旗森の観てきた!クチコミ一覧

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バルパライソの長い坂をくだる話

バルパライソの長い坂をくだる話

岡崎藝術座

ドイツ文化会館ホール(OAGホール)(東京都)

2019/08/21 (水) ~ 2019/08/25 (日)公演終了

満足度★★★★

シアターガイドなき今、こんな馴染みのない小屋で上演されたのでは見逃してしまうではないか。流石、岸田戯曲賞受賞作品。どこでも見ることのできない見事な寓話劇である。
劇場へ入ると、そこは船の甲板を模した客席。バラバラに置かれた約百席の椅子。選曲の良いラテンリズムの入れ込みの音楽で、観客は世界を飛ぶ。
幕が開くと、客席から登場した三人の南米の男優がスペイン語(ポルトガル語?)で語り続け、ひとりの女優がそれを見まもるという舞台。舞台には切り出しの小型自動車と、ブルーシートを海に見立てた遠見。その前で主に父の遺骨の箱を持つ男が語るのは、ヨーロッパから南米へ、さらに沖縄から小笠原列島へと連綿と移っていく悠久の人類の寓話である。人類はどこからきて、どこは行くのか? そのテーマが父の遺骨の行方と重なり合う。
簡素なセットも効果を上げる。歌舞伎ではないが、幕を落とすと砂漠が現れるシーンなど、観客の心をつかむ。終始無言の女優も素晴らしい。
寓話の中にリアリティを忍ばせて90分。まったく飽きることはない。台詞が続き、字幕を読むのに疲れるが、ここは、日本の俳優で、日本語では成立しないだろう。そこが難しいところではあるが、ここには原酒の生一本の酒をたしなむような快感がある。
満席。いつもの小劇場では見かけない静かな若い客が多かったのも新鮮だった。

DNA

DNA

劇団青年座

シアタートラム(東京都)

2019/08/16 (金) ~ 2019/08/25 (日)公演終了

満足度★★★★

女性のみに許された子供を生む、と言う事について現代女性の生き方の社会劇。現代の家庭と職場の問題でもある。脚本はさらに欲張って、従業員の職業倫理にまで踏み込んでいるがこれは欲張り過ぎた。
ここの所、新進の小劇場作家を次々と起用する青年座の公演。今回は主宰する劇団JACROWで、現代社会模様を描いてきた中村暢明の起用である。現代社会の女性の生き方については、一昔前のようなパターン化は不可能で、人の数ほど生き方はあり、そこにひとりひとりのドラマは生まれる。しかし、芝居としては、どこかで圧倒的な観客の共感を呼ぶようなシーンがなければ成功しないわけで、この本はまんべんなく【とは言えないが、かなり広範に】女性の社会生活と出産の問題を扱っているが、問題点の羅列に終わっている。それは主人公の安藤瞳が熱演すればするほど、観客の感情が少しづつ役から離れて行くことにも表れていると思う。
脚本は小劇団でかつて見たものに比べれば、細かく出来ているが、それでも現実の大企業の内情や、小企業のあり方についてはご都合主義で現実性に乏しい。もっと、テーマを絞ってリアルな状況設定をしなければ、問題の核心に迫ってはいけない。せっかくの青年座の俳優たちも厚みを出すことができない。
演出は久しぶりに本家に戻った宮田慶子。散々な目にあった(であろう)新国立劇場の芸術監督を離れて、ご本家での登場だが、まだ肩に凝りが残っている。硬軟共に行き届いている宮田演出を又見せてほしいものだ。

赤玉★GANGAN

赤玉★GANGAN

流山児★事務所

ザ・スズナリ(東京都)

2019/08/21 (水) ~ 2019/08/27 (火)公演終了

満足度★★

大正末期の文学界の近くにいた青年たちの物語。100年前にもメディアはあって、今に通じると言うが、時代の雰囲気は推し測るすべがない。文学者の名前とか、葡萄酒の広告(これは知名度が高い)とか、当時の新聞とか出てくるが、それが若者たちをどのように動かしたかという、動態力学が立体的に描けていない。個別にみぢかいエピソードが続いていく上に、失礼ながらあまり上手とは言えないミュージカル張りのシーンがあるので、話を追うのに疲れてしまう。装置も、仕方がないと言えば仕方がないが、いま少し工夫があってしかるべきだろう。
最初の設計図の段階でもっとよく構成を考えなければ、このようななんのこっちゃ、と言う芝居になってしまう。現代の時代物の難しさだ。
俳優は初日だからあまり言いたくないが、課題はメリハリだと思う。

ネタバレBOX

それにしても、破れたポスターを張るのに、セロテープはないだろう。時代考証を完全にやれとは言わないが、しらけてしまうような道具立てはね。
ギョエー! 旧校舎の77不思議

ギョエー! 旧校舎の77不思議

ヨーロッパ企画

本多劇場(東京都)

2019/08/15 (木) ~ 2019/08/25 (日)公演終了

満足度★★★★

お待ちかねの夏のヨーロッパ企画東京公演。本多劇場は二日目で補助席が出る大入りである。他に類を見ないファンタジー喜劇で20年。独特の舞台と劇団運営で、平成演劇史に足跡を残してきた。
今回は、妖怪ものの学校の怪談である。やむなく噂のある旧校舎を使わざるを得なくなったクラスの教員たちと生徒たちに次々現れる77の怪異のエピソード。平凡なものも凝ったものも、あまり甲乙つけずにつるべ打ちで笑ってしまう。二幕、人間と妖怪がお互い慣れてきたあたりから、ヨーロッパ企画らしくなって、ファンタジーの中に現代の教育批判ものぞかせる一方、舞台はますますたがを外れたナンセンスな展開になっていく。
次々に現れる妖怪出現はこの劇団らしい手作り装置が活躍して面白い。俳優陣はまだ二日目で味を出すところまで行っていないが、客演とのバランスもよく、これからもっとヨーロッパ企画らしくなるだろう。ファンタジーの結末としてはいつもの冴えがなかったのも残念だが、妖怪相手ではやむを得ないか。しかし、東京の劇団にはない楽しめる芝居であった。

ネタバレBOX

装置正面の階段9段がいつのまにか13階段になるという科白の売りがあって、そのうちに見せてくれると観客は期待するが、さすがに大道具の処理は無理で実現しない。(笑)、
オリエント急行殺人事件

オリエント急行殺人事件

エイベックス・エンタテインメント

サンシャイン劇場(東京都)

2019/08/09 (金) ~ 2019/08/18 (日)公演終了

満足度★★★★

珍しく二階席まで満席のこの劇場でクリスティの名作ミステリを見た。
何度もテレビ・映画化された名作中の名作。ネタバレを言うまでもなく、ミステリでは肝の犯人も、仕掛けもご見物衆が先刻ご存知の世界である。
脚本はアメリカの中堅の劇作家だが、この「オリエント急行」はまだ欧米の大きな劇場にかかったことはないようだ。日本初演。クリスティの他の劇化作品と同じようにほとんど原作を踏襲した要領のいいホンだ。登場人物も十一人に絞ってはいるが原作をうまく使っている。
エキゾチックなオリエント急行にイスタンブールから乗り込んだ個性も国際色もばらばらな乗客たち。シリアでの仕事を追えて帰英する名探偵ポワロ。
何やら不穏な空気を含んで、雪の中を驀進する豪華国際列車が雪だまりに乗り上げて停車を余儀なくされている間に起きる殺人事件。さて犯人は?迄が第一幕、60分。二幕はおなじみの謎解きで95分、休憩が15分あるのでほぼ3時間の長尺であるが、飽きずに見せる。
成功したのは、テンポの良さ。演出の河原雅彦は、今の観客が興味を持ちそうもない時代考証やディティルにはこだわらない。思わせぶりな推理より、登場人物のキャラクターの面白さや、具体的な証拠による人物の動きで進めていく。二重になった舞台で、上段に、八つの個室のドアがある廊下、下段にパブリックスペースである食堂車という装置をうまく使って、細かい証拠はスクリーン投射しながらどんどん進む。その前に車窓をスライドで出し、スモークと照明を飛ばせば、オリエント急行の走りも舞台で見せられる。
ポワロは小西遼生。ミュージカルが多いが、従来の原作の小柄な禿頭の小男にとらわれない長身の若いポワロで歯切れよく、颯爽と事件を裁く。登場人物には若者人気のタレントもそつなくキャスティングしてある。
この作品が舞台化されたのは今回が初めて。走る列車の中だけで物語が進む本格ミステリであること、知名度が高いために結末が知られていること、探偵役の個性の強さ、など舞台に乗せるのを逡巡する難しさがあった。しかし、やって見れば、出来るじゃないか。現に大入りである。ところが、同時に原作の読者や映画でこの世界に馴染んだファンからは「これは違う!」、という声も出るだろう。
そういう矛盾は、時を経た名作舞台化では必ず起きる。八十年前に書かれた原作だから、今受ける役者で、今も面白い部分でまとめる、その方が時代に沿った舞台化だ、という今の制作者の考え方への反論である。それはない物ねだりとも言える。
この「オリエント急行」は、物語は大きく残しながらスタイルとしてはかなり思い切って、現代化を試みて面白く見られる舞台にした。そこは成功しているのだが、同時に何だか2・5ディメンションのような、いいとこどりの味気なさもオールドタイマーは感じる。その先に未来があるのか、あるいはここは踏みとどまるところなのか、この芝居の最後の一点のような課題は残ると思う。

ネタバレBOX

ラストは原作とちょっと違う。
名探偵ドイル君 幽鬼屋敷の惨劇

名探偵ドイル君 幽鬼屋敷の惨劇

糸あやつり人形「一糸座」

赤坂RED/THEATER(東京都)

2019/08/08 (木) ~ 2019/08/12 (月)公演終了

満足度★★★

趣向は様々あったけど、結局とっ散らかったままで終わった。
ギリシャ悲劇の枠組みに、フランケンシュタインのような怪奇科学者の犯罪を、乱歩ばりに名探偵が少年と共に解いていく、という大筋だが、趣向は糸あやつり人形一座の一糸座に、マメ山田や十貫寺梅軒のようなアングラ系の奇優の競演で、ほとんどヴァラエティのような場面展開で進んでいく。その場その場には、思わず吹き出すような世の常識に対する突っ込みの台詞もあり、目先は変わっていくのだが、このスタイルの雑劇の弱点である積み重なっていく焦点がいつまでも見えてこない。
一糸座の作った人形の怪物キャラクターには面白いものもあり、マメ山田(名探偵・ドイル君)と十貫寺梅軒(少年)は大健闘であるのだが、まとまった印象に残るのは、人形による殺陣であったり、夜の広場の少年と傘、のようなストーリーには関係のない独立したナンバーだ。
これはやはり、劇場パンフで「リミッターが外れた」と書いている作・演出の責任だろう。芝居の作・演出だけは、リミッターを常に意識していて貰わないないと、見る方は途方に暮れてしまう。

フローズン・ビーチ

フローズン・ビーチ

KERA CROSS

シアタークリエ(東京都)

2019/07/31 (水) ~ 2019/08/11 (日)公演終了

満足度★★★★

難しい企画だが、大成功だ。ケラの代表作。ケラ的ナンセンスを詰め込んだ戯曲が本人以外の演出で舞台になった。 しかも、商業演劇で!!
戯曲の大筋、SF風殺人ゲームの七年のクロニクル三幕は、初演とほとんど変わっていない。地中海の島のリゾートを開発中の経営者の豪邸に、日本人の女の子二人が、殺人プランを持って訪れる、といういかにもバブル時代、1987年の空気横溢の設定で、そこから二幕は95年、三幕は03年(書かれた時点では未来)。物語は破滅に向かって一直線なのだが、そこはナンセンスでグロテスクな笑いてんこ盛りの、それまでの日本演劇になかった異色の世界である。喜劇、とか笑劇とか、ミステリ劇とか、ジャンル分けなんか、吹き飛ばすような快作である。
しかし、この芝居は、ケラとナイロンでなければできないと思っていた。その後試みられた別のカンパニーの出来がその証とも思っていた。
だが、今回は違う。ケラ自身が再演を認めたカンパニーでやる、ケラ・クロスと言う企画の第一弾といいながら、まったく座組みが違う。戯曲へはリスペクトだけでいい、と作者に言われても、この破天荒な本に立ち向かう演出と役者は、さぞ緊張したことだろう。
演出の鈴木裕美はケラより少し後に出た小劇場出身。理屈の立つ女流演出家が多い中で、どちらかと言えば実践肉体派。ケラの演出が、男目線であったのに対し、鈴木演出は、徹底的に女目線。登場する人物(女性ばかり)に、容赦がない。ケラ演出よりも、ドライな乾き方で、このドラマが一層魅力を増した。
俳優もそれぞれ適役が揃った。キャスティングもうまい。鈴木杏にブルゾンちえみを組ませる、という秀逸なアイディア。代役出たとは思えない花乃まりあのハマり方。シルビアグラフの安定感。いずれも、演出の現場リアリズムとでもいうしかないスタイルで統一されて見事に新しいフローズンビーチになった。
さらに、この異色の顔ぶれの企画を東宝のメインの劇場で開けるところまで持って行った影のプロデューサーに拍手。ご苦労さま、お蔭で新しい商業演劇の道が一つ開いた。

ブラッケン・ムーア ~荒地の亡霊~

ブラッケン・ムーア ~荒地の亡霊~

東宝

THEATRE1010(東京都)

2019/08/02 (金) ~ 2019/08/04 (日)公演終了

満足度★★★★

イギリスお得意の怪談話の2013年初演の最新作。日本初演。イギリスの荒涼の僻地を舞台となれば「嵐が丘」のような古典から怪談でも「ウーマン・インブラック」のような名作もある。この舞台の設定は1937年。戦前の話である。
道具立てはおなじみのイギリスの地方の豪邸。傾きかけた炭鉱主一家にまつわる怪談で、ジャンル分けをすれば亡霊の憑依ものと言ったところか。炭鉱主夫妻(益岡徹・木村多江)の一粒種の男の子が、沼地の廃坑に転落して助けだせなかった。それから10年。この家には怪しげな霊が出没する。そこへ、当時隣人であったエイブリ―一家(相島一之・峯村リエ)が、事故死した子と仲良く遊んでいた男の子テレンス(岡田将生)を伴って訪れてくる。彼は成人している。時代の不安や過去の不幸で沈みがちな辺地の豪邸の持ち主と、そこに滞在する一家を背景に、テレンスに過去の男の子の霊が憑依する。「ブラッケンムーア!」と、廃坑から呼ぶ男の子の霊の声が・・・。そこまでが、一幕1時間10分。その解決の二幕が60分。休憩20分を挟んで2時間半。三日目の1010は中年女性客中心に満席。
エッツ?これで新作?と聞き返しそうになる怪談話だが、さすがに細かく時代に合わせた工夫はある。怪談そのものの実在を問う心理学と医学の葛藤。その裏側にある科学技術の生活への浸透。それが炭鉱のようなエネルギー産業を揺るがしている(幕開きと幕切れは、炭鉱主と労働者の人員整理交渉である)。子供を亡くした家族と、そこから逃れられた家族の10年の歳月は家族の意味や、子供の成長の時間を考えさせられる。同時にそれは隣人と言う人間関係も、その中で生きていく人間の悲しみも変えていく。ドラマはそういう細部を取り込んでいるが、そうなると、現代と設定した1930年代末ごろ、とのギャップが出てくる。
怪談へ総てを集約するには随分盛り沢山な内容で、すっきりまとまりきれていない。よく聞いていると、原文にはいろいろ怪談的、サスペンス的引張の台詞があるようだが、まだ開いたばかりで、舞台の空気が、まとまっていない。観客を怖がらせるところまで、演出も詰め切っていないし、俳優にも余裕がない。まだ開いたばかりだが、そういうところはこれだけ達者な連中が集まっているのだから改善されるだろうが。

ネタバレBOX

ラストはスポットライトの中に浮かび上がる少年の親を呼ぶ叫びで終わるが、その意味がすっきり割り切れていない。そこが現代の新作だ、と言う事かもしれない。
神の子どもたちはみな踊る after the quake

神の子どもたちはみな踊る after the quake

ホリプロ

よみうり大手町ホール(東京都)

2019/07/31 (水) ~ 2019/08/16 (金)公演終了

満足度★★★★

、当たったベストセラーを舞台にするのは、集客には有利に見えるが、実現し成功するのはそれほど単純ではい。まず、もともと【文芸】の小説をそのまま読者に届けたいという至極まっとうな作家も少なからずいる。村上春樹もその一人で、他のメディアとのかかわりには敏感に気づかいをする。
初刷りが50万と言われるほど売れているのに、村上春樹作品の映画化、テレビ化、コミック化、もちろん劇化も極めて少ない。2012年に初めて日本国内で舞台化された「海辺のカフカ」のときは、演出者・蜷川幸雄の何が何でも芝居として面白いと言わせてみせる!という、作家への対抗心のようなものも見えて、なかなか面白い興業だった。「海辺のカフカ」はスターも並べた大劇場の公演で、五年以上も再演を重ね、ロンドン・パリを含む海外公演もある大興行になり、その間に蜷川幸雄を世を去ってしまった。こちらは、テキストの趣向も一味違う村上春樹の中劇場(と言うより小劇場向き)作品だ。製作は同じホリプロ。同名短篇小説集からのコラージュで、演出は倉持功。俳優は児童も入れて5人。それぞれ複数の役を演じるが登場人物は多くない。1時間40分。
上演脚本はカフカと同じくアメリカのフランク・ギャラティ。この脚本が用意周到にできていて、ユニークな舞台作品になった。舞台ではいくつもの「物語」が同時進行するが、それぞれに、語り口(文体)の違う語り手がいて、ファンタジックな世界から、通俗的な人情物語、ギャングものからホラーまで、現代世界を飛び交っているさまざまな物語を織り上げていく。子供のために作る即興的な童話も、前世紀末の学園ロマンスも、かえるくんの寓話も、所を得て,生き生きと語られる。しかも、すべてのエピソードで、原作の多彩で複雑な現代小説の味を壊さないで、舞台に乗せている。
脚色の技術を駆使した脚本のうまさである。「かえるくん」と「かえるさん」の呼び名の違いでシーンを面白く作ってしまうところなど、とても外国人脚本家とは思えないほどだ。
出演者は、カフカで大受けの役を演じた木場勝己、他は若い俳優たちだ。木場はどんな役でも余裕綽々だが、ほかの三人には、複数の役を演じるのは荷が重かった。俳優が語り手も務め、さらに複数の役を演じるのもこの村上作品脚色のポイントの一つだ。役に客観性を持ちながら、肉体化もしなければならない。若い三人は、お行儀がいいところはいいのだが、肉感的表現はもっとやらないと木場には追いつけない。悪くはないのだから、これは贅沢な注文かもしれない。
演出の倉持はこの手の作品を何度もやっている。自分で本も書いているのに思い切りの悪いところがあって、ぐずぐずテンポを落とす癖があるが、こういう切れのいい本を参考に、まもなく予定されている乱歩の第二弾では、引き締まった良い本で見せてほしい。
猛暑の夜、あたらしいホールで、外へ出るとここ二十年ですっかり変わってしまった東京駅前丸の内。あれ、おれはどこにいるんだろうと、どこか別世界へ遊んだような気分になる小じゃれた公演であった。



ネタバレBOX

終わり近く、子供と母親のみぢかいシーンがあるが、子供の声が上手側では聞き取れない。下手を向いている子供には全面に聞こえるように発声するのは無理な技術なので、ここは、場内音声がフォローしなければ。音もいいホールで音響効果はいいのに残念。
血のつながり

血のつながり

劇団俳優座

俳優座スタジオ(東京都)

2019/07/28 (日) ~ 2019/08/04 (日)公演終了

満足度★★★

今年の3月に文学座のアトリエで上演した本を、俳優座の稽古爆公演がやるという。
半世紀ちょい前なら演劇界の大事件(イベント)だが、今はひっそり、私も文学座は見逃した。カナダ演劇がいかにもアメリカ的な地方都市人間模様を描いても、いかばかりの物か、と食指が動かなかったのである。
19世紀末、保守性が強いアメリカ東部小都市の資産家の一家のミステリである。父親に後妻、二人の子供はともに女姉妹である。後妻には性悪の弟がいて、資産を後妻のものにしようと耽々と狙っている。メイドが一人。この家で父親と後妻が斧で頭を割られて惨殺される。なぜこの犯罪が起きたか。
戯曲は少し凝っていて、事件の結末も出た後で、姉妹の妹(若井なおみ)が友人の女優(小澤英恵)に、事件の経緯を再現させて、その心理を追うという形になっている。その犯罪事件は、アメリカでは有名な事件であるらしいが、我々が見ても経緯が平板で、、19世紀末にはこれで通ったんだなぁという位の感想しかわかない。日本で言えば明治の新派劇である。封建的な父性社会への反発、とか、女性の自立、とか、地方都市の封鎖性という枠組みも、父親、後妻、義弟のキャラ作りも、手を汚さない姉、イラつく妹、澄ました顔で手癖が悪いメイドなど、俳優もおなじみの型どおりで、戯曲の仕掛けがなければとてもまっとうには付き合っていられない。
現代アメリカ演劇はこんなもんではないだろう。これは1980年初演と言うが、今年見たものでは俳小の「殺し屋ジョ―」が90年。掘り出すのなら、こういう生きのいい戯曲を発掘してほしい。二大劇団が争って上演するようなものではないだろう。ミステリ劇としても、レッツの方がはるかによく出来ている。
ただ感心したのはやはり俳優の層の厚さで、旧新劇団には昔懐かしい、すれていないように見える美女がいる。姉役の桂ゆめも若井同様、美女であるだけでなく下手ではない。老けの中寛三は、今や大幹部だろうが、さすが柄では小劇場の及ぶところではない。装置もいいし、効果、音楽の入れ方もシャレている。すでに売り切れ続出は目出度いがせいぜい客席百余りでは、浮かれてもいられまい。この顔ぶれで、なぜ文学座と張り合ってまでこの本で、公演を打ったのか、ミステリの謎は解けない。。

朝のライラック

朝のライラック

彩の国さいたま芸術劇場

彩の国さいたま芸術劇場・NINAGAWA STUDIO(大稽古場)(埼玉県)

2019/07/18 (木) ~ 2019/07/28 (日)公演終了

満足度★★★

イスラム圏とどう付き合っていくかは、今世紀の非イスラム圏の世界的大問題で、確かに「世界最前線」ではあるが、それがたちまち「世界最前線の演劇」となるかどうかは疑問である。両者の文明の基盤が違い、共通の価値観を持ちうる部分についても手探りの状況である。はっきり見えるのは、政治的武力対立だが、他の領域でもわからないことは多い。
この芝居は、イスラム圏の政治対立の内乱の真っただ中で、非イスラム圏の価値観(西欧的な自由主義)を持つイスラム人男女(松田慎也・占部房子)が圧殺される物語である。味方も敵も、ともにイスラム教のもとにあるのだが、どこがどう違うかは、西欧的な自由主義を認めるか、どうかだけしか観客には解らない。主人公の男女も、まるで何も知らない日本人男女のような雰囲気で、同じ宗教のもとにある者同士の葛藤がない。そこを、このイスラムに生まれた作家が書いてくれなくては、異教徒にはどうしようもない。そこは役者の想像外だ。
戯曲の視点も、国際的な意図もあるのか、西欧的な近代的価値観のもとに書かれていて、異形の暴力に巻き込まれた自由主義者の悲劇になっている。救いのない話で、そういう実話は現在のイスラム圏問題の最前線では起きていることなのだろう。そのことは観客も知っている。
だが、本当に観客がみたいのは、いささかスリラーめいた脱出劇の成否ではなくて、そこに生きる人々が、どのような生き方をしているかであって、この芝居はその肝心なところを殆ど型通りの設定でしか見せていない。
舞台が小綺麗にまとまっているのが、何か空々しい感じさえする。事件の真っ最中に演劇の場を設定するのは受けやすいけど、中身は乏しくなる。この最前線演劇はそこから逃れられていない。

ネタバレBOX

西欧的な価値観を持つ学校の芸術系教師が、内乱に巻き込まれ、先鋭的なイスラム教信奉グループに捕らえられる。敵方には、主義からの理由だけでなく、女教師に対する指導者の野心まで、さまざまな圧殺の理由があり、中には教師たちを助けようとする元生徒なども現れるが、結局は、逃れるすべもなく自死に追い込まれてしまう.わかりやすすぎる話で、だからこそ、サスペンス脱出劇として見ていられるのだが、イスラム圏との葛藤はこんなものではないだろうと思う。
グッドピープル

グッドピープル

株式会社NLT

博品館劇場(東京都)

2019/07/18 (木) ~ 2019/07/25 (木)公演終了

満足度★★★★

たのしい芝居見物だった。場所は銀座。三百人ほどのほぼ満席の客席は下北沢とはがらりと変わって、家族連れもいる老若男女、下町の町内会の観劇会の雰囲気である。
芝居は2011年のブロードウエイのアメリカ現代演劇。大衆劇的とはいっても、中身は現代アメリカ・ボストンの下層労働者階級の性差、上昇志向、人種差別、職業差別、地域差別、などを織り込んだかなり辛い内容なのだが、万国共通の彼らの、都合のいい話には乗りやすく、酒や賭博(ビンゴ)におぼれ、常に失業不安のある労働者たちの生活を喜劇的に描いて普遍性がある。(落語の庶民の世界である)
劇団のカラーにも合っていて、主演の戸田恵子、村上弘明、サヘル・ローズは客演ながら、脇を劇団の木村有里、阿知波悟美が支え、鵜山仁の演出も心得た出来で、幕間15分を挟んで2時間半、楽しんで見られる。中でも、戸田恵子は、こういう環境に育った女性の切なさ、可笑しさ、純な心情をテンポよく演じきっていて、この女優ならいつもの出来とは言うものの、得難い名演である。べとつかず、切れ味がよく、さっと変わるところがうまい。
対する、村上弘明。大劇場の商業演劇は経験があるだろうが、こういう中劇場でも、なかなかいい。成り上がった医者の役を、余り芝居で見せようとしないで、ガラで押さえているところも成功した。サヘル・ローズと高田翔の台詞が聞き取りにくいのはキャリアの差が出た。
しかし、こういう舞台で、客席が、素直に芝居を楽しんで、劇場全体が芝居の華で包まれ一つになって盛り上がる(幕内で芝居の神様が下りてきたと言うそうだが)のは、は非常に珍しい。商業演劇だけでなく、今の小劇場にも、公立劇場にもない、現代の芝居小屋のあり方を開いた老舗NLTの久々の大ヒットだろう。

『イザ ぼくの運命のひと / PICTURES OF YOUR TRUE LOVE』リーディング公演

『イザ ぼくの運命のひと / PICTURES OF YOUR TRUE LOVE』リーディング公演

世田谷パブリックシアター

シアタートラム(東京都)

2019/07/20 (土) ~ 2019/07/21 (日)公演終了

リーディングならと軽い夕涼み気分で出かけたのがよくなかった。スピンアウトのもとになった舞台も見ていない。つかめなかった責任はほとんどこちらにあるが、それぞれのシ-ンの台詞はわかるのだから、怠惰な観客にはもどかしい舞台だった。ほかの舞台で魅力的だった音楽・作曲の実演にもつられていったのだが、場内ミキシングがよくなく(公演回数が少ないから仕方がないにしても)俳優のマイクのバランスが悪く、楽器のPAもいかがかというところがあって、折角歌ってもいるのにその魅力が伝わわらなかった。

ジャスパー・ジョーンズ

ジャスパー・ジョーンズ

名取事務所

小劇場B1(東京都)

2019/07/12 (金) ~ 2019/07/21 (日)公演終了

満足度★★★★

小劇場のスペースを、美術、照明、音響、舞台監督の裏方大奮闘で埋めきって、多分、中劇場以上を想定して書かれたシ-ン数の多いオーストラリア演劇が上演された。ここで幕だな、と感じるところも途中にあったからもともと多幕物で書かれた劇だろう。2時間。
かの地で大当たり、というジュブナイルのような小説を原作にした「名作ドラマ」の感触で、大筋はマークトゥエインの少年もののいただき。それに現地のアポリジニ差別、家庭内暴力、社会階層。地域差別など、社会的葛藤を詰め込んだ本で、広いオーストラリアのどこでやっても客が来そうな舞台ではある。日本人にとっては、お勉強にはいいかもしれないが、翻訳者が客席パンフで言うように、「日本の姿に重なる」「上演すべき」ドラマとは思えない。表面的には重なるかもしれないが、それぞれの各国事情があり、そこに人間は住んでいる。演劇だから、目の前で人間がやると、重ねようとすると嘘が見えてしまう。さまざまな文化の中で演劇が最も国際交流が難しい。
演出の寺十吾にどういう意図があったかが、窺えない。しかし、細かく展開するドラマを見ているうち(場面処理は旨いのである)に、舞台にいささかは同化しながら面白がる芝居見物の「感興」は次第にそがれていく。終わると、やれやれ、地上の楽園も大変だなぁと劇場を出ると言う事になってしまう。大使館のレセプション演劇ならこれで充分の出来なのだが、日本の観客にここを見せる、という突込みがないと小劇場は苦しい。やたらと長いエピローグを万遍なくやったところにもそれは現れていると思う。新劇団から役者を見つけてくるのがうまい名取事務所だから、今回も巧みなキャスティングである。熱演の若い俳優たち、大橋繭子、森永友基、窪田亮、西山聖了など、他の舞台でも注目して、見てみたい。


芙蓉咲く路地のサーガ

芙蓉咲く路地のサーガ

椿組

新宿花園神社境内特設ステージ(東京都)

2019/07/10 (水) ~ 2019/07/22 (月)公演終了

満足度★★★★

総勢36名の新劇団から小劇場まで、さまざまな出自の俳優が土の舞台を駆けまわる、年に一度の野外テント劇である。
今年の題材は中上健二。作家としては評価も定まった感じの昭和の逸材で、かつて、何度も映画化、舞台化が試みられたが、あまり成功したものはない。日本の原点とも言える土着文化を掘り起こしているのだから、切り口がつかめそうなのにうまく具象化できない。
ナマの人間で見せる演劇には有利に思えるのだが、既成の俳優だと、俳優個人のキャラクターが邪魔をしてしまう。それだけ原作が日本人の多様な側面を深く描いているとも言えるのだが、なかなか抽象的な文字の世界には及ばない。しかも、その世界は、今は消えてしまった昭和アンダークラスの路地である。
この舞台で、その空気をいささかでも体現出来た俳優は残念ながら少ない。それは当たり前で、日常生活で手掛かりがない若い俳優には雲を掴むような話なのであろう。ほとんどの若い役者は浅い知識でそれらしくやっているだけだ。そのなかで、主演の加治将樹は、よく中上の世界を体現していた。ほかの舞台も見てみたいと思った。山本亨は幅広くこの役を掬ってまとめ上げて、好演。柄は違うのに存在感を出した水野あや。作・演出の青木豪も身体的には知らない世界だから、ときに原作に遠慮してか(全体としてはご苦労様と言う出来なのだが)最後の肝心なところでは、中上頼りのナレーションになってしまう。結局、芝居にし切れていないのである。まぁ、それほど、中上健二と言うのは難物なのだ。この野外劇公演では、アンダークラスから日本の原点に迫ろうとした企画は多いが、中上の場合は「路地」に籠めた土着の精神性がある。今回は、類型的公演は脱したとはいえ、すこし荷が重かった。
しかし、夏の一夜、普段は様々な劇場で主に脇役で舞台を締めいる俳優たちが様々な場所から集まったテント公演を見るのは、解放的なフェスティバルの雰囲気もあって観客にとっては楽しい芝居見物だった。

ネタバレBOX

アンダークラスを扱うと、どうしても「差別」に触れざるを得ない。現在、あらゆる表現領域で、社会的差別をたタブー化する風潮がある。この公演でも、メディアでは論難されるような表現は少なくなかった。しかし、それに触れない、触れさせないというのは文化の圧殺である。どうか、表現者の矜持を持って、そのようなタブーの臆することなく、真実に迫る芝居を作ってください。
骨と十字架

骨と十字架

新国立劇場

新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)

2019/07/06 (土) ~ 2019/07/28 (日)公演終了

満足度

小劇場でブリリアントな舞台を見せてきた野木が、キャスト・スタッフも揃えて初の中劇場進出だ。芝居好きが首尾いかにと胸弾ませる待望の公演だったが、その期待は重く沈んだ。
その芝居の舞台成果を言う以前に、公演の構えにいくつかの疑問があり、それが観客の期待を裏切る要因になった。
大きくは二つ。その一つは、折角創作劇を委嘱したのに、なぜこの素材を選んだかと言う事である。物語は、ほぼ百年前、二十世紀になっても権威であったキリスト教の異端審判である。主人公はフランス人。登場人物もすべた西欧人司祭だ。
ヨーロッパ近代・現代社会とキリスト教とは相互に深い関係があることは周知のことで、それを東洋から見るというのは、それなりに意味のあることではあるが、なぜ現在の日本の、国立劇場で上演しなければならないか、という創作劇の主題が見えない。
信仰による神の世界と、科学による真理との対比、その中で人間は歩み続けざるを得ない(keep walking)と言うのが、きわめて大雑把なこの芝居の要約だが、結局はその程度の平凡な箴言しか言えていない。
野木の舞台がここ数年注目されてきたのは、主に、日本人なら誰でも身体的に馴染んでいる日本の近現代の事件(東京裁判や三億円事件)や遊戯(競馬やポーカー)に素材を取りながら、ちょっと意表を突く、週刊誌的と言ってもいい人間的問題提起から、的を得た日本人批評(もちろん中には汎人類的なものもあるが)を面白いドラマに仕立ててきたからなのだが、この素材では、その面白さを出しようもない。では、日本の近現代史、あるいは現実の社会の中に同じテーマを持つ素材がないか、といえば、いくらでもある。
現代劇を上演する公立劇場で、ましてや国立劇場なのだから、そこを逃げてはダメだろう。かつて、井上ひさしがこの劇場に登場した時はさくら隊が素材だった。後には戦争三部作も上演した国立劇場である。この芝居だって商業劇場でやっていないことをやりました、と言うかもしれない。三島だって「サド侯爵夫人」を書きました、と言うかもしれない。しかしそれは社会の中での演劇の役割を知らないものの暴論である。ひょっとするとこの劇場には、野木の(あるいは劇場の)この企画を再考しようと提言した者がいなかったのではないか。それは役人仕事の事なかれ主義、点取り稼ぎでしかない。
二つ目。本公演に先立って、プレビュー公演があって、それを見たこのコリッチ・レポートによると、観客にアンケートを求め、本公演までの三日間で指摘された箇所を修正して、本公演に臨む、とされていたそうだ。どんな形式でアンケートをしたのか、それをどのように舞台に反映したのか、興味があったが、本公演では一切それについては触れられていなかった。
それはいいとしても、そもそも、演劇が幕を開けると言う事は、制作側から観客に完成品を見せる、決意表明でもあるべきで、デパートじゃあるまいし、お客様からご要望をお聞きし直します、というものではない。90年ごろから観客の意向を反映する、観客参加型の公演が多くなってきた。そう言う演劇の役割も解るが、この芝居は仕組みが違う。それをここで言うのは単に観客への媚態か、制作側のエクスキューズでしかない。
この公演は、制作側は全力を尽くして、自分たちの作り上げた舞台を見せる、観客はそれを見る、というストレートな演劇体験を目指している。もし、直したなら、それを明示しなければアンケートに答えた観客に失礼だろう。
以上、主に二つの点がひかかって、この芝居、素直に楽しめなかった。舞台成果としては、さすがに役者がそろって、代役で出た神農には気の毒だったが、小林隆は今までにない幅のある役をこなし、伊達暁も円熟してきた。全体に役者が舞台を楽しんでいない気分が見えたのは残念だったが、まだ公演数が少ないから仕方がないか。さらに残念なのは、折角中劇場に出たのに、パラドックス定数がよく上演する小劇場の舞台を踏襲して代わり映えしなかったことで、逆に、このキャストで小劇場で見てみたい、と思った。それは金の問題で折り合わないところが、また演劇らしいところなのだが。

闇にさらわれて

闇にさらわれて

劇団民藝

紀伊國屋サザンシアター TAKASHIMAYA(東京都)

2019/06/23 (日) ~ 2019/07/03 (水)公演終了

満足度★★★★

ヒットラーのナチ政権の所業は20世紀の悪夢と言うが、今なお繰り返し舞台でも上演されるのは、まだその悲劇を克服されていないからだろう。
「闇にさらわれて」は2014年初演のイギリスの戯曲。テレビ出身のマイク・ヘイハーストの処女戯曲の民芸による日本初演だ。ユダヤ籍の青年弁護士(神敏将)が、ナチ政権以前にヒトラーを裁判の証人としたことで疎まれ、政権発足後に捕らえられ、強制収容所に収容される。一幕は彼の獄中生活。第二幕は彼を解放しようとする母(日色ともえ)の闘いが軸で、舞台は進む。
戦後70年を超えると、ナチ、反ナチの単純な対立項ではドラマは成立しない。身の回りで起きる小さな日常が積み重なって、ヒットラーの社会は生まれる。そこを、この作者は、一幕の単純な反ナチの弁護士と獄窓を共にする同志から始まり、現実派の父親や、行動論理があやふやなナチ親衛隊員、二幕には同盟を試みようとするイギリス貴族(篠田三郎)を、配して重層的に検証していく。なぜあのような悲劇が生まれたのか。
ヒトラーが率いた政治体制のホロコースト、侵略主義、選民思想などは、まず明確に責められるべき要因ではあるが、政治であれ、経済であれ、はてまた学術の世界であれ、全体を覆う風が強く吹けば、それに乗じる日常の権威は生まれ、その権威は暴発する。風の中にいる人間は気がつかないのだ。そこは現代のポピュリズムにも通じるところだ。
「アンネの日記」をはじめ、戦争の検証では多くの舞台を上演してきた民芸の舞台だから、今回の新作も無難に進む。一幕の獄中の描写などは、いささかパターン化しているが、基本的は「母もの」なのに、情緒に流れず、無理に結論を急がず、戦争ものは手慣れた、という感じだ。
しかし、多分、この公演の一番の問題点はそこだろう。
年金受給年齢を越える老人が圧倒的に多い客席は、民芸らしい舞台で安心して見ている。
だが、本当にこの芝居と向き合ってほしい戦争を知らない世代がいない。老人は夜道が不安だろうと若者が見られる夜の公演はわずかしかない。いつも常打ちにしているサザンシアターの舞台も地方の公会堂を回るサンプルとしては便利であろうが、いつまでもそれに安住した咎が出ている。舞台と客席の間に馴れ合いの冷たい風が吹いている。現実には、民芸は、もうこの中劇場は荷が重い。
キャストは9人、もっと小さな劇場でやってみたらどうか。例えば風姿花伝。トラムとか東芸の地下のような既成の場所でなく、まだ形の決まらない劇場でやってみる。俳優も演出も、それはもう、パラドックス定数やチョコレートケーキよりはるかに手だれのキャストスタッフが揃っている。観客にとってもベテランの新しい発見があるだろう。それは経費が、友の会が…と制作部は言うだろうが、もうそんなことに構っている場合ではないだろう。ほかの上演団体は皆ここで勘定を合わせているのだから。


渡りきらぬ橋

渡りきらぬ橋

温泉ドラゴン

座・高円寺1(東京都)

2019/06/21 (金) ~ 2019/06/30 (日)公演終了

満足度★★★★

小劇場劇団としては大胆な試みを一度に三つやっている。
昇り目のシライケイタがひきいる温泉ドラゴン、主要俳優も全員参加して力の入った本公演である。物語は日本初野女流劇作家と言われる長谷川時雨が活躍した女性運動勃興期。ドラマでも、よく取り上げられる大正リベラリズム最高潮の時代の文芸界人間模様だ。
大胆な試み・第一。女性を主人公にしていながらすべてメールキャスト。体格のいいカゴシマジロー(林芙美子)、いわいのふ健(岡田文子)、筑波竜一(長谷川時雨)、みな女性役で和服で登場する。第二。四か所、テレビのスタジオインタビューのような形式で、登場人物が、亡くなった人を呼び出してインタビューする。例えば、時雨が一葉に聞く。第三。現実の史実を踏まえている。
特に斬新とも言えない演劇的な工夫であるが、それなりに難しい演劇的趣向を三つそろえて、本公演をやるのは劇団が上向きの時でなければできない。
その結果はどうだっか。
残念ながら、成功したとは言い難い。女性を男性がやるのは日本演劇では珍しくない。ことにこの世界は新派という老舗がある。その水準まで、とは言わないが、せめて、和服の着方、その時の歩き方、当時の言葉、くらいは今少し演じてくれないと、テーマとなっている女性の閉ざされた世界そのものが表現できないことになってしまう。メールキャストにこだわった意味がわからない。新劇団にもいい女優はいる。借りてきてもいいではないか。インタビューシーンを挟むというのは面白い発想だが、解説以上に出ていない。もっと積極的に絡める方法も、折角、大きな橋を道具で出しているのだから、演劇的な処理で、できると思う。解説を入れているにもかかわらず、約百年前の話だから、説明不足が生じる。もっとも解り難かったのは、当時のメディアである雑誌や新聞の上に成立していた文壇の社会的な意味合いだろう。「女人芸術」そのものを今少しわからせてくれないと時雨も理解できない。
さらに、芝居で言えば、人物が多すぎてそれぞれ紹介に忙しく、肝心の女人芸術の編集を巡るドラマや、三上於兎吉と時雨の不思議な夫婦関係が説明的・表面的になってしまったことや、舞台のつくりが部屋を上手に置いているので、さぞ、下手側の観客席は見難かったろう、とか。音楽のつくりが安直だ、とか。
いろいろ、不満はあるのだけど、若い劇団がこういう機会に演劇的実験を試みて、その成否を肌で学ぶのは必ず将来役に立つ。
この演出家は、他の劇団に招かれて「殺し屋ジョー」という舞台を、はるかに悪い条件で成功させている。次回は余り捻らずに、力量を発揮されることを祈っている。

ネタバレBOX

基本的には脚本であろう。内容に新しさがない。シライもそれに気づいて、この奇手を連発する擧に出たのかもしれない。去年の群馬の田舎町を舞台にした新聞記者もの(Dark City)も、素材の選択がよくない。本も常識的でつまらなかった。殺し屋ジョーのような本に出会えれば力を発揮するのだから、本に関するブレーンが必要かもしれない。
ピロートーキングブルース

ピロートーキングブルース

FUKAIPRODUCE羽衣

本多劇場(東京都)

2019/06/20 (木) ~ 2019/06/23 (日)公演終了

満足度★★★★


歌と芝居とダンスを一つの舞台にしたショーは90年代は大いに流行ったものだが、この「妙―ジカル」はその流れだ。
FUKAIPRODUCEで糸井幸之助の作・演出・作曲、初の本多劇場進出を見に行った。
舞台は砂浜。壊れた機械の歯車が半ば砂に埋もれている。歯車は時にゆっくり回ったりする。ベッドが二つ。タイトル通り、ベッドの上の男女のピロー・トークで進む。
馴染みのコールガールともてないデブ男。
ファミレスの店長と亭主もちの客席掛の女。若い店員。店長は失踪し、女も同行する。
燕尾服にシルクハットの男女のタップダンサー
仲を取り持つラブホテルの蚊。
12名の出演者がそれぞれに役を持っていながら、台詞も歌も群舞も斉唱も演じる。
青春の終わり。男女の寝物語にもダレがみえはじめるころ。何となくユルイ感じなのだが、ときに、時代感を鋭く出す。俳優たちも今様に楽しげに演じている。群舞などは、振り付けや衣装もよく考えられていて、稽古もよく出来ている。投げやり、無気力に見える若い世代のホントはつらい真情を同じ世代として良く表現している。
この公演を見に行ったのは、木下歌舞伎がこの糸井幸之助をしきりに起用するので、なぜだろうと、本業のステージを見に行ったのだ。勧進帳のラップなど、なるほどそういう狙いだったかと、分かった。曲も歌詞も、一つ一つを取り上げるよりも、全体として一つの世界観に収斂していくところが、きっと演劇側からは歓迎されるのだろう。
単独のショーとしても面白い。本多劇場で満席だったが、招待客も随分いたから実力のほどはよくわからない。青春回顧の甘い一夜だった。歌詞ではないが「楽しい時間をありがとう、不意に動いた心が静かに止まってしまうまで」


THE NUMBER

THE NUMBER

演劇企画集団THE・ガジラ

ワーサルシアター(東京都)

2019/06/18 (火) ~ 2019/06/23 (日)公演終了

満足度★★★★

個人の自由と幸福を両立させるのは、人類には不可能なのか?
現代が「古代」になって伝説としか伝えられなくなった遠い未来でも、今もしきりに問われている全体と個人の相克は解決されていない。この舞台はロシアの作家の原作を鐘下辰男が脚色演出したガジラの舞台。私鉄沿線・八幡山の客席60人ほどの地下の小劇場だが、マチネから満員である。
暗い舞台、細い照明、大音響の効果音、昔懐かしい千葉哲也はじめ、濃い目の俳優でそろえて、2時間20分休憩なし、ガジラらしい舞台である。だが、未来社会でも議論される科学か、芸術か、とか、幸福追求は全体か、個人か、というような内容はチャペックの古典とさほど変わり映えしない。SFはどこかで、いったん架空のお話として見てしまうとガジラ節でエグく押されても、観客は安心してしまう。そこが難しい。
だが、小さいながら対面舞台で一つの世界を力業でまとめてしまう鐘下辰男の力量はたいしたものだ。さきに、体言止めの台詞が多くなったのに違和感を覚えたが、舞台に無機的な力を与える効果は大きいと分かった。しかしそれは台詞から情緒的なニュアンスを削ぐ。
観客がSF社会の仕組みを、大音響の中で理解していくのにかなり疲れる。
かつて、ガジラは終演後のカーテンコールがなく、暗転して客電がつくと、あとは裸舞台だけ、というのはなかなか味があった。この芝居はその方が良かった。

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