パール食堂のマリア 公演情報 青☆組「パール食堂のマリア」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★

    「生」と「性」に一筋「聖」の光が射し込む
    青☆組の劇団化最初の舞台。
    それは、大きな舞台への第一歩を確実に示した。

    ネタバレBOX

    青☆組の舞台は品(ひん)がある。
    どんな設定の世界でもその中には必ず品がある。

    今回の舞台では、品に加え、また新たな魅力を見せてくれた。
    それは、舞台のサイズから来ているものかもしれない。
    今までは、どちらかと言うと小さめのサイズの舞台で上演され、あらゆる要素が刺繍糸のように組み合わされ、手のひらに乗るような凝縮された世界を見せてくれていた。
    今回は、星のホールという広い会場での公演であり、今までになく大きなセット、しかも段差が大きく取られたセットが組まれている。
    このサイズをどう使いこなすのか、で大きな舞台に進出した演出家の技量が問われると言っていいと思う。もちろん、何度か経験を積みつつ、それぞれのサイズに最適な演出方法をつかみ取っていくものであり、一気にできるものではないと思うが。

    青☆組の今回の舞台は、このサイズにより、「間」が生まれたと思う。それは「時」と「空間」という「間」だ。
    今までの青☆組の舞台でも、台詞の「間」はとても意味があり、効果的であったが、今回の「間」はまた別の意味を帯びていたように感じた。
    それは「時代」だったり「家(家族)から外の世界」への広がりだったりを感じさせるものとなっていた。

    つまり、今までの青☆組の舞台では、あくまでも「家(家族)」だけに収斂していく物語であったのだが、今回は1つの家(家族)を核としつつ、さらにそれの周囲へと物語が染み出していく感覚があったのだ。
    さらに1つの家族を軸にしながら、もうひとつ大きな軸がラストで見えてくるという、スケール感があったのだ。それは、「生」、それも「つながり、続く生」という軸である。

    「つながり、続く生」とは、もちろん「性」と一体のものであり、切り離してはとらえられない。昭和47年の設定がここで活きてくると考えてもいいと思う。
    つまり、「つながり、続く生」が唯一の「正解」、あるいは「正義」として、さらに「現代」に近い時代で成り立っていたギリギリのラインがそれぐらいの昭和だったのではないかと言うことなのだ。
    現代の多様化はそれが唯一の正解でもなく、むろん正義でもなくなっているので、現代を舞台にして、それを軸にとらえることは少々困難だっただろうと思う。そのテーマのための、時代設定ではなかったのだろうか。

    それは実のところ、作者の意図せざるところかもしれないのだが、「つながり、続く生ではないモノ」の排除を強く感じさせてしまう。
    例えば、おかまバーのマスターや次女の恋人の存在が、舞台から排除されていく様は、昭和47年ならば致し方ないと思いつつも、そのオトシマエのような覚悟、あるいはメッセージみたいなものが欲しいと思うのだ。もちろん、作者の意図があくまでも「続く生」=「正しい」と言うのであればそれでもいいのだが。

    次女は恋人の告白に涙し、父親と寄席に行き癒される、おかまバーのマスターは帰ってこないで、自分の代わりの小さなミカン(=クレモンティーヌ=マスターの名前)を送ってくる、という程度のオチでは、個人的には今ひとつ納得できないのだ。
    そうした重いモノを選んだからには、だ。

    パール食堂のある場所というのは、親不孝通りとか有隣堂とかメリーさん(マリーさん)とかギリシャ水夫とかという言葉が出てくることで、「ああ、あのあたりかな」となんとなく見当がつく。
    日の出駅に近いほうだったりすると(さすがに昭和47年頃は知らないが、それでも昭和の頃ならば)、あまり足を踏み入れたりしたくない場所だっただろうと思われる。もちろん余所者であるからその感覚は当然かもしれない。土地勘がないので、歌舞伎町とはまた違ういかがわしさに溢れていたような気がする。

    で、そのあたりを描いているはずのこの舞台には、そうしたパーツはいくつかあるものの、「俗」や「猥雑」さはあまり感じられない。包丁を振り回しても、立ちん坊がいても、ストリップだってきれいに踊っているし。
    その土地に生きる人たちにとっては、それが「普通」であり、「俗」でも「猥雑」でもないということなのかもしれないし、あくまでも青☆組のカラーなのかもしれないが、もう少しそんな臭いが欲しかったのだ。

    臭いということで言えば、「生」と結びつく「食」は大切なポイントとなるのだが、食堂で出される食べ物類の「匂い」だとか、そんなものを感じさせて欲しかった。胃袋を刺激するぐらいの「食べ物感」が欲しかったと思うのだ。せっかく食堂を舞台にしたのだから。

    「性」と「生」が「聖」と結びついていくラストは、ちょっと鳥肌だった。子どもと猫とが「つながり、続く生」を象徴的に表すということで、その役を同じ役者(ナナシ=大西玲子)が演じるということは、なるほどと思った(猫が何度も生き死にするという感じは、『雨と猫と…』にカブリすぎな感はあるのだが)。
    しかも、「名前がない」ということが丘の上のたくさんの十字架と重なり、さらに哀しさが増した。

    今回は衣装がとてもよかった。手を抜かず、きちんと変えて出てくることに好感度は高い。特に次女の衣装が素敵だった。
    セットのことで言えば、いろいろな「俗」なものをギリギリにそぎ落とし、それでもリアルな空気を残しているものであって、今までの青☆組にはなかったもので、劇場のサイズと青☆組の最大公約数をうまくくみ取っていたと思う。
    ただし、個人的な感覚だけど、食堂のセットはもう少しだけ大きくしたほうがよかったのではないだろうか。少し気持ちが拡散するような感覚があったので。

    役者は、長女役の福寿奈央さんの健気さが、また次女役の高橋智子さんの先生ぶり、その恋人役の新井志郎さんの哀しみが印象に残る。ユリ役の小瀧万梨子さんのダンサーぶり(ダンス)もなかなかだった。

    「パール食堂」は、実在の店名らしいが、店主の想いが込められていたりするとなお良かったかな。

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    2011/08/02 07:51

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