墓場なき死者
オフィスコットーネ
駅前劇場(東京都)
2021/01/31 (日) ~ 2021/02/11 (木)公演終了
満足度★★★★
先月はカミュ。今月はサルトルと昔懐かしい実存主義作家の代表作の上演が続く。
なんで急にブームになったのか、多分、今のコロナ騒ぎが「極限状況」とダブらせやすいからだろうが、それはずいぶん早合点の牽引付会であまり乗れない。
サルトルの「墓場なき死者」はノルマンディ上陸作戦からパリ陥落までの間のフランスで、ナチ協力政府とレジスタンスに引き裂かれた民兵の悲劇を素材にしている。政府側に捕虜となった民兵五人が民兵側の秘密(隊長の所在)を自白するように拷問される。その先は虐殺が待っているが、彼らは「自尊心」のために自白を拒む。
自白しそうな弟を殺してしまう姉、とか、拷問のシーンとか、自殺したり、殺されたりするシーンも多く、芝居と分かっていても理不尽な死は重苦しい。「正義の人びと」のように抽象的な議論にならない反面、肉体的な痛みも観客は味合う。議論は死を賭けた自尊心という事で再三繰り返されるが、ここが当時の戦争の状況を背景にしていて、解りにくい。それはそうだろう、よく事情が分かっている翻訳者は、どこか奇妙なおかしみがあると書いているが日本人にはわからない。日本の事なら「日本の一番長い日」だって、どこか奇妙なおかしみを感じることができるが、フランス事情までは響かない。演出者もそこまでは狙っていないらしく、どんどん話を進めるが、もっと、一つ一つのエピソードを腑に落ちるように描いてくれないと外国人には共感しにくい。(そこはカミュの本のせいも大きいが俳優座の方が分かりやすい)コロナ騒ぎで、上演時間を短くせざるを得なかったのであれば大いに同情するが、全体に舞台の肉体的な痛みを吸収するゆとりがない。
俳優では、隊長の女であり、弟を殺さざるを得なくなる姉を演じた土井ケイトがなかなか良かった。少し席を間引いているが満席だったのは何より。俳優座の圧倒的に老年に比べるとここは半分は30歳代以下の若い人が入っている。15分の通気交換休憩を挟んで2時間半。
正義の人びと
劇団俳優座
俳優座劇場(東京都)
2021/01/22 (金) ~ 2021/01/31 (日)公演終了
満足度★★★★
戦後社会に生きる若者に大きな課題を突き付けた政治劇(1949)だが、すっかり忘れていた。民藝が上演して(1969年)安保世代には忘れられない影響を及ぼした作品を、俳優座が上演する。劇場(民藝は都市センターだったか?)はかつては青年の熱気であふれていたが今はコロナの一席沖の客席を埋めるのは老年の観客だ。若者は演劇勉強中の青年が売れなかった空席にパラパラといる。革命に自らの命を懸けて挺身しなければ、と若者が社会変革への運動への参加の意味を痛切に求めた時代はわが国では遠くなっている。
この作品は鈴木、つか、佐藤に始まる小劇場運動にも、清水、斎藤以下の劇作家にも、蜷川、渡辺、などの演出家にも大きな影響を与えた。坂手、鐘下はもちろん、現代の古川、長田、中津留らも、戯曲は読んでいるに違いない。現代演劇のメインストリームの一つである。だが、大劇団公演で舞台を観たのはずいぶん久しぶりだ。
サルトルもカミユも芝居はうまい。これはロシアの専制政治の主の大公を爆弾で暗殺すると決めた社会主義政党の暗殺実行グループの暗殺前と、暗殺後の二幕である。暗殺グループのメンバーも色分けがよく出来ていて、その中で、暗殺をめぐってさまざまな立場が論じられる。社会の不正をただすための殺人は正義か、という事がメインになるが、中国全体主義や、イスラム至上主義からトランプのQアノンまで、今も解が得られていない問題を社会正義とその実行をめぐって、議論が沸騰する。対比されているのは人間の愛で、二幕では捕らえられ死刑宣告を受けた爆弾投擲者(斎藤隆介)のまえに殺された大公の妃(若井なおみ)が現れ、自分の大公への愛はどうなるのだと、迫る。投擲者の恋人で運動家でもあるドーラ(荒木真有美)は、絞首刑になる恋人と同化して民衆への愛が達成できるという。議論は原理的ですっきりはしているが、実用的ではない。
今見れば、サスペンス・ロマンのような作りで、よく出来ているので飽きないで見られる。ことに一幕二場あたりまでは流れもよく緊張が持続する。
一日二公演の夜の部を見たので、さすがに二幕も後半になると俳優陣に疲れが見えたが、議論が主になる大量のセリフをこなしたのはさすが俳優座である。この劇団の俳優は立ち姿がいいのも自慢してもいいところで、あまり見たことがない主演女優の荒木真由美ももう四十歳近いベテランだろうが、セリフも動きも実に無駄がなくきれいだ。斎藤隆介も役をよく受け止めている。
五十年ぶりに見た舞台には感無量とでも言うところだが、考えさせられるところは多かった。とても「見てきた感想」では書ききれない。そこはお預けにするが、今の時代、お預けできるだけまだ、社会の状況は切迫していないともいえるし、もうこの段階は過ぎているともいえる。いや、単にこちらが老いたのであろう。
ミュージカル『パレード』【1月15日~17日昼まで公演中止】
ホリプロ
東京芸術劇場 プレイハウス(東京都)
2021/01/15 (金) ~ 2021/01/31 (日)公演終了
満足度★★★★
百年前のアメリカの南部のアトランタで起きた冤罪事件を素材にしたミュージカル。南北戦争がまだ後を引いていて、黒人差別や白人同士の貧富の差別が社会に根強く残っている。戦没者追悼記念日のパレードはそういう地域に生きる人々をひとつにするお祭りだ。
事件は、北部からきたユダヤ人経営者(石丸幹二)のマッチ工場でそこで働く貧しい白人家庭の少女の死体が発見されとことに始まる。犯行の確証がないまま、市民のいわれない反感から経営者が裁判に掛けられ犯人とされる。経営者の妻(堀内敬子)の奔走や良心的な知事そうとする夫婦の愛の物語は、復讐に熱狂する人々のパレードに呑みこまれていく。
当時の南部を思わせる音楽。大木一本の裸舞台を照明でホリゾントの色を変え、さまざまな場に変化させ、ここに五色の紙ふぶきを降らせる美術が効果的、斜に入れた照明もいい。これで舞台転換に時間がかからず、テンポもリズムも出て音楽が生きた。衣裳も少女の衣装で一本勝負。オケも台詞との絡みが多いのに、見事なものだ。ことに裁判の場面をだれずに変化を持たせながら面白くまとめたところがいい。コーラスの振り付けも無理していない。チームをまとめきった新劇団出身の森新太郎に拍手。
「パレード」がトニー賞を得たのも、二十余年前、今なんで日本で上演?と思うが、差別と偏見を抱いて冤罪を許した人々の姿は、メディアで増幅される不寛容な日本の現実にも重なってくる。
「パレード」で夫を殺された妻は、ラストで、「でも私はこの地で生きていく」と高らかに言う。風と共に去りぬに似たアメリカ魂には冤罪や差別の悲劇を越えて、人間を信じる力がある。演劇ならではの見事なラストであった。
最近のロックミュージカルと違って、セリフに曲を付けられる(笑)正当なミュージカルスタッフの座組みがよく、ここの所、瞠目するミュージカルがなかった中では出色の出来だ。ホリプロも既成の東宝、四季、松竹、梅コマと並んで、新しいミュージカルの舞台を作る実力を備えてきた。企画としては大衆迎合の最近の世相への時宜を得たもの、と言いたいところだが、それは少し買い被りで、今はアメリカでもやっていない旧作をよく掘り出して夫婦愛のミュージカルにして面白く仕上げたことを評価すべきだろう。
2017年のメインキャストスタッフを残した再演。
ザ・空気 ver. 3
ニ兎社
東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)
2021/01/08 (金) ~ 2021/01/31 (日)公演終了
満足度★★★★
当たりシリーズだけあって、見ている間は、展開も面白く楽しめるが、現代世間批判としては新劇版ニュースペーパーみたいで、作者が永井愛なら、もっと演劇的に深く突っ込めるのにと、「時の物置」や「パパのデモクラシー」を懐かしく思い出してしまう。
テレビのニュース番組の裏話で、このレベルのメディア批判劇は既に幾つもある。若い作家も書いている。永井愛ならもっと、ユニークな視角でドラマを作ってほしい。というのはこちらの勝手な願いで、この方が分かりやすい。劇場の観客はテレビしか見ない善男善女だからこれでいい、現に拍手喝采してくれるではないか、といわれると二言はないのだが。
現実社会の実働人間はニュースが必要なら、新聞も週刊誌もSNSも利用する。この舞台で見られるようなテレビ番組だけを頼りにしてはいない。トランプは半分も支持者があるから侮れないという識者もいるが、あれだけテレビで宣伝し、SNSで発信しまくっても半分に届かないのである。別の評者(かず氏)も言っているように、これで自らの主張とするならかなり寂しい。
しかし、この優れたおとなしい劇作家をこのレベルまで駆り立てたのは、新国立劇場での官僚との対立や現政権のでたらめ政策が蓮日繰り広げられ腹に据えかねたからであろう。無学・無神経な政治家・官僚の権力を嵩にきた文化いじりは本人たちが気付いていない一国の文化水準を貶める罪深い所業だ。
スルース~探偵~
ホリプロ
新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)
2021/01/08 (金) ~ 2021/01/24 (日)公演終了
満足度★★★★
登場人物が二人だけ、というのはミステリにとって、究極の状況設定だろう。どちらかが加害者、もう一人が被害者。それが犯罪の進行に伴って、目まぐるしく攻守所を変えるところが見所である。初老のミステリ作家(吉田剛太郎)の妻を寝取った若い男(柿澤勇人)への復讐計画が物語を進める軸である。
事件はミステリ作家らしい、古典的なトリッキーな犯罪計画で、幕を開ける。作家が若い男を孤立した豪邸に呼び出し、計画にそって復讐を遂げるのが一幕。若い男が反撃に転ずるのが二幕。今までの上演は、計画犯罪の経緯を主にしたサスペンス・ミステリ劇と言う感じだったが、今回は舞台の遊戯性(とでもいおうか)を立て、役者も適役を得て、よく出来た戯曲「スルース」を今に生かす上演になった。かつての公演ではホラー風の効果を出すために置かれていた異様な笑い声を出す人形の小道具も、今回は喜劇的な役割を果たす。上演台本で、歌える柿澤を生かし、派手な衣装や小道具で動きを重視しゲーム性を生かしたテンポのいい演出である。反面、古典的ミステリ批判や、男女の機微などは後退して喜劇性が強い。そこは今風で、吉田剛太郎は自らも主演しながら柿澤との老若対立のドラマにうまくまとめている。柿澤の裸体を見せるところも今回の工夫だろう。ドラマを動かす女二人が全く出てこないのに、最後まで気になるというのも戯曲の洒落た仕掛けだ。
大きく戯曲を変えることなく「スル―ス」現代版としてよく出来ているが、コロナの緊急事態宣言下に見る芝居としては時期が悪かった。三分の二という入りは残念だったが、それは珍しく日曜の夜公演だったせいかもしれない。
光射ス森
演劇集団円
シアターX(東京都)
2020/12/19 (土) ~ 2020/12/27 (日)公演終了
満足度★★★
小劇場が盛んになる前は、しきりに「新劇」が素材にしていた第一次産業の、それも珍しく林業の話である。時代が変われば、産業構造が変わるのは当然の話なのだが、新劇時代以来、第一次産業は被害者側、お上からも社会からも迫害され、それでも自然の美しさや、生活の原点に携わる喜びを見出して生業に励む、と言う手のドラマが量産されてきた。
最近は少なくなったと思っていたが、この作品を見ると、その基本的な取り組みは少しも変わっていない。林業はあまり取り上げられていないが、現代風俗的な登場人物は出てきはするが、俳優たちも、老人組はともかく、若い層は実感もないのだろうが、書き割りの人物のようでこれでは基本的構造を改革しようという次世代への力はない。ただの体制順応である。例えば、林業の実務を10年もやったという女性の役(馬渡亜樹)の衣装や体つきに山歩きの実感が全然ない。せめて腰回りに肉布団を巻くくらいの知恵はあってもよさそうなのに、現代は、山など歩かないというので都会に住む人物と同じスリムな体形で作業着もファッション風。これでは、山を歩いて世紀を超える喜びがあるというのも嘘っぽい。昭和20年代の新劇の農業改革の芝居と同じで、さんざん説明はされるが、リアリティがない。この作者が以前書いた、確か、深川の染物屋の話のような地に着いたところがない、おまけに二家族の話だが、その関係がよくわからない。時代が十年ずらしてあることなど、帰り道にパンフレットを読んで初めて分かった。そしてこう言う話になると、必ず出てくる宮沢賢治。またかの安宅関。
折角珍しい素材だったのに、残念な出来だった。
ピーター&ザ・スターキャッチャー
新国立劇場
新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)
2020/12/05 (土) ~ 2020/12/27 (日)公演終了
満足度★★
新国が世間離れしているのは今に始まったことではないが、これだけ外されると唖然とするしかない。子供と見る演劇を作って、演劇普及するという触れ込みだが、私が見た回は子供が一人もいなかった。高校生らしい生徒もいない。学校休校で授業が詰まっている今、よほど自由の利く私立学校以外芝居見物などしていられないだろう。まだ冬休みも始まっていない。新国がその建前に自己陶酔して勝手にやっているだけなのである。
作品の選択もわからない。ピーターパンが子供の世界に普及している英米ならともかく、フライイングのピータンパンを見た生徒ですら、このストーリーは楽しめないだろう。
子供のための演劇が難しいのはわかっている。学校の団体観劇が不人気なのも知っている。しかし、その中で、円の「お化けりんご」のような傑作も出てくるので、思い付きだけでは周囲も迷惑、客席も半分がやっとで、楽しんでもいない。確か円はスタジオの近所の学校の生徒を必ず招待していたように覚えている。せめてそこが児童を扱う原点だろう。
芝居を見ると、込み入った筋の割にまとまりは悪くはなく、ノゾエは意外に商業劇場も行けるのでは・・と思ったが、子供抜きで大人だけで芝居として見ろ、と言われるとつらい。主演のピーターの入野白由とモリーの豊原江理佳は歌もまずまずで柄があっている。ミュージカル仕立てでそこはさすがアメリカでそつなくいい曲が揃っていて、そこではちゃんと子供と大人の観客が読み込まれていた。
23階の笑い
シス・カンパニー
世田谷パブリックシアター(東京都)
2020/12/05 (土) ~ 2020/12/27 (日)公演終了
満足度★★★★
もう何度も上演されているニールサイモンの本だが、大きな劇場では初めてか。
自らが放送作家時代だった経験をもとに書かれた構成作家・コント作家部屋を舞台にしたコメディだ。時代に遅れそうになってきたコメディアンを軸にした90分のショーが次第に短縮され、打ち切りを迫られる。そこまでの作家たちの仕事場・事務所の人間模様である。参加したばかりの新人(瀬戸康史)作家の語りで進む。いつまでもロシア訛りが抜けないヴァル(山崎一)中堅作家の気取り屋のミルト(吉原光夫)、さっさと見切りをつけてハリウッドへ行って成功するブライアン(鈴木浩介)、天才少年と言われたコント作家のケニー(浅野和之)、ただ一人の女流作家のキャロル(松岡美優)、いつも遅刻しては大げさな言い訳をするアイラ(梶原善)と多彩なキャラの作家たちが、軸になるコメディアン・マックス(小手伸也)のブレーンとして働いている。マックスの得意芸がギリシャ・ローマの史劇ネタというシーンもあって、懐かしいバックステージものの空気が伝わってくる。舞台としては、集団劇を狙っているので、マックスも物語が進む軸のひとつにすぎず、人生誰もが味わう働く仲間の一時期の哀歓のドラマである。ワサビは赤狩りがネタになるところだろうが、映画はともかくこの時代のテレビはあまり眼中になかったんじゃないか。それはいいのだが、やはりショーは放送局との力関係も、俳優事務所も一種の権力の構造で出来ているから、そこでは人間模様の面白さとはぎくしゃくする。ドラマのつくりが喜劇だから、その齟齬はあまり目立たないし、三谷幸喜も手練れだから2時間足らず、それぞれの俳優のガラが生かされた芝居を楽しめる。浅野和之や梶原善が健闘。小手伸也は懸命に話の軸をつとめている。懐かしいクリスマス観劇にはいい芝居だが、まさかのの囲い付きの客席では弾まない。
ガールズ・イン・クライシス
文学座
文学座アトリエ(東京都)
2020/12/04 (金) ~ 2020/12/16 (水)公演終了
満足度★★★★
文学座らしくなくて面白いよ、という評判を聞いてあまり予備知識なく寒空のアトリエへ。
コロナ下のせいか当日ビラも配役表も、もちろんパンフもない。ドイツの作品(2017?)という事はわかったが、余っていたチラシをもらうと、ここにも文学座らしからぬキッチュなタッチで男女の裸が躍っている。東欧の作品らしいエゲツなさもあって文学座としては珍しい演目だ。アトリエ70周年記念公演、とか日独協会の後援とか、大いに力は入っているらしい。演出は新進の生田みゆき。
ドイツのキワモノというと、時代は違うが、猥雑さと切迫した環境で書かれたでドルーテンの「キャバレー」を連想する。
内容は、男はうざいばかりで満足できないベイビー(鹿野真央)が、友人のデブで男にうぶなドリー(吉野美紗)と、思い通りになる男の人形(亀田佳明、木場尤視)と共に、金沢映子と横田栄司の狂言回しで、現代地獄巡りをするという筋の中で、「人間の欲望、エゴ、差別意識、群集心理をファンタジックに描く」(チラシ)という80分だ。ストーリーも登場人物たちもすべて男女三人づつの俳優で演じるのであまり筋を追っても仕方がない。役の設定にも母娘の関係や犯罪友の会のメンバーなどまるでよくわからないグループの登場などもあって、どんどん進む割には、気分は渋滞する。
俳優も、鹿野真央も亀田佳明も熱演だが、弾まない。文学座としては色変わりだが、こういう一種の不条理劇は文学座も日本の演劇も経験がないわけではない。別役実やケラリーノ・サンドロヴィッチがすでに扱っている領域である。その経験がうまく生かせていないのが残念なところだが、こういう戯曲を発掘して、このところすぐれた演出家を次々デビューさせている文学座の若い女性演出家で、見られたのは来年に期待を持たせる年末のいい企画であった。
窓より外には移動式遊園地
マームとジプシー
LUMINE 0(東京都)
2020/12/08 (火) ~ 2020/12/13 (日)公演終了
満足度★★★★
新宿の南口ががらりと変わった。全国に向けて長距離バスがひきりなしに発着する新しい大型ビル、バス駅ビル・バスタがJR新宿駅と高島屋の間を埋めた。その5階にできたRUMINE0は劇場というより、イベントスペースと言った方がいいかもしれない。雰囲気は表参道のスパイラルホールに似ている。新宿としては結構小じゃれている。
新世代演劇としてもうかなり長い間期待の星とされてきた藤田貴大のマームとジプシーの公演である。
かなり広いスペースに平台展示からスクリーンや楽器を置いたスペースがあり、その半分は照明が落とせるようになっていて、そこでパフォ-マンスが演じられる。俳優は青柳いづみひとり。出し物は5つくらいあって、そこから三本を組み合わせてみる。中身短く15分程度、一応パフォーマンス枠は2時間枠だから、あとの1時間あまりは、展示物を見ながら過すことになる。私が見た回のパフォーマンスは、藤田の「animals」と川上未映子の「冬の扉」と「治療・コスモスの咲く家」の三本。最初は紙芝居仕立ての動物寓話的な童話・人形劇、川上の「冬の扉」は朗読風。長い衣装替えを見せてくれたあとは、一人芝居。
テキストは女性向写真ファッション雑誌のコピーのように気が利いていて、引き付けられるところもあるが、三つの趣向の違うパフォーマンスを一人でやるのは荷が重い。「冬の扉」は十代最後の冬を迎える女性の語りになっているので、青柳の年齢では中途半端で実年齢と役年齢がまじりあってテキストが濁ってしまう。休憩になると、いかにも総タイトルの遊園地風のピエロ衣装の場内整理係がうろうろするのもしらける。
展示物はさまざまで、靴作りの内幕を見せるとか、本の直売場などもあるが、ミステリが一つも並んでいなかったのが印象に残った。答えが最後に明確になるものはこの公演にはないのだ。展示物の一つにあった「ぬいぐるみたちが、何だか変だよと囁いている引っ越しの夜」(このテキストは穂村弘)がこの公演のなんだか変なカラーをよく示している。
形としては、グッズを売る方が主でないかと思わせるような、2.5ディメンションの劇場に似ているが、ここにある2.5的な手触りは「なんだか変な空気」で、そこが新しいと言えばいえるし、そう思えば悪くないが、生活者の大人は、どうだろう。これで大人が乗ってくると考えるのは若さの特権だが、ファン以上には広がっていかないだろう。師匠筋の野田のドラマは、生活者をおろそかにしてはいない。
休憩にビルの屋上庭園に出てみる。新宿から西の富士山まで見渡せる。新宿も変わった。新宿の演劇地図は紀伊国屋とコマがリードしてきたが、その時代はおわって、いまはルミネ座よしもとだ。演劇に、テレビタレントや芸人から出発した人たちが大きな役割を占めるようになったこと、演劇興行がイベント化して例えば、2.5ディメンションやショーが盛んにおこなわれるようになったことで、今演劇はまた曲がり角を曲がろうとしている。新設のREMINE0が加わってどのような展開になるかコロナ後が楽しみでもある。
プライベート・ジョーク
パラドックス定数
東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)
2020/12/04 (金) ~ 2020/12/13 (日)公演終了
満足度★★★★
昨年、コロナ騒ぎはまだ影も見えぬ中で、大手町の大きな新しい劇場で「ピカソとアインシュタイン―星降る夜の奇跡」という、舞台の上で二巨人を出会わせるいかにもアメリカ的な趣向の芝居を見たが、この舞台はそれをもっと拡大、二十世紀に前衛を走り抜けた巨人たちが青春期に学生寮で共に過ごし、生涯その関係を続けた、と言う設定でドラマにしている。架空の設定にして実名はないが、それぞれ、科学者ではアインシュタイン(加藤敦)、画家ではピカソ(西原誠吾)とダリ(小野ゆたか)、詩人で劇作家でもあるロルカ(植村宏司)、映画監督のブニエル(井内勇希)、の5人のそれらしき人物が登場する。プライベイト・ジョークというタイトルをどのように解釈すればいいかも謎で、この構成そのものがジョークで、プライベイトは作者が考えた私の巨人たち、という意味なのか、作中人物はそれぞれの人物の本人あるいは評伝からの引用が多いようで、ここにそれぞれの巨人たちのプライベート・ジョークがあるという意味なのか、よくわからない。
その解釈は見る側の勝手でどうでもいいとして、芝居のテーマはジョークではない、全然。芸術、科学それぞれの分野で時代を画する仕事をした人たちが時代の抑圧と、いかに戦ったか、その原点が、青春時代の架空の学生寮でのまるで日本の旧制高校のような共同生活だ、と言うところにテーマが置かれていて、解りやすいユダヤ人追放や、官憲の脚本検閲などの抑圧と、一方では時流に媚びざるを得ない立場との矛盾、そこからの自由への解放が軸となている。二十世紀前半の三つの時代、学生時代、そこから十年後、二十年後、と時代は暗くなっていき、のびやかな青春時代は遠くなっていく。
この作品は07年初演の作品の書き直しという事だが、初演は見ていない。劇場パンフによると、作者は前回は全く物が見えていなかったと書いている。野木萌葱のパラドクス定数の舞台を観るのはほぼ、二年ぶりだが、その間に作者は新国立劇場の気まぐれ発注に巻き込まれて疲れ果てたのだろう。「骨と十字架」はこの作者らしからぬ作品だった。唯一の現代劇の税金劇場の新国立が気まぐれにあまり経験のない作者をつぶしてどうする!という憤りはまた別のテーマになるが、この舞台で繰り返し語られる抑圧への批判、自由への渇仰は切実である。
しかし、観客としては、もう新国立で挫折する演劇人をこれ以上出してほしくない。永井愛だって新国立事件がなければ、もっと観客が楽しめる含蓄のある生活劇が書けただろうに。
舞台で挨拶する野木萌葱には、以前のおおらかさが消えていた。もう競馬馬が語り合うような愉快で独創的な芝居は書けないかもしれない。それは本当に残念だ。
ミセス・クライン Mrs KLEIN
風姿花伝プロデュース
シアター風姿花伝(東京都)
2020/12/04 (金) ~ 2020/12/20 (日)公演終了
満足度★★★★★
女優三人の格闘技のような舞台で、芝居のだいご味をたっぷり味わえる本年屈指の舞台・2時間45分である。イギリスのニコラス・ライトの三十年ほど前の本で、中身は三十年代の終わりにナチに追われてロンドンに逃げ延びてきた精神分析医療の女性研究者の物語である。その精神医療を使っての物語は、時代相と相まってさすがに古めかしく、新聞の片隅の身の上相談レベルだが、その物語に上乗せされた女三人の相克の芝居が見所である。
自らの生き方を科学に託し、わが子の成長すら研究対象とするが、現実には子供たちから離反されていく母・ミセス・クラインを那須佐代子、その娘で、やはり同じ研究者の道に進むが母に反抗しながらも逃れられない娘を伊勢佳世、ドイツから逃れてきたばかりで、生活のためにクラインの助手の仕事を求めるポーラに占部房子。
ミセス・クラインのもとに、息子がハンガリーで落命したという知らせが届く二昼夜の物語である。ストーリーは息子の死因の真相をサスペンス風に追って進むが、芝居の核心はそこにはない。
母国を逃れたユダヤ人の話は数多く書かれているが、この戯曲が面白いのは、登場人物がいずれも科学者で、事件の中で揺れ動く、科学と女の生き方の間のジレンマが克明に描かれることである。登場人物は三人だけとなれば、これはもう役者と演出が勝負どころになるが、細かい演出、無駄のない新鮮な演技で、期待に応えてくれる。学者としても、親としても自尊心を捨てられない那須賀世子、親に反抗するように我が道を行く伊勢佳世。一方ではその人生に疑いを持ち、時に原初的な母と子に戻りながらも、異邦人として異国に生きなければならない人々のある種突っ張った女たちを型通りにならず演じ切る。その親子の鏡になる占部房子もよく物語を支え、最後にミセス・クラインに爆発するところなど見事であった。細かい動きとセリフに埋め尽くされた舞台を演じ切った小劇場の女王たちに拍手。
風姿花伝の小さな舞台だが美術も、衣装もいい。控えめな音楽の選曲も良い。よくわからなかったのは潮騒と海鳥の声らしい音響効果で、舞台がロンドンのハムステッドとなれば、海岸からは遠い。母国からは遠く、との意味かもしれないがそれは少しうがちすぎだろう。。
PANCETTA special performance “un”
PANCETTA
シアタートラム(東京都)
2020/11/19 (木) ~ 2020/11/22 (日)公演終了
新人のコンクールをやるには難しい時期ではないか。
今年の世田谷区の新人芸術家育成プロジェクトの受賞者pancetta の公演だが、あまり、作品を練る時間もなかったことが歴然とした出来で90分、形だけは演劇的だが、内容が成熟していかない。前川知大のようなちょっと面白いシュールなテーマなのだが見せるという事では、戯曲も演出も俳優もセットもトラムの観客に見せるには苦しい。こういう試みは、公立で予算があるからやる、という事では傷つく人を出すだけだと思う。休む勇気も必要だ.
フリムンシスターズ【12月1日(火)と12月2日(水)の大阪公演中止】
Bunkamura
Bunkamuraシアターコクーン(東京都)
2020/10/24 (土) ~ 2020/11/23 (月)公演終了
満足度★★★★★
劇場で芝居を観る愉快を、本当に久しぶりに味わった。
松尾スズキのコクーン芸術監督就任第一作。「キレイ」で当てたのはもう二十年も前か。それとは全く違うテイストで、かつての松尾大人計画の味を残しながらも、新しいコクーンの出発を期待させる新作ミュージカルの登場である。新しく、若々しく、心弾む。
何よりもいいのは、現在の状況の中でまったく委縮していない。「いい加減な指示なんかには従わないで自由でいよう」という趣旨の曲もあるが、スタッフもキャストも舞台の上でのびのびとはじけている。そこが今の時期には素晴らしい劇場からの贈り物になった。
舞台の大枠はゲイの信長(皆川猿時)が仕切るショーパブになっていて、物語や人物紹介はほとんど、彼によってされる。正面に舞台に当たる空間があって、そこで芝居もあるし、歌もある。よくある構成舞台なのだが、舞台の色使いや枠取りの美術が素晴らしい。その上の二重にバンド(6名編成)がいる。物語は西新宿の地方の若者が集う吹き溜まりのような地区にあるコンビニとその二階にある従業員の部屋から始まる。そこに住んで、禿のコンビニ店長(オクイジョージ)との情事にふける沖縄出身の売り子(長澤まさみ)、10年前の妹への交通事故でスターの座を追われたかつての大女優(秋山奈津子)と、そのゲイのマネージャー(阿部サダオ)が久しぶりの出演の稽古に臨む話を軸に展開する。物語は一日半なのだが、その間に、登場人物たちの過去がほとんどクライマックスの連続のように歌と芝居で、挿入されるので、展開は波乱万丈、それを追ってもあまり意味はないが、要するに、この三人と彼らを取り巻く現在の社会からこぼれおちたひとびとたちは沖縄言葉で「フリムン」(狂う)にならなければ生きていけないのである。
そのフリムンぶりは、踊りであったり、音楽であったり、時には「後ろからズドン」という曲の物騒な歌の警官の上司殺人だったり、コンビニで売っているコンドームを盗む奴隷労働の現場とか、後ろからやって、と下ネタだったり、伊勢丹のパッケージを衣装にした伊勢丹の上品さを守る会を名乗るやくざ集団だったり、ユタのお告げが現実になったり、半端ないのだが、でたらめに見えながら今の空気をはらんだ統一感があって、素直に観客は乗っていけるのだ。暗くなりがちの話で、松尾スズキの過去の小劇場作品は暗さに居直ったような凄みがあったが今回は、暗さを笑い飛ばして前へ進んでいく。俳優もみな適役。主演の三人は、それぞれ出身は違うが、うまいことでは定評がある何でもできる人たちでその力を十分発揮している。観客も巻き込まれて陽気になる。
それは、脚本だけではない。
この舞台のスタッフはあまり知らない人たちだ。私が記憶していたのは振付の井出茂太くらいで、美術の池田ともゆきも音楽の渡邊祟も知らなかったが、立派に大劇場をこなす。キャストは脇は大人計画が固めているがそれでも中には歌唱力で客席がどよめく妹役の笠松はるのような新星がいる。細部に至るまで華々しいのだ。
私は、オンシアター自由劇場が初めて「上海バンスキング」で博品館劇場へ進出した公演の劇場の熱狂を思い出した。この舞台には劇場とともに時代が動いていく感じがある。なるべく早い機会に再演を期待している。
拝啓天皇陛下様 前略総理大臣殿
燐光群
座・高円寺1(東京都)
2020/11/13 (金) ~ 2020/11/22 (日)公演終了
満足度★★★★
右、左、とはっきり色分けされたドラマで覇を競った政治劇と言うジャンルが盛んだったのは、もう半世紀余も昔なる。いま政治にドラマを設定するには難しい時代である。
新劇と色分けされている新劇団はもっぱら左だったが、ここの劇のテーマは画一的で、ファンが気炎を上げるにはいいが、一般観客には退屈で次第に支持を失っていった。
このドラマでは、現代の国民主権の民主主義に殉じた役人が描かれ、その対比に天皇制に殉じた戦前の徴兵対象になった国民全員が置かれている。国家権力が天皇から国民の民主的な選挙による総理大臣になっただけで、政府の全体主義志向は収まらず、国民は民主主義の中で生きる自由を脅かされている、という主張なのだが、それは国民にはよくわかっている。それは反対!といくら言っても解決しないからいら立っているのだ。
新劇の作者たちはおおむね左だったが、その陣営が広く支持を集められるような作品は多くはできなかった。例えば、亡くなった斎藤憐は政治劇をそれこそ山のように書いたが、打率は高くない。しかし、「上海バンスキング」と「グレイクリスマス」という時代を超えられる作品を残した。ともに政治に人生を狂わされた人々を描いているが直接的な主張は背景に退いている。単純に右左と言っていてはドラマにもならなければ観客も集まらない。今の世界を生きている人々の細かい心のひだに触れなければ折角のドラマを作る意味がない。大きすぎて漠然としている徴兵制や公務員のコードよりも、天皇制を扱うなら、不遇の大正天皇の夫婦生活を描いた「治天の君」の方が腑に落ちる。素材の選び方も、それを扱う手つきも、上からでは物事を掴み切れない難しい時代になった。
ア―フタトークに前川元文部次官が出てきて、安部よりも菅の方が組織として全体主義的権力を貫く志向が強いから危険だという話をした。本当に危ない、と二度も言ったのでいまわれわれのいる場所の難しさはよく解った。坂手洋二も多作の人だが、自らが権威になることなくいい作品が残るよう期待している。
令和2年11月歌舞伎公演【11月22日~11月25日の第二部のみ公演中止】
国立劇場
国立劇場 大劇場(東京都)
2020/11/02 (月) ~ 2020/11/25 (水)公演終了
この芝居、歌舞伎で見るのはもう何十年ぶりだろうが、見たばかりのような気がするのは昨年、野田秀樹の「Q]が本歌取りをしていたからだろう。流人の帰郷願望のドラマなのだが、こうしてみると、改めて、すべてに人にも共通する「結局はひとりである」という現代人にも共通する人情に触れていると感じる。いつものことだが歌舞伎評は渡辺保さんの詳細な歌舞伎劇評がタダで、ネット公開されているからお任せするとして、(ありがたい。さすが学士院賞である。学術会議もこのような方の集まりだったら、もっと世論の支持が強いだろうに)。野田秀樹のQが引用しているわけはよくわかった。
幕切れ、岩上の松の枝を折って、岩頭で流人船を何もしないで見送るだけの吉右衛門はなかなか深くてよかった。それにしても、その前のアマをつれていく、行かない、人数で検問が通るか通らないかで殺陣になるくだりは、そのあとの話の展開に比べると下世話で冗長に感じた。吉右衛門、この日はあまり体調良くない気配でいつもの迫力に乏しかった。客の入りも市松模様で、掛け声禁止では気が乗らないのも無理はない。拍手というのは歌舞伎見物の作法にはないものだから、かえってだらけて場の興趣を削ぐ。
嘘 ウソ
俳優座劇場
俳優座劇場(東京都)
2020/11/07 (土) ~ 2020/11/15 (日)公演終了
満足度★★★★
舞台の上は二組の夫婦だけ、夫たちは親友同士、その夫の何やら怪しい浮気現場をもう一人の妻が見たばっかりに…親友同士の真実が、お互いの嘘によって暴かれていく…フランスのコメディと言えば、もう話の筋書きは決まっているようなものだが、それを面白おかしく、飽きずに見せてしまうのは、練達の本の腕前である。テンポもいいし、謎解きの伏線も、その解き方の洒脱さも、肝心の謎の中核のシーンを最後に反復して見せてくれるあたりも心憎い。人気作者らしい細かい芸である。世間の風などどこ吹く風、と言うところもいい。
俳優座のプロデュースだが、新劇団から文学座の清水明彦が主役、その妻が俳優座の岩井なおみ、親友の編集者が円の井上倫宏、その妻が昴の米倉紀之子。各劇団中核の役者がそろっているが、これだけ揃うと、短期公演ではその日の体調が影響する。私が見た回は清水が絶好調、岩井が珍しく不調、井上は出場が少ないのに、少し抑えすぎた感じ。これはオーソドックスな西川信広演出のせいかもしれない。しかし、これだけ。本がおもしろいと、すぐなにかとやりたがってしらけるものだが、そういうところがないのも新劇ベテランのいいところだ。
俳優座は劇場で「嘘」をやり、上の稽古場では古川健の本で高橋是清伝を上演する大車輪。老舗劇団、息切れしないように頑張れ! 役者は劇団の財産だ。
折角六本木に出てきたので、交差点角に昔からある蕎麦屋で軽くそばでもと、と思っていたらコロナで八月いっぱいで閉店したと張り紙。六本木のただなかにも冷たい風が吹いていた。1時間55分。
プレッシャー
加藤健一事務所
本多劇場(東京都)
2020/11/11 (水) ~ 2020/11/23 (月)公演終了
満足度★★★★
第二次大戦終盤の天王山・Dデイの戦争秘話である。もっともこの話は映画でもエピソードとしてよく描かれるし、19年にはトランプ訪英の際に女王と並んで抜粋を見た、という事なので(英文ウイキペディア)、英米ではだれもがよく知っている日本で言えば、日本海海戦の大転回作戦のような話なのだろう。要するにノルマンディの反攻上陸作戦を成功させるためには当日の天候が重要で、英米の気象将校がそれぞれの論拠から自説を立てて譲らない。
この頃の天気予報はよく当たるし解らないときは許容範囲も正直に言うが、ついこの間までは結論は出すがあまり当たらなかった。だからその成否がドラマにもなるわけだが、この作品、戯曲としてはあまり出来がよくない。英米将校の対立も論拠が専門的なので、丁寧にやってはいるが、それがかえって。退屈になったりする。実話なのであまり作りすぎるのもはばかられるのか、英米将校の対立も人間味が乏しい。そこは作者も承知らしく、英将校には妻の難産、アイゼンハワーには戦場妻のような秘書、などの挿話を用意しているが、それも何かおざなりだ。客は戦争の行方を知っているから舞台に予想が当たる当たらないのサスペンスや緊張感がない。やはりこれは、今もいつも天候不順に振り回される風土に生きるイギリスならではの芝居だろう。休憩15分を入れて3時間は長い。
こういう実話を素材に、選べばこういう芝居になるだろうが、折角実名で出てくるアイゼンハワーなどは、オモテだって将たる柄が欲しいし、取り巻きがファミリーと言うなら、そういうところをもっと丁寧にやれば、難産の妻を抱えて孤軍奮闘の英将校との家族モノの英米ドラマにもなったかと思う。
カトケン事務所は今年はこれ一本で寂しい限りと本人がアンコールで語っていたが、ここでしか見られない欧米のちょっとしたエンタテイメント小芝居はいままでもいくつかあった。来年のノーマルな舞台環境で楽しい芝居を見せてくれることを期待している。
女の一生【京都公演中止/東京公演初日延期】
松竹
新橋演舞場(東京都)
2020/11/02 (月) ~ 2020/11/26 (木)公演終了
満足度★★★★
観劇後の感想は複雑である。
大体こんな大劇場でこの演目を見たことがない。最後に見たのも杉村春子だったから、もう五十年も前か。その頃はこの舞台は確かに現代劇の秀作だった。役者もよかった。舞台に華があって、観客も酔えた。東横劇場だったか、紀伊国屋だったか忘れたが、演舞場のような本来は和服のお姐さんたちの賑わいが似合う大劇場ではなかった。それが、市松模様のコロナ客席。桟敷席にはだれもいない。いま「女の一生」を松竹がガラリ、スタッフ・キャストを変えて公演するには、時期が悪すぎるのではないか。
久しぶりに見た感想。戯曲。古典化しているが、意外にそれほど腰は強くないのではないかと思った。今見ると、主人公の布引けいに現代人を引っ張っていく人間性がない。自分の行動を自分の選んだ道だからと、言うが、現代女性に同感されるだろうか。やはり、これはちょっと明かりが見えていた昭和初期のはかない希望の時代に裏打ちされた風俗劇なのではないか。それならよく出来ていて、老年の私は今回の上演でも同感できたが、世代を超えていけるとは感じなかった。さらにいえば、周囲の人物が単純に役割付けされていて、風俗劇になら、十分通用するが、古典として様々な角度から切り込んでいける余地が少ないとも感じた。今回は脚本を戌井市郎補綴版を使っていて、昔見たものと変わっていなかったからそう感じたのかもしれない。しかし、なじんでいた幕切れのカリドールは完全に浮いていた。
演出。段田安則が自分も、堤家の長男役を演じながらの演出である。特に新しい趣向があるわけでもなく、殊勝に戯曲を追っている感じなのだが、良くも悪くもない。困ったのかもしれない。その点でも、板の上を委縮させる悪い時期だった。
俳優。つい、宮口精二は・・と思い出してしまうのだが、文学座と比較するのは意味がない。現代にパンチがあればいいのだが、現代劇にもなり切れず、また時代劇にもなり切れずの中途半端さが残る。大胆になることをためらわせる空気がある。その中でやった俳優諸氏にはご苦労様というねぎらい以上の批評はできないだろう。
弁当も禁止、食堂も細々としているのでは時間を持て余す休憩30分を含んで3時間。劇場内でしゃべるな。と言うコロナ対策は劇場を殺す。劇場でのおしゃべりを楽しみに来る懐の温かい老女の客は結構多いのだから。客のおしゃべりは小屋の賑わい。これでは客の戻りは遅い。全興連は劇場の特性をいい加減な責任逃ればかりの政府に言うべきだ。プロ野球はちゃんとやっている。
The last night recipe
iaku
座・高円寺1(東京都)
2020/10/28 (水) ~ 2020/11/01 (日)公演終了
満足度★★★★
ここ数年、見るたびに期待を裏切られなかったiaku横山拓也の新作。市松客席での公演だが満席。もう入れてもいいじゃないか。当日券なしでは客いじめも極まれりである。
今回は突如内容を、コロナものに変更した由で、底が浅くなった。リアルを追求したい若い女性ライターが、実生活でもリアルを体験したいと結婚までしてみる、という話である。コロナで頻発した突然死を将来のワクチンに絡ませて枠取りにしているが、この二つの趣向が練れていない。時事ネタをとりました、と言うだけに終わっている。
芝居のつくりは例によってうまいもので、最初のいかにも大阪らしい会話(東京の客席はあまり笑わないが)や、女性ライター同士のやり取り、一人娘と一人息子という設定や、親のキャラなど手慣れたものだが、上滑りしていてつまらない。一番の問題はラーメン屋の息子で、このキャラが今一つはっきりしないので、周囲がくっきりしない。今問題の80‐50問題などもうまくやればもっと面白く仕組めるのに、と残念。うまいと言ってもいつもいい作品ができるわけではない。そんなことになったら芝居ものは皆めしの食い上げ、客も今度はどうだろうという興味を失くす。この作者、劇団は超高打率だったのだから、自戒を大いに期待しよう。今回は話が無理筋だった。