『JUNE&MEG Season4』
June and Meg
PRiME THEATER(東京都)
2017/06/01 (木) ~ 2017/06/04 (日)公演終了
満足度★★★★★
鑑賞日2017/06/03 (土) 13:00
前回までは、お二人だけのオムニバスで紡がれて行った舞台に、今回は、渡辺穣さんと大政知己さんのお二人をゲストに迎えて4本の短編が紡がれた『June and Meg~Season 4~』。
『深読みしようとしてもそれほど深くならない、しかし小気味良い、そんな後味の悪いの、お芝居を目指すユニット』と言うJune and Meg。
今回は、『きっとどこかにありそうな 出会いや別れのお話』が、4編の短劇として紡がれました。
きっと、どこかにありそうな出会いや別れを描いた話に身を置きながら、私の頭に浮かんだのは、『時』と『記憶』というふたつの言葉。
この4編の短劇の底にきらきらと揺れる水面の煌めきのように見え隠れする共通のテーマは、もしかしたら、『時』と『記憶』なのではないかと思えてならなかった。
そう感じたのは、あまりにも穿ち過ぎの私の深読みなのかもしれないのだけれど、観ている間中、このふたつの言葉が頭の中に星の瞬きのように明滅し、何度も駆け巡った。
冒頭と各話の合間に挟まれる『宇宙の思い出』は、人類の生命を長らえさせ、医療と治療の進歩の為に様々な手術や実験を施し、経過観察を繰り返す中で、ついに、脳に施す実験への為の手術を控えた100歳を迎える元ホームレスの女性(わかばやし めぐみさん)を被験者の話。
手術を施す事により、次々に新しい事を覚え記憶出来るようになる代わりに、これまでの記憶を失うリスクを伴う。
『時』と『記憶』である。認知症で新しい記憶から忘れて行く姿を目の当たりにし、今も、離れて暮らす施設で、既に私の事も記憶から零れ落ちてしまったであろう父を持つ身としては、果たして新しい事、新しい記憶を覚え続ける代わりに、これまでの幸せな記憶や楽しい記憶をも失ってしまう事が幸せなのだろうかとふと考えてしまった。
父が一番忘れたくない記憶は、亡くなった母との記憶らしく、今、父は母との記憶の中だけに生きているのかも知れない。それは、父にとっては一番幸せな事のような気がしてならない。
そのリスクを知っていながら敢えて手術を受けることを選んだ100歳の女性が最後に言う言葉を聞きながら、思い出は星の様なもので、くらい夜空に点々と散らばっていて、それを結ぶ事で記憶が甦り思い出となる。
例え、朝が来て、消えたように見えても、宇宙の、夜空にはちゃんと存在して、目を凝らし、星々を繋げば、水底からゆらゆらと浮かび上がって来る様に、記憶は思い出となってたちのぼって来る。
思い出は、無意識の水底の下に潜るだけで、ちゃんと、残っているそう信じられるからこそ、めぐみさん演じる女性は手術をする事に頷いたのではなかったかとふと感じたら、涙が滲んだ。
『ルフラン』は、ほんの些細な時のすれ違いが、いつしか思いのすれ違いになり、すれ違った時の積み重なりが、パートナーである男(渡辺穣さん)の知らぬ間に、女に別れを選ばせ告げさせてしまう。
告げられた男は、何度も別れを告げられる場面と時間をループし、ひとつひとつ、女(家納ジュンコさん)が別れを告げる原因を思い出す事により、ループする場面と時間が少しずつ移り変わり、そのきっかけに辿り着き、見過ごして来たパートナーの心遣いや思いに気づいた時には、もう、女の決意を覆す事が出来ないほどに時が降り積もってしまった別れが切なかった。
これもまた、『時』を遡り、『記憶』を手繰り寄せる話である。
『伝説』は、村に住む1人の女に、妻を持つ男達はなぜか惹かれ、女の元に通い続け、自分の思いを告げようとすると何故か蜜柑になってしまうという、シュールで可笑しく、ちょっとほろ苦い皮肉めいた話。
蜜柑になるまでに要する歳月は、2年だったり、3年だったりするが、これも『時』の流れが関わっている。夫が蜜柑になったにも関わらず、妻たちはその女に何処か崇拝めいた気持ちを持っていて、その崇拝ぶりが可笑しみさえ誘う。
妻たちは、夫婦としての時間の中で、ある時、夫婦でいることに『もういいや』と思ってしまった瞬間があったのではないだろうか。そのタイミングで夫が蜜柑になって、自分の前から居なくなっても不都合はなく、それはそれで自由だと思ってしまったのかとも思った。
『献花台』は、とある歌手が路上で刺されて死んだその場所に置かれた献花台を事件から1ヶ月経ったのを期に、片付けようとする花屋(家納ジュンコさん)と献花台が片付けられることを知らずに、花を供えに来たファンの女性(わかばやし めぐみさんの)との献花を巡る攻防を黒いユーモアと仄かな怖さを持って描いた話。
これもやはり、『時』と『記憶』が、水底にチラチラと垣間見える。
熱烈なファンなのに、なぜ献花に来るまで1ヶ月もかかったのか、やり取りする内にムキになって片付けようとする花屋、言葉でやり合っているうちに、ファンの女から零れた一言に、ゾッとしながらも、何だか切なさも感じてしまった。
深読みしようとして見たわけではなく、この空間、この時間に漂うものに、身を置き、身を任せ、舞台の9割は笑いに包まれながら観つつも、観て行くうちに、何故だか『時』と『記憶』という言葉が、意識の水底から浮かび上がるように、炙り出し文字で炙り出されるように浮かんできて、こんな思いを抱いたわけである。
次の話に行くまでの間に、わかばやし めぐみさんが歌った、山崎ハコの『ざんげの値打ちもない』は圧巻で、その時の衣装から伸びためぐみさんの脚線美は、今年も健在。
70分とは思えない、濃く凝縮された時間を堪能した『June and Meg~Season 4~』でした。
文:麻美 雪
ダズリング=デビュタント
あやめ十八番
座・高円寺1(東京都)
2017/04/19 (水) ~ 2017/04/23 (日)公演終了
満足度★★★★★
鑑賞日2017/04/22 (土) 14:00
座席1階B列5番
座・高円寺1の扉を開けて、席に着く。
目の前には、中世ヨーロッパの何処かの館の中、顔のない貴婦人の肖像画が天井から下がり、きらびやかなソファ、部屋の隅に置かれた左手奥にはグランドピアノ。
左右の床の一角に四角く切り取られたような絨毯がしかれ、右手には中世風のベッドが置かれている。此処は、何処かのサロンだろうか。
そう思う間もなく、私は、いつの間にか、『ダズリング=デビュタント』の世界へと迷い込んでいた。
【あらすじ】
舞台は死神たちのサロン。疫病の遊戯場。
老若男女貴賎を問わず、皆平等に死を恐れ、震えて眠る田舎町。
娼婦・エミーユはダズリング侯爵夫人殺害事件の重要参考人として憲兵から尋問を受けている。彼女は町の男たちから“教会”と呼ばれていた。エミーユは罪と性欲の捌け口として愛され、その腹に何千という男たちの秘密を孕んでいた。
彼女の口から語られるのは、生々しい貴族たちの社交界。
その言葉の端々には、町を救う起死回生の一手が潜んでいる。
しかし、愚かな憲兵は、女を殺してみたくて堪らない。
紫の毒、黒い毒、黒みを帯びた紅い毒、白百合のような白い毒。人の心の中に咲く、色とりどりの毒の花。その毒を女を通して描いたような舞台だと感じた。
堀越涼さんのルイーズは、一見、その穏やかな顔の下に、ちらちらと覗く残酷な一面がゾクリとする程女の怖さを感じさせ、黒みを帯びた紅い炎の色をした毒を体内にびっしりと、奔放に傲慢に咲かせ、やがて自らも柘榴痘に罹り、美しさを誇ったその半顔と軆が醜く紅い発疹に覆われた時、初めて、今まで自分が蔑み、見下して来た弱い者たちの苦しみの万分の一位は、気づいたのではないだろうか?
そう感じたのは、夫ギュスタブ(秋葉陽司さん)に、自分を「殺して欲しい」と頼み、ギュスタブが最後の頼みのとして、ルイーズに「抱きしめて欲しい」と頼み、ギュスタブをを抱きしめた時のルイーズの表情が慈愛に満ちたものを感じ、とても美しく感じたからだ。
あの場面の堀越さんの手や指先の動き、表情がとても綺麗で、その時のルイーズは、自分の中の毒が洗い流された、菩薩のような表情で美しかった。
ルイーズを取り巻く女達も、エミーユ(石田廸子さん)を取り調べ、幼少時自堕落でネグレクトな母に育てられ、母を女を憎み、女を殺してみたくて堪らない憲兵マオ(蓮見のり子さん)も、籠のような檻に閉じ込められ、一夜の座興の見世物のようにされている柘榴痘に罹ったアンリ(山下雷舞さん)・イザベル(島田大翼さん)夫婦も、人としての尊厳も自尊心も踏みにじられる扱いを受け続け、紫の毒、黒い毒を体内に宿し咲かせ、アンリ夫婦の娘ポーリーヌ(太田ナツキさん)もまた、両親を檻から解き放つ鍵を手に入れる為、そこに付け込む葬儀屋兼孤児院の院長ギヨーム(山本周平さん)に純粋さを汚されて白い毒を宿す。
柘榴痘治療の為に招かれ、柘榴痘の治療法発見に心血を注ぐ医師ジャンピエール(金子侑加さん)と、母ルイーズや、夫のテオフィル(田口真太朗さん)の放蕩さや周りの大人たちの驕慢さを見て、自らはその波に飲まれなかった娘カトリーヌ(小野寺ひずるさん)だけが、毒の花を持たぬ者。
柘榴痘とは、人の心と軆に芽生え、培養され、留まる事を知らず繁殖する悪若しくは悪心が育んでしまった毒だったのではないだろうか。
観ながら、いろんな感情、様々な思い、軆ごとひっくり返される様な感覚が皮膚に、細胞のひとつひとつに物凄い勢いで、全身に駆け巡って、まだ、整理がつき切っていないというのが本当のところ。
それほどに凄かった。2時間25分とは思えない、濃厚で濃密な舞台。気づけば息を詰め、息を殺して観ていて、ぎゅっと濃縮された時間の中に居てあっという間のような、3時間以上観ていたような、なのにこんな短い時間しか経っていなかったんだという不思議な感覚。
『霓裳羽衣』とは、また違う衝撃に、高円寺の駅まで歩いてたどり着いた感覚すらおぼろで、軆の底から揺り動かされ、覆らされるような感覚に陥った。またひとつ、凄い舞台を観てしまったと思った『ダズリング=デビュタント』だった。
文:麻美 雪
鬼啖
芸術集団れんこんきすた
studio applause (スタジオアプローズ)(東京都)
2017/04/07 (金) ~ 2017/04/09 (日)公演終了
満足度★★★★★
二人芝居という「対話」を通して紡がれ、浮き彫りにされて行く、人の、女の、業と情念、狂気と邂逅と悔過(けか)を描いた舞台。
劇場の中に入ると、舞台の両側に客席が配され、真ん中に小石が散りばめられた土を模した布が敷かれ、左には、床には山道を思わせる野草と弦や蔦の様なものが這う壁、右には色とりどりの端切れを編んで作った縄のような物が行く筋も伸びた壁。
幕が開き、目の前に現れたのは、真っ暗な闇にぼんやりと差す光に照らし出された、幾ばくかの野草が生える山道と山深い中にある村人に捕えられ、弱っていながら朝に夕に呪いの言葉を吐き続け、村人を恐怖に陥れている『鬼』の棲む洞。『鬼啖』の世界だった。
【 あらすじ】
遥か昔、とある村の裕福な村長の家に居た生まれつき心が澄み、慈悲の心篤く、聡明で、村人からとても慕われていた一人の若者を、ある日、村にやって来た鬼が殺し、喰ってしまう。
村人は、若者の死を嘆き悲しみながらも、総出で鬼を捉え、縄で繋ぎ、山奥の洞に閉じ込めたが、鬼は叫び罵り村人たちを呪うと脅し、村人たちは鬼を恐れ、震え上がっていたある日、この村を通りかかった尼僧は、若者の居た家の村長から、鬼を改心させ、村人と自分たちを呪うのを辞めさせて欲しいと頼む。
尼僧は、ひとり山道を上り、鬼が繋がれている洞に赴き、鬼に会い、幾日もかけて鬼に経を唱え聞かせ、ありがたい教えを丁寧に説き聞かせ、遂に鬼は大いに泣き、自らの過ちを悔い、改心し、邪悪な心を捨てた。
あらすじだけを読むと、日本の昔話や神話、説話によくある話のように見える。けれど、事はそう簡単ではない。
この舞台は、このあらすじを超えた所に真意があるように感じた。
『桃太郎』然り、『天邪鬼』、『鬼子母神』然り、古来から、「鬼」は、常に無条件に「悪」として捉えられ、描かれて来た。悪なのだから、問答無用で退治してもいいものと看做されて来たようにさえ感じてしまう。
『泣いた赤鬼』のように、心優しい、人と仲良くしたいと望む「鬼」が居るなどとは古来の人々は思いもしなかっただろう。
それ故に、「鬼」は全て悪と看做されて、排除するべき存在、排除されてもよい存在とされて来たし、そのように描かれている物が多く流布され、悪=全て「鬼」の所為にされて来たように思う。
中川朝子さんの「鬼」も、正に、村長と村人たちによって、最初は、そのように描かれている。
故に、マリコさんの尼僧も「鬼」を悪と看做し、通り一遍に佛の教えを説き、折伏(悪人・悪法、威力を持ってくじき仏法に従わせること)しようとする。
しかし、その言葉には実感が込もらず、「鬼」の心に寄り添っていない故に、「鬼」の心に響くことも、届くこともない。
「鬼」を折伏する為には、自らの業や情念、狂気や悔過(自分の罪過を懺悔すること)を晒さなければならない。
尼僧が、出家するに至った自らの過去の罪業と情念、己の中にその一瞬宿った狂気を「鬼」に吐露し、その悔過を直視し、受け入れた時、「鬼」の心に響き、動かし、「鬼」は、若者を殺し、喰らった事を後悔し、折伏され、「鬼」の魂を救い、愛おしい若者のいる彼岸へと旅立たせることが出来る。
その尼僧の心と表情の変化を、現実にその場に潜み目の当たりにしているような、マリコさんの声音、目の表情、睫毛の翳り、指先の動きひとつにひとつに表れていて素晴らしかった。
中川朝子さんの「鬼」は、何故、若者を殺し、喰らったのか、其処には切なくも哀しく、美しくも苛烈な想いがあった、その真実を知った時、確かにそれは、許される事ではないが、そうせざるを得なかったその心情を思う時、膚に喰い込み、引き裂かれ、血が滲むようなやり場のない「鬼」の心の痛みをこの身にまざまざと感じた。
村長の言ったことも、村人の言ったことも、自分たちを守るために言った嘘。
真実は、跡継ぎのいない村長が、縁の薄い親類から養子にもらった若者が伝染病にかかると、竹藪の小さな庵に押し込め、邪険に扱い、余所からやって来た女に、余所者だから病が感染って死んでも構わないとばかりに世話をさせながら、女を蔑み虐げ、若者だけが優しく女に接し、自らの命が助からない事を悟り、女に己を殺してくれと頼み、懊悩した末に、女は若者を愛するが故に殺し、死してなお若者と共にいたいが為に、その身体を喰らい、若者を見殺しにした村長と村人を恨み呪い、「鬼」になった。
人を信じず、村長と村人を呪い、村長たちの言葉のみを信じ、折伏しようとする尼僧を受け入れなかった「鬼」が、自分の言葉に少しずつ耳を傾け、自ら真実を探り出し、自らの過去の罪業を悔過し、直視しし始めた尼僧の言葉に心を開き、やがて折伏され、やむを得ずとは言え、若者を殺し、その身を喰らったことを後悔し、静かに若者のいる彼岸へと旅立つ「鬼」の瞳と眼差しの表情、時に激しく、時に静かに発する声の変化、睫毛の動きのひとつひとつで、その変化を表現した中川朝子さんは素晴らしかった。
鬼と尼は合わせ鏡で写し鏡。互いの中に鬼が棲み、生身の女が棲む。自分の中にあるその二つをも見据え、認めた時、鬼も尼も己を縛る縄を、楔を解く事ができるのではないだろうか。
とても濃く、切なく、凄い舞台。男女問わず観て欲しいかったが、とりわけ女性には是非観て欲しいかった舞台だった。色んな感情と思いが胸に去来して、波に揉まれる小舟のように、呑み込まれ、浮き上がる感情と己の中に抱えた何かに翻弄され、その言葉、その台詞、その眼差しのひとつひとつが、膚に喰い込み、心を抉り、爪を立て、引き裂くような痛みが実感として膚に感じ、この舞台を観られて良かったと思える舞台だった。
文:麻美 雪
ぼくらが非情の大河をくだる時—新宿薔薇戦争—
中屋敷リーディングドラマ
本多劇場(東京都)
2017/03/16 (木) ~ 2017/03/20 (月)公演終了
満足度★★★★★
今年は、いつになく説明するのが難しい舞台を観ることが続いている。
この『僕らが非情の大河をくだる時―新宿薔薇戦争―』も、説明するのが難しい。
幕が上がると舞台には、孤独に忘れられたようにぽつんと両側に男性用便器が並び真ん中に洋式便座が据えられ、床や便器、便座の周りには紅い薔薇の花弁が散り敷かれて、ヘッドライトに照らされた都内の公衆便所。
同性愛の男たちが集まる奇怪な深夜のその公衆便所を舞台に、「満開の桜の木の下には一ぱいの死体が埋っている。深夜の公衆便所の下にも一ぱいの死体が埋まっている…」という妄想を信じた、虚空の幻想を抱く詩人と詩人が入る為に作られた白木の棺桶を担いで、詩人の後を追う父と兄の姿が、幻想と残酷の間(あわい)で、圧倒される熱量で紡がれる言葉とリズムで描かれる朗読劇。
始まって暫くは、不条理劇のようないわく言い難い雰囲気が舞台に流れる。
1時間の朗読劇なのに、冒頭から頭と感情がフル稼働、フル回転しても尚、現実とも幻想ともつかない狭間の時間と空間に迷い込んで閉まったような、息苦しいような緊張感とその場に居て、物陰に身を潜めて目の前で目撃しているような妙に生々しい臨場感の中に身を置いているような不思議な感覚に気づけば、惹き込まれ時を忘れ、息を殺し、目を凝らして観ていた。
訳ありの詩人の兄と訳ありの家族。
舞台が始まる前に客席に流れていた日本の70年代の歌謡曲から、時代背景を類推し、フライヤーに入っていた当時の劇評を読み、何となくこうではないかとあたりを付けていた事通りらしいと腑に落ちる。
70年代と言えば、今でも過去の事件の特集などで必ず取り上げられる連合赤軍や連合赤軍による人質事件の『あさま山荘事件』があった年。
かつて革命運動のリーダーだった詩人の兄、その厳しい運動の中で気が狂ってしまった弟の詩人、ひたすら平穏な日常に憧れる父の激しいドラマが展開しているのがこの舞台だと。
舞台は、ト書き読む役者と詩人と詩人の父と兄を演じる4人の役者のみで紡がれてゆく。
唐橋充さんの父は、長男のように革命運動には無縁に、兄に見捨てられたくない一心で、兄と運動に参加し、元来持っていた優しい心故に、耐えきれず気を狂わせた弟の詩人とも違う、薔薇を育てながらただひたすらに平穏平凡に暮らし事だけを望んでいる父。
気の狂ってしまった息子の詩人の後を追い、毎日走り回ることに心底疲れ果て、弱さ故に息子を殺すことで耐えきれない苦痛、心労から逃れようとする無自覚に何処か狂い始めているのではなかったか。
安里勇哉さんの兄は、弟の幻想の中にいる「強くたくましいおにいちゃん」でい続けるために、弟の混沌に寄り添い続けている兄。
父とは違い、自分の中の弱さを自覚し、それ故に、かつて自分の運動に巻き込み、狂ってしまった弟に罪悪感と後悔を感じ、繰り返される不毛な毎日に倦み疲れても、弟を見捨てることも見離すことも出来ず、毎日弟の後を追い、理想の中にいる「強くてたくましい」兄を演じ続ける事の痛みと苦しみが膚を突き刺すように迫って来た。
多和田秀弥さんの詩人の「にいさん、ぼくは気狂いじゃない。にいさん、ぼくを見捨てないで。」叫びが、痛くて切なくて今でも耳の底で響いている。
「強くてたくましい」大好きな兄に見捨てられたくない一心で、兄と共に投じた運動の厳しさに耐えきれずその心を狂わして尚、兄を求め、見捨てないでと叫ぶ弟の詩人の胸の中に去来し、頭に響き続ける声は何だったのだろう。
反目し合う父と詩人ではあるが、根本の性質はもしかすると同一若しくは近似していたのではなかったのか。だからこそ、互いの中に互いの姿を認めて反目し合うのではなかったか。
詩人もまた、ただひたすらに平穏に普通に生きたかったのではなかったろうか。「強くたくましい」兄に見守られ、悲しみに心傷つけることなく、兄がいて父がいて、大きな波に弄ばれることも飲まれることも無く、可もなく不可もない、過不足のない当たり前の日々。
それこそが、潜在意識の中で詩人が本当に求めたものではなかったかと思えてならない。
詩人の叫びが、浮かび上がらせた白昼夢のような幻想は、やがて非情な現実となって行き、その果てに行き着いたものとは何だったのか。
本当は、詩人は狂ってなど居なくて、非常な現実から隔離するために、兄と父によって、狂っていると思い込まされて頂けなのではないか。詩人の余りにも無垢で傷ついたら最後、それは、詩人の魂ごと命を殺してしまう事から守る為に狂っていると思い込まようとした兄の一世一代の芝居のようにすら思えても来る。
見終わっても尚、考え続けている、濃厚で濃密な舞台だった。
文:麻美 雪
METEORITE
Emergency×Emergency
ワーサルシアター(東京都)
2017/03/03 (金) ~ 2017/03/05 (日)公演終了
満足度★★★★★
鑑賞日2017/03/04 (土) 14:00
綻び始めた桜の蕾が寒さに微かに震える土曜日の昼下がり、八幡山ワーサルシアターに、劇団おぼんろの末原拓馬さんとわかばやしめぐみさんの出演していたEmergency×Emergency vol.1『METEORITE』を観に行って来ました。
いつも、劇団おぼんろや末原拓馬さんの『ひとりじゃできねぇもん』でお会いする方たちで、初日にも見た方たちにお話を聞いたところ、「今回の舞台は説明するのが難しい」「ブログに感想書くの難しい」と皆さん挙って仰っていた。
通い慣れた八幡山ワーサルシアターの扉を開け、足を踏み入れたい目の前に広がっっていたのは、真ん中をヴァージンロードか、天の河かと思わせる一筋の道、その両側に対面式に客席があり、相対するように天井からぶら下げられた白いブランコ。
首を右に巡らせると、細く、人ひとりとチェロがやっと置けると小さな1段高い小さなステージがあり、その上で、チェリストヨース毛さんのチェロの生演奏に乗り、舞台の幕が開けて行く。
観始めて、皆さんの言っていた「説明するのが難しい」という意味を知る。
それは、ストーリーがあるようで無く、無いようで有り、更には末原拓馬さんの世界感はしっかり有るのに、劇団おぼんろとも『ひとりじゃできねぇもん』とも全く違う世界、今まで末原拓馬さんが描いて来たのとは、違う世界が目の前に広がり、巻き込まれ、この身が放り出され、今まで見たことの無い世界に佇み、浮遊しているそんな感覚を抱いた舞台だから。
1月にこの場所で観た、末原拓馬さん作・演出のOuBaiTo-Riの『グレートフル・グレープフルーツ』の時も、これまでとは違う末原拓馬さんの世界を目の当たりにして凄いと思ったけれど、今回の『METEORITE』は、『グレートフル・グレープフルーツ』とはまた違う、これまでとは違う観たことの無い、末原拓馬さんの世界であり、凄いものを観てしまったという舞台になっていた。
『METEORITE』=メテオライトとは隕石のこと。この舞台がなぜ『METEORITE』というタイトルなのか、舞台を観終わった後に解る。
隕石が、その身に宿し産み落としたのが地球。
隕石が、地球に衝突すれば、地球を滅ぼす。
封印された記憶、瓶に閉じ込められ溶かされ、解放されないまま宙にぷかぷかと漂い続ける言葉と言葉に込められた想いと願い。
ひとりの青年に、纏い付き、追い掛けてくる宙に漂い続ける瓶。その瓶から開放され、謎を解く為に突如目の前に現れたお化けに仮死状態にされ、迷い込み、佇んでいたのは、夢か現か、はたまたその境界線の世界か。
その間(あわい)の見せる宇宙に繰り広げられた、記憶の走馬燈。それは、母である隕石と母である隕石に産み落とされ、子の地球を傷つけ滅ぼさない為に、子から離れた母なる隕石と子である地球の記憶の底に眠らせた記憶を呼び覚まし、青年は自分が何者だったかを思い出す。
それは、計り知れぬ痛みを伴う事であり、母なる隕石に巡り会った最後に待ち受ける切なくも優しく哀しく、仄かに温かな結末へと収束してゆく。
そばに居て、抱きしめたいのに、隕石である自分が近づき過ぎれば、それは、やがて地球への衝突する事は避けられず、衝突すれば子の地球は滅びてしまう。
冒頭から幾度となく繰り返される『私の願いは、私の願いが叶わないこと』という歌の一節に、母隕石の哀しい覚悟と子を思う気持ちを感じ胸が切なく軋む。
子のそばに居たい、可愛いわが子をギュッと抱きしめてもあげたい、けれど、そばに居ることは出来ない。抱きしめるとは、即ち子である地球に衝突し滅ぼすことである。だから、私の願いが叶わないようにと願わずにはいられない哀しく切ない母の思い。
その思いはまた、子の地球も同じこと。滅びても、そばに居て欲しい、抱きしめて欲しいと思いつつも、それはまた、母である隕石を滅ぼす事にも繋がる。
それはまるで、「ハリネズミのジレンマ」。愛しているのに抱きしめたいのに、相手を抱きしめれば、自らの身に纏う針で相手を傷つけてしまう。だから、互いを傷つけない距離で相手を見守るしかない。
この舞台を観て、そんな事が頭を過ぎり続けていた。
とは言え、これは私が観た私個人のおもいであり、感じたこと故、末原拓馬さんが思って紡いだ事ともしかしたら違うかも知れない。
それほど、この舞台を語るのは難しい。けれど、ひとつだけ言えることが有るとすれば、この舞台に関わった人々と役者たちで拓馬さんが書き、紡いでみたかったのは、こういう舞台だったのだなと言うことと、この出演者だからこそ、いや、この出演者でなければこの舞台は出来得なかったということ。
観終わってすぐ、感じた事を書きたいという衝動と、どう伝えたら伝わるのか、書くのが難しいという逡巡の板挟みになるほどに素晴らしい舞台だった。
文:麻美 雪
グレートフルグレープフルーツ
OuBaiTo-Ri
ワーサルシアター(東京都)
2017/01/18 (水) ~ 2017/01/22 (日)公演終了
満足度★★★★★
鑑賞日2017/01/21 (土)
舞台の真ん中に、背凭れが不自然な程長く伸びた真っ白な椅子が一脚、寂しげに据えられている。
その後ろと前に、同じ椅子が、ネオンカラーの蒼、赤紫、碧の照明に染まって吊り下げられ、床には文字の書かれた紙が打ち捨てられたように散らばり、キャンディーズ、八神純子、アグネス・チャン、小泉今日子といった、懐かしい昭和歌謡が止めどなく流れ続けている。
どんな世界へと誘われるのかと、目を凝らし、耳を澄まし、八幡山ワーサルシアターの一部と化したその時、
2017.1.21(土)PM13:00
OuBaiTo-Ri『グレートフル・グレープフルーツ』の幕が上がり、物語の扉が開く。
舞台の壁、床、天井と縦横無尽に張り巡らされた赤い糸。
それは、一本の長い糸が一筆書のように交差され、張り巡らされたようにも、何本かの糸が交差し、干渉し合って張り巡らされているようにも見える。
赤い糸は絆。運命の赤い糸であり、柵(しがらみ)でもある。
赤い糸は、この舞台を象徴している。
始まりは1本の赤い糸。
それは、『居ない父さん』と暗闇ヒカルの親子の絆。
その絆は、ヒカルが8歳の時に、ヒカルの前から父が突然居なくなり、『居ない父さん』になったあの日、断ち切られたかのように見える。
しかし、その絆は、ヒカルがずっと心の中に父をずっと持ち続けていたことで、細々と繋がっていた。
『居ない父さん』とヒカルの絆という赤い糸は、2時間10分の舞台中、ずっと物語の根底に張り巡らされている。
やがて、雑誌記者となったヒカルが遭遇する、福岡県で発生した連続バラバラ殺人事件の取材を上司から命じられ、後輩の久津木高丸ことクズ丸と共に、渋々と東京から赴いた福岡で、その赤い糸は、影彦とテルオという、二人にしか存在し得ない、切なく、悲しく痛ましい赤い絆を持った二人の糸に繋がって行く。
取材を続けるうち、ヒカルたちはこの事件で次から次に発見されるバラバラの遺体にはすべて、喰いちぎられたような痕があり、人々は土地に古くから伝わる妖怪「ししこり」の仕業だと噂する異常な謎に覆われていることを知る。
事件を取材するにつれ、それには、影彦とテルオの糸が交差し絡み合っていることが明らかになる。
行き着いた其処にあったものは、『居ない父さん』とヒカルの絆、影彦とテルオ、『居ない父さん』とヒカルの4本の赤い糸が、孤独と絶望と柵という糸に搦め捕られ、繋がった5本の赤い糸によって織り成されて行く物語。
全体として、舞台から放たれる情報量は膨大なのに、煩さを感じない。寧ろ、静かにすら感じる。
それは、夏の終わりの蝉時雨の静寂、雑踏の中の孤独のような、クリスマスの片隅に潜む一抹の淋しさのような静かさ。
どんな理不尽なことも肯定して生きるヒカリの命の力に触れ、テルオも影彦も、一筋の仄かな灯りを、最後に見たのではないだろうか。
自分の目を潰し、影彦の目を潰し、光を失った後でその事に気づき、影彦と共に自らを「ししこり」に与えるために、歩いて行ったその闇に閉ざされた目に最後に映ったのは、夜空にただひとつ瞬く小さな星の光のような希望だったのではないかと思う。
物語は、影彦とテルオが、「ししこり」の餌食になったのか、何かが「ししこり」を退治して、二人は生きているのが解らない。
ただ「ししこり」が、テルオの絶望と孤独が産み出したものだったとしたなら、ヒカリの指と同様、自らにかけていた呪縛が解けた時、「ししこり」も消滅したような気がして仕方ない。
私個人の希望的観測としても、影彦とテルオは、物語のその後も生きて幸せになって欲しい、そう強く願った。
さめざめと温かな涙が、頬に止めどなく流れ続け、年明け早々今年一番とも言える物凄い舞台を観てしまった。
そう言い切れる舞台であり、年明け最初にこの舞台を観られたことを幸せにも誇りにも思う素晴らしい舞台だった。
文:麻美 雪
「ヴルルの島 」
おぼんろ
ラゾーナ川崎プラザソル(神奈川県)
2016/11/30 (水) ~ 2016/12/11 (日)公演終了
満足度★★★★★
「想像して下さい」
いつものように、末原拓馬さんのこの言葉から、物語の入口へと導かれる。
閉じた目蓋の裏に広がったのは、X'masの夜の森にふわふわの毛に縁取られたフードの付いた真っ白なコートを着て佇む自分の姿。
白いブーツの足の裏を地中に孕んだ熱がほのかに伝わり、空から降り注ぐ雪のような銀色の月光を仰ぎ、雪の匂いのする風に一瞬目を閉じて開けば、そこは星の砂が敷き詰められた浜辺。
コツリと爪先にあたる感触に、目を凝らせば、銀色の巻き貝。しゃがんでその銀色の小さな巻き貝を掌に乗せると、銀色の光を放ち、空に光が矢のように真っ直ぐに迸り、掌の銀色の巻き貝は、クリスタルに変わり、水彩絵の具の赤と緑と銀色のX'mas色の3色が互いの色の境界線を滲ませて、染まる見たことのない、美しい巻き貝へと変わっていた。
頬にポツリと感じた冷たい感触に、空を見上げれば、真っ白い雪が一片、二片と地上に舞い降り、一片の雪が眩い光を放ち、全てが真っ白になり、目を開き現れたのは、『ヴルルの島』の物語の世界。
昔々、或いは遠い未来、もしくは今現在のどこかの物語。
物心ついた時から独りぼっちだった孤独な盗人ホシガリはある日、追っ手に追われて命からがら港に泊まっていたシオコショウと、シオコショウが面倒を見て行動を共にしているトリツキの乗っていた船に乗り込み、積み荷ごと船を奪って逃げようとしたが、それは世界中のゴミが捨てられる島に向かう船だった。
広すぎるほど広い海を渡りようやく辿り着いたのは、見渡す限りゴミの山が広がるヴルルの島だった。
ヴルルの島でホシガリは、誰かに何かを贈りたいと願う怪物アゲタガリと、自分のすることを手伝えば、船でホシガリが居た場所に返してあげるという島の民ジャジャと出会い、島の星たちに見降ろされ、傷ついた者たちの奇妙な生活が始まる。
そして、島にまつわる悲しく残酷な過去が明らかになった時、最後に待っていたものとは....。
こんなにも切なくて、こんなにも美しく、温かい物語があるだろうか。
末原拓馬さんだから紡ぎ出せた物語、おぼんろだからこそ紡げた物語。
船に乗り込んで来たホシガリを上からの命令で処分しようとするさひがし ジュンペイさんのシオコショウは、トリツキと自分が生きてゆく事しか考えていない無情な人間の見えながら、ホシガリがヴルルの島をゴミの廃棄所にする為に先住民と戦った時の上官の息子であること、戦争への後悔の念によって、気を狂わせホシガリの父の最後の姿を見ていたシオコショウのホシガリに対する思いと、ずっと面倒を見続けているトリツキが自分にとってかけがえのない存在だと知った時のシオコショウの中にある、後悔による苦しみと温かな情が胸にしみじみと迫って来た。
そんな、シオコショウとはうって変わった、さひがしさんの弁士。毎回、物語の何処かしらに現れて、会場を笑いの渦に包む弁士。
私もそうなのだけれど、この弁士の登場を毎回楽しみにしているおぼんろファンは多い。弁士のさひがしさんは、実にイキイキと楽しそう。
この弁士の登場する場面は、正に塩コショウのように、いつも、最後は感動の涙にくれるおぼんろの物語を引き立てるスパイス。
その弁士の場面に登場して更に花を添え盛り上がるのが、わかばやし めぐみさんの毎回何が飛び出すか分からない、コスプレ。
わかばやし めぐみさんの幼い少女のような心と言動をするトリツキ。その純粋無垢な心ゆえ、トリツキの口を通して、ジャジャに死者の霊を慰めるため、ホシガリを生け贄に捧げる儀式の準備をするように告げるヴルルの島の女神にこの島に来る度に、躰を貸してしまうという純真無垢で、儚いような愛しさを感じるトリツキとは、うって変わって、弁士の場面に登場するめぐみさんは、今回はトナカイ姿で、思いっきりキュートに楽しく弾けていた。
今回のトリツキ、可愛くていとおしくて、とても素敵でした。
高橋倫平さんの島の民ジャジャは、戦争によって、亡くした家族の霊を慰める儀式の為に、家族の命を奪った兵士の息子であるホシガリを生け贄に捧げるため、騙そうとするが、ホシガリと共に生活しているうちに、情が湧き、ホシガリもまた、気が狂い、人に与えても蔑まれ、馬鹿にされ、奪われて死んで行った父に、必要とされていないと感じ、与えても奪われるなら、奪って生きてやると盗人になる程に孤独で、傷ついていたことを知るに至って、ホシガリの命を奪えずに葛藤する姿が胸に痛かった。
藤井としもりさんのアゲタガリ。登場人物の中で、今回一番好きなキャラクター。
戦争のため、殺人兵器として作られながら、いつしか人間のような心を持ち、人を殺めることを止め、ホシガリの父の遺言で、ただホシガリの幸せを祈り、ホシガリを幸せにすることだけを思い、ホシガリが来ることを待ち続けていたロボット、アゲタガリ。
上機嫌だと鼻歌を歌い、常に人に与えようとするアゲタガリ。次第に心を開いて行ったホシガリに、常に与え続けたアゲタガリは、ホシガリの父の姿でもある。
最後に、ホシガリたちを助けるため、ひとり島に残って、島から船出するアゲタガリの後ろ姿は、寂しさを覗かせながらも、ホシガリが幸せになることへ満足したような、ホシガリの幸せだけを願う優しさと明るさを感じさせて、温かい気持ちになった。
アゲタガリが本当に可愛くて、切なくて、愛しかった。
末原拓馬さんのホシガリは、奪うことで、自分の抱えきれないほどの孤独と痛みから逃れようとしているようで、せつなきった。
末原拓馬さんのホシガリの孤独の深さに胸が詰まる。信じて心を開き始めていたジャジャに、騙されていたと知った時の深い孤独、けれど、ホシガリを騙し切ることが出来ず、ジャジャもまた、ホシガリに心を開き、心に芽生えた情を裏切る事が出来ず、ホシガリたちと共に島を出ることを選んだジャジャを見て、ジャジャに討たれてもいいと変わってゆくホシガリの姿に、微かにでも人を信じる気持ちが芽生えたこと、ホシガリの孤独がジャジャとただただ、ホシガリの幸せだけを願い、無償の愛を向け続けたアゲタガリによって、優しい気持ちを心に灯し始めたホシガリとアゲタガリの最後の場面が胸に切なくも温かった。
あなたにとって大切なものは何ですか?大切な人は何ですか?
私にとって、大切なものとは何か、大切な人とは誰か。
その事をずっと考えていた。
元をただせば、美しく暮らしたいが為に、自分達で処理できなくなったゴミをヴルルの島に捨てる、ごみ処理場所するために幸せで穏やかに暮らしていた、ヴルルの島に戦争を仕掛け、先住民からその島を奪った、人間の身勝手がジャジャたちからたくさんの大切な人と物を奪ったゆえの悲劇。
だからこそ、ただ相手の幸せを望み、惜しみなく与えるアゲタガリの姿に涙が溢れて止まらなかった。
書いている今も、思い出すと涙が零れる。
末原拓馬さんからも、「長いの書いてね」と言って頂いたので、今回も長いぶろぐになりましたが、観ている間中、ずっと涙が止まらなくて、最後は声を溢して泣いていた。
クリスマス・イヴに観た、おぼんろの紡ぐ切なくて美しい物語、『ヴルルの島』は、一生心に残るクリスマス・プレゼントでした。
文:麻美 雪
霓裳羽衣
あやめ十八番
東京芸術劇場 シアターウエスト(東京都)
2016/12/17 (土) ~ 2016/12/21 (水)公演終了
満足度★★★★★
座席1階EX 列5番
老婆(熊野善啓さん)がアシュミタ(水澤賢人さん)が語るこの地に伝わる伝説、色欲の女神ダーキニーの物語から始まる物語はやがて、インドの神々と少女アシュミタに纏わる物語になる。
破壊神シヴァとの不義密通を、正妻パールヴァティーに見咎められ、一辺、四十里の大岩が、塵と化すまで( その時間を“劫”といい、古代インドにおける時間の単位のうち最長のものであり、一劫は、43億2000万年とも言われている。)、百年に一度舞い降りる、天女の羽衣の一撫でが、岩を塵へと変える“一劫”の間、無限に等しい時間の下敷きとなる罰を受けた、色欲の女神ダーキニー。
刑の長さに耐えかねたダーキニーは、人間の少女に大岩を鑿(ノミ)で削るように持ちかけ、それが末代まで続く呪いになろうとは思いもせず、不老不死の命と引き換えに、鑿を手に取った無垢な少女に課せられた呪いの連鎖、インドの神々と少女に纏わる物語が幕を開けた。
『呪いの連鎖と業の物語』観ている間中、そんな言葉が頭に浮かんでいた。
表面に見え業は女の業。けれど、その中に潜むものは、神も人間も関係なく、生と命、愛、富、出世を欲する欲と業と執着、その執着によって引き起こされる負の連鎖。
その連鎖の鎖は、いつしか心を蝕んで、気づいた時には身動きもならず、断ち切る事さえも出来ない程に自身を縛り、連綿と負の連鎖を繋げて行く。それを断ち切るのは、相当に巨大な力と痛みを伴わなければ止めることは出来ない。
良い人でも、理不尽に命を奪われてしまうことを、両親の死を目の当たりにして、知ってしまった無垢な少女ソーマが、不老不死を求めて、ダーキニーの甘言にのって、負の連鎖の緒を結んでしまったソーマ(二瓶拓也さん)の悲しみと痛み、やがて、第二のダーキニーになる予感に胸が軋んだ。
ソーマから娘へ、娘からシュクラ(塩口量平さん)へと受け継がれた連鎖は、聡明なシュクラによって、一瞬断ち切られると思われたが、色欲の女神ダーキニーの毒牙によって、シュクラの體の内にに押された色欲の烙印により、更に受け継がれて行く。
この場面を観た時、20年以上前に観た『ゲットー』という舞台の場面がフラッシュバックした。
ナチスドイツがユダヤ人を集めたゲットーと呼ばれた場所で、ユダヤ人の少女がナチスの男に無体にその清らか躰を奪われる場面で、直接的に見せるのではなく、真っ白な服にそこだけ真っ赤に染まった服を着た少女の姿とシュクラの服の裾から伸びた美しい布が荒々しくはためく、ダーキニーに色欲の烙印を押される場面が重なり、あの時『ゲットー』の少女の噴き上げるような憤りと血を吐くような痛みと、涙さえ渇れるような悲しみが胸に膚に突き刺さったあの感情と感覚が襲って来て、心に焼き付いて離れない。
控えめで野心を持たなかったサントーマ・シー(美斉津恵友さん)が、破壊神シヴァのお褥下がりになった側室たちの姿を見て、生き残る為に、人を貶め、蹴落とす邪な姿へと変わってゆくその心模様に、サントーマ・シーもまた、業に囚われ蝕まれた哀しい女神であり、それはまた、人間の女の業と重なった。
全ての元凶の発端となった、ダーキニー(笹木皓太さん)は、體の底から突き上げ、浸蝕してくる怖さを感じた。
それは、ダーキニーが人間の全ての欲望と業を体現した存在のように感じたからではなかったのか。
神も人間も関係なく、生と命、愛、富、出世を欲する欲と業と執着、その執着によって引き起こされる負の連鎖。
『呪いの連鎖と業の物語』と捉えたことは穿ちすぎだろうか。けれど、私があの日観たあやめ十八番の『霓裳羽衣』は、そのように思えてならなかった。
ダーキニーの『本当の事なんて見えはしない』という言葉と、その直後に放ったシュクラの『本当に大切なことは目に見えない』という言葉に、ふとサンデク・ジュペリの『大切なものは目に見えないんだよ』という言葉を思い出す。
もしも、その大切なこと、本当のことが目に見えていたら、もこんな悲しく痛ましいことは起こらなかったろうとも思う。
これだけ書いても、まだ、感情と感覚と思考が纏まらない。
ただひとつ言えるとしたら、この日味わった鮮烈な衝撃を放つあやめ十八番の『霓裳羽衣』は、ずっと、私の軆と心と記憶にずっと焼き付いて離れない素晴らしい舞台だったということだろう。
文:麻美 雪
晩餐狂想燭祭~惨~
Dangerous Box
王子小劇場(東京都)
2016/11/11 (金) ~ 2016/11/15 (火)公演終了
満足度★★★★★
Dangerous Box vol.13本公演 綾艶華楼奇譚 第三夜 『晩餐狂想燭祭〜惨〜』
愛しても愛されない。
愛されても愛せない。
求めても求められない。
求めないのに求められる。
解って欲しいのに解って貰えない。
満たされない想いが涙に変わり。涙は、廓という檻をゆらゆらと金魚が揺蕩う、金魚鉢へと変えて行く。
満たされない想いと満たされない愛が、永遠に揺蕩う金魚鉢へと...。
全ては、現か幻か。全ては泡沫の夢。
金魚鉢に閉じ込められた金魚のように、鉢も水もなければ生きられない金魚の如く、遊郭という鉢の中でしか生きられない遊女の、男と女、男と男、女と女の生きる哀しみと愛と諦め、藻掻く姿が胸に痛く響く。
現し世で見る束の間の幸せという幻。その幻に縋りたかった遊女、幻を夢見た女の心を持った男、その幻をすっぱり見ることを辞め、永遠に揺蕩う金魚鉢の中で生きていく覚悟を決めて選んだ女、靡かないその女を求め続け、満たされず永遠に揺蕩う男、その男を永遠に求め続ける女。
妖しく、色艶っぽく、華やかで、絶望的なほど哀しくて、皮膚を食い破って心を蝕むほど孤独で、涙も出ないほど切なく美しい「綾艶華楼 晩餐狂想燭祭」の世界。
なのに、どうしても好きで仕方ない。
求めても求められない。求めないのに求められるジレンマ。解って欲しい、解って貰えない苦しみがヒリヒリと胸に滲みる。
なぜ?どうして?しょうがないでしょ、愛してしまったんだもの。想い想われ、拒まれて、混ざり合った想いは愛だったのか、憎しみだったのか。想いは何処にあるのだろう。
愛してるのに....。
解ってよ、私を観てよ。
あなただけを観ている、私を...。
二枝 (小春千乃二枝さん)は、「晩餐狂想燭祭〜弐〜」の時からずっと、この想いを八文字(林里容さん)に叫び続ける。その体の底から迸るように絞り出す、小春千乃(ゆきの)さんの二枝は、観る度に切なくて、胸が軋むように痛くなる二枝そのもの。
これ程想われても、一華(篠原志奈さん)への想いに囚われている八文字は、二枝の愛に応える事はない。一華に受け入れらない想い。それはまた、二枝の八文字への想いと同じ。その事に気づいて、二枝の心を想いやれたら八文字も二枝も、もしかしたら、幸せになれたのかも知れない。
同じ想いを抱え苦しんだ者として。応えて貰えない想いと応えられない想いの狭間で、もしかしたら、一番苦しんで引き裂かれそうだったのは、林里容(のりまさ)さんの八文字だったのかも知れない。
二枝の叫びは、八文字の叫びだったのではないのか。目の前で観た、林里容さんの八文字の俯く姿にそんな風に感じた。
八文字の想いを拒み、凛と潔く、この廓という金魚鉢の中で、生きて行く覚悟を決め選び取った篠原志奈(ゆきな)さんの一華は、更に色艶っぽく、艶やかに、決然としていて揺るぎなく、格好良さが増していた。一番好きなのが、一華。そして、睦ちゃん。
「晩餐狂想燭祭〜弐〜」の冨永裕司さんの睦ちゃん。睦ちゃんが睦ちゃんになる前の男鬼六の時代の話も織り混ぜられ、睦ちゃんになる瞬間、鬼六の葛藤と切なさ、それが、睦ちゃんが時折見せる孤独の翳りに繋がっていたのかと気づく。
半田瑞貴さんの三葉の、鬼六の心が女であることも、女を愛せないことも知った上で、ありのままの鬼六そのままを、全てを包み込む、深さと潔さもまた、ひとつの愛だと感じた。
しかし、それだけでなく、歌、ダンスも華やかで艶やかで、笑いもあって、艶っぽく華やかなポールダンスと三味線、篠笛も加わり、より妖しく、より豪華絢爛に、哀しくも美しく、残酷で優しく愛しい「晩餐狂想燭祭〜惨〜」だった。
文:麻美 雪
狼少年ニ星屑ヲ 終演しました!沢山のご来場ありがとうございます!
おぼんろ
ワーサルシアター(東京都)
2016/10/25 (火) ~ 2016/10/30 (日)公演終了
満足度★★★★★
劇団おぼんろ:『狼少年ニ星屑ヲ』
遥か昔、何処の国とも何処の村とも知れない、みんながいつでも泣いている、小さくて、不幸せな村があった。
その村では、生きているうちにたった1度だけ、不幸せなこの村を逃げ出すチャンスがある。
それは、25になる年の、収穫祭の晩、海の向こうから、 舟が迎えに来て、その舟に乗ってその村を出ること。
「逃げだして、しあわせになろう」
おかあさんたちもそうしたように。
今年25になる母も父も知らず、その村で育ったたくまは、村の外にきっとあると信じる幸せになれる場所を目指し、この村から逃れようとするが、その果てに待っていたものとは...。
劇団おぼんろの原点であり、おぼんろが掲げている『キンキラキンのラブをあなたに』が、生まれたのもこの『狼少年ニ星屑ヲ』。正真正銘の劇団おぼんろの原点の物語。
当時のまま敢えて手を加えていないので、今のおぼんろと比べると、荒ぶった言葉もあり、切っ先鋭いナイフのような空気もあるけれど、既に今のおぼんろの色、おぼんろの物語の世界が其処にはある。
5年ぶりの再々演。劇団おぼんろに出会って約1年半の私が、ずっと観たいと焦がれていたのが、このおぼんろの原点である『狼少年ニ星屑ヲ』であり、私にとっても思い入れの強い物語である。
いつもは5人のおぼんろが、今回は藤井としもりさんが出演出来なくなり、4人で紡ぐ。
出演出来なくなった藤井としもりさんだけでなく、主宰であり、作、演出、語り部でもある末原拓馬さん、語り部のわかばやし めぐみさん、さひがしジュンペイさん、高橋倫平さんにとっても、大切に愛している物語であることが、観ていて身に犇々(ひしひし)と伝わって来た。
思いが溢れ過ぎて、上手く言葉が見つからず、いつもの書き方と違った書き方になるのだけれど、敢えてこのまま溢れるままに書いてみたい。
物語半ばまでは、笑いっぱなしだったのに、気づけば切なくて、切なくて、居たたまれないほど哀しくて、ぼろぼろと涙が溢れ、嗚咽が漏れそうになる。
周りからも啜り泣きの声が聞こえた。
たくまを助けるために、薬草を取りに戻ったりんぺいが、村を騒がす盗賊と思い込んだ村人たちに石の礫を投げられ続け、自分の家で薬草を握ったままこと切れる場面は、残酷と言えば、あまりにも残酷で悲しいのだけれど、しかしと思う。
最後まで、愛する誰かのため、大切な友のために、揺らぐことなく相手を信じ抜いて、これで友が助かると、友を思いながらこと切れた最後は、りんぺいにとっては幸せだったのではないかとも思うのだ。
そのりんぺいの無償の愛に触れた時、この村から逃れて、キンキラキンのラブを見つけて、幸せになることだけに目を奪われて、一緒に育ったりんぺいと一緒に『キンキラキンのラブを見つけに、此処を出よう』と誓ったことを忘れかけていたたくまの心も、りんぺいによって救われ取り戻すことが出来たのではないかと思ったり。
人はあまりにも不幸だと、メーテルリンクの『青い鳥』のように、幸せがすぐ隣にあることに気づかない。
なぜ人は、失くしてからでないと、大切なもの、大切な人が此処に居たことに、幸せや愛がすぐ隣に、すぐ目の前にあったことに気づかないのだろう。
『大切なものは目に見えないんだよ』とは、サンデク・ジュペリの『星の王子さま』の言葉だけれど、大切なものは目に見えないけれど、確かに其処に在って、その在処はその人の心のなかにあるのだなと気づかされる『狼少年ニ星屑ヲ』。
キンキラキンのラブは、いつだって自分のすぐそばにある。その事に気づけたなら、この世界から戦争や悲しいニュースなんてなくなるのにと思う。
引き裂かれるほどに、切なくて、哀しくて、儚くて、けれどため息の出るほど美しいキンキラキンのラブに溢れた物語。
泣いて、泣いて、泣き切って、外に出て見上げた空は、曇っているのに、何故だかとても清々しく美しかった。
おぼんろの紡ぐ物語は、その結末はとてつもなく哀しくて、切なく見えるのだけれど、その底にはいつも一筋の、一粒の希望の光がある。
その事に、いつもほっと胸のうちが安堵し、温かく包まれ、キンキラキンのラブを掌(たなごころ)にそっと包んで、持ち帰る。
誰の心にも巣食う思いであり、これは、私の物語なんだとも思う。
キンキラキンのラブを胸に抱えて、劇団おぼんろ秋の収穫祭公演、『狼少年ニ星屑ヲ』の幕が下りた劇場を後にした。
文:麻美 雪
そして誰もいなくなった
ULPS
シアターKASSAI【閉館】(東京都)
2016/10/05 (水) ~ 2016/10/09 (日)公演終了
満足度★★★★★
『そして誰もいなくなった』後に待つ結末は....
イギリス・デヴォン州の孤島に建った家に、U・N・オーウェンと名乗る人物から、招待された職業も年齢も違う8人が、迎えの船が来なくなり、オーウェンによって雇われた、召し使い夫婦と共に孤島の家に閉じ込められ、いつの間にか10体の兵隊の人形が暖炉の上にマザーグースの『10人のインディアン』の歌詞と共に現れ、その歌に準え、1人また1人と殺される度に人形が1つ無くなってゆき、そして、最後に迎える結末は....。
というアガサ・クリスティの名作、『そして誰もいなくなった』原作のミステリーを基に、細かなデティールやどんでん返しのラストに更にどんでん返しという原作にはない、ラストを加えて織り成された舞台。
ミステリーの結末を、たとえ本日千穐楽を迎えたとは言え、言ってしまうのは野暮と言うもの。
なので、事細かに書くことが出来ないのが、惜しまれるのだが、高校生の時にアガサ・クリスティの原作を読んだ時のあの息詰まるような緊迫感とどのような結末にたどり着くのか、ドキドキしながら小説の中に引き込まれて読んだ感覚をそのまま、膚に頭に、感情と身体の内に甦った。
集められた全ての人間が、過去に何らかのの罪を犯し、抱えている。オーウェンは、最後の最後になるまで、一切姿を現さず、蓄音機によって、彼等の過去の罪が告発され、弾劾されるのだが、その罪は事故とも事件ともつかないものであり、その罪を犯した彼らにしても、それを罪とは思っていない者もいる。
各々の中にある、各々の自分にとっての正義若しくは正義だと思っているもの、それは、傍から見ると、自己を正当化する為の身勝手な詭弁にも思えるが、その思考もまた自己の規範と尺度でしかない。
正義とは罪とは何なのだろうか。その違いとは何なのか。正義と罪は背中合わせの紙一重の処にあるものではないかと感じた。
何が正しく、何が間違っているのか。それは、一人一人の解釈によって、正義にも罪にも、そして、正義という名の下に執行される歪められた正義にもなり得る。それを行ったのが、司法を司る者であったとしたら、これ程怖いことはない。
正義と罪(犯罪)は、両刃の剣ではないのか。行き過ぎた正義と狭量で視野の狭い正しさの尺度は、暴走し狂気に走る怖さと、人に強要することにより、人を追い詰める危うさを秘めている事を感じた時、膚をぞくりと寒くさせる怖さを感じた。
この舞台で、特に印象に深く残った、加藤大騎さんのローレンス・ウォーグレイヴ判事は、立ち姿、佇まいが美しく、そのスッと伸びた背筋と所作の端正さと目線、立ち居振舞いのひとつひとつが、原作を読んでイメージしていたウォーグレイヴそのものであり、アガサ・クリスティ作品の馨と雰囲気を纏っていて、とてもしっくりと舞台と馴染んでいて、素晴らしかった。
この舞台は、10人が各々、このミステリーのキーパーソンであり、主役であり、語り手でもある。
オーウェンの告発によって、向き合わされた各々の中の罪と、一人ずつ殺されて行く事で追い詰められ、露になる己の脆さと人の醜さ、自らの本性を突きつけられ崩壊して行く自己、ミステリーでありながら心理劇でもある。
原作通りの結末だけでも衝撃的なのだが、最後にもう捻りあるその結末は、原作にはない種類の衝撃ではあるが、それによって、落とし処のなかった気持ちと感情が、救われた感じがした。
原作を好きな人には、良しとするか否とするか意見は分かれる処かもしれないが、私は、この結末のどんでん返しは、この舞台ならではの面白さだと思う。
2時間ちょっとの上演時間が、あっという間に過ぎ、観終わった後、酔いにも似た高揚感と興奮が、身体の中に熱が籠っているような、真相にじわりじわりと迫ってゆく緊迫感と高揚感に、何度も前のめりになって観た、濃密で面白い舞台だった。
文:麻美 雪
イエドロ落語2016
OuBaiTo-Ri
小劇場 楽園(東京都)
2016/09/02 (金) ~ 2016/09/07 (水)公演終了
満足度★★★★★
抱腹絶倒の『イエドロの落語』
劇団おぼんろのさひがし ジュンペイさんとわかばやし めぐみさんのユニットイエロー・ドロップスの『イエドロの落語』が、さひがし ジュンペイさんプロデュースで立ち上げたOuBaiTo-Riの『イエドロの落語』として、構成・演出に開幕ペナントレースの村井雄さん、演劇集団 円の近松孝丞さんという素敵な役者さんを加え、『イエドロの落語』更にパワーアップして進化していた。
昨年初めて観た瞬間から、虜になったさひがしさんとめぐさんの『イエドロの落語』、元々二人だけで、落語を立体的に演じて笑いっぱなしの最高のエンターテイメントな『イエドロの落語』でしたが、今回、演出・構成に村井雄さん、出演に近松孝丞さんが参加し、2時間弱、抱腹絶倒というのはこう言うことをいうのかと体感した、笑い過ぎで腹筋と背筋が痛くなるくらい面白い舞台になっている。
落語の『死神』を真ん中に置いて、「粗忽長屋」「風呂敷」など、落語好きには堪らない、幾つかの落語をパッチワークかモザイクのように繋ぎ、その繋いだ縫い目が全く分からないほど滑らかで、1つの落語に仕立て上がっていた。
毎回、「カツ丼の女」で始まる『イエドロの落語』、今回はラストの締めも「カツ丼の女」になっていて、それが、「えっ!そういう結末」と意外で楽しいエンターテイメント結末に!
わかばやし めぐみさんの時に可笑しく、時に小粋に、時にしみじみと見せる女たちが、私は、とても好きで魅入ってしまった。『イエドロの落語』のめぐさんを見ると、いつも、『ルーシー・ショウ』で一世を風靡した、ルシル・ボールが重なる。
再放送で観た、『奥様は魔女』のような形式のアメリカのコメディ番組の『ルーシー・ショウ』の主役にして、美しく小粋ではっちゃけた演技をするコメディエンヌのルシル・ボールのようなめぐさんの描き出す落語の女たちが、観ていて本当に楽しくて、胸がすく。
今年4月のめぐさん演出の『箱の中身』から、ふとした瞬間に何だかとても表情や佇まいに色気を感じるさひがしジュンペイさんの男は、ちょっと抜けていたり、粗忽だったり、だらしなかったり、小狡かったり、えっ!と思うはっちゃけた場面などもありながら、鬼気迫る表情のシーンのさひがしさんは、ぞくりとする凄みの色気のある顔がとても心に残った。
近松孝丞さんの死神が、面白いのだけど、艶っぽい色気が、ほろほろと場面、場面で零れ落ちていて、とても印象深く残った。近松さんも、ぞくりとする凄みのある表情をする場面があるのですが、さひがしさんとはまた、違った色艶っぽさがあって素敵だった。
今回の劇場は、形もちょっと変わって、その上に、舞台の真ん中に柱がドンとあるのですが、それを上手く活かして、舞台にアクセントを加えた村井雄さんの演出が楽しい。
観る度にパワーアップして、面白さが増して行く、『イエドロの落語』ですが、今回は更に面白さも爆発力も増していて、一番面白い舞台『イエドロの落語』になっていた。
次の『イエドロの落語』も、今回が最高と思える『イエドロの落語』になるだろうと予感させる最高のエンターテイメントの舞台。
文:麻美 雪
歌謡倶楽部 艶漢
CLIE
サンシャイン劇場(東京都)
2016/08/19 (金) ~ 2016/08/21 (日)公演終了
満足度★★★★★
歌謡倶楽部「艶漢」
ユルい着流しにノーフンがちな妖艶系ぼんやり傘職人・詩郎と、だらしない人がゆるせない熱血正義漢(妹萌え)で猫大好きな巡査・光路郎が、何処とも知れぬ世界の果てのまぼろしみたいな裏町でエログロ猟奇な事件に巻き込まれる、眉目秀麗悶絶お色気アクションという艶やかで色っぽく、紅い毒を宿した、3月に上演された舞台『艷漢』の主要登場人物たちが織り成す歌謡ショー。
舞台そのままの艶やかで色っぽくて、華やかな歌あり、ダンスあり、ジャグリングあり、所々に散りばめられた、芝居のシーンありのきらびやかで、楽しい最高のエンターテイメント・ショー。
末原拓馬さん始め、出演者の方たちの『艷漢』への愛着と愛情が舞台から溢れていて、観ている側も何も考えず、無条件でただただ、『艷漢』の美しくも妖しい毒と艶やかで華やかできらびやかな世界に身 委ねて愉しめました。
夏休みの締めにこの歌謡倶楽部「艶漢」を観られて本当に幸せだと思える舞台でした。
文:麻美 雪
フランス革命三部作
芸術集団れんこんきすた
シアターノルン(東京都)
2016/07/20 (水) ~ 2016/07/29 (金)公演終了
満足度★★★★★
『フランス三部作 Blanc~空白の抱擁~』
両端をトリコロールに染められた幕を背中に、舞台を跨ぐように据えられたギロチン台。
「最も人道的な処刑装置」として開発され、革命末期に多くの奪ったギロチンによる死刑執行。
マリー・アントワネットも露と消え、革命後期の恐怖政治と化した頃には、政治にも革命にも何の関係もない市民や子供までが、凡そ罪とも言えないような些細な罪で、死刑になりギロチンの露と消えた。
あのギロチンと代々処刑人の職を受け継いできた家に生まれ、革命期にはギロチンの全てを任せられた、死刑執行人「ムッシュー・ド・パリ」と呼ばれた男、サンソン。その命を奪ったギロチン台。
罪人の首を落とし続けたギロチン台と、死刑人サンソンの視点から見た革命と、死刑執行人の苦悩と真実を描いた舞台、『フランス三部作 Blanc~空白の抱擁~』。
『フランス三部作』は、女性革命家の視点から描かれるRouge、貴族令嬢から図らずも身を措くことになった令嬢の視点から描かれる Bleu、そして死刑執行人の視点から描かれるBlancの3つの視点で描かれる舞台。
死刑執行人とギロチンの視点からフランス革命を描いた舞台は、私の観て来た舞台で、私は初めて観た。
ギロチン台は、ギロチンの精と擬人化され、中川朝子さんのギロチン・マダム、濱野和貴さんのギロチン・シトワイヤン、調布大さんのギロチ・ンキュロットのギロチン一家として、観客の前に現れ、当時の情勢や革命の歴史やサンソンの事について、神出鬼没に現れては語る狂言回しの役回り。
ギロチンというと、おぞましく怖いイメージがあるが、このギロチン一家は、シニカルであると同時に何故だかじわじわとした可笑しみがある。
中川朝子さんは、Rouge、Bleu、Blancと3作品通しで全てに出演。Blancに至っては、ChariteチームとこのGenerouxチームの両方にシングル・キャストで出演されている。性別もキャラクターも全く違う役を、1日通して連続で演じるのは相当の体力と精神力が必要な筈だが、ギロチン・マダムを軽やかにコケットにひとつまみの毒と可笑しみを加えたマダムとしてBlancの中で生きていた。
濱野和貴さんのシトワイヤンは、去年此処で観た『リチャードⅢ世』とは、がらりと違い、たっぷりの皮肉と毒に、可笑しさとひとつまみの狂気を感じるシトワイヤン。
調布大さんのキュロットは、冷静にサンソンと革命を観つつも、何処かほのぼのとして、Twitter等でもかわいいという声が上がっていたが、何だかかわいさがあるキュロット。
武田航さんのデムーランは、人々から厭わしく忌まわしい仕事と、謗られ蔑まされ苦悩するサンソンの唯一の理解者で友人であり、革命によって、差別のない平等で自由な国を創ろうと革命に参加し、ロベスピエールと同じように次第に、独裁的になって行き、その事に気づいた時には引き返せない所まで来てしまった者の苦悩と痛みを感じた。
デムーランの妻小松崎めぐみさんのリュシルは、ただ一途に夫を愛し支える純真な姿が可憐で素敵だった。
死刑執行人の家に生まれ、兄と同じ苦しみを抱えて生きてきた加賀喜信さんのマルタンの家業を厭い家を出て、外の世界に行っても、結局は死刑執行人の家に生まれたことがついて回り、普通に暮らすことさえ儘ならない事に憤りと悲しみ、絶望を感じた姿が胸を刺した。
革命の理念に共感し、次々とロベスピエールたちの命により、痛みも疑問も持たずに死刑執行をサンソンに指示し、酷薄に見えた加藤大騎さんのダンヴィルが、自らもギロチンにかかる時に、サムソンに「お前が心配だ」と一瞬見せた人間らしさに、彼もまた、ただ、自由と平等と平和を願った革命に翻弄された一人の悲しい末路を感じた。
石上卓也さんのサンソンは、サンソンの佇まいが痛ましくも美しく、それだけに、厭わしく忌まわしい仕事と、謗られ蔑まされても、その家に生まれれば否応なしに継がなければならない者の悲しみと苦しみと葛藤とジレンマが犇々と伝わり、胸が締め付けられた。
人の手で、人の命を奪うことの葛藤、苦しみと痛み。それを一番感じ、心を苛まれていたのは死刑執行人のサンソンでなはかったのか。
木村美佐さんのサンソンの妻、マリー・
アンヌは、傷つき、悲しみと苦しみに苛まれ、葛藤とジレンマに懊悩するサンソンを静かで深く純粋な愛で包み、そっと見守り、毅然として支える姿に胸が震えて涙が溢れた。
一日通して観た3作品は、何れも素晴らしく、考えさせられることも、感じることも多かった。
『革命』とは、力や武力、弾圧で捩じ伏せるものではなく、今も蔓延る差別や区別を心から無くすこと。心をより愛あるものに変えること。心を変える事なのではないだろうか。
『フランス三部作』は、全て観ることによって、よりその事が強く伝わってくる素晴らしい舞台であり、3作品を通して観られたことを心から良かったと思う。
この舞台を観たことは、私の誇りであり宝物であると言える舞台だった。
文:麻美 雪
フランス革命三部作
芸術集団れんこんきすた
シアターノルン(東京都)
2016/07/20 (水) ~ 2016/07/29 (金)公演終了
満足度★★★★★
『フランス三部作 Blanc~空白の抱擁~』
両端をトリコロールに染められた幕を背中に、舞台を跨ぐように据えられたギロチン台。
「最も人道的な処刑装置」として開発され、革命末期に多くの奪ったギロチンによる死刑執行。
マリー・アントワネットも露と消え、革命後期の恐怖政治と化した頃には、政治にも革命にも何の関係もない市民や子供までが、凡そ罪とも言えないような些細な罪で、死刑になりギロチンの露と消えた。
あのギロチンと代々処刑人の職を受け継いできた家に生まれ、革命期にはギロチンの全てを任せられた、死刑執行人「ムッシュー・ド・パリ」と呼ばれた男、サンソン。その命を奪ったギロチン台。
罪人の首を落とし続けたギロチン台と、死刑人サンソンの視点から見た革命と、死刑執行人の苦悩と真実を描いた舞台、『フランス三部作 Blanc~空白の抱擁~』。
『フランス三部作』は、女性革命家の視点から描かれるRouge、貴族令嬢から図らずも身を措くことになった令嬢の視点から描かれる Bleu、そして死刑執行人の視点から描かれるBlancの3つの視点で描かれる舞台。
死刑執行人とギロチンの視点からフランス革命を描いた舞台は、私の観て来た舞台で、私は初めて観た。
ギロチン台は、ギロチンの精と擬人化され、中川朝子さんのギロチン・マダム、濱野和貴さんのギロチン・シトワイヤン、調布大さんのギロチ・ンキュロットのギロチン一家として、観客の前に現れ、当時の情勢や革命の歴史やサンソンの事について、神出鬼没に現れては語る狂言回しの役回り。
ギロチンというと、おぞましく怖いイメージがあるが、このギロチン一家は、シニカルであると同時に何故だかじわじわとした可笑しみがある。
中川朝子さんは、Rouge、Bleu、Blancと3作品通しで全てに出演。Blancに至っては、ChariteチームとこのGenerouxチームの両方にシングル・キャストで出演されている。性別もキャラクターも全く違う役を、1日通して連続で演じるのは相当の体力と精神力が必要な筈だが、ギロチン・マダムを軽やかにコケットにひとつまみの毒と可笑しみを加えたマダムとしてBlancの中で生きていた。
濱野和貴さんのシトワイヤンは、去年此処で観た『リチャードⅢ世』とは、がらりと違い、たっぷりの皮肉と毒に、可笑しさとひとつまみの狂気を感じるシトワイヤン。
調布大さんのキュロットは、冷静にサンソンと革命を観つつも、何処かほのぼのとして、Twitter等でもかわいいという声が上がっていたが、何だかかわいさがあるキュロット。
武田航さんのデムーランは、人々から厭わしく忌まわしい仕事と、謗られ蔑まされ苦悩するサンソンの唯一の理解者で友人であり、革命によって、差別のない平等で自由な国を創ろうと革命に参加し、ロベスピエールと同じように次第に、独裁的になって行き、その事に気づいた時には引き返せない所まで来てしまった者の苦悩と痛みを感じた。
デムーランの妻小松崎めぐみさんのリュシルは、ただ一途に夫を愛し支える純真な姿が可憐で素敵だった。
死刑執行人の家に生まれ、兄と同じ苦しみを抱えて生きてきた加賀喜信さんのマルタンの家業を厭い家を出て、外の世界に行っても、結局は死刑執行人の家に生まれたことがついて回り、普通に暮らすことさえ儘ならない事に憤りと悲しみ、絶望を感じた姿が胸を刺した。
革命の理念に共感し、次々とロベスピエールたちの命により、痛みも疑問も持たずに死刑執行をサンソンに指示し、酷薄に見えた加藤大騎さんのダンヴィルが、自らもギロチンにかかる時に、サムソンに「お前が心配だ」と一瞬見せた人間らしさに、彼もまた、ただ、自由と平等と平和を願った革命に翻弄された一人の悲しい末路を感じた。
石上卓也さんのサンソンは、サンソンの佇まいが痛ましくも美しく、それだけに、厭わしく忌まわしい仕事と、謗られ蔑まされても、その家に生まれれば否応なしに継がなければならない者の悲しみと苦しみと葛藤とジレンマが犇々と伝わり、胸が締め付けられた。
人の手で、人の命を奪うことの葛藤、苦しみと痛み。それを一番感じ、心を苛まれていたのは死刑執行人のサンソンでなはかったのか。
木村美佐さんのサンソンの妻、マリー・
アンヌは、傷つき、悲しみと苦しみに苛まれ、葛藤とジレンマに懊悩するサンソンを静かで深く純粋な愛で包み、そっと見守り、毅然として支える姿に胸が震えて涙が溢れた。
一日通して観た3作品は、何れも素晴らしく、考えさせられることも、感じることも多かった。
『革命』とは、力や武力、弾圧で捩じ伏せるものではなく、今も蔓延る差別や区別を心から無くすこと。心をより愛あるものに変えること。心を変える事なのではないだろうか。
『フランス三部作』は、全て観ることによって、よりその事が強く伝わってくる素晴らしい舞台であり、3作品を通して観られたことを心から良かったと思う。
この舞台を観たことは、私の誇りであり宝物であると言える舞台だった。
文:麻美 雪
フランス革命三部作
芸術集団れんこんきすた
シアターノルン(東京都)
2016/07/20 (水) ~ 2016/07/29 (金)公演終了
満足度★★★★★
『フランス三部作 Bleu~青嵐の憧憬~』
舞台にあるのは、Rougeの時にあった両端トリコロールカラーの幕だけで、舞台の上には小道具ひとつない舞台の上で、4人の人物たちによる物語が描かれて行く。
貴族令嬢マリー・アニュースと彼女に仕える執事家の青年セルヴィニアン、従僕の青年アルノー、革命家のロべスピエール。
4人が、革命の渦に呑まれながらも愛と友情と誇りに必死に生きた若者たちの青春を描いた物語。
4人だけで「革命」を描く。
Rougeは、女性革命家の視点、Bleuは貴族令嬢から図らずも革命に身を置くことに
なった一人の女性の視点からみた革命が描かれる。
最近、自由と愛するものを守るために、武器を取り、戦うことの矛盾とジレンマについて、考え向き合う舞台を観ることが続いていたのだが、この作品でもその事を改めて考えさせられた。
自由と平等と平和を得る為に武器を取り戦い、血を流すことの矛盾とジレンマと、いつしか暴走して行く恐怖と、そこから生まれる新たな差別と憎しみとやる瀬なさをこのBleuを観て改めて感じた。
差別のない自由で平等で平和な世界を創る為の革命であり戦争が、いつしか暴走し、嘗て自分が味わった苦しみと悲しみを新たに生み出し、自分がされたことを自分が人にしていることに気づかない怖さとジレンマ。
力や暴力、思想弾圧による革命や戦いでは何も変わらないことを、何故これほど歴史で繰り返しても気づけないのか。
そんな中で、小松崎めぐみさんのマリー・アニューズの掛け値なしの透明で真っ直ぐな明るさと純真さ、純粋さに触れた時、涙が溢れるほど心に染み入る。
人の心を開くことで、平和で平等で自由な世界を創ることが出来る事に気づきかけ、それでも一途に革命こそが全てを変えると頑なに思い込み行動し、やがて当初の思いとは裏腹に、独裁者へと変わっていってしまった、早川佳祐さんのロベスピエールに、平和で平等で自由な世界を守り、得る為に戦うことの矛盾とジレンマを感じ、胸に深く痛くもどかしく、ロベスピエールの悲しみを思った。
中川朝子さんのセルヴィニアンもまた、大切なマリーを守る為に、戦いに身を投じざるを得なかった姿と一途さが切なくも、最後まで守り切ろうとするその姿が、とても潔くかっこいい。
そんな中、いつもマリーをそっと見守り続け、最後まで傍にいて、マリーの心を守り続け、唯一武器を取らず、戦うことに身を投じなかった平田宗亮さんのアルノーは、ほっとする存在だった。
やはり、変えられるのは、綺麗事かも知れないけれど、心であり、愛であり言葉だと思えてならない。
「物語には、言葉には、力がある。だから、物語で、言葉の力で世界を変えたい。」私の好きな劇団の主宰であり、俳優である末原拓馬さんの言葉だが、私も同じ思いで作家になろうと思った。その言葉の持つ意味がこのBleuの舞台を観て重なった。
めぐみさんのマリー・アニュースの透明で真っ直ぐな、優しく強い純粋さと純真さが胸に染みて包み込み、様々な心と感情を抱き、駆け巡り涙が溢れた。
めぐみさんから、『ぜひ、観て頂きたい』とご案内を頂いたのが解る、心に焼き付いたとても素晴らしい舞台だった。
文:麻美 雪
フランス革命三部作
芸術集団れんこんきすた
シアターノルン(東京都)
2016/07/20 (水) ~ 2016/07/29 (金)公演終了
満足度★★★★★
『フランス三部作 Rouge~花炎の残像~』
劇場内に一歩踏み込むと其処には、両端をトリコロールカラーに染められた幕がかかり、その前に1脚の椅子と花の生けていない花瓶のようなものが乗ったテーブルが1つ置かれた舞台があるだけ。
舞台の幕が上がり、白い布の塊が蠢き、這い出すように現れたのは、女性革命家テロアーニュ。
ベルギーに生まれ、イギリス、イタリアと流転の人生を送り、流れ着いたフランスで民衆による革命に出会い、アンヌから「フランスの自由の恋人」と称される女性革命家テロアーニュ・ド・メリクールとなった実在の女性革命家の生涯を、中川朝子さんが激しく、艶やかに鮮やかに、切なくも毅然としたひとりの女性として描き駆け抜ける一人芝居、『フランス三部作 Rouge~花炎の残像~』の物語の扉が開いた。
優しくはあるが、継母の暴力から守ってくれなかった父に絶望して、家を飛び出してから信じては裏切られを繰り返し、イギリス、イタリアとその都度自分の居場所を探して流転の生活を送っていたアンヌが、最後に行き着いたのは、「自由と平等の国を創る」という思想を旗印にして革命を起こしていたフランス。
革命に出会ったことで、アンヌの中の何かが弾け、革命へのめり込んでいった彼女の前に大きな壁として立ちはだかるのは、またしても男たちであり、女という自分の性。
女であるテロアーニュが注目され、認められることで、敵視され、陥れようとする男たちの狭量さ、テロアーニュを翻弄してきた男たちの視線と目線、女であるということ。
革命家を標榜する彼らでさえ、男としての本質は変わらないことに憤り、絶望したであろうテロアーニュ。
命尽きるまで、テロアーニュの身を焼き尽くした、赤い革命への熱の滾りは、その最後に緋へと昇華してのではなかったか。
彼女の目指した革命は、性別や貧富の差、宗教や思想、地位の差で差別されない平等で自由な世界にすることであり、決して血で血を洗い、誰かを陥れたり排除するものではなかったはずだ。
テロアーニュの『革命は、心を変えること。心を変えなければ革命は起こせない。』の一言が胸を抉る。
心に差別や区別を持っているうちは、その考え方を変えなければ、自由と平等を手にいれる革命は起こせない。
最近のテロの報道を見る度に感じることも正にこのことである。
時に可憐に、時に艶やかに、毅然と激しく、鮮やかに切なく、命を緋(あか)く燃やし尽くしたテロアーニュ・ド・メリクールそのものの中川朝子さんが其処にいた。
一人の女性の身の内側を染め尽くした革命という名の熱の赤、その赤が身の内全てを焼き尽くし緋(あか)に変わる迄を一人で描き切った、中川朝子さんの熱の紅が私の心に移り、感じるものがあった素晴らしい舞台でした。
文:麻美 雪
at Home Coming
Team ドラフト4位
ART THEATER 上野小劇場(東京都)
2016/07/20 (水) ~ 2016/07/24 (日)公演終了
満足度★★★★★
Team ドラフト4位 第2回公演『at Home Coming』
居酒屋の横の急な階段を降り切って、右を見ると、すぐそこに舞台と客席が現れる上野小劇場は、場所自体もアットホームで、この舞台にぴったり。
今回は、奈穂さんの初脚本、兵藤さんの脚色。
奈穂さんから、「初めて脚本を書いた舞台を観に来て頂けたら」とご連絡を頂き、これは何を措いても駆けつけなければと観に行って参りました。
「夢を持って」「思い続け、言い続ければ夢は叶う」というと、恐らくは、「そんなの嘘だよ」「叶わない夢だってある」、「叶わないから夢なんだよ」「そんなのきれい事」という言葉が返って来ることがほとんどだと思う。
夢見荘に来た当初の松下芳和さんのノブもそんなタイプの青年。
それが、其々に夢と傷を抱え、それでも尚、それだからこそ尚更、夢を叶えるために、上手く行かなくて折れそうになっても、挫けそうになって傷付いたとしても、夢を見ることを止めず、叶えようとする姿に触れ、夢を見ることを、夢を持つことへの一歩踏み出そうとするノブは、きっと多くの人たちの姿でもあるのではないだろうか。
だから、観ているうちに、ノブの心中が自分の事のように思えてくるのだと思う
橘奈穂さんのサクも、過去に抱えた傷がストッパーになって、次に踏み出せないでいたのが、ノブと関わって行くうちに自分の傷を正面から見つめ、次へと踏み出す勇気を持つ姿に肩入れして観てしまった。
横山展晴さんのダクトの夢を持つきっかけが、私が作家になると決めたきっかけと重なる部分があり、思わず涙が溢れて、一番感情移入して観ていた。
去年、思いがけず子供の頃からの夢を叶え、文章を書く仕事のきっかけを得て、一歩踏み出した私は思う。
「夢は信じ続け、追い続け、言い続ければ叶う」と。
しかし、それはただ漠然と思い、追い、言い続けれるのではなく、何があっても続け、行動しなければ叶うものではない。
10歳の時に、傷ついた自分が物語や作家の綴った言葉で、励まされ、慰められ、力づけられたように、悲しい思いや苦しく辛い思いをしている人にそっと寄り添い、包めるような物語や言葉を紡ぐ作家になりたいと夢を持ち、40年書き続ける事だけは止めずにいて、去年初めて対価を貰って書く仕事をして、夢を叶える一甫を踏み出したからこそ、「夢は叶う」と言える。
観ながらそんなことや色々な思いや感情が目まぐるしく交錯する、温かくて、傷ついた心と背中をそっと包んで押してくれるような笑いとしみじみと染み入り、他人同士が各々の夢を持ち寄って、夢見荘に集まった住人たちは、誰よりもあったかい家族だと感じる。
ノブを始め、さまざまな傷と思いを抱えて、夢を追う夢見荘の住人たちを、時に核心をつき、時に抱きしめ、温かい目で見守り包み込む、ノブを始め、さまざまな傷と思いを抱えて、夢を追う夢見荘の住人たちを、時に核心をつき、時に抱きしめ、温かく包み込む、須佐光昭さんのマーコさんみたいな大家さんの家に住みたくなった舞台だった。
. 文:麻美 雪
天草のマリア
飆
シアター風姿花伝(東京都)
2016/07/14 (木) ~ 2016/07/19 (火)公演終了
満足度★★★★★
飆プロデュース:『天草のマリア』
学生時代、誰もが習う天草四郎が率いた「島原一揆」。映画やドラマ、小説でも、10代の美少年として描かれ、今尚、天草四郎時貞については、謎も多く様々な噂や伝説が残る。
私事になるが、そのドラマチックな伝説と女のように美しいと評された、美少年ぶりだけでなく、クリスチャンで副牧師の資格を持つ父に、物心つく前から天地創造や聖書の言葉、神様の話などを聞かされて育ち、歩いて行ける圏内にあったカトリックの幼稚園に通い、小学校3年から、1、2年その幼稚園の毎週水曜日の夕方から聖書のお話を紐解いて行くという"水曜学校"というものに通っていた身としては、かねがね疑問に思っていたことがあった。
それは、愛を説いたイエスの教えを信仰している筈なのになぜ戦うのか。
異国の神様を信仰したと言うだけで、なぜ宗教弾圧を受けなければならなかったのか?なぜ、キリスト教徒だけが過酷な弾圧を受け、重税に苦しみ、餓えなければならなかったのか?そんな状況下にありながら尚、信仰を捨てなかった人々がいたのかということ。
彼らの信仰を支えていたものとは何だったのかという点からも、天草四郎と「島原一揆」には関心があった。
それはまた、聖戦という名であったり、宗教感の違いから、未だに戦争をしている国があり、一人の神を信仰しているのに、なぜ、その中から分派や異教徒が生まれ、解釈の違いから争いになるのかという疑問にも繋がる。
聖戦という名の戦争や違う宗教、宗派を進行しているというだけで弾圧され、愛と和を以て尊しとする神の教えを信仰している者同士がなぜ争うのかと子供の頃から疑問であり、その疑問は聖書を読んでも解決されず、この『天草のマリア』を観て、更にその事を深く考え、強く思った。
愛するものを守るために戦う、平和を手に入れる為に戦争をする。そのことの矛盾とジレンマを考えずにはいられない。
その矛盾とジレンマとそれでも尚、愛する者のため、差別も争いもない平和な国にする為、戦わざるを得ない者たちの葛藤と痛みが胸を刺すように伝わって来て描かれている素晴らしい舞台だった。
いろんな思うと考えが全身を駆け巡った舞台だった。
途中、ちょっと意地悪な無茶なアドリブを言っているさらみさんの目が、いたずらっ子のように輝いていたのが可笑しく、随所に散りばめられた笑いも良かった。
宗教戦争・農民一揆・浪人の反乱・様々な説が飛び交う島原天草一揆を、独自の解釈を交えて、アクションもあり、いろんな要素と思いがぎゅっと濃縮された素晴らしい舞台だった。
いつも、さらみさんの舞台を観るとぼろぼろ泣くが、今回も泣いた。
次は、印象に残った役者さんについて、今回書き切れなかった事を交えつつ、書かせて頂きます。
文:麻美 雪
ルドベルの両翼
おぼんろ
BASEMENT MONSTAR王子(東京都)
2016/06/28 (火) ~ 2016/07/06 (水)公演終了
満足度★★★★★
美しく、幸せな時間の流れる舞台
ほの暗い階段を下りきって、目の前に広がるのは、洞窟の胎内に抱かれたような、「サーカステントの夜」という言葉が、ふと頭を掠めるような空間。「ああ、おぼんろの空間だな」と思える世界。
「想像して下さい」
末原拓馬さんのこの言葉から、おぼんろの物語りはいつも紡がれ始める。
目を閉じて、拓馬さんの声に導かれるがままに瞼の裏に広がったのは、夜露に濡れてひんやりと湿った草が足の裏を擽り、仄かに金色を帯びた蒼白い月の光が天空から、まっすぐに私に伸びる夏の夜の森。
温かな月の光に包まれながら、目の前に、透明な銀色に菫の紫と夜の蒼を垂らして、マーブル模様にしたような美しい物語葉がゆらゆらと揺れ、梔子(くちなし)の甘い香りが微かに燻る(くゆる)風が頬を、髪を撫でて吹き過ぎる静かな夜の森に、1人佇む私の姿が浮かび上がる。
パチンとシャボン玉が弾けるようなクラップの音にそっと目を開けると、其処は<br>おぼんろの語り部たちが紡ぐ『ルドベルの両翼』の世界だった。
人と恋をし、神様の怒りに触れたルドベルは、両の翼をもがれ、痛みにのたうち回るその目の前で、恋人を八つ裂きにされ、重い世界を背負わされ後悔と永久に続く苦しみをも背負わされ続ける。
呪われた地ルドベルに生まれた民は貧しく、翼のない者が住み、地上は荒れ果て住むことが出来ず、無限に入り組む地下洞に住み、神に愛されたビルゴンドの地に住む翼を持った民は豊かに暮らし、ルドベルとビルゴンドの狭間の地は、様々な存在が生きたり、死んだりしている。
『ルドベルの両翼』は、ルドベルとビルゴンド、狭間の世界の物語。
「いつもとはひと味違うおぼんろの舞台」と末原拓馬さんが言っていた通り、おぼんろの色彩(いろ)でありながらも、いつもとは違う物語が紡がれていた。
おぼんろの、末原拓馬さんの描く物語りは、いつも切なく、胸に染み通る美しさと仄かな温かさを秘め、一見悲しく見える結末も、よくよく思い返せばある種のハッピーエンドと言えるものではないかという物語の結末なのだが、『ルドベルの両翼』は、清々しいまでに、ハッピーエンドなのが、いつものおぼんろとひと味違うところ。
高橋倫平さんのリンリが、純粋でお人好しで、かわいい。昨年の胸を引き裂くような孤独と悲しみを背負ったゴベリンドンとは180度違う印象で、いつもなら、拓馬さんが演じるタイプの役なのだが、そこもいつものおぼんろと違うところ。
ひたすらにタクムを信じ、ジュンジュを信じ、タクムを助けようとするリンリの純粋でまっすぐな人の好さが健気で、ほうっと温かく胸を打った。
さひがし ジュンペイさんのジュンジュも、『ゴベリンドン』のザビーとは、これまた180度違う、途中、ちょっとだけタクムを利用しようとする所もあるのだが、結局は、タクムを守ろうとし、いつもリンリを守ろうとする温かさがある。
わかばやし めぐみさんの水の民は、口ではきつく、厳しい事を言いつつも、何処かで、純粋でまっすぐで、嫌と言えないリンリを歯痒く思いながらも気にかけている、心のなかに優しさの欠片をちゃんと持っている。
藤井としもりさんのトシモルは、タクムの下僕と言いつつも、何処か兄のように、自分の身を犠牲にし、双子の兄の身代わりになってでも、兄を守ろうとするタクムを誰よりも思い守ろうとする姿に胸が熱くなる。
末原拓馬さんのタクムは、純粋でまっすぐなのは、リンリンと似ているのだけが、『ゴベリンドン』の切ないくらい天真爛漫なタクマと比べると、毅然とした大人っぽさのある無垢さを感じた。
人を愛したが故に、神の怒りを買い、両翼をもがれたルドベル、大切な兄を守ろうと自らの両翼を切り取ったタクムこそが、もしかしたら互いの半身だったのではないだろうかと思った。それは、鏡に映したもう1人の自分なのではなかったろうか。
なぜ、人を愛したことが神の怒りを買ったのだろうか?
カトリックの幼稚園に通っていた私は、神は愛を説いた人、愛を説き、奇跡を起こしたが故に、それを良しとしない者に迫害され、磔刑に処せられたというイメージがある。
ルドベルの両翼をもぎ取った神は、かつてイエスを磔にした神という名を騙った迫害者だったのではとすら思ってしまう。
人が人を愛することは尊い。
けれど、この頃思うのは、愛する者のために、自らの命を差し出し、自らの命を犠牲にするのが愛ではなくて、愛とは、愛するとは、何があっても、どんな状況であっても、心から愛する、心から大切に思う者と共に生きること、命尽きるその日まで、共に生き抜くことが、愛なのだと。
『ルドベルの両翼』を観ながら、いろんな思いが全身を駆け巡り、胸に去来し、思考と感情が凄い勢いで回転し、押し寄せて、泣いたり、笑ったり。
ぽろぽろと涙が溢れる場面はあるのだけれど、物語の結末がとても幸せで、「ああ、良かった~!」そう思えて、観終わった後に、温かな優しさと幸せな気持ちが胸に留まる、 美しく、幸せな物語が紡がれた舞台だった。
文:麻美 雪