tottoryの観てきた!クチコミ一覧

1381-1400件 / 2031件中
蜜柑とユウウツ~茨木のり子異聞~

蜜柑とユウウツ~茨木のり子異聞~

グループる・ばる

東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)

2018/09/13 (木) ~ 2018/09/23 (日)公演終了

満足度★★★★

往年の・・と名付けたくなる演技と、舞台と。古式ゆかしさをどのあたりに感じたかは今定かに思い出せないが、元を辿ればそれは彼の地より輸入した「近代劇」、これを日本人のものとして一時代を成した往時を憧憬したような。る・ばるを構成する三女優の出自という事なのか、演出マキノ氏の恣意か。テキストは相変わらず長田女史の文学調の筆致だが、「幽霊」を介したドラマ構造に喜劇性があり、面白く見られる。ただ、にも関わらずシリアス味を欲する演技が新劇を思わせる。
茨木のり子の詩「わたしが一番きれいだったとき」を、最もドラマティックに聴くためにこの劇が作られたと、そう言って過言でないと思えた前半。そして後半は人間茨木のり子の精神の軌跡、歳月にして長い期間を約めて書き流した感じがあったが、上演時間が延びても「老い」との葛藤と、そこに韓国語がどう位置付けられるのか・・(そこまでやると大変混み入って来そうだが)突っ込んでみてほしくはあった。茨木のり子に詳しくない一人の感想として。

ネタバレBOX

公演2日目、3年経っているとはいえ再演らしからぬ硬さのわけは何だろう・・?、と後で調べると、再演から参加の俳優が二名。そう、彼は発語が感情を込めようとする程ウィスパーになるように見受ける役者だが、全体にも声量が下がっていく影響を与えていたような気が。
劇は全体にコメディを基調として瞬間的シリアスの効果を狙いたい、という戯曲ではないかと思いつつ観ていたが、笑いが思うような放物線を描き切れずに落下し(ドラマ進行は止めておらず怪我はないのだが)、勿体ない。
もう一つ、随分の間を取ってのオーラスの一言。これは長田女史も頭をひねった事だろうが、今回のテイスト(初演は見てないのだが)、そして3・11からの時間の長さ分だけ唇寒くなる種類の語句・・私は書き換えて良かったのではないかと感じた。いや、敢えてそのままにしたのかも知れないが、「立ち向かう」という時、「何に」向かってであるのかは名指さねばならないのではないか。数年前と違って、、靄の向こうに隠れ見えなくなりつつあるとき、的を指示してそれに「立ち向かう」としなければ、内実の無い言葉となりかねない、そういう2018年の「今」ではないか、と。
「寒さ」は擬人法で蜜柑の木に語らせるにしても樹木の役割のイメージには遠い事、にも因るか。せめて木の「意志」が屋台崩しばりの激しい動きで示される等あれば、「芝居の嘘」は好感をもって受け止められたのでは、とか。
芝居を観客に繋ぐ部分だけに、そこは反芻してしまったような次第。
マンザナ、わが町

マンザナ、わが町

こまつ座

紀伊國屋ホール(東京都)

2018/09/07 (金) ~ 2018/09/15 (土)公演終了

満足度★★★★

数年前に評判をとった演目が早くも再演。3時間。さすが井上ひさし戯曲、がっつり芝居が詰まってる。戦中カリフォルニアでの日系人強制収容を題材にした音曲披露もたっぷりある劇で、収容所内の5人部屋の内部が舞台。所内で演劇班が作られ、上演台本も指定されている。日本人が住む新たな町(その収容所の事だろうか?)マンザナ建設を称揚するという内容。冒頭は演出担当の土井と浪曲師熊谷によるユーモラスで簡潔な状況説明の会話。残りのメンバーは?芝居の中身は?なぜ私達が?浪曲師に歌手、女優そして、奇術師?何のために・・掴みは十二分。かなり高いテンション(知りたい事と現状との距離=糸がピンと貼られた状態の事)が、冒頭からある。
役者の奮闘、そして終盤になって自分らを取り巻く世界状況、日本人とは何かについての視野を得ていく人物たち。見事な戯曲。

ネタバレBOX

初演に寄せられた評の数々から期待されたものと、今回の舞台は微妙なズレがあった。
テーマ性を強く持つと同時に芝居としての高揚を書き込む井上戯曲の舞台には、芝居心に訴える出来の良さがそのまま、戯曲にあるテーマ性を批評家に雄弁に語らせる要素がある。それは恐らく、自然に、必然に生起した物語であるかのように「見える」事の重要さを示す。現代劇の武器は「必然」と見做し得る事として仮想の事実を提示できることでもある。
批評家は興奮と共にその「必然」から導かれる問題性について語るが、その興奮は同時に観客も受け取っている訳で、良い事なわけである。
先程言いかけた「ズレ」について。
芝居の出来がもたらした、批評家の筆に漏れ出てくる高揚感の度合いと、今回のはいささか釣り合わないという感触である(微妙な所だが)。恐らく初演は「絶品」であった。今回、見直してみるとキャストが一名異なっていた。風貌も違うが、歌唱の質も違いそうに思った。初演の役者は写真しか見る事ができないが、今回劇中で「ここはそうでなく、こう歌うもんじゃないか」と、若干の脳内修正を施したイメージに、その写真の印象は何となく適合する。
今回きつかったのは歌唱力を披瀝するような歌い方で、ビブラート無しのストレートな発声と、高速サイクルのビブラートへの移行をくっきりと、自在に繰り出すような歌い方がその一つだ。いささか拙くても思いが溢れる歌のほうが余程良いか知れない。技術はあっても良いが、技術に依拠するのでない歌を、声を聴きたかった。どうしても芝居の濃度としてそこが薄くなったのは(100%の出来を想定すれば、だが)否めなかった。総合点では上々な芝居に小言は言いたくないが。

女優と言えば初演当時はまだイキウメにいた伊勢佳世が、キーとなる役を演じ、見事。英語と日本語の混じった奇妙な喋り(由来は孤児院とか)では、英語が「日本語英語」の発音。だが正体を顕わした後の英語はナチュラルな英語(ほんの一、二語程度だったが)。キャラの演じ分けも含め理知的に計算されているのを感じる。(イキウメのSF的世界は戯曲以上に演技が決定的と常々思っていたがそれを裏打ちする仕事)
5名とも、芝居中どこかで自分の来し方を語る場面がある。それが成立するというのも「強制収容」という設定であるが、それぞれ愛おしく「劇的」で、空想物語の範疇でもある「女の美しい連帯と共感」の形が作られていた。
その最後を飾るのが「謎の女」伊勢の役で、真珠湾攻撃後、日本民族に関する調査が緊急に要請され、大学で人類学研究に携わる伊勢が潜入調査を行なっていたという種明かし。彼女は中国系アメリカ人で(多数の言語を操るという設定が中国人らしい)、祖国を離れているが、アメリカで歌劇団を主宰する母と結婚して彼女を生ませた俳優の父はまもなく本国へ戻り、日清戦争後の二十一箇条の要求に反発する態度をとって拷問にあい、亡くなった事を明かす。祖国を離れた二世中国人という設定がここではテキメンに生きて、語られる史実に色がつかない。
愛すべき日本人として存在した後、中国人と知らされた時には既に観客の心を掴んでいる。そうして「復権」した中国系の彼女の口を通して、中国で横暴に振る舞う日本人という「事実」が、史実として「復権」するのである。
一旦「4人を騙した者」としてそこを立ち去った後、再度接近し、仲間となった4人との友情を確かめる「探り」のプロセスにこの語りが織り込まれる。そしてその後、彼女たちの真の連帯がそこに完成する。
終演時、このドラマが「史実」に思えていた。というのも変だが、正確には、そうあってほしいと願っていた。(史実として)あり得たのであれば「あった」と言っても意味論的に何ら差し支えはない・・即ちそれが演劇の効力で、物事のあり方が一つでないと疑うためのこれ以上ない手段である。
ロマン

ロマン

水素74%

こまばアゴラ劇場(東京都)

2018/09/06 (木) ~ 2018/09/10 (月)公演終了

満足度★★★★

アゴラは満席、客中に青年団俳優の顔も見え、三階席に案内された模様。
名の由来も語らぬこの風変りな的ユニットは、田川氏の書斎派な佇まい、やや稚拙な自作の紹介文、そして何よりどこか詰めが甘くアンバランスさが残るテキスト、にもかかわらず、独特な文体で現代口語演劇界隈の一隅にあり、何か期待させるものがある不思議な存在だった。青年団リンク水素74%からリンクが外れて水素74%と身軽なネームとなり、三鷹市芸術文化センターのネクストにも選ばれ、このたび黒沢あすか、遠藤留奈へのオファーと、演劇界の「世間」的には躍進の時を迎えているのか?などと勝手な想像をしていたが、残念な運びとなった。台本があがらず8月駅前劇場公演を断念、台本が上がって三重公演は上記二名に代わってザンヨウコ、小野寺ずるの参加で実現。今回の東京公演はアゴラで上演予定の劇団公演中止でたまたま実現した。上記二名の代わりは兵藤久美、島田桃依。主催田川氏の所属する青年団が公演を全面的にバックアップし、公演終了後は今回の責任をとって青年団を退団、及び演劇活動を当分自粛という。
芝居は私が見た水素74中一番「まとも」だった。まとも、の意味は目立つ破綻がなかった、くらいの意味だが、しかしその事はリアルを担保する。物語に潜む問題性について思考している自分がいた。
役者も良かった。ディテイルが穿たれている事が単純に嬉しい。同時に、当初の出演者ならどうだったろう、とか、どの役をやったのか、とか、この戯曲が結果「書けなかった」代物なんだな、とか、「十分な稽古期間が取れず客に見せるものにできない」が中止の理由だったがそれは台本脱稿した後の決定だったのか、とか、色々と思い巡らしながら見ていた。兵藤久美は何を考えているのか分からないが、おかしい。用松亮は登場時からクスクス笑いを取っている。中心人物である前原瑞樹がマザコンをリアルに好演。浅井浩介がハマリ役で、無理を通せるキャラの俳優力が田川脚本の成立を大いに助けている。折原アキラはダメ男の喋りを聴いてるだけでキショ心地いい。
田川氏の演劇はハッピーエンドを全く目指さない。半径何メートルかの日常から想像を羽ばたかせて、夢物語を描くのでなく、日常の「別のあり得る形」を思い描き、台詞化している。そのディテイルは面白い。だが敢えてメッセージに括らないがために、無理が来ない代わりに、平田オリザなら何らかの形で用意するだろうカタルシスがない。
ダメな状態から這い上がってどうにかしたい、なりたい・・通常の防衛機能が、この作り手にはなさそうである。落ちればそのまま落ちっぱなし。
リアリティという味方を得れば、切り取られた現実(仮想)には自ずと普遍的問題が必ず孕まれる。だが本人がそれを望んでいるのかどうか・・どこまでも正体の読めない存在だ。

二代目なっちゃんの愛人。

二代目なっちゃんの愛人。

なかないで、毒きのこちゃん

OFF OFFシアター(東京都)

2018/08/21 (火) ~ 2018/08/30 (木)公演終了

満足度★★★★

初の劇団。小さなOFFOFFの劇場全体をフル活用。客席から登場するわ、走り回るわ、客を巻き込むわ、ステージ右側の楽屋スペースも開陳するわ、背後のオペ室の小窓からも台詞が漏れるわ。呆れた笑いに顔が引きつった。
前半(時間にして1/3程度か)の四人芝居はマンションの一室、蒲団のある風景。一組のカップルと女の親友の同居生活という危うい設定。リアリズム、三浦大輔系の赤裸々・酷薄なワールドは引き込むものがあったが、後半は反転と言っていい程様相が変わる。

ネタバレBOX

展開が大詰めを迎えた時「作・演出」として登場した鳥皮ささみ(事実この劇団の作演出でもある)が「今回はここまでしか書けなかった事を詫び、ここからはアフタートークとさせて頂きます」と滑舌よくかつ丁重に必死の面持ちで言う。この変わり目の瞬間去来したのが(結果的に後半とは無関係だったが)『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』。一度やらかして禁忌であったはずの「姉の素行を面白がり暴露する漫画」を、衝動を抑えられずに実は描いていて出版も決まってしまう妹のたたずまい(女優を目指し醜く見栄を張り、不安を塞ぐかのように「前科」をネタに妹をいたぶる姉に対し、最後に妹が勝利する図)。鳥皮ささみの声がこの妹(舞台のそれか映画のそれかは忘れた)のに似ていた事もあるが、妹が見ている世界の風景が絶望に満ちていて、この芝居の前半に展開した世界に通じるように見えたのだ。
が、「アフタートーク」に移って以降、この前半の芝居は殆ど無かったものになる。ハプニング続きで劇場内はてんやわんや。元劇団員の父母が喪服姿で客席側に座っているのがアフタートーク以後(客電が点くので)目に入り、いつどのタイミングで登場か、森田ガンツ・・と楽しみに待つ。この疑似現実のハプニング芝居が、本域で限界ギリギリを演じる役者によってどうにか成立する、その挑戦をやっている事が面白い。オチには多少の期待を持ちつつ、奇妙な展開を見守るフシギな時間だった。
作者はこのハプニング芝居で前半芝居を飲み込み、後半を軸にドラマとして着地させようとする。それなりに見せる展開とラストではあるが、前半の芝居が上出来なだけにこの時間が茶化しの対象で終わるのはやはり座りが悪いのだ。というか決定的に破綻している。
もっとも、破壊的表現には「従来を疑い未来を拓く」言わば前衛の志がある、との捉え直しが可能(その余地を残しつつ観劇していた)。作り手の意図するしないにかかわらず。
ただ言えるのは、前衛の志を想定してもあながち無理でない鋭さが芝居の随所にあり、虚実ないまぜのスリルが笑いを引き出すポテンシャルが舞台に充満していたのは確か。
感動はなく感心・感服の部類だが、次作への期待は膨らむ。
笑う茶化師と事情女子

笑う茶化師と事情女子

匿名劇壇

こまばアゴラ劇場(東京都)

2018/08/31 (金) ~ 2018/09/03 (月)公演終了

満足度★★★★

初お目見えatアゴラの日。この日はかなり幸運な部類の日になった。名は時折目にしていたが全くの未知数。蓋を開ければ言葉のチョイス、会話運び、構成、人物設定、俳優(キャラ演じ分け)、舞台処理・・どれもうまい!とつい讃辞を送りたくなるが、個人的にはとりわけ「ポリティカル」を内実を理解した知的な台詞として各所に織り込む姿勢に共鳴・・その一言で損をしかねない時世だけに。
一度ならず二度三度、お目見えしたい。

「ひかりごけ」三編

「ひかりごけ」三編

三条会

ザ・スズナリ(東京都)

2018/08/30 (木) ~ 2018/09/03 (月)公演終了

満足度★★★★★

3バージョンある内の恐らくオーソドックスな?男生徒編を観劇(教師風の役で女性も登場)。再演が重ねられている演目(2001年利賀コンクール最優秀賞からという)をこのたび漸く。三条会は数年前に違う演目を中途半端に観劇し(前半を見逃し)、ただ「演出が勝っている」印象のみ残す。
『ひかりごけ』は衝撃だ。2018年現在「斬新な」という修飾は当らないにせよ、数々繰り出される演出手法はテキストに即して瞬間瞬間必然性を帯び、小さな驚きと共に胸に落ちる。構造の強さというか、オリジナルの快活さが漲っていた。学ラン姿の夏目慎也とG.K.Masayukiの取り合わせは「ズルく」もあるが、、
「他のも観たい」・・終演後の客席から会話が聞こえた。左に同じ。
原作が持つメッセージ、人肉食という題材も広く知られているが、その知られている作品をわざわざ舞台にしてまで目に入れる価値があるのか・・この問いは、例えば著名な俳優が出演するわけでもなく、著名な演劇人の肝入りでもない、謎解き式のストーリーでもない(要はエンタメ性の対極)、純粋に「ひかりごけ」という作品を鑑賞する事だけがこの観劇の目的だとしたら、どうだという問いだ。ある意味それは普通のことだが、その価値が「ある」事を実感させられる、堂々たる舞台だった。

地上波 第四波

地上波 第四波

STスポット

STスポット(神奈川県)

2018/08/24 (金) ~ 2018/08/26 (日)公演終了

満足度★★★★

音響の所に時折名を見る牛川紀政プロデュースの第四弾だという。昨年の第三弾はモメラスが参加。4演目の内、舞踊が3本、1発目がナカゴー・川﨑麻里子の一人芝居で、彼女自身の日常から引っ張ってきたかのようなオーディションエピソードの風変わりな語りに思わず引き込まれた。舞踊も三者三様、皆女性。好感が持てた二人は、身体を通して存在をさらけ出す要素があって、一人はほぼエロで女性の性欲まるごとの日常がテーマか?と。もう一人は動きのユニークさと、どことなく「私こんなだけど、何か」と居直るかのような様子に面白味。もう一人は技量を持っていそうなのだが「動き」からはみ出てくる彼女という「存在」が捉えきれず(型を破ろうとする意志はあったのかも・・だが)。創作は難しきかな・・と勝手に納得。

あの子にあたらしいあさなんて二度とこなきゃいいのに

あの子にあたらしいあさなんて二度とこなきゃいいのに

升味企画

アトリエ春風舎(東京都)

2018/08/22 (水) ~ 2018/08/26 (日)公演終了

満足度★★★★★

合宿所の内部(狭い和室)と外(喫煙所のある庭っぽい四角とそれを取り巻く通路、通路に沿う壁にノブ付の扉)。具体性のある装置がまず目に快く入って来る。人物は高校演劇部部員4名と顧問。静かな演劇範疇の何気に高校生な会話から入り、ある特殊な状況が徐々に、うっすら見えてくる。合宿所での「現在」場面に時折、学校での「過去」が挟まれ、過去から現在に至る関係図が浮かび上る式である。ある一件に直接間接に濃密に関わっていた5名、登場しない重要「実在」人物(「現在」の中心人物と言ってよい)、その彼との関係が取り沙汰された登場しない死者(「過去~現在」の中心人物と言ってよい=女性)。言及されるだけの人物がぼやけて最初分かりづらいが、最後にはしっかりパズルは出来上がる。完成された絵はゴヤの絵の如くか、はたまた・・。現代の人間関係の病巣に踏み入り、誇張した物語にも思えたが、そう思うより前、演者らの細を穿つ演技と台詞とが相まって、演劇部という「閉じた世界」の歪な様相が立ち上がっている。
新しい才能を怖々目の当たりにする、この悦びは替え難い。

罪の滴り

罪の滴り

白狐舎

東京おかっぱちゃんハウス(東京都)

2018/08/18 (土) ~ 2018/08/21 (火)公演終了

満足度★★★★

紅王国、白狐舎いずれも未知なる集団。どちらも1テーマを丁寧に掘り起こして劇化し、面白味があった。民家の一室、ダイアローグを交わす俳優の身体のありようを間近に「観察する」自分と、その視線に耐えて身を「さらす」俳優。この非対称性。つくづくえらいと思う。
前半はオウム事件で指名手配された長期逃亡者の男女をモデルとした二人の会話劇、それぞれ別の犯行にどう関与したか、など事件の細部に触れ、実相を探りつつも、そこにいるのはただ二人、その心の行き交いにフォーカスしたいような、そのままにしておきたいような、作者と書く対象の微妙な距離感。後半は主に猟奇殺人と騒がれた実際の事件を題材にミステリー小説を書いていた男と、女性編集者の、ある日の顛末。女の催促にあい、男は書けなくなったと漏らすが、男がどのようにして「書いてきたか」、それゆえ「如何に限界か」が男の口から語られ、協力を申し出た女は口述筆記を始めるものの、それでは済まない猟奇な事態に巻き込まれて行く。
どこかしら既視感のある物語ではあるが、言葉が俳優の体を介して立ち上る新鮮さがあって、それは「この瞬間、新鮮にあろうとする」以外に術のない所に俳優を立たせる「場」の力では、、などとまたテキトーな事を考えた。胡座の足はつらかったが、心地よい「芝居の時間」であった。

ネタバレBOX

既視感のある、と書いたが、前半は実際の事件が下敷きだから当然といえば当然と言える。後半は死の倒錯の物語。交尾中にメスに喰われるオス状態? 死即ち生命という事になるが「死」が相対化される渦の中には若者が嵌まりやすい。宗教しかり、社会運動もある意味でしかり。
編集者という職務は作家に本を書かせる事。懊悩をさらけ出しながら惨殺事件の再現描写を(口述筆記する彼女の前で)のめり込むように語る作家は、作品を上げることの代償、即ち自分自身が殺人者となる事(恐らくその心境に近づく事)のダメージを、懊悩の内に編集者に語る。「これ以上は書けない(なぜなら殺人者の心境になるのがつらいから・・という意味になる)」そう作家は終始一貫変えない懊悩の表情で確かに言った。だが彼女との会話の中で、いつしかこう言っている。彼女が本心から「書いてほしい」と願うのなら、自分にその心境に近づく手助けをするべきであり、それは即ち彼が殺人に手を染める事(そうでもしなければ作家人生のこの先はない)・・つまりは彼女が自分に殺される事である・・。
この論法を半ば狂気の内に男は女に説き迫り、キリスト者である(らしからぬ風情なのだが)彼女の「信仰」の論理を切り崩して丸裸にさせ、さらに畳みかけて編集者の首を絞めると、彼女は受入れるのだった。
それが望ましい事であり自分の職務でもあると信じた瞬間が一瞬でもあり、殺される事を「論理的に」受け入れた彼女ではあるが、ここには命の価値についての「倒錯」がある。
男が本当に「自分で殺人を犯す」事なしにミステリーを書けなかったのかどうかは分からない。何をやれば男が「書ける」ようになるかは男の恣意に委ねられ、女は「何でも協力する」と言質をとられた以上男が出す条件を飲まない訳に行かない・・というのが理屈だが、この理屈を「なぜ」女は甘受したか、と考えねばなるまい。
作家である男との間に生じたエロスの為せる仕業、が答え。女は果たして、鬼気迫る男の様子、連射される言葉と悲壮感にエロスを抱き始め、エロスの麻酔の内に死を受け入れていったのか、それとも「論理を受け入れざるを得ない所」に立たされた事でエロスという麻酔薬を自ら発散し吸引し始めたのか。しかし恐らく前後関係は実はどうでもよく、こういった順逆は人間の常。
死をも相対化するエロスというテーマは古くて新しく、新しくて古い。
ロンギヌスの槍

ロンギヌスの槍

風雷紡

d-倉庫(東京都)

2018/08/15 (水) ~ 2018/08/19 (日)公演終了

満足度★★★★

(立ち寄ったらえらく難解=意味不明の為推敲せり。)
風雷紡は二年振り二度目の観劇、前回は下北楽園の狭い(というよりせせこましい)空間で、物々しい歴史秘話が展開。d倉庫に移り、水を得たように空間を使い切っていた。役者もそれなりに出来る人達。

浅沼社会党委員長刺殺事件を基にしたフィクションだが、史実とフィクションの境界が不分明な所で、台詞の言葉が仮想世界を構築するためのものか、歴史事実を評したものかが分からず、引っかかる部分もあった。
60年安保の熱気さめやらぬ同年秋に起きた事件が史実、これをモデルに刺殺した少年を少女と設定を変えて主人公に据えている。
性別を変えた事で、一途に物を思う美しい少女、というキャラクターを得た。将棋ならば歩が金になったくらい「使える」。右翼少年も持っていたかも知れないナイーブな「純粋さ」は、男性をイメージするだけで「社会的」には犯罪者だという側面から逃れられないのに対し、女性とする事で「行動した女」の聖性(ジャンヌダルク)が際立ち、犯罪者の姿は背景に遠のく。その彼女に対しドラマの側が「現実」を突きつけていく、という展開になっている。

ただ芝居での主な言及は、彼女の家族関係、そして親の反対を押して入会する事となる右翼団体のこと。学校では左翼が「主流」である中で、右翼の彼女は「浮いて」いたとされるが、政治家刺殺に至る彼女の足跡は、強い意志によるものというより、十代の彼女の心模様の軌跡であった。実際「運動」とは(特に若い時期のそれは)そういった「気分」に左右されるもの。
彼女に大きく影響したものとしてこの芝居で描かれているのは、亡くなった双子の兄の存在。そして病弱な彼と一緒に作って父母に見せた、聖書劇(十字架にかかったイエスキリストの腹を槍でついたロンギヌスのくだり。もしくはそのくだりは二人だけの遊びのネタだったか・・忘れた)である。
ロンギヌスの逸話が語る罪=根源的な罪が、社会的な罪の概念と対置され、主人公が政治家を殺めた罪にも重ねられる。一般に語られる犯罪・罪についての言葉には確かに違和感がある。法を逸脱した者はワイドショーのいじりのネタにされるが、果たしてこの人らは、そして自分は、人を裁けるのだろうか、という・・。人間の本質から「行為」の意味を捉え返して、それは一体どういう「罪」なのかと問う・・「ロンギヌス」の逸話はその視点を与えるものだが、主人公が人間の本質に照らしてどうあったのか、実際よく分からない。
恋愛に似て運動も(時代の空気も手伝って)「熱に浮かされた状態」とされる一方、感性豊かで瞬発力ある若者が変革を為さずして誰が為そうか、という疑問ももたげる。(話は逸れるが..)近代日本は「上」に従順たる人材の育成には成功したが、健全な民主主義を支える自律性の発芽を促さずむしろ摘み取ってきた。戦後経済や技術を発展させた日本が現在負けを喫している遠因には、組織の硬直化・老害、つまりは既得権(前例が重視される)の維持拡大の目的を超えた高次の目的を見いだせない状態があり、「変える事」「変わる事」への恐れが「異論」を排斥する(空気読めないと蔑む)風潮を蔓延させている。
これを踏まえれば(踏まえなくても良いが..)、この芝居の基調には「物事を遂行した者」への肯定的な眼差しがある(たとえ犯罪でも)と言える。その事は批判すべきどころか、演劇がやるべき仕事がそこにあると評価したい。ただし史実としては、「左」派が日本の主流であった事は一度もなく、その「恐れ」を抱かせた現象があったに過ぎない。しかし芝居では当時「左」が世を席巻していたかのような描写があり、主人公の危機感を高め暗殺実行のモチベーションを最大化している。彼女の「歪んだ主観」を描いたと取れなくもないが、いずれにせよ彼女への英雄視の中に「世の危機」が背景として織り込まれる(即ち誤解)。
物語は、最終的に彼女が犯罪者であり「彼」を暗殺する事によっては変革は起きず、ただ一人の個人を抹殺しただけに過ぎない・・そう彼女に宣告するのだが、それでも消えない主人公への英雄視は、彼女の「状況への対応」に向けられる。
時代を現代に置き換え、もし「行動しえた者」を描くとしたら、どうか。非難、または英雄視される存在は、その「病的」あり方を「心」とその来歴に求めるだけで成り立つか。つまり政治的状況への「判断」の正否を問わずに物語化できるだろうか。恐らく、安倍晋三一人殺しても変わらない状況が作られている構造の壁を前にするだろう。
・・この題材を扱うならば、現在あるこの「壁」に引っ掻き傷くらい残したい・・。個人的な願望ではあるが。

ミセスフィクションズ夏の振替上演・上映会

ミセスフィクションズ夏の振替上演・上映会

Mrs.fictions

駅前劇場(東京都)

2018/08/17 (金) ~ 2018/08/20 (月)公演終了

満足度★★★★

Mrs.fictionsの長編舞台初観劇と期待した「月がとっても睨むから」の代わりに、『花柄八景』を映像で観た。ある劇場主催の落語縛りの企画に書き下ろしたものという。落語好きにも嬉しいディテイルが押さえられているだけでなく、ドラマトゥルギー的にも一々適ったりの筋立て。
TVで大失態を演じ、弟子にも逃げられた失意の師匠のくだりが一景、以後パンカーのカップルや、謎めいた少女、訪問販売員となった元弟子が師匠の部屋を出入りするようになる。八景とも師匠の部屋が舞台だが、バラエティに富む各場面とも収まり良く、景ごとに丁寧にシーンが仕立てられているあたりも何処となく落語の小咄の尺と小さなオチを踏襲するかのようで好印象。でもって物語も円満なラストを迎える。
冒頭の師匠の高座での喋り「地獄八景亡者戯」が振りとなっていて、珍妙な連中を弟子に入れて二つ目だ真打だと昇格させている一見元弟子の目にはヤケに映る師匠の振る舞いも、無念の内に実は死んでいた師匠の亡霊か、と。そうみれば納得もでき同情心も湧く。巧妙なのは師匠が既に亡き者なのか、今のは達観しきった姿なのか、確定できない曖昧さを残している点。
仕事の合間に暇を見つけては縁側に座って中の様子をみている元弟子が、師匠の姿を通して落語への愛を見いだして(思い出して)いる事だけは確実で、師匠が幽霊であるか生者であるかはその事にとっては二次的な問題だ。
・・「面白ければいい」言葉には出さないが、型破りなキャラと喋りのパンク男とパンク女、掴み所のない少女を通して、師匠はそう言いたいのではないかと想像されて来るし、実際観客は彼らの喋りを面白いと感じる。もっと聴いていたいと思わせる喋りの魅力を放たせるのに成功している。(「ねえ、あれやって」と少女に乞われてパンク女が一くさりオープニングを語るのが「シド&ナンシー」で、彼女が最大のリスペクトを捧げてそれを語り尽くすだろう事が全身から伝わって来るので、さわりだけやってお茶を濁したようには全然見えない。)
こんな落語があって悪い事はない、こんな落語家のなり方があっても構わない、落語の定義など誰が知っていようか・・そこに落語がある、そう思われればそれは落語だ。そして江戸の粋、これを説明する無粋を働きはしないが、武骨で馬鹿正直なパンクゆえにぶつかりあっているカップルは存在そのものが落語の登場人物をそのままにして体現しているし、「自分には何もない」事を一切恐れない存在である謎の少女も、相通ずるものがある。
彼らとのハチャメチャな師弟生活を営む師匠を眺める元弟子の眼差しも(恐らく)変化して行く。2013年の5人芝居。

記憶の通り路

記憶の通り路

東京演劇集団風

レパートリーシアターKAZE(東京都)

2018/08/28 (火) ~ 2018/09/02 (日)公演終了

満足度★★★★

名前だけは随分前に知っていた劇団。何と言っても目を引くのが<レパートリーシアターKAZE>なる自前の劇場だ。アトリエを持つ劇団は多いが、間借りのため制約があったり、古びたそれらとは一線を画して、表に高々と看板を掲げた十割自前な劇場である。大久保通りを背にして右手にある天井の高い展示スペース(普段は舞台装置やトラックでも収納しているのだろうか)の受付机で受付を済ませると、左手の建物の1階入口でなく、幅の広い外階段を昇って行く。幅が広いせいか?負担感がさほどない。体感的には2・5階ぐらいか、入ると階段式客席の裏手で、ぐるっと前に回って客席へ登っていく。そこにはこの劇団が望んだ理想的なサイズの劇場空間があった。水が張られた長方形の背後に板があり、照明を当てられた水面の波紋を映して絶えず影が揺れている。天井高く周囲は黒の闇に吸い込まれている。開演後「板」は動いてその浅いプールの屋根となったり、上へ引っ込んだり・・舞台上の視覚美が一貫して保たれ、詩のような幾つかの場面が重ねられていく。
さてその舞台。今年は30周年企画として数公演を掲げ、今回は何年か前に話題となったタイトル『なぜヘカベ』の作者による新作(この作者のものは幾つか上演している)。チェーホフ、ブレヒトと海外作品を中心にレパートリー上演を重ねる劇団の今回の上演は単体で評価できないものがある。(→ネタバレへ)

ネタバレBOX

実に沢山の演劇の「形」がある。私が「演劇」の範疇と捉えているのは、現実の飽きたらなさからやむにやまれぬ思いの発露として現前したもの・・芸術は皆そうだと言えるかも知れないが、そうなのだと思う。
耽美的な舞台、美しさだけを目指したような舞台も、その狂おしさは時間と共に移りゆく現実が美をそこにとどめおけない無常観に由来すると感じるし、結末の見えるような人情芝居もその背後に人の情に与れず去り行く人の背中を想像すれば(ご都合主義が勝ったものも当然あるが)舞台上に美談を作り上げたい動機も分かる気がする。
 と来て、強引だがこの段落で今回の芝居に視線を移す。
 抽象的な表現だし戯曲である、と大括りできる。海外の作家のものでもある。ただしこの作者の作品を(書下ろしで)上演し続けている劇団である。レパートリーシアターとしてあろうとする劇団にとっては、今回の新作も、新たな鉱脈を探り当てようというのでなく、この作者と仕事をし続けている、という側面が重要だと思われるのだ。
 私自身はこの作者の過去作品を一作も見ず、それは今回の舞台の理解にとって当然不利な条件だが、「初見の者に不親切」との理由で不平を言う気になれないというのが正直な気持ちである。
 「言葉」もさる事ながら、舞台上の造形もそれに劣らず抽象的で、何より美的である。そこに何が込められているのか、テキストとの関係が不明である以上この造形を評価する資格もないが、一つだけ敢えて言えば、地上10メートル(くらいはあるだろう)に設置された劇場空間の独特な味わいと、可能性に強く印象づけられた。

 もう一つ、「?」を残したのが役者。「語り」を担う者の佇まいがあったが、演技者という佇まいに見えなかった。感情移入を「しない」形象を意図的に行なっているのか、どうなのか・・そのあたりも独特な後味である。
 冒頭に戻れば、独自の方法論やこだわりは「現実世界に一針刺そう」という気概と裏腹であるに違いない、などと想像してしまうが、残念ながら今回の観劇のみではこの劇団の核を捉えられず。要再訪である。
スマートコミュニティアンドメンタルヘルスケア

スマートコミュニティアンドメンタルヘルスケア

ホエイ

こまばアゴラ劇場(東京都)

2018/08/18 (土) ~ 2018/08/27 (月)公演終了

満足度★★★★

初演をみたときの正直な感想は、ノリで一晩で書いて推敲せずに出した代物、だった(うん、よく出来たと思う、と山田氏はパンフに書いてたが盛ってるな~と思った)。今回、作品が持つ良さがよく出ていた。会場が春風舎からアゴラに変って劇場が持つ「枠」の堅固さからか、大揺れな中身も安心感を持ってみられた事、また恐らく個々の演技もかなり微調整され「作為」の跡があった。他に見られない言わばぶっ飛んだ世界だが、しかし作る側としては骨のない軟体動物でなく、飽くまで脊椎動物な作品でありたい願望が漂っていて、受け止め方はやはり難しい。

ネタバレBOX

終演まで突き進むと、初演にあった不安定感が残った。終盤で厳しくなる。
過疎地の設定か、クラスに1~3年生が混在し、3年生は卒業するから中学だが雰囲気は小学生、という点がまずある。まあ大人が子どもを演じてるし、とりあえずそこは良い。「子どもの世界」の身勝手さや残酷さ、影響され易さ、そして個々のキャラ、男女の役割の違い、学年を超えた力関係の序列、等々よく書かれていてキャラ的な破綻は小さい。
ただ、「子どもの世界」に、やがて大人(1名のみ)も参入するあたりで不条理に突入、混迷する。
大人とは1年目の女性教師。冒頭にこの教師のハチャメチャな言動が展開する。「○○、sey!」と生徒に復唱させる内容は、今度の卒業式は対面式であるべき事、君が代日の丸反対、中華人民共和国ラブ。言いたいだけ言って去った後「自習時間」となり、ここで「子どもの世界」が展開する。確か中盤でもう一度教師が登場してまた自習となり、最後に三度目の登場、という作りだったと思う。
若くして女性の左翼教師、居なくなった校長とどうやら不倫?のような仄めかしもある。左翼を叩きたいのか?と訝るようなキャラで、今時君が代日の丸反対教師がこの軽いノリで存在し得るかどうか、逆にイイ先生が国旗国歌で締め付けられている状況ではこのキャラは皮肉にならない、というのも混迷の一つ。だがそれも飲んでみよう。
話の主流は子どもの世界での「超自然の存在」を媒介しての権力闘争、共闘、であるのだが、どうやら「超自然」は生じてしまう(もしくは強烈な共同幻想か)。どうにも手に負えない状況で教師が登場し、原因を「心」の存在に求め、「心をなくす儀式」を行なう。これによって大人(教師)が子どもを配下に置くと、子どもは「心をなくした人間」の言動を始める。ここで判らなくなる。
「心をなくす」儀式によって、本当に心(人間的な心、に限定しているようだが)がなくなってしまった、と見せようとするのか、「心をなくす」自己暗示なのか・・前者なら不条理で、後者ならリアルの範疇だが皆が同じ「心のなくし方」を示すのは無理がある。それは、教室に飾られていた「エライ人」(校長か、首相か)の写真を教師の指示で(机を三段に重ねて)取り外した生徒を、机の塔の上に放置したままにし、「助けて、怖い」と言う彼に対し、「何言ってるの?僕は怖くない」「だから言ってるだろう、僕は怖くないんだ」と、口を揃えて言う。「心をなくした状態」とはこういう事だと、作者は説明するわけである。
この言動にはリアルを捨象した飛躍があって、作者の「意図」を直接話法で伝える(切り取られた言葉そのものを観客に投げつける)荒技を使ったように感じさせる。ところが、では何を言いたいのか?と言うと、わからない。(せいぜい、左翼教師は非人間性を流布させる張本人だ、くらいしか残らない。)
何気なく仕込んだ伏線を回収しようとしただけなのかも知れないが、いずれにしても盛り込み過ぎで最後は座礁したように見えた。元々ハチャメチャな芝居、それも一興・・?とも言いづらい。
ロリコンのすべて

ロリコンのすべて

NICE STALKER

ザ・スズナリ(東京都)

2018/08/15 (水) ~ 2018/08/19 (日)公演終了

満足度★★★★

初。数年前の『日本の劇』賞公演(新見南吉のお話)で純朴な女子学生姿で登場し、ラストをさらった白勢未生の名を見つけて観劇した。役名も白勢。白勢ありきの舞台だった(と私には見えた)。
本筋に当る「現代」の教師とある生徒との(教師の主観で描かれた)エピソードと、それに絡むおよそ2つのエピソードが順繰りに展開され時間経過を刻む。本筋エピソードでの、小中高と成長していく白勢と教師のやり取りの点描が印象的。「現代」とは、実は私達の現代(2010年代)のことで、芝居における「現代」は数十年?先の未来となっていて、その時代に発見された古い文書を元に2000年紀初頭のエピソードを復元した、という設定になっている。発想は面白いが、絡んで来るエピソードの位置づけが判りづらく、一組の男女のエピソード(未来の)が良い具合に煮詰まると、カットアウトで「・・という夢を見た」と話す女性とその聞き役の男との場面に移る。この二人がどの時代の話だったか思い出せないが(どの設定でもなかったかも知れない)ともかくこのエピソードがブリッジとしてはめ込まれているからか、深みの点ではどうにも浅く、厳しいものを感じた。
シーンによってハートウォーミングな展開が見られたり部分的に良さがあった。ただドラマとしては本筋に当たる教師と白勢の物語が、他のエピソードの挿入でお預けを食い、ようやく最後に十八歳になった白勢と教師の緊迫の対面を迎えると、やっと芝居らしくなる。この短いエピソードでは持たないから装飾を施してエピソードを増やしているような具合に見えるのも、リアリティに濃淡があるせいで、やはり「付け足し感」を拭う人物描写が欲しいというのは正直な感想。

ネタバレBOX

ロリコンが低年齢女子を恋愛対象とする男性だとすれば、多様なマイノリティの一つでもあるが、解消しようのないものを抱え込む点で悩ましく、成人同士が合意で成立し得るLGBTとも異なる。最後に己を告白した教師は、相手が「対象」を外れた年齢になっても「対象」であった頃の姿を重ねて見ているという事も相手に告げた。「現在」の自分との関係が成立しないと悟った白勢は、勇気を奮い立たせて(そういう自分である事を告白しつつ)「つき合いたい」と言ってきた教師にノーを言う。原理的に関係不成立である事に懊悩する人間を描き、人生の不条理を提示する・・なんてのは文学的で、もしやナボコフ著「ロリータ」はそういう話だったりするのか知らん、、
お茶と同情 Tea and Sympathy

お茶と同情 Tea and Sympathy

劇団フライングステージ

OFF OFFシアター(東京都)

2018/08/08 (水) ~ 2018/08/12 (日)公演終了

満足度★★★★

久々二度目のフライングステージ。公演を直前に知って運よく空き日に観劇できた。一回目は2016年「新・こころ」(初演2008)で、その頃よく名を目にしていた関根信一の正体は・・?と思っていたら氏主宰劇団の公演情報を知ったので新宿はspace梟門へ赴いた。実際はその一月前に舞台上で役者姿を目にしていたり、その後の演出作品・講師を務めたワークショップ等、等で正体不明でも何でもなくなったが、ただフライングステージという劇団の謎めきは未だ私の中にあって、また関根氏の演出にはスッキリと理に適った処理の跡が感じられ、気になる事の一つだった。
果たして舞台は二年前観たのと同じ独特な風合い(悪い意味でない)があった。「gayの視点」という事が大きいと思うのだがそのわけは、俳優が舞台上に立つ時(客演もいるし劇団員が必ずしもゲイとは限らないと思いつつも)「当事者性」が香り立つ(観る側の勝手な想像で)という効果が一つ。今一つは、これが重要に思われるが、ある事柄についての「共通了解」を持たない客を想定した提示の仕方(場面の切り取り方や言葉のチョイス)。gayという生き方に纏わる問題(差別・マイノリティといった)を学ぶ副読本かと思う程分かりやすく、前回観た「新・こころ」がやや婉曲表現であったというのもあるが今回はテーマを逸らさず直球であった。問題を立て、それを整理するような具合に、「物語」も一場面一場面が簡潔にまとめられて進む。「誤解」を生みやすい事柄を「説明」する順序の大事さ、周到さにおいて関根氏自身が手練れなのだろうけれど、無駄なく、キャラが明確、悶着あって鎮火、また何かあって落ち着く、という起伏を受け止める潤滑油に笑いがさり気なく、きっちりと仕込まれている。そうして物語はある逃れられない根本的な問題を浮かび上らせる。
普遍的テーマとして表現すればそれは「人に知られると不利益な真実」を抱えた個人と他者との関係のあり方。教育実習生として訪れた学校で主人公の青年は、全校集会での挨拶で「自分の事」を生徒に話しておきたいと希望したが教頭に反対され、他の教員が集まって討議したが結果的に彼は自らその希望を取り下げた、というのが冒頭。以降「彼ら」を見舞う困難によって最終的に、状況の側から「賭けに等しい選択」の道が主人公に用意され、彼はそれに応じるように、進み出る。
本作の解説にもあった米映画の王道と言えるドラマのモデル(感動しつつも日本ではああは行かないよな・・と嘆息が漏れるアレ)が思い起こされるが、言葉を選ぶように発する青年の台詞を、観客は一音も聞き逃すまいと注視していたと思う。・・二週間の実習を終えた月曜、全校集会で主人公は別れの挨拶をする事になっていたが、目の前にいる生徒の間から侮蔑語を投げつけられた事で、彼は逆に自分が本来そうしたいと願っていた言葉を言うのである。勇気を奮ってひと言目を声に出そうとする瞬間、葛藤や恐怖にふいに襲われ、一瞬だが言葉に詰まる。それまで表情に出さないタイプに見えた彼が初めて動揺を走らせる演技には「真に迫る」もの・・手垢のついた言葉だが・・があった。
人が持つ感情をさらりと見せるその瞬間は、それは演劇が普通に持つ力だが、この場合「露見」と言うに等しい。この舞台で持ったインパクトの背後事情は、こうだろう。・・「共通了解のない観客」を想定した、事実を淡々と描写して進行する劇とは、我々の現実>日常感覚から逸脱をしないという事である。「台詞によって説明された状況が役者の身体・顔で後追い的に説明される」と見える形式は、人物を作り上げる演技アプローチと異なり、淡々として見える代わりに、物語の饒舌な語り手となる。高校生同士のやり取りなど戯画化されているが、ボケと受けの掛合いで言うと戯画的形象(ボケ)は受ける側の真実を浮上させるコミット法、笑えるのはリアルが浮上するからだ。
たとえフィクションでもこの物語は恐らく「当事者」にとって日常の、現実の延長にある事を免れない性質の事柄だ。それゆえ殊更心理を説明しない情景描写(現実の光景を見る感覚を逸脱しない)にとどまる事が要求されるのではないか。
青年が一瞬見せた動揺(表現としての)は、テキストの指示に対する身体的「説明」ではあるが、抑制された物語叙述から「露見した」かに見えた(彼ら側からすれば「さらす」事となった)表情にはテキストが必ずしも要求していない(それが無くとも成立する)余剰が見え、それだけに際立った。観客は「事実」を受け取ったに近い出来事としてそれを見たと思う。
清々しく舞台が終わり、立ち並ぶ演者たちの表情には、観客である私達が感じているのと同じ地平にある風情があった。お金を取って舞台を努め「させて頂いた」と、恭しく礼をするのでも、お互いで濃密な劇場を作り上げた共闘者に向ける笑顔の挨拶でもない、素朴で愛着のある表情だった。

したため#6『文字移植』

したため#6『文字移植』

したため

こまばアゴラ劇場(東京都)

2018/08/11 (土) ~ 2018/08/14 (火)公演終了

満足度★★★★

ポストトークは和田ながら+渋皮まろん、後者が前者の考えを聞き出す質問者役という図になっていて、和田女史の「演出家」職への若い野心を垣間見るトークだった。
窺えたのは和田ながらメソッドの片鱗ではなく、ただ取り組む対象である戯曲を前にしてその料理法を模索する、その自分なりの思考の進め方を持っている、という事のようだ。競技に挑むように戯曲に挑む、この遊びが楽しく、これを仕事にして行けたらどんなに良いか・・成長と拡がりの途上にある躍動がとりわけ伝わって来る。
今春の演出家コンクールでは二日とも和田演出の発表を見逃したから今回はリベンジでもあったのだが、渋皮氏によれば「コンクールとは印象が随分違う」という。だが和田氏は「実は同じなのだ」という。
同じ、とは演出家の姿勢が同じなのであって作品から受ける印象が違う、という事をどう作り手は思うのか、についての返答は聞かれなかった。そこを問題にしない強い作り手なのかも知れないし、自身の中の「これしかない」と思える答えが実は様々な選択肢の一つである事を相対化できていないだけなのかも知れない(相対化できる事が創造者にとって良い事なのかどうかは判らないが)。
さて舞台の方は、小説の地文を4人の役者(男女二人ずつ)が分担しつつ発し続け、しかも様々な「動き」を課せられる。このアプローチは地点を思い出させる。「テキストをどう役者の身体に負荷をかけつつ語らせるか」。演出家の発想が問われる。
私の感想だが、まずこの小説というのが、一人の女性翻訳家が一冊の本を訳す仕事のためにカナリア諸島の中のある島に逗留する、そのかんの主人公の苦闘と現地人との接触がもたらす思考の、一人称による語りなのだが、「翻訳」という作業に伴う苦悩(産みの苦しみ)がよく表現されている、と感じた。文体がそうであるし俳優の動きと語りも小説の世界を舞台上に立ち上げる事に貢献していた。
だがこの「翻訳家の苦悩と彷徨」の物語が万人の興味を持つものかと言えば疑問が生じる。私はひどく親しみを覚えて聞き入っていたが、一歩間違えば「どうでも良い」と思ってしまいかねない心許なさも時折よぎった。
それだけに終盤のアクティブな作りは、渋皮氏によれば前半との間に断絶があり、感想の中には「後半の巻き返しがすごい」というのもあって、この芝居をある意味言い当てていたが、終盤の<それ>はそれまでなぞっていた小説の世界からの離陸ではなかったか。原作を斜め読みすると、終盤主人公が何者かに追われて逃走するくだり、推測だが「翻訳」に伴うありとあらゆる煩わしさを戯画的に表現したものか、「苦悩」のパンチドランカー状態が見た狂気の夢か・・いずれにせよ翻訳の苦しみと、そのために地球の果てを訪れた自分に対する問いの延長に、逃走劇は置かれている・・と想像される。だが舞台のほうは「言葉」を言わせていた前半と、役者の身体ごと主人公の「逃げる」行為を体現する後半では、舞台の成り立ち方が異なり、後半は小説が持つニュアンスから空へ舞い飛んで行った印象だ。だがまあそれも有りなのかも知れぬ。
冒頭、姿の見えない俳優の声(小説の文をリレーで、妙な区切り方をして読んでいる)が響き、やがて照明がゆっくりと入ってくると、横一列につるされた4枚の(顔を隠す程度の)透明アクリル板の向こうに役者が立っている。目の前に飛び込んだのは知った女優の顔(アルカンパニー『荒れ野』で鮮烈だった)、暗闇では「演技しい」な声やなァ位に響いていた四人の声色が、視覚による情報が付加されると別の響きを持って来る。そう言えばチラシには役者名が書かれていなかった。演出家・和田の自負だろうか。・・そんなこんなで声と顔と、動きとを駆使し俳優はしっかりそれらをこなしていたものの、小説の地文を読む、即ちリーディングという今回の出し物にやはりほしかったのは、和田氏が「なぜこれを選んだか」、いや、そんな疑問さえ封じるほど必然に思える何か、である。

排気口

排気口

イデビアン・クルー

世田谷パブリックシアター(東京都)

2018/08/09 (木) ~ 2018/08/12 (日)公演終了

満足度★★★★

井手茂太氏による「演劇」舞台以外での、つまり舞踊でのパフォーマンスの鑑賞は初めてが。「それ」と思い出す事ができるのは少し古いがMODEのカフカ作品で、一人苦悩する主人公とその周りでシステマティックに集団化された動きとの対比が演劇的効果を上げていた。
舞踊という抽象性の高い表現形態では、表現された形(シニフィアン)がどの意味(シニフィエ)に対応するかを測りかねる事など「ごく普通」と言えるが、今回はある面で判りやすく、ある面で判りにくい・・その塩梅に特徴があるなとまず思った。
舞台は日本旅館の広い四角い一室、そこをメインに、スケルトンで左右・奥へ広がる空間が「黒」の中に浮かび上っている。要はそこが「旅館」であるのは間違いはなく、判りやすい。登場する人らの衣裳の殆どが着物で、旅館の仲居、小間使い、芸者、番頭といった風なキャラ分けがあり、着物以外を逗留者とするなら三、四人という所。
「何が起っているか」は具さに判らないがニュアンス的なものはしっかりと存在している。「音」が隙なく空間を彩り(音響:島猛)、全体に流れていた音楽が一ヵ所に絞られ、ラジオから流れ出る音に収まるといった、空間を意識させる技から、微かなノイズでも意図的だと分かる技術(性能)が、照明ともども空間の解像度を密にしている。これに見合う緻密な身体パフォーマンスになっているかと、目を凝らしている瞬間があった。
旅館での様々な人間模様が、描かれているに違いない。ただそれら一つ一つの「出来事」よりは人間観察の眼差しの行き着く先(人間観、のようなもの?)が、表現したいもののように思われる。ただそれが何かを明示する事はできない。できないが、終りに向かうにつれ輪郭と呼べるものを掴みそうな予感、のようなものはあった。
目に入ってくる形には「意味」を意識させるものがある(これが井手氏の振付が演劇向きな理由か)、が、実際のところ「逐語的」意味は伝えたい目的ではない。技術的に高度なのかそうでないのかも私には判らないが、快い瞬間は多々ある。ただ身体パフォーマンスの視覚的な快感に素直に浸れないのは、「意味」がチラついてそれを読み取ろうとしてしまうからだが、終局、そうした「意味」の片鱗は全体の中に溶け込んで、「意味」を成しえないものとしての人間の風景を見た、という着地であったように思う。時折見えた人物の表情や何やが、「見た」実感を支えていて、自分が「見ていた」のは人物たち(それぞれが担った役の?)だった気がする。
観劇の大きな要因は宮下今日子の名を出演者に見出した事で、今作でも私の目にはこの役者の実在感が半端でなかったが、特徴的な存在は他にももちろん居て、「場面を演じる」姿として強く色づけされている。総員がキャラを担って「物語」を構成しているらしい事は、判る。残影は群像劇の躍動より、そのバラバラ感にあり、哀しげであるのだが。

福島三部作 第一部「1961年:夜に昇る太陽」

福島三部作 第一部「1961年:夜に昇る太陽」

DULL-COLORED POP

こまばアゴラ劇場(東京都)

2018/07/21 (土) ~ 2018/08/05 (日)公演終了

満足度★★★★

意表を突かれた内容だった。数年前アフタートークか何かで谷氏が福島取材について話していたが漸くお目見え、しかも三部作に結実する第一弾とあって期待全開、否、怖々覗き見た。
第一話は高度経済成長期の日本の地方と東京の構図が軸になっている。その二つを結ぶ鉄道の車中が、当時流行った歌謡曲(失念)がゆったり流れる中ムーヴで示され、一人去り二人去って残ったのが、物理学専攻の東大学生(主人公)、そして男女のカップル。行先は共に主人公の実家福島の双葉町とあって意気投合。芝居の主たる舞台はその双葉町、「日本のチベット」福島県の浜通りである。3年後の東京五輪もまだ遠い(情報伝達状況も当時は違う?)、だが未来は仄かに明るく、貧しくとも活力溢れ、戸外には子どもの世界が広がっていた時代、古き昭和の戦後の人びと(特に地方の)の意識・風俗がいささか戯画的にこれでもかと描写される。そ田舎へ、原発立地の話がやってくる。
「流れ」に抗うのが如何に厳しかったか、今振り返れば嘘であった「安全神話」を如何にして言い含められたか。そこにどんな「ドラマ」があったか。既に知られている歴史を辿る話ではある。だがそれだけに誘致の話がまとまった時、複雑な思いで見守る主人公(孫)に祖父が念を押すように三度言う「おまえは反対しなかった」、最後には泣きが入り、確信犯的に「現在」の目が重ねられる。それが反則にならず演劇的場面として成立した時、この話を始めた発端の事実(原発事故)が迫ってくる。

ネタバレBOX

オラこんな村ァいやだ、東京サ出るだ、でも意中の人(相思相愛)は一緒に東京に行かないという。家を、故郷を離れられない。福島県双葉町(合併して町になったばかりの実質県下最貧の村)、東電社員の男女がミッションを負ってやって来る。意気投合するかに見える主人公の学生との話とは科学の未来について。人間の想像した事は必ず実現してきたのだ・・。学問に恋愛に、未来に熱い情熱を注ぐ青年像、全国の溶鉱炉にまだ火が赤々と入っていた時代のいささかデフォルメされた青年像ではあるが、これを「科学信仰に浮かれていた人間」と見る事も可能な「現在」がある。ただし芝居のトーンはどこまでも快活。
双葉町では山高帽をかぶってリュックを背負った怪しげな男が出没するという噂、芝居には人形として登場する子供らの間で持ち切りとなり、悪者退治(赤銅鈴之助)、もしくは正体暴露(少年探偵団)の対象となる。この賑やかしい子ども達が、息子(主人公の弟)をいじめたと見て怒り、張り倒しブン投げる母(百花)の姿や、主人公の「彼女」に選ばれたぽっちゃり系女子とのシーンなど、楽しい作りのシーンが展開して飽きさせない。基本福島弁で進んでいくシーンの延長に、いつしか迎えている後半のシリアスな場面がじっくりと見せる。「謎の男」、実は県の公務員で地質を調査していた調査官(東谷)と、東電社員の二人(古屋・大内)、そして主人公の家と懇意である地元議員(大原)が集まり、主人公の祖父(塚越)をまず説得する長い場面が「福島三部作」第1部の核。「当事者」たる彼ら一人一人がどう立ち回った事で原発誘致に至ったか、も重要だが、それ以上に抗い逃れがたい構図にはめ込まれている事実が見えて来る事が重要。長丁場の息詰まる対話には原発誘致を正当化するための論理が凝縮されてドラマチックでさえある。演劇的と言っても良いだろうか。ドラマの登場人物として積極的にたち振る舞うのは誘致賛成側の者たちだ。祖父が所有する買い手のない山林に破格の買値が提示され、笑うしかない実家の者たち。この落差を埋めるべく丁寧に説明を始める東電社員。「それだけの価値があるんです!」原発は安全か否か
に話の焦点が移ると、東電の男は切り札を切った。広島出身の自分は原爆で兄を亡くし、きのこ雲をこの目で見た。安全でないものならこの私が真っ先に反対する。。素朴な質問に今度は女社員が腹の底から笑いながら言う「原爆と原発は全く別物です(以下双方の原理説明)」。「(原発の安全性を主張できるのは)被爆国の国民である私たちだけなんです」。社会党系の活動に参加している次男坊は言葉にならない苛立ちを漸く言葉にして言う、「被爆国だからこそ原子力の危険性を訴えていくのが筋でねえか」。だが守勢に回るしかない反対派は自らのドラマを立ち上がらせる事はできない。「原子力って本当に安全なのかしら」とやっと口にした母も及び腰。筋書の決まった物語にまんまと乗ってしまう祖父。
祖父が唯一、意見を訊いたのが長男である主人公だったが、しかし彼は実家に訣別(家を継がない意思)を伝えに帰って来ていた。出稼ぎの父代わりである祖父にその最終結論を伝えるため、彼はその質問に「俺には関係ない事だから」と答えるしかなかった。再び野原での「彼女」との場面。青年も彼女も自分の意思を変えず別れとなる。そして彼女が言う、「偉くならんといかんよ」故郷も私も捨てていくんなら。。激励を胸に、大望を抱いて汽車に乗り込む主人公の後ろ姿で物語は終え、次回予告の字幕で締められた。今回は「先行上演」、ならば続く2部、3部はどんな上演形態に?話はどこに着地するのか?大体の所いつ観られるのか?
いやいや焦らず待つ事にしよう。
self document 01

self document 01

早坂企画

アトリエ春風舎(東京都)

2018/08/03 (金) ~ 2018/08/05 (日)公演終了

満足度★★★

設問として掲げられた「嘘と本当」、こいつは演劇では一筋縄でない代物なわけで、この言葉を無前提に口にした時点で、発話者の嘘っぽさが滲む。というわけで「嘘と本当を見分ける」などという誘導には一切乗らず(乗れず)、それに代わる何らかの提起を待ったが、眠気に襲われない時間内にそれを発見する事ができず、終わってしまった。名乗られつつ姿を現さない名である(主宰の)早坂彩が、最後まで登場しない事により、結局真剣に観てもピースは埋まらないパズルを眺めさせられていた感。
うまく相手を喜ばせるための嘘になっておらなかったのでは・・と。「本当」を開陳したい衝動が「嘘」を支えている、あるいは本当を浮き彫りにするためにこそ嘘がある、というのが演劇における「本当と嘘」の関係であるなら、本来「嘘」だらけである演劇では「本当」にフォーカスするのが正しい探求の態度ではないか・・などと遊びのない理屈もつまらないものの一つではある。

枳殻の容

枳殻の容

TOKYOハンバーグ

小劇場 楽園(東京都)

2018/08/02 (木) ~ 2018/08/05 (日)公演終了

満足度★★★★

作・演出大西氏の知己に当る実在の人物(サッカー界では有名らしい)が話の題材で、しかも女性による一人芝居。全く予想できない舞台風景を確かめようと「楽園」へ赴いた。主人公(舞台には居ないそのサッカー選手)の生前のパートナーが、永田女史演ずる役。これは世に最もありふれたドラマのシチュエーションだ。だが私の知る(さほど知ってはいないが)TOKYOハンバーグは単なるお涙頂戴にしないはず、と、さして根拠があるとは言えない予測をしながら、見始めた。大西氏の芝居は「後から分かってくる」印象があるが今回も例に漏れず。ただ作りは非常にシンプル、ほぼ時間経過に従って話は進んでいたように思う。特筆は一人の人間の(有限の)命という「概念」に還元せず、「彼」の実在感を空間に止めようとした事。生きた時間こそ愛おしい。媒介者である彼女が、それに全力で臨んでいた。

このページのQRコードです。

拡大