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うれしい悲鳴

うれしい悲鳴

アマヤドリ

吉祥寺シアター(東京都)

2012/03/03 (土) ~ 2012/03/11 (日)公演終了

満足度★★★★★

すばらしい
これで最後とは、もったいないくらいすばらしい。それ以外に言葉が出ない。

-SORA-

-SORA-

PEACE

d-倉庫(東京都)

2012/03/01 (木) ~ 2012/03/05 (月)公演終了

満足度★★

初見
友人に誘われて観劇。人を信じるパワー、まっすぐな心、希望、前進。既視感満載の脚本にあえて挑戦した気概に拍手を送りたい。しかし本の内容以前に演出が・・・不在なのか・・・? テーマは人により好みが激しく分かれると思うが、その点を差し引いてもクオリティが満足のいくものではなかった。若い団体ということなのでこれからに期待したい。

スケベの話

スケベの話

ブルドッキングヘッドロック

サンモールスタジオ(東京都)

2012/02/29 (水) ~ 2012/03/11 (日)公演終了

満足度★★★

セイなる夜
こちらは女性がメイン。
1人で何役もこなす女優人がもう大騒ぎ、女々しいかどうかはわからないが、お疲れ様でした。

スケベの話

スケベの話

ブルドッキングヘッドロック

サンモールスタジオ(東京都)

2012/02/29 (水) ~ 2012/03/11 (日)公演終了

満足度★★★★

どっちを観るべきだったのか?
劇団・ブルドッキングヘッドロックの【スケベの話~セイなる夜】​を観劇。

小劇場ではかなり有名な劇団。
シスターが過去の男性遍歴を懺悔する話なのだが、ブス会の様なリ​アルな女性像の話ではなく、ややお下劣な女性の性の部分をコメデ​ィー調に展開していくので、140分の長尺でも誰もが楽しめる話​し。

どちらを観るかを悩んだのだが、やはり佐藤みゆきが出演しているバットとボール編を観るべきだったのか?未だに悩む処だ。

ドグラ・マグラ

ドグラ・マグラ

劇団霞座

アートスタジオ(明治大学猿楽町第2校舎1F) (東京都)

2012/03/01 (木) ~ 2012/03/04 (日)公演終了

満足度★★★★

へたれずに解ききる
導入部分の作りこみや
そこに満ちるテンションを観ていて、
物語が解けきるかが不安だったのですが・・・、
杞憂でありました。

へたれずに、したたかに
原作を知らぬ観客にも
物語が降りてきました。

ネタバレBOX

場内に入り、
舞台に施された赤と青の質感に
脳幹と月のイメージの前で開演を待ちます。

冒頭から20分のテンションに
圧倒される。
でも、力技ではあるのですが、
雑であったり荒っぽい感じはしない・・・。
しっかりと抑制された精緻さと、
観る側を凌駕するようなパワーが両立している。

正直言うと、舞台の密度には強く惹かれたのですが、
そこから物語が本当に解けて、
観る側に因果が伝わってくるか少々不安でした。
その密度に目がなれた観客に、
へたれることなく
物語が語られていくのだろうかと・・・。

でも、まったくの杞憂でした。
冒頭のテンションとは異なる
混沌が舞台におかれ観る側をつなぎとめる。
場ごとに異なる物語の表情が、
舞台にはまり込んだ観客を
さらなる展開に引き込んでいく。

中盤以降、
役者たちのお芝居のクオリティに
若干のバラツキがあったり、
一瞬、間がずれたりといった部分はあったのですが、
主たる役者達はがっつりと舞台を支えきり
観る側の意識が
舞台から離れることはなく、
ひとつ間違えばいびつに崩れてしまうであろう物語の骨格が
しっかりと観る側にくみ上げられて。

場面の切り替え方、
変化していくものと貫かれていくもの、
エピソードを膨らませていく語り口などなど、
作り手の絵図がしたたかに描かれているのだろうと思う。

恥ずかしながら、
原作を読んだことがないので
この狂気の肌触りが原作の世界どおりなのかどうかは
わかりませんでしたが、
物語の全容をしっかりと受け取ることができれば
あとの舞台の味付けは作り手次第なわけで・・・。

観終わって、とても90分の尺とは思えないほど消耗しましたが
3分で木戸銭の元をとり
あとは申し訳ないほど
がっつり楽しませていただきました。

よいものを拝見したと思います。


『夜のしじま』

『夜のしじま』

からふる

ギャラリーLE DECO(東京都)

2012/03/06 (火) ~ 2012/03/11 (日)公演終了

満足度★★★

ルデコって自由やな
何か、演劇って色々あるなと思った。ラストのネタばらしまでどこまで積み上げられるかが勝負なんだと思う。

僕らの心象風景における、いくつかの考察【公演終了いたしました。ご感想お待ちしております。】

僕らの心象風景における、いくつかの考察【公演終了いたしました。ご感想お待ちしております。】

Minami Produce

新宿眼科画廊(東京都)

2012/02/11 (土) ~ 2012/02/21 (火)公演終了

満足度★★★★

ひとつの人生を描き出すセンス
A⇒Bの順番で観ました。

それぞれのバージョンに
物語の繋がりを美しく見せる切っ先があって
しかも、2つのバージョンを観たことで浮かび上がってくるものもある
単純に男女バージョンというのとも
ちょっと違う。

なんだろ、上手く言えないのだけれど、
一つの物語が完全に裏表で表現されているわけでなく
120度くらいの重なりから垣間見えるものが感じられて。

作り手の、物語の質感を磨き上げる
手腕の秀逸を感じました

ネタバレBOX

両作品に共通して
狂言回しを演じる犬の出来が恐ろしくよくて・・・。
芸が立つ、気鋭の噺家の態で
物語の道筋をつける。

彼が切り分けていく物語に、
いくつもの可能性が生まれ、
それぞれのバージョンの主人公が
自らの想いのなかで
物語を置き換えて、
人生を歩んでいきます。

役者達のお芝居には
ロールをべたつかせないような
ソリッドな部分があって、
だからこそ、切り分けのなかで
場の色がスイっとかわる。
演じる場にしっかり刺さる切っ先をしっかりと感じつつ
一方で場の色にしがみつくことのない
強さにとどまらない表現の瞬発力のようなものが
しなやかに舞台に重なり
物語の時間をくみ上げていくのです。

二つのバージョンのそれぞれの主役たちには、
半生を背負いきる持久力をもった
ビビッドさがあって、
犬の語りとともに舞台を貫く。
で、そこに交差していくキャラクターたちの
主人公たちとの距離感のようなものが
とても緻密に作られていて、
その変化が、場の色を買え
シーンというか分岐点ごとのニュアンスになっていく。

そして、二つのバージョン、
そのテイストの違いは
事象の表裏というのとはちょっと違っていて、
同じ部屋の入り口と出口が異なるような感じ・。
両バージョンを観ると
表裏では見えない
ジェンダーの違いのようなものが
肌合いとして伝わってくる。

どちらのバージョンも
観終わって、ちょっとさびしくて
でも、不思議に心満ちるものがあって。

ライティングも美しく、
役者の動きや音にもセンスを感じる。
デリケートな肌触りと
広がる時間の感覚に、
たっぷり浸されてしまいました。
『THE BEE』English Version ワールドツアー

『THE BEE』English Version ワールドツアー

東京芸術劇場

水天宮ピット・大スタジオ(東京都)

2012/02/24 (金) ~ 2012/03/11 (日)公演終了

美しい
非常に美しく、計算されて、構成された舞台でした。初めて脚本を読んだ時は、シンプルすぎてつまらないなという印象を受けていたのですが、舞台で観ると私が想像できていなかった行間が全て詰め込まれて表現されていました。演劇という物のスゴさを改めて感じた舞台でした。
両側に訳が表示されるので、英語分からなくても問題無かったです。

juice(ジュース)

juice(ジュース)

劇団山の手事情社

アトリエ春風舎(東京都)

2012/03/08 (木) ~ 2012/03/11 (日)公演終了

満足度★★★★★

やっぱり全力
毎年グレードアップを遂げる山の手事情社の研修プログラム修了公演。いやー、今年もすごかった。俳優山口笑美が研修生と本気でぶつかり合い、若者のいらだち、コミュニケーション不全をえぐり出す、他では見られない作品。

牡丹灯籠

牡丹灯籠

sunday

吹田市文化会館 メイシアター・小ホール(大阪府)

2012/03/08 (木) ~ 2012/03/11 (日)公演終了

満足度★★★★

舞台美術と役者の真剣勝負
メイシアタープロデュースShow劇場 メイシアター×sunday 「牡丹灯籠」を観劇。

個人的に劇場プロデュース公演のお手本にしている企画です。
20回を数える「近松劇場」シリーズを終え、劇団や役者を固定せず、様々なジャンルの作品をプロデュースしている企画。何より役者やスタッフを変え、毎年プロデュース公演を開催するということがどれほど困難か?同じ劇場運営に携わる者として本当に頭が下がります。

今回の原作は落語。そして舞台美術は演劇畑からではなく空間デザインを手がける重鎮・野井成正さん。



客席に入り誰もがその美術にまず驚かされる。フライヤーそのままの舞台美術。間口4間、奥行き3間、高さ3mほどの舞台に大量に吊り下がる竹。床面からは約50cmほどしか空いておらず、座っても顔の前に竹がある。竹と竹の間は人一人が通れる隙間はあるものの、竹に当たらず芝居をするのは困難。これに18名の男女が右往左往する。危険極まりない舞台。


私が演出なら間違いなく芝居をつくることを断念してしまうだろう。


それをウォーリー木下は難なく舞台化。いや、難は多々あったと思う。一歩間違えば大怪我しかねない空間。相当の期間、試行錯誤をしたに違いない。

ネタバレBOX

吊下がった竹は自由に動き、役者の動きに合わせて揺れ動く。これが照明と音楽の効果で見事に空間が入れ替わる。時に立派なお屋敷になったり、時にあばら家になり、時に遊郭になり、時にうっそうと茂る竹林になったり、時に墓地になる。さらに、竹が触れ合う音も心地いい。ゆっくり揺れる竹の音。激しく揺れる竹の音。この小空間でこの竹の数だからこそできる妙。


この芝居にこの竹がなかったらどうなんだろうとふと考えてみた。
牡丹灯籠という複雑に入り組んだ悲喜劇落語。ウォーリー木下の舞台空間を掌握した演出。ベテランから若手まで実力派が揃った役者陣。物語にマッチしたindigo jam unitの現代音楽。そして百戦錬磨のスタッフ陣。これだけで十分評価に値する作品に仕上がっただろう。しかし、これらすべてに挑戦状を叩きつけたようなこの舞台美術があってこそ、この牡丹灯籠という作品がより奥深い作品へと変貌したように思う。

舞台上で1歩歩くだけでも神経を研ぎ澄まさなければいけない舞台が作品の時代背景、緊迫感や静寂感を産み出しているように思う。

難を言えば、目の前の竹が視界を遮るため、少し目が疲れる。

あと、SEで入れていた青笹の擦れる音も生音で表現して欲しかったけど、これは言い過ぎ?

ALPHA

ALPHA

株式会社FPアドバンス

ウエストエンドスタジオ(東京都)

2012/02/29 (水) ~ 2012/03/04 (日)公演終了

満足度★★★★

モチーフ
実際の事件をモチーフにしつつも、かなり脚色されたストーリー、見ごたえがありました。
シーンごとに舞台設定が変わるのも、照明や音響で変化をつけていたのですが、もう少し判りやすかったらもっとよかったと思いました。
観劇後の印象は、少しビターでした。
最後に、開演後の入場はできないので、遅れないように、とアナウンスされてての、20分おしでの開演は気になりました。

ネタバレBOX

公安と警察の違いの説明がどこかにあったらよかったですね。
「春待草 - ひとりでは淋しすぎて-」

「春待草 - ひとりでは淋しすぎて-」

菅間馬鈴薯堂

インディペンデントシアターOji(東京都)

2012/03/07 (水) ~ 2012/03/13 (火)公演終了

満足度★★★★

裏悲しいドサ回りの世界
哀愁漂う、しみじみとした雰囲気がよろしゅうございました。

ネタバレBOX

どの業界にも一部のトップと多くの底辺の人たちが存在する。ザザは全国のキャバレーを回る演歌歌手、底辺の方だけど、後ろ足で蹴飛ばして独立した弟子が結局は頭を下げてザザの元に戻ってくる、ああ底辺の下にもいくらでも人がいるんだなと痛感しました。

営業風景、楽しかったです。ザザのオリジナル曲、そんなに悪いとは思いませんでしたが…。

ザザは本当に売れないことを卑下し、後悔しているのでしょうか。ザザには、ザザを贔屓にしているキャバレー経営者がいて、それなりに幸せなんじゃないでしょうか。

もし本当に売れようと思っているなら、相応の行動をしないといけません。オリジナルでもカバーでも、インディーズでもネットでも何でもいいから、とにかく楽曲を公表しないとね。
『夜のしじま』

『夜のしじま』

からふる

ギャラリーLE DECO(東京都)

2012/03/06 (火) ~ 2012/03/11 (日)公演終了

満足度★★★

夢か現か、
タネ明かし付きファンタジーという感じでした。

ネタバレBOX

非合法なことで生計を立てるのも変と言えば変なわけで、全てが夢かとも考えられますが、時計屋から後ろ指を刺されてもいいから外に出なさいと言われたポリー(メアリ)はラスト外に出たように見えましたので、現実だと思いました。

ポリーはメアリの持つぬいぐるみでした。時計屋が全ての殺人の様子を丁寧に再現していましたが、着物を着た女性は実質的には同じ人ということは何となく分かっていましたので、丁寧さがむしろしつこさに感じられました。

おじいさんは生前、若者に元気を出させるために麻薬を作っていると言っていたらしいのですが、反社会勢力を助長させることのないことだけは願っておきます。
日本の問題 Ver.311<公演終了しました。ありがとうございました!>

日本の問題 Ver.311<公演終了しました。ありがとうございました!>

日本の問題

ギャラリーLE DECO(東京都)

2012/03/06 (火) ~ 2012/03/11 (日)公演終了

満足度★★★★

様々な視座から浮かび上がるもの
4団体の5作品、
団体・作品ごとに
大震災に対する視座がそれぞれにあって、
終わってみれば、
点ではなく面・空間で浮かんでくるものを感じました。

どの劇団にも、既存の感覚や考え方に捉われない
意思と切っ先をもった表現が編み込まれていて
舞台に引き寄せられました。

ネタバレBOX

冒頭にちょっとした口上があって
場の雰囲気が少々歪む。

そのなかで、作品が繋がれていきます。

・劇団けったマシーン
「まだ、わかんないの。」/「指」

広田淳一・瀬戸山美咲さんの2人芝居を丁寧に舞台にのせて。

「まだ、わかんないの」では
戯曲に編みこまれた震災後の空気を
役者たちがゆっくりと引き出して。

ダイアログやモノローグの言葉が、
心情に落とされ膨らみ
言葉を想いが凌駕し、
キャラクターの心情の揺れが概念から実存感に変わっていく。
男優が献身的に作り上げた枠組みにたいして
女優の心情の踏み出しに
ひとつの感情でなくいくつものアスペクトを持った想いの質感が
立体的な重なりへと組みあがっていく。
淡々とした日常に内包された揺らぎのようなものが
役者の、クリアでしなやかさをもった表現とともに、
ゆっくりと像を結び観る側に踏み入ってくる・・・

「指」は昨年の日本の問題でも観ている作品ですが、
色の強さは若干押さえられて、
その分非日常の日常感が漂い心が凍る。
やや、淡々と作られている分、
モラルハザードの切迫感の霧散の仕方がナチュラルで、
だからこその痛みを感じる。

そして、二つの作品の重なりからは
震災の外側と内側の想いの色の違いが
大上段に構えることなくグラデーションを持って
かもし出されていました。

・思出横丁
「3.111446・・・」

噺家のように床に座り、
読み語りの態で観る側を惹きつける。
「走れメロス」を芯にして
震災直後の現実を読み上げ、語りあげ、
積み上げていくので
聴く側は勝手知ったる物語の枠とともにやってくるものに
耳を塞ぐことも心を閉ざすこともできない。
しかも、物語と現実の面の出し方の切り替えがとてもしたたかで
観る側が言葉を追ってふっと浮きあがった瞬間に
あるがごとく受け入れざるを得ない刹那が
幾重にも流れこんでくる。

メロスの怒りとその行き場のなさが
震災直後の現実の肌触りと重なって・・・。

読み捨てられていく物の中にこめられた
痛みにまですら緩むことすらない
凍えたようなタイトな感覚は
残らず観る側に引き渡されて
終演後も散ることなく
記憶として残されておりました。

・四次元ボックス
「アカシック・レコード」

アイデアが驚くほど斬新というわけではないのですが、
観る側に世界を紐とかせるための
吸引力が作られていて、
見入ってしまう。
震災との関連という意味では
作品中一番はなれた概念の世界ではあるのですが、
この上演のならびにおかれると
物語が持つニュアンスが
震災の波紋と共振する部分があって・・・。

キャラクターたちの足元がしっかりしていて
そこには観る側がいろいろに重ね合わせることのできる
普遍というか
シチュエーションをとりこむキャパのようなものがあって。
物語そのものに観る側を縛りつけず
上手く機能していたようにおもいます。


・荒川チョモランマ
「止まり木の城」

椅子に書かれた年号で
すっと視座を未来に置いて
子供の視線を作り震災のその後を描いていきます。

子供役の二人の役者のデフォルメがとてもしたたかで、
彼らに置かれた地震の風化の質感が
あざとさを持たず実感として観る側に伝わってくる。
体験や記憶に染まらない視線で描かれれる世界と
小3での体験を持つ先生の精度を持った演技で繋がられた顛末から、
舞台上に
なされていくであろうことと
うみだされるであろうことの因果が
しなやかに浮かび上がって。

どこか、戯画化されたというか
子供語りの世界がおかれているからこそ、
今のあり場所というか座標が、
作品の視座の重なりの狭間に浮かび
観る側に置かれる。

あの日を、そして今を
主観としてではなく客観として眺める舞台、
先生に渡された2012年という時間に今が重なり
視点は再び踵を返して・・・。
その先への一歩のベクトルに想いが巡ったことでした。

*** *** ***

終わってみれば
4つの作品のそれぞれに、
意図を持った視座があって、
それらの震災に対する距離のバリエーションが
1年たっても収まりきれない3.11に対する
俯瞰を創り出していて・・・。

冒頭に問われた観客に対する問いに答えるとすれば
(もちろん個人的な意見ですが)
アフタートークで語られたがごとく、
多分演劇に直接的にできることはないと思います。
でも、その一方で演劇が鏡となって
映し出すものは間違いなくあって。
今回の公演に限らず
震災以降に上演された舞台たちの多くに、
観る側に、
自らや世界の立ち位置や姿を映し出してくれる力を感じたのも事実。
もちろん、作品ごとに鏡として置かれる角度や磨かれ方も異なり
時には恣意的な歪みや虚像が仕込まれていたりもするのですが、
だからこそ見えてくるものも多々あって。

ひとにはきっと自分の座標やありようを知るからこそ
歩み出せることがあるように思う。
別にそのことを知りたくて
劇場に足を運んでいるわけではないのですが、
でも、舞台を見て考えたことは
いろいろにあったように思うのです。

そういう意味では
冒頭からアフタートークも含めて
舞台には、良きにつけ悪しきにつけ、
3.11や今に
何次元にも重なる座標軸の
値を指し示す与える力があることを
実感した公演でもありました。
うれしい悲鳴

うれしい悲鳴

アマヤドリ

吉祥寺シアター(東京都)

2012/03/03 (土) ~ 2012/03/11 (日)公演終了

満足度★★★★

二回目のひょっとこ乱舞
とにかく役者の見せ方ストーリーの見せ方がうまかったです。いくら演劇的な手法が盛りだくさんでもそれが役やお話に直結しなければ意味がないんだなと再認識させられました。
あとこれは作品から逸れるけど制作部からの折り込みに関するお願いが感動させられました。帰ってゆっくりチラシを眺めさせていただきました。

ネタバレBOX

感度をめぐる話という事であらすじを見てなんとなくお話を想像して観劇に臨んだら予想以上に社会的で、いい意味で裏切られました。
敏感な女性のセリフを聴いてこの世界の状況をいつの日本と感じるのか?観ている私たちの感度は正常なのか試されてるのかな?と思わされました。

ラストシーンでちらばめられたお話がつながる感覚、動き回る役者さん、そしてそれを見せる音響照明の美しさ色んな事に感動していたら今舞台上に役の気持ちを感じるのが遅れて、よくあるじわじわと感動ってのと違って、急に泣くという圧倒されながらも心は無意識で感動しているという不思議な感覚を味あわせて頂きました。
ただそれだけにもっと全体を理解したかった。理解できなかったのが悔しいです。そういう意味ではまた観たいと思う作品でした。

ダンスシーンが若干場転の為というか役者の動きが作業と感じてしまうのがちょっと辛かった。圧倒されて気付いたら役者がその位置にみたいな感動を味わいたかった。頭のダンスで圧倒されただけにそれがちょっとだけ残念でした。
大爆発後も、応援しています
II-Bass session.8

II-Bass session.8

激団リジョロ

APOCシアター(東京都)

2012/03/07 (水) ~ 2012/03/07 (水)公演終了

満足度★★★★

ド迫力!!
激団リジョロⅡ-BASSは何度目観ても面白い。
今回は司会者たちにも粋な趣向が凝らしてあって、始まる前から退屈はしませんでした。

相変わらず役者の皆さんが身体を張っててすごいなーと感じました。

メインが一番面白かった!!
時間ごとに突然別の役者さんが飛び出してくる新ルールには「次は誰が来るのかな??」とわくわくが止まりませんでした。

最初から舞台にいた役者さんが、飛び入りの役者さんを必死で帰そうとする場面も面白かったです。

最後のオチも絶妙。が、あと1秒早かったら間に合ったのに(笑)
もう10分観てたかったー!!

ジレンマジレンマ

ジレンマジレンマ

ワンツーワークス

ザ・ポケット(東京都)

2012/03/03 (土) ~ 2012/03/11 (日)公演終了

満足度★★★★

覚悟
3・11で起きた3つの事件が、それぞれ取調べ・調査という形で進んでいき浮き彫りになっていく様子にどんどん引き込まれていきました。

登場人物の誰もがかかえるジレンマと、その根底にある自身の正義。
正義があるから覚悟もできる。
覚悟がどういった結末を迎えてしまうのか、という怖さは感じました。

自分にとっての正義は相手にとっての不義になるかもしれないけれど、劇中(多分)一度だけ使われる言葉が、ジレンマを生み出し、またその言葉が言えないから対立するのかもしれないと思いました。

何気なくならこんなに簡単に言えるのに、物事が大きくなっていけばいくほど正当化しようとしてこんな簡単な言葉も言えなくなってしまう。
そして、大事になってしまえば言葉だけでは済まされない。

それは劇中にある3つの事件だけでなく、物事全般に対して言えることでもあり、自分自身に問いかけるものでもありました。

アフタートークも聞いてきたのですが、出演者の方がセットがヒエラルキーになっているのが面白いと言われてて、そこで初めて気づきました。
効果音について役者さん自身の解釈も聞けて面白かったです。

社会派の内容をきっちり伝えられるのは役者さんの力量がしっかりしているからだと思いました。

スケベの話

スケベの話

ブルドッキングヘッドロック

サンモールスタジオ(東京都)

2012/02/29 (水) ~ 2012/03/11 (日)公演終了

満足度★★★

セイなる夜編
女々しくてシリーズ第3弾~セイなる夜編は第1弾を彷彿しました。
タイトルにスケベと入ってるけど、全然とは言えませんがそれ程でもなく、やはり“女”の物語でした。

照れや戸惑いがあると一気に恥ずかしくなってしまいそうですが、芝居であり台詞であり、また合間合間に細かい笑いが入っていて声を出して笑ったり、最後はしんみりさせられるブルらしい終わり方でした。

女が女である所以。
女とは。
女々しくてシリーズを見るとこんな事を考えます。

Final Fantasy for XI.III.MMXI

Final Fantasy for XI.III.MMXI

福島県立いわき総合高等学校

福岡明治安田生命ホール(福岡県)

2012/03/03 (土) ~ 2012/03/03 (土)公演終了

満足度★★

テーマ主義の弊害
 フクシマの高校の生徒たちによる、震災と原発を題材とした(明確に反原発をメッセージとした)演劇である。その事実を無視してこの舞台を鑑賞することは難しい。「あの事故を、実際にあの場所にいた生徒たちはどう感じたのか」。作り手の生徒たちが観客に伝えたいこともそれであろうし、我々の関心がその点に集中してしまうことも意識の流れとしては自然なことだからだ。
 しかし、そのために、「演劇として」この舞台を鑑賞する視点が客席から見失われてしまうことは、演劇部である彼らにとっては不幸なことなのではないだろうか。
 この舞台の欠点は、これが「テーマ主義」によって構成されているために、まずメッセージ性ばかりが強調されて、演技や演出についての分析を「口にしにくい」状況が生じていること(普通の芝居になら言える「へたくそ」という文句すら言いにくい。フクシマの学生が一生懸命作っているのにケチを付けるとは何事だ、というファンダメンタルでヒステリックな反発すら予想されるからだ)、そして、実際に被災地の当事者によって作られた物語であるにも関わらず、“被災地外の人間であっても作れる作品”になってしまっていることだ。
 恐らくは、その事実に気付いている観客も少なくはないと思われる。しかし、彼らにそのことを伝える大人はいない。誰も彼らを甘やかすつもりはないだろうが、結果的にはそうなる。彼らを評価するのは、こういうテーマがむき出しになった物語ではなく、もっと日常的な題材の演劇であったり、テーマを押し出さない純粋なエンタテインメント作品の方が適切なのではないだろうか。

ネタバレBOX

 「テーマ主義」の作品が誰にでも書ける、というのは別に私が言いだした話ではない。菊池寛の一連の作品に対して行われた、文芸評論家たちによる批判である。伝えたい主題が決まっているから、その表現手段、キャラクター設定や物語の展開も自然と決まってくる。誰が書いても同じ、と揶揄されるのはそのせいだ。菊池寛の戯曲『父帰る』が映画『男はつらいよ』シリーズにさしたる工夫もなく流用されている点でもそれは明らかだろう。
 だから、書き手側にしてみれば作るのに苦労しない方法ではあるのだ。高校生ら演劇初心者に“教える側”としては、テーマ主義を一概に否定されても困るだろう。

 しかし、その「苦労しない」ことが、この舞台では「安易さ」に繋がっている部分も、決して少なくはない。
 特に「震災と原発」という、決して短絡的には結論づけられない重要な問題について、明確に「反原発」という一点にテーマを集約して描かせることが、果たして妥当であったかどうか、疑問である。エチュードを中心にして、生徒自身にアイデアを出させる方法は決して悪くはない。そこには「自然な感情」が表現として昇華されるための萌芽があるからだ。
 だが、多くの生徒がアイデアを持ち寄っているにも関わらず、物語が一つのテーマに「一貫しすぎている」のは、なぜなのだろう。果たしてこの物語は本当に生徒たち自身の心から生まれてきたものなのだろうか。そこに教師による「過度の誘導」がなかったかどうか、それはいわき総合高校の演劇部が、「高校演劇は高校生自身の手で」という目標を掲げる姿勢を堅持しているのであれば、きちんと問われなければならないことであろう。

 物語は、初め、二人の少女の会話から始まる。
 ヒロコとキリカ。陸上部だった二人。あの震災で引き裂かれてしまった二人。「あの時、待ち合わせ場所に私も行っていれば」。後悔を口にするヒロコ。目の前の椅子に座っているキリカは、もうこの世にはいないのだ。
 全編を通じて、最も演劇的だったのは、この冒頭シーンである。一方は生身の人間で、一方は幽霊。しかし心を失っているのは生きているヒロコの方であるようにも見える。「罪悪感」が彼女の心を押しつぶしてしまっている。
 二人の演技は極めて静かで、か細い声であるにも関わらず、いや、だからこそヒロコの胸を塞いでいる思いの重さが、客席にまで伝わってくるのだ。高校演劇にありがちな、ただ声を客席奥まで届ければいいといううるさいだけの過剰演技はここにはない。現代口語演劇の方法が、最も効果的な形で実行されている。
 キリカの姿は他の部員には見えない。ヒロコにしかキリカは見えない。それがヒロコの心が孤独に蝕まれている証拠だ。このシーンは、ラストの、再びヒロコの前に現れたキリカが、今度ははっきりと、別れを告げるシーンに呼応している。
 別れを告げられなかった友への思い。あるいは家族への、あるいは仲間への、もう伝えることが叶わなくなってしまった思い。被災地で、同じ思いをした人々がどれだけいたことだろう。この二人のシーンは、あの震災を経験した者にしか伝えられない「心」によって描かれている。

 ところが、これから先の本編が、一気に失速してしまうのだ。「心」ではなく「アタマ」で作った、出来の悪いギミックでできた玩具のような、チャチなシロモノに成り果ててしまう。
 旧校舎に「復活の呪文」が隠されていて、それを探し出せば、全てが元に戻る。その情報を信じて、ヒロコや良輔たちは倒壊の危険がある旧校舎に忍び込んでいく。
 そこで、菅直人やら枝野やら東電の社長やら、さらに保安員だの原子炉だのラスボスのなんたらエコノミーだの、「敵」が戯画化されて彼らの前に立ちはだかり、そいつらをヒロコたちは倒していくのだが、このあたりがサッパリ面白くない。
 アフタートークで「観る人によって受け取り方に温度差があるのは当然だし、押しつけがましくなることを避けた」「ただ怒りをそのままぶつけるのではなくて、笑い飛ばしてやろうと思った」という発言があった。
 その姿勢自体には共感するが、「押しつけがましくしたくない」という目的は、結果的には成功していない。押しつけがましさを回避した表現としては、せいぜい登場人物たちに「声高に反原発を訴えさせない」といった程度のことしか配慮されていない。全体的にはやはり「反原発」以外の見方はされていないのだから、多角的な視点がない点においては、やはり「押しつけがましく」なってしまっているのである。
 さらに彼らには「笑う相手を最初から戯画化していてはからかいにならない」というギャグの基本が分かっていない。だからゲーム部分がことごとく「絵空事」にしか見えなくなって、たいして笑えないものになっていることに気が付かないのである。
 いや、原子炉を寒いギャグで冷やすっての、馬鹿馬鹿しくて好きだけど、面白いかと言われたら、ちょっと困るでしょう。ゲンシーロくんの「受け方」の間がよくて、笑えはしたけど。

 揶揄する相手は、真面目に描かないとからかえないのである。ふざけて描くと、相手もこちらも同じキャラになってしまうので「馴れ合い」が生じるのだ。漫才の両方がボケになってしまうようなものだ。
 からかう相手が権威的であったり糞真面目であったりするがゆえに、かえっていざというときのオタオタぶりが滑稽に見えるのだ。サム・ペキンパー『戦争のはらわた』のラストの壮絶なギャグシーンを思い浮かべていただければ、権威とか真面目といったものがいかにくだらなくて、益体もない馬鹿馬鹿しいものであるか、それをどのようにからかえば表現として効果的なのか、ご理解いただけることだろう。
 銃に弾倉を装填するやり方すら知らなかったシュトランスキー大尉(マクシミリアン・シェル)の姿は、原子炉の構造一つ理解していなかった東電幹部と見事に重なっている。

 コトが起きたあとで、彼らの無責任を追求するのは簡単である。
 しかし、コトが起きる前、我々は信頼とまでは言わずとも、生暖かい眼で彼らを見ていたはずだ。
 現地の人々にとっては、東電の人々はごく普通の近所のオジサンたちであったろうし、親しく声を掛け合った人々もいたはずである。
 その「東電のおじさんたち」が、いきなり悪の権化として糾弾されることになる。「でんこちゃん」は国民を惑わすプロパガンダキャラクターとして排斥されることになる。いや、それをしてはいけないというのではない。彼らが故意か、好意的に解釈してやはり「想定外」だったのか、どちらにしろ事故の責任を回避できる立場にないことは厳然たる事実だからだ。
 だとしても、東電と「共存」してきた現地の人々が、彼らを批判するためには、自分の身をも切る覚悟が必要になるのではないだろうか。ただ戯画化したキャラクターにしてからかうだけでは、それは「部外者の発想」と変わりがないのではないだろうか。
 実際、この舞台の中盤の殆どは、被災地外の人間が書いたのではないかと疑われるほどに「他人事」になってしまっている。原発関係者が、「敵」として相対化されすぎている。「RPGゲーム」という形式を持ち込んでしまったために、それ以外の描き方ができなくなってしまったのだ。

 たとえば、現地には、「東電社員の子供」だっているはずだ。彼らは、避難生活を送りながら、「お前の親父のせいでこんな目に遭ったんだぞ」などといじめられたりはしていないだろうか。
 そういう子供は、この芝居の中には登場できない。テーマから外れ、テーマを揺るがしかねないキャラクターは「邪魔者」なのだ。しかしそういう子供を排除することが、被災地の「現実」、ひいては被災者の「実感」を伝えることになるだろうか。原発推進派の言い分にも説得力がないわけではない。それを受け止めた上でなお反論する構造がこの舞台にはない。一方的な攻撃であってもそれが説得力を持つのは、勧善懲悪のエンタテインメントだけだが、この題材は、一番、そうあってはならないものではないのだろうか。
 単純なゲーム構造を持ち込んでしまったことが、この舞台を善か悪かの単純な二項対立による、極めて幼稚なものにしてしまっているのだ。
 「家を流された人と、ほんの数メートルで助かった人と、それだけで被災の実感に温度差が生まれる」との発言もアフタートークで気になったものの一つだった。この舞台を観た時の違和感がまさしくその点にあって、「被災の程度が低い人たち」が作った芝居なんじゃないか、という印象が拭えなかったからだ。

 震災も、原発事故も、喜劇にして構わないと思う。
 しかし、この事故を引き起こしたのが特別な悪人でも金の亡者でもなく、たとえどこぞの国にヘイコラしてきた連中が裏で糸を引いていたとしても、彼らはごくフツーの人々であって、なのに彼らの思惑が複雑に絡み合った結果、総体としては国を狂った方向に押し流してしまっていること――その視点がなければ、いくら国や東電をからかって見せたところで、批評性は形骸化するばかりだ。そんなものに意味はあるまい。
 観客は「別れの切なさ」に涙を流し、ああ、いいものを見たなあ、という感覚だけを持ち帰って、日常の中ですぐに震災のことも原発のことも忘れていってしまうだろう。
 観客は、映画や演劇で感動した涙を、決して現実には反映させない。口では感動したとか考えさせられたと言っても、実際には何も考えていないに等しい。“そんな気になって満足しているだけ”である。そのことは、かつて伊丹万作が『映画と癩の問題』という小文の中で指摘し、作り手としてはそんな観客の反応に惑わされてはいけないと批判していることである。
 「芸術の徒としての私は、芸術鑑賞および価値批判の埒内においては人間の涙というものをいっさい信用しない」と。
 
 「高校生が作った芝居なんだから」という言い訳は、自分で自分の首を絞めることになる。それは「高校生にはたいしてものを考える力がない」と告白するに等しい。
 アフタートークで、ともかくこの芝居は震災3ヶ月後の、情報が錯綜して、怒りの矛先をどこに向けたらいいか分からない状態で作った、今は冷静になっているので、もっと別の見方もできるようになったと思う、という発言があったが、そのことを肯定的に捉えたいと思う。
 勢いだけで作った演劇であるから、決して賞賛できる作品には仕上がっていない。そのことは、いわき総合高校の生徒たち自身が自覚していることである。
 ネットの批評子たちが、本作をろくに演劇としてどうかという分析もせず、安易に「頑張って作ったね」と誉めるのはいかがなものだろうか。もうその発言の「偽善性」に、いわきの生徒たちも気付いていると思うけれど。
レシピエント

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ドリームプラス株式会社

紀伊國屋ホール(東京都)

2012/02/29 (水) ~ 2012/03/11 (日)公演終了

満足度★★

社会と個
臓器移植と脳死がテーマの社会派な内容かと思いきや、ドナーとレシピエントという個と個の人間ドラマにもなっていました。

社会的に考える問題ではあるけど個を無視してはいけない、とは思いますが人間ドラマとしても中途半端でどっちつかずだったような気がします。
また、ご都合主義の展開に正直ついていくことができませんでした。

でも、今まで身近になかった問題なので知らない事が色々あり、考えるきっかけになりました。

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