旗森の観てきた!クチコミ一覧

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日本文学盛衰史

日本文学盛衰史

青年団

吉祥寺シアター(東京都)

2018/06/07 (木) ~ 2018/07/09 (月)公演終了

満足度★★★★

明治から大正にかけて、近代日本が動き出した時期に登場する文人たちはよく小説や芝居のネタになる。芝居でも井上ひさしの「国語元年」とか宮本研の「美しき者の伝説」とか、福田善之とか。しかし、この舞台はそれらと同じ内容を踏まえていてもぜーんぜーん違う。
先駆作品が、作家と社会の構造をまずは政治的関係でつかまえていたのに比べ、今回の平田本は個人のキャラクターに比重を置く。日本の近代国家の黎明期に先人たちが、近代国家で使う「国語」成立にどう苦労したか、それが国の運命と通底音でどう響きあったか、と言う事に視点が置かれている。これはかねて国語に関心の深い作者ならではの視点である。また、この作家には珍しく、意識的に商業演劇的ななギャグが盛大にとりいれられていて(慣れないことはやるものではない。テレてもいるし、ぎごちない)先人作品とは違う愉快な作品になった。
過去の平田作品と違って、オリザ・リアリズムを基調にしていないのはいいとして、以前は一つの演出意図が見えていたが、今回は、面白く(いや、笑わせると言ったらいのカナ)やることに主眼が置かれたようで、キャラ優先である。漱石や独歩を女優がやる意味が解らない。笑えることは笑えるが、女性の役は全部女優がやっているのだからよくわからない。結局現実の人物からうまくキャラを抽出できた鴎外、花袋、藤村、賢治、一葉(ことに、この二人はうまく出来たと思った)が観客の知識ともうまく響きあって舞台を引っ張っている。新劇寄席のような味わいである。
小劇場ながら一月近く30公演。とおしの一幕で全四場、四つの通夜のシーンで構成される2時間15分。ほぼ満席であった。登場人物、約三十名。これでは出演者の板代だけでも大変だろう。これだけ楽しめたのだから、この低料金で大丈夫かと、余計な心配になった。

フランケンシュタインー現代のプロメテウス

フランケンシュタインー現代のプロメテウス

演劇企画集団THE・ガジラ

ウエストエンドスタジオ(東京都)

2018/06/07 (木) ~ 2018/06/13 (水)公演終了

満足度★★★★

原作が書かれて2百年。今なお、いま生きている人間がやってみようと思うほど大きなテーマを持った作品だ。二百年経って、なんと内容にも現実性も持てるようになったと言う事ともある。
さまざまな上演があるが今回は、大詰の北極海からの回想形式。サスペンス・ホラー仕掛けでは経験豊富の鐘下・作・演出だけに、真っ暗な舞台、ギョッとさせる人物登場、小劇場とは思えない巨大氷河の音響、ゴシック風の猟奇的な俳優演技、ヤヤッツと思っているうちに2時間は過ぎるが、注文を言えば、この仕掛けはもう少し上級者の舞台で見たい。俳優も形にはなるが、そこへ行くまでの動きやセリフが支え切れていない。総勢60人くらいしか入らない劇場なのにやたらと声を張りあげるので、バランスも悪いし聞き取りにくい。この話、主人公の家庭事情が時代のせいもあっていり組んでいるのだが、台詞で解らせようとしているので、これではよくわからない。ここは脚本で少し整理して今回のテーマである、人間とは何か、に絞ってもよかったのではないか。家庭の葛藤では、男女はその役割(結婚)があるが、人造人間にはそこが違う。しかもその人造人間を、かなり性的には女性が出る女優がやるので、生理的にもつかみにくい。
もう一つ、脚本後半は体言止めの台詞だおおくなってなにやら燐光群みたいだが、体言止めは内容を強く一つに規定してしまうので社会劇にはいいかもしれないが、こういう劇には不向きだと思う。その辺から私はこのドラマから外れていった。前作の夢野久作がよかっただけに今回も大いに期待したのだが、もう一度、少しプロダクションのレベルを上げて見たかった。

ウーマン・オブ・ザ・イヤー

ウーマン・オブ・ザ・イヤー

TBS/ 梅田芸術劇場

赤坂ACTシアター(東京都)

2018/06/01 (金) ~ 2018/06/10 (日)公演終了

満足度★★★★

 ちょっと古風だが、チャーミングな懐かしい感じのミュージカルだ。タカラズカ退団後初めての大舞台、早霧せいなの主演である。オリジナルは1981年のトニー賞をいくつかの部門で受賞している。こちらの主演は、ローレン・バコールだった。このミュージカルはさらに古く41年の映画脚本をもとに作られていて、こちらはキャサリンヘップバーンの主演の由。時代とともに設定などは変わっているとのことで今回は81年版のミュージカル台本の本邦初演だ。
 田舎のジャーナリストでは飽き足らず、家庭を捨てて都会で前向きに突進する美人テレビキャスター、言い寄る男は多いが彼女は、風刺漫画家と一目ぼれして再婚する。その勇猛果敢な取材も、女性の社会進出と認められてその年の「ウーマン・オブ・ザ・イヤー」に選ばれる。しかし、男女の仲はきしみだし、取材で知った亡命ロシアダンサーが、家庭のためにソ連に変える決意をすることをきっかけに、過去の家庭を顧みて…。と言うような話で、今となってはかなり古めかしい自立女性ものなのだが、板垣恭一の訳・演出の舞台は、原作を無理に最近はやりのロック型にはめようとせず、原作原曲を生かして20世紀ミュージカルの味でまとめている。やはりこういうスタイルになると、さすが、ブロードウエイで評価を得たというだけあって、多彩なナンバーも、その組み合わせもよく出来ている。大劇場向きのようで、秘書(今井朋彦)や相方のキャスターとか、脇役にもそれぞれ見どころが振ってある。マンガ家のグループ四人男、とか、解れた男の再婚した家庭、とかあまり説明の要らないシーンが面白く出来ている。歌のナンバーも踊りのナンバーも納まりがいい。
 主演の早霧せいなは舞台映えする女優で、手足を長く美しく見せてよく動き、この勝手放題の自意識過剰女を面白く見せる。久しぶりのタカラズカ出身で、普通の演劇でも活躍出来そうな女優の出現でこれからが楽しみだが、聞くと、タカラズカでも頭角を現すのが遅く実年齢は高い。これだけの逸材ながら、よほどうまくいかないと旬の時期を逃してしまいそうだ。注文を言えば、動きは一級なのだが、その裏の人情の表現がタカラズカ風にわかりがよすぎる。この興業も関西の仕込みだが、芸風を生かすには関東の方がいいのではないかと感じた。
 興業元の梅田芸術劇場は時に素性不明の作品でがっかりさせられるが、今回は作品選択も、日本版の座組みも非常にうまくいった。
 

アンナ・カレーニナ

アンナ・カレーニナ

Studio Life(スタジオライフ)

あうるすぽっと(東京都)

2018/05/26 (土) ~ 2018/06/10 (日)公演終了

満足度★★★★

長編小説一気読みのような舞台である。この長編小説、文庫で三冊はあろうかと言う長さだから、若い時でもなければ読み通せない。今回の脚色はスコットランドのトランスジェンダーの有名な作家の脚色で、どうやらこの公演のために書かれたもののようだ。普通は、アンナの不倫の悩みを軸に男女愛の難しさをドラマにするのだが、この脚色は脇筋の、農業に目覚める貴族夫婦もかなり、アンナのあわせかがみとして追っていて、そうなれば、当然、この大長編、上演時間に入りきれない(これで2時間半)。V字スロープと平舞台の裸舞台に俳優がそれぞれ登場して、いきさつを語り続ける。小説の全貌は解るが、登場人物の精神性にまではなかなか手が回らない。脚本のせいもあるし、俳優の力不足もある。それぞれの場面は感情移入するまもなく次!と言う事になって、いつもは肝心の冒頭と最後の停車場シーンなどあっさりしている。そうせざるを得ないのだ。出入りが多い舞台だが、俳優の動きがかなり無神経でドタドタする。今までは男女の役柄で歩き方も工夫があったが(何も歌舞伎のようにやれと言っているのではない)折角のスタジオライフの舞台だけに残念。これで、満足する観客もいるのだろうし、私が観た回は高校生の学校鑑賞会らしく半分は高校生だった。彼らが、どう見たか、原作を読みたいと思ったか、聞いてみたい。

iaku演劇作品集

iaku演劇作品集

iaku

こまばアゴラ劇場(東京都)

2018/05/16 (水) ~ 2018/05/28 (月)公演終了

満足度★★★★

ここの所、若い劇団でも「家族」がテーマの作品が多くなったのはと、今時代の中心にいる30歳から40歳の人々が大きな関心を寄せているからであろう。この「粛々と運針」はなかでも至れり尽くせりの秀作だ。この世代が直面する夫婦と子供の問題、親たちを見送る必然、地域社会のあり方、三つのテーマを二人づつ三組の会話劇で構成している。その内容は格別新しいことはなく、橋田ドラマや向田ドラマが散々扱ったテレビ・レベルの話題なのだが、それを、現代向きにアレンジしてあるのがうまい。テレビレベルと言うのもそれだけ普遍的な問題を扱っているわけで、誰が見ても面白い。構成も、台詞もシャレていて、わざとらしくなく、舞台の魅力にあふれている。今風で、見ていて気持ちがいい。
会話劇だから役者も、うまくないとつまらないのだが、今回のキャストはなかなか素敵だった。変に悪ずれもしていないが達者でツボを心得ている。演出と息があっているのだろう。この作者ここの所評判がいいが、あまり急がずに、いい仕事を選んで、次第に劇場のスケールも上げて、多くの観客に接するような活動を祈っている。実力は充分である。

ハングマン

ハングマン

パルコ・プロデュース

世田谷パブリックシアター(東京都)

2018/05/16 (水) ~ 2018/05/27 (日)公演終了

満足度★★★★

イギリスの現代劇作家の作品では頻繁に紹介されるマクドナーの新作。この作家の作品は土着的な味わいがあって馴染みやすいのか、何本も紹介されている。今回も、田舎のしけたパブを舞台にした近過去物。イギリスで絞首刑が廃止されたのは70年代のようで、そこからはまだ50年しかたっていない。この絞首刑執行人だった男が、死刑廃止後もその仕事に誇りを持ち、その結果・・と言うなかなか厳しい指摘が土俗性が残る村落的社会の中で展開する。一幕は、やや説明的だが、二幕になると俄然、サスペンス仕立ての誘拐劇、殺人劇が、外では嵐の雷鳴の中で展開する。社会的なテーマのある現代劇なのだが、ウエストエンドでも観客が集められる面白い犯罪劇になっている。
長塚圭史の演出的確。田中哲司、羽場祐一、ともにいつのまにかにか世田パブの舞台負けしない力をつけている。小劇場出身の市川、谷川、村上の庶民三人組はもう商業演劇で鍛えられた大劇場脇役に劣らないほどうまくなった。秋山奈津子、この人はホントに隙がない。芝居が終わると、カーテンコールで中央にいながらさっさと引き上げる役者らしい熱の醒め方がいい。
ところで、今世田パブでは下のトラムで「バリーターク」をやっている。現代イギリス作品で、これも見てみたいのだが、チケットが全く手に入らない。芝居好きにきくと皆お手上げである。つまり出演者のミーハーファンが手をまわしてチケットを買い占めて、連日ファンクラブの総会のようなことになっているよし。全公演を見たと自慢するような、芝居の何たるかを全く分からない観客に劇場を占拠されるのは本当に困ったものだ。タレントのためにもならない。いっそ、武道館ででもやったらどうだと憎まれ口をたたきたくなる。

シラノ・ド・ベルジュラック

シラノ・ド・ベルジュラック

東宝/ホリプロ

日生劇場(東京都)

2018/05/15 (火) ~ 2018/05/30 (水)公演終了

満足度★★★★

新しいシラノである。もともと、これは仁義の話で、極端な鈴木忠志の手にかかると日本の葉隠と重ね合わせたりするシリアスドラマである。ところが今回のマキノ台本、鈴木裕美演出のシラノはやたらに明るく元気がいい。役者も、吉田剛太郎に黒木瞳。それに新人(見た回は白洲迅・大声になるとマイク使いがうまくなくて台詞が通らない)の士官役。この三人に軸を置いて、愛情の行き違いを、テンポよくショーの感覚で見せていく。冒頭の百人斬りを始め、有名な影の声で口説くシーンなど、それだけを面白く見せることに集中している。そのためか、六角精治の役など、物語はつながりにくくなっている感じだ。だが、原作のシーンは殆ど踏襲しているので、長い。3時間15分。これは名場面集のようにピックアップしてやっても面白かったのではないか。もてあましているシーンもなくはない。とにかく、主演者二人の湿っぽくならない芝居で劇場は大いに沸く。ピアノとドラムスのだけの音楽ながら音楽劇風な作りのシーンもあり、こういうシラノもあるかと、新鮮で楽しめた。

ネタバレBOX

最後のシラノ逝去の場。立派なセットだが、やはりこれはいささかオーバーではないかと感じた。今までの涙の終わりにしなかったのはいいが、これは別の意味で大芝居で、百人ギリ同様、いささか白けた。
消す

消す

小松台東

三鷹市芸術文化センター 星のホール(東京都)

2018/05/18 (金) ~ 2018/05/27 (日)公演終了

満足度★★★★

通夜ではないが、誰かが死んで、人々が動き出すという設定は実によくある。これは父親死後三か月、故郷を守る弟のところに都会でも食い詰めているらしいきらわれものの兄が帰ってくる、一族迷惑、という、菊池寛みたいな古めかしい話だ。宮崎の閉鎖的社会を舞台にした家族物語だが、新しい発見がない。劇団員に役を振るためか、無用に複雑な人間関係である。1時間半しかないのにホンが行き届かず、何をしていいやらと立っているだけの役者もいる。家族近隣だからわかりあっているような、いないような微妙なところでドラマを作ろうとしているのだがそういう努力は、戯曲練習と劇団内練習で十分練ったうえでに、公演にしてほしい。

ネタバレBOX

昔はこの劇場の近くのバスが早く終バスになって、トボトボと三鷹駅まで淋しく歩いたものだが、最近はずっと遅くまでバスがある。お蔭で、三鷹まで行って帰りに歩いているうちに腹が立ってくると言う事はなくなった。
図書館的人生Vol.4 襲ってくるもの

図書館的人生Vol.4 襲ってくるもの

イキウメ

東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)

2018/05/15 (火) ~ 2018/06/03 (日)公演終了

満足度★★★★

いかにもイキウメらしい三つの短編集である。
総タイトルに「襲ってくるもの」とあって、いかにも禍々しいが、日常的に現代人に襲ってくるものの不可解さを芝居にしている。まずは現代科学。次は制御出来ない本能的行動。最後はコミュニケーション、ということになろうか、いずれも現代では完全に制御することはできない。そこを頼っているかのような、あるいは完全が可能であるかのように信じたい現代への警告と言おうか。過去になんどもこのようなテーマを扱ってきたイキウメである。そこは、この劇団特有の舞台にまとめている。
だが、今回の素材は、かつて、同じような短編から出発して、近未来的な面白い一夜芝居に仕上がった内容に比べると、奥行きがない。本質的に短編的な素材に見えた。

長年こだわって改変を続けてきた長編「散歩する侵略者」が昨秋の公演で一応「出来上がった」ので、ちょっと骨休めの公演だった。

ネタバレBOX

最初から、いかにもイキウメらしく、黒い大きな岩が舞台の上にかかっているが、結局これが落下しない。それでももちろん一夜を楽しめたのだが、この素材を掘るなら、それぞれの展開の方向を変えなければ、と思う。
切られの与三

切られの与三

松竹/Bunkamura

Bunkamuraシアターコクーン(東京都)

2018/05/09 (水) ~ 2018/05/31 (木)公演終了

満足度★★★★★

コクーン歌舞伎が、再び新しい歌舞伎の面白さを見せてくれた。
補綴の木下祐一は、歌舞伎を若い観客を含めて小劇場で見せてきた。その彼もそろそろ40歳。青年期を脱するところで大きな商業劇場での公演である。演出の串田和美はオンシアター自由劇場を率いてこの劇場の芸術監督を長く務めて還暦を越えた。花形女形の七之介も三十歳半ば。ここで一つと言う課題を持つ芝居者が集まって、その情熱が勘三郎亡きあとのコクーン歌舞伎に新魅力を加えた。
劇評はすでに渡辺保さんがネットの「歌舞伎劇評」で詳しく述べられている。早い!いつも通り、なるほど、と思う行き届いた劇評でこれを読んで出かけるとツボがよくわかる。
この渡辺さんが芝居見物の面白さは舞台で繰り広げられる人間の「官能のしたたり」を観客が受け取ることだと書いている。この芝居、必ずしも全体がよく出来ているのではなく、洗い直してほしいところもあるのだが、舞台が非常に官能的であることは特筆すべきだろう。ことに私は渡辺さんがあまり触れられていない三幕の伊豆家から大詰めが、今まで見たことがなかったせいもあってか、この芝居にこんな後半があったのかと動かされた。ここで、お富が与三郎の傷を数えながら夢多き人生を回顧する甘やかな場面、義理の親とのいきさつ、最後の大どんでんがえし、今回の工夫だろうが、大詰めのゆすりの台詞が全く意味が違って聞こえるあたり、実に見事なもので久しぶりに「堪能」した。
今回は下座は幕開きの録音邦楽を除くとナマのコンボ編成の洋楽で、幕間にも演奏があったりするが、ここぞというところで、必ずと言っていいほどポロロンと音楽が始まるのは数重なると耳障りになる。それがなくても大丈夫なほど役者もうまくなっている。
七之介は女方だから、本当はニンではないが、大健闘。梅枝も同じく大健闘。萬太郎・梅松が、与三の弟夫婦で短いシーンにしか出てこないが、これが初々しく役を務めて、この芝居の清涼剤にもなっている。
美術は串田和美で、白木の骨を使った抽象道具でそっけない。木下歌舞伎はいつも小道具に凝っているのだが今回は大劇場と言う事もあってかそこはなかった。

ネタバレBOX

大詰、七之介が空舞台で、ゆすりの台詞を語りだしたとき、これは渡辺さんも指摘しているが、新しいお富・与三郎の世界が現れたのである。それを、壮絶な孤独(渡辺説)とも言えるし、私はk傷を増やしながら人生の一つの時期を越える人間の悲しみとも思った。まったく「しがねぇ恋の情けが仇」で人間は生きていく。そのホリゾントに飛行機雲がゆっくり流れていく。串田和美はここまで引き絞っていたのだ。洗い直して、またの再演を待っている。
グッド・デス・バイブレーション考

グッド・デス・バイブレーション考

サンプル

KAAT神奈川芸術劇場・中スタジオ(神奈川県)

2018/05/05 (土) ~ 2018/05/15 (火)公演終了

満足度★★★★

楢山節考の現代版、と言う事だが、こちらは未来の話なっている。しかし、その設定も中央にテントのようなぼろ小屋があり、廃棄物に囲まれていて、何やらのんびりした調子の音楽から始まると
雰囲気としてはかつての近未来デストピアもの名作「寿歌」のようなファンタジーか、と思っているとさにあらず、原爆が始終落ちてくるような世界ではないが、いつの間にか、環境もモラルも荒廃してかつてはそういうもんがあったという記憶の中でただただ死の船出を待っている市民の話と分かってくる。格好だけつけたくだらない新国立の「1984」を見たばかりなのでおぉっと見なおした。はるかに現代の現実的な設定を踏まえたデストピアものなのだった。
注文が二つ。一つは照明。全体に暗すぎるのではないか。よく見えない世界と言う劇的設定もあるかもしれないが、やはり場面の明るさ、ポイントの当て方のメリハリは必要である。観客がつかれる。二つめはかなり場なれた俳優たちがやっているのに、間口の広い劇場での台詞の発声がうまくない。横長の観客席なので両脇の観客にも台詞が届くように。これは青年団系の劇団共通の課題だと思う。これでは50人規模の劇場でしか通用しない。今回の公演、300人規模の客席に平日の夜ほとんど満席に近かった。久しぶりのサンプルの登場と松井周を観客は期待している。まずは期待にたがわずということだろうが、前半少しだれるところもある。物語性が強いこの手の作品では、テレずにストーリーテリングもうまく運んでほしいものだ。
「ヒナ」の使い方のうまさと、絵文字日記が時代を記録しているところ、ホントにうまいと思った。金ばかりかけた新国立をそれだけで凌駕している。

731

731

パラドックス定数

シアター風姿花伝(東京都)

2018/04/24 (火) ~ 2018/05/02 (水)公演終了

満足度★★★★

この劇団お得意の歴史事件ものである。三億円事件は面白かったが、これは70年前、となるとさすがに観客も馴染みがなさそうだ。満州の731はもっと古い話で、軍隊亡き今ますます縁遠い。いつもの通り、会議ドラマであるが、今回は少しすべった。
一つは内容で、事件ものをやるならそれが、今上演される時代と何らかの意味でつながらないと面白くない。帝銀事件の真犯人探しは、今の客にはなじみが薄すぎるし、731はさんざんドキュメンタリーで掘り返されていて、どうにでも作れるが新鮮さに欠ける。劇場が犯行現場の椎名町に近いとか、被害者が運び込まれたのが隣りの聖母病院だ、などと言う事は末梢的なことしかな
い。今やるなら、化学兵器に現代人としての科学者がどう向き合ったか、と言う事に尽きると思うが、そこは深みがなく科学者の「生活」と「良心」と言った程度の議論に終わっている。15年前の作品と言うが、こういう劇は時代とともに書き直していかないと観客の気持ちをそいでしまう。連続公演に水を差すようだが、歌舞伎でも、「洗う」と言って、再演の度に洗い直して工夫しているのだ。それが生でやる芝居の義務でもある。
二つ目は、この劇団の俳優の力である。もっとちゃんと訓練して舞台に上がってほしい。この小さな劇場で後ろの席(たった5列!)に声が届かない。劇場に不相応に空調があって音が大きいと言う事もあるがまず、俳優の声をそろえるという基本が出来ていない。ちょっと横に振ると聞こえなくなる。こういう「技術」はちゃんと学ばなければ。舞台なんだからその不自然は俳優が克服することだ。

ネタバレBOX

犯人当てのドラマのように最後に真犯人も指摘しているが、こういうことは返って芝居の底を浅くしてしまう。軍の影響が帝銀事件にあったであろうことは多くの推論が出ているわけで、そこを突くのはタブロイド記事的だ。この事件なら、平沢(犯人とされ生涯を刑務所で過ごした)から行く手もあったし、その方が今向きのような気もする。731の将校の提示会合と言うのは面白そうな設定だが、軍らしいところがほとんどないのがつまらない。アメリカに売った石井など出してくるくらいでないとこの大ぶりの話は収まらない。
ヘッダ・ガブラー

ヘッダ・ガブラー

シス・カンパニー

Bunkamuraシアターコクーン(東京都)

2018/04/07 (土) ~ 2018/04/30 (月)公演終了

満足度★★★★

こんなに客席が笑う「ヘッダガブラー」は初めてだ。今現代劇をやらせればトップクラスの俳優を並べた久しぶりのヘッダガブラー、大劇場の大公演である。こういう座組みは、よかれあしかれ、今や、シスカンパニーにしかできなくなった。
客が笑うのは、もっぱら、人物と場面のずれと言ったところだが、今まではそういうところは人物が孤立していく悲劇的シーンだった。つまりは、資本主義時代を迎えて崩壊しかけている前時代のモラルの中で、行き場を見つけられない人々を描く悲劇、ことに女性の悲劇、が今までのヘッダガブラーである。
いつものように栗山演出は行儀よく、場面を重ねていく。演出の意図に、お互いに理解しあえない人々、はあるだろうが、笑わせようという意識はなかったのではないかと思う。しかし、寺島の行き場のない勝手次第のヘッダにも、夫の小日向の場の読めないオロオロぶりにも、段田の判事のセクハラにも客はよく笑う。それは時代の反映だから仕方がない。
劇中、、現実妥協派の水野美紀が役がもっとも時代に近いせいか、この曲者ぞろいの配役に埋もれず、生き生きと演じて、大健闘だった。

ネタバレBOX

悲劇の結末となる寺島の自殺も、池田成志の死去も、この観客にとってはタダの話の終わり、のようだ。舞台としてはよく出来ていて、隙のない芝居つくりではあるが、私は、そろそろ、イプセンに始まる近代劇が大劇場で多くの観客を撃つのは難しくなったな、と感じた。今まで見たヘッダガブラーでは、ベニサンピットのデヴィッドルボー演出の佐藤オリエのヘッダが印象に残っている。近代社会で孤立して死に向かうヘッダがよく描かれていた。あれからもう三十年は経っている。これからも小劇場で見るイプセンは、芝居の組み方のうまさは格別だから、一種の古典としては残っていくだろうが、この公演は大劇場版の挽歌のようにも見えた。
十二夜

十二夜

演劇集団円

シアターX(東京都)

2018/04/20 (金) ~ 2018/04/29 (日)公演終了

満足度★★★★

どうして新劇団がこの芝居をやりたがるのか、不思議だ。内容にまったく主張なく、変革の遺志もなし、取り違えの笑いだけが面白い芝居なのにどこの新劇団も一度はやっているはずだ。
もう一つ、最近の新劇団には学者演出家がいなくなった。これは必ずしも功だけでなく、先生ご出馬で碌なことにならなかった芝居も過去にはたくさんあった。それは大方が翻訳が機縁になっていて、先生方も女優に囲まれるのがうれしかったのだろうがそういう牧歌時代は終わった。
さて、「十二夜」の安西徹雄追悼公演は新劇の円である。故安西先生は学者と言っても、象牙の塔型でなく、結構舞台のこともよく知っていた。演出の時、最初役者にやって見せるのがやたらにうまかったので、役者どもが恐れ入った、と言う逸話もあるが、苦労して東京に出てくる前は出身の松山で放送劇団や地方演劇で若きスターだった。学者としてもシェイクスピア学会の会長もやったくらいだから文武両道の珍しい学者だった。十二夜は主張はともかく、役者がやって嬉しくなる人情の機微が満載されている戯曲で、多分小理屈疲れの新劇団の清涼剤になっていたのだろう。安西先生のシェイクスピアはこのメール版や、日本に舞台を移した{確か}間違いの喜劇や、ぺリグリースの日本初演など、変わったものが多かった。蜷川の歌舞伎座が「十二夜」としてはキマリのできだったが、こういう小劇場の「十二夜」も捨てがたい。

ネタバレBOX

しかし、円も役者が小粒になって、キャラ立ちしている各役が立ち切れていない。もっと面白がって役者同士でふくらませればいいのに。ことに女性役は普段やっていないせいか、落ち着きが悪い。ちょっとスタジオライフに行ってコツを教えて貰えばいいのに。2時間45分は最近の芝居では長いのだから、芸人の気分でやってくれないとみる方も疲れる。
1984

1984

新国立劇場

新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)

2018/04/12 (木) ~ 2018/05/13 (日)公演終了

満足度★★★★

二十世紀文学の代表作の近未来SF、多くのデストピア小説の元祖的な作品である。この小説、イギリスでは、誰でも知っているが誰も読み通せないという小説だそうで(文庫解説)なるほど、仕掛けがたくさんあってムツカシイ。しかし、この劇化にあたっては、そこをうまく利用して舞台化、世情がきな臭いこともあって、イギリスで大当たり、ついでアメリカでも当たったと言う事で急ぎ、政情不安、小説そっくりの北朝鮮もみじかにある我が国での上演となった。
原作は1946年に書かれて、ほぼ四半世紀後のデストピアを描いている。今は2018年。小説の世界は固定しているから、かつて未来であった世界は今となっては過去、SFの世界が時代劇の世界になっているという奇妙なことになってしまった。もちろん舞台設定の時代を過去にして未来のデストピアとしても芝居は作れるが、この作品は一ひねり。小説の最後でさらに未来を予測してそこで使われる言葉(全体主義のための二重思考の言語、ニュースピーク)の解説が書かれているが、さらに未来にその言葉によって、この1984年という本を、人々が学習する、と言う枠を作っている。これで、SF的な物語の構造が落ち着いた。
この枠の中で、かなり忠実に手際よく原作の物語が進行する。しかし、映画でもないからデストピア社会を大セットで組むわけにもいかず、原作の全体主義管理社会の中で出会う男女のラブスト-リーが、ほとんどノーセットの舞台で演じられる。
演出は今秋から芸術監督になる小川絵梨子。せっかく時宜タイミングよく、全体主義志向の政府下の公演(それで英米でも話題を呼んだ)なのに文化庁官僚への忖度か小劇場風に小ぎれいにまとめている。時代感覚がないから客席もわかない。これでは井上芳雄ファン以外に客は広がらない。秋からのラインアップも発表されているが、エエッツと言う小粒な作品が並んで、全方位的な抱負は殆ど反映していない。官制劇場のヒラメ監督でなく、国民の方を向いてくれないと、公務員だけが観客ではあるまいし、先が思いやられる。

ネタバレBOX

この公演の演劇としての脚色の工夫は、この男女の人間回復の試みが暴露され、主人公がフツーの真人間になるよう拷問されるところに作品の主点をおいたことで、外側からでなく、内側からの全体主義の抑制がコワイと言う原作の主張を舞台で見せる。こういう肉体的な表現は確かに、小説、映画よりも劇場向きで、ニューヨーク公演では、拷問表現の強烈さに失神する観客が続出したという。ネット情報だが、写真を見ると国立小劇場の倍はある劇場でここで失神させるのは容易なことではないだろう。
日本の公演は、前半話はさらさらと進んで、管理社会描写もさして表現にならない。ビッグブラザーと言う独裁者がすべての国民を管理しているというのがキャッチフレーズなのだが、独裁者の政党のマークは出てくるがビッグブラザーの顔は出てこない。独裁者も、その反対者も抽象的存在としているので、具体的なものは邪魔になると考えたのかもしれないが、こういうものは、バカバカしくても顔を出すとついていきやすくなるのだが、控えたために、実際に社会を管理する管理者(大杉漣の代役)の役割が、芝居だけだとわかりづらい。管理社会の中で辛く生きている主人公たちがもっと描かれていないと後半の拷問シーンが生きてこないし、折角の懐メロの郷愁もただのオセンチになるだけだ。この主人公二人、商業演劇では悪くないのに、ここでは商業演劇っぽさがマイナスになっている。管理社会の中でギリギリに生きているという感じがないし、枠の中と外の演技に変化がないので、単純に話が分かりづらい。
この公演、せっかくの珍しくタイミングのいい新国の企画だったのに惜しいことをした。
最後の炎

最後の炎

文学座

文学座アトリエ(東京都)

2018/04/14 (土) ~ 2018/04/28 (土)公演終了

満足度★★★★

ドイツの作家の新作である。イスラムのテロで揺れるヨーロッパの市民生活の現在を表すようなコラージュである。こういうスタイルの現代演劇の始祖はブレヒトだからドイツの作家が受け継いで展開させていくのはごもっともであるが、この作品に限っては、日本の観客に届くには距離がある。戯曲の内容はそれほど特異なものではなく、イスラムのテロや難民問題だけでなく現在のヨーロッパが直面する高齢者問題、家庭の崩壊、市民社会のモラルの問題なども素材にしていて、一般性もあり、現代社会をトータルで舞台に乗せてみようという作者の意図なのだが、演出のスタイルが大上段に構えた前衛風なので、観客も受けて立つのが大変である。



ネタバレBOX

劇場中央に大きなボンがあり、そこへ四方からエピソードに応じて抽象衣裳の俳優が登場して進行する。観客は周囲から見るスタイルである。ボンはゆっくり回っているから舞台正面がない。完全な回り舞台は実は多くはない。劇場は、かなり落ち着かない。
戯曲はエピソードがいくつかの筋が重なっていくのだが、ト書きの部分や、詩的と言ってもいいか、台詞とは異質の言葉を聞かせる部分が混在して、その交錯の面白さになかなか慣れない。輻輳するストーリーも気になる。。
俳優はさすが文学座、台詞はよく聞こえるし、動きもいい。それだけに、演出者がヤッタレッ!と張り切ったのはよくわかる。控えめな音や音楽の処理もいい..
こういう舞台をやれるのはやはりこのアトリエだけだろう。ブレヒトもついにここまで来たかとある種の感懐はあるが、さて、このスタイルが広く受け入れられるかどうかは疑問である。今日の観客もご老人から中学生までいたが(ここもさすが文学座だと思う)現役バリバリの二十歳三十歳代の顔が少ない. 日本で言えば「三月の五日間」「散歩する侵略者」と言うような作品だ。だが、アフタトークでは岡田利規も登場するが、考え方はかなり違うと思う。
フォトグラフ51

フォトグラフ51

フォトグラフ51制作実行委員会

東京芸術劇場 シアターウエスト(東京都)

2018/04/06 (金) ~ 2018/04/22 (日)公演終了

満足度★★★★

科学者を主人公にするのは珍しくなくなったが、演劇と自然科学は文化としても対極にあるもので、現代劇の素材としても興味を引く。
しかし、これは、1950年代の女性科学者が主人公で、研究内容も出てくるが科学の唯一真実性を信奉する科学者の人間ドラマである。2015年ロンドン初演の創作劇で、この公演は外国人の演出家を迎えての日本初演だ。最新の芝居を簡単に見に行くことが出来ないこの国のシアターゴーアーズにとってはありがたい企画だ。この舞台はロンドンの後はニューヨークでも上演されたようで、今の英米演劇の一端を知ることができる。
ロンドンではニコールキッドマンが主人公を演じていろいろ賞も取っている。映画でおなじみの俳優だからその芝居ぶりが想像できる。男社会のイギリスのオックスブリッジの科学者社会のなかで、研究だけが生きがいの女性科学者のノーベル賞ものの発見が抹殺されてしまうというこの話が、今も芝居になるほど関心をもたれるのは、欧米の性差別もなかなか根が深いと思う。舞台は主演以外はすべて男性キャストで、イギリスの男社会で身を処していく男たちのいやらしさが短くフラッシュ的に重ねられる。最近の海外戯曲によくあるシーンよりも証言を重ねる形式である。
その戯曲と、舞台の速度を重視した演出がこの公演の日本上演の成否を分けた。

ネタバレBOX

このホンの主題を性差別の話とすると、格別新しさはない。多分、欧米公演では主演者で客が来たのだと思う。キッドマンか、なるほどなぁ、と私も思う。またこの戯曲はイギリスお得意の風俗劇の要素が強く、これも多分だが、スピードのある男どものやり取りが受けたのだと思う。向こうの上演時間は95分、こちらはあれだけ俳優が舌を噛みそうになるほど頑張っても105分で、これでもドラマとしては長い(たるい)のである。俳優は科学用語を含んだ台詞を早くしゃべるが、順番が来たので、と言う感じになってしまう。欧米だと僅かな隙に観客の笑いがあって舞台が乗っていくのだろうが、日本では社会状況(風俗)が違う。この辺の計算が制作陣に足りなかった。翻訳もこの内容がよくわかるだけでもご苦労さまだが、芝居の台詞としては堅い。日本語にこなしきれない内容でもあるのだが。
俳優は台詞が手いっぱいで、役の面白さまでは出し切れていない。そこは海外戯曲の宿命のようなものだが、初演の制作者はまずそこを考えるべきだろう。何しろ、この公演は失礼ながらこのキャストとセットで、東芸の地下で2時間足らず、それでも8500円である。今日の昼のように半分しか入らないのなら、6000円で満席になるようにしてほしい。芝居好きは海外新作は見たいのだが、この値段では足が引けてしまう。
Farewell(フェアウェル)

Farewell(フェアウェル)

松本紀保プロデュース

サンモールスタジオ(東京都)

2018/04/06 (金) ~ 2018/04/15 (日)公演終了

満足度★★★★

小劇場は、若者演劇でどうしても舞台も登場人物も20歳代が中心になるが、これは30歳代から40歳代までの現代人ドラマ。芝居もオーソドックスな人間ドラマになっていて、この作家の舞台を見たのは初めてだが、世評の高さが納得できた。
登場人物に現代の息遣いがある。ことに女性たちの生きの良さ、いつも聞こえてくるような現代女性語を見事に台詞にしている。今の男たちのだらしなさもよくかけていて、現代人の生活と心情をよく観察していると感心した。
話の軸は二組の離婚した夫婦(松本紀保と伊達暁)と、その夫にまつわる二人の女、離婚はしていない一組の夫婦(久保貫太郎、柿丸美知恵)、の男女の、言ってしまえば中年の自分探しなのであるが、若者とちがって、話は煮え切れない。中年の自分探しが直面する濁った愛や嫉妬がなかなかうまく描かれている。女性が労働者としても機能するようになった現代の市井のよくある話であるが、今まであまりこういう小劇場で「ストレイトプレイ」として芝居になってこなかった。この舞台では、べたにやるとテレビの昼メロみたいになりそうな話を危惧してか、物語の進行を逆にしている。これはちょっと凝り過ぎで、観客も前後混乱する。登場人物もあと二人くらいは整理したほうがいいように感じた。その分、折角の女性から見た職場の人物関係や、高校時代の交友関係、街中で触れる人間関係などが薄くなってしまった。俳優は制作した松本紀保が知っている俳優で組んだのか、作者も配慮したとみえ、適材適所。小劇場にありがちのボロが出ていないところはよかったが、舞台のセットが俳優にとっては動きにくそうなのが気になった。そこは、劇場が60人規模のスペースでは仕方がないか。
しかし、地に足を付けた素材と切り口でイマドキ芝居としては十分楽しめたから、松本紀保プロデュースという一回限りの舞台ではもったいないとも思う。客も満席ではなかったが、老若男女いいバランスの客席だった。

悪人

悪人

テレビマンユニオン

シアタートラム(東京都)

2018/03/29 (木) ~ 2018/04/08 (日)公演終了

満足度★★★★

原作モノを舞台化して成功させるのは容易ではない。ことにこの原作は、新聞小説で新しい側面を開き、ベストセラーにもなり、映画化もされ、それがベストテンにも挙げられている人口に膾炙している評価の高い作品で、観客の方もすでにこの素材に触れている。早い話、私は原作も読み、映画も封切の時に見、改めてDVDを見て劇場に行った。
演劇としては、屋上屋を架すだけの表現をしなければならないわけでハードルは高い。
素材は佐賀県の典型的な地方に生きる人々の荒涼たる孤独をきわめて現代的な風景の中で多角的に描いたもので、発表以来十年を超えても、いまなお新鮮さを失っていない。作品の中の人間たちの配置も物語もよく考えられていて、それが主人公たちの最後の道行きに収斂されていく。小説の世界を映画はほぼストーリーを追って、演出の映像のリアリズムと俳優の好演で、再現して優れた映画になった。
演劇は、場を舞台にせざるを得ないし、俳優の数にも限りがある。公演の時間で完結するように脚本を組まなければならない。条件が悪い中で、テレビ出身の脚本演出が選んだのは、原作の最後の部分にあたる主役男女の幼い頃の心に残った燈台への道行きに絞る、と言う工夫である。さらに、独白を多用して、短い時間で大部の小説の世界を拾う。その結果、二人の男女の演劇的な絡みよりも語りドラマのような舞台になった。この便宜的のようにも見える手法が、意外に登場人物二人の孤独を浮き出させることになった。終盤は手紙の朗読が続くがこれも効果をあげた。演劇としてはこうだ、という独自性は出せたし、劇場と言う狭い空間でうまく素材を生かせたと言える。1時間25分。映画が大作で2時間15分あったわけだから、ずいぶん思い切った舞台化である。

ネタバレBOX

しかし、これはこれとして出来ているのだが、原作にある時代を包括するようなドラマの広がりよりも、現代の若い男女を巡るセンチメンタルな道行、通俗的な「相寄る孤独な魂」と言う面が強調されて、場内涙々はいいとしても、ざらざらした時代への鋭い切込みは薄れた。通俗名曲や歌謡曲を象徴的に聞こえるように使ったせいもあるかもしれない。この辺はテレビの人らしい大衆性で、原作にも映画にもあるポピュラリティを引き継いでいる。
俳優は、中村蒼と美波。ことに美波は台詞、モノローグ、ナレーションと性格の違う言葉を受け持たされて、これは荷が重すぎた。ことに前半、モノローグの台詞の語尾が流れるのが、甘く聞こえる。中村蒼はこれ位のスケールの舞台にはよく出ている着実な俳優だが、今回は少し纏めようとし過ぎたのではないか。最後にあふれるように今まで自分にも分らなかったような優しさが出てこないと、観客の涙が、お涙、になってしまう。
Ten Commandments

Ten Commandments

ミナモザ

こまばアゴラ劇場(東京都)

2018/03/21 (水) ~ 2018/03/31 (土)公演終了

満足度★★★★

何も横文字でタイトルにすることはないようにも思えるある科学者の「十戒」を素材にしている。その科学者はアインシュタインと共に原爆(原子力の利用開発)の開発推進をしたレオ・シラードと言うユダヤ人で、その動機はナチスドイツに原爆の先行を許さないため、と言う事で、実験成功後はナチスの崩壊もあって日本への原爆投下には反対した。野に下った後は、ミステリやSFも書いたと言うが、寡聞にして知らなかった。
しかし、ここでは奇人風につたえられるジラード本人の活動よりも、彼が書いたという「十戒」の中に、現在の原子力と向き合う(大きく言えば)人類の課題があると、劇作家は読んだのであろう。舞台は白でまとめられた一室、占部房子の劇作家が、原発事故以後言葉を失って夫と生活している。夫との言葉のない生活や、つきあいのある技術系学生たち、アインシュタインなどの先人に向かって書く手紙、などがコラージュされていて、「十戒」が検証される。もともとの「十戒」が、矛盾に満ちていて、そこが現在の巨大社会に向かう人間の現在と交差している。原子力に限らず、人間が発明発見をしておきながら制御できなくなっているものが多くなっている今、このテーマは興味深い。かつてのように人間が制御にあたって使える単純な大衆的な倫理(乱暴に例を挙げればキリスト教のような)を失っている中で、劇作家は言葉を失ってしまうのである。この状況に向かうにはどうすればいいのか。もちろんそういう課題に簡単に答えが見つかるはずもない。

ネタバレBOX

人間の倫理は言葉で表現されるのだから、まずは発語回復と言う事で、ドラマは終わるのだが、その回復の先は見えてこない。占部房子は小劇場では欠かせないなかなかいい女優で、ここでもこの作品の柱の役割を勤めている。一緒に見た知人は演出演技を含めて、間の取り方がよかったと評していた。
非常にアップツーデートなテーマに挑んでいる社会派ドラマでこういう試みは評価できる。まもなく、新国立でこちらは著名な「1984」が演じられる由で、人間の未来社会への展望がここでも検証されることになるだろう。

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