パール食堂のマリア 公演情報 パール食堂のマリア」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 4.3
21-40件 / 45件中
  • 満足度★★★★

    美しく切ない
    星のホールは、行く度に「どんな舞台を見せてくれるのだろう?」と期待してしまう。
    今回も期待を裏切らない素敵な舞台でした。
    ただ、話が進むに連れて、綺麗過ぎるというか、綺麗な所だけ切り取ったように感じて・・・。

  • 満足度★★★★

    セリフにドキドキ
    物語の展開とかではなく、セリフそのものにドキドキさせられる事って普段なかなか無いのですが、『パール食堂のマリア』では1つの作品内で何度かドキドキさせて頂いたのが印象的。開演前の吉田小夏さんの前説の時点から「言葉を大事にされる人だな、劇団さんだな」っていうのが良く伝わってきました。

  • 満足度★★★★

    観客の事を良く考えている。
    まず、パイプ椅子に座布団が敷いてあり、膝掛けまで準備しているとの事。
    大変好感が持てます。長時間椅子に座るのは、やはり厳しいもの。

    さて、お芝居ですが、まず劇場空間に圧巻。
    次に役者の方の実力とでも言うのか空間のおかげなのか分からないが、まるでその場所(物語)に自分もいるかの様な錯覚。
    人物の内面が丁寧に表現されており、良かった。
    何も考えずにゆっくり観られる、そんな感じのお芝居でした。
    時代設定は昭和との事ですが、その時代の雰囲気が出ており、良かった。

  • 満足度★★★★

    「いのち」の連鎖
    会場で配布されていた「作者の言葉」に、この作品への意図の一端が
    垣間見えるような気がしました。 「親」から「子」へ、またさらに「その子」へ。

    いつしかその場所から建物や独特の「匂い」「雰囲気」のようなものが
    消えてなくなってしまっても、「人」を介して「記憶」は受け継がれていく。
    横浜の街角の片隅にひっそり在るパール食堂が、その連鎖の一部に
    あるような、そんなささやかだけど、広がりのある作品でした。

    ネタバレBOX

    「生命が幾多の場所を経て、再び回帰する」というのは、
    ままごと『わが星』にテーマが近いですね。後半特に
    ファンタジックな展開になっていくところも含めて。

    ただ、決定的に違う部分も、あります。

    「女性であることの哀しみ」「喜び」「温かさ」。全部観ることが
    出来たけど、中でも「哀しみ」を強く感じました。何だろう、
    心の中に深い悲しみを密かに沈めていても、それだけじゃない。

    そういう「人間臭さ」を感じました。 吉田氏の筆致は、説明過剰に
    ならずに、地に足のついた「人間の姿」があるのが魅力だと思います。
    作者の願望に陥っていない、そこが素晴らしいです。

    結構重い背景を、登場人物達が抱えていながらもそれを
    中和するような美しい演出、特に照明を使ったものが素敵で
    まるで、「一時代に起こった夢の話」を聞かされているような
    気持ちでした。 

    あの、時間軸、そして場所まで表現する照明は本当に凄い。
    舞台の幻想性に相当貢献していましたね。

    グッとくる台詞、胸をつかれるような場面は結構あったけど、

    ・クレモンティーヌの台詞、「『去る者を追わず』と『別れる』とは
    違うのよ」
    ・善次郎がユリを迎えに行くところ、「マリア様みてえだ…」に
    至るまでの場面
    ・ラスト直前、捧げられる百合の花の中、「名無しの猫」が
    生まれ変わることを告げ、自身の墓詣でに来た親に、名前を
    付けてね、と懇願する場面

    は、思わず涙が出ました。 舞台空間と同じように広がりのある
    作品でした。マリアのように、そっとそこに佇んでいるような、
    誰かを待っているような。
  • 満足度★★★★

    見事!
    しっとりとした、優しく、切ない世界。見事!としか言いようがない。ただキレイすぎて、路地裏の猥雑な感じが少しくらいあってもいいのではないかとも思いましたが。

  • 満足度★★★★

    素晴らしい
    いつもの春風舎よりも劇場にマッチしてると思った。
    空間を支配していた。
    なるほど、大きい劇場の方が青☆組は活きるのか・・・。

  • 満足度★★★★

    白い二人、「聖俗」「祈り」「命」そしてマリア
    すごく気に入ったのですが、何がどう気に入ったのか、なかなか感想を書きづらく思っていました。私はどうやら「温かく重い」ものを受け取ったようなんだけど、それが何なのか、不完全ですが、書いてみます。

    たくさんのドアと街灯の舞台美術をみて最初の印象は「絵本のよう」と思いました。そして、街灯は「なんか人魂(たましい)みたい」と感じました。
    (この最初の印象は間違っていないことにあとで気づきます)

    このお芝居で白い服を着た登場人物は二人。街娼Mと猫ナナシです。
    街娼と捨て猫、一番汚い、一番穢れた存在が白い服を着ている。

    彼らが白い服を着ている意味は二つあるように思います。
    (以下ネタバレBOXにて)


    ネタバレBOX


    ひとつは最も穢れた存在が最も神聖なものにつながる、ということのように思います。聖と俗は対比されながら、つながる。
    聖書のなかで、イエスが最初に弟子にしたのは徴税人や罪人でした。
    あるいは、心の貧しい人々は幸いである、悲しむ人々は幸いである、そのような世界観に通じるように思います。

    もう一つは、彼らは固有の存在ではなく、抽象的な存在だということ。望まれずに生まれてきた混血の子とその母、そういう類型を描いていることを視覚的に現しているのではないでしょうか。

    ナナシを演じる大西玲子と、Mを演じる木下祐子は、下記の複数の親子を演じます。

    ①水島鞠子の子ども時代(ナナシ=大西)とその母(M=木下)、母が米軍兵に強姦されることが示唆、その後混血の男の子が産まれ、父が間引きをした可能性も示唆
    ②ミッキーこと本田幹子の子ども時代(ナナシ=大西)とその母(M=木下)、ミッキーが孤児院に連れて行かれる道中を描写
    ③ナナシの赤ん坊(大西)を捨てた母(M=木下)、母がMの墓前にひざまずき、懺悔と告別の場面

    直接的にはナナシとMは③のみの関係なのでしょうが、①も②も演じることで、この時代に普遍的だったことを示しているのではないでしょうか。

    私はこの③の場面で泣けて仕方ありませんでした
    ナナシ「来てくれたんだね。ずっと待っていた。ここで。何度も、死にながら。何度も生まれながら。」
    M「あなたを捨てたあの日、『私を離さないで』あなた、はっきりそう言った。声が出るはずもないのに・・・・」

    この白い二人が邂逅する場面で、全ての登場人物がユリの花を捧げて祈ります。
    「祈り」はこの劇のテーマのひとつと思われます。

    もう一箇所全ての人物が出てきて祈る場面があります。

    舞台上手上方で史子(高橋智子)と松田(荒井志郎)が丘の上の墓所とそこで眠る「望まれずに生まれてきた命」について語り、舞台中央クレモンティーヌ(足立誠)が「これまで看取ってきた猫の名前を挙げる」シーンが並走する場面。
    (ナナシが「何度も死にながら何度も生まれながら」というように、この舞台では猫は魂の現われとして描かれています)

    ここで、他の人物が全員ろうそくを持って登場します。
    跪いて祈る姿ではないですが、これも鎮魂の祈り。
    戯曲を見ると「無数の魂が灯火となり、丘から降りてきて、食卓や階段の周りに集まってくる」と書いてありました。ああ、やはりこれは魂なんだ、と得心しました。美しい場面でした。

    実は、舞台美術の私の第一印象は「たくさんのドアとたくさんの街灯、街灯はまるで魂みたい・・」と感じた、そのイメージが強調されて出てきて揺さぶられたのだと思います。
    魂と呼ばれているものは実は「命」そのものです。たくさんの命の存在を感じることが出来るから、格別に美しく、揺さぶられるのだと思います。

    このお芝居では、混血の子=望まれずに生まれた命、だけでなく、ユリ(小瀧万梨子)は乳がんで乳房を失いますし、松田は無精子症と、「欠けた命」をも描いた群像劇になっています。命、生きていることの奇跡を強く感じさせられます。

    このお芝居の何が気に入ったのか、気になったのか・・・
    私にとってのキーワードは「聖と俗」、「祈り」と「命」という感じでしょうか。
    大きなテーマにつながる世界を水島家の長女鞠子(福寿奈央)中心にしっかりと束ねているので、優れた舞台になっているのだと思いました。

    この3つのキーワードをひとつにすると多分「マリア」になるのだと思います。

    マリアは特定人物を指すものではないと思います。
    街娼M=メリーさんとも、長女鞠子とも、またナナシも自分のことを「マリア」と呼んでいますし、ユリも・・・百合の花はマリア様の象徴ですよね。そういえば終盤、善次郎(林竜三)にも「マリア様みたい」といわれていましたね。
    マリア様=女性性一般でも、いいのでは。

    久しぶりに、女性性が強く肯定された世界に触れて、こういうのも気持ちよいな、と思いました。
  • 満足度★★★★

    「生」と「性」に一筋「聖」の光が射し込む
    青☆組の劇団化最初の舞台。
    それは、大きな舞台への第一歩を確実に示した。

    ネタバレBOX

    青☆組の舞台は品(ひん)がある。
    どんな設定の世界でもその中には必ず品がある。

    今回の舞台では、品に加え、また新たな魅力を見せてくれた。
    それは、舞台のサイズから来ているものかもしれない。
    今までは、どちらかと言うと小さめのサイズの舞台で上演され、あらゆる要素が刺繍糸のように組み合わされ、手のひらに乗るような凝縮された世界を見せてくれていた。
    今回は、星のホールという広い会場での公演であり、今までになく大きなセット、しかも段差が大きく取られたセットが組まれている。
    このサイズをどう使いこなすのか、で大きな舞台に進出した演出家の技量が問われると言っていいと思う。もちろん、何度か経験を積みつつ、それぞれのサイズに最適な演出方法をつかみ取っていくものであり、一気にできるものではないと思うが。

    青☆組の今回の舞台は、このサイズにより、「間」が生まれたと思う。それは「時」と「空間」という「間」だ。
    今までの青☆組の舞台でも、台詞の「間」はとても意味があり、効果的であったが、今回の「間」はまた別の意味を帯びていたように感じた。
    それは「時代」だったり「家(家族)から外の世界」への広がりだったりを感じさせるものとなっていた。

    つまり、今までの青☆組の舞台では、あくまでも「家(家族)」だけに収斂していく物語であったのだが、今回は1つの家(家族)を核としつつ、さらにそれの周囲へと物語が染み出していく感覚があったのだ。
    さらに1つの家族を軸にしながら、もうひとつ大きな軸がラストで見えてくるという、スケール感があったのだ。それは、「生」、それも「つながり、続く生」という軸である。

    「つながり、続く生」とは、もちろん「性」と一体のものであり、切り離してはとらえられない。昭和47年の設定がここで活きてくると考えてもいいと思う。
    つまり、「つながり、続く生」が唯一の「正解」、あるいは「正義」として、さらに「現代」に近い時代で成り立っていたギリギリのラインがそれぐらいの昭和だったのではないかと言うことなのだ。
    現代の多様化はそれが唯一の正解でもなく、むろん正義でもなくなっているので、現代を舞台にして、それを軸にとらえることは少々困難だっただろうと思う。そのテーマのための、時代設定ではなかったのだろうか。

    それは実のところ、作者の意図せざるところかもしれないのだが、「つながり、続く生ではないモノ」の排除を強く感じさせてしまう。
    例えば、おかまバーのマスターや次女の恋人の存在が、舞台から排除されていく様は、昭和47年ならば致し方ないと思いつつも、そのオトシマエのような覚悟、あるいはメッセージみたいなものが欲しいと思うのだ。もちろん、作者の意図があくまでも「続く生」=「正しい」と言うのであればそれでもいいのだが。

    次女は恋人の告白に涙し、父親と寄席に行き癒される、おかまバーのマスターは帰ってこないで、自分の代わりの小さなミカン(=クレモンティーヌ=マスターの名前)を送ってくる、という程度のオチでは、個人的には今ひとつ納得できないのだ。
    そうした重いモノを選んだからには、だ。

    パール食堂のある場所というのは、親不孝通りとか有隣堂とかメリーさん(マリーさん)とかギリシャ水夫とかという言葉が出てくることで、「ああ、あのあたりかな」となんとなく見当がつく。
    日の出駅に近いほうだったりすると(さすがに昭和47年頃は知らないが、それでも昭和の頃ならば)、あまり足を踏み入れたりしたくない場所だっただろうと思われる。もちろん余所者であるからその感覚は当然かもしれない。土地勘がないので、歌舞伎町とはまた違ういかがわしさに溢れていたような気がする。

    で、そのあたりを描いているはずのこの舞台には、そうしたパーツはいくつかあるものの、「俗」や「猥雑」さはあまり感じられない。包丁を振り回しても、立ちん坊がいても、ストリップだってきれいに踊っているし。
    その土地に生きる人たちにとっては、それが「普通」であり、「俗」でも「猥雑」でもないということなのかもしれないし、あくまでも青☆組のカラーなのかもしれないが、もう少しそんな臭いが欲しかったのだ。

    臭いということで言えば、「生」と結びつく「食」は大切なポイントとなるのだが、食堂で出される食べ物類の「匂い」だとか、そんなものを感じさせて欲しかった。胃袋を刺激するぐらいの「食べ物感」が欲しかったと思うのだ。せっかく食堂を舞台にしたのだから。

    「性」と「生」が「聖」と結びついていくラストは、ちょっと鳥肌だった。子どもと猫とが「つながり、続く生」を象徴的に表すということで、その役を同じ役者(ナナシ=大西玲子)が演じるということは、なるほどと思った(猫が何度も生き死にするという感じは、『雨と猫と…』にカブリすぎな感はあるのだが)。
    しかも、「名前がない」ということが丘の上のたくさんの十字架と重なり、さらに哀しさが増した。

    今回は衣装がとてもよかった。手を抜かず、きちんと変えて出てくることに好感度は高い。特に次女の衣装が素敵だった。
    セットのことで言えば、いろいろな「俗」なものをギリギリにそぎ落とし、それでもリアルな空気を残しているものであって、今までの青☆組にはなかったもので、劇場のサイズと青☆組の最大公約数をうまくくみ取っていたと思う。
    ただし、個人的な感覚だけど、食堂のセットはもう少しだけ大きくしたほうがよかったのではないだろうか。少し気持ちが拡散するような感覚があったので。

    役者は、長女役の福寿奈央さんの健気さが、また次女役の高橋智子さんの先生ぶり、その恋人役の新井志郎さんの哀しみが印象に残る。ユリ役の小瀧万梨子さんのダンサーぶり(ダンス)もなかなかだった。

    「パール食堂」は、実在の店名らしいが、店主の想いが込められていたりするとなお良かったかな。
  • 満足度★★★★

    青☆組初めて観ました
    星のホールは好きな劇場のひとつです。

    劇場に入りセットを見た瞬間に、ああこれはいい感じだなとの印象を持ちました。始まるとその期待を裏切ることなく、すばらしい芝居が展開されました。
    なんかピュアな感じで、冷たくておいしい水を飲んだような気がしました。

    10周年ということですが、これからもますますの活躍を祈念いたします。
    おめでとうございました。

  • 満足度★★★★

    秀麗な舞台
    話の内容と展開そして舞台設定、役者さんの質、全てにおいて高いレベルだとは思うのですが、観終わった最初の感想として何かが足りなくて何かが多いなあと感じました。初めて見た舞台でしたら文句無く手放しで褒め称えたのかも知れません。しかし、一度基準を上げてしまった分期待が大きすぎたのもいけなかったかし、冒頭の入りから、もうこれは絶対面白くなるとさらにハードルを上げてしまったのも問題ですね。
    既にK点を越えている作品に対して、さらに求めてしまった自分の責任ですかね。

    ネタバレBOX

    横浜生まれの横浜育ちの自分には、グッと来るものがありました。
  • 満足度★★★★

    昭和47年横浜港町のとある食堂
    を舞台に描いた群像劇。この時代の横浜港町はワタクシには解らないが、たぶん、路地裏では犬や猫が徘徊し、米軍人を相手に如何わしいバーや大衆飲み屋やストリップ劇場などが盛んな色町と同居するように、高級とは言えない人々が暮らす下町の混在した香りのする街だと推測する。だとしたら・・・

    以下はネタばれBOXにて。。

    ネタバレBOX

    今回の云わば整然とした人間臭い香りのしないセットにどうも違和感を感じてしまう。薄ぼんやりと照らす灯篭のようなライトや照明や天から下がった真新しいカラードアはあまりにも下町にそぐわない幻想的で優美なのだった。セット自体は本当に素晴らしいセットだと思うがこの物語には合わないセットのような気がする。

    説明 には「なにもかもが流れ着く港町の片隅に、小さな食堂を営む一家があった。」とあるのだから、どう想像しても賑やかで猥雑な港町の風景しか想像できないのだ。また物語もミッキーや牧田のような黒い肌の混血児が望まれないまま生まれてしまうのだから、色町で起こる事柄や、港町の女たちが外人に強姦されて出来た子らだと考えると、やはりセットと物語が合っていないように感じた。

    物語にパール食堂の近くで営業するオカマバーの店主・クレモンティーヌ、娼婦のメリーなどが登場する。今までの青☆組は家族を中心に温かな物語を綴ってきたが、「家族」から「町」に風景は広がったものの、最終的にはやはり家族愛を主軸に描いていたと思う。だから、姉が妹を詰るシーンは落涙し、姉独特の家族を思い遣る犠牲的精神と妹の性格との対比が絶妙だった。

    また片乳を取ったユリの涙がバックライトに反射して煌めきながら落ちる粒の美しさに鳥肌が立ち、これに感動して泣かされた。泣き所は数か所あったが、こういった物語の構成ははやり見事だと思う。

    横浜メリーを演じた木下裕子はワタクシの大好きな女優の一人だが、彼女はなまじ品がある為に、売春婦のメリーではなく、王妃のように感じてしまうのだから、生まれ持った品性というものは動かしがたいのだなと改めて感じる。

    この物語に人間臭さや街独自のアジア的香りや下町の裏路地で匂ってくる酸っぱい匂いが混じっていたなら港町の群像劇としては傑作だと感じたがいかがだろうか?

    青年団から独立した「青☆組」に荒井志郎, 福寿奈央, 林竜三, 藤川修二が入られたようで嬉しい限りだ。
  • 満足度★★★★

    懐かしい雰囲気に包まれる
    起こる事実だけでなく人の考え方に至るまで時代設定である「昭和47年」が色濃く現れており何だかとても懐かしい雰囲気に包まれる。
    また、シンプルな線だけでも本人の特徴をとらえた似顔絵のように僅かな台詞や演技から各人物の人と成りがくっきり浮き上がってくるのが見事。

  • 満足度★★★★

    蜜柑色の夕暮れのような作品
    凄く練られた脚本は繊細で素晴らしいと思いました。が、演出に物足りなさを感じてしまいました。寂しさや生々しさを感じなかった・・美術のセットもですが、汚いところ、嫌らしいところをオブラートに包んでいるように思えたから、ほんの少しのスパイスみたいなものが欲しかったのかもしれません。回想シーンを含め詰め込み感も感じたので、何かをちょっと引いて、もっとピリリと描写にリアリティーを見せてほしかったのかも。劇団のカラーなのでしょうか。でも、私が感じ取れなかっただけかもしれません。シャンソンでも流れていたらなぁ・・。←追記:劇場・劇中にシャンソンが流れていたようです。知らない曲で、しかも自然過ぎて気づかなかったようです。ごめんなさい。

  • 満足度★★★★

    やっと見られました
    以前、ProjectBUNNGAKUという演劇にて、
    青☆組を観てから気になっていました。
    やっと今回鑑賞できることになり、三鷹まで足を運びました。

    舞台のセットがとてもきれいで、
    横浜の港町を表現していたと思います。

    ある家族を中心とした群像劇でした。
    愛することをあきらめた長女と
    愛することをはじめた次女。
    それを温かく見守る父親。

    家族の暖かいぬくもりの感じる物語でした。

    印象に残っているのは、
    クレモンティーヌですね。
    オカマキャラが凄い様になっていました。
    でも、彼もまた愛することをあきらめた人であり、
    悲しい人でありました。

    登場人物達が最後に新しい一歩を進めていく、
    再生の物語だと思い、
    観ていて肩をポンと叩かれ元気だそうよと言われたようなそんな感じです。

    劇中に彷徨っていたマリアが町を去るのが、
    母親からの自立、また過去への決別を表しているのかなと思うと、
    マリアのことが悲しかったです。

    すれ違う事も過ちを犯す事もある。
    でも赦し繋がる事で救われる事もある。
    帰る場所、家族という近くにあって遠くに感じるものの
    大切さを改めて認識させられました。

    アフタートークも参加して大満足でした。

  • 満足度★★★★

    すっと心に染み入る群像劇
    70年代初頭の横浜を舞台に、その地理的・歴史的トピックを上手く盛り込み、人間関係を優しい雰囲気で描いた作品でした。

    食堂を経営する父とその娘姉妹を中心に近所の人や職場繋がりの人たちの日常的な姿が落ち着いたトーンで描かれ、ローカルな話の中に普遍性が感じられました。色々と重い要素もある物語ですが、性格の悪い登場人物は1人も出てこないので、観劇後の印象はとても清々しかったです。

    繰り返しや重ね合わせを用いた台詞や場面の構成が巧みで、人物がしっかり描けていないと技巧が鼻につきかねない脚本でしたが、人物描写も丁寧でリアリティがあったので素直に物語世界に引き込まれました。
    冒頭で立て続けに登場人物やエピソードが現れテンポが早すぎるように感じました。都心から少し離れた劇場の立地や、座り心地が良いとは言えない座席などの条件を考えると長くても2時間が適正だとは思いますが、演技や雰囲気が良かったので3時間あっても構わないと思わさせる作品でした。
    横浜のことや、プッチーニのオペラ『ジャンニ・スキッキ』を知っていると、より心を打つシーンがありました。

    出捌け口をたくさん備えた立体的な舞台美術が効果的に使われていて、シーンの切り替えがとてもスムーズで、逆に暗転での場面転換は敢えてたっぷり時間を取る流れが心地良かったです。

    ちなみに前説は主宰の吉田小夏さんがされていましたが、堅過ぎず砕け過ぎずの優しい口調に言葉を大切に扱っている姿勢が感じられて素敵でした。

  • 満足度★★★★

    公演観劇後
    必ず台本を購入。読むと新たな発見があったりして楽しめるし、忘れたくないってこともある。小説集楽しみです。
    ナナシの語るセリフが印象的。

  • 満足度★★★

    猫さんよかったです
    同じ星のホールで観た「ままごと」の『わが星』の女の子を思い出しました。全体としては、私には向いてなかったようです。

    ネタバレBOX

    うかがったところによると死んだ猫が女子高生になったということだそうです。序盤に学生さんの手の中で死んだ猫と学生さんが最後に友達となったという筋が私には気がつきませんでした、単なる2役と思ってました。でも評価は同じです。
  • 満足度★★★

    やや期待ハズレとマンネリ感
    青☆組さん、観劇3回目。

    これまでは、狭い劇場で、同好の観客層に囲まれて、一人異質な観客として、緊張感で観ていたせいか、張り詰めた空気の中で、舞台に否応なく同化せざるを得ない環境があったのですが、三鷹の広い劇場では、そういった束縛感もなかったせいか、やや緊張に欠ける観劇時間となりました。

    だから、マンネリ感を感じたのは、きっと、個人的な私独自の理由によるのかもしれません。

    でも、どうも、今回の舞台、制作サイドにも、悪い意味での慣れを感じてしまいました。

    同じ役者さんが、いつも、似たようなキャラクターを演じるという点でも、ストーリーに作品の独自性を感じない点でも、一部の役者さんに、役になりきる気構えが足りなさそうに見えるのも、私には、全てパンチ不足に感じられました。

    大西さん、木下さん、荒井さん、櫻井さんは、自然に役を生きていらして、素敵でした。

    ネタバレBOX

    またもや、猫と、ミカン。

    最近、遭遇することが多く、個人的にちょっと食傷気味で、またか!と心が萎えました。

    でも、大西さん演じる猫には哀愁があり、独白の場面は、詩的で、照明の程好さと相俟って、魅入ってしまいました。

    松田が、史子と結婚できない理由を語るシーン、生理的に不快でした。
    たぶん、これは、青年団の常套手段の観客騙しの手法で、作者が描きたかったストーリーではないように感じられたもので…。(これは、私にとっての観劇アレルゲンなので、被害妄想的過剰反応かもしれませんが)

    この作品、今回のキャストではなく、もっと実績のある役者さんで上演することがあれば、もう一度観てみてもいいかなと思っています。
  • 満足度★★★

    みた
    何度か見ている側の欲なんだろうとは思いながらも、10年という節目であるとは知りながらも、何かもっとはみ出したものを見たかった。
    良くも悪くも安心して見られてしまう。まったく共感できない人間、見ていて負の気分を催される人物が誰もいなくて、優しさの意味について考えさせられる。
    あれこれ想像する余地を残しながら、きれいな環を描いてみせるのは誰でもできる技ではないと分かるけれども。

  • 満足度★★★

    理由は解りませんが
    少し涙が出ました。
    でも、なんででしょうね、空間と空気感がよかったです。
    みんななにかしら事情を持っているのが多過ぎな気もしますが
    少しだけ明るく替わって行く毎日を見ている感じがいいですね。

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