鴉よ、おれたちは弾丸をこめる 公演情報 劇団うつり座「鴉よ、おれたちは弾丸をこめる」の観てきた!クチコミとコメント

  • 実演鑑賞

    満足度★★★★★

     お待たせした。敗戦記念日にアップした。当初発表箇所も若干変えた処がある。

    ネタバレBOX


     言うまでもなく清水 邦夫の戯曲だが、一幕四場、初演は1971年10月、新宿アートシアター。当時の演出は蜷川 幸雄氏であった。今回の演出は篠本 賢一氏。学生運動が衰退後の世代である。板上は奥に裁判官席、上手壁際に被告用の椅子が並べられ、板観客席側センターには可成り大きな四角い板が置かれているが高さは殆ど無い。従ってほぼ素舞台に近い創りである。(注:序盤場転が多いが一部を除きいちいち場転とは記していない)
     オープニングでは1968、1969と繰り返しながらヘルメットを被り、タオルをメットのY字形の穴に通して投石している学生たちの姿、1968・1969と叫びながら高所から投石する学生たちの模様は、年代からいうと日大闘争からある意味バトンを受け継いだ安田砦をイメージした攻防であると解して良かろう。ライトが照らされているのは機動隊側からのものと判断した方が良い。その他機動隊の発するガナリ、騒音が入り混じる。
     場転、2人の若者が持っていた爆弾を浮かれ騒ぐショー会場に投擲、爆発させる。忽ち捕縛され裁判シーンに。若者たちは、当時流行りの口調でアジ演説さながらの革命的論議を吹っ掛けるが敵もさる者おいそれと同調はしない。それどころか体制の根拠たる形式或いは様式(裁判という形式を始めそこで機能する裁判長、書記官、判事、検事、弁護士等というキャラ)を執拗に用いつつ対峙し俄かに結論は出ない。
     そこに、奇妙な集団が登場する。総て婆さん。各々様々な特徴を持ち、古代神話に現れる神々のようにその特徴をその名として互いを呼び合い連帯している婆さんたちである。婆さんの代表格と言えるキャラが鴉婆、虎婆ら孫を持つ婆の他に何人かがいるが、中でも鴉婆、と呼ばれる婆さんの啖呵が粋である。「あたしたちゃ、人間の恥で黒く染まった鴉なんだよ。あたしたちのこころん中にゃ、人間の骨で削り、人間の骨で作った一本の笛が、いつも絹をつんざくように鳴り響いてるんだよ・・・」で始まる啖呵だがこの啖呵に含まれる言の葉の意味の深層こそ、今作の根であり、脚本家・清水 邦夫の主張であると捉えた。
     演出の篠本 賢一氏の演出の多くは当に本質に於いてその上演回限りの表現である演劇という総合芸術の裸形を活かす為に、関わる総ての者達の気をそのエネルギーが最大化して物質化を目指すような、張り詰め硬質化するような緊張感のある舞台作りをするケースが殆どだが、今作では清水の脚本を如何に生かすか? に力点を置いているように思えた。清水作品の清水脚本らしさが実によく出た舞台になっている。
     例えば如何にも詩の好きな清水 邦夫の作品らしくのっけから狂歌、川柳、俳句やらの如き五七五文型の短詩系オンパレード。二場のラストで遂にはアポリネールの傑作・❝ミラボー橋“のパロディー迄開陳される。
     場面変わって逮捕された学生2名。嫌疑はコンサート会場への爆弾の投擲・爆破である。第八法廷裁判長以下、書記官、判事らが各々の職務に従って作業に従事し、検事は被告人らの罪を上げ、弁護士は弁護の論陣を張って議論を戦わせている。
     其処へ闖入したのが捕縛された若者の祖母らと共闘する婆さんたち。各々極めて個性的且つパワフルな婆さんたちだが、彼女らは日本が大陸と離れて大陸との間に海を抱え島として独自の歴史を刻み始めた初期に在ったとされる原始の闇の初めからあらゆる権力及び機構にケツを捲ってきたと宣たまわぬばかりの猛者たちである。というのも女性の持つ妊娠機能で胎児が暮らす子宮内に満ちる羊水の成分はほぼ海水と等しい為か、比喩としても母と海が同質視される文化的伝統は広く世界に見られる。従って彼女たちの実年齢が幾つであるのかは関係ない。彼女らの論理に従えば1万年昔に在ったとされる太古の闇の恨みは、他の誰もが無いとは言えぬ以上(もっとあからさまに言えば脚本に書かれていない以上)、彼女らがそう宣えばそれが在ったとし、その身の内に抱えていると宣えば、それを認める他は無い。そしてその身を貫く恨みに苛まれながら新たな光を与えてくれる者を求めて生存し続けているのである。と言われればそれも認めざるを得ないのではないか? 一見、無茶苦茶な論である。
     然し今現在、そして今に通じるこの情けない人権無視の体制を営々と続ける不公平な支配構造を疑わないという発想自体が、体制に毒されて来た結果だとしたら? 毒されているかも知れないという発想そのものが予め予防されてきたとしたら? 取り敢えずはその辺り迄発想を広げる処からしか始まらないのではないか? 人間は見たいものしか意識上に挙げることは出来ない。開くことが出来ない視座なら先ずは自らで自らの目を切り裂くことから始めよう。この作品はこのような戦闘への招待である。
     反逆の原動力は現生を観れば分かるようにこの情けない世界状況。先ずは足元の我が国、日本の唾棄すべき為政者共への反逆を通して見つめよう。但し彼女らの反乱は体制を論理的に分析し批判的に解消するものでは無く仮借なき弾圧を加えてくる為政者そのものへの根本的治癒、即ち解体である。そして解体は多くの場合抹殺を意味する。
     ところで闖入した婆さんたちを相手に為政者サイドは先ずその本質たる形式(様式)を以て対抗しようとする。先ず裁判形式を整えようとするのだ。彼らの殆ど本能となっている精神傾向に拠れば形を整えること即ち『正式な史実の根拠となること』であり、正しく『正義の根拠たることなのである』が、婆さんたちにとっては異なる。
     裁判長から先ず宣誓することを求められた鴉婆は「トラホームで目が見えないから読んでくれ」と要求。書記官に読まれた内容は『良心に従って真実を述べ、何事も包み隠さず、偽りを述べないことを誓います』であり正確に理解されたが婆さんは再び質問した。「誰に対して誓うのか?」についてであった。この問いに応えたのは裁判長であったが『誰に?』と訝しむような趣があり婆さんに揚げ足を取られた。鴉婆「誓うといえば昔から神様とか仏様とか」裁判長『良心に、あなたの良心に』鴉婆「ちょっとおかしい、その文句じゃ、良心に従って・・・誓いますって、従うものに誓うのは変だ」と反論される。裁判長『では言い換えます。裁判所、裁判所に向かって』鴉婆「さっき良心と言った。裁判所と良心は同じか?」裁判長『同じです』鴉婆「でもあなたの良心って言った。あなたの良心ていや私の良心、すると私の良心が裁判所か?」裁判長『いい加減にしなさい。宣誓拒否ですか』と畳みかけ『宣誓を拒否した者は五千円以下の罰金』と過料を科す。その後も二人の遣り取りで言語矛盾を犯したのは総て裁判長という大失態を冒す。これに対し齢を重ねた婆さんの問い詰めは総て極めて論理的で正鵠を射て居た為体制は体制を御していた根拠そのものである論理形式を破壊され喪った。この様にして為政者の権威は潰え、権力は単なる茶番と化した。体制を構成していた論拠を自らの失態によって喪失した権威者たちは今や何者でも無い。即ち無用の存在である。無用の者が意味ある機構を維持することはできない。裁判権そのものが裁判官から婆さんたちへ移行した。かくして廷吏らも権威を喪失した裁判官らからの命令が無い以上動くこともならない。こうして裁判権は婆さんたちの手に落ち次々と判決が下されてゆく。先ず最初に刑を言い渡され執行されたのは検事、裁判長の息子である。刑の執行方法は刺殺。罪状は傲慢にも婆たちの申し出を拒否したこと。裁判官及び刑執行人は鴉婆。この後裁判官は虎婆に変わり被告ら(書記官、判事ら)を統一裁判形式で審理。結審した罪状は人間としての義務を何もしなかったことで検事は鴉婆の孫青年A。刑の執行形式は撲殺である。執行官は居合わせた婆たち。当然婆たちの手、拳は血に塗れ血の匂いを放っている。然し此処まで深い反逆の根を持たぬ孫が、機動隊の何度目かのアナウンスを用い裁判所所長が談判を申し込んで受け入れられ第八法廷に入った際、彼の退去時に婆たちの阻止の手を阻み女性二人を含む所長を解放してしまった。人情に流され、血の匂いに迷って死刑は余りに酷だと判断した為である。
     この機を逃さず残った人質は、官憲が踏み込んで来ないのは自分達人質に危害が及ぶことを恐れてであること。危害が及んだ場合、世論が黙っていないので襲撃してこない旨説明。従って人質を総て処刑してしまえば権力は忽ち反逆者を襲撃し全滅させることを主張して対抗しようとするが、そんなことで婆たちの怨恨が収まるハズも無い。また、青年Aが裁判長として振舞うに至った虎婆の許可も無く人質の女性二人及び談判に来た裁判所所長を敵方へ戻してしまった事に対する処遇も為されていなかった為、いつの間にか裁判長席に戻った鴉婆は次の被告として孫、青年Aを指名、婆が被告として指名した事情を説明した。然し乍ら彼には鴉婆の述べることの意味する処が理解できない。婆にとっては、この事実、自分を理解し得ないこと即ち自分ら婆さんたちへの裏切りと映る。刑は執行された。判決は死刑であった。執行者は実の祖母鴉婆。これを見た裁判長は、この期に及んでほざく。『な、何たることだ、肉親同士の癖に・・・尊属殺人は犯罪の中でも最も許すべからざる・・・』と。為政者の側についた新大衆の一人として杓子定規な説教なんぞ垂れていやがる。冗談じゃねえ! 虐げられた者達の愛は、捻れ捻れてこのように悲惨な結末に辿り着く他無い、という当たり前が、とんと分からねえ、すっとこどっこい奴! 烏婆さんがその懐剣を取り落としたことすら気付かねえ癖しやがって! この時、激高する裁判長に向かって弁護士が声を掛けた。『兄さん、落ち着いて』新大衆はその親族・眷属揃って新大衆たる敗戦国家中間層を為している訳である。こんな状況の中、青年Bがお婆たちの裁判を受けたいと言い出す。官憲からは最後通告が出ているが、虎婆が裁判長席に座り審判を始める。これも愛の審判であったが、一発の銃弾によって断ち切られた。青年Bは被弾して死んだ。結果、狙撃手らの手により人質1人を含め反抗者は総て殺害される。
     ラストシーンは殺害された総ての反逆者達が立ち上がり銃に弾丸を込めて発射するシーンで終わる。死んだハズの者達が蘇って来るばかりではなく、反逆そのものである武器である銃に弾丸を込めて発射する不可解と映り易いこのラストは、単なる願望では無い。これは、無論問題になっていることの本質が、本来総てのニンゲン(生命)が平等であり当然の事ながら貧富の差や階級・階層、性差、人種、教育レベル、習俗、習慣、能力などによる差別、区別を受ける謂われも無く生存することが可能である、あったシステムが、簒奪や収奪により権力という無体な機構に従属させられたことに対する根底的反逆の意思であり、これは決して滅ぼすことなど出来ない民衆の思考だからである。

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    2024/08/08 15:08

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