パール食堂のマリア 公演情報 青☆組「パール食堂のマリア」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★

    白い二人、「聖俗」「祈り」「命」そしてマリア
    すごく気に入ったのですが、何がどう気に入ったのか、なかなか感想を書きづらく思っていました。私はどうやら「温かく重い」ものを受け取ったようなんだけど、それが何なのか、不完全ですが、書いてみます。

    たくさんのドアと街灯の舞台美術をみて最初の印象は「絵本のよう」と思いました。そして、街灯は「なんか人魂(たましい)みたい」と感じました。
    (この最初の印象は間違っていないことにあとで気づきます)

    このお芝居で白い服を着た登場人物は二人。街娼Mと猫ナナシです。
    街娼と捨て猫、一番汚い、一番穢れた存在が白い服を着ている。

    彼らが白い服を着ている意味は二つあるように思います。
    (以下ネタバレBOXにて)


    ネタバレBOX


    ひとつは最も穢れた存在が最も神聖なものにつながる、ということのように思います。聖と俗は対比されながら、つながる。
    聖書のなかで、イエスが最初に弟子にしたのは徴税人や罪人でした。
    あるいは、心の貧しい人々は幸いである、悲しむ人々は幸いである、そのような世界観に通じるように思います。

    もう一つは、彼らは固有の存在ではなく、抽象的な存在だということ。望まれずに生まれてきた混血の子とその母、そういう類型を描いていることを視覚的に現しているのではないでしょうか。

    ナナシを演じる大西玲子と、Mを演じる木下祐子は、下記の複数の親子を演じます。

    ①水島鞠子の子ども時代(ナナシ=大西)とその母(M=木下)、母が米軍兵に強姦されることが示唆、その後混血の男の子が産まれ、父が間引きをした可能性も示唆
    ②ミッキーこと本田幹子の子ども時代(ナナシ=大西)とその母(M=木下)、ミッキーが孤児院に連れて行かれる道中を描写
    ③ナナシの赤ん坊(大西)を捨てた母(M=木下)、母がMの墓前にひざまずき、懺悔と告別の場面

    直接的にはナナシとMは③のみの関係なのでしょうが、①も②も演じることで、この時代に普遍的だったことを示しているのではないでしょうか。

    私はこの③の場面で泣けて仕方ありませんでした
    ナナシ「来てくれたんだね。ずっと待っていた。ここで。何度も、死にながら。何度も生まれながら。」
    M「あなたを捨てたあの日、『私を離さないで』あなた、はっきりそう言った。声が出るはずもないのに・・・・」

    この白い二人が邂逅する場面で、全ての登場人物がユリの花を捧げて祈ります。
    「祈り」はこの劇のテーマのひとつと思われます。

    もう一箇所全ての人物が出てきて祈る場面があります。

    舞台上手上方で史子(高橋智子)と松田(荒井志郎)が丘の上の墓所とそこで眠る「望まれずに生まれてきた命」について語り、舞台中央クレモンティーヌ(足立誠)が「これまで看取ってきた猫の名前を挙げる」シーンが並走する場面。
    (ナナシが「何度も死にながら何度も生まれながら」というように、この舞台では猫は魂の現われとして描かれています)

    ここで、他の人物が全員ろうそくを持って登場します。
    跪いて祈る姿ではないですが、これも鎮魂の祈り。
    戯曲を見ると「無数の魂が灯火となり、丘から降りてきて、食卓や階段の周りに集まってくる」と書いてありました。ああ、やはりこれは魂なんだ、と得心しました。美しい場面でした。

    実は、舞台美術の私の第一印象は「たくさんのドアとたくさんの街灯、街灯はまるで魂みたい・・」と感じた、そのイメージが強調されて出てきて揺さぶられたのだと思います。
    魂と呼ばれているものは実は「命」そのものです。たくさんの命の存在を感じることが出来るから、格別に美しく、揺さぶられるのだと思います。

    このお芝居では、混血の子=望まれずに生まれた命、だけでなく、ユリ(小瀧万梨子)は乳がんで乳房を失いますし、松田は無精子症と、「欠けた命」をも描いた群像劇になっています。命、生きていることの奇跡を強く感じさせられます。

    このお芝居の何が気に入ったのか、気になったのか・・・
    私にとってのキーワードは「聖と俗」、「祈り」と「命」という感じでしょうか。
    大きなテーマにつながる世界を水島家の長女鞠子(福寿奈央)中心にしっかりと束ねているので、優れた舞台になっているのだと思いました。

    この3つのキーワードをひとつにすると多分「マリア」になるのだと思います。

    マリアは特定人物を指すものではないと思います。
    街娼M=メリーさんとも、長女鞠子とも、またナナシも自分のことを「マリア」と呼んでいますし、ユリも・・・百合の花はマリア様の象徴ですよね。そういえば終盤、善次郎(林竜三)にも「マリア様みたい」といわれていましたね。
    マリア様=女性性一般でも、いいのでは。

    久しぶりに、女性性が強く肯定された世界に触れて、こういうのも気持ちよいな、と思いました。

    0

    2011/08/12 21:02

    0

    0

このページのQRコードです。

拡大