ぼくらが非情の大河をくだる時—新宿薔薇戦争— 公演情報 中屋敷リーディングドラマ「ぼくらが非情の大河をくだる時—新宿薔薇戦争—」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★★

     今年は、いつになく説明するのが難しい舞台を観ることが続いている。

     この『僕らが非情の大河をくだる時―新宿薔薇戦争―』も、説明するのが難しい。

     幕が上がると舞台には、孤独に忘れられたようにぽつんと両側に男性用便器が並び真ん中に洋式便座が据えられ、床や便器、便座の周りには紅い薔薇の花弁が散り敷かれて、ヘッドライトに照らされた都内の公衆便所。

     同性愛の男たちが集まる奇怪な深夜のその公衆便所を舞台に、「満開の桜の木の下には一ぱいの死体が埋っている。深夜の公衆便所の下にも一ぱいの死体が埋まっている…」という妄想を信じた、虚空の幻想を抱く詩人と詩人が入る為に作られた白木の棺桶を担いで、詩人の後を追う父と兄の姿が、幻想と残酷の間(あわい)で、圧倒される熱量で紡がれる言葉とリズムで描かれる朗読劇。

     始まって暫くは、不条理劇のようないわく言い難い雰囲気が舞台に流れる。

     1時間の朗読劇なのに、冒頭から頭と感情がフル稼働、フル回転しても尚、現実とも幻想ともつかない狭間の時間と空間に迷い込んで閉まったような、息苦しいような緊張感とその場に居て、物陰に身を潜めて目の前で目撃しているような妙に生々しい臨場感の中に身を置いているような不思議な感覚に気づけば、惹き込まれ時を忘れ、息を殺し、目を凝らして観ていた。

     訳ありの詩人の兄と訳ありの家族。

     舞台が始まる前に客席に流れていた日本の70年代の歌謡曲から、時代背景を類推し、フライヤーに入っていた当時の劇評を読み、何となくこうではないかとあたりを付けていた事通りらしいと腑に落ちる。

     70年代と言えば、今でも過去の事件の特集などで必ず取り上げられる連合赤軍や連合赤軍による人質事件の『あさま山荘事件』があった年。

     かつて革命運動のリーダーだった詩人の兄、その厳しい運動の中で気が狂ってしまった弟の詩人、ひたすら平穏な日常に憧れる父の激しいドラマが展開しているのがこの舞台だと。

     舞台は、ト書き読む役者と詩人と詩人の父と兄を演じる4人の役者のみで紡がれてゆく。

     唐橋充さんの父は、長男のように革命運動には無縁に、兄に見捨てられたくない一心で、兄と運動に参加し、元来持っていた優しい心故に、耐えきれず気を狂わせた弟の詩人とも違う、薔薇を育てながらただひたすらに平穏平凡に暮らし事だけを望んでいる父。

     気の狂ってしまった息子の詩人の後を追い、毎日走り回ることに心底疲れ果て、弱さ故に息子を殺すことで耐えきれない苦痛、心労から逃れようとする無自覚に何処か狂い始めているのではなかったか。

     安里勇哉さんの兄は、弟の幻想の中にいる「強くたくましいおにいちゃん」でい続けるために、弟の混沌に寄り添い続けている兄。

     父とは違い、自分の中の弱さを自覚し、それ故に、かつて自分の運動に巻き込み、狂ってしまった弟に罪悪感と後悔を感じ、繰り返される不毛な毎日に倦み疲れても、弟を見捨てることも見離すことも出来ず、毎日弟の後を追い、理想の中にいる「強くてたくましい」兄を演じ続ける事の痛みと苦しみが膚を突き刺すように迫って来た。

     多和田秀弥さんの詩人の「にいさん、ぼくは気狂いじゃない。にいさん、ぼくを見捨てないで。」叫びが、痛くて切なくて今でも耳の底で響いている。

     「強くてたくましい」大好きな兄に見捨てられたくない一心で、兄と共に投じた運動の厳しさに耐えきれずその心を狂わして尚、兄を求め、見捨てないでと叫ぶ弟の詩人の胸の中に去来し、頭に響き続ける声は何だったのだろう。

     反目し合う父と詩人ではあるが、根本の性質はもしかすると同一若しくは近似していたのではなかったのか。だからこそ、互いの中に互いの姿を認めて反目し合うのではなかったか。

     詩人もまた、ただひたすらに平穏に普通に生きたかったのではなかったろうか。「強くたくましい」兄に見守られ、悲しみに心傷つけることなく、兄がいて父がいて、大きな波に弄ばれることも飲まれることも無く、可もなく不可もない、過不足のない当たり前の日々。

     それこそが、潜在意識の中で詩人が本当に求めたものではなかったかと思えてならない。

     詩人の叫びが、浮かび上がらせた白昼夢のような幻想は、やがて非情な現実となって行き、その果てに行き着いたものとは何だったのか。

     本当は、詩人は狂ってなど居なくて、非常な現実から隔離するために、兄と父によって、狂っていると思い込まされて頂けなのではないか。詩人の余りにも無垢で傷ついたら最後、それは、詩人の魂ごと命を殺してしまう事から守る為に狂っていると思い込まようとした兄の一世一代の芝居のようにすら思えても来る。

     見終わっても尚、考え続けている、濃厚で濃密な舞台だった。


                     文:麻美 雪

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    2017/03/20 21:52

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