tottoryの観てきた!クチコミ一覧

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三億円事件

三億円事件

ウォーキング・スタッフ

シアター711(東京都)

2016/09/03 (土) ~ 2016/09/11 (日)公演終了

満足度★★★★

大事件の背景の中で
男だけの芝居。同作者の「東京裁判」「外交官」も同様だ。
男が「大状況」の中でヒロイックに振る舞い、格好良くその舞台上で凝縮された人生を謳歌する、そうしたものへの単純な憧れは、憧れ以上ではない気がする。フィクションの中だけ・・そう思う。
 もちろん「出来すぎ」なドラマが書かれている訳ではないが、大づかみに括れば、その範疇だ。既視感がある。・・対抗できもしない米軍相手に(その相手の顔は見えない所で)鼻息荒く、ちょっと粋な啖呵を切って見せるが所詮負け犬の遠吠えに等しい、単細胞をサンプルで見せる戦争物や事件物の映画に登場するそんなやつらが、ふと過ぎる。
 この憧憬の的をフィクションとして楽しめる向きには、娯楽として成立するだろうし、三億円事件の史実については、作家は誠実に書き込んでいて、知的欲求を満たす部分もある。
 ただ、事件の「犯人追及」を本線とするなら、脇に当たる部分についての言及、時世に絡めての議論が、「犯人を追う」動機とは離れてなされていて、その時間が少々長く、結局進展しない捜査の「倦怠」が表現されているのか、意地は捨てていないプロジェクトXな男たちのドラマが表現されているのか。状況からして前者であるし、捜査状況の内容からして後者のポーズはとりづらいはず。そうならないための「事件」をめぐる言辞によって、辛うじてプロジェクトXが成立しているが内実はどうか・・・疑問が湧いてくるという感じだ。
 あの事件に立ち向かった人々・・・という「雰囲気」は伝わったが、実際リアルな実情としてはどうだったのか・・・男が格好付ける分だけ、その情報が希薄になるという関係があるように思う。リアルに描く・・・その必要はない、と開き直ってもよいのだが、それでは大きな史実のドラマ性に寄りかかっただけではないか。史実に批判的に切り込む、その視点が、見えるようで見えなかった。
俳優では、美味しい演技を見せる方、存在感ある方。悪くなかったが・・・

月の海

月の海

日穏-bion-

「劇」小劇場(東京都)

2016/08/31 (水) ~ 2016/09/04 (日)公演終了

満足度★★★★

ほろっと家族、ふわっと人情、な芝居
素朴な人情劇、家族の物語には、実は大きな事件が起きる。家出だとか、行方不明だった兄が帰って来るとか、万引きしたとか。時には幽霊が出て来たりする。大事件である。離婚や不登校でも大きい事件と言えば大きい。ただし「殺人」は出てこない。
で、大きな事件を大事件とは感じさせず、人情話へと変換されるのがこの手の芝居だ。
さて今回は空き巣に入った男が逃げ遅れ、家主(父は他界、母は認知症で老人ホーム転居間近の長女)に数年前失った弟と間違えられて住み着く、という大ごとである。
弟は出来がよく、部屋には賞状が貼られてあり、理系の道に進みロケットの部品を開発する会社に勤めていたが、海難事故で亡くなるという悲劇があった。「遺体を見ていないから(母は)息子が死んだ事を認められない、豊(弟の名)に会わせろ、隠すなと自分を責める」と長女が台詞で説明するくだりがある。弟と姉に対する、母の扱いの違いが推測される。
この伏線から、最後のオチに向かうまでの間、脇役たちのストーリーも絡めて笑い、男気の感動シーンも盛り込まれ、うまい。
ただ、語りたいのは本筋だ。
大きな伏線が回収される一つが、弟に顔だけよく似た男が「演じる」内に妙な関心が湧いて来たり、情が湧いたり、母にも喜ばれる体験がどう実を結ぶか。彼の偽装生活は(それは家族の側の要請で成立した事でもあったが)過去を知る者の出現で暴露され、自身も開き直ってぶちまける。それを否定するのはむしろ長女だ。この男の「変化」が、ラストまでに訪れる。
もう一つは介護疲れした長女のこと。中でも母に認められない辛さ。これについては出来すぎたラストのオチが待っている。
演技はオーソドックスで捻りは無いが笑いは押さえていた。私としてはそれらの「笑い」が、「物語」に先行するのは好まず、息抜きの笑いよりは物語をしっかり見せてほしいと思ってしまう。つまりは、本筋だ。
その中心は、やはり長女の「苦悩」である。実はこの部分、作家は謎解きをうまく後に回して引きつけるが、結論的には長女と母の「関係」の問題が解消するというものだ。「面と向かって伝えられない」母がある手段(認知症がひどくなる前、一年前に仕込んだ)によって、時間差でメッセージを長女に伝える、それで長女は涙し、ある納得を得るという結末だ。
 私としては、これは母が亡くなった後だからどうとでも解釈できる、死者との関係という範疇になり、今現在現実に認知症と向き合う苦しみのさなかに、見出した光ではない、という部分にやや淋しさを覚えてしまう。長女が受身なままで母からの愛を、本当はあった愛を今になって確認し、その事で能動的な人生へと転換して行く事になるのだとしたら、「出し渋った」母こそ悪、罪にも思えてくる。その「苦悩」というものをただ一般的な範囲で説明されても中々、それ以上は行かない。苦悩の薄さが、極上のラストに値しないと感じさせる。
耐えられる程度の辛さは「自己責任」で耐えられるが、本当に目を向けなきゃならないのはそれしきでは解決しない問題を抱えている人達だろう・・そう思えてくる。シンパシーを抱けないのではないが、、
 この芝居では、母が奥の間に居るため、修羅場は見えない。具体的なやり取りとしても十分に語られておらず、「介護の問題」として観る者の一般認識から引き出すことで成り立っている、その分弱いというのもある。
物事は、解決して行くものである・・・その事への信頼のほうが大切である、との信条がたとえあっても、現実を描くなら「物事」のリアルな断面を見せつつ、その解決に向かわせる事でなければダメではないか、、。厳しすぎるかも知れないが、(長女の)「切実さ」のありかをもっと見たかった、という事である。
俳優の演技は安定していたが、プロデュース公演の香りがしてしまうのは何故だろう・・そんな事も思いながら見ていた。

『水はけのよい土地』

『水はけのよい土地』

無隣館若手自主企画vol.13 早坂・福嶋企画

アトリエ春風舎(東京都)

2016/09/09 (金) ~ 2016/09/12 (月)公演終了

満足度★★★★

台風の時に思い出す水はけ
以前水はけの悪い・・というか水がよく上がる土地に住んでいた。台風の季節になって天気予報に「台」の字が出ると、「あ(面倒だ・・)」、と思い出す。
 この芝居は「水はけの悪い土地」の話だ。悪い場所から、良い土地のことを思い描く。女二人、男二人の二組の交わらない物語が最後に「場所」で繋がることで閉じられる。女の過去、暗い出来事の起きた場所=空き家も、水はけの悪い(不人気な)土地柄に連想が繋がり、ブラックバイトの典型であるコンビ二も然りだ。なおコンビ二のある場所が「水はけが悪い」事実が、その夜来た台風の話題から派生して言及される。が、それだけだ。
 二つの物語が接点を持つラスト・・・ただ通過する一瞬の光景に過ぎない可能性の方が大きいが、この瞬間に幕を下ろす事で、「未来」が開かれたように感じる。水はけのよい未来への時間が。
無隣館若手との事で「期待感」を抑えて観劇したが、役者も含めて思いの外出来がよい。 女の「罪意識」が、相手との遭遇によって解消する事にならない・・・時のほうが先へと進んで行く、この視線が印象的だ。

荒野のリア

荒野のリア

ティーファクトリー

吉祥寺シアター(東京都)

2016/09/14 (水) ~ 2016/09/19 (月)公演終了

満足度★★★★

麿赤兒=リア on 荒野
再演という。男優のみによる「リア」。Tファクトリー(川村毅作品)を初観劇である(箱庭円舞曲と迷ったがこちらをとった)。
三幕一場以降を独自に再構成したという事で、話をうろ覚え(かつ冒頭15分が見れず)では、人物の判別能わず、人名を聞いても役回りをを思い出せず、「物語」は追えなかった。
かの川村氏が古典をやるんである。その演出や如何。
麿氏は舞踏家であった。それが見える場面もありつつ、全体に狂気のリアを演ずる。正に荒野がその舞台であり、襤褸をまとって咆哮しながら彷徨するリアが柱だ。舞台は終始「荒野」の様相である。ある場面、まだらに地面を照らすくすんだ赤(紫・鶏頭だか紫蘇の色)が、濃い灰色の地面に投げかけられ、役者は色彩のくっきりした輪郭で登場して明確に動く。正面に幅広・縦にも長い布が下がり、時に映像が映し出され、時にまくり上げられ丸い曲面が上方に垂れ込める。
初演とは俳優が(一部)変わっているようで、それが今回どうなのかは判らないが、役者の「個性」による判別が、付きづらいと感じたのは、「感情」で演じていないせいだと思われる。
(俳優もその一部として)演出と一体化した「舞台」を見せる、その中でも大きな要素は音響。場変わりなどの要所で「音」が鳴るが、大音量を澄んだ音でカバーしている。音のクリアさは通常の(大型の舞台も含めて)芝居には無い質の高いものだった。
加えて映像の存在感も大きく、映像の選択に大きな比重があるようである。

俯瞰して、「変わった」舞台である事は確かである。
タイトルでもある「荒野」のモチーフは巧く表現されていた。
ただ如何せん、「リア」の元を知らないでは、構成の「妙」までは理解できない。今作の趣向の片面はそこにありそうで、玄人向けと言えようか。(作り手はこういう言われ方を嫌うだろうけれど)

明るい家族、楽しいプロレス!

明るい家族、楽しいプロレス!

小松台東

駅前劇場(東京都)

2016/09/06 (火) ~ 2016/09/11 (日)公演終了

満足度★★★★

演劇型格闘技=プロレスの懐
だいぶ前、プロレス業界の裏側的な芝居を見て不意を突かれた。泣けるポイントは「裏事情」や人間ドラマ以上に、リング上の姿じたいにあった。出来レースであるのに何故か見る者をある興奮へと誘うプロレス。まるで新派の出来すぎた人情劇に涙し、でもって心の内で筋書きを先んじてなぞっていたりする、あれと同じく、プロレスを見る者も闘いの「型」を追っている。レスラーはリング上で「それ」を演じるのだ。 自分は全くプロレスを見ない口だったがその芝居にはぐっと来た。
 今回もプロレスが出てくる。よけられるのにわざと技を受けている、そうじゃない、技をよけるのは格好悪い、強いから、よけなくても平気なんだ・・・そんな台詞が、少年のプロレスへの熱狂を裏打ちする。
 さて小松台東は二度目(松本氏脚本は4度ほど)。前回の三鷹公演の緻密な作りに比して今回は砕けたテイストだったが、私は前回のリアリズムが好みである。ドラマとしては主人公の少年に「昭和」を感じさせ、古きよき時代の香を嗅がされる感じがあるが、この種の「懐かしさ」は持って行き場がなく、大切な物を入れる木箱に収めるキレイなまとめ方が似合うのでは。・・「現在」への切り込みが薄い(と私は感じたが)分、「懐古」に比重が傾けばそれに見合う処理があったか・・・そんな感想も。
 役者の跳躍もあるドタバタの書き込まれた脚本で、楽しめたし美味しいネタ(プロレス)ではあった。

この町に手紙は来ない

この町に手紙は来ない

monophonic orchestra

3331 Arts Chiyoda(東京都)

2016/09/02 (金) ~ 2016/09/07 (水)公演終了

満足度★★★★

無印な色彩。
終わってみると正面の白い壁、間接照明(中央左寄りの窓など)、シックなテーブルと椅子、衣裳も比較的そう・・原色系が抑えられている。この無印良品なトーンが芝居の気分とともに記憶に残った。
 「場」は同一、時代を変えて6つのエピソードが5人の俳優によって演じられる。郵便局、それを世襲で受け継いで行く末裔たち。一族=何らかの「呪縛」という通低が、後半に見えてくる(執筆中に後付けの感も)。
 他の通低項として「無印トーン」、また上手側の壁の額縁の数字が、エピソードごとに変わる(俳優がフックに掛け替える)仕組みも。開演前は234とあり、エピソード1で278、次いで230、180・・とよく判らない意味は後半明らかになる(これも後付けの感有り、というのは5話,6話が近接していて、飛躍させない意味が不明、これありきで書かれてないな、と)。
 しかし6つのエピソードはそれぞれ、同じ場所にもかかわらず、時代を違えただけでなく、しかも「一族」の縛りがありながら、全く色彩の異なるエピソードが並べられている。そしてそれぞれに、何かが示唆されているという含みがある。 説明台詞の少ない、程よく省略の効いた、静寂を基調に時折熱のある対話が花咲く芝居。抽象的である分、物語としての「謎解き」の段で出てくる古い手紙、昔納屋で起きた事実についての証言はいま一つ謎解き効果を発揮せず仄めかしに終わる。ビッグストーリーより、個々のシーンの、ただただ断片でしかない瞬間の彫りの深さ、美しさがこの芝居の強調点だ、と思う。
 何より、役者が達者である。全役者はほぼ均等に4,5役をやるが、役の勘所を押さえて気持ちが良い。
 作者自身がどういう自覚で執筆したかは不明だが、人間や社会(また現在の日本)への痛烈な批評と感じられる台詞・対話が、時おり顔を出す。優れて周到な攻めで上手出し投げを決めたかのような。
 「示唆」の鮮度と頻度が増せば、完全に私好みの芝居になるかも知れない(そうはならないだろうが)。
 monophonic二度目の感想は、無駄をそぎ落とした(落とし過ぎ?)台詞の洗練。若き表現者の「この先」を気にしていよう。

其処馬鹿と泣く

其処馬鹿と泣く

はえぎわ

イマジンスタジオ(東京都)

2016/08/27 (土) ~ 2016/09/07 (水)公演終了

満足度★★★★

そこはかとなくニッポン放送
オールナイトニッポンのテーマ曲(Bittersweet samba?)が幽かに流れる開演前。正面の横広ガラスの向こうを歩く通行人、下手壁側の白色照明、上手どん詰まりの防音扉(恐らく)からの出ハケなど、ニッポン放送内のイマジンスタジオを使って芝居をしているが、「黒」をあしらっていないせいか、別用途の場所を借景したかのよう。だが、大いに活用していた印象だ。
 二人の客演者の一人、宮崎吐夢が終演後一人残って喋り芸披露、「お詫びの印にせめて芸能人を見て帰ってネ」と締めていた。
 一方、退場する客の反応は、卑下する程かな、というもの。役者たちとの雑談の輪がそこここに出来て流れが悪いが、劇団員の外仕事が続くなか久々に「劇団公演」をやれば駆けつける人たちがいる。劇団の歩んだ長さだけ築いた人脈を見た気がした(勝手な推測だが・・)。
 「趣向」の数々にノゾエ氏の才が窺えるが、急ごしらえな感も。シーンとその繋ぎ合せのアイデアを連ね、何らかの落ち着きどころを見出した。・・ロードムービーならぬロードシアターの味は、役者個人の技量に比重あり。演劇は何と言っても時間をかけた分だけ濃密さが生まれ、つまり舞台上にもう一つの世界が(よりリアルな空気感をもって)生み出される、その快楽は演劇の大きな要素でもある、と思う。今回のはえぎわ公演も、より濃密さを醸成する余地が残っていたと感じた。

 飛びぬけたイケメンも美女も居ない(失礼)はえぎわの、公演観劇は過去1度のみ、川上友里を客演で三度ばかり、他の俳優も客演で何度か拝見した。
 が、劇団はえぎわの正体、輪郭、未だ知らず。

ネタバレBOX

芝居の中身だが、白痴を連想させるあどけなさを宿す女(川上友里)が、「無力」ゆえの力を発揮する。「まるでロミオとジュリエットのような」恋の相手(清水優)を見出した彼女の危うさと痛快さが良い。男との出会いのアイテムである自転車は他人の物であり、これを「返す」という行動に出たことで、その家族に負い目を負ってしまう。愛を貫こうとする意志と、負い目との葛藤の中で、彼女が通俗的な次元の悩みに絡めとられて行くあたり、残念な感じが漂い始める。
 自分が関わった事である人が死に、その義理で恋を諦めねばならない、と一度はなるが、次のシーンでは「諦めない」に重心を移し、あとはどう(精神的にでなく物理的に)脱出するか、という展開になる。
 彼女の「心」の障害がなくなった時点でこの話は解決に向かう訳だが、これでは終われない・・と作者はサイドストーリー(というかメインストーリーをメタ化する筋)を加え、さらに「これだけはやっちゃいけない」と自ら認める(台詞でも言う)オチで、話は終わる。
 後半の詰め切れなさに残念さがあり、恐らく「時間切れ」だったのだろうと想像された。
 しかし、にもかかわらず一応の形に仕上げた才をこそ、評価すべきか・・・
娼年

娼年

ホリプロ

東京芸術劇場 プレイハウス(東京都)

2016/08/26 (金) ~ 2016/09/04 (日)公演終了

満足度★★★★

猥らに熱くはじけ散る女体たち・・・純正三浦大輔の舞台。
チケット発売早々、二次市場でしか買えなくなった口。キャストをみると松坂桃李・高岡早紀・佐津川愛理・・そうなると、ああなるのか・・。こたびは裏調達せず当日券狙い、平日昼間のせいか、40名程度、特段アナウンスは無かったので、全員入ったのだろう。
比較的安価な立見席がそこそこ残っており、脇の中ほど、観劇にも支障はなかった。
 休憩15分挟んだ3時間が長くない。セックス三昧である。何よりその描写はリアルで、緊張のため体がしびれてくる(結果脳がぼんやりし、酷寒の山中での睡魔のように眠くなる、なんて人も居たかも知れない)。

 三浦大輔主宰のポツドールの名は「ニセ・S高原から」なる企画(平田オリザ作「S高原から」を4団体で競演する)で知った。・・という事はセックスレスの芝居もやる訳だ。。 が過去に見た三浦氏の劇団公演2作、外部演出作品3作で、交合シーンの無い芝居は1作のみ。その1作も、中心となる女性が「人間」として裸にされ、衣服を剥いだ時の体臭を嗅いだかのような印象が残っている。
 『禁断の裸体』では寺島しのぶが脱ぎ、今回は脱ぐ女優の「数」に眩暈を覚えるが、見どころはそれぞれのセック ス描写のリアルさ、にある。
 三浦氏が演出する男女間の心の動き、中でも性衝動に結びつく瞬間の描写は緻密で、唸らせる(何度か見ると三浦風味というべき趣があるが、それは演劇の制約との兼ね合いから生まれたものかも)。
 三浦氏の芝居は演技がナチュラルであるから必然的に全体がこまやかで濃密になる。性行為に関しては、物語上の必要最小限というものがあり、赤裸々には見せるが、ご愛嬌と受け止めればで笑えもする。
ところが『娼年』では、どのセックスも省略の技を使わず「行為」の始まりから終わりまでなぞる。姿態の移りゆきから声の変化までが自然で起伏があり、つまり「物語」がある。・・毎度ながら処理はうまい。女性はパンティ、男もパンツを脱ぐがうまく客席の視界をかわしつつ臨場感を失わせない。「行為」のパターンも多様だ。ともかくこの物語にとって、「娼夫」となった学生・森中領がいかに女性の抱える「核」に触れ得たかが重要であるため、その触れる手段である所の行為のディテイルは省けないのである。
 互いの身体への距離感が縮まる瞬間、それは女性が欲求を自ら解放する瞬間、自己肯定へと踏み出す瞬間だ。このとき彼女らは神々しい。その根底に切実な何かが見えるからだろう。オーガズムは女性にとっての勝利。 この儀式の媒体である領が、彼女らの存在をそのままに受け入れる器となり、またテクニック(又は名器)を持つゆえ女性を昇天させるが、彼もまた「一緒に行く」(あるいは行かなくとも寄り添う)のだ。
 冒頭、領が母親と最後に別れた日のシーンがシルエットで描かれる。年上の女性の心に寄り添う事のできる二十歳の青年。幼い頃に別れた母親の影を追う彼の淋しげな背中が、女性たちの「物語」を投影する映写幕であるような・・そんな具合だろうか。

 冷静になれば、快楽を欲する「疼き」を正当化する「物語」としての、出会いの空虚さを思いもする。経済的余裕のある(経済的な悩みから開放された)女性にしか、取りつかない「病い」、否、「業」というものを見る。だが「時間」の芸術である演劇もまた、瞬間の快楽を追い求めてやまない人間の欲求に応えるものだったりする、かも知れない。

 領が印象的な出会いを果たした女性とのシーンは最後にやってくる。そこに至る領=娼年の「物語」は存在するが、それに増して、全ての「行為」における手足の動き一つや息遣いの中に刻み込まれた「物語」に、圧倒された『娼年』であった事は確かである。
 もっとも、3時間という「一瞬」が過ぎ去った後、(「行為」と同じく)感動と名の付くものは残らない。脳の一部が焼け、ただれた感覚が心地よい。

追憶のタキシーダンサー

追憶のタキシーダンサー

劇団ドガドガプラス

浅草東洋館(浅草フランス座演芸場)(東京都)

2016/08/19 (金) ~ 2016/08/29 (月)公演終了

満足度★★★★

浅草にこの舞台ありき
前作に続き、二度目のドガドガ+を観劇できた。楽しみであった。
 ストーリーのある芝居ではあるのだが、必ずある歌と踊り、お色気が、この伝統ある歓楽街の一角で過去何人もがそれを味わっただろう、その場所もろとも立ち上がるような錯覚に陥る。
 時折登場して「くさい・・」とスプレーを撒く白髪オヤジ(望月六郎)の挙動が意味深。これは過去ではない、「未来のにおいだ」と吐く。
 時代は昭和15年。きな臭い時代の、目一杯エロ目線で射抜いた男女(または女と女)の物語。(性)愛に生きる事の生き物としてのまっすぐさが、肌で感じられるのは、華美な演出に紛れがちであるが俳優たちの体を張った仕事からだろう。
10周年ゲストとして隈本吉成(二兎社「時の置物」以来)、もう婆役をやる年齢か、<?>一点の石井ひとみも好感。

 この舞台は浅草ならではの作りだが、周りを見渡せば実はオリジナルな存在かも知れない。他には無い客層も味わいの一つ。浅草演芸ホールを横目に東洋館に足を踏み入れるのも独特な気分である。

余白狂想曲

余白狂想曲

タテヨコ企画

OFF OFFシアター(東京都)

2016/08/24 (水) ~ 2016/08/28 (日)公演終了

満足度★★★★

台詞台詞台詞。
タテヨコ3度目、リクウズ2作目。
野田秀樹「風」ではないが、「ばり」の、台詞の途切れないリレーが、感情の追っつかなさを顧みず続けられる、テンポとシュールさが良い。
台詞には十分遊びをこめているが、しかし通常の対話が軸で、言葉遊びが真実(実在)に転換したりする野田とは異なる。
話は遺産相続をめぐる醜い争い・・というよくある話だが、外郭に位置する人物たちがまたそれぞれシュール。最後に登場する公証人などはじじいの役を女性がやっている。

ただ、ストーリーは現実的に進んでおり、後半ややリアルさに欠く部分は勿体ない。意表を突くストーリー重視なので、変えようは無いだろうが・・。
遺産や遺言を巡る話なので、現行の法律が登場する。最大の転換点は、長女が二つの遺言書を破棄する場面。
・・死んだ父が自宅に残した遺言の他に、公証人に預けた遺言(あやしい)が出て来る。その他、父がよそで作った子ども(成人した女性)の登場、死を見取った家政婦による「内縁の妻」証言と、混迷がきわまる。このとき、長女がぶち切れてテーブルに置かれた二つの遺言をズタズタに破いてしまう。
スッとする場面ではあったが、ここで弁護士に「遺言書を破棄した者は相続の資格を失う」との条文を読み上げられてしまう。
 多分「既に内容を確認済みの遺言」を感情にまかせて破いてしまった、程度でこの条文は適用にはならない。長女がショックを受けてしまうのもちょっと。これを見て妹が(夫の意に反して)遺産放棄してしまう必然性も見えにくい。そして、この顛末が、親族を除く全員の共謀で為されていた、というオチも、その延長で「リアル」さを欠いた。

 従って、「長女の悲劇」以降のくだりをあまり深刻な作りにせず、「そんな事もあり得る」程度に、飄々と終えてくれれば、ちょっと辛子の効いたブラックユーモアに収まったのではないか。
 とにかく台詞の応酬にうまみのある芝居、最後までシュール路線で突っ走ってみてもよかった。

窓

ハイリンド

【閉館】SPACE 梟門(東京都)

2016/08/23 (火) ~ 2016/08/31 (水)公演終了

満足度★★★★

早船+ハイリンド 1シチュエーション=職場。
女優枝元萌をしばしば目にしているので一度は観た気でいてhylindだが、初だった。舞台を見ると「固有名詞」としての劇団の個性があり、枝元の持ちキャラ全開はホームグラウンドの証か・・とみえた。
作者・早船氏の劇団サスペンデッズは、戯曲と俳優のレベルの高い劇団を見出す喜びをくれた一つだ。演劇界の裾野へと劇団渉猟を始めた、数年前の事。
今回は一つの場(あるスポーツ用品の会社の中で狭い)で展開する登場人物5人によるストレートプレイで、時系列にドラマが進行し、歌とか踊りや回想もなく、全て会話で話が展開する。今時珍しいかも知れない・・とふと思ったが、その意味で素朴な、というか普通の、役者による、役者のための芝居。
達者な役者揃いだったが、hylindの2名が終盤、人物の本音に触るやりとりを畳みかけて芝居を「深み」に誘う、この力技が目を引いた。
終わってみればウェルメイドなコメディテイストの芝居だったが、役者が役を気持ちよく演じる姿は気持ちがいい。
(1h30m)

KYOKAI 心の38度線

KYOKAI 心の38度線

劇団 東京芸術座

東京芸術劇場 シアターウエスト(東京都)

2016/08/18 (木) ~ 2016/08/22 (月)公演終了

満足度★★★★

境界、教会、そして、、
自身なら「巨魁」と言ったかも・・ このドラマのモデルとなった崔昌華という在日一世(故人)は、その足跡や彼に関する証言をみるに、シンプルで力強い権利意識、凡人の五歩先を行く背中、が思い浮かぶ。彼に前を横切られた者は、風に頬を打たれ、その風に「君はどう?」と言われたように思うのではないか。
氏の娘であるピアニスト崔善愛が音楽監修、生演奏もあり。初日挨拶では、この舞台作品を自分のものとして愛しているようであった。

氏の「運動」に捧げる人生の発端として、寸又峡の旅館に立てこもった金喜老事件が取り上げられ、これが前半の軸。その後の指紋押捺拒否や、娘の再入国不許可事件などは芝居では端折られていた。
後半の軸である訴訟(NHK相手の名前裁判)では明快な主張を展開する。しかし史実としてはこの裁判は敗訴した。

山谷典子の本は、少々台詞が硬かったり、逆に柔らかでなくて良いと感じる部分もあり、実際に俳優が本読みを始めた段階でも稽古に参加し、推敲し直すという作業を一工程設けても良かったのではないか。ただし以前酷評した本に比べ、一本筋の通った戯曲になっていると感じた。

舞台装置は「考え」の跡が見えたがもう一つでなかったか・・。リアルでなく象徴的装置だが、にしては具象に見えてしまう階段三つ、想像力の働く余地の面、また機能面でも、違う形を考えたい・・という欲求にかられた。(もっとも専門外なのでこの戯曲にこの装置あり、やも知れないが・・)
俳優が一番大変そうで、細部に宿る神をないがしろにしてしまった・・と見える場面も幾つか。
いずれも初日を見ての感想。「作り」の面では1ステージごと、には無理でも楽日にはどうなっているか、観たいが観れない。

この作品を数ステージで終えるのは惜しい。題材に鑑み、より熟成させ再演を希望である。

7 -2016 ver.-

7 -2016 ver.-

studio salt

神奈川県立青少年センター(神奈川県)

2016/08/17 (水) ~ 2016/08/21 (日)公演終了

満足度★★★

ストレートプレイ+α
芝居塾、主に若者の参加で成る「参加型」の企画では、「完成」が形として見えるダンスや歌が中心にあるのが熱が入りやすい。今回はストレートプレイで「演技」の課題に若者らは挑戦した格好だが、「音楽」としては彼らはオープニングと芝居の途中、そしてラストにストンプ風の「演奏」をやる。掃除道具などの物を集団で鳴らす「音」は、この芝居が犬猫の殺処分を行う保健所(今は別の呼称だろうけど)を舞台に、(対動物に限らず)人間のエゴ、身勝手さを声を荒げず描出する内容なのに呼応して、言葉にならない心情を「音」に乗せ、力強かった。
問題の、若者たちだが、拙さは当然見え隠れするが、巧まず滲み出るキャラや表現がその分をカバーして余りある、かどうかは別にして、このストレートプレイに貢献していた。
80分。

ネタバレBOX

一考したいのは檻の中の犬たちのやり取り、舞台全体の中での処理。奥の檻と、手前の職員控え室の関係・・・手前でのやり取りをじっと見ている犬たち、という描写があったが、二つの空間の関係というか、意味合いをあともう一歩踏み込んで整理し、役者はそれを飲み込んでさらに能動的に生き生きと演じる・・・という具合に行きたかったな、と。こないだ檻に入れられて泣いていた新顔の犬が、次の場面では明日には殺される位置に座っていたりする、などの工夫は良いが、犬の感情のグラデーションの細かさがもう一歩で、単調なイメージを出ない部分もあった。擬人化した結果、人間の感情が強くなり、「動物」らしさ(達観?)を少し書き込んでも良い気がした。
イヌの日

イヌの日

ゴーチ・ブラザーズ

ザ・スズナリ(東京都)

2016/08/10 (水) ~ 2016/08/21 (日)公演終了

満足度★★★★

穴ぐらで見る夢
やっぱしスズナリだな・・。三つの場面の大部分を占める薄暗い地下空間として見せる舞台空間の、猥雑で、陰影が深く奥行き感のある美術の出来は、スズナリならではと思う。
風変わりな設定(をもたらしている奇異なるストーリー)、変人揃いの登場人物。
リアルに想像すれば身震いしそうな「じめじめ」な場所での、あっけらかんと突き抜けた(というかネジが一本抜けた)奴らと、外で地べたに近い生活をしている世俗代表が衝突し、事の成り行きがぐにゃり・・と変調を来す感触が良い。
空間と言い、人物の造形(役作り)と言い、濃厚でうまい味に仕上がった芝居と感じた。

長塚圭史の作品は、ストレートプレイでは初。

庚申待の夜に

庚申待の夜に

風雷紡

小劇場 楽園(東京都)

2016/08/10 (水) ~ 2016/08/14 (日)公演終了

満足度★★★★

谷中村の夜は更けて
初見の劇団で若手らしい様子だが、谷中村とは・・。
芝居は「楽園」の狭い空間にフィットする、細かな伏線が役者のしぐさに手際よく放たれる、目立ての利いた芝居だった。田中正造の没後間もなく、立ち退きに応じざるを得なくなった村人が、離散の前夜、古くからの風習「庚申待ち」で夜を徹するその一夜の物語。「村」社会らしいどろどろした内輪騒ぎが終盤に加速して暴露合戦の様相だが、その背後には「鉱毒」があり、それゆえの差別があり貧困がある、その八方塞がりの様は「とどまるも地獄、出るも地獄」の、放射能毒におかされた福島の現状に重なった。
ただ、史実を扱った、テーマ性のある芝居をやるならもっと田中正造の実際の足跡にも言及され、「今」と地続きの「歴史」をそこに感じたかった。もっともそうなるとこの芝居の面白みは半減するのかも知れないが。
暗鬱な雰囲気、「楽園」の使い方もうまく、大柱も生かした演出を施していた。里芋の煮っ転がしが皿に一個ずつ割り当てられ、お茶で食す場面がよい。貧しさの中の祝祭感が活写されていた。

いま、ここにある武器

いま、ここにある武器

風姿花伝プロデュース

シアター風姿花伝(東京都)

2016/08/13 (土) ~ 2016/08/28 (日)公演終了

満足度★★★★★

風姿花伝プロデュース第三弾、プレビュー公演を観劇。
休憩を挟み、後半長めの4人芝居。2幕目は尻の痛みを覚悟して臨んだが、尻を気にする余裕もなく、芝居に飲み込まれた。
千葉哲也演出・出演。最初はなじみづらい「翻訳劇」の劇世界と感じたが、最終的には頷かされた。
小川絵梨子の翻訳について、評価する素養はないが「翻訳調」ではなかったし、こなれた日本語の台詞になっていたと思う。

心理的圧力=拷問・・・ 言葉が相手に与えるダメージ、に関する研究が行き着く先とは。。人間心理を研究し実践し尽くした者の前で崩れ落ちる生身の人間を見ながら、イラク戦争時に使用されたグロテスクな最新兵器を思い出した。それらの前に、人間は当然ながら脆弱な存在だが、「武器」をつぶさに眺めると、その武器が人をどういう風に殺す武器なのか、作る者の「思想」と言えば大袈裟だが、それがあるように思える。本編のテーマとはズレるが、そんな事を考えた。考える余白をしっかり残す作品。深い。

ネタバレBOX

痛恨は前半、千葉氏演じるネッドが何を発明したのか・・を喜々と説明する場面でウトウト。問題のそれを巡って話が動いて行くので、周囲の反応が妥当なのかどうか、判断できなかった。
最初は千葉氏のキャラ、中嶋しゅうが彼の兄だという設定、等等がうまく飲み込めず、「そこで何が起きているのか」が見えづらかった。
プレビュー公演という事なのか、俳優が探ったり試したりしている風に見える部分も。
カーテンコールの呼出しには暫く出て来ず、当惑したように礼をしていた。芝居はプレビューである事を忘れさせる出来で、長い拍手は当然に思えたが。
ビニールの城

ビニールの城

Bunkamura

Bunkamuraシアターコクーン(東京都)

2016/08/06 (土) ~ 2016/08/29 (月)公演終了

満足度★★★★

みた。
蜷川死去がなければこれほどラッシュにならなかったのでは。森田剛主演というのも効いたらしいがよくは知らない。わが梁山泊の金守珍が演出と聴いて俄然、観劇候補上位に。演目も第七病棟への書き下ろし戯曲という事で気になっていた。
と、うかうかしている内にチケットは今思えば恐らく即完売だったろう・・というのも立見席発売日、開始後1時間位(だったと思う)に電話してみれば既に売止めのアナウンス。当日キャンセル待ちは厳しいだろうと止む無く二次市場に手を出し、比較的価格の低い立見席を見つけ観劇をきめこんだ。

そんなメジャーな舞台、俳優陣の内、森田剛はさすがに念頭にあったが荒川良々、六平直政、金守珍は登場と同時に判別できた。が、宮沢りえが判らず。つい2ヶ月前に観た芝居とはうって変わった役柄、七変化の女優魂に観劇後、感服した。他に女優は江口のり子のみ。(コロス的役として梁山泊の三浦・渡会は出ていたが) 宮沢がこの戯曲の情感を支える際どい女性の役でもって舞台を背負っていた。
 森田剛の役どころ、自称人形使い、己が捨てたゆうちゃんという名の人形を探している。人形との双方向コミュニケーションで完結する青年、精神的引き籠り(外出はする)の前に宮沢演じる女性が立ちはだかり、三つ巴で連なるコミュニケーションの形を提案する・・というより露骨に言い寄る。ただしそこは唐十郎、単なる横恋慕でなく、彼女の背後に何かあると仄めかす。唐十郎の芝居はどれを取っても男が、女が(こちらが多いかも)、相手に言い寄る話が多いが、言い寄り方が独特だ。自分の物語の土俵に相手を引き込もうとする、その必然性を自分は強く強く感じているのだ、なぜなら・・・と説得し続けるのだ。「ビニールの城」でも男はゆうちゃんを探す理由である所の自分の物語を語り、女は女でその男に言い寄る理由である所の物語を、こちらは小出しに、語る。それだけに神秘性は増して観客はこの女の正体の謎解きを待ちわび始める。

唐十郎の劇世界が、小劇場orテント芝居の新宿梁山泊流を大舞台に適用したという体で立ち上っていたが、小劇場規模に収まらず、しかし小劇場的に濃密な「アトモスフィア」を作り出してもいた、と思う。
唐戯曲特有の台詞の連想ゲーム、つまりコトバ頼みのドラマ展開が、「おちゃらけ」に堕さず、主人公の「憂い」の目線に観客をしっかり繋ぎとめて進み、終盤に向けて見せ場を連打した末のラストは、イメージの高みに観客を押し上げる。 唐といえばラストの「仕掛け」を否が応にも期待させ、実際その通りであったが、もう一押し、「荒らしてほしかった」・・とは無理な願望か。

演出金守珍が一息つくごとに繰り出す趣向は今回の舞台にも随所に見られた。 映画「夜を賭けて」に十分才能を見いだせる演出家・金守珍の仕事のさらなる発展形を将来、どんな形で目にする事ができるか・・・楽しみになる舞台ではあった。

虚構の劇団 第12回公演「天使は瞳を閉じて」

虚構の劇団 第12回公演「天使は瞳を閉じて」

虚構の劇団

座・高円寺1(東京都)

2016/08/05 (金) ~ 2016/08/14 (日)公演終了

満足度★★★★

虚構の劇団2度目。若い。
前回は鐘下辰男脚本・千葉哲也演出という番外編?だったから実質今回が初の虚構・本公演観劇(自主企画公演は二度ばかり観た)だ。
ノリの若さ、撥ね方が少し前時代風に感じるのは、己のひねた人格のせいか。 正面向いて面白さ(役者の魅力=観客への浸透力)アピール!な場面満載で、俳優アピール公演か・・とふと思う。
冒頭は、原発事故で放射能に汚染された被災地を訪れた人たちが「実験台」となる。透明な壁で囲われた(おそらく天井も、なのでSFだ)シェルターと化したこの区域は、その後外界で起こった悲惨な顛末によって、世界で唯一人間の住む場所となった。そうとも知らず、エリアからの脱出をあきらめた彼らは「街を作ろう」と、目標を一転、その「街」での物語が芝居の大半、展開する。
「作られた街」での出来事だから、奇妙な設定も、登場人物らが特殊な職業(テレビプロデューサーとか)に就いててもさほど違和感なく、その彼が「らしからぬ」言動をとっても、大丈夫。中心的な夫婦を取り巻く人脈たちの人間模様が、時にシリアスに描かれるかと思えばすぐそれは「はいカット!どこからがドラマでどこからがドキュメントか判らないまったく新しい形態のドラマ」とか説明をつけ、その後も同じパターンが何度か。終盤、「ドラマ収録」に戻らない夫婦の深刻な局面を迎えたりするが、この「街」での劇じたいがどこから真実でどこから虚構だか判らない作りになっているので、厳密に物語を追う必要性を感じさせず、そもそもよく判らない。
一定間隔で挿入される笑える場面(ショータイムなどの番組)で観劇者をラストまで引っ張る戦法だ。
 この戯曲が、比較的愛されて再演を6度重ねてきたという、その大元が私にはよく判らなかった。時代が何を求めていたのか、その残り香がこの舞台にはあって、それを味わいに客はきっと観にくるのだろうと考えた。その核心部分が、興味の対象ではある。
 ラストのナレーションによるシリアス落ちが、劇中のドラマとどうリンクするのか・・・私にはここにも相当飛躍が感じられる。
 想像するに・・、深刻な問題をそれとして語ることや、語る態度じたいが忌避すべきもので、忌避する事の正当性が80年代、90年代当時にはあった、のだろう。この「アンチ」がある種軽薄なノリに「芯」を与え、確信をもって馬鹿をやる役者を動かし、「虚構」の中に少しだけ真実味をまぶすのがせいぜいな「劇的」の形を作らせているのだ、と解釈してみた。
 冒頭のくだりで、俳優の演技にもっと深みを求めたくなったが、全体に対する不足感の原因は、そのあたりか。

 今年劇作家協会会長となった鴻上尚史氏の「劇作」、以前読んだものはシリアスな問題をエンタメに置換した「楽しめる」戯曲だったが、今回のは少し高度だったのではないか。
 美的に一定レベル以上の役者による、今回の芝居。役者としての「出世」を夢見ることのある程度許される層が、そうした観客の応援も想定しながら大衆演劇よろしく披露している(鴻上氏自身がそうした業界と出入りしている関係で)公演で、でもそれだけじゃないよ、それなりにしっかり演劇やってますよ、そう胸を張れる部分もある、その両サイドの境界を歩んでいる劇団の公演、と理解すれば一番よいのかも知れない(そういう位置づけkの劇団は他にもありそう)。
 ・・ほとんど酷評、になっているかも知れないが、特に嫌な印象を持ったわけではない。ただ演劇の質として私の期待を下回った理由について、(浅いかもしれない)考察をしてみた。

 他の気に入らない部分が原因かも。音響の「こけ脅し」効果は嫌いである。ショータイムなどの場面転換で、音がガッ!と鳴る。若者にはライブ感覚で効果ありかも知れないが・・だが基本ライブのノリの芝居じゃない、と思う。
ストレートプレイの誇りをもって、脅しで勝負しないでほしい・・などと心で呟いていた。許される最大音量を出し、台詞直前でグッと落とす、この落とすのは音響のセオリーだが、「落差」を最大化することで悦に入ってるだけなんじゃない?と、オペ(だけを責めるのは酷かもしれないが)の姿を思い浮かべたり。申し訳ないが、万事こういう若さ勝負な感性に「忌避」感情が発してしまったかも知れない。
最後は自省となった。

夏に死す

夏に死す

劇団桟敷童子

すみだパークスタジオ倉(そう) | THEATER-SO(東京都)

2016/08/02 (火) ~ 2016/08/14 (日)公演終了

満足度★★★★

動き軋む桟敷童子
桟敷童子の芝居は作者本人がいつか漏らした如く、幾つかのパターンのローテーション、そう言われて否定できない「似たり寄ったり」感はある。これを楽しみにお客もやって来る。だがまったく同じ舞台では無く、新作には何らかの新趣向が必ず盛り込まれている。ようは、「予測の裏切り度」が勝負なのは事実だ。
その点、劇団歴のどの時点から見始めたかで観客にとっての新鮮度は異なるだろうし、神話的なのが好みか、リアルな方が好みか、などもあるだろう。

しかし同じ事を繰り返して行くだけ・・という作者(東氏)の謙遜な述懐とは別に、決して「同じ事」は(再演を除いて)やらない創作の作業は、新たな舞台世界を志向することを宿命づけられている訳で、「体夢」「エトランゼ」そして「夏に死す」と続く桟敷童子の<試み>は劇団の「形」をこねなおし、軋ませるものに(結果的に)なっている、と思う。
今作の試みに、拍手を送りたい。現在を舞台にしたストレートプレイが役者に要求する「リアル」は、従来の、一定のテンションと同質な思いを共有し、集団で作る台詞のリズムが快感でもあった芝居とは少し違う風を舞台に吹かせる。言わば役者を裸にする。その分、役者本人の輪郭が、特徴が、そして魅力も見えてくる。そういう面がある。
集団芝居でも重要な役を担い、繊細な演技が光っていた池下氏の退団はそれだけに惜しいが、、とは言いつつも、桟敷童子の風合いがそぎ落とされた訳ではなく、ストレートプレイだけれど桟敷童子風味がしっかり残る、そのバランスの具合は過渡的なのか、一つのモデルになるのか、微妙だ。
人情にほだされる感動をしっかり作り出し、観客の共感をもぎ取る力は、定型的だが発揮されている。 問題は今作の場合、基本リアルな現代劇であり、オチの部分でありきたりな「定型」では物足りなくなるという点だ(これは以前の芝居にも感じていた事だが)。
 父は戻って行く。そして、死は宿命として訪れる。 一夏の出来事(波乱)の後、人の世の「定型」に戻って行く、というオチは、この夏の「出来事」じたいが持つ問題の困難さ、複雑さゆえに、どうもふさわしくないのだ。
「現在」というこの時間、つまり現実の世界に、解決しないものとして存在している問題群は、非日常が日常を取り戻す事で解決した、という型にはまりにくい。
これというのも「現在」のリアルに深く繋がる芝居になったからこそ、結末での「扱い」に不満が残ったという事であり、問題を「撫でた」程度の(人情物語に終始した他の)芝居とははっきり一線を画するものだった、と私は感じている。従って落とし所に難しさはあったが全体としてこの仕事に、拍手を送りたいと、強く思う。

麦とクシャミ

麦とクシャミ

ホエイ

こまばアゴラ劇場(東京都)

2016/08/06 (土) ~ 2016/08/14 (日)公演終了

満足度★★★★

火山と戦争
断続的に溶岩が噴き出し流れるような噴火騒ぎが、大東亜戦争末期に起きていたんだと。
「兵隊さんの士気にかかわるので(噴火の事は)口外せぬよう」、などと、よく聞くようで聞かなかったコトバに、我が鼓膜も新鮮がっていた。
北海道で起きた実話だと、パンフで知ったが、実話ではなくても芝居は示唆的で趣き深いものだった。

方言が醸す庶民のおとぼけぶり、純朴ぶり、透けて見える打算もまた愛らしい脱力な風合いは、百姓が持つ「大らかさ」という名の粘り強さ。そこに時折、床下に隠した刀甲冑の鈍い硬質の光も見せる。そんな芝居。
アゴラ劇場という劇場は、さほど使い勝手のよい劇場ではないと思う。ホエイはアゴラの空間をがっちり味方につけ、劇世界と一体化していた。

史実の「重さ」を強調せず、脱力味を基調に、ある時代のある場所の一こまを(芝居としての)風景画に収め得た作品。 『珈琲法要』に通じる味わい。 演出上も脱力味を際立たせた、工夫というか何というか、予算上の都合で・・とでも説明されそうな場面あり。 
山田百次戯曲の今後も楽しみになる。

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