鬼啖 公演情報 芸術集団れんこんきすた「鬼啖」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★★

    二人芝居という「対話」を通して紡がれ、浮き彫りにされて行く、人の、女の、業と情念、狂気と邂逅と悔過(けか)を描いた舞台。

     劇場の中に入ると、舞台の両側に客席が配され、真ん中に小石が散りばめられた土を模した布が敷かれ、左には、床には山道を思わせる野草と弦や蔦の様なものが這う壁、右には色とりどりの端切れを編んで作った縄のような物が行く筋も伸びた壁。
     
     幕が開き、目の前に現れたのは、真っ暗な闇にぼんやりと差す光に照らし出された、幾ばくかの野草が生える山道と山深い中にある村人に捕えられ、弱っていながら朝に夕に呪いの言葉を吐き続け、村人を恐怖に陥れている『鬼』の棲む洞。『鬼啖』の世界だった。

           【 あらすじ】

     遥か昔、とある村の裕福な村長の家に居た生まれつき心が澄み、慈悲の心篤く、聡明で、村人からとても慕われていた一人の若者を、ある日、村にやって来た鬼が殺し、喰ってしまう。

     村人は、若者の死を嘆き悲しみながらも、総出で鬼を捉え、縄で繋ぎ、山奥の洞に閉じ込めたが、鬼は叫び罵り村人たちを呪うと脅し、村人たちは鬼を恐れ、震え上がっていたある日、この村を通りかかった尼僧は、若者の居た家の村長から、鬼を改心させ、村人と自分たちを呪うのを辞めさせて欲しいと頼む。

     尼僧は、ひとり山道を上り、鬼が繋がれている洞に赴き、鬼に会い、幾日もかけて鬼に経を唱え聞かせ、ありがたい教えを丁寧に説き聞かせ、遂に鬼は大いに泣き、自らの過ちを悔い、改心し、邪悪な心を捨てた。

     あらすじだけを読むと、日本の昔話や神話、説話によくある話のように見える。けれど、事はそう簡単ではない。

     この舞台は、このあらすじを超えた所に真意があるように感じた。

     『桃太郎』然り、『天邪鬼』、『鬼子母神』然り、古来から、「鬼」は、常に無条件に「悪」として捉えられ、描かれて来た。悪なのだから、問答無用で退治してもいいものと看做されて来たようにさえ感じてしまう。

     『泣いた赤鬼』のように、心優しい、人と仲良くしたいと望む「鬼」が居るなどとは古来の人々は思いもしなかっただろう。

     それ故に、「鬼」は全て悪と看做されて、排除するべき存在、排除されてもよい存在とされて来たし、そのように描かれている物が多く流布され、悪=全て「鬼」の所為にされて来たように思う。

     中川朝子さんの「鬼」も、正に、村長と村人たちによって、最初は、そのように描かれている。

     故に、マリコさんの尼僧も「鬼」を悪と看做し、通り一遍に佛の教えを説き、折伏(悪人・悪法、威力を持ってくじき仏法に従わせること)しようとする。

     しかし、その言葉には実感が込もらず、「鬼」の心に寄り添っていない故に、「鬼」の心に響くことも、届くこともない。

     「鬼」を折伏する為には、自らの業や情念、狂気や悔過(自分の罪過を懺悔すること)を晒さなければならない。

     尼僧が、出家するに至った自らの過去の罪業と情念、己の中にその一瞬宿った狂気を「鬼」に吐露し、その悔過を直視し、受け入れた時、「鬼」の心に響き、動かし、「鬼」は、若者を殺し、喰らった事を後悔し、折伏され、「鬼」の魂を救い、愛おしい若者のいる彼岸へと旅立たせることが出来る。

     その尼僧の心と表情の変化を、現実にその場に潜み目の当たりにしているような、マリコさんの声音、目の表情、睫毛の翳り、指先の動きひとつにひとつに表れていて素晴らしかった。

     中川朝子さんの「鬼」は、何故、若者を殺し、喰らったのか、其処には切なくも哀しく、美しくも苛烈な想いがあった、その真実を知った時、確かにそれは、許される事ではないが、そうせざるを得なかったその心情を思う時、膚に喰い込み、引き裂かれ、血が滲むようなやり場のない「鬼」の心の痛みをこの身にまざまざと感じた。

     村長の言ったことも、村人の言ったことも、自分たちを守るために言った嘘。

     真実は、跡継ぎのいない村長が、縁の薄い親類から養子にもらった若者が伝染病にかかると、竹藪の小さな庵に押し込め、邪険に扱い、余所からやって来た女に、余所者だから病が感染って死んでも構わないとばかりに世話をさせながら、女を蔑み虐げ、若者だけが優しく女に接し、自らの命が助からない事を悟り、女に己を殺してくれと頼み、懊悩した末に、女は若者を愛するが故に殺し、死してなお若者と共にいたいが為に、その身体を喰らい、若者を見殺しにした村長と村人を恨み呪い、「鬼」になった。

     人を信じず、村長と村人を呪い、村長たちの言葉のみを信じ、折伏しようとする尼僧を受け入れなかった「鬼」が、自分の言葉に少しずつ耳を傾け、自ら真実を探り出し、自らの過去の罪業を悔過し、直視しし始めた尼僧の言葉に心を開き、やがて折伏され、やむを得ずとは言え、若者を殺し、その身を喰らったことを後悔し、静かに若者のいる彼岸へと旅立つ「鬼」の瞳と眼差しの表情、時に激しく、時に静かに発する声の変化、睫毛の動きのひとつひとつで、その変化を表現した中川朝子さんは素晴らしかった。

     鬼と尼は合わせ鏡で写し鏡。互いの中に鬼が棲み、生身の女が棲む。自分の中にあるその二つをも見据え、認めた時、鬼も尼も己を縛る縄を、楔を解く事ができるのではないだろうか。

     とても濃く、切なく、凄い舞台。男女問わず観て欲しいかったが、とりわけ女性には是非観て欲しいかった舞台だった。色んな感情と思いが胸に去来して、波に揉まれる小舟のように、呑み込まれ、浮き上がる感情と己の中に抱えた何かに翻弄され、その言葉、その台詞、その眼差しのひとつひとつが、膚に喰い込み、心を抉り、爪を立て、引き裂くような痛みが実感として膚に感じ、この舞台を観られて良かったと思える舞台だった。

                     文:麻美 雪

    0

    2017/04/12 11:40

    0

    0

このページのQRコードです。

拡大