日本の問題 Ver.311<公演終了しました。ありがとうございました!> 公演情報 日本の問題「日本の問題 Ver.311<公演終了しました。ありがとうございました!>」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★

    様々な視座から浮かび上がるもの
    4団体の5作品、
    団体・作品ごとに
    大震災に対する視座がそれぞれにあって、
    終わってみれば、
    点ではなく面・空間で浮かんでくるものを感じました。

    どの劇団にも、既存の感覚や考え方に捉われない
    意思と切っ先をもった表現が編み込まれていて
    舞台に引き寄せられました。

    ネタバレBOX

    冒頭にちょっとした口上があって
    場の雰囲気が少々歪む。

    そのなかで、作品が繋がれていきます。

    ・劇団けったマシーン
    「まだ、わかんないの。」/「指」

    広田淳一・瀬戸山美咲さんの2人芝居を丁寧に舞台にのせて。

    「まだ、わかんないの」では
    戯曲に編みこまれた震災後の空気を
    役者たちがゆっくりと引き出して。

    ダイアログやモノローグの言葉が、
    心情に落とされ膨らみ
    言葉を想いが凌駕し、
    キャラクターの心情の揺れが概念から実存感に変わっていく。
    男優が献身的に作り上げた枠組みにたいして
    女優の心情の踏み出しに
    ひとつの感情でなくいくつものアスペクトを持った想いの質感が
    立体的な重なりへと組みあがっていく。
    淡々とした日常に内包された揺らぎのようなものが
    役者の、クリアでしなやかさをもった表現とともに、
    ゆっくりと像を結び観る側に踏み入ってくる・・・

    「指」は昨年の日本の問題でも観ている作品ですが、
    色の強さは若干押さえられて、
    その分非日常の日常感が漂い心が凍る。
    やや、淡々と作られている分、
    モラルハザードの切迫感の霧散の仕方がナチュラルで、
    だからこその痛みを感じる。

    そして、二つの作品の重なりからは
    震災の外側と内側の想いの色の違いが
    大上段に構えることなくグラデーションを持って
    かもし出されていました。

    ・思出横丁
    「3.111446・・・」

    噺家のように床に座り、
    読み語りの態で観る側を惹きつける。
    「走れメロス」を芯にして
    震災直後の現実を読み上げ、語りあげ、
    積み上げていくので
    聴く側は勝手知ったる物語の枠とともにやってくるものに
    耳を塞ぐことも心を閉ざすこともできない。
    しかも、物語と現実の面の出し方の切り替えがとてもしたたかで
    観る側が言葉を追ってふっと浮きあがった瞬間に
    あるがごとく受け入れざるを得ない刹那が
    幾重にも流れこんでくる。

    メロスの怒りとその行き場のなさが
    震災直後の現実の肌触りと重なって・・・。

    読み捨てられていく物の中にこめられた
    痛みにまですら緩むことすらない
    凍えたようなタイトな感覚は
    残らず観る側に引き渡されて
    終演後も散ることなく
    記憶として残されておりました。

    ・四次元ボックス
    「アカシック・レコード」

    アイデアが驚くほど斬新というわけではないのですが、
    観る側に世界を紐とかせるための
    吸引力が作られていて、
    見入ってしまう。
    震災との関連という意味では
    作品中一番はなれた概念の世界ではあるのですが、
    この上演のならびにおかれると
    物語が持つニュアンスが
    震災の波紋と共振する部分があって・・・。

    キャラクターたちの足元がしっかりしていて
    そこには観る側がいろいろに重ね合わせることのできる
    普遍というか
    シチュエーションをとりこむキャパのようなものがあって。
    物語そのものに観る側を縛りつけず
    上手く機能していたようにおもいます。


    ・荒川チョモランマ
    「止まり木の城」

    椅子に書かれた年号で
    すっと視座を未来に置いて
    子供の視線を作り震災のその後を描いていきます。

    子供役の二人の役者のデフォルメがとてもしたたかで、
    彼らに置かれた地震の風化の質感が
    あざとさを持たず実感として観る側に伝わってくる。
    体験や記憶に染まらない視線で描かれれる世界と
    小3での体験を持つ先生の精度を持った演技で繋がられた顛末から、
    舞台上に
    なされていくであろうことと
    うみだされるであろうことの因果が
    しなやかに浮かび上がって。

    どこか、戯画化されたというか
    子供語りの世界がおかれているからこそ、
    今のあり場所というか座標が、
    作品の視座の重なりの狭間に浮かび
    観る側に置かれる。

    あの日を、そして今を
    主観としてではなく客観として眺める舞台、
    先生に渡された2012年という時間に今が重なり
    視点は再び踵を返して・・・。
    その先への一歩のベクトルに想いが巡ったことでした。

    *** *** ***

    終わってみれば
    4つの作品のそれぞれに、
    意図を持った視座があって、
    それらの震災に対する距離のバリエーションが
    1年たっても収まりきれない3.11に対する
    俯瞰を創り出していて・・・。

    冒頭に問われた観客に対する問いに答えるとすれば
    (もちろん個人的な意見ですが)
    アフタートークで語られたがごとく、
    多分演劇に直接的にできることはないと思います。
    でも、その一方で演劇が鏡となって
    映し出すものは間違いなくあって。
    今回の公演に限らず
    震災以降に上演された舞台たちの多くに、
    観る側に、
    自らや世界の立ち位置や姿を映し出してくれる力を感じたのも事実。
    もちろん、作品ごとに鏡として置かれる角度や磨かれ方も異なり
    時には恣意的な歪みや虚像が仕込まれていたりもするのですが、
    だからこそ見えてくるものも多々あって。

    ひとにはきっと自分の座標やありようを知るからこそ
    歩み出せることがあるように思う。
    別にそのことを知りたくて
    劇場に足を運んでいるわけではないのですが、
    でも、舞台を見て考えたことは
    いろいろにあったように思うのです。

    そういう意味では
    冒頭からアフタートークも含めて
    舞台には、良きにつけ悪しきにつけ、
    3.11や今に
    何次元にも重なる座標軸の
    値を指し示す与える力があることを
    実感した公演でもありました。

    0

    2012/03/09 07:11

    0

    0

このページのQRコードです。

拡大