショッキングな内容によって掘り下げ、現代資本主義の多くが実際には実践しているショックドクトリン下(ナオミ・クラインが指摘)の社会の暗部を照らし出したと捉えられる極めて深い作品。お勧めである。(追記後送)
実演鑑賞
満足度★★★★
Aチームを拝見、作品は2本、何れもオスカー・ワイルドの原作である。1本目は「小夜鳴鳥と赤い薔薇」2本目が「幸福の王子」。上演形態は朗読劇の体裁を採る。舞台美術は共有。板奥に天井から床まで届く布を下げ、布に等間隔の幅を設けた光の点を配して天井から床まで届く仕掛けだ。無論、同時に袖の役割も果たす。その手前観客席寄りの板中央辺りに丸椅子が等間隔に4脚並んでいるのは、登場人物各々が座る為である。板の最前部には下手、上手何れもシンメトリックに太い蝋燭が奥に2本、手前に2本重なるように置かれているが、奥の蝋燭は背が高く、手前の物は低い。これらの蝋燭の中間辺りに花で拵えた花壇状の造作。
ネタバレBOX
作品内容については皆さんご存じだろうから触れない。ただ、ちょっと気になったのはオスカー・ワイルドの生没年と思われるリーフレットの表記についてである。ワイルドが生まれたのは確か1854年、亡くなったのは1900年だったと記憶しているがリーフレットでは全く違った表記になっている。
何れにせよワイルドの生きた時代、多くの文学者が(詩人・作家等)ダンディズムを標榜していて、ブリテン出身の貴族でさえある時期迄フランスかイタリアに留学して大陸の文化を身につけなければ箔が付かないとされていたのに、仏文で発表した作品で態と間違えて書いてあるなどと生意気な口をきき反感を買っていたアイルランド出身のワイルドの歪みを感じるのは自分だけではあるまい。今回上演された2作はこのような「田舎者」としてのワイルドが一方で背伸びをしてダンディーを気取っていた反動とみることもできるような気がする。そのような作家の内面的な葛藤があったとしてその葛藤迄表現されていたかと自問してみたが、それは為されていなかったと判断した。
実演鑑賞
満足度★★★
VUoYは元銭湯だったので奥に浴槽が残っているのだが、今作ではそれを隠すようにパネルが張られ見えなくなっている。その分、やや抽象度が高くなっている。下手側はちょっとした建物のように立体的な倉庫様の物が作られている。何れも白っぽい。照明は終始昏め。
ネタバレBOX
公演は最初に京都で、次に東京で、最後に豊岡で行われるが演ずる場所によって内容は若干異なる物になるという。かなり実験的な作品ではある。而も相当にペダンチックで通常演劇創作に関わる者が意識する演ずる当事者にとっての脚本の個的読み込み、脚本全体を見渡して相関関係を把握した上での自らの演じ方、観客から見た作品の見え方の何れもがペダントリーに毒されているように思われる。この原因のⅠつにLiminal Spaceの概念を持ち込み、階段・ロビーなどある場所と他の場所を繋ぐスペースに着目し、過渡的な場所が無人になったときに感じる独特の感覚を強調。そこに既視感等日常の中の不可思議感覚を見て取っているのである。だが、それが万人に共通であるか否かを検証済とは思えない。
というのも作品は幼稚園児に教える大人3名(存在1、2、3と表記されている内2人が♂、1人が♀)の奇抜な登場シーンを経、存在達がその教示内容を審議するシーンから始まるが背景にはかつて放映された教育番組で流された音楽がラジカセで流れる。この間、脈絡と無関係にボールが飛んできたりする。ユニークなのは、耳慣れないスクリプトドクターなるスタッフが創作に関与していることである。スクリプトドクターの役割は表現作品、殊に映画や演劇の場合は、演じられる場所や時期、関わる役者や演出家、協賛企業などの関係を調整して差別表現や利害関係等で作品の主張とは関わりない社会問題化を避けることにある。
ところで今作の初期想定は幼稚園児相手の教育議論であるから子供目線は上記で説明して来た今作の傾向に対置されるべき唯一最大の要素として必要欠くべからざるものだと小生は考えるのであるが、今作ではその視座が欠けている。大人と子供の差は子供たちは自らの欲求と想像力を基本的に追求しその為に生きているのに対し、大人たちは目的を遂行する為に利害調整を必要とすると考え、その結果として金と権力、社会的位置をも有すると考える。この生き様の差は決して埋められない。従って今作のようなシチュエイションで作劇するのであれば、創作過程に子供との生の対峙が必須となる。子供電話相談室のように子供からの生の声に相対し、相対した子供たちからの視座や疑問、異議を大人の視座と対比させなければなるまい。この点が欠落していることが今作の弱点と観た。終盤存在1,2,3の悪態は、米追従しか出来ないこの情けない「国」の阿保らしさを批判的に語るかのような内容になってくるものの、悪態を吐く際の日本語のボキャブラリーは何とも貧弱である。海外でちゃんと地元の人々に溶け込み話をしたり一緒になって遊んだりを何年かして過ごせば自ずと悪態表現の余りの多様性に気付く。日本でも人口に膾炙しているサノヴァヴィッチやヴィッチ、イエローキャブ、コン、アン等々は加えても良いのではないか? 何より実際に創作過程で子供の生の反応を取り込んで創作することが望まれる。そうしなければ観客から観た面白さの評価は低いままであろう。難易度は極めて高いものの「ピタゴラスイッチ」のようなセンスでこの間(あわい)を繋げることができたら爆発的な面白さになろう。
実演鑑賞
満足度★★★★★
余りに上演回数の多い舞台故粗筋は書かない。それにしても演ずるのが難しい舞台の代表でもあるような舞台である。登場人物は総て女優A,B,C,Dで表記されていることからも、清水邦夫の今作に対する態度が明確に分かる作品でもある。(追記後送)
ネタバレBOX
今回、今作を拝見するのは凡そ20回目くらいにはなろうか、これまで拝見してきた他劇団の上演では、永遠のプロンプター役の2人の掛け合いの場面、殊に「斬られの仙太」のシーンや花形女優が若手女優の頭部を殴打してからの独白部分にスポットが当てられる演出が多かったように思われれるが、演奏舞台の今作の解釈では寧ろ、チェーホフの様々な作品のそこかしこに表現されている人生の侘しさに清水のチェーホフ読み込みの深さ、共感を観、表現しているように思う。演奏舞台という劇団の独自性を見ることができよう。
実演鑑賞
満足度★★★★★
板上には古いアパートの一室が再現されている。センターよりやや上手にはこの部屋の入口ドアが斜めに設えられ、出るとホリゾント方面は筒抜けで役者の動きが丸見えになる。この空間を遮るように部屋の下手奥辺りに本棚に入れられた故人の書籍、アルバム、雑多な品々が見える。(本日楽日、追記9.2 4:12)
ネタバレBOX
物語はこの部屋で半年ほど前に亡くなって、つい最近発見された部屋の住人・タカセ マサヨシの遺品整理に甥のケンタと友人が遺品整理に訪れたある日の話だ。遺体は発見時既に白骨化しており、余程苦しんで亡くなったとみえ吐血したと思われる血に塗れた手で壁のあちこちに手形が付き、敷かれた布団の上で遺体から溶けるように流れ出た体液が床に染みを拵えていた。既に業者が入って部屋の除染や室内塵の撤去などは為されていたが、この作業中に唯一の親族である甥の居所が分かり大家が連絡を取ってケンタと友人が後片付けに来ていた訳である。
ところでケンタも友人もリッチではない。そこで遺品の中で売れそうな物はなるべく高くオークションで売ってせめてレンタカーの費用程度は捻出したいと本棚に詰まった様々な品々を検品しているうちにカセットテープを発見した。遺言が録音されている可能性があることから再生してみることになり、大家が捨てずに持っていたプレーヤーを借りて再生してみることになった。
するとそこには想像もしなかった内容が記録されていた。然しマサヨシの歌謡曲好きからかテープは片面4分程しか収録されない代物で、而も亡くなる前に体調を崩していた伯父の咳が録音を邪魔して居る為聞き取れた内容は半分程度、A面、B面合わせても肝心の部分は未録音のまま切れた。その内容は実に深刻なものであり、伯父はその任務を果たさねばならなかったことを悔いその任務の内実を明かそうとしていたのだ。その肝心要の部分が録音されていないのである。カセットプレーヤーを貸してくれた大家も古いラジカセが中々上手く作動しなかったこともあって部屋に来て何とかラジカセを作動させることに成功したばかりであったから成り行き上片付けに来た2人と共に居り、皆が皆何が録音されているのか何とか聞きたいと考えていた。然し埒が明かず大家は階下の自分の居室に戻った。友人は何か飲む物等を買いに部屋を出た。ケンタが独りで居た処へ若い夫婦が隣に引っ越して来たと挨拶に来て菓子折を置いていった。何気に開けてみると入っていたのはカセットテープ、それも皆が聴きたがった遺言のパート3であった。早速聴いてみるとそこには恐るべき事実が録音されていた。
その事実とは、叔父が自衛隊員であったことと関係していた。既に人々の記憶からも半ば忘れかけられていた日本最大の犠牲者を出したとされる航空機事故として処理された事件に自衛隊員らが動員され、証拠隠滅の為に証拠となりそうな総ての物証を焼き払った任務に纏わる告発であった。事件からはワンジェネレーション以上の時が経ってはいたが、未だに関わった自衛隊員達の不可解な死や自死が多発していたことも伯父の同僚の自死を巡って訪ねて来た妹の話、霊となった伯父が語った自らの死因からも明らかになり事件がずっと生き永らえて関係者に重く圧し掛かっている実態が露わになる。
話は前後するがこのテープ内容に被さるようにパート3のテープが入った菓子折を持って来た若夫婦が伯父を追いかけまわしていた理由が分かってくる。若夫婦、実はこの事件で墜落時には未だ生きていた被災者であり、他にも多くの被災者に助かる可能性があったことから、また片付けを手伝ってくれている友人の叔母が菓子折若夫婦の妻であることからの因縁で既に冥界の人となりながらマサヨシの霊は、若夫婦の霊たちに追われていたのである。
ラスト直前、改めて伯父はケンタにテープは処分するよう忠告し、命に気を付けるよう告げる。2人が総ての片付けを終えて大家に挨拶しアパートを出た直後、人身事故が起こった音が聞こえる。答えは読者にも直ぐ想像できよう。
そして世の中は何事も無かったように回ってゆく。一番怖ろしいことは、何事も無かったかの如く総てが隠蔽され人々は知らんぷりを決め込んでただ粛々とちまちました人生を送り続けるという事実だ。この事実は、ほら君の斜め横の薄暗がりで薄笑いを浮かべている。
実演鑑賞
満足度★★★★
可成りトートロジカルな論法で組み立てられた脚本なので分別し難いが面白いことは面白い。その理由は、当にこの手法で書かれることで分かり難さが適度に刺激になっているという点だ。
ネタバレBOX
物語は鳥取県の境港を舞台に展開する。登場するのは流しのスナックをやっているねむ、と金魚。実は霊能者で組織事務局に属した過去を持つ妖怪ハンターのねむ。その弟子筋らしき金魚。先ずは腹ごしらえをしようと名物の蟹料理屋へ赴く。
片や引っ込み思案で目立たぬように生きていた彼女を変貌させ新たな世界に導いてくれた大切な親友を亡くした蛍、失意の彼女に愛を告げた霧は共にこの地を旅しに来た。目的は名産の蟹。蛍には最も大切な人が亡くなってしまうという宿命観がありこれがトラウマである。
ところが、どういう訳か2組とも目指した店は臨時休業、仕方なく街を彷徨うと屋台のおでん屋があった。このおでん屋の女将も元妖怪ハンター、流石水木しげるさんの故郷というよりこじつけが多すぎるキライはある。まあ、物語全体の作りがトートロジカルであることはしょっぱなに書いた通りなので作家の特性ということで諦める他あるまい。ベースにあるのは開演前にホリゾントのスクリーンに延々と映し出されるSNS映像で没個性的表現で似たような内容が延々と続き創造性が最も要求される表現というジャンルでこれほど没個性的な映像を延々と流すことのできる神経に甚だ滅入っていたし、根底にあるであろう強い承認欲求や集団ナルシシズム及び上げた傾向とは真逆の没個性的表現に満足して居るらしいことの矛盾に平気であるように見えることの気色悪さに唖然とさせられていたのだが、このような矛盾を敢えて作り出すことによって実生活中には存在しない苦悩やトラウマを化工産物として拵えている可能性や実際に在り得るジェンダー差による女性の被害に対する恐怖も考えた。
何れにせよ、続く物語は悪意は感じないものの、極めて広範囲に及ぶ妖気を発しポテンシャルの高さは弩級の妖怪が、この地に現れ人を喰らっているという状況が起こっているということであった。この妖気に引き付けられるかのように現れたテディベアを抱えた現役妖怪ハンターはねむの元相棒。喰われたのはおでん屋の女将をしていた元妖怪ハンター、下手人は出生に絡み強いトラウマを持った女であった。
このメインストリームに絡むのが蛍と彼氏の恋、蛍の一途な恋は、またしても裏切られる。共に旅する霧は既に鬼界のヒトとなっていたのである。トラウマを共通項として、これもありきたりと言えばありきたりだが、普遍的と言い換えることもできる心の深い傷による苦悩と純粋な愛であるが報われぬ恋の悲劇は、主役と脇役で確かに描かれているからだ。
実演鑑賞
満足度★★★★
開演前にはシャンソンの名曲が流れ、板上センターには上部をブルーシートで覆われた直方体が鎮座している。この下手には紐が張られ洗濯物が干されている。こんな舞台美術を背景にオープニングではムード演歌を歌う歌手が登場、前説を務めつつなだらかに導入。華4つ☆ だが解釈次第だ。
ネタバレBOX
歌手退場と同時に直方体の片端を持ち上げる者が居る。中から現れたのは1人の初老の男。設定は川岸、この直方体はこの男の段ボールハウスである。人1人が横になって寝るサイズちょっきりなのは、不法占拠に当たるから地元の市役所職員から大目に見て貰える範囲で遠慮がちに設置されている訳で住人の性格を表わしている。
ところで、今作のタイトルには恐らく仕掛けがある。東南アジア等で料理用に用いるバナナに掛けた意味とサンスクリット語のニルヴァーナに掛けた意味とのWミーニングである。この点に気付けば案外すっきり解釈できるのではないか? 料理用バナナの話は台詞に出て来るし、実際にバナナを食べるシーンも出てくるがこちらは普通に果物屋で売られているバナナで、肩透かしを食わせるのも作家のジョークと捉えられよう。一方のニルヴァーナは涅槃の意である。即ち、悟りの境地を指し、同時に生命の火が吹き消されたということでもあるから空でもあろう。西洋流の概念では自由の究極の形をイメージできるかも知れない。何れにせよ我らは生、老、病、死からは逃れ得ない。而も世の中は様々な柵でできている。運、不運は己の生まれる時も、場所も自ら選ぶことすらできないことから初めっから決定されていると言えないことはない。このような不公平にも関わらず取り敢えずの生活は総てが平等という建前で始まっているのが我々が暮らす社会の在り様である。このギャップ自体を生きる人々の安らぎが何処にどのような形で存在し得るのか? そんな深刻な問い掛けすら感じとることも可能な作品ではあるが、このような受け取り方をしなければ一体何が描かれているのか? 正体を掴み難い不思議感覚で観ることのできる作品でもある。更に深読みすればこのように観る側の自由が保持されている点に今作の狙いがあるのかも知れない。
実演鑑賞
満足度★★★
レイヤーが成立する為には先ず存在しなければ。時代の表層だけ観てその趨勢に乗っかった論理を用いている気がする。
ネタバレBOX
板上はこの小屋としては少し珍しいレイアウトを採っている。劇場入口側にL字を鏡文字にし時計回りに90度回転させて短辺を据え成り行きで長辺になる両部分を客席とし、劇場入口から板上迄は階段で繋ぐ。板長辺の対面に長辺下手から順に中、大、小の順に矩形の枠が据えられている。長辺上手には最も低くサイズは大きい矩形が倒れた状態で据えられている。この矩形各々が、凡そ各登場人物の棲むエリアということになるが、下手から3番目の矩形には黒色系の紗のようなカーテンが三つの面に付けられている。出捌けは客席変形L字のコーナーの対角辺りに1か所。尚天井からは様々なオブジェが吊るされており各矩形の各々の桟や矩形の奥にある壁、壁際に設けられた簡易衛門掛けには衣装等が掛けられていたり、様々なオブジェが貼り付けられていたりするが色調はほぼ暖色系。
物語が何を意味するのか? 論理的に追うのは可成り難しそうだ。というのも脚本家によれば男女二元論の持つ加害性について三部作を書いたとのことであるが,作家の言う男女二元論が実際何を意味しているのかが、今作では全く触れられておらず、今回演ずるのが総て女性によってである以上例えばジェンダー論で考えるなら女性に対する男性による加害性ということが考えられるものの、実際に演じられる舞台では、女優達は一応自称‟僕“だったり‟私”だったりしつつ幾つかのグループに分かれて同時に台詞を発し、而もその台詞自体若い日本の現代女性が使う類の言葉なので正確な日本語とは程遠いうえ出演者全員が異なる台詞を同時に発音するから観客の殆どは何がどのように語られて居るのか総てを正確に聞き取り判断することが出来ない。最初からそのような混沌を作り出すことが目的であるならそれはそれで興味深いものの或る二元論の間に発生する対立の加害性を問題化しているのであれば、二元論を構成する各々の存在論がアプリオリに示されている必要があるにも関わらず、その点に関して一切表現されていないと感じたのは今作の上演形態そのものが全体の聞き取りを不可能にしているせいなのか或いは三部作の第二部ということで一部で既に表現されているからなのかは不明だが、少なくとも終演後に初めて見た当パンによれば男女二元論の加害性が問題だと捉えているのであろうから、問題の発生する源である♂、♀の存在論は必然的に示されねばならない。これが欠落しているから自らの健康状態を即ち肉体を根拠率に発言する他無いキャラが登場するのである。このキャラは存在論という今作の主張の根拠となり得る共通項を持たせる為に絶対必要な根拠律であるにも関わらずこの視座が欠落している為に総てが瓦解し焦点の定まらぬいい加減な作品なったと思われる。結果このような脚本と演出自体がその主張と矛盾し、結果破壊すべき二元論そのモノに対する論理的批判自体が成立し得ないのではないか? 既に述べたようにそもそも男女二元論とだけ言って実際その二元論を具体的に示している訳でも無く、ハッキリ象徴化している訳でも無いから、個々の主張そのものが、何ら共通項を持たぬ論点に向けて唯わあわあ騒ぎ立てているという形にしかならない。
作家の言によれば、これらの位相を表現する為に三つのレイヤーを設定しそのレイヤー間の差異と発語される台詞の差異とでそれらを差異化しているというが、その為にはそれら総ての台詞が総ての観客に一旦総て理解されその上で選択されねばなるまい。然し乍ら先に述べたように殆どの観客にそんな芸当ができるとは思えない作りなので言っていることとやっていることとは矛盾する他はあるまい。この点が決定的に問題であると捉えた。
実演鑑賞
満足度★★★★
華4つ☆
ネタバレBOX
尺は120分。板上は居間。ほぼ中央奥に窓。中年女性6人は皆友人でTVのプロデューサーをやっているオリーブの家に毎週末集まりボードゲームをやり乍ら雑談をするのがこの集まりの習わしである。物語の中心になるのはこのオリーブと異様に清潔好きで整頓好き、而も料理の得意なフローレンス。オリーブはバツイチ。元夫は競馬が大好きなギャンブラーで年中ゲル貧であり離婚後もすっては国際電話を掛けてきて援助を要請。その度に甘い言葉に載せられたオリーブは融通してやる。この過程が面白い。毎週集まるミッキー、ヴェラ、シルヴィ、レネーらは、こんなオリーブに様々な忠告の言葉を掛けるが友人たちの忠告などあって無きが如し。そんな状態が続くボードゲームゲームの或る時、行方不明騒ぎになっていたフローレンスが、漸く顔を出す。ゲームはサイコロの目で進んだ場所に記されている諸ジャンルの質問に時間内に答えるものであるが、駒を進めた者のみならず誰も答えられない難問にフローレンスは即答する。彼女は3人の子持ち。離婚話の末に家を飛び出していたのであった。結婚前は経理をやっていたが現在は専業主婦だ。従って飛び出しはしたものの自立して生活する術は無く自死騒ぎも引き起こしたのでオリーブ宅で同居することとなった。
だがオリーブの性格はフローレンスとは正反対。片付けだの縛られることだのが大っ嫌いというキャラなのだ。料理も自分では作らない。物語のメインディッシュは、オリーブとフローレンスの同居生活のちぐはぐと対立が同じビルの別の階に住むスペイン系の兄弟、マノロとヘイスースとのWデートを巡って遂に爆発し同居生活が破綻するに至る部分だが、この現在起こっている女性同士の深刻な対立を茶化しでもするかのようにオリーブには2年前に別れたギャンブル依存症の元夫が金をせびる為に電話を掛けてくる。とその度に都合してやるという甘い側面を持ち、そもそも集まってくる女性総てが殆ど矢張り男女の関係には関与せずにいられないという状態である。結婚している者も多いが別れた者も、別れかけている者もあり浮気関係のあれこれ、旦那とのあれこれ、別れた夫とのあれこれ、女同士の友情を前提としてこれら色話の諸関係が描かれる為、個々の男女関係が各々のレイヤーを為し輻輳している点が脚本の上手さ。元々原作はアメリカのものだが、演ずるのは日本人、その点矢張り若干ウェットになっている気がする。もっとドライにエッジを立てると反発も大きいかも知れないがより面白い作品になるような気がした。無論、別次元のオチもあるから、そのオチは観て確認して欲しい。
実演鑑賞
満足度★★★★★
身につまされる観客も多かろう。何れの役者も自然体で良い演技をしているし、生演奏は無論のこと、照明も良いし、等身大の脚本、演出もグー。
ネタバレBOX
板は可成り長い長辺の両側を客席に挟まれる形で中央に位置する。平台を用いて構成されているが板に上がる為階段を一段設けてある。片側に神宮の鳥居、鳥居対面に竹林がある。竹林の前には演奏者席。
舞台は地方にある神宮の団子屋の名店を中心に展開する。伊勢神宮や気比神宮には及ばぬものの神宮の格式は無論神社より高く可成り由緒のある社殿もあり、祭りは盛大である。この神宮の神官は非常に面倒見の良い人で皆から慕われた人格者であったが、盆の時期に急逝した。ところで地方では盆は旧盆を指し旧盆には祭りを催し先祖の霊を迎えて皆で祭りごとをするのが習わしである。この神宮の神官は、この人の人格の気高さからか或いは神職という職業柄か単にヒトに対してのみならず弱いもの総てに対して温たかく接し、放っておけない性格でその様はまことに神々の齎す慈悲の如きものであったから神宮には何と37年も生き続ける猫・小夜を始め8匹の野良猫が飼われていた。そして長生きすれば尾が割れて妖怪にも変化すると言われる猫の小夜には不思議な能力も備わっていたのである。その能力とは、追い詰められて苦吟するものがあると普段は決して鳴き声を上げないのに鳴くことであった。皆からおんちゃん、と親しみを込めて呼ばれる神官は生涯独身を通したが若い「息子」が居たのも小夜がこの「息子」が神宮の前に捨てられていることを彼に鳴き声で報せ保護させたからであった。この物語の中核を為す神宮周縁の土産物屋の中での名店団子屋の当代夫婦もおんちゃんの世話になって目出度く現在の幸せを掴んでいた。というのも日本には良くある家を継ぐことに纏わる問題で愛し合う二人の関係は本家同士の婚姻の障害として立ちはだかり本人同士は人柄といい、家格といいまたその能力といい双方の親、親族も認める良い関係に在りながら、唯一点、互いが本家であり長子が家を継がねばならぬと互いの親・親族が考えていることだけが結婚を阻害していたという事情があった。為に愛し合う二人は追い詰められ切羽詰まって駆け落ちを選ぶ。その時にも小夜は鳴いた。おんちゃんは、救いの手を差し伸べ団子屋の長女の実家の直ぐ目と鼻の先にある神宮の居所に恋人たち二人を住まわせることにした。この時既に長女は妊娠しており約半年後には臨月も近づき実家及び連れ合いの姉らも新たな命の誕生を愛でる気持ちにもなり、また本人達同士も血気にはやった心情から距離を置くことが出来るようにもなって御家制度より大切な皆の幸せを享受する道を選ぶこととなった。実家に戻った長女はやがて娘を産んだ。この子の誕生が溶けかけた氷の関係を一気に融和に導き両家の関係も正常化する。
この他おんちゃんと養子の関係を結んだ捨て子の貫太郎も子供の頃こそ苛めにあったりもして精神的危機を迎えたこともあったものの、真の子として育ててくれたおんちゃんの心根の意味する処を理解するに至り素直に父さんと呼べる迄に成長した。他にも団子屋の親族で女医を営む弓が結婚もせずに独りで年老いた母の面倒を観てきたものの老いの所為で様々な問題を起すようになった母の面倒を見続けることが限界に達し、施設に預ける道を選んだ時に強固に反対を表明した今は団子屋の女将となった母とその娘たちとの骨肉を分けた者同士の争い等、どの家も必ず抱えている深刻極まる問題群を、何とか自分たちの知恵で解決し人間として生き抜く姿が、旧盆の祭りを背景に既に命の灯の消えた者たち、未だ灯し続け霊を迎える者たちの盆故の交流を通して浮かびあがる。そこに響く小夜の鳴き声。
誰もが抱える人生の難問をさりげない日常風景に溶け込ませて描き温かい人情で解を導く優れた脚本を自然体で演じる役者陣の演技、演出も良い。また祭りの雰囲気を盛り上げる生演奏も効果的である。
実演鑑賞
満足度★★★
物語の展開を最もダイナミック且つ緊迫感ある作品にする為に必要な大枠としての論理展開が対立構造として提起されていない為、凡庸な作品になってしまった。
ネタバレBOX
本質的なことを示したかったことは分かるが、時代の表層に流され過ぎてはいけない。舞台美術もコテコテで内容に見合ったものになっていないのは他の総てと同様、ことのエッセンスを抽出しようとしていないからだろう。時代といえば分かったようなフリはできようが、新しさを衒って却って温故を忘却しているかのようである。尺も無駄に長い。
以上上げた欠点は、状況設定の失敗が第1の原因だ。描かれる内容は、時代を唯漂うように浮きつ沈みつし徹底的に自分を見据えて世界と対峙することを怠り、結果何ら根底的な精神的地点にも辿り着けなかった表現者を目指す者たちが、オーディション無しで参加できるイベントに応募することで自分たちの犯してきた過ちに少しづつは気付き、様々にチャレンジしてゆく物語ではあるが、所詮己とは他者に他ならないという地点にすら自らの力で立つことができない為、更に踏み込んだ表現者たる道への参入も叶わぬことのみを知り続けてゆく構造を示しているに過ぎない。当然ダイアローグの形式を採る仲間内での台詞の遣り取りも台詞同士の間にあるべき緊張感に欠け、結果劇的緊張に欠ける。
出演する役者陣の各々はそれなりにポテンシャルが高そうだが、それを活かせるような作品作りになっていないと感じた。残念である。
実演鑑賞
満足度★★★★★
お待たせした。敗戦記念日にアップした。当初発表箇所も若干変えた処がある。
ネタバレBOX
言うまでもなく清水 邦夫の戯曲だが、一幕四場、初演は1971年10月、新宿アートシアター。当時の演出は蜷川 幸雄氏であった。今回の演出は篠本 賢一氏。学生運動が衰退後の世代である。板上は奥に裁判官席、上手壁際に被告用の椅子が並べられ、板観客席側センターには可成り大きな四角い板が置かれているが高さは殆ど無い。従ってほぼ素舞台に近い創りである。(注:序盤場転が多いが一部を除きいちいち場転とは記していない)
オープニングでは1968、1969と繰り返しながらヘルメットを被り、タオルをメットのY字形の穴に通して投石している学生たちの姿、1968・1969と叫びながら高所から投石する学生たちの模様は、年代からいうと日大闘争からある意味バトンを受け継いだ安田砦をイメージした攻防であると解して良かろう。ライトが照らされているのは機動隊側からのものと判断した方が良い。その他機動隊の発するガナリ、騒音が入り混じる。
場転、2人の若者が持っていた爆弾を浮かれ騒ぐショー会場に投擲、爆発させる。忽ち捕縛され裁判シーンに。若者たちは、当時流行りの口調でアジ演説さながらの革命的論議を吹っ掛けるが敵もさる者おいそれと同調はしない。それどころか体制の根拠たる形式或いは様式(裁判という形式を始めそこで機能する裁判長、書記官、判事、検事、弁護士等というキャラ)を執拗に用いつつ対峙し俄かに結論は出ない。
そこに、奇妙な集団が登場する。総て婆さん。各々様々な特徴を持ち、古代神話に現れる神々のようにその特徴をその名として互いを呼び合い連帯している婆さんたちである。婆さんの代表格と言えるキャラが鴉婆、虎婆ら孫を持つ婆の他に何人かがいるが、中でも鴉婆、と呼ばれる婆さんの啖呵が粋である。「あたしたちゃ、人間の恥で黒く染まった鴉なんだよ。あたしたちのこころん中にゃ、人間の骨で削り、人間の骨で作った一本の笛が、いつも絹をつんざくように鳴り響いてるんだよ・・・」で始まる啖呵だがこの啖呵に含まれる言の葉の意味の深層こそ、今作の根であり、脚本家・清水 邦夫の主張であると捉えた。
演出の篠本 賢一氏の演出の多くは当に本質に於いてその上演回限りの表現である演劇という総合芸術の裸形を活かす為に、関わる総ての者達の気をそのエネルギーが最大化して物質化を目指すような、張り詰め硬質化するような緊張感のある舞台作りをするケースが殆どだが、今作では清水の脚本を如何に生かすか? に力点を置いているように思えた。清水作品の清水脚本らしさが実によく出た舞台になっている。
例えば如何にも詩の好きな清水 邦夫の作品らしくのっけから狂歌、川柳、俳句やらの如き五七五文型の短詩系オンパレード。二場のラストで遂にはアポリネールの傑作・❝ミラボー橋“のパロディー迄開陳される。
場面変わって逮捕された学生2名。嫌疑はコンサート会場への爆弾の投擲・爆破である。第八法廷裁判長以下、書記官、判事らが各々の職務に従って作業に従事し、検事は被告人らの罪を上げ、弁護士は弁護の論陣を張って議論を戦わせている。
其処へ闖入したのが捕縛された若者の祖母らと共闘する婆さんたち。各々極めて個性的且つパワフルな婆さんたちだが、彼女らは日本が大陸と離れて大陸との間に海を抱え島として独自の歴史を刻み始めた初期に在ったとされる原始の闇の初めからあらゆる権力及び機構にケツを捲ってきたと宣たまわぬばかりの猛者たちである。というのも女性の持つ妊娠機能で胎児が暮らす子宮内に満ちる羊水の成分はほぼ海水と等しい為か、比喩としても母と海が同質視される文化的伝統は広く世界に見られる。従って彼女たちの実年齢が幾つであるのかは関係ない。彼女らの論理に従えば1万年昔に在ったとされる太古の闇の恨みは、他の誰もが無いとは言えぬ以上(もっとあからさまに言えば脚本に書かれていない以上)、彼女らがそう宣えばそれが在ったとし、その身の内に抱えていると宣えば、それを認める他は無い。そしてその身を貫く恨みに苛まれながら新たな光を与えてくれる者を求めて生存し続けているのである。と言われればそれも認めざるを得ないのではないか? 一見、無茶苦茶な論である。
然し今現在、そして今に通じるこの情けない人権無視の体制を営々と続ける不公平な支配構造を疑わないという発想自体が、体制に毒されて来た結果だとしたら? 毒されているかも知れないという発想そのものが予め予防されてきたとしたら? 取り敢えずはその辺り迄発想を広げる処からしか始まらないのではないか? 人間は見たいものしか意識上に挙げることは出来ない。開くことが出来ない視座なら先ずは自らで自らの目を切り裂くことから始めよう。この作品はこのような戦闘への招待である。
反逆の原動力は現生を観れば分かるようにこの情けない世界状況。先ずは足元の我が国、日本の唾棄すべき為政者共への反逆を通して見つめよう。但し彼女らの反乱は体制を論理的に分析し批判的に解消するものでは無く仮借なき弾圧を加えてくる為政者そのものへの根本的治癒、即ち解体である。そして解体は多くの場合抹殺を意味する。
ところで闖入した婆さんたちを相手に為政者サイドは先ずその本質たる形式(様式)を以て対抗しようとする。先ず裁判形式を整えようとするのだ。彼らの殆ど本能となっている精神傾向に拠れば形を整えること即ち『正式な史実の根拠となること』であり、正しく『正義の根拠たることなのである』が、婆さんたちにとっては異なる。
裁判長から先ず宣誓することを求められた鴉婆は「トラホームで目が見えないから読んでくれ」と要求。書記官に読まれた内容は『良心に従って真実を述べ、何事も包み隠さず、偽りを述べないことを誓います』であり正確に理解されたが婆さんは再び質問した。「誰に対して誓うのか?」についてであった。この問いに応えたのは裁判長であったが『誰に?』と訝しむような趣があり婆さんに揚げ足を取られた。鴉婆「誓うといえば昔から神様とか仏様とか」裁判長『良心に、あなたの良心に』鴉婆「ちょっとおかしい、その文句じゃ、良心に従って・・・誓いますって、従うものに誓うのは変だ」と反論される。裁判長『では言い換えます。裁判所、裁判所に向かって』鴉婆「さっき良心と言った。裁判所と良心は同じか?」裁判長『同じです』鴉婆「でもあなたの良心って言った。あなたの良心ていや私の良心、すると私の良心が裁判所か?」裁判長『いい加減にしなさい。宣誓拒否ですか』と畳みかけ『宣誓を拒否した者は五千円以下の罰金』と過料を科す。その後も二人の遣り取りで言語矛盾を犯したのは総て裁判長という大失態を冒す。これに対し齢を重ねた婆さんの問い詰めは総て極めて論理的で正鵠を射て居た為体制は体制を御していた根拠そのものである論理形式を破壊され喪った。この様にして為政者の権威は潰え、権力は単なる茶番と化した。体制を構成していた論拠を自らの失態によって喪失した権威者たちは今や何者でも無い。即ち無用の存在である。無用の者が意味ある機構を維持することはできない。裁判権そのものが裁判官から婆さんたちへ移行した。かくして廷吏らも権威を喪失した裁判官らからの命令が無い以上動くこともならない。こうして裁判権は婆さんたちの手に落ち次々と判決が下されてゆく。先ず最初に刑を言い渡され執行されたのは検事、裁判長の息子である。刑の執行方法は刺殺。罪状は傲慢にも婆たちの申し出を拒否したこと。裁判官及び刑執行人は鴉婆。この後裁判官は虎婆に変わり被告ら(書記官、判事ら)を統一裁判形式で審理。結審した罪状は人間としての義務を何もしなかったことで検事は鴉婆の孫青年A。刑の執行形式は撲殺である。執行官は居合わせた婆たち。当然婆たちの手、拳は血に塗れ血の匂いを放っている。然し此処まで深い反逆の根を持たぬ孫が、機動隊の何度目かのアナウンスを用い裁判所所長が談判を申し込んで受け入れられ第八法廷に入った際、彼の退去時に婆たちの阻止の手を阻み女性二人を含む所長を解放してしまった。人情に流され、血の匂いに迷って死刑は余りに酷だと判断した為である。
この機を逃さず残った人質は、官憲が踏み込んで来ないのは自分達人質に危害が及ぶことを恐れてであること。危害が及んだ場合、世論が黙っていないので襲撃してこない旨説明。従って人質を総て処刑してしまえば権力は忽ち反逆者を襲撃し全滅させることを主張して対抗しようとするが、そんなことで婆たちの怨恨が収まるハズも無い。また、青年Aが裁判長として振舞うに至った虎婆の許可も無く人質の女性二人及び談判に来た裁判所所長を敵方へ戻してしまった事に対する処遇も為されていなかった為、いつの間にか裁判長席に戻った鴉婆は次の被告として孫、青年Aを指名、婆が被告として指名した事情を説明した。然し乍ら彼には鴉婆の述べることの意味する処が理解できない。婆にとっては、この事実、自分を理解し得ないこと即ち自分ら婆さんたちへの裏切りと映る。刑は執行された。判決は死刑であった。執行者は実の祖母鴉婆。これを見た裁判長は、この期に及んでほざく。『な、何たることだ、肉親同士の癖に・・・尊属殺人は犯罪の中でも最も許すべからざる・・・』と。為政者の側についた新大衆の一人として杓子定規な説教なんぞ垂れていやがる。冗談じゃねえ! 虐げられた者達の愛は、捻れ捻れてこのように悲惨な結末に辿り着く他無い、という当たり前が、とんと分からねえ、すっとこどっこい奴! 烏婆さんがその懐剣を取り落としたことすら気付かねえ癖しやがって! この時、激高する裁判長に向かって弁護士が声を掛けた。『兄さん、落ち着いて』新大衆はその親族・眷属揃って新大衆たる敗戦国家中間層を為している訳である。こんな状況の中、青年Bがお婆たちの裁判を受けたいと言い出す。官憲からは最後通告が出ているが、虎婆が裁判長席に座り審判を始める。これも愛の審判であったが、一発の銃弾によって断ち切られた。青年Bは被弾して死んだ。結果、狙撃手らの手により人質1人を含め反抗者は総て殺害される。
ラストシーンは殺害された総ての反逆者達が立ち上がり銃に弾丸を込めて発射するシーンで終わる。死んだハズの者達が蘇って来るばかりではなく、反逆そのものである武器である銃に弾丸を込めて発射する不可解と映り易いこのラストは、単なる願望では無い。これは、無論問題になっていることの本質が、本来総てのニンゲン(生命)が平等であり当然の事ながら貧富の差や階級・階層、性差、人種、教育レベル、習俗、習慣、能力などによる差別、区別を受ける謂われも無く生存することが可能である、あったシステムが、簒奪や収奪により権力という無体な機構に従属させられたことに対する根底的反逆の意思であり、これは決して滅ぼすことなど出来ない民衆の思考だからである。
実演鑑賞
満足度★★★★★
今公演はWキャスト。拝見したのは楽日、かすてらチームである。
ネタバレBOX
物語は1945年敗戦迄あと僅かという時期の長崎での物語。この期に及んで未だ真珠湾攻撃で用いられたと同じ型の魚雷を学徒動員で造らされていた女子学生や教師、地区指導員らの日常と8月9日午前11時2分のファットマン投下時の模様を描く。ユニークなのは、戦時体制下の女子生徒たちの前に現れるのが不思議なモグラ姉弟であることだ。而もこのモグラの姉は1人の人間の女性徒に凄まじい復習の念を持っていることである。理由は、この女生徒に父母を殺されたことであったが、人間にはその記憶すらない。
女生徒たちは戦時教育をまともに受け止め、強制される価値観や道徳観、国家観や天皇を唯一の主権者とする大日本帝国憲法下で要求された社会規範を基本的には守り所謂優等生として生きる一派と、そんなことは本意でない、謂わばドイツのエーデルヴァイス海賊団運動に邁進していた若者のように一種アナーキーで人間としてより健全な「不良」グループ一派を形成する者ら、及びどちらにも属さない一般生徒に分れていた。この中でモグラの姉に呪われていたのは優等生グループの代表格の女子であった。彼女は所謂隠れキリシタンの末裔であるから宗派はカソリックの中でも最も厳格な宗派の一つであるジェズイット系、日本で人口に膾炙している言い方ではイエズス会系ということになる。このモグラの姉は神に祈ることでこの女生徒に復讐することを強く願うが結果として彼女のみならず長崎市民全員に大変な地獄を齎してしまった。モグラの姉はそこまでは望まなかったものの結果として原爆によって件の女生徒も被害を受け、多くの友を喪いこの後も苦しむことになる。その2人の会話の中で女生徒は自分が恨まれた訳を知り謝るが自分一人に復讐をして欲しかったと述べる。モグラもそうしたかったことが分かる答弁を返すものの幾らかは復讐を果たせたことによる安堵が無い訳でもない。何れにせよ、アインシュタインが導き出した以下の公式:E=MC²のEの項目に祈りの強度によるエネルギー発生があると仮定すると或いは相関関係が設定できるかも知れない。
ところでこの強制労働に駆り出された女生徒たちを見守る教師の態度が当時としては極めてユニークなものとして描かれているのも今作の特徴である。というのも「不良」グループを決してありきたりなレッテル貼りで区別せず、例えば‟モサ“(掏摸の隠語)に財布を掏られた中年女性に掏られた財布を取返し追い掛けて返してやる等の善行も為している子供たちの良い面も評価しているかのような態度で接している等。因みに掏られた状況は分からぬものの一般にモサは集団でことにあたり直接掏る者、シキテン(見張り)を切(す)る者、掏った獲物を受け取り別の仲間に受け渡す者等が徒党を組んで犯罪を犯すのが普通なのでリアルな発想で検証すれば、女生徒が盗まれた財布を取り戻し、持ち主に返すこと自体が可成り難易度の高いことであることは言を俟たないが、まあ、小さなこと。義侠心に溢れた健全な女学生のイメージを示すには効果的な挿話と捉えれば良かろう。被爆時のこの女性教師の態度も立派である。
何れにせよ少し頭の回る女生徒であれば、対米開戦で用いられたと同型魚雷をこの期に及んで製造させている大日本帝国の開発力の無さを忽ち見抜き、戦争は負けると確信を持って言うだけのことは出来る。何れにせよ被爆した無数の被害者の、世界で2度目の原爆攻撃による最後の姿を史実を踏まえキノコ雲の下で実際に起こっていたシーンとして再現する数々のシーンはリアリティーに富み、今作品の白眉でもある。会場からは、観客のすすり泣きや涙が鼻に流れすすり上げる音等が多く聞かれた。
また、効果音等は殆ど口ジャミで表現されていたこともユニークな上演形態であったが、敗戦間近の日本民衆の窮乏を示唆しているようでもあり、また日本政府の文化事業に対する熱意の無さ、無関心を示しているようでもあり、政治屋及び官僚の非文化性を如実に示してこれはこれで示唆的だ。
ところで、何故今原爆の話なのか? 根本的な問いが観客には問われていよう。今更言うまでもないが、ロシアによる戦術核使用の脅しと準備は着々と進んでおり、第三次世界大戦が始まるのではないか? との懸念は多くの民衆に共有されている。
実演鑑賞
満足度★★★★
名作戯曲上演シリーズと銘打った公演のうち、今回は小山内 薫作の「息子」を上演。演出は池田 純美さん。登場人物は火の番をしている老人に鈴木浩二さん、捕吏にシンセサイザーの演奏も手掛ける浅井星太郎さん、若い男・金次郎に森田隆義さんの3名。時は江戸、季節は冬。雪の降る寒い夜。華4つ☆
ネタバレBOX
板上やや下手には半畳程の畳が腰掛けの位置に据えられている。その畳の前に炭を埋けた火鉢。場面によって火の番と書かれた障子が火鉢の下手に置かれたり、上手に置かれたりする。上演開始前及び終演後舞台の上には降り注ぐ雪模様が映像及び雪籠を同時に用いて表現され背景に生演奏が入るので情感たっぷりだ。
ところで今作上演は可成り難易度が高い。というのも時代背景や幕府の無宿者対策は可成り酷いものであったから、その事情を知らずに観ても金次郎の運・不運に関する言い訳の意味する処を大方の観客は理解することができないであろうからである。まあ、本質を見抜く目を持っている者であればこの傾向は現在でも変わることが無かったようであることが明々白々ではあり、所謂お上は下々を支配するのが大好きと見え訳も分からぬエリート意識をかさに着て庶民に対して実に冷淡な態度を取り続けている事実を観れば自ずと知れる処ではあるが。
例えば渡世人の一宿一飯の恩義という言葉も戦国時代が終わり太平の世が来て尚人口の大部分を占めた農民の土地所有は長子相続に限られ他は渡世人になるか、職人になるかの選択が殆ど総てであった。而も無宿人に対する取り締まりは苛酷を極めたから季節や地方によっては一宿一飯はそれこそ大袈裟で無く命の存続に直接関わる大事で在り得たという状況が想像できる訳だ。今作の歴史的背景は一切語られていないから、小山内 薫が、私の想像する通りに状況を設定していたか否かは不明であるが、また金次郎は商人を目指して西へ行ったのであるから事情は異なるのかも知れないが、浪速商人と堺商人の質的差なども今作の背景に大きく関わっているかも知れない。何れにせよ、当時の世相、社会構造や制度を良く調べなければ、まともに今作を上演する為の準備すら難しい作品だとは感じる。而も良い役者というのは、先ず己をきちんと生きている者をいう。即ち自らを弁えている者であるということだ。これが中々難しいことなのだ。ソクラテス流に言えば汝自身を知る、という酷く難しい哲理である。これができて初めて役を演じても自然に見え、最も芝居で難しい間の取り方もまさしく自然な間として採ることができる。今回、火の番をしている老人と岡っ引き役のベテランお二人は流石にこれが出来ているが金次郎役はご本人の実年齢は兎も角、役の上では19の歳に江戸を発ち9年後に戻っている訳だから現在の満年齢で謂えば27歳。この年齢で己を知ることは至難の業である。この点間の取り方がやや不自然であったように思う。無論、沢山の嘘を吐いてもいる訳だから心理的な揺れも微妙に出さねばならず難しい役ではあるが、この点を克服できたなら更に良い作品になったと思われる。
以上自分の感じたことを述べたが、この劇団の凄さはこんなに難しい作品に果敢にチャレンジし僅かな瑕疵は在るにせよ作品の奥深さや小山内 薫が描きたかったことは、キチンと観客に伝えるだけの作品にしている点にある。
実演鑑賞
満足度★★★★★
観てホントに良かったと思える作品、華5つ☆! 若干説明を加えた(8.2)
ネタバレBOX
この素敵なタイトルはタロットカードの絵柄から来ている。自分自身は占いという一種の経験則を全く信じないとは言わないが、それが占い師の人生経験や経験則を基にした判断に過ぎないと考えるので神秘主義的な解釈は全く信じない。とはいうものの、とても素敵なタイトルではないか? 内容的にも無論、この素敵なタイトルを裏切らない。而も、今迄演出を中心に、脚本は脚本家が書いた物を主として上演してきた演出家・池田 智哉氏初の長編戯曲である。言葉と散々格闘してきたことが明らかな聡明な池田氏の書いた初の長編は、言葉そのものの鬩ぎ合いが実にヴィヴィッドに、而も一見人間としての基本が落剝したとしか思えない最近の日本社会の劣化状況に於いても有為な若者たちが紛れもなく存在し凌ぎを削っている現実を見せつけて希望の芽を見出さずには居られない。これだけ良い作品が出来上がっているのは無論偶然ではない。新宿の小さな小屋で数々の優れた作品を上演して来、その演出を手掛け、歌舞伎町という世界を代表する不夜城の一つを観てきた経験からの観察眼と優れた洞察力、観察対象からの適正な距離の取り方と対応を通して得た諸々の情報を分析・統合して判断する力、そしてそれを適格に言語化する力それら総てが相俟っての結果、設定が絶妙である。物語が展開する場も適切。因みに登場人物は総て女性である。
オープニングから暫くは、ホントにアホだよな! と呆れるようなアホな会話をするこのバーにやって来た客も登場する。が、近頃流行りのジェンダー論やハラスメントに関わる論議のうち今作で扱われるのは後者である。というのも今作に登場するのは総て女性だから直接的にはジェンダーの入り込む余地がないのだ。
掴みでは素人の占い師が、このバーで働く娘を占っている。この時に出て来たカードがタイトルにも用いられている死神、愚者、星であるが、タロットカードは正の位地から見る場合と逆の側から見るのとでは意味が反転する。そういったカードの持つ二面性をも極めて上手く織り込み、才能の弱肉強食の世界に生きる芸人やユーチューバーVS既存の社会体制の中である位置を占めて生きている女性たちとのギャップを今流行りのジェンダーとハラスメントのうち後者を軸に炙り出し、良くメディアで謂われる内向きの日本人達が作り出している現代日本の人間論をではなく、寧ろ未だに御家制度を内在化させたある程度裕福で実存と向き合わずに過ごすことが出来、一応御家制度内の人間として振舞っていれば人間として最低限必要なコミュニケイションの最低限迄欠落させても生きてゆける結果、一神教の世界では当然な神と対峙する人間存在としての実存を生きる必要が無い為、人間としての内実迄喪失した状態をも浮かび上がらせつつ(これが冒頭に出てくるアホな客であるが、このキャラの名誉の為に申し述べておくなら、現在彼女が身を置いているのは芸人の世界。然しこの世界に彼女が入ったきっかけは友人が勝手に彼女のプロフィールを書いて養成所に応募し試験も通ってしまったので同期とコンビを組むことになった、という経緯があった。然し養成所の先輩からコンビが売れないのは、この女性の所為だと詰られたのがきっかけで、相方は才能があるのに自分が足を引っ張っているせいで彼女を芸人として成功させることができない、と悩み、妙案も浮かばず頼ったのが占い。占いのペースは1か月に百件も占ってもらうレベルで肝心の稽古もすっぽかす有様。だが、それほど真剣に悩み自ら決めきれないことの中に御家制度が深く息づいているように思われる)そのような現状に対して、どのように対峙してゆけば良いのかの示唆迄与えている。前段でアホにしか見えないキャラとして登場するのが、この実存を剥奪され而もその事実に気付きもしない女性ということになる。自分自身はガキの頃から協調性に欠けるといつも通信簿に書かれ続けたキャラでもあるし、海外で暮らした経験もそれなりにあるので人間が実存として各々生きることが当たり前であるという価値観の上に立つから、己の生き様を己自身で決められないというのはアホにしか見えないのが取り敢えずの判断になる訳だ。とはいえ各々様々な人生があり、その人生を生きる他の術は無いから各々が自らの位地を占め尚且つより稔りのある人生にする為に力になるのは、矢張り他者とのコミュニケイションを於いてはあるまい。而も一神教の諸外国人に比し日本人の多くは最低限のコミュニケイションを紡ぐ方法を知らない者が多すぎるようには思う。今作はそのような日本の状況をあくまで個々の関りを通して浮かび上がらせているのみならず、その恐らく唯一有効な対処法を提示している。その点が素晴らしいのだ。
どの演者も良い味を出しているし、役を生きている。観て本当に良かったと思える作品である。