「テヘランでロリータを読む」 公演情報 「テヘランでロリータを読む」」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 4.2
1-20件 / 21件中
  • 20130127
    (^・ェ・^)拝見しました

  • 満足度★★★★

    演劇でしか、なしえない空間
    小説の世界とは違って、もう一つの『テヘランでロリータを読む』の世界が立ち上がっていました。女性がイランに暮らすことの葛藤をメインに物語る良作。衣装のセンスも良かったです。

  • 満足度★★★

    面白いとは感じたが
    ラストまできて面白いと感じたが思ったが、頭の回転が悪かったのか、セリフがあまり入ってこなかった。(照明が暗めなのも響いたか?)ちょっと残念な事をした。

  • 満足度★★★★

    シンプル
    四方から観る舞台に慣れてなかったせいか初めは違和感がありましたが、シンプルな舞台を活かした演出でぐいぐい物語に引き込まれあっという間の2時間でした。役者さんが皆素敵。

  • 満足度★★★★

    四方に囲まれたなかに…‥
    シンプルなステージだったのですが、そこには確かにテヘランとロリータの本の世界が広がっていました。宗教的に厳しい世界の中にも自由を求めてる人々がいたことに単純に嬉しく思いました。

  • 満足度★★★★

    ペルシャか
    光と影の使い方が心に残った。舞台を四方からか組むスタイルでその形態へ特別なものではないが、なぜか不思議と惹かれるものがあった。うまく表現できないが
    北千住は遠いところだと思ったが、上野から10分弱。食事をして帰ったが、11時すぎには帰宅できた。

  • 観てきた!
    1/24

  • 満足度★★★★

    情報過多な時代だからこそ
    日本でもきっと同じようなこと…あったと思う。鎖国と宗教。規制の強制。女子vs男子。それから兄弟:夫婦:親戚…。それぞれの想い、関係。四角い空間の中よく描かれていました。衣装もちょっとした工夫とかあって解読の補助になっていました。

  • リアルか、ファンタジーか。
    個人的には、この世に存在するものをめちゃくちゃ大雑把に分けたらこの二つになると思う。実体験する事で自身の感情を伴って肌で感じるリアルと、そこに達しないファンタジー。別に伝説の剣を手に魔王を倒しに行かなくても、魔法少女になるか選択を迫られなくても、自身の経験や価値観で腑に落とす事が出来なかったら例え史実であってもファンタジー。時代劇でも当時の風潮や知識が分からないまま観て自分の感覚に置き換えられなかったらあっち側の遠い世界の話にしか思えなくなる訳で、だから共感出来るポイントを世界観ではなく人間模様から受け取れる様に、現代人でも共感出来る分かりやすい勧善懲悪の悪巧みを絶ったり人助けをしたり儚い恋の物語を盛り込んだりする訳で。人間の遣り取りや感情の部分で通じるリアルが見出せる。
    という前提の下、さてこのテヘロリはどちらだったのか。時間堂の過去演目では「三人姉妹」が今回に近い様に感じた。その土地で生活をする事によって守るべき風潮や国策や流れがあって、逸脱しない様にある種の閉塞感に見舞われながら生きていく人々。その心境を受け取る事が出来ればこれはリアルで、よく知らない国のよく知らない人達の話と思ってしまえばファンタジー。それこそ見えざる重圧を感じながら観たとすれば、ダークファンタジーの様相を呈する。ほぼ無宗教の観念で生きる日本人でも、この演目からは宗教的観念を感じるだろうと思う。それは衣装や台詞に紛れた語群からの影響だけではなく、「自分が知らない作法・戒厳の中で生きる人々」の姿があったから。これを、どう受け取るかが鍵。先述の通り、この環境を自分の知らない世界とだけ思ってしまえばファンタジー。でももっと気を楽に「校則からハミ出た学校生活を夢見た事ってあるよね」とか「田舎もしくは都会で自然と生まれたローカルルールや地域性で面倒な目を見る事ってあるよね」まで落とし込めれば、実は凄く身近な話として観る事が出来る。そうなると各人物の発言や意図がリアルに共感出来る。
    とかコメントすると、じゃああなたはそのリアル目線で観てたんですねって思われるでしょうけど、自分にとってはかなり終盤になるまでファンタジーでした。それこそ序盤は何か壁の様なものさえ感じた。それはあの舞台構造の影響もあるし、ざっくり言えば自分自身の心身の状態もあったと思う。自分が疲れてる時はちょっと余裕がなくなって他人への思い遣りや配慮が欠けちゃう時があるじゃないですか。それと一緒で、観劇日の自分の状態ではこのテヘロリのイランという国に生きる人々の心境に近付くには余裕が足りてなかった気がする。近付こうとしたのだけど、物凄く疲れて何かを消耗した実感がある。誤解されない様に断言しておくと、詰まらなかったからではない。むしろ充分に詰まった色なんなものを受け取るにはこっちの余地が足りてなかったという事です。要は登場人物に対して「そういう人もいるよね」って受け入れが出来るだけの余裕。それこそ実生活で自分と何かが違う人に対して「そういう人もいるよね」って思えるかどうかと一緒。「演劇なんだからそういう人もいるって思い込ませる演技や表現をしろよ」って意見もあるのかもしれないけど、時間堂は凄く普通なのでその辺は決して押し付けて来ない。押し付けて来ないから、こちらの許容量次第で観たい様に観られる余白があえてあるし、虚構を必死に作り上げてる感もない。目の前で人間が存在していてそこで呼吸をしている事実をただただ感じさせてくれる。それもまたリアル。

    ネタバレBOX

    囲み芝居だっていうのもネタバレだと思うんですけどね。演劇を見慣れない人がそんな舞台だと知らずに劇場に行ったら戸惑うかもしれないと考えれば教えてあげたほうが優しいかもしれないし、でも囲まれる事で閉塞感とか色んな視点の在り方とかを出そうとしているんだなって演出意図も含めてその場で初めて体験・思考したい人にとっては伏せといてよって感じなんですよね。とか考えるのも面倒になってきたのでもう観劇前に「観てきた!」を観ない様にしてます。CoRich自体は何も悪くないので、使い手側の気遣いがもうちょっと欲しいかもな。自分自身、過去のコメントでネタバレっぽい事も書き込んだ経験を自戒した上での希望ですねー。年を取って当時の自分が若かったと思う様になったとです。
    演目についてに戻ります。カーテンの件、あそこ好きだったんですけど、なんだか飛び出して感じた。どうも言いた過ぎな発言な気がして。アフタートークによってその部分は第一稿でまずそこだけ書かれていたというのを知って、恐らくそのバランスのせいかなと。書きたい台詞だったから大事になり過ぎている。マーナーにとっては確かに気持ちの入る台詞ではあるのだけど、それにしても入り過ぎたというか。単に自分の演技の好みと違ったのかもしれないけど。でも如何に人間をその場に存在させるかが巧みな時間堂の演出からすると、作者の想いがこもり過ぎてる台詞って意味が強すぎるのかも。むしろ何でもなさそうな台詞なのに人間味や温度を感じるっていうのが時間堂の良さだと個人的には認識しているので。脚本の文字の並びの良さよりも、役者と演出を観たい団体。作者の想いがこもり過ぎてる台詞であっても上手く調整して演出する事は出来たろうけど、結果的に今回表出したあの部分は好きじゃなかったかも。
    特に誰も指摘してないっぽいけど、ロリータを代わる代わるサングラスで複数の女優が演じたのって観客にはそのシステムがどれだけ伝わってたんだろう? 過去にそういう演出を観ていればこれもそうだって何となく察するけど、演劇を見慣れない人はどうなのか。それこそCoRichを知らないくらいのライトウォッチャーには理解出来ていたのか。演劇を提供するにあたって何から何まで全部理解出来なくてもいいと思うけど、あの部分が伝わらないとただやりたいからやってみたテクニカルに寄った演出だと捉われて損してしまう気がした。
  • 満足度★★★★★

    素晴らしかったです。
    冒頭のタイトルコールまでの「声」にゾクゾクしました。暗く広い空間の中で役者さん達の声が驚くほど美しく心地よく体に滑りこんで来る。黒いベールに身を包んだ女性達のように発する情報が制御されるかと思いきや、舞台からこちらが受けとる情報の多さに驚きながら観てしまいました。原西さんの変態と紳士が同居した魅力も相まって、実にセクシーな感覚に包まれた芝居。役者さん達の力はもちろん、あのような統制の取れた演技を役者さんたちにさせることが出来る世莉さんの演出力・役者を育てる力にも感動。人間の発する力にただただ震えて、目を見張っている間に長いはずの2時間が過ぎました。

    ネタバレBOX

    シンプルな照明、セット・音楽のない素舞台で。役者さんの力を見せつけられて、演劇の原点を見た思いです。やはり演劇は人間の力が全て。それ以上でもそれ以下でもない。余計なものを削ぎ落として、ここまでの力をつけて初めて演劇が始まるのだと思いました。

    観終わっての帰り道、ロリータを読みたくなりました。今この時代の日本に生きる私はどのようにロリータを読むのだろう。そして10年後20年後は同じ書をどう読むのだろう、どのような人生を歩むのだろう。厳しい時代に隠れてロリータを読んだ女性たちのその後の人生に思いを馳せると、その余韻は痛く切なく暫くこの胸に留まるだろうと思わされると共に、時間堂という劇団の演劇への・そして人間への崇高な思いを強く感じさせられる素晴らしい舞台でした。
  • 満足度★★★★

    テヘっ、分かラン
    素舞台らしい素舞台だと思いました。

    ネタバレBOX

    時代によって本の読み方が変わる、確かにそう思いました。特にイランでは、1995年のテヘラン、1977年のテヘラン、2013年のテヘラン、体制の違いによってより顕著なのでしょう。

    黒いチャドルの彼女たちを見て、何の違和感もなく、イランだったらそんなものだろうと思って観ていました。それが、現在はカラーのスカーフで髪の毛が見えてもいいとは…、驚きました。1995年のイランと現在のイランを混同してはいけないということです。

    カラーのスカーフが許される国もあれば、許されない国もあるのでしょう。放送大学で高橋先生の番組を時々見ますが身につかないものです。ああ、イスラムを百葉一絡げで考えてはいけないとつくづく思いました。

    自分の家族が変なセミナーに通いだしたら嫌だし、見守る男たちは複雑です。

    彼女たちのほとんどは国外に脱出してしまい、ここに登場しない大多数のイラン国民の意向で少なくともスカーフはカラーになったわけだとすると、こいつらの果たした役割は何なんだ、テヘっ、よう分かランでした。
  • 満足度★★★

    声の存在感
    1995年のイランのテヘランでプライベートな読書会で『ロリータ』を読む女性達を描いた小説『テヘランでロリータを読む』を舞台化した作品で、洗練された演出によって声の魅力が引き立てられていたのが印象的でした。

    舞台上には登場しない「先生」と共に行われる読書会を通して宗教・文化・社会・女性の生き方について議論する様子に『ロリータ』の場面が重ね合わされながら展開し、抑圧された女性達の思いが伝わって来ました。
    床置きの照明器具で境界を定められたアクティングエリアを客席が4方から囲み、1冊の本とサングラス以外には小道具も、椅子やテーブル等の家具も用いず、音響も全く使用しないという物理的には簡素な設えでしたが、役者達の演技によって様々なシーンの情景が浮かび上がっていたのが良かったです。

    丁寧に作り込まれた脚本・演出・演技ではあったものの、馴染みのない文化圏の話だったせいか、物語の世界に入り込みにくく感じ、110分の上演時間が少し長く感じました。

    キーワードを解説した資料や人物相関図が用意されていて、開演前には黒澤世莉さんがイランに行った話もしていて、観客に楽しんでもらおうとするホスピタリティーを感じました。

  • 満足度★★★★★

    意欲作、完成度も高い。
    まず登場するメンバーの声の美しさに感動した。しかもひとりひとりが美しいだけでなく、全体の調和が見事だった。

    シンプルななかによく訓練されていることがわかる良質の作品だった。

  • 満足度★★★★★

    時間堂「テヘランでロリータを読む」観ました
     舞台上に、姿の見えないキーパーソン(原作における一人称の語り手)と、自在に動き回る架空の人物(作中で読まれる小説の登場人物)の対比。さらに、劇中の実在の人物たちと、小説のもうひとりの架空の人物がかぶさる見せ方の妙。 彼らを軸やガイドに繰り広げられる、宗教・体制・性差・欲求に絡め取られた多彩な人間模様の群像劇。
     顕微鏡で覗いたように切り取られ出てくる場面場面が、映画やTVドラマのように観客の中で紡がれる。
     劇中で読まれる小説「ロリータ」の読み方は、人それぞれで違う。人の尊厳、自立への考え方の違い。その上で同じ世界に生きることとは。世界への読解力の違う人間同士の相互理解は、どこまで可能なのか。
     同日に観た、東京デスロック「東京ノート」と共通するテーマを感じました。
     観終わった後は、まるで海外ドラマをまとめて観たような、もたれた感覚が(笑)

  • 満足度★★★★★

    「抑圧」の部屋から、「(隣の)青い芝生」が見える「窓」を開ける
    オノマリコさんの戯曲が素晴らしい。
    それを具現化した黒澤世莉さんの演出も見事。
    もちろん役者さんたちもいい。

    オノマリコさん × 黒澤世莉さん の生み出す作品って本当に素晴らしい。

    ネタバレBOX

    最初から、革命後のイランはイヤだなー、とだけ思って観ていた。
    もちろん、この舞台以前から、イランではこんな大変なことが起こっているとニュース等で報道されていたこともある。

    先生と週の終わりの木曜日に読書会をしている彼女たちは、「目に見える抑圧」を受けている。

    彼女たちは、「先生」によって巧みにチョイスされた「外国文学」で、「知って」しまったのだ。
    自分たちが「抑圧されている」ことや、「敵」が誰なのか、そして「(自分たちの欲している)理想」「自由」がどこにあるのかを。
    活字の中にある、西洋=自由。

    先生は、「外国文学」を「隣の青い芝生」の見える「窓」にしてしまった。
    窓からは明るくて煌めく青い芝生が見える。そこには「抑圧」はない。
    そして窓から振り返り、自分のいる場所を改めて見ると、暗く陰湿で陰のある部屋しか見えない。

    「先生」は罪作りだ。
    彼女たちに「目に見える敵」と「目に見える理想」を気づかせてしまった。刺激的な『ロリータ』という書物を、野球の「ピンボール」のごとく、彼女たち意識の近くに放ってきたのだ。
    彼女たちへの効果は抜群で、ロリータに自分たちを見出すだけでなく、「こんな内容の書物が許される世界があるのだ」ということも同じに知ることになる。

    知ることで、自分が不幸であることも知ってしまった。

    この舞台で「先生」の役はいない。
    いない先生を取り囲む女性たち。
    この作品が素晴らしいのは、こうしたセンスだ。

    先生が彼女たちを読書によって導いている様が、「ガイド」しているようになってしまっては、彼女たちが自分たちの頭で考え、発言し、行動しようとしたことが薄れてしまうからだ。

    「自分の不幸を知る」ことで、「希望」が生まれ、「未来」が生まれていくのも事実だ。ただし、そのためには「強い意思」が必要ではないか。
    彼女たちの多くはそれを持ち、ある者は命がけで外国へ行く選択をする。

    その時点で彼女たちにとっては先生は「不在」となる。先生とのかかわりの中から、自分の「意思」を知ってしまったからだろう。

    「知る不幸」は「知らない不幸」よりも何百倍もいい。
    知ってしまったことへの苦悩を伴うとしても。
    と、つい簡単に書いてしまうが、彼女たちが受ける苦悩は精神的はもちろん身体的な苦痛を伴う。生命の危険さえ伴う過酷なものだ。
    それを乗り越えてまでも「何かをしたい」「どこかに行きたい」、つまり、「自分を取り戻したい」という気持ちを強く感じる。その欲求は強く、意思も強い。

    彼女たちにそれを感じた。
    ただ1人自らオールドミスと言っていたマフシードも、自分が強く信じるモノがある。

    先に書いたように、小説『ロリータ』のロリータに彼女たちは知らず知らずのうちに、自分を重ねていく。
    舞台の中では、ロリータを彼女たちが演じることで、それを表現し、さらにロリータの中の登場人物ハンバート・ハンバートが彼女たちを悩ます。
    ハンバート・ハンバートが、彼女たちを悩ます、あらゆる「陰」となる。ハンバートがイラン革命だったり、為政者だったりするわけで、それに人生を奪われたロリータが彼女たちだ、というのだ。
    読書会の彼女たちが、読む書物の中に重なり、交錯していく戯曲が見事だ。本当にスリリングで面白い。

    そして、彼女たちは被害者として存在する、ロリータのことからしかモノが見えていないことが露わになる。それは彼女たちがロリータだからだ。この構図は、舞台の中でも、男性が彼女たちに「自分は違う」「男性も悩んでいる」と主張しても理解を得られないことに似ている。

    「男」は「抑圧している側」の象徴でもあり、彼女たちにとって、常にハンバート・ハンバート(側)であるからだ。「ベール」「化粧しない」等々の理由が男性側にあるということもあろうし、男女の「感覚の違い」というのは、簡単には理解し合えるものではないということもあろう。

    で、そして、ふと思った。「今ここで、この公演が上演される意義は?」。いや、そういう大上段に構えたソレでなくて、なんか心が動くな、と思うところがあったからだ。

    それは「何」だったのだろうか。

    世の中には、政治であったり、差別であったり、格差であったりの、「抑圧」が存在している。
    しかし、「抑圧」は、そういった「目に見える」ものだけではない。
    「目に見えない抑圧」もある。
    したがって、「他人に理解されない抑圧」もある。

    つまり、「テヘランであったことは世界のどこにでもある」のではないか、ということ。

    「抑圧されている」ということを、自分のせいにして、つまり、「悪」を自分の中に見つけ、それを悔やみ、嫌悪することで閉じていく人もある。

    だから「外に敵を作れ」「目に見える敵を作れ」とは言わない。
    彼女たちから「学ぶ」とすれば、それは、痛みも伴うこともあるということを理解した上で、「自分で考え、行動する」ことであろう。

    そういう、少し脇道に逸れた見方もあるのではないか、と、彼女たちの強さに、感じた。

    彼女たちの中には、外国に渡った者もいる。
    「自由」と「理想」に近づいた彼女たちの、「次の敵」は何だったのだろうか。
    だぶん「見えない敵」にも遭遇したのではないだろうか。
    それは自分で見つけることができたのだろうか。それにも「強い意思で対処していけたのであろうか」。
    そんなことが気になった。

    シンプルな舞台なのに、シンプルであるとか簡素であるとは感じなかった。
    役者たちの絡ませ方がうまいからだろう。
    台詞に無駄がなく、そのときの感情を見事に表現しているように響く。

    2時間近い舞台なのに、最初から最後まで引き込まれた(お尻は痛くなったけど・笑・クッションぐらい欲しいところだ)。

    四方を観客で囲む舞台だったが、どの場所で観たとしても、まったくストレスはなかったと思う。
    ライティングを含め、役者の動かし方がうまい。

    ちょっとずらして折ったフライヤーなどのアートワークもいい。
    受付、客入れも丁寧。

    また、兄弟や夫婦、肉親の関係を、衣装の色で見せるというのは、なかなか面白いと思った。
    ロリータがサングラスを頭に、とかハンバートのみがダークスーツで革靴というのも。
    さらにニーマを除き、イランの男性が全員ヒゲを蓄えていた。
    黒澤さんはもの凄いヒゲ面だった(笑)。
    公演の直前に実際にテヘランに行ったということだが、それがどれぐらい公演に反映されたのか、は知りたかった。



    蛇足ながら、ミニシアター1010には初めて行った。
    家からは遠いのだが、いい会場だ。思ったよりも広さがあるし、トイレもちゃんとしていて、駅に直結。
    終演後であっても、1つ下の階で食事もできる。
    エスニックな公演の後、中村屋でカレーを食べた。美味しかった。
  • 満足度★★★★

    奥深く、細かい
    人間のあれこれ。110分と比較的長いお芝居だけど一人一人にスポットが当たって、それぞれにドラマがあって飽きなかった。それがすごく奥深く、細かく描かれていたので共感ができた。それでいて「テヘランでロリータをよむ」というタイトルに相応しい世界観も出ていたので流石だなと思いました。役者さんも、言葉を大切にしていて伝わるものが大きかった。観に行くことをお勧めできる舞台。

  • 満足度★★★★

    共感と虚しさと。
    四方から囲む形の演出。
    音響のない110分は、見応えがあり、聞き取りやすいせりふで構成されていた。
    また、ストーリー上重要なある人物が登場しない、という劇構造も、とても興味深かった。

    ネタバレBOX

    男尊女卑というか、女性差別というか、そういったものを男性と語る難しさを感じたことが、実体験としてあるが、その体験を想起させられた。

    自分が不満を感じているその話題を、まともな議論の俎上にのせられる時点で、その相手は自分が想定している対立する論者ではない、のだけれど。
    しかしその相手は完全に自分の味方をしてくれるわけではない。
    そののれんに腕押し感のある虚しさ、悔しさ、やるせなさに共感した。

    程度の違いはあれ、現代日本にも通ずる、女性の問題もあったと思う。

    ただ、イスラム教そのものに理解が薄い日本で、観客の「イスラム教とはこういうもの」(例:男尊女卑、人権侵害、文化抑圧、等々)という固定観念が強化されないかが、少しだけ気になった。
  • 満足度★★★★

    「テヘランでロリータを読む」
    すっごく面白かった!四方を客席が囲む何もない舞台で、俳優が滑らかに連携し火花散らす。自由度高いが感情まかせにならず、言葉を確実に伝えてくれた。人の声を聴く時間でもあった。約1時間50分。

    ネタバレBOX

    大学、道端、家など、舞台がめまぐるしく変化しても、音や美術なしで問題なく伝わる演出。1995年のイラン人男女だけでなく、実在しない登場人物(ハンバート・ハンバート、ロリータ)が出てくるのもとても面白い。オノマリコさんの戯曲は「旧体…」も良かったけど、今作もすばらしいですね。
  • 満足度★★★

    ロリータ
    開演前と終演後の、ステージに映るちょうちょの灯りがキレイ。受け入れ体勢もいい。チラシのスタイルや、タイトルのペルシャ文字な感じは好き。

    ネタバレBOX

    イスラムなテヘラン。「先生」と呼ばれる人が少女らを集めて、教えに背く「ロリータ」とかを読む「木曜日のクラス」を行っている…。

    イスラムの若い女性の閉塞した感情と宗教観の衝突が見もの。女性だけでなく男性の鬱憤も含まれているとこがミソ。

    日本より極端に制限のかかったイスラム世界に生きる「若い女性」の叫びが聞き取りにくかった。想像が及ばなかったというか、外から眺めてしまったというか。マーナー(阿波屋鮎美)が、派手なアージーン(平佐喜子)に嫉妬するとことかは、スッと受け入れられるけども。
    神を信じる信じないってマフシード(ヒザイミズキ)が興奮するシーンも、心で理解できないというか、精神的な隔たりが大きくて受け止め方に困った。

    HH(ハンバートハンバート)は、HHであり、検事であり、空想であり、女性らの心を揺らす存在であるけども、「ロリータ」は彼女らにとってのなんなのだろうか。「逃げ出す」ということの象徴として、信仰の対象のようなものだったのかろうかしら。
  • 満足度★★★★★

    無題591(13-016)

    13:00の回(快晴、やや風)。ということで北千住へ(初めて)来ました。時間堂は「廃墟」からで3作目。「ということで」というのは、一昨日、オノマさんの公演をみていて(@COREDO)、「旧体」に続いて「オノマさん+黒澤さん」の2作目ということです。初めての場所は迷うのではないかと思い、いつも早めに来て場所の確認とぶらり商店街をしています。今回、北千住マルイと分かりやすい場所...店内をみながら11Fまで上がってみても会場らしい気配がない。チラシも看板もなにもないので「?」、しかたがないので店内を眺めて時間つぶし、12:20頃戻ると案内のスタッフがいらして奥の受付の方へ、12:30受付開場。正方形の舞台を囲むように四方に客席(前後2列)、入って右の席にしました。会場は黒...椅子も黒。チラシと一緒に「よくわかる紙」というのがあり予習してみる。用語説集のようなもので、なぜか「プログレッシブ・ロック」という項目がありました。読むと黒澤さんは「イエス」がお好き...とありますが、どの時期でしょう「Close to the Edge」か「90125」なのか...(ちなみに私は5大プログレバンドの来日公演に行ったことがあるのでした、再結成含むですけど)。

    12:59前説(黒澤さん 110分)、13:05開演~14:57終演、PPT15:04~15:28。

    此処(自分が歩く範囲)ではない場所を扱った内容はなかなか歯ごたえがあり、落ち着かせるのに少し時間が必要。終演後、過去のDVDと台本を購入。
    あとで追記します

    ネタバレBOX

    「旧体」を縮めたような舞台、役者が集まり、散じ、焦点がひとり、ひとりと移ろう。

    「ヴェール」の着用がよく雰囲気を出している。

    舞台(四辺)の外に役者さんたちは控える。

    BGMはなく、セリフと息遣い、足音、衣擦れ、それと照明。

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