満足度★★★★
「空気を読む」とか「少数派の意見も」とかオトナはいろいろ気にして発言したりする。
他人から見たら気持ち悪いそんな感じを延々と。
会話が面白すぎて終始ニヤニヤしていた。間もいいし。
久保貫太郎さん上手いなあ。
満足度★★★★
『うかうか三十、ちょろちょろ四十』は井上ひさしさん作、現代版・イソップ『約束…』は田辺聖子さん原作で、大人が観てもかなりビターな2本立て。
子どもにはツラかったかもしれない。
実際『うかうか…』上演中に「まだ終わらないのー」と言っている子どもも見かけた。
『うかうか…』は人間の俳優が演じたものも観たことがあるが、こちらの人形が演じたほうが良かった。殿様役が複雑で難しすぎるから。
満足度★★★★★
なんという面白さ!
圧巻の舞台!
唐十郎の戯曲はさすがだっ!
金守珍さんの演出もテンポいいし、ラストまで一気に見せる。
金守珍さんもいいのだが、若きヒロイン清水美帆子さんが、あの濃い中にあってもビー玉のように光る。
生演奏も歌もいい!
山谷初男さん&中山ラビさんの生歌最高!
言ってしまえば、いにしえの(33年前の)アングラ演劇なのだが、古びることはない。懐古趣味で見ているわけではないのだ。
どんなに古い、あるいは中途半端に古い(古典にはならない)戯曲であっても骨がしっかりとしていて、演出と役者が確かならば、いつの世に観ても面白い演劇になるということだ。
劇中歌「氷イチゴの歌」は小室等さん作だということを後から知った。
満足度★★★★★
強烈!!
いわゆるSF的な並行世界=パラレルワールドではない、脳内パラレルワールド。
女子会的なところへ男の侵入としいう見た目から狂気の世界に突入する。それに対する細かい説明はない。
面白い!
気になる劇団がまた1つ増えた!
満足度★★★★★
深夜ラジオ&トラックドライバーの話なのに、ガルシア・マルケス好きのボスさんらしい幻想的で、青臭さが炸裂した作品に。
ボス村松戯曲としては今まで一番の作品ではないだろうか。
ボスが声を張ったバージョンも観てみたい。
ラジオMCの2人がとても良い。
「昨日の女王から明日の女王に“今日という一日”を運ぶトラックドライバー」なとどいう設定と台詞の青臭さがたまらなくいい。ボス戯曲らしい。
台詞の濃厚さも。
満足度★★★★
いつもの松本哲也さんの戯曲とはかなり異なっていた。日常生活の中にある、悪意とも言えないレベルの気持ち悪さが全体を覆う。登場する役者がすべて上手い。絶妙なところを突いてくる。ラストの松本紀保さんの絞り出し、吐き出すような独白には震えた
ネタバレBOX
この日のアフタートークは佐藤二朗さんだった。
彼が異儀田さんが台詞を二度繰り返すところが面白いと言っていたが、実は演出の青山勝さんが「佐藤二朗さんのように二度繰り返せ」と異儀田さんに言っていたということがわかったりした。それには笑ってしまった。
満足度★★★★★
ずっしりと身体にのしかかるような作品。
舞台上には、垂れ下がる半透明の布。
チェロの生演奏がある。
被災地にいなかった者やいることができなかった者が持つ罪悪感。
当事者、当事者……。
自分の中で、どこか結びつく、震災と介護。
京都の団体が「東日本大震災」「被災地」と向き合う。
それは作品のテーマとも深く絡みながら、東京にいる私にも絡まってくる。
考えることは多く、答えは出ない。
しかし考えることをやめてはいけない。
主人公はリュックを背負っている。それはいつ下ろすことができるのか。
私たちも同じリュックを背負うべきなのだろうか。
母なる者を求める。
山岳信仰・神楽(舞)・山伏。
水が流れ出す。
満足度★★★★★
作・演出の岩井秀人さんが自らの「引きこもり体験」をもとにした作品。
古舘寛治さんの病欠の代役で、急遽松井周さんを迎えた初日。
ネタバレBOX
今は引きこもりを支援する側に回った男と、10年引きこもっている男、28年引きこもっている男と、その家族の話。
結構ツライ話ではあるが、笑いも多い。笑いの中に哀しさがある。笑いの先にツライ顔が見えたりもする。
特に花火の音がする「窓」のシーンは胸が痛くなる。「本人」がすぐさま否定するだけに。
松井周さんを迎えた初日をコペルニクス的解決方法(? つまりなんというか、手に台本を持ったまま演技する!)で乗り切っていた。
実はノートを見るシーンがあるので、その延長線上にある感じがして、さほど違和感はない。
それ観てなんか得した気分。
ただ、前回(2012年版)の古舘寛治さんを観ているので、ついつい比べてしまってはいるのだが。
今回は舞台上や構成が混乱していたイメージ。
場面、場面に、きれいにスポットが当たりにくい。
常に(というか、ほぼ)舞台の上には全登場人物がいて、セットというか装置類も同じ机やイスを動かしたり、積んだりする。
その混乱は、完成度高いもの、完璧なものとは違うところの面白さに出た。
心がざわつく内容だから、それが作品にプラスに働いていた。
岩井秀人さんの、自分が言いたいこと、表したいことを上手く表現できない、なんともな、アノ感じが上手すぎる。「自分が人からどう見られているのか」を見ているような気分になった人も多いかも。チャン・リーメイさんのクールさが際立つ。能島瑞穂さんのお母さん度の高さは、自分に向けられているようで、見ていてツラい。
古館さんには陰が濃かったので、自殺してしまうのには「えっ」と思ったが、なんとなく納得できてしまう(自殺に納得できるというのもヘンだが)。
松井さんは、道案内もレストランでのオーダーもどこか楽しそう。
なので、自殺には「えっ」となり、さらに「なぜ?」が出てくる。たぶん自殺してしまう人の周囲では「なぜ?」が浮かび、後付けで理由が探されるのではないか。そういう意味においてリアルだったのではないかと思うのだ。
最初の『ヒッキー』が2003 年ということは、今年で15年経っているということ。つまりその2003年に引きこもっていた20代は30〜40代になっていることになる。
今回の作品で28年引きこもっていた次郎には年老いた父と2人暮らしだった。
ということは、今後「引きこもり+介護」が出現する可能性も出てくるはずだ。いや、いろいろな事件を見ていると親の年金で暮らす老人とその年老いた子どもというパターンも見ることができる。
もしこの作品の続編があるのならば、次はその世界を描くことになるのかもしれない。『男たち』と『ヒッキー・ソトニデテミターノ』の中間を埋めるような作品だ。
そのときには、彼はそこにいるのだろうか。
満足度★★★
タイトル通りに『ロミオとジュリエット』を下敷きに、現代が舞台。
ネタバレBOX
宗教によって分断された2つの地域に住む男女の話。
オープニングの歌を聞いて「こりゃダメだ」と思ってしまった。
それぐらい歌が揃わず、気持ちが良くなかった。
しかし、若々しさ溢れているし、舞台との近さが良かった。
豊原江理佳さんがまぶしいぐらいに活き活きしていた。
マルシアさんの歌の上手さはさすが。
ただし、男性陣が歌唱力、ダンスのキレがなく、それがあれば良かったのに、と。
また、ミュージカルなのだが、印象に残る曲がなかったのは残念。
ロミオ設定の男が生き残ってしまうラストはイマイチ納得できない。
ジュリエット設定の女の後追いをしようとするのだが、死ぬことができない。
先に死んでしまった友人やジュリエットが「死ぬな」と言うのだが、それは自分が見せている言い訳にしか見えない。
「死ぬことができない」というのが現代的な設定であるのならば、そこはロミオ自身の「覚悟」としてきちんと見せてほしかった。
満足度★★★★★
会社で起こる諸々の問題を、1本の作品に見事にまとめた戯曲の上手さ、演出のキレも相変わらずいい。
ネタバレBOX
自動車メーカーとその下請け企業が舞台。
現実の、ある自動車会社の燃費不正問題が下敷きになっている。
EV開発を巡る電池開発にかかわる問題に、社内の昇進、ヒエラルキー、親会社・子会社の関係、派閥、恋愛等々の人間関係やそれぞれの思惑や働くことの意味・意義などを無理なく込めた作品。
細かいところに気配りがあり、台詞がいい。
それを操る役者の表情もいい。
役者も皆良く、佐々木なふみ&芦原健介、澤井裕太&吉田テツタの各コンビに本気でイラつく(笑)。
「あんただったらどうする?」と突きつけられてる感。
会社員の皆さんは観てゲンナリしてほしい(笑)。
満足度★★★★
iakuは会話をきちんと見せてくれる。
今回もとてもいい会話劇だった。
そして、チクリとしたトゲのような感覚が物語の中にある。
小松台東の松本さんの演出は、会話発語のタイミング、間がとてもいい。
満足度★★★★★
吉田修一の小説『悪人』が2人芝居で舞台化。
原作でも映画でも。結局2人に行き着くのだが、舞台でそれをどう見せるのか興味津々。
結論を言えば「かなり良い舞台」だった。
ネタバレBOX
女性を軸に彼女の独白で物語は進む。
男性の設定からしてもそれが妥当だろう。
灰色のこの世界にたった1人だったのが、たった2人になった。
ベッドシーンがなぜだか哀しい。求め合う2人の姿。
原作のイメージ通りの中村蒼さん。
この感覚で毎日公演を続けても大丈夫なのか、と思うほどの大熱演の美波さんが凄い。
恋愛の初期衝動のような輝きを見せてくれた。
舞台を観て感激した人は是非原作も読んでほしい。
登場する人々の背景が細かく描かれているからだ。
文庫本で言えば舞台は「下巻」なので、「上巻」にそれが詳しい。
満足度★★★★★
散々笑わせておいて、ラストにはお腹のあたりがどろ〜んと重くなるという、いつものMONOでした。
「同じ登場人物」で『続・隣の芝生も。』もやってほしい。心の平和のために。じゃないと人間不信になる(笑)。
満足度★★★
テンポ良くさくさく進むので引き込まれた。
セットもさすがだし、照明もとてもいい。
2時間35分(休憩含む)の上演時間も決して長いとは感じなかった。
のだが……。
ネタバレBOX
画家や母である女社長、その母に反発するお嬢さんというキャラクターが、あまりにもステレオタイプな造形なのと、母と娘の和解というストーリー展開が予定調和すぎ。どこかで見たような感。
「絵の修復をすることで娘が父を見つける旅」みたいなストーリーなのだが、観客は母=ニケということは前半の早い時期にわかってしまうので、そこから観客をさらに深みに持って行く企みがあるのかと思っていたら、単にそれだけだった。娘の心の動き(身体の傷と心の傷を癒やしていく旅)などがもっと感じられるようなエピソードなどがあれば良かったのかもしれないのだが。
母=ニケを描いた上に白を塗り重ねたのは……も無理矢理な感じだし、夕陽を母娘で見て(父の画家も現れて)エンドというのも、いにも感動シーンですよ的で、ややありきたりな。
母親役の方は(役名のリストがないので役者が不明)、バリバリやっている女性社長のカッコ良く貫禄もあり、とてもいいのだが、20年以上前のときの画家や画商にとってのミューズ的な役はどうだろうか……。画家がのめり込むミューズとしは共感できなかった。
修復の仕事をしている娘役の方は、声のトーンや若々しさで劇中にとてもいい風を吹かせていた。
少し気になったのは、画廊で修復をしている主任的な女性が積極的に仕事にかかわっていきたいと貪欲なアシスタント的な女性に向かって「あなたみたいな人は、たぶん私よりも給料が高い人と一緒になれるし、いい奥さん、いいお母さんになれる」みたいな台詞があった。これってどういうことだろう? 仕事の能力がある私(たち=主人公の女性)はそういうのは無理だけどあなたならそうなれる、ということなのだろうか。台詞の意味を悪く取り過ぎた?(笑) とても気になった。
満足度★★★★★
『曖昧な犬』というタイトルがあまりにも素敵すぎる。
「曖昧な犬」や「窓から覗き込む顔」だと思っていたのだが、雷鳴と稲妻の閃光で見えたのは「観客の顔」だったのではないか。
(以下ネタバレBOXに長々書いてます)
ネタバレBOX
(一気に書いたので誤字脱字等々があり、後で修正するかもしれません。悪しからず……)
『曖昧な犬』というタイトルがあまりにも素敵すぎる。
もっともその言葉には、すぐに思い当たるものがなかったのだけど。
宮沢賢治の『ガドルフの百合』という作品の中に出てくる言葉だと後から知った。
『ガドルフの百合』という小説は完全に忘れていたが、読み返して思い出した。
宮沢賢治のイメージ(言葉)が炸裂し、小説の内容をいろいろと解釈できるような作品だった。
「曖昧な犬」が登場する個所の数行は劇中でも出てきた。
「いた」のか「いなかった」のは不鮮明。
それは視覚的に「見えたはず」という不鮮明さよりは、「意味」においての不鮮明さだ。
「人」や「犬」というカタチをとりながらも「意味においての曖昧さ(不鮮明さ)」。
それがこの作品の背骨にあったと思う。
『ガドルフの百合』はなんとなく「無音」で読んでいるのだが、実は作品の中では雷鳴が轟いている。
「百合」が見えた一瞬も閃光とともに雷鳴がある。
この作品でも「耳障り」なほど台詞をがなっている。
ミクニヤナイハラプロジェクトの過去の作品でも高速回転の台詞は大声であったが、「叫び」のようなものではなかった。
したがって、「叫び」のような台詞の発声は意図したものではないかと思う。
すなわち「雷鳴」だ。
「人が覗いている」と思ったら「百合の花」だったという『ガドルフの百合』に照らし合わせると、「叫び」の台詞は観客に「本当のこと(あるいは何か)」を気づかせるための「雷鳴」なのだろう。
それは「何なのか?」「何に気づかせるのか?」。
四隅に扉がある部屋に閉じ込められた(と思っている?)3人の男たちがいる。
彼らは「閉じ込められているのか?」。その答えはラストに見ることができるのだが、3人目の男は自らの意思でドアを開け入ってきたように(観客には)見える。
しかし彼は「閉じ込められた」と言う。
彼らが持っている「ドアを開けることができない鍵」は、「使い方がわからない」のであって無用の物ではないのだろう。
彼らが本気で使おうとするときには、鍵は使える物になるのではないだろうか。
部屋はビデオカメラによって監視されているようだ。「記録されているのか?」そして「誰が見ているのか?」
ビデオカメラの映像は、時間の経過を示す。映像の下に現在の時間が表示されている。
そして過去の映像に戻っていたりする。それを「見ている」のは間違いなく「観客」だ。
「閉じ込められている部屋」と彼らが主張するスペースは、吉祥寺シアターの舞台スペースであり、彼らの周囲には壁などない。
それが現実であり、彼らの置かれている状況だ。
しかし観客は彼らが「部屋の中にいる」と思っている。
現に彼らが走り回るときには「あるはずの壁」の「外」に「あえて」出たりするし、小道具を取るためにも「あえて外」に出たりしている。
閉じ込められている「部屋」は彼らの中にしかないのだ。観客がそれを一番知っている(はず)。それでも観客は彼らが「部屋の中にいる(閉じ込められている)」と思っている。
3人の男たちは「自らの壁の中」にいるのに。
そういう「ルール」だから。3人の男にとっても観客にとっても。
さらにそこにいるのは3人の男なのかどうかも「曖昧」なのではないか。
私たち観客が見ているのは「曖昧な監禁部屋」と「曖昧な3人の男たち」なのかもしれない。
そこに「いる」のか「いない」のか、「ある」のか「ないのか、曖昧で不鮮明な空間を私たちは観ている。
3人の男は「時間」という縛りの中で「ある空間」に「閉じ込められている」と思っているのだが、実際に、かつ確実に「時間」と「空間」に閉じ込められているのは「観劇しているはずの私たち」なのだ。
その「ルール」は誰が作ったのか。自分たちではないか。3人の男たちと同様に。
ルールを破ってしまえば、「あるテイでやっている」演劇は崩壊してしまう。
なので従うしかないのだが、それも疑ってみるのもいいのかもしれない、と舞台の上から言われているような気になってくる(いや、こなかったので粛々とルールに従って観てましたが…)。
つまり「ある時間」になれば(時間が経てば)、3人の男たちと同様に、上着を着てそこから(観客席から)出ていくことができる。コンビニにだって寄れる。
3人の男たちが置かれている状況は、時間や空間、そして頭の中の境が曖昧になっている。
それは観客との境界が曖昧となっているのと同様で、作・演の矢内原美邦さんの頭の中と私たちの頭の中との境界も曖昧になってくるのではないか。
雷鳴と稲光の閃光で見えたのは、「曖昧だった犬」の本当の姿であり、「窓から覗いている顔」の本当の姿であるのだから、つまりそれは吉祥寺シアターにいる「観客の顔」だったのかもしれない。
ミクニヤナイハラプロジェクトは高速回転台詞の印象があるが、今回は言葉が意味として、エピソードとして伝わってくる。「意味」として頭に残るだけの余裕があった、と言ってもいいかもしれない。
今までは言葉だけでなく音楽(音響)や映像等々が一体となって「意味」を表現していたと思うが、今回は台詞だけでも意味を伝わってきて、舞台全体のイメージ(映像等)で「さらに」「意味」を重ねてきた印象だ。
台詞の中でなんとなく気にとまったのが「メモしておこう(「ノート? 手帳? に書いておこう」だったか?)」で、帰りながら考えていたらフト「ハムレット!?」と思い当たった(間違っていたらすみません……)。「死ぬことは眠るようなこと」の台詞を思い出して「ここにも境界の曖昧さがあった」なんて勝手なことを思ったりもした。
「雷鳴のような台詞」みたいに書いたのだが、実際は「声でかすぎ」って思っていたのは内緒である。
満足度★★★
「真摯と誠実」
真摯に向き合えすぎれば辛くなる。
しかし「モノを創る人」である以上真摯に向き合わなくてはならないこともある。
「十戒」に瀬戸山美咲さんが触れたときに、この作品で語られる感覚がわき起こったのではないだろうか。
(以下ネタバレBOXにいろいろと…)
ネタバレBOX
『Ten Commandments』=『十戒』。凄いタイトルだ。
それは主人公=作・演出の瀬戸山美咲さんを縛る言葉でもあったのではないか。
モノを創り出す人にとって、自分だけではどうしようもないことに真摯に向き合おうとすることはとても苦しくて辛いことではないかと思う。
私はモノを創る人ではないが、そこにはとても共感する。自分で自分の逃げ道を塞いでしまっているのだろう。わかっているが真摯であればあるほど逃げることはできずに、自分の中に入り込んでしまう。
レオ・シラードの「十戒」に瀬戸山美咲さんが触れたときに、この感覚がわき起こったのではないだろうか。
「原子力」の問題等々を考えるときには、原爆についても頭に入れなくてはならない。
それらに向き合おうとしたときに「十戒」に出会い、戸惑ったのではないかと思う。
その戸惑いがこの作品を生み出したと思うのだ。
主人公の女性は、「原子力」に端を発する諸々に向き合いすぎて、言葉を発するのがイヤになってしまう(言葉を発することができなくなってしまう)。
この女性(劇作家であった)と作・演出の瀬戸山美咲さんは重なってくる。
「言葉にする」ということは「伝える」ということであり、伝えるのは「自分の考え」である。
したがって、自分の中できちんとまとまっていないことを迂闊には言えない気分になってくる。特に原子力問題は、大きすぎて。
発言することの「責任」という意味もあろうかと思うが、その責任は「社会へ」というよりはまず「自分へ」ということではないか。
劇作家という言葉を仕事にする人にとっての「発する言葉」「伝える言葉」を(自分自身で)考えると、とても大きな重圧を感じてしまうのだろう。
それは(何度も繰り返すが)「真摯」に向き合っているからではないか。
例えば「原子力」についての言葉を発することを止めてしまうと、それにまつわる「日常生活」に関する言葉も止まっていまう。
つまり、この主人公(=瀬戸山美咲さん)には「原子力」(とその問題)は「日常」と直結していることがわかる。「直結して考えたい」ということが根底にあるから、さらに向き合いすぎて苦しくなってしまう。
そんな彼女は現在だけでなく、過去に遡り自分を縛り上げる。すでに死んでいるアインシュタインやレオ・シラードに手紙を書く。
あるいは、過去の自分に対する他人の声が聞こえてくる。実際には本人には聞こえなくても(そんなことを言っていたのかどうかも不明だが)まるで「マイクで拡声した」ように響いてしまう状況にさえなってくる。
この物語は「書簡」の朗読がメインなのだが、「やり取り」ではなく、一方通行の送ることのない届かない手紙を書いている。「対話」であればこの迷宮から抜け出すこともできたのかもしれない。
「書く」ことが自分の考えの整理になるからだろうか。劇作家の彼女にとっては会話ではなく「筆記」がその手助けだったのか。であれば、「演劇」はさらにその手助けになるような気がするのだが、そこまでの道のりは遠いだろうし、演劇は彼女1人の考えだけで創ることができるものではないからでもあろう。
現実(アゴラでの公演)に戻ってみるとこの作品は、主人公の女性=瀬戸山美咲さんであるように思えるのだから、実際には「演劇」のところまで彼女はやってきているのだろう。
瀬戸山美咲さんはどう生活を取り戻していったのだろうか。やはり主人公と同じだったのだろうか。
あるいはまだ取り戻す途上なのか。
主人公の彼女をそうした世界から救い出してくれそうなのは、日常であり愛なのだろう。
ラストにそれが示される。それが彼女の求めている「答え」ではないのだが。
このラストは(あえて言えば)とても「普通」なのだが、それしかないと感じる。
その「普通」をきちんと示したことは、誠実であったと思う。「真摯と誠実」。これがこの作品で感じられた。
主人公を演じた占部房子さんが適役すぎて、痛々しくって、観ていてツラくなった。それだけ良かったのだ。
福島がフクシマとなった3.11以降に原子力を学ぼうとする人たちの技術者倫理の授業にこの作品は端を発しているらしいので、その授業では、たぶんレオ・シラードの「十戒」に触れられていて、瀬戸山美咲さんもそこに自分の想いが重なったのではないかと思うのだが。
この作品で描かれたより「もう一歩先」も是非観てみたい!
満足度★★★
この2つの劇団のコラボということで期待大。
セットのセンスがいい。
オープニングの映画っぽい感じもカッコいい。
……のだが……。
ネタバレBOX
映画風のオープニングから4人のジャズメンたちが後ろ姿で演奏し、カナブンが飛んできて「銀行強盗をやるか」の台詞まではスタイリッシュ。わくわくする。
しかしその後がどうにも、面白くなりかけてはそうなっていかない。
模白い台詞が繰り出される会話劇なのだが、もっとテンポ良く会話したほうが台詞も活きてきたように思う。ポンポンと。
俳優たちにヘンな屈伸や帽子や座る位置の入れ替えなどをさせるのだが、それが面白くならない。とぼけた面白さになるはずなのだが、単になる手順にしか見えない。
柄本明さんの演出は、自分がやると(入ると)面白くなる演出ではないかと思う。
柄本さんには、ちょっとしたことでも無理矢理にでも面白くしてしまう魔力があるから。
東京乾電池は、独特の「間」の面白さで舞台を面白くするし、笑わせもする。
対する唐組はそんな感じではなく、逆に熱っぽさがある。
なので、組の方たち柄本さんの東京乾電池的手法にうまくはまらなかった(演出がはめることができなかった)のではないか。
唐組の俳優さんたちの演技の良さが活かされず残念。
何か、物語を「牽引する力」が欲しかった。軸になるような人をうまく立てられなかったようにも思う。
もし再演があり、柄本さんが演出するならば、柄本さん本人に、東京乾電池のベンガルさん、綾田さん、角替さん(!)の4人で演ってほしい。柄本さんの演出の意図がストレートに伝わるだろうから。
あるいは唐組主体で。
満足度★★★★★
コメフェスで初めて観たピヨピヨの本公演。やはり良かった!
これだけのサイズの劇場が一杯になるというのも凄いことだ。
ネタバレBOX
可愛いからとちやほやされて、いつも人の輪の中心にした女性が、精神に変調を来し、友人さえも傷つけてしまう。
そんな自分が疫病神ではないかと思い始める。
精神科の医師とのカウンセリングで自分を見つめ直す。
そして彼女の中には疫病神がいたことに気がつく。
単に「疫病神」を追い払って終わり、ではない脚本が深い。
そんな物語を歌とダンスで見せるセンスの良さ。
演出も確かだし、歌もダンスも皆が上手い。
今までも歌とダンスで楽しく見せる演劇というのはあったとは思うが、内容がきちんとあって、歌やダンス、そして演劇のクオリティがここまで高い劇団はなかったように思う。
右手愛美さんが物語の中央に立つカッコ良さ。
東理紗さんの歌はいつもパンチがある。
満足度★★★★
戦中という設定はあるのだが、座長とか役者が抱える不安や老いと、役者としての自信・自負のせめぎ合いを濃厚に見せる。
役者や劇団の主宰は常にそうした戦いをしているのではないだろうか。
それが生身の加藤健一の姿に重なったりもする。
ネタバレBOX
劇中で演じられるのは『リア王』。
それにこの作品は重なっている。
リア王は座長、道化はドレッサー。
「道化は途中でいなくなる」の台詞にもあるような扱いをドレッサーはラストに受ける。
ドレッサーが道化になっているのかどうかが、この作品の肝ではないかと思うのだが(座長との掛け合いにおいても)、今回は流れるように台詞を言うので、やや一本調子な印象。
カトケンさんの座長はさすが!
満足度★★★★
ラビット番長本公演を初観劇。
将棋+介護というテーマ。
開演前に将棋についてのレクチャーあり。
ネタバレBOX
失礼ながら凄い脚本や凄い役者の演技、斬新な演出があるわけではないのに、面白い。
すべてがいい案配にミックスされ一体感がある。
全員が楽しくやっている、というのが伝わってくる。
ベタな笑いやベタのホロリとさせるシーンなのだが、ストーリーへの入れ込み方とタイミングが上手いので笑ってしまうし、ホロリしてしまう。
悪い人は1人も出てこないし、見終わって幸せになれる舞台。
介護の現場は過酷であると聞くが、ここではそれには触れなかったのは、本筋とあまり関係なかったからか。
ベッドへ入る、出るというちょっとしたシーンでの演出の配慮はなかなかだと思った。
演出と演技のクオリティが上がれば完成度が増し、さらに面白くなるのではないだろうか。
プラス、フライヤーももう少しオトナの観客を呼び込めるようにならないだろうか。今のままであれば、フライヤーを見ただけだと私はスルーしてしまったであろう。
大原の妻役・柴田時江さんがイヤ感じからの、大原にとってのイイ女がわかる感じがいい。こういう俳優さんが出てくると場面にリズムも出ると締まってくる。
おばあさん役の高橋杏奈さんもアトリエ公演『桜歌』に続き好演。