「テヘランでロリータを読む」 公演情報 時間堂「「テヘランでロリータを読む」」の観てきた!クチコミとコメント

  • リアルか、ファンタジーか。
    個人的には、この世に存在するものをめちゃくちゃ大雑把に分けたらこの二つになると思う。実体験する事で自身の感情を伴って肌で感じるリアルと、そこに達しないファンタジー。別に伝説の剣を手に魔王を倒しに行かなくても、魔法少女になるか選択を迫られなくても、自身の経験や価値観で腑に落とす事が出来なかったら例え史実であってもファンタジー。時代劇でも当時の風潮や知識が分からないまま観て自分の感覚に置き換えられなかったらあっち側の遠い世界の話にしか思えなくなる訳で、だから共感出来るポイントを世界観ではなく人間模様から受け取れる様に、現代人でも共感出来る分かりやすい勧善懲悪の悪巧みを絶ったり人助けをしたり儚い恋の物語を盛り込んだりする訳で。人間の遣り取りや感情の部分で通じるリアルが見出せる。
    という前提の下、さてこのテヘロリはどちらだったのか。時間堂の過去演目では「三人姉妹」が今回に近い様に感じた。その土地で生活をする事によって守るべき風潮や国策や流れがあって、逸脱しない様にある種の閉塞感に見舞われながら生きていく人々。その心境を受け取る事が出来ればこれはリアルで、よく知らない国のよく知らない人達の話と思ってしまえばファンタジー。それこそ見えざる重圧を感じながら観たとすれば、ダークファンタジーの様相を呈する。ほぼ無宗教の観念で生きる日本人でも、この演目からは宗教的観念を感じるだろうと思う。それは衣装や台詞に紛れた語群からの影響だけではなく、「自分が知らない作法・戒厳の中で生きる人々」の姿があったから。これを、どう受け取るかが鍵。先述の通り、この環境を自分の知らない世界とだけ思ってしまえばファンタジー。でももっと気を楽に「校則からハミ出た学校生活を夢見た事ってあるよね」とか「田舎もしくは都会で自然と生まれたローカルルールや地域性で面倒な目を見る事ってあるよね」まで落とし込めれば、実は凄く身近な話として観る事が出来る。そうなると各人物の発言や意図がリアルに共感出来る。
    とかコメントすると、じゃああなたはそのリアル目線で観てたんですねって思われるでしょうけど、自分にとってはかなり終盤になるまでファンタジーでした。それこそ序盤は何か壁の様なものさえ感じた。それはあの舞台構造の影響もあるし、ざっくり言えば自分自身の心身の状態もあったと思う。自分が疲れてる時はちょっと余裕がなくなって他人への思い遣りや配慮が欠けちゃう時があるじゃないですか。それと一緒で、観劇日の自分の状態ではこのテヘロリのイランという国に生きる人々の心境に近付くには余裕が足りてなかった気がする。近付こうとしたのだけど、物凄く疲れて何かを消耗した実感がある。誤解されない様に断言しておくと、詰まらなかったからではない。むしろ充分に詰まった色なんなものを受け取るにはこっちの余地が足りてなかったという事です。要は登場人物に対して「そういう人もいるよね」って受け入れが出来るだけの余裕。それこそ実生活で自分と何かが違う人に対して「そういう人もいるよね」って思えるかどうかと一緒。「演劇なんだからそういう人もいるって思い込ませる演技や表現をしろよ」って意見もあるのかもしれないけど、時間堂は凄く普通なのでその辺は決して押し付けて来ない。押し付けて来ないから、こちらの許容量次第で観たい様に観られる余白があえてあるし、虚構を必死に作り上げてる感もない。目の前で人間が存在していてそこで呼吸をしている事実をただただ感じさせてくれる。それもまたリアル。

    ネタバレBOX

    囲み芝居だっていうのもネタバレだと思うんですけどね。演劇を見慣れない人がそんな舞台だと知らずに劇場に行ったら戸惑うかもしれないと考えれば教えてあげたほうが優しいかもしれないし、でも囲まれる事で閉塞感とか色んな視点の在り方とかを出そうとしているんだなって演出意図も含めてその場で初めて体験・思考したい人にとっては伏せといてよって感じなんですよね。とか考えるのも面倒になってきたのでもう観劇前に「観てきた!」を観ない様にしてます。CoRich自体は何も悪くないので、使い手側の気遣いがもうちょっと欲しいかもな。自分自身、過去のコメントでネタバレっぽい事も書き込んだ経験を自戒した上での希望ですねー。年を取って当時の自分が若かったと思う様になったとです。
    演目についてに戻ります。カーテンの件、あそこ好きだったんですけど、なんだか飛び出して感じた。どうも言いた過ぎな発言な気がして。アフタートークによってその部分は第一稿でまずそこだけ書かれていたというのを知って、恐らくそのバランスのせいかなと。書きたい台詞だったから大事になり過ぎている。マーナーにとっては確かに気持ちの入る台詞ではあるのだけど、それにしても入り過ぎたというか。単に自分の演技の好みと違ったのかもしれないけど。でも如何に人間をその場に存在させるかが巧みな時間堂の演出からすると、作者の想いがこもり過ぎてる台詞って意味が強すぎるのかも。むしろ何でもなさそうな台詞なのに人間味や温度を感じるっていうのが時間堂の良さだと個人的には認識しているので。脚本の文字の並びの良さよりも、役者と演出を観たい団体。作者の想いがこもり過ぎてる台詞であっても上手く調整して演出する事は出来たろうけど、結果的に今回表出したあの部分は好きじゃなかったかも。
    特に誰も指摘してないっぽいけど、ロリータを代わる代わるサングラスで複数の女優が演じたのって観客にはそのシステムがどれだけ伝わってたんだろう? 過去にそういう演出を観ていればこれもそうだって何となく察するけど、演劇を見慣れない人はどうなのか。それこそCoRichを知らないくらいのライトウォッチャーには理解出来ていたのか。演劇を提供するにあたって何から何まで全部理解出来なくてもいいと思うけど、あの部分が伝わらないとただやりたいからやってみたテクニカルに寄った演出だと捉われて損してしまう気がした。

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    2013/01/27 12:49

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