まさに世界の終わり 公演情報 シーエイティプロデュース/兵庫県立芸術文化センター「まさに世界の終わり」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★

    めずらしい経緯で上演されたフランスの現代劇だ。90年代エイズ猖獗の時代に書かれた戯曲が16年になってカナダの若い映画監督の手で映画化、カンヌでグランプリを獲って世界的に脚光を浴びた。実はこの戯曲の日本語訳は映画化以前に翻訳されていて、それが「まさに世界の終わり」。「たかが世界の終わり」と言うタイトルは映画でつけられたもの。
    同じタイトルだが、映画は巧みに映画向きに脚色・演出されていて、物語の概要や登場人物は同じだが、スタイルが全然と言っていいほど戯曲とは違う。一言で言えば、「映画的」によく出来た映画であり、「演劇的」な戯曲なのだ。
    先に翻訳が出来ていながら、日本で上演されなかったのはその戯曲のスタイルが日本では馴染みがなかったからだ。登場人物のモノローグがシーンの間に長く挟まっていて、普通の舞台演出では収まりきれない。物語が家族の間の、日常のような、非日常のような、現実のような、過去のような、世界を行き来していて物語がつかみにくい。そこを映画は、カメラ、俳優、音楽を駆使して物語を整理・映像化して大成功した。例えば、戯曲で延々とモノローグで語られている家族の微妙な感情が、クローズアップの映像で手にとるように解るように作ってある。僅かのロケーション撮影も舞台では望めない効果を上げている。
    この映画の成功があってこその今回の日本上演では映画と、戯曲のいいとこどりをせざるを得ない。
    三十二歳で余命宣告されたゲイの劇作家(内が、自らの死の予告を家族に伝えるために、十年余離れていた故郷に帰ってくる。だが、それぞれの生活を持ち、突然の帰郷に戸惑う家族を前に、切り出せない。母、兄、兄嫁、妹、肉親のひりひりするような感情がすれ違う孤独なディストピアのホームドラマだ。そこで、孤独な家族たちに、何を求めて自らの世界の終わりを告白出来るのか。
    上演は石丸さちこ・脚本演出版である。苦労のほどは偲ばれる。映画でも翻訳戯曲版でもない新脚本で、ジャニーズの俳優の見せ場まで加えて2時間にまとめている。
    しかし、折角のその苦労は報いられたとは言いにくい。一つはこの物語の持っている悲劇性(命が終わるのが予定されている)と日常性(家族)の中で、ひとりの人間と、血を分けた家族との関係を顕微鏡で見るように細部を取り出して見る、と言う作品の芯がよく見えない。母、兄、兄嫁、妹に本人の家族の間の軋みが続くだけで、観客には作品の意図が見えてこない。家族それぞれの現実的な生活背景がほとんど語られない所にも原因があるのかもしれない。映画ではえがかれているが、主人公がゲイであり、劇作家でありパリで成功している、と言う事すらこの上演では語られないので主人公の告白の動機が抽象的でつかめない。現代に生きることは、家族でも孤独だという切ない限られた命の叫びが伝わってこないのだ。
    俳優も取り付けなかったのではないか。主演の内はミュージカルではいい役者だが、こういう内面的な芝居には戸惑っただろう。エイズで余命一年以内と言う悲劇を体現できていない。台詞の語尾がすごんだような濁音になるのも良くない。こういう無理なことをさせるのは事務所も興業元も贔屓の引き倒しになると言う事を考えなければなるまい。事実、客席はジャニーズでは全く珍しく空席があったし、ほとんどの女性ファンもどう反応していいか迷っている。脇も苦しい。那須加代子は辛うじて、新劇解釈で乗り切っているが、他は、映画で名演を見せられているので点が辛くなる。モノローグも対話も、力不足である。演出的にも彼らでやれるように優しい工夫ができたのではないかと思う。
    うまいと思ったのは、効果音で、窓の外のノイズなどは予想外に効果を上げた。
    この原戯曲は家庭劇として新しいところがあるので、タレント芝居でなく、どこかの劇団がアトリエ公演などでやってみてはどうだろうか。。

    ネタバレBOX

    つまらないことだが、劇場への注文。開演前に開演を知らせる録音アナウンスがあるが、そのリードについている音楽、どうにかならないか。音楽が全く芝居に合わない。ものすごく、観客の気分が損なわれると言う事を劇場はしらないのではないか。

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    2018/10/19 00:38

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