実演鑑賞
満足度★★★★★
dododo dodo dodonqdo gionn (追記2026.4.11)尺は約75分。お勧めである。
ネタバレBOX
オープニングは演奏の開始と同時にホリゾントに宇宙を思わせるイマージュとどどどどど、どどどど、どどどどどなどと表記された文字が躍る中、役者陣が登場、どどどどど、どどどど、どどどどどと発声、続いて「春と修羅」の序が朗読形式で綴られる。100年以上前にこんなに正確な宇宙のイマージュと我らヒトの裸形を言語化し得た賢治の天才に改めて驚嘆した。次に「雨ニモマケズ」寺山は欺瞞的と嘲笑した作品だが自分は寺山の持っていた歪が言わしめたことだと思っている。というのも賢治自身家業に対する複雑な感情を抱えていたこと、大学での専攻、旱魃や山崩れ、大水被害等の天災に襲われる度、我が娘を人買いに売らねばならぬ東北農民の厳しい生活を重々知っていたからである。次には結核で亡くなった賢治の才能の最も良き理解者であった妹・としへの痛切な詩「松の針」続いて「林の中の柴小屋に」「北いっぱいの星ぞらに」「小作調停官」等が続き賢治の生きた世界を示した後としの亡くなった瞬を詠んだ余りにも痛切な詩「永訣の朝」続いて「風がおもてで呼んでゐる」を挟んで「どんぐりと山猫」で滑稽な様を描いて観客を自分達が普段暮らしている俯瞰すれば喜劇の世界へ解き放っている。この間いつものようにシンセサイザーとギターの生演奏が入るが、今回は場面によってフルートの生演奏も入っているのが新鮮。役者陣の演技と相俟った朗読も質が高い。而も朗読作品群の選定及び上演順の工夫も極めて効果的だ。
実演鑑賞
満足度★★★★★
これは面白い。タイゼツベシミル。華5つ☆ 尺は95分。10年活動している劇団というが8作目。初の警察モノだという。
ネタバレBOX
板奥に段ボール箱を積み重ねた山が 二山。上手の山は下手の山より奥に在り前後にずらしてあるので下手の山の奥が袖の役割を果たす。場面によって上手の山の観客向きの部分がスクリーンとして用いられる。この段ボール山の手前に蓋の空いた段ボール箱が1つ。
下手観客席近くの側壁に沿って机と椅子が前後に並べられている。手前の机上には電気スタンドが載っている。
基本的設定ではこの空間は新宿警察署の資料保管室である。無論、場面によって街の張り込み場所になったり、演じられるプロットに相応しい空間になったりする。オープニングでは、作品解説に在る通り、新宿の街角で発砲音がしたとの通報が複数あり誰かが誰かを撃ったとの通報もあった為、現場に急遽駆け付けた所轄警察官らは現場捜索をしたが何ら怪しい物証も形跡も発見できなかった。と、雲を掴むような話から始まる。この後の展開が上手い。更にこの展開の中で所轄の刑事2人がこの事件を追い続けることになる。徐々に明らかになってゆく部分はあるものの肝心の犯人に辿り着くことはできず、犯人と関わった可能性のある参考人は中々見付からない。時効迄二月となった頃、雑誌等でこの事件が蒸し返された。事件の核心を掴み何とか解決に導きたいという念に駆られる人情厚く、正義感の強い刑事は、偶々事件当日逃げる犯人とぶつかって階段を転げ落ち半身不随になってしまった当時22歳だった女性にプレゼントを送ったり何かとケアしたりしていたから猶更であった。然し時効1か月前に現れたのは本庁の監察(警察の中の警察と称される部門)からやって来た監査官である。彼女は至急この段ボールの山の中から一月後に時効になる件の件についての書類を探していた。時間は無い。監察のルールではこの仕事は監察官である彼女独りで遂行せねばならない。然し膨大な量の書類を一人っきりで処理するのは難しい。結果、所轄刑事2人にも手伝って貰うことになった。この過程で世の中で実際に起こっている不条理な出来事や、組織と個々人の諸関係に在る普段隠されている諸問題やその隠蔽の不条理など、国民が常々感じている諸組織の嘘、嘘を糊塗する上書きの嘘・・・、圧殺され踏み潰されて粉微塵にされ人々の意識から抹殺された真実等々数え挙げればキリがないという嘘ッパチの上塗り構造はここでも健在だ。更に物語が進みラストでは謎に包まれていた事件の真相が露わになるが、このシーンでは現実と演劇創作との関係がメタモルフォーゼであるより、寧ろメタ化であるということ、少なくとも今作にとってはそうだと解釈したが、一旦メタ化され劇として表象されている脚本は一見した観客から不条理劇として観られることを拒否し更なるメタ化を目指していると捉えた。実に面白い。
実演鑑賞
満足度★★★★★
不思議な感覚を味わいたいムキには特にお勧め。尺は約2時間。
ネタバレBOX
VOGAはちょっと変わった表現集団である。結成は1997年12月、囲いや屋根の無いスペースでの野外公演を関西で上演してきたが2025年拠点を関東に移し現在に至っている。今回はBUoYでの公演だから屋外では無いがこの表現集団の境界という曖昧な領域を効果的に表現する意図であろう。屋内の照明は昏めに設定され奥行や天井高が意識できないような境界領域の雰囲気を濃厚に漂わせている。これはこの表現集団の作品創造コンセプトがまさしく“境界”にあることの現実的舞台表現に他なるまい。
例示すれば内側と外側、海と陸、空と海等々いくらでも例示できる何かと何かの間である。然し乍らこの境界領域をキチンと定義することはことほど左様に単純ではない。海と陸の間には潮の満ち引きがあるから時間軸によって海になる領域と陸になる領域とは異なるという日常見慣れた景色によってもこの事実は単純に事実として知っていよう。こんな具合なのである。
そして我々はこのように曖昧な領域で生きている。物語は海へ延びる岬と岬の奥にある森や大地に囲まれた港町に住む者達のケとハレ、若者同士の恋や生活等と同時に森の神への厚い信仰、自然に根差した地域産業(漁労や海産物加工等)や産婆以外には医療制度が存在しない暮らしなど自然の影響を受け易い状態をホリゾントに映写される島宇宙の映像や大正琴に似た音色を出す弦楽器によって紡ぎ出されたであろう音響、あくまで昏めの照明などの相乗効果によって醸し出された不思議な時空間の中に立ち現れた森の神の台詞「総ては震動している、一見硬く形を保っているように見える物も総てが震動している」という内容の台詞は恰も現代物理学の素粒子論の如きである。開演直後からずっと演じられていた身体パフォーマンスに合わせて繰り返し発語された文言の意味する処は物質の生々流転、変容などの仏教思想と現代物理学の論理とを重ね合わせたような感覚を呼び覚ますに充分である。此処にも境界が設定されているとみるべきであろう。動作は極めて美しくスタイリッシュだ。
こういった作品構造の中に2026年と40年後が一組の若い男女の恋愛譚兼或る重大事件の顛末として嵌入され、通常の物語に近いテイストを醸し出している。極めてユニークな作品である。
実演鑑賞
満足度★★★★
2回目の公演ということのようだが、脚本は中々しっかりしている。演技の上手い役者も2人いる。尺が60分の作品なのに開演が7分遅れた際何もエクスキューズが無かったのはちょっと気になった。
ネタバレBOX
劇団名には3つの意味が含まれているという。主宰者名、EDEN、DENの3つだ。今作のタイトルが漢字表記でなく、表音文字表記である理由も同様である。漢字で表現すれば回想、会葬、回送、海藻、階層等々かなり多くの解が得られよう。言い換えれば人生に必要な選択から逃げている発想だと断じることができる。まあ、それが可能なうちは繭に籠っているのも良かろう。何れ嫌でも選択せざるを得ぬ局面が現れる。この事実を脚本家が理解しているのは明らかである。ヒトという生き物が関係性の網目から決して逃れることができない存在である事実も。単にヒトのみならず総て存在は諸関係の中に在る。劇団名に端的に示されているようにその時迄のmoratorium或いは自死という解が待っている訳だが、今作はこの辺りの各登場人物の在り様をKAISOU行き及びTENBOU行きの列車の行き先で示している。その行く先は同名であっても個々人に定められた下車駅は各々たった1つしかない。車掌兼運転手によればこれらは総て運命で定められているのだという。それら個々の事例がオムニバス形式で展開する。尺は60分。
演出で気になったのは、小道具として用いられる吊革が、スマホに成ったり、数珠になったりと他の様々なアイテムになって用いられるのだが列車に乗車後、最初に吊革がスマホに変じる際、ちゃんと一旦吊革を隠し持つ役者がいる反面、ぼんゃり観客に晒したままの役者が居た点に演出家がダメだしをしていなかった模様が見て取れる。これはマイナス点だ。ラストシーンは解釈が分かれようが自分の解釈は、演劇セオリー通り、気の利いたものとした。
実演鑑賞
満足度★★★★★
メリハリの効いた脚本で、演技、演出もグー。お勧め!
ネタバレBOX
板上やや特異な舞台美術、多角的な台の上にこちらもペンタかヘクサの上物が載り、この上物は最下段の多角形の上部に載った人間が押して回転させることができる。中段の可動部分上部には4本の柱が建ち各柱の天辺から足元迄それぞれ1枚づつ布が取り付けられており、ある種の密閉空間にもなる。(照明の加減で海中になるなど)場面によって表される物は異なる。最下段の台は不動だが上手に箱馬が接するように置かれ、下手には階段等も設えられている。ホリゾントには矢張りブルーを基調とし濃淡を染め分けた布がホリゾント一杯に広がっている。
更に下手側壁に接する観客席側には小さな平台が側壁手前に立て掛けるように置かれている。何れの造作にも陽光によって変化する海面の色や深度により変化する海水の色を暗示するかのようなグラデーションが施されているのは、今作で大切な役割を果たす鯨が海生の知的哺乳類であることや我らヒトに進化するに至った最初の生命が海で生まれたこと等の意味が込められていよう。尺は休憩無しの約2時間。
脚本はメリハリの利いた極めてヴィヴィッドな創り。実際に在った事象を基に創作された作品だという。役者陣の演技も良い。而も主役・タモツを演じる役者が、タッパも在りマスクもグーというだけでなく存在感もある。良い役者だ。初の主演作ということだが今後を期待したい。また、タモツの実兄でAIの天才的技術者3つ年上のミナトはホメ―ロス以前最大のギリシャ詩人・オルペウスの如く動物の対話を信じ、IT技術を駆使してデータを集積、解析した後ヒトと自然との交感や対話を通して知の領域を変化させる希望を叶えようとしていた。このミナトの感性は当に天才詩人の感性と一致し夢見がち乍ら極めて本質的で持続可能な地球環境を実現する為の夢であった。ミナトの思考は、食物連鎖最上位のヒトという生き物の最上位生物としての責任を果たすものでもある。だが、弟タモツは神経の細い遠慮がちな兄とは正反対のリアリスト。そうならざるを得なかったのは天才に対する非天才の弟の本能的な対抗意識が深層の複合意識に影響されていたからだ。つまり現実生活を堅牢なものとする為にその有能性を活かすタイプであった。この兄弟の角逐が今作のメインストリームを為す。現実には兄弟2人が共同経営者として“キュンマッチ”という名のSNS会社を立ち上げた訳だが、会員が50万を超えた頃、癌で入院していた父の容態が更に悪化し失踪したミナトの死亡届を出したいと言い出した。悪い時には悪いことが重なる。ネット上でキュンマッチの悪評が流れると瞬く間にメディアの報道が追い掛け会員の離脱、社員の辞職が相次いで社は崩壊した。これが、前半で描かれるタモツが清掃会社でバイトをやることになったそもそもの原因である。そして、7年前失踪した兄に横領の疑いが掛けられていた。その内実や真実に迫るタモツと経理リンの調査から横領された金の用途と実現された結果、金の流れ等が描かれる。サブストリームではミナトとタモツの妹で看護婦のユカリと恋人で商社マンのタカシとの笑いを誘う交流譚、清掃会社のバイトカップルマコトとメグのお目出度等や、清掃会社を継がないか? とタモツに声掛けをする社長日暮の人間性等が描かれる。
大団円が如何様に紡がれるかは、観てのお愉しみだ。
実演鑑賞
満足度★★★★★
面白い、お勧め。
ネタバレBOX
舞台美術が極めてユニークだ。この小屋の太い柱は観劇の際かなり目障りになるのだがその難点をも上手く利用して脇にスロープを作って車椅子が楽に行き来できるようにしてある他、鏡を取り付けて必要なシーンで通常の用い方をするのみならず、対面での動きが反映することも巧みに利用できることを利用するので描かれている世界のどことなく不安定な感じもそれとなく映り込んで面白い。柱の足元からスペース中央方向にはベッドが置かれている。この部屋は渋谷道玄坂から百軒だな方向に入ったラブホ・マグリットの一室という設定で出捌け側壁の中ほどにある上半分にカーテンの掛かった扉の奥は隣室にもなれば、地域ラジオ放送のスタジオにも、或いはホテル外壁の外にもなる。太い柱の対角線上のコーナーに始点から延びたタクシーのハンドル(着脱可)があり座席用の椅子が適宜用意される。また先に述べておいたドアの観客席側には劇作家が仕事で用いる机と椅子、資料の入った箱も見える。
物語は集団の中に必ず存在する異質な存在達が紡ぎ出すアートという名の表現が出来する諸条件とその生き方を生成して来た個人史が齎した各々の個人史とその類似性及び差異、そのような個人史が紡ぎ出す作品の独自性と類似性、近縁性とこのような表現者を駒として用いることに因って利潤を追求する企業と経済性の論理がぶつかり合いヒートアップする様を描く。表現する者達が独自に抱える魂の闇と生い立ちの中で負わされた深い魂の傷。トラウマから生ずる作品こそ、表現そのものの源泉であるという事実。従って才能ある者とは、トラウマと闘っている人間であるという事実が、表現者を表現者たらしめるし、そのことだけが彼ら・彼女らに作者という地位を与えるのだから、表現する者達は、其処から逸脱することを精神的自殺と考える。然し、そのような人々を商品を生み出す手段としか捉えない資本家と企業は、飽くまで儲けだ。この相反する利害に係わる者達の凌ぎを削る争闘の模様を描く。
実演鑑賞
満足度★★★★★
基本的には三里塚闘争と同じだ。何時迄経っても日本という国は自らの民を大切にし得ない。矢鱈騒がれる熊の「害」も人間が彼らの棲み処を荒らした結果であり、対応の仕方も殺害が前面に出ている。もう少し知恵を絞ったらどうか? カナダのように。
ネタバレBOX
ト明天直前「強制執行を行います」のアナウンスと共にブルドーザーらしき音と共に建物が壊される音を伴い・・・、三里塚での思い出が即座に蘇って幕が開いた。このシーンに重なるように子供たちが歌う、村に伝わる伝承歌と共に下手手前で踊るシーンが輻輳的に演じられる。物語は実際に起こった高速道路建設で立ち退きを強制され、賛成派反対派が対立するよう仕向けられ村を出る者らが相次ぎ唯でさえ過疎傾向を示していた村の人口減少を理由に小学校、中学校(今作で描かれるのは小学校のみ)も廃止され遂には強制執行で故郷を失った歴史をベースに作られた作品である。
明転直後正面センターに広い濡れ縁を持つ農家の一室と蜜柑の木が浮かび上がる。場転で件の農家に人が訪ねてきた。母(美羽)と娘(拓未)で下手玄関の方から幾度も声を掛けている。返事が無いので正面に見える広い濡れ縁のある部屋の方へ回り込んだ美羽が更に声を上げると上手奥から、この家の妻(実果)が漸く出てくる。
この後、場転で出てくるのは学校帰りの子供たち、と子供たちにお握りを振舞うこの家の妻(野枝:実果・美羽の母、拓未の祖母)である。
可成り特殊な時系列で構成されているのが今作の特徴のようだ。我々の過ごす生活空間の中に流れる時間は、必ず不可逆だからこの点に気付くことが遅れると可成り分かり難い作品になろう。この後に続く物語の構成も時系列が幾度も組み替えられ輻輳してゆくのに、その度に服装が変わることは殆ど無いばかりではなく、化粧とて同様であるから視覚的に時系列を普段の生活同様に受け取ることが出来ない以上、その構造をキチンと腑分けし認識せねばならぬが観客の認識に合点がいく迄にコンマ何秒かタイムラグが生ずる。自分は基本、作品を観て初めて解釈するという観劇方法を採っているので予め当パンを読む率は0.08%程だ。観もしないで判断することを避ける為である。要は先入観で事象を歪めることを避けたいのだ。(帰宅してこの文章を書く為、当パンを開いてみたが時系列に関する説明などは載っていないから、他の観客もこの解釈には苦労したに違いない、上に挙げたような方法での示し方は時間的に無理である以上、映写文字で示す等の配慮は欲しい。
さて、物語は、この館に住みそれ迄の開発という仕事に疑問を感じ大手ゼネコンを自主退職し近所の山を買い農民となった夫婦(源爺とその妻野枝)が、この地に根を下ろし元々の村民と持ちつ持たれつの暮らしをするようになって地域に本当に溶け込み、子供たちから大変好かれ、当然子供たちの親からも好かれて、自然豊かで村に在る小さな神社の祭りと、催事、伝承が今なお残り旨い水にも恵まれ山からの渓流に蛍の舞うこの地を本当に愛していたが、7年前村の領域を双方から挟み込むように既に高速道路工事が為された為に山の一部が削られてしまった結果大雨の時に起きた山崩れで村人、村の子供が亡くなった。神社も崩れた山の土砂に流され完全崩壊の憂き目を見たのであった。その縁(よすが)を辛うじて残すのが、この物語の紡がれる広い濡れ縁の家、そして神社の神木であった初めの樹の種から育ったこのみかんの木だった。野枝の亡くなった12年前、その葬式にも表れなかった次女の美羽が娘を連れて訪れたのは十三回忌法要の為であった。初めの樹直系の種が根付き小さな芽をつけこのように木として成長するまでには人々の念とたゆまざる世話が必要であったのは、栽培の難しさもあった。然し木はこのように成長し、近いうちに実をつけると思われる。
時系列が輻輳する今作は以上で説明したように十年以上前の村の生活と反対闘争を始めて以降、子供たちも大きくなって各々が社会人となり在る者は役場に勤めて高速道路建設の為の折衝役を振られて交渉の直接担当者として子供の頃から世話になり恩のある最愛の妻を亡くした源爺と敵対的交渉の矢面に立たされて苦悩せざるを得ず、貧しい近隣農家の人々は切迫する経済事情から村を捨てることでしか生きてゆけぬ状況に追い込まれて苦汁の決断をせざるを得ない。一方、源爺は、上訴し続けても敗訴の確立は圧倒的に高いが、山崩れの理不尽や地域の人々がただ幸せに助け合いつつ暮らしてゆける豊かな自然を破壊して保証金を受け取り今迄縁もゆかりも無い地へ実質的には強制移住させられることが意味する処をキチンと診切って反対した住民が居たという事実を残す為に戦う。例え負けると分かっていても筋を通す。そんな“信”が描かれた作品だ。この源爺の念は孫で大学への推薦入学が決まっていたが、自分が本当にやりたいこと、やるべきことが何か分からず迷っていた祖母の十三回忌にこの地を訪れ、村民たちと祖父らとの軋みを直に体験したことでジャーナリストの道を自ら選びこの強制執行の有様を撮影に放映する道を選んだ。
実演鑑賞
満足度★★★★★
初日を拝見、食い入るように観た! 断固、観るべし!! 華5つ☆(追記、3.20 )先ずは観て貰いたい。
ネタバレBOX
先ずは履物を脱いで小屋入り。足が解放され気持ちがゆったりすると同時に直に床に接することで地球の深部へ身体が通じてゆく感覚に包まれる。板上、舞台美術は極めてシンプルだが、寄席の雰囲気が色濃く漂い、粋そのものである。ホリゾントには襖、襖の上部欄干には“無情迅速”と書かれた額が収まり、恰も時代と場を生きる人、またその哀れや滑稽、哀しみを道連れに生きる人々を、睥睨してでも居るかのようである。下手・上手の側壁には見出し(?)、下手客席側にはめくりが設えられ、板センターやや奥に平台。この平台は高座にもなれば引っ越しの多かった圓朝の屋敷の部屋にもなり、また息子、朝太郎の生母の部屋などになったりもする。基本的に物語に必要な場総てになるので場転での途切れが全くない。食い入るように観ている観客が集中力を削がれるなどという野暮が一切無いのがこの舞台美術の優れた特徴である。
無論、寄席にも化けるから観客席側の天井部分から黄・赤、黄・赤・・・の順に灯った提灯が下がり、時折噺に合わせる桂 小すみさんの素晴らしい三味の音がいやが上にも感興を添える。尺は途中10分の休憩を挟み2時間半強。
物語は江戸の粋を残しつつも、文明開化の波が押し寄せ幕末の安政期に結ばれた米英仏蘭露との不平等条約、清がアヘン戦争で被った重大な領土割譲・被植民地化を目の当たりにしての新国家建設を如何様に成し遂げるか? の難題を抱えつつ先ずは先進国の進んだ技術、社会のノウハウを入手し我が国の近代国家化をどのように成し遂げるか? との争闘の中で明治を迎えた直後の上野のお山での戦、更にその後には征韓論を巡っての内戦が近代国家に曲がりなりにも突進する大日本帝国の政治的状況であった。一方、都市庶民の多くは長屋で相も変らぬその日暮らし、難しい政治や国際情勢なんぞは爪の先程もわかりゃしねえ! そんなことより、今夜の飯は食えるか? 布団は未だあるか? ガキは元気でいるか? ねえねえ尽くしで明日もねえ! のは当たりめいてえ世界だ。下級氏族は慣れぬ商いに活路を見出そうとしたものの、客への応対に言葉の使え方、仕草のイロハすらわかっちゃいねえ、結果商いは失敗。不平旧氏族はあちこちで自由民権運動の活動家として活動した時期があったものの、喰っては行けず、その結果いいように資本家共の汚れ仕事でこき使われた。その勢力の末裔が現在の総会屋にも多い。総会屋の持つ力の源泉は彼らの先祖が握った過去の汚れ仕事の内実を事細かに知っていて、いつでもそれを持ち出して企業を脅せるからだとの話を聞いたことがある。現在迄その資料が有効か否かは知らぬが、基本的ノウハウは共通するであろうから現在でもこういった手合いが相場の裏で動いて居るのかも知れぬ。
By the way,今作は、こんな裏街道の話ではない。裏街道の話を少しだけ書いたのは朝太郎の生母・里が武士の子で、酒浸りのシーンが出てくるが、その背景は細かく描かれていなかったから、自分が今迄に聞き知った時代に適応できなかった士族出身者の事情を記したまでである。
今作の本筋は飽くまで落ち目であった名跡・三遊亭を再興した天才落語家、天才創作者、圓朝とその実子・朝太郎の親子関係を中核とし朝太郎の生母、里。義母、幸との確執、圓朝と付き合いの在った政治家井上 馨に落語という芸の持つ社会的意義を認めさせ社会的地位を向上させる算段に尽力したことや著名な山岡 鉄舟との哲学的交流で芸道に対する心得を真摯に語らい(無舌の舌について)、席亭との仲違いでは努力が実って27名もの真打を抱える名跡のトップとして儲けばかりに走る席亭との勝負に出た。即ち圓朝の矜持と芸に拘る姿勢VS寄席経営に重きを置く席亭との対立から対決へと至ったのであった。この争闘の結末以降の引退表明。引退以降の有様が描かれる。
一方余りに立派な父を持ち、生母・里からの愛情をその幼少期に充分受けることのできなかった朝太郎の、思い切り生母に甘えることができなかったことで心と魂に開いた空虚で底なしの穴は本人にも恐らく充分に意識しきれなかったであろう心と魂の深い傷を拵えていた。一方父圓朝も偉大であり続ける為に自ら選び取っていた自己を律する為の根底的思考の頑なさが、幼い子の柔らかな心と魂の揺らぎを見えなくさせ息子の魂の傷に気付かせなかった。更に天才の天才たる所以、悪に傾く息子を、その原因を深く探り解決することをではなくそのまま放置することで悪の及ぼす善への乱行・苦行を自らの表現という目的の為に本能的に利用する天才故の深い深い業として顕現させてしまう。芸というもの・ことが持つ非人間的な側面の苛烈な責め。恐らく圓朝はこのことを自らの魂の奥で問うことは無意識に避けていただろう。それが天才の宿命でもあり片端性でもあれば、創造力の源泉でもあったに違いない。天才故の悲劇だ。
天才の生涯は結構不幸なケースが多い。圓朝も華々しい活躍の影に不幸を抱えていた。晩年には血を分けた唯一の息子と絶縁せざるを得なかったからである。義母・幸との経緯、朝太郎が父から絶縁されるに至った経緯は観て確かめて欲しい。一筋縄では行かぬ親子という関係の深さ、念が沁みるであろう。
実演鑑賞
満足度★★★★
メインストリームは、波乱万丈。抒情性も高くグッとくるシーンが幾つもあって楽しめた。長尺(途中10分の休憩を挟み約145分)はちょっと長すぎるように感じた。メインストリームだけで充分良い作品になったと思う。
ネタバレBOX
伝説の桃娘の体液入りの飲料がオークションに一瓶だけ出品されたという。この小瓶が本物なら、それは以下の条件を満たしていることになる。
桃娘とは幼少時から桃だけを食べさせられて育った娘のことで、その身体から採られた体液(唾液などを含む)を呑むと身体壮健、果ては不死の力迄得るという。伝説に従い、香港の大富豪(王)が実際に一人っ子政策で遺棄された女児を引き取り自らの実験室で科学者らと共に研究を重ね、遂に伝承の桃娘を作り上げることに成功した。名をランという。
さて、無論物語は桃娘だけでは成立しない。他の登場人物たちは、五島列島南部の或る島に住む花火職人で気性は激しいがその激しさを内面に秘め、極めて真面目に仕事をし而も筋の良い若者(カナメ)であるが、才能の劣る兄弟子はそのコンプレックス故に少年院出の彼をことあるごとに前科者と罵り差別している。島の住人の殆ども前科者、と彼を差別し続けているが、親方だけは彼の才能と賢さ、純粋性と感性の鋭さ、優しさを認め一切の差別をしないので彼はこの島で生きていられる。然し、こんな生活も終わりを迎える時が来た。大学に入って島を離れていた親方の息子(ヤスイチ)が戻って来た時に、トンデモない借金を背負い、払えなければ契約書に記されている通りにこの島の港の漁業権を譲渡するよう取立人が乗り込んで来たのである。親方とて大金を肩代わりしてやれる財力は無い。すると取立人は借金返済の代わりに息子のできる2つの案件を提示した。1つは蟹漁に従事すること、もう1つは生きる為に障害を起こさない臓器を摘出したうえで伝説とされる桃娘を見つけ利権を漁る為の手立てを入手することであった。かくしてヤスイチとカナメは密航し香港に渡ることとなった。こちらがメインストリームである。
サブストリームはメインストリームが可成りシリアスな内容であることを踏まえ、これと対比させて相乗効果を生むように設計されたと思われるが、爺になってより深く、より醒めてしまった自分の視座からは、無用と思えた。余りにおチャラケて観えたからである。而もサブストリームを加えることで相乗効果を上げる為にはサブストリームがしっかりメインストリームに食い込んでいる必要があろう。これは戯曲家にとって可成り難易度の高いことであるが、それが出来ないのであれば割愛した方が良かったと感じる。科学的にも男女の成長過程に於ける差異が徐々に明らかになってきている現在、単なるジェンダー論やそれ以前のフェミニズム論だけで或いはもっと軟弱な男女論を下地にして描くのは如何か? と思う。
実演鑑賞
満足度★★★★★
驚嘆! 流石名取事務所、タイゼツ、ベシミル!! 華5つ☆。3月15日が楽日。尺は約115分。開演前に往時の説明が入るから早目に行くと良い。手話通訳も入る。
ネタバレBOX
名取事務所がこのような収容人数の劇場で上演するのを拝見したのは初であったが、驚嘆した。見事である。これ迄拝見して来た舞台も総て極めてグレードの高い作品群であったが、今回は脚本の素晴らしさのみならず演出、役者陣の演技と舞台美術、衣装、音響や照明、様々な仕掛けの効果、総てが実に見事に作品の深みや高みに収斂してゆく。
無論、その前提として実在した森 有礼と、その最初の妻・常及び千代(看護婦兼侍女)が女二人だけで何故今作の舞台となる築地にあった外国人居留地内の館に住んでいるのか? 鋭敏な観客にはこのような自問があったであろう。
鹿鳴館が建てられたのは1883年、その寿命は短く1894年には華族会館として払い下げられたと当パンに記されている。して、今作で描かれるのは1889年2月10日の夜、即ち明治憲法発布の前日という設定だ。この夜、岩倉具視の娘・寛子と1887年に再婚していた有礼が居留地の館を訪れるという設定になっている。そして、常との離婚に関する噂が広まり明日ある大変大切な行事に差し障りがあってはいけないから、執事の勝又以外の人間は決して通してはならぬ、と言い置き、自身はその行事に出席する為帰宅してしまった。
だが有礼退出後、しつこくドアを叩く音がした。入って来たのは以前親しくしていた男爵夫妻…。ところが・・・なのだ! ここから先クライマックスは観て確かめるベシ。
実演鑑賞
満足度★★★★★
観るべし! 華5つ☆ おっと、危うく書き忘れる処だった。自分の拝見した回では、2人が各々異なるシーンでギターの生演奏をしてくれたが、腕は確かだ。彼らのギターを生で味わう楽しみもある。
ネタバレBOX
タイトルの付け方が上手い。上演内容を見てそう思った。コンセプチュアルなレベルでも良く考えられている、という意味だ。出演者は2名。開演回によって尺の延びる回が多かろう。それだけ思考が観客との関係で深まるからである。自分の拝見した回は87分であった。(因みに予定では60分ほど)観客の様子がクリティックであるとか、何か新たなことをやってみろ! というようなアグレッシブなものであれば、より鋭角的な而も本質的な作品が成立し得る場を形成する上演である。舞台美術もユニークだから好みは分かれるかも知れぬが楽しめる人は楽しんで欲しい。紙飛行機も3機登場するが飛び方が各々異なる、その意味する処を考えるのも一興だ。無論、2人の登場人物が何を喋り、どんな行動を取ることによって真と偽というテーゼを料理するか? が最大の見所となろう。自分は、極めて論理的でありながら、えっ! と驚嘆し得るような形でそれを為した荒業を高く評価した。今後も楽しみな上演集団である。
実演鑑賞
満足度★★★★★
脚本が良い上に、演出、役者陣の演技もグー。特に山崎先生の台詞が凄い。観るべし!
ネタバレBOX
板上は夜間学校の教室。ホリゾントには下手に窓が2か所、上手に教室への出入り口、観客から観易いようにやや開かれた角度で伸びる教室正面の壁には緑板、その手前に教壇。この教壇とホリゾントの間に教師が用いることのできる机と椅子。対面に生徒用の机と椅子が整然と並んでいる。緑板対面の壁ホリゾント側にはもう1つの出入り口。センターには壁埋め込み型本棚が見える。尺は110分。
初演は2011年。自分は初演を拝見していないが15年経って居る分、随分変わった社会情勢や言葉遣い等も含めて現在に合わせて改稿されている部分はあろう。然し改稿された部分と初演上演版決定稿との間に在るハズのズレは全く感じさせない。内容が極めて本質的で全くブレが無い深みを湛えているからであることは容易に想像できる。設定が定時制というのもいい。定時制に通う人々の年齢は一般的に現実でも様々である。全日制の生徒と同年代の生徒もいれば親子程年の差がある場合も多いのは、生徒それぞれが抱えてきた人生に大きな差があり、困難や苦労が在って通学できない事情が在ったケースが多いからだ。ヒトは生まれ落ちた時点で例え同じ両親から生まれた兄弟姉妹であっても個性差を持っている。その生得的個性差に経験差が加わり、各々の位置の差が社会的にある中で育つことによって初めは小さかった差は拡大するのが開かれた社会では当然起こることだが、この自然の流れに棹刺すのが「国家」教育である。
今作では、担任教師山崎先生が生徒に接するに当たって取る対応が開かれた教育だとすれば、副担任を務める小林先生は「国家」教育の理念に縛られたタイプの教育、小林先生休職中代理で副担任を務める朝比奈先生は山崎先生寄りという感じだ。
生徒たちも様々である。元社長、引き籠り、ホスト、漁師、主婦、工場勤務、モブ、殺人犯等各々様々な事情を抱え実生活では何処にでも居る人、社会的弱者、排除対象者として一纏めに括られそうな人々である。そのように括られ、括られることで軽んじられて真っ当な対応を他人からして貰えないという傾向があるのが我々が日々過ごしている現実社会の姿である。今作は担任の山崎先生の態度が一見つっけんどんであり乍ら実に深く本質を突き、本質を突いているが故に具体的解決に達する道程が見え、問題を抱えていた本人は少なくとも燈明を持つことができるようになる。国家の強制する政策合致目的の次元の低い話では無い。それどころか、真に個々人を活性化させ可能性を増大させて結果的に真の富をも得る方途の基礎を築くのである。
描かれ方は、喜劇的に数々の擽りを入れ笑いを誘うシーンも鏤めつつ、優れた喜劇が本質的に持つ特質、悲劇を越えた悲劇を実は描いていると観た。
実演鑑賞
満足度★★★★
東中野にある梅若能楽堂での公演、30周年記念公演である。演奏が生で無かったのは残念だがそれでも能楽堂での上演は楽しい。(追記後送)華4つ☆
ネタバレBOX
上手いと思った点は、オープニングで往時の京の都の地理のあらましが朗読という音声に因ってヴィジュアルな要素に換骨奪胎されて観客に伝えられつつ、その流れの中で宮中である御所内部の細かい部屋割りに及んでいることだ。「源氏物語」は世界最古の現存物語として知られるのみならず、その質の高さと支配階層に現れる総ての心象を今現在も全く古びない形で定着した傑作として高く評価されている訳だが、其処で宮中に在った女人たちが望むことは帝の寵愛を受け男子を産むことが最大の願望であった。生まれた子が東宮となれば、その先は病等で亡くならない限り、母の行く末もその安泰は確約されたも同然であったからであり、この辺りの特権階級の暮らしぶりは、余暇を持ち得た人間総てが必ず体験するヒトの業との争闘を必然とし、その業との争闘が生み出し結果したもの・こととの争闘をもまた必然的に意味するからであり、業と結果の因果の央に自らの精神が引き裂かれる苦悩の行き来する場(帝の常在の場、寝所などや宮仕えをする女人各々の部屋等の配置)の詳細が語られるのだ。このように地理、屋敷の図面が知らされることにより、そこに流れる時間の境界を空間的に対峙させ時空間として提示している点が秀逸なのである。
実演鑑賞
満足度★★★★
板上は下手奥を高くして部屋を示し上手は板上を素直に利用して土間風に扱い上手側面の壁、観客席側に袖を設えて出捌けにも用いる。明治時代に建てられた古民家を利用した郷土資料館という設定だ。尺は80分弱。
ネタバレBOX
さて、この郷土資料館にはある言い伝えが在った。その言い伝えに因れば屋敷の床下には埋蔵金が隠されているというものであった。先々代の家長であった祖母(成瀬つや)は敗戦後の農地改革で落ちぶれ屋敷を売る他喫緊の生活を支える術さえままならぬ境遇に陥った為、先祖が遺した手記を根拠に屋敷の地下を堀り埋蔵金を見つけ出そうとしたが、家族の反対にあって実現しなかった。庭に在る樹齢500年とされる樹木迄切らねばならぬということに対する強い反発も大きかった。60年後孫に当たる成瀬はなが埋蔵金ハンターとしてこの成瀬家旧宅を訪れた。だが既に屋敷の権利は自治体に移譲されている。所有権を放棄しているハズのはながいきなり帰って来て埋蔵金を掘り出すと言い出したわけだ。この郷土資料館のある地域自治体に譲渡されて居る為、旧所有者の関与する余地が無いこと,またこの屋敷の埋蔵金についても既に祖母が敗戦後の農地改革で没落した為、埋蔵金掘り出しに関与したに違い無いと多くの者達が考えていたが、訪れたはなは信頼できるとする建築家と共に、屋敷の地所を掘り返そうと揉める。余りネタバレになってもなんだから内容説明は此処迄として、ラスト部分が極めて特徴的である。先ず、郷土資料館側に立った役者陣らが終演のお辞儀をして舞台を離れるが、ワンシーン後には女の子が木の名を問う、応えて曰く“エドヒガン”と入って幕であるのは、時間の経過と同時に郷土資料館として継続していることを暗示していよう。
実演鑑賞
満足度★★★★★
犯罪を犯すことになる者、被害者となる者とその家族。そしてこれらの人々を取り巻く社会。様々なことを考えさせる舞台。観るベシ!
ネタバレBOX
盤上は基本フラット。必要に応じ舞台美術がセットされる。オープニングは極めて曖昧に創られている。物語への導入に開演前から役者たちが板上に集まり、キャスティングをしたり、ジョークを飛ばしたりと、稽古中の出演者らの和気藹々な様子を置き、被害者家族の平凡で和やかだった家庭生活と等位であるかのように描いて、往時14歳だった少年が引き起こし、日本中を震撼させた酒鬼薔薇聖斗事件の犯人、少年Aを犯人モデルとして選び、今作では通り魔事件として描かれた今作のシリアスな内容に繋げてゆく。
結果的には殺害された少女(愛生/あおい10歳)は、物語の中核を為す家族の娘であった。両親、兄ら家族の苦悩と家族の受けた深い傷にお構いなく殺到するマスコミ、殺人犯出身校の校長、教頭ら学校関係者らのお詫び対応を通して謂わば硬い職に就いている人間の欺瞞・社会的アリバイ作りの厭らしさを端的に示している。事件勃発によって全く変わってしまった一家の日常に所轄の担当刑事らへの対応、頭骸骨を砕かれながら必死に生きようとする愛生の見せる生き抜くことそのものの姿、神経の磨り減るシリアスな状況を何とか両親が堪え得たのは、この愛生の頭蓋骨を砕かれ、顔も酷く腫れていたのを徐々に癒しながら生き抜く姿であった。心を痛めたのは無論、両親ばかりではなかった。妹を可愛がっていた兄も愛生の死後、犯人を憎む余り常態を逸してゆく。終盤は愛生の十三回忌。家族の負った傷は癒えてはいない。然し唯犯人を憎み続けるだけでは何も解決しないことに気付いた家族それぞれが、生き続けることそのものの大切さに気付き生きてゆく道を選ぶ処まで来ている。「車輪の下」でハンスを描いたヘッセの言葉が引用されたりもして感慨深い。
実演鑑賞
満足度★★★★★
板上センターに円形の白いカーペットを敷いてセンターを示し丸テーブルを置いてある。テーブル周りには椅子が4脚、観客から演技が見やすいように配置されている。コーナーの一角にスタンド式の衣文掛け。オープニング時点では白衣が掛けられている。精神科医療施設という設定だ。
ネタバレBOX
今作で扱われるのは1人の人間の中に幾つものキャラクターが存在する解離性同一性障害である。この病の多くは、子供の頃に受けた虐待や耐え難い苦痛・苦難によって、未だ親元から逃げて自立できないという環境下、難を避ける方図も無く深く魂を傷つけられた経験により身体のみならずその心、魂に深く抜き去りがたい傷を負った経験に因って発症するケースが多い。今作は、幼少時飛び降り自殺してしまった母の体がクッションになり奇蹟的に生き残った少女が、この時のショックで解離性同一性障害を発症し成人後は娘を産んで現在は娘に面倒を見て貰いながら生活を営んでいるという状況の中で起こった不可解な連続事件で5歳の男児が死亡していた件を巡り捜査一課の刑事たちが動き出し幾つかの証言からこの解離性同一性障害の女性を容疑者として追い始め、精神障害の疑いもある為件の病院に勤務する天才精神科医師とされるひかるに、捜査協力を求めたことで展開してゆく。無論、医師には患者情報に対する守秘義務があるが、警察には、犯人と思しき者に関する情報を市民に提供して貰う権利もある。このような事情からこの病院でも可能な限り警察に必要な情報を提供することが現実となった。
ところで、ひかるの天才性を示す場面は一場の取っ掛かりで描かれるが、シャーロック・ホームズシリーズの第一巻「緋色の研究」で有名な冒頭シーンそっくりな受け答えで少し鼻白んだ。無論、この点もひかるが警部に「殺人を犯している」旨指摘するシーンの解釈の仕方を上手く利用することで先に指摘した鼻白む印象は払拭された。流石に脚本化である。更に今作はホームズ以外の文学作品「源氏物語」に登場する光源氏ゆかりの女性が何人も登場する。無論、天才医師ひかるの名は光源氏に重ね合わされている。その為被疑者の多重な人格総てに源氏物語に登場する女人の性格が反映されている。源氏物語は読んでいて当たり前の書物だから誰しもその内容を可成り深く知っており、今作に深みを添えている。
但し、今作それだけでは終わらない。では、どのような展開を見せるのか? それは今作を観てのお愉しみだ。唯一つ指摘しておきたい点がある。今作で描かれる病院の院長の娘と婚約していたひかるは事件解決後、この病院を去ることになる。婚約者の妾腹の兄で副医院長を務めてきた医師が医院長に就任、ひかるは自分を捨てた母を探す旅に出る模様である。天才の抱えた自身の厳しい魂の傷が、彼の脱いで掛けた衣文掛けの白衣に憑依しているかのような感慨を齎すシーンは実に印象的である。
実演鑑賞
満足度★★★★★
一幕三場。途中2度の場転は初回5分、2度目3分弱。板上ホリゾントにスクリーン、その手前にカーテンを設けその何れもに映写可。上演に必要な舞台美術の多くは場の内容に応じ、その都度設定される。
ネタバレBOX
フィジカルなシーンとメタフィジカルなシーンを巧みに撚り遭わせ、偶々露出した氷河内で発見され大戦中の収容所に収監された極めて特殊な体質を持つ推定年齢16~7歳の少女に対する科学者たちの調査・実験を縦軸に、この収容所の所長である大尉の、状況総てを秤に掛けて見切り諸対応を決定、指示を出し所轄内を差配してゆく様を横軸に編んでゆく。尺は約90分。
自分が最も素晴らしいと感じたのは三場。敵が収容所を制圧する間際のシーンで、司令部からの指示を中尉が告げに来るシーンである。中尉は上官である大尉に横柄な態度で臨み、大尉はそれを許し司令部からの指示通り総ての責任をたった独り大尉だけが負う。それを侵入した敵の眼前で見せる為の芝居までうち、確たる現行犯の証拠として敵に見せつけ処刑される。この行為を通して残った総ての自国軍の部下たちの命を助けたのである。この三場のしょっぱな、大尉に助けられた部下たちが催す戦後の催しのシーンが描かれるが、元中尉は英雄として称えられている。だが真の英雄はたった独りで罪を負い残った部下たち総ての命をその知恵で救った大尉であったことが明らかに見て取れるメタフィジカルな行為は、物語の秘められた真として描かれていた点である。大尉を演じた役者さんの演技も素晴らしい。
実演鑑賞
満足度★★★★★
今作は2025年度、東京芸術大学卒業制作品である。
ネタバレBOX
演劇は書物や諸芸術が受け手を必要とし受け手に受容されて初めて完結するから、今回はキャンパス内にテントを設営、このテント内で上演する運びになっている。提示されるのは近未来のディストピアだ。オープニングで地球全球で起こった核戦争の経緯が伝えられる。実際に我々が体験してきたことに繋げてみれば、一時使える核兵器として新聞紙上でも騒がれた戦術核に関する記事が目についた。が、今作に登場するのは更に小型化された核兵器と考えられる。
としても核兵器の側に立てば条件の良い(天候など)であればそして被災者が十全な防御施設に護られて居なければ瞬時に数万の方々が命を落とす威力を持っていることは想像に難くない。使用する側は水爆等の被害に比べれば卑小と判断するのは目にみえており、そのように各国の責任者が考えてどんどん敵地を攻撃した結果、人類のみならず、地球上の殆どの生き物が命を絶たれた後の話として紡がれる。生き残った生き物と謂えど残留放射性核種からの被ばくを避けることは当然できないばかりではない。生きる為にはエネルギーを確保しなければならない生き物である我々は、食糧を得なければ生きてゆけないから役に立たない者、無用と見做される者達には一切食料を与えることができない。ではどうすれば核戦争後の自分達生き残りが、生きてゆけるか? もっとも明快な答えは1つ、余計者を抹消することである。今作では、未だこの世界に生き物が溢れていた時代には食料自給率は可成り高く、何か大きな自然災害や複合災害等が出来しない限り命を失うようなことは極めて稀であったが、描かれている世界では異なる。食べる物が無い、というのが日常だから役立たずや無用な者は処分される。処分する者らが感情を動かすことは一切無い。既に生き残る為の“愛”が定式化されて絶対的な支配力を各生き残りの思考の総てを縛っているからである。このようにして生き残ったこのコロニーは一説によれば既に1億年を経たと言われている。感情が失われて既に長い年月が経っているのである。そんなコロニーにも問題はある。教育システムが存在し学校がある。教師は極めて論理的であり、物知りである。放射性核種の多くは既にその悪影響を減衰していたが無論ウラン238のように半減期が45億年以上という核種も存在しているから被ばくの危険が皆無になったという訳ではない。また近親者同士の子孫は放射性核種の悪影響が仮に無くても奇形児等の出生率が高くなることは生物学上の常識である。こういった客観情勢がコロニー存続を絶え間なく脅かしていたことも事実なのであった。
一方、このコロニーには以下のような祖先神話が存在していた。現在の彼ら蟻は(大多数は彼女らだが)、彼らの祖は蜂であったというものである。ところが羽を失くした蜂が居た。その蜂は地上に降り地下深くに潜り巣を構築し、自らに似た翅の無い蜂即ち蟻として生きるようになったのだという。生殖は女王蟻となった個体と翅を持つ雄蟻とが交尾することで行われる。女王と交尾する、或いは交尾候補となった雄蟻以外の雄は総て処分されるのは既に述べた通りである。
処分する者達に感情は無いからごく機械的に命は奪われ殺害者達に何の痛みも無い。アウフヘーベンされ根本原理として機能する“愛”が普遍であると信じられている以上、この行為に疑義を感じる者は存在しないのである。然し乍ら近親者同士の交接は奇形を生み易い。つまり血が濃すぎると遺伝的にマイナスの結果を生じ易いという事実は避けられない。そこで授業に遅刻しそうになると何故か歌われる、そしてその歌詞に何となくウキウキさせられることの理由を探すうち、このコロニー以外の生き残りと関係を持たねばならない、という意見が生じた。だが度重なる核戦争を生き延びた者の絶対数は未だ少数であり、他の生き残り達が何処でどのように生きているのか? 正確に知る者は居ない。また、仮に生存者が居たとしても自分達と同じ蟻なのか? 或いは全く異なる生き物なのかも知ることができなかった。このような状況にも拘わらずコロニーの存続の為、血の更新は絶対達成せねばならぬ目標である。そこで取り敢えずは自分達のコロニーの近在各所に偵察隊を派遣して情報収集や、実際に見付かった場合は身柄の確保とコロニー参加者として協同することは不可欠となった。無論、若い個体であることが必要であり唯一、産む能力を持つ女王と交接できなければならない。今作では、そのような雄の個体が見付かり転校生としてコロニーに迎え入れられる。然し、コロニーの趨勢は今迄述べてきた通り。外界を一切知らなかった蟻達の前に現れ転校生として迎えられた生き物の正体が自分達と同じ生き物であるか否かという根本的問題に正解が出ている訳でもない。遅刻しそうになった時に体内の何処からか湧き上がる歌の意味する処も正解と思える答えであるか否か確定できない。五里霧中の状態でコロニーは如何様な展開を遂げるのか? また単体でコロニーに参加することとなった転校生のアイデンティティーは自任し得るのか? 等々の問題は未解決のままである。今作はこのような問いを孕んだディストピアSF演劇と観た。極めて面白い。
実演鑑賞
観客の評価は10点満点制なので会場でキチンと評価する時間は無かった。故にネタバレで評価させて頂いた。
ネタバレBOX
Bチームを拝見、尺は途中約10分の休憩、場転を挟み150分。出捌けは何れも下手、上手の袖から。
しょっぱなは:gabaco(学習院大学)の「おとしものにっき」
カノンは所謂秀才の典型例で大人たちの期待する価値観に対応する規則や生活習慣に縛られ唯々諾々とその範囲内に人生を測り正解と言われる解答を出し続けて同世代を牽引してゆくタイプだが切りの良い処で切り上げて後は、自分の人生設計に従って生きることを選ぶ。
今作で評価すべきは、そのような秀才に振り回された者の言い分がキチンと表現されている点である。毀誉褒貶様々な立場が在り得る中、置いてきぼりを喰わされたことに対する無念や拍子抜けに対するやり場のない怒りが表明されるシーン、やや時を経て、カノンと行動を共にしたことによって失っていた友を取り戻し、人生を豊かにしてくれたことに対する感謝も湧いてき、その喜びも示されて後、カノン自身の後日譚が添えられる。見事。観客の評価は10点満点制なので会場でキチンと評価する時間は無かった為、ここで評価させて頂く。(gabaco作品評価9点)
2作目:ミムガム(横浜国立大学)「ミ☆ツ」
タイトルの☆マークには、観客の好きな文字を入れれば良いのだろう。自分は音引きを入れることにした。
物語は都会ではなく地方の高速道路とJRしか走っていないような場所で紡がれる。そこに存在するコンビニで出会い、付かず離れず人間関係の希薄を生きる人々の日常を描く。彼らにとって大切なのは責任を問わない・問われない恰も互いに薄い空気同士ででもあるかのような希薄で無責任な生。而も恒常的な日常に偶然点在している如きかそけき人間関係である。演じている若者達が通う横国のキャンパスを思い浮かべると米軍基地界隈の、米軍基地が在る故の殺伐とした空気が心身を包む。{作品に描かれる人間関係は覇気が無く情けないが、米軍基地特有の事情を思う。この覇気の無さを上手く描いている点で(ミ☆ツの作品評価は8点)}
3作目:極光グミ(エキシビジョン公演)「世界征服ちゃん」
エキシビジョン公演なので詳細は後送、評価も一応点数化するが後程。
実演鑑賞
満足度★★★★★
まだ残席もあるそうである、是非観ておきたい作品だ。
ティーム“森”初日を拝見。
板上、センター中心を軸に対照的に置かれた湯舟が2つ。上手側壁前には飲料用ポットなどの置かれた家具、収納家具が見え、対面の壁前には掃除道具等の置かれた収納具が在る。精神を病んだ者達を収容する施設である。無論、現実には四囲を檻に囲まれているが、舞台では手前の檻だけ取り去られている。ホリゾント手前の檻の奥には大きな丸く柔らかな素材で作られた椅子が置かれ、矢張り球形のオブジェが空間に吊るされているのが見える。このスペースは空想癖のあるポルフの生み出すファンタスティックなイリュージョンを視覚化する際等に用いられて大きな効果を発揮している。原作自体は極私的に「精神を病んだ」とされる2人の女性を主人公に彼女らが正常とされる社会から受けている評価、受けてきた評価、そして収容されるに至った経緯等が序盤で示され、結果と収容されて以降を時系列にほぼ従う形で表現してゆく。尺は間に10分間の休憩を挟んで約135分。
開演前にはビートルズの曲がインストルメンタルな形で流され今作に向き合うことになる観客の心を和ませてゆく。舞台美術は基本的に安定感があり、親和性も高く良いセンスだ。前回公演より遥かに観客の心に訴える時宜を得た演出になっているのは、今回も演出を担当している森下 知香さんの作品読み込みが更に深化、進化したせいであろう。音響、照明のセンスの良さも抜群である。
板上、終始照明は昏め。これは親族・眷属や世間からドルフとポルフがどのように見られ、どのような評価に晒されているかを暗示していると解することができよう。実際、当代流行りのジェンダー論争でも最弱とされる女性2人の半世紀にも及ぶ収容所生活は、強く観客の心を撃つ。(追記2.7 )
ネタバレBOX
今作の原作者はシャーレット・ジョーンズ。1924年当時、実際にイギリスで行われていた触法的精神異常患者と見做されて施設収容・監禁されていた「患者(女性の割合が非常に高かった)」の歴史的事実を基に制作された作品であり、ラストシーンでは1974年が描かれている。因みに最初にレビュで書いたボルフはペルセポネー・ベイカー。ドルフはドーラ・キッドソンである。前者は妻子ある男との間に望まれぬ子を産み社会不適格者として触法とされ、法的に断罪される形で件の施設に入所させられた。そして出会ったのが葉巻を吸い男性的な行動を取るとして異常視された後者・ドルフであった。因みにヨーロッパで女性の社会的地位が一般的に向上したのは人権意識で先進的な動きをみせている北欧でさえ確か1960年代に入ってからだったと記憶している。“陽の沈まぬ国”ともてはやされ紳士の国と評されるイギリスの三枚舌外交は余りにも有名だし、現在でも余りに大きな禍根や現実的戦時体制を敷かざるを得ない国々や地域の多くにイギリスが宗主国として或いは委任統治者として関与し、独立後或いはその後の歴史的推移を見れば解決不能な禍根を齎してきた事実を振り返らざるを得ないが、その罪の重さは誰にも明らかである。{要は、表面(おもてつら)は紳士だの陽の沈まぬ国だのと恰好をつけているが、内実は嘘のつき放題で他国、他地域の弱者に総ての付けを回す姑息極まる手法である}
閑話休題、本題に戻ろう。触法的精神異常患者とされた人々の多くが女性であったと記した。そのようであったのは当に女性が弱者であったからだろう。そして強さが支配する我らの現実社会では、常に強者によって作り出された社会的問題や人間にとってのマイナス要素は常に弱者に拠って贖われる。弱者は彼ら・彼女ら自身の意図的欲求に拠って贖うのでは無論無い。強制的に贖わされるのである。そしてこの弱者に拠る贖いの事実を所謂中間層は無視するのが常である。このように無理無体な贖いを負わされる場面の、今作に描かれた苦悩例を1つだけ挙げておく。ドーラが自ら尖頭術を行おうと、その為に必要だと思われる器具を入手していたが、夢見がちでドリス・デイの大ファンであるポルフがその器具をどこかへ置き換えた為、自ら施術しようとしているのに見付からない! といきり立つシーンがある。ここで言われている尖頭術が実際何を意味するか? は明らかであろう。キューブリックの「時計仕掛けのオレンジ」やフォアマンの「カッコーの巣の上で」で映画化されたからこの作品で描かれた時代にはロボトミー手術を指していることは直ぐ気づく。
因みにドリス・デイの映画上での華々しさも、彼女の実人生とを比較するなら・・・。実に多くの宿題を我がこととして考えさせてくれる作品である。