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たとえば君がそれを愛と呼べば、僕はまたひとつ罪を犯す

たとえば君がそれを愛と呼べば、僕はまたひとつ罪を犯す

シベリア少女鉄道

赤坂RED/THEATER(東京都)

2017/05/24 (水) ~ 2017/06/04 (日)公演終了

満足度★★★★

初・シベリア少女鉄道。3年くらい気になっていたが漸く相見えた。怒涛の終幕、評判通りの「凝り方」に口元が緩んだ。夜道に出て歩きながら反芻・・する事はないが、笑ったツボが効いている。

ネタバレBOX

ドラマ世界を、ゲームというバーチャル世界に置き換えることは、自然であった。そう感じさせる劇世界であり演技態であった。という事だろう。
あるラブストーリーが一くさり演じられる。ところが、「あるべき結末」に至らないがために人物にバグが起き始める。各人が最初のクールでそれぞれ演じた特徴的な場面が、反復行動のキーとなる・・つまりその台詞・動作が出ると、それをきっかけに「次」の台詞・動作が発動する、そして反復行動が複雑化・過剰化し、連鎖していく、そういう仕掛けである。相互作用が複雑化して先が読めないため、予期せぬ場面が生まれて思わず笑ってしまう。また随所で細かくあれやこれやを茶化していて、それらがジャブのように効いて来るのが小気味良い。最も茶化されているのはラブストーリー(定番な)そのものだろうが、メロドラマな「演技」そのものを茶化し、それが体現していた恋愛、青春、情熱といったドラマの要素そのものをも茶化す。
いつしか修羅場は上段と下段に分かれ、下におりるとゾンビにやられてしまう(バイオハザード?)設定になっており「もう行くんじゃない!」と誰かが叫んでいたり、借用も的確で?自在。
はて、この狂騒状態は何のためか、理由は勿論あって、「あるべき結末」に到達する事が混乱解決の方法であるらしい。そして各自の反復行動の作用が積み重ねられた結果、予想だにしない手順で「あるべき結末」は劇的に訪れる。
あの手この手のバリエーションと緻密な構造は少なからず固定客をつかんでいる事だろう。独特の作り手は、小林賢太郎を超える‘好き者’とみた。
愛死に

愛死に

FUKAIPRODUCE羽衣

東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)

2017/06/08 (木) ~ 2017/06/18 (日)公演終了

満足度★★★★

全く合わない世界だが、FUKAIとしてはリキの入った作品。いや毎度力は入っているのだが、ご本人もしてやったり感は大なりではないか。

ネタバレBOX

性の解放は大麻の解放に似ている、と思った。セックス=薬物依存、の意味にあらず。「見える化」がもたらす効果。性を隠微な領域に「しない」効果。
もっとも、「愛」の名においてセックスは神聖化されるが、FUKAIにおける愛はセックス(性衝動)の後づけ的「愛」、スレスレ「愛」と呼び得た愛、辛うじて人類の種の保存本能として正当化される衝動のカテゴリーとして、身も蓋もなく感じられることがある。性を描く稀少種であるFUKAIだが、どうしても「愛」の美化を押し付けられ感あり、描かれる大半の場面であるセックス(口説き文句からの前戯も長し)でそれをカリカチュアした笑いで懐柔され感もあり。
終劇後改めて劇構造を振り返り、これが一応「劇」(ドラマ)であった事で恐らく何か納得に至っている。だがドラマとしてはさほどのこっちゃない。
むしろ、性的要素に掻き消されがちなパフォーマンス面、台詞と動きの音楽的リズム、舞踊としての技術に秀でたものがある。このレベルでなければとても舞台には上げられない、綱渡り芸を見たとも言えるかも知れない。
クヒオ大佐の妻

クヒオ大佐の妻

ヴィレッヂ

東京芸術劇場 シアターウエスト(東京都)

2017/05/19 (金) ~ 2017/06/11 (日)公演終了

満足度★★★★

俳優で決めた観劇。岩井、川面。この二人と宮沢りえ、ハイバイとサンタフェ(懐かしい)の化学反応への期待がむくむく黒煙を上げ、つい手が出た。
吉田大八は昨今悪くない映画を撮る監督だが、舞台は未知数。

さて幕が開いた。演劇脳で作っていないな~、早々にそう感じ始めた。カット割り、ズーム、音重ね・・等の技が使えない事に手をこまねいているかのような間、平凡さ、埋まってなさが舞台の隙間に流れる。
しかしそれらを一旦「謎かけ」として受け止め、いつかその謎が氷解するのを待つという観客の脳内作業が持続する時間内であれば、「次の手」を打てる。疲労は個人差で訪れ、客席から衣擦れや物音がし始める。(それでも音は小さい方だ。皆、大枚をはたいて観に来ているのだから・・)
演劇脳であれば、シリアスな内容を伝えるのにそのままシリアス発言をさせたりしない。笑いに振っておいてそこに「嘘」がありそうだ、という事でシリアスを想起させる。フックを用いる。笑いと真面目の緩急と見せ方が、はっきり言って下手である。どっちつかずの行為になってしまっている箇所が一つ二つでない。(映画なら伏線なしの直球シリアス発言を、感動的に演出する編集もおそらく可能だろう。または、感動モードの可能性を担保した、どちらつかずの場面としても、成立させられるに違いない)

もう一つの違和感は、宮沢の演技とハイバイの演技の質感が違う。吉田監督作「桐島、部活やめるってよ」で進路指導をやる教師役の岩井秀人が、短いカットながら秀逸なキャラを見せていた、あの毒の笑いの線を、今回も登場以降出していたが、それに対する「受け」芝居を作らなければ、落ちない(笑いとして成立しない)。吉田演出がリアル演技を求めていたのなら、岩井秀人への演出不足か、人選ミスとも言える。岩井キャラを生かすなら、宮沢りえの「受け」が不十分、というより、否応なく「華」を帯びてしまうサンタフェ宮沢に、とりあえず謎めきを封印して「普通の主婦」を演じろと言っても無理ではないか。
それ以前に脚本の問題があるかも知れない。主役の宮沢りえは終盤にいたって辛辣な日本人男批判を展開するが、この思考を持つ人物として成立させながら、前半の対話をこなすのは大変だろう。対する男や女の側も、どういう芝居のテイストを狙って、何をどう繰り出せば良いのか、不明のままやっていたのではないだろうか・・?

と、難癖の文字数が多くなったが、(普通の?)作り手が作るような舞台ではない、予想を覆す奇抜さはある。
そして私としては、意表をつく後半の展開は好きである。そして宮沢が何かに憑依されたかのように毒のある言葉を吐く・・だが悲しい哉それが真実日本の姿である・・というくだり。この部分が作り手にとってこの劇の頂点である、としたら、何か心強い気がするが、それだけにもっと理解しやすい叙述にできなかったか・・という思いは残る。やはり文句になった。

粛々と運針

粛々と運針

iaku

新宿眼科画廊(東京都)

2017/06/02 (金) ~ 2017/06/06 (火)公演終了

満足度★★★★

昨年のアゴラ公演が最も印象的な<iaku>、三鷹市芸文での数年前、そして満を持しての再演という触れ込みで同じく三鷹(エダニク)、今回の「趣向」舞台と、関西は遠いし名前もピンと来ないが着実に存在感が増している劇団(以前買った戯曲集を改めて手に取ったり・・読んでも中々面白い)。
現代人(日本人)のリアルな生活観を背骨に、人物らをけしかけて「出来事」を起こして面白がる作家の視線が感じられる。人間だから、生活を営み、存在し、行動を起こせば、必ずや面白い何かが、そして何か考えざるを得ない材料がそこにある。。
訴えたい人の文体ではなく、観察者のそれである。

今回の作品が包含する二つのエピソード(死期の近い母をもつ兄弟、子を作らない約束だったのに子が出来た=かも知れない=夫婦)は、彼らに見えない二人の女の会話と場転指示を挟んで、舞台上では交互に進行する。やがて会話は錯綜し、人物6名の舞台上での関係性の全容が見えて来るまでの「謎解き」の時間を楽しむ芝居だ。伏せられた事実がスローペースで解明され、現われ出た全容は、それなりのリアルな姿かたちを取って、一応は納得できる。安定した実力を感じさせる終演。

ネタバレBOX

ただ、劇構造の解明=謎解きがどちらかと言えば主眼になった傾き(演出の上田一軒氏がドラマタークという)は、「伏せられた事実」で観る者を引っ張る分、見せられた全容がその引っ張りの長さに応じたものでないと、淋しい。今作がそうだと言うわけではないが、ギリギリという所か。
恐らくそれは、外観の注文に即して建造物を設計建築する制約と同じく、ユニークな劇構造をなすためにエピソードのリアリティ追求を端折ったか、あるいは説明不足のままに残すことになった。
従って、想像で補う部分が大きくなった、であればさして問題無しだが、メッセージ性が弱いストーリーの断片(事実)の生命線は、正にリアリティ(真実味)であるので、そこが弱いのはやはり「淋しさ」に繋がる。同じ説明不足でも、想像を逞しくさせられる話と、埋め込もうとすると矛盾に突き当たりそうな話とがある。今回のは微妙な線だ。
しかし、20~30代後半にとっての「家族」問題をめぐる議論は濃い。相手が家族・親族であれば会話じたいも濃くなる。テーマは子を産まない選択、という所に集約され、白熱する。
ただ、作者はその問題の核心へと迫ろうとしながら、ある線以上に踏み込ませない、観察者の立ち位置を守る(風にも見える)。それは子供を作らず、伴侶と二人で老いて行く人生を望む女性が、しかし出来てしまった子供を堕ろすとなれば話は別、違う選択もあるんじゃないか、と迫る夫にたじろぎながらも、「なぜ子供を作らない人生を選ぶことに負い目を感じなきゃいけないの」という泣きながらの反論で押し返される、という場面。確かに、リアルなやり取りで迫る限り、これ以上彼女の考えを変えさせることはこの舞台では困難であるかも知れない。
今私は「変えさせるべき」という前提で書いたが、それはその通りだ。どう生きるかは彼女自身の問題、ではある。が、そこに他者の意見が反映されないというのは、今後彼女が改めるべき問題であり、この芝居で彼女が「切れて」議論に終止符が打たれたのは、議論が尽くされなかった、という事だ(これも答えありきの言い分と思われそうだが)。
彼女は「みんなどうして・・」子供を生まない人生を肯定してくれないのか、と、反論した。しかし、話していたのは夫であって「みんな」ではない。いつしか夫の言い分に適当な答えが出せず、不適切な態度をとる「みんな」を引き合いに出して、あたかも夫が彼らと同じ態度であるかのように、(恐らく切羽つまった子供が泣くように)感情的になった、という反応である。
しかし劇では、議論がわやになった・・という風に総括しておらず、うん、彼女の言い分もわかるよね・・そうまとまる後味になっていた。いまいち深まらずに終わった感触を残した、そこは主要な一つ。
ドグラ・マグラ

ドグラ・マグラ

演劇企画集団THE・ガジラ

【閉館】SPACE 雑遊(東京都)

2017/06/04 (日) ~ 2017/06/12 (月)公演終了

満足度★★★★

二十数年経って、当時見逃した映画がDVD化されてTSUTAYAの棚に並ぶ。『ドグラマグラ』を手に取ったのはつい昨年のこと。松本俊夫監督特集でよく掛っていた『修羅』『薔薇の葬列』も一昨年、大森でようやくお目見え。生きてる間に観られた幸運をかみしめた。
さて、夢野久作の原作は、文庫本が長らく本棚に並んでいるが開いていない部類。従って本作の印象といえば映画の印象、即ち医師正木役・桂枝雀の怪演であった。
今回の舞台をみて「原作」への関心が首をもたげてきた。怪奇なミステリー作品には怪奇な人物像が似合う。「私」役はその強烈さに翻弄され、受動的であやふやなまま事態を観る者として存在し、最後になって中心的な謎に迫る構成が可能になる。それが今回の舞台は全般に挑戦的な演出が施され、熟練とは言えない俳優たちがこの趣向と素手で格闘しているという印象である。終盤に至って「鐘下節」が炸裂するが、これが大胆な脚色なのか原作を踏まえた台詞なのか・・原作を知りたく思った所以。
隅に向かって「闇」が深まる地下劇場space雑遊の利点が照明ともども発揮され、装置・音響への注力も加減なし。

雨と猫といくつかの嘘

雨と猫といくつかの嘘

青☆組

アトリエ春風舎(東京都)

2017/05/23 (火) ~ 2017/06/04 (日)公演終了

満足度★★★★

B「雨と猫と・・」華やぎの香り、猫組ver
・・Cプログラム「時計屋の恋」のみ観劇出来ず、割と本命だったので残念。Dは短編二本の朗読と劇中歌ライヴだ。意外やライヴはうま味有り。出し物の発表という体裁だが、コーラスなお揃い衣裳とナンチャッテ振付と吉田小夏女史のMCで臨場感が花開く。もっともD単体ではどうかという所。A・Bあっての企画だ。
そんなわけで、うつらうつらのA観劇から1週間後、かぶりつきの(寝る間のない)B観劇。
再演に掛けるに相応しい、秀作と言える作品。手のひら返しの評だからネタバレ枠の穴蔵へ。

ネタバレBOX

驚くほど何も見ていなかった(先週のAver観劇では)、という事が随所で判明。台本が違ったかと疑った位、だがその理由も判明。冒頭の数分を見なかったためだ。開幕から謎かけの謎解きは始まっており、小まめに回収しながら台詞の応酬を積み重ねていく丁寧な芝居が、時間という線路に植え付けるように緻密に構成されている。開始から凝視しなければ、さり気なく伏線に呼応した台詞もそれとは気付かず、ヒネリの無い凡庸な言葉に感じられてしまうという訳だ。(戯曲では台詞が吐かれるのに複数の意味が付されているが、その意味が読み取れない訳である)
完全に意表を突かれた展開も、幾つかある。これらのエピソード的広がりが、ある時代を映す、とは言わないが一人の人生を映すものにはさせている。平凡、と言ってもその平凡さえ手にしがたい昨今なれど、この主人公風太郎の人生は平凡であり、そしてむしろ主観的には恐らくみすぼらしいものである。そう見る事でこのドラマが立ち上がってくる。
無くて良さそうな猫の台詞などは、ちょっとしたアトラクションだ(タイトルに猫とあるとは言え)。確かにガッツリ泣かせる場面でもあるが、下手にやるとお涙頂戴を臆面もなく捩じ込んで・・と膿まれかねない。余剰と言える場面を、見せ場にするのは高等技術(一見「鉄板」な涙腺刺激シーンに思われるがさにあらず・・個人の感想です)。
微妙で絶妙なバランスの上に、この劇は立っている。
まつろわぬ民2017

まつろわぬ民2017

風煉ダンス

座・高円寺1(東京都)

2017/05/26 (金) ~ 2017/06/04 (日)公演終了

満足度★★★★★

せんがわ劇場での初演が、風錬ダンスを見た最初(もしや渋さ知らズのライブで目にしてはいたかも?)。粗さはあったがエネルギッシュに舞台を本気で作りこんだ土っぽい、ライブっぽさもある芝居であった。
座高円寺は広い。その前の野外劇がこの劇団の本領を出す場所だとすれば、この劇場はどうだろうか・・当初は再演を観る予定はなかったが急遽時間ができたので当日券を求めて観た。
舞台の板の上を、遠慮なく走ったり跳んで着地をし、そこが土の上の想定であろうがドン、ドタンと板の音を鳴らす。だがそんな不協和は屁でもない。巨大な作りこみ美術にとってはむしろせんがわ劇場があまりに狭かったと再認識する。再演に加わった伊藤ヨタロウが冒頭から登場して自らの提供した楽曲を歌い、一気に引き込む。演奏はカミ手手前に三人、複数の楽器を分担し、分厚い音を聴かせ、音楽ライブの要素が次第に侵食し始める。主役の女性がそもそも歌い手らしい。
この反骨、理屈抜きの反骨は最後に来てその場所を得、物語を締めくくる。圧倒され、鳥肌が立つ。広くて高い座高円寺1の空間(劇場建造物)に負けている(双方和解の上?)舞台は多々あるが、この種の芝居が空間を埋めるばかりでなく外へ流れ出る熱度を持ったことに、ただ驚いた。
ゴミ屋敷よ永遠なれ。

雨と猫といくつかの嘘

雨と猫といくつかの嘘

青☆組

アトリエ春風舎(東京都)

2017/05/23 (火) ~ 2017/06/04 (日)公演終了

満足度★★★★

A「雨と猫と・・」いぶし銀の味、雨組。
アトリエ春風舎では、あの『海の五線譜』を思い出す。

ネタバレBOX

残念ながら・・どういうタイプの「感動」が用意されているかが読めること、物語が個人史の中にとどまり同時代や集合的な広がりが見えないこと、それと恐らくは役者の佇まいや芝居のタッチにみられる「この劇団らしさ」が、ある枠内にとどまるように見えることが、「謎を解く」観客の能動性を喚起せず、怠惰のままに置くのだろう。その結果、眠気になった(今の体力ではすぐ睡魔に見舞われてしまう)。

「五線譜」も、思えば個人史の中にとどまる物語ではあったが、舞台の進行とともに「暴かれる」事件に、普遍的な何かを感じさせるものがあった。
説明しがたい人間の性、研ぎ澄まされた時間への憧憬がもたらす背徳の美、また、一つ事を思い続けることが一人の女性の中で可能であった事実の希少さ(宝石のように大切に記憶にしまいたいような思い)、これらは「そうではない無味乾燥さ」に囲まれた現代を、その反対面に照らしていると言えた訳である。

さて今回再演された旧作は、青☆組としては何らかの画期となった作品であったのだろうが、作品に含まれる要素要素に既視感を催された。老人が少年の「時」に帰って子供のように足掻く様は、本来は見せ所であったはずであるが、読めてしまい、その結果どうなるのか、何がどう解釈できるキーなのか、という、つまりはその「様子」が何を解き明かす材料なのかを知りたいところ、「様子」そのものが持つ感動を目的におかれては、物足らないのである。
いや、この芝居世界の中にピースとして位置づけられてはいたのだろうけれど、その、本筋じたいが弱いのだろうと思う。
難癖を付けた割りには、睡魔に負けており、それが己の体調が原因あれば、全てを見ずしての批評ということに・・。
という事で、Bも観劇予定である。(スタンプラリーが密かに楽しみ)
天の敵

天の敵

イキウメ

東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)

2017/05/16 (火) ~ 2017/06/04 (日)公演終了

満足度★★★★

何だろうこの感じ。何に騙された?のか?
演劇って本当に、面白いもんですねえ。

ネタバレBOX

「飲血者」という自ら選んだ在り方が、宿命としての在り方となり、マイノリティとしての存在の呼称となる。そして自らその在り方に終着点を与えようとする逆転。それが「もう十分生きた」満足からの決断ではなく、その在り方を続ける意義をついに見いだせず、弊害を突き付けられた事によるという事実は、彼に取材した聴き手(記者)の在り方、即ち緩慢な死への途上であるという在り方との見事な対照を炙り出す。
この一見荒唐無稽な話を聞き終えた記者が「いやあうまく作られた話だ」と、嘯くその口はすぐさま閉じられ、観客はこれは一体何の話であったのか、狐につままれた感で虚空を漂わされる中、記者の沈黙がやがて嗚咽に変わるに及び、これは己らが寸息なくそれに翻弄されている代物についての話であった事を思い出す。事ほど左様に直視できない、限りある命よ。
俳優の的確過ぎる演技と、嫌みなく挿入された笑いと。褒め所は多いので省略する。
爪の灯

爪の灯

演劇集団円

シアターX(東京都)

2017/05/19 (金) ~ 2017/05/28 (日)公演終了

満足度★★★★

角ひろみ作品の舞台を初観劇。新人戯曲賞受賞いらい頭の片隅にあったが、その公開審査で最終対決となった清水弥生作「ブーツ・オン・ジ・アンダーグラウンド」を自分が推していただけに少々複雑な思いがあった。その印象を思い出すと・・鴨長明を取り上げていた。作者自身の思いよりは企画のオファーに応えた感が漂うが、作風なのかも知れぬ、と判断保留。言葉使いに静謐さがあり有能な書き手である事は確かなようだが、巧く伏せて巧く謎解きを施す、手法に目が行く。その手法は、作者の地元中国地方を襲った豪雨による災害があった年(だったと記憶する)、川の流れをその連想に導きつつ鴨長明にも重ねる「点線で導くような」叙述で発揮されていた。作者が何をどれ程取材したかは判らないが、その苦労(があったとして)を感じさせない作品で、受賞は筆力への評価に着地したとの印象だった。

その戯曲の印象が思い出される観劇だった。撒いた種を最終局面で早業で刈り取る筆には唸ったが、それまで不分明に置かれる時間は私には長く、座りの悪さは否めない。
もう一点は、(受賞作同様?)高度な舞台処理を求める戯曲だったのだろう、役者の「言い方」「処し方」が明らかに違うと思える箇所があり、もどかしい。さらりと流されるがその台詞のはまらなさが、「分からなさ」を広げていたと感じる。役者全員とは言わないが、戯曲の世界との乖離が、ラスト手前あたり、淋しかった感じがある。
ある種の演技、「相手からもらえ」という言葉で導かれる演技が、必ずしも有効でない例では?と思い巡らせながらそこを見ていたが、正解はテキストを発音する人形としてまず存在する事が第一、その上に「関係」が探られていく、という順序ではないか。適当だがそんな印象はある。

円の舞台は数えればまだ二度目。円の神髄はここに‼ という発見を、いつか。

エンドルフィン

エンドルフィン

モノモース

こまばアゴラ劇場(東京都)

2017/05/24 (水) ~ 2017/05/29 (月)公演終了

満足度★★★★

実力ある演者の風変わりなユニットが悪い芝居の山崎彬に作・演出を依頼した作品。

ネタバレBOX

夢の島ならぬ希望の島が、未来(あるいは架空の世界)のごみ捨て場となっている。
ここに捨てられた子供が、ごみの島でサバイバルする。何年かが経って、同じ境遇の盲目の女の子が現われる。ごみの中での二人の蜜月、死別。主人公の青年も既にいない。衰弱した状態で彼を発見したジャーナリストから渡されたボイスレコーダー(スマホ)に、男が吹き込んだ語りが芝居を構成している。・・以上が全て。ロビンソンクルーソー的に、物語実験になっている。人が訪れないごみの島。一体どんな時代を(外界は)迎えているのか・・孤独を受容するだけの生活循環の安定を得たのか・・火を使わないのはなぜか(なぜそういう設定にしたのか)といった疑問に、自分なりの解答を探り与えつつ物語を追う。グロい描写が際立ち、答えは霞んだままだが、熱情をこめた演技の爽かさがグロさを相殺、というか、昇華させていたと言えるだろうか。
最大の関心は、このユニットが今後どんな形で続けられて行くのか、だったりする。
バージン・ブルース

バージン・ブルース

うさぎストライプ

こまばアゴラ劇場(東京都)

2017/05/04 (木) ~ 2017/05/21 (日)公演終了

満足度★★★★

役者力とオーラの勝利。

ネタバレBOX

開始から間もなく明かされる特異な設定。その後は台詞運びも普通、台詞の言い方もわりと普通。場内には「うふふ」という笑いがさざ波程度に時折起こる。好意的な笑い、つまり役者個人への好意の表明・エールの笑い。・・この気分では酷評になりそうなのでしばし休息。
二人の父に育てられた娘が結婚の日を迎える。相手の男は登場せず。二人の父と娘の三人家族が形成される経緯を描いた過去シーンが展開するが、適当感あり、役者も信じ切って演じてないというのが、敢えての演出なのか、見えている。あり得ない話ではないが、真実味を強調してもいない。
結語として「自らステップファミリーを選んだ実践例」の価値をほのめかすオチなら、不要なシーンが多い感じがする。「ある特殊なお話」として際立たせるには、理屈が勝っている気がする。緩慢に感じられたのはそのあたりが原因だ。
が、堂々たる小瀧万梨子のラストの真情吐露(結婚式での父父への挨拶)がどうにか芝居を成立させた。志賀廣太郎、中丸新将の冒頭のやり取りの噛みそうな芝居は、役者個人に見えても良いライブな演技モードで荒唐無稽さを中和する狙いと合点したが、それも緩慢さに加勢したのではないだろうか。全編、緩い空気だが、緩い演出ならピリリと辛い中身が欲しいし、緩い中身を表現したければ逆にタイトな演出が欲しかったり。
もう一歩「正解」に近づけたのではないか、という感触が残った。
「風のほこり」「紙芝居」

「風のほこり」「紙芝居」

新宿梁山泊

芝居砦・満天星(東京都)

2017/04/26 (水) ~ 2017/05/07 (日)公演終了

満足度★★★★

ふいに出来た時間で、久々のアトリエ観劇。「風のほこり」のみの観劇だったが、詩情が流れる荒唐無稽な世界、というか、即物的だったり無機質なものに詩的なイメージを当て込んで世界を立ち上げる唐十郎の世界が、今回なりのオリジナルな形で広がっていた。
唐ゼミが上演した頃(未見)、近年賞を取った作品だと知り、よく読めば梁山泊で初演とある。主役渡会久美子への当て書きで今回も度会が演じた。フォックの壊れたスカートのめくれから臀部を覗かせる奇妙な演出(戯曲)が、分かりやすい特徴。最初は大ミスではないかとやきもきした。というのも臀部を見せる必然性がなく、台詞で説明が施されるのは暫く後になってからである。唐十郎が梁山泊に書き下ろしたという後期作品だから、そのあたりを読めずに書いてしまったものかな・・あるいは悪戯心のなせる業か・・など詮索をしてしまう。
 この作品のモデルは唐十郎の母であり、彼女は一度、当時あった劇団に作品を書いて送った事があるのだという。義眼であった母にまつわる幻想的な物語が舞台だったが、事実としての母のエピソードのほうに関心が向く。唐にとっての特別な作品、従って他の作風と少し違う・・という具合であっても欲しいところが、他の作品と同列に並べて不自然がない、つまりさほど特別でない作品である事に、その経緯を読んだ後で少し物足らなさを思った。でも、これが唐十郎である・・という事なのだろう。
初演時の配役に懐かしい顔があった。本作とは関係ないが、鄭義信作品をもう一度梁山泊でやってほしい。

鰤がどーん!

鰤がどーん!

渡辺源四郎商店

ザ・スズナリ(東京都)

2017/05/03 (水) ~ 2017/05/07 (日)公演終了

満足度★★★★

年末公演に続き、少数精鋭?旅費が浮く、セットも簡素な(それは毎度の事だしポリシーかも)舞台。観客の想像に委ねられるのは演劇の利点だし、観客との共同作業で成立させるのが芝居だが、長屋の花見のお酒(お茶)のやせ我慢の要素もなくはない。想像を逞しく、研ぎ澄ませたいのだが・・。
恐らく私の弱点だが、視覚的な無駄(美的要素)がさほど追求されないせいか、なべ源の芝居は思い出しづらい。場面場面の景色を都度都度、脳内で想像して補う観劇である。後半になって前半描いた図を修正したり、といった事もある。よ~く思い出せば記憶にあるのだが。
 今回は東日本大震災(津波被害)、高校演劇の顧問、浦島太郎の亀の三つのキーワードで作劇がなされていた。趣深い場面はあったが、私には薄味であった。扱う中身は濃い。だが他のなべ源作品の要素が組み込まれていて、その分薄く感じてしまった。
津波は「もしイタ」に重なり、劇中劇としても(他にも多く引用したらしい高校演劇演目の一つとして)感動の場面が再現され、思わずこみ上げるものがあったが、それは「もしイタ」の場面を思い出したからである。また、毎回入選せずに終わる大会に向けた演劇部の毎年の活動サイクルが、少しずつ省略されながら何度も何度も続くという場面がある。これは「原子力ロボむつ」を彷彿とさせる(むつのほうは年代が1000年ずつ飛ぶというものだが演劇的手法として似ており、演劇部のほうは所作を少しずつ減らして「同じ事の繰り返し」である事を「省略」によって表現する。だがこの減らし方が緩慢で長すぎ、上演時間を稼いでいるとさえ感じる)。
繰り返すこととは、一人の人生の営みでもあり、四季の循環でもあり、世代の移り変わりでもあり、無常観を漂わせる。自然そのものの営みの中に、津波というものも含まれていて、人生における「繰り返し」は広い意味での自然・宇宙に承認された「あり方」である・・といった哲学に導かれる気もするが、ドラマは「変化」の余地を観客に探させるものだ。だからその逆を表現するなら「そうではない」と知らせる何らかのインパクトある要素がほしく、やはり変化は訪れるものであるなら、どのような形で、それは訪れるものだと語りたいのか、もう少し舌足らずに思えた。
というか、焦点はそこになかったのかも・・。
間違いないと思われたのは、風化して行く災害の記憶を、如何にして風化させず「今」という時に立ち上がらせるのか、そしてそうすべき必然とは何か・・その問いに応えようとする仕事であった事。
新たな発想を盛り込んでくる、なべ源の次が楽しみ。

ズルい奴ほどよく吠える

ズルい奴ほどよく吠える

雀組ホエールズ

シアターグリーン BASE THEATER(東京都)

2017/05/17 (水) ~ 2017/05/28 (日)公演終了

満足度★★★★

久々に新規劇団を開拓。シアターグリーン界隈で馴染みらしかった(そして見なくなった=従って観劇に至らなかった)幾つかの劇団の名を思い出したりしながら、観劇日を待つ。
当日は後部からの俯瞰で、劇場の舞台の体裁や美術の「作り物感」に、はじめは抵抗(入り込めなさ)を覚えたが、即興の感さえあるスピーディなくっ喋りを挟みながらいつしかストーリーに引き込む。伏線が敷かれた後、軽妙なテイストらしからぬ「事件」が起こり、らしからぬシリアステイストで真相が紐解かれていく。(評判の良い)ラストの謎解きに関する評価はおくが、現実にあり得る「悪」を悪としてストーリー上で露見させ、きっちりと鉄槌を食らわす場面が書かれていた事には、痛快とはこの事を言うものであったと、妙に懐かしさに見舞われた。
所狭い舞台をうまくさばいていた。

ネタバレBOX

東京五輪開催のための用地買収の対象になった、何代も続く工場兼住居の家族を巡るスキャンダルと、その家族の一員の青年(確か工場の若社長の弟だったと思う。違ったら失礼)が夢叶って教員として勤めていた私立学校におけるスキャンダル。この二つは裏で絡んでおり、前半に起こる「事件」とはその教員であった弟の自殺(学校の屋上から飛び降りた)であった。もっとも警察で自殺と断定されたものの、親族は他殺の可能性を疑っている。
どうみても彼は「殺された」としか考えられない展開で、実際に物語には学校法人の有力な財政援助者である某が登場し、自分の息子が行なった悪事を叱った若い女教師を非難すると、唯々諾々の女学校長とその金魚のフンに忖度させ女教師を担任から外させるなど、影響を及ぼす。その男が実はヤクザ(っぽい奴)で五輪用地の利権に絡んでいる。
さて辞めさせた担任の後釜に、弟が座り、学校内で抗えない立場となり、回り回って実家の土地家屋売却に同意する事となった、という。同意書には男の印鑑が捺されているが、あるいはその事が心のしこりになったか、など色々と想像されるが、少なくとも弟を追いつめただろう嫌疑は、芝居の中では固まっている。
さてその上で、弟は本当に自殺したのか(いや、自殺はないがどういう死に方、いや殺され方をしたのか)は中々明らかにならず、最後の最後に「謎解き」される。
この謎解きの前後が、少々問題ありに思われる。

社会の時代的背景と、そこから大いに生じ得る事態が、うまく描出されている。現に「金」の論理が人を、世の中を動かしている時代に、この芝居はそのカラクリに踏み込み、為政者を想起させる対象への揶揄・批判の台詞が堂々と吐かれている。
そして、法では正義をなしえないこの事件を裁く男として、家長である工場の社長がチャカを忍ばせて自殺現場の屋上を訪れ、銃(実は偽もの)に物を言わせて自白させ、悪を暴いて行く。
だが、ここで、最後まで明かされなかった事実が、語られる。それは次の通り。
・弟は、自分は立ち退きに反対だ、という。そして地上げ屋の追い込みに合い、屋上の敷地の際に来ざるを得なくなる。
・そこである事実が告げられる、それは彼の姉(つまり社長の妻、だったと思う)が売却に合意してしまった事。偽造と思われたその同意書類は、彼女なら本物として作れた、という事である。そのことに少なからず衝撃を受けた弟だが、自殺ではなく、あるタイミングでバランスを崩し、完全に事故として飛び降りる(落ちる)事になる。
この「真相」は、自殺どころか事故であり、他殺ではなかった、というものだが、「悪」として追求されてきた事実の焦点は、利権を求めて一人の人間を追いつめた事であり、そこは全く揺るがない。それによって屋上のやり取りへと発展したのであるから、間接的「他殺」と言っても過言でない訳である。「敵はそこにはいなかった」とは、行かないのである。きっちり、そこに、その本質は変らずに、悪は存在している。
気になったのはそこだ。悪を追いかけて、追いつめた。そして、現に悪は存在した。だが「弟を殺したのは誰か」を法的に理解するなら、激昂して屋上からバランスを崩して落ちて死んだ、というそれだけの顛末だ。
だが考えてもみよ、主人公である社長は、法で裁かれない悪を裁こうとやってきた。その事で言えば、たとえ彼の妻が借金苦から逃れさせたい「良心」からとは言え黙って立退きに同意した事は、淋しい事ではあるが、彼にとっての「敵」の姿を何ら違える事ではないのだ。
ところが、「なんというどんでん返し」「敵は身内にいた」と、まとめられてしまうと、地上げや土地買収のために手段を選ばない「金の亡者」、彼らを動かす「金の権化」は、免責されたッてこと?と訝ってしまう。否である。
溜飲を下げさせない展開が悪いというのではない、ただ、敵と認識しつづけて行かなければならない対象を、あれしきの展開で忘れないでほしいものだ。・・・と、これは観客への文句になってしまった。仕方ないが、ここは譲れないので書いてしまう。→→登録、ON!
60'sエレジー

60'sエレジー

劇団チョコレートケーキ

サンモールスタジオ(東京都)

2017/05/03 (水) ~ 2017/05/21 (日)公演終了

満足度★★★★

劇団チョコレート的には、歴史の検証。その対象が高度経済成長期の日本というわけである。戦犯裁判や皇室やセクトといった特殊な状況を描きながら、その状況にあっての「日常」をしっかり描出できる劇団にすれば、昭和の下町の廃れ行く蚊帳工場が舞台であっても何ら遜色ない。人情あふるるある意味典型的なお話が、むしろ水を得たとばかり、俳優の躍動を引き出していた。
蚊帳作りの具体的な手法や用語が出てこない事に中盤気づくが、どんなオチに繋ぐのかという関心がよぎる程度、ドラマ的な濃さをそぐ事なくラストまで畳み掛けられた。
見る者が懐古的にならないと言うと嘘になるが、人情噺を構成する素材でなく描く対象として「時代性」、歴史に対している。例えば近所の紙芝居屋は昼間っから将棋を打ちに工場へ来る。打つ手を考える様は時間を刻みながら働く現代の勤め人にはない、計測しない事で得られる先の長い時間というものがある。
もっとも芝居を牽引していたのはリアリズムのみにあらず、江戸落語の人情長屋の世界を若干トレース気味。工場を仕切る長男(西尾)の好演は大工の棟梁、その妻は夫に引けをとらない人情の厚いおかみさん。女性は一人だから成立したキャラでもあろうか。空襲でやられた足を引きずっている設定が憎い。三代目になる社長の兄を手伝っている弟(岡本)がまた好演。これら昭和人情伝の登場人物は、芝居の冒頭の現代に亡くなった老人が遺書を通して語る劇中劇の人物である。主人公ももちろん、本編である回想シーンに最も若い人物として登場するが、集団就職組で上京した金の卵であるから血の繋がりもない。他人でしかない彼に対し、夫婦が高校通学の援助を買って出るあたりから、長い「最も良き日々」が始まる。彼の述懐(声)に導かれての長い回想だが、ポイントは夫婦には子どもが居ない事を、誰の台詞を通しても、素振りでさえも、触れない事である。10年後に別れる事になるまでの、その夫婦と主人公との一見特別にみえる関係が、その時代に流れていたものの証明として主人公は述懐し、時代の風景としてこの物語が描かれているのもポイントだ。こんな天晴れな人がいた、という話ではなく、時代とそこに漂っていたなにものかを描き出そうとした。批評性のある昭和人情伝。

「シェフェレ」女主人たち

「シェフェレ」女主人たち

ハット企画

「劇」小劇場(東京都)

2017/05/11 (木) ~ 2017/05/21 (日)公演終了

満足度★★★★

黒テント創立メンバー服部吉次とその所縁のベテラン女優による企画、今回は本格的な舞台という事で注目、そのためステージ数が多いという事もあり、初観劇となった。演出と美術に欧州人の名があり、カーテンコールでも呼ばれて出ていた。戯曲も秀逸だが、ローマ法王との恋や信仰についての台詞など、欧州産である要素を日本人がどうクリアするか、会話主体のシュールな戯曲であれば一層難しいが、三女優はその問題を凌駕した地点にいた。
舞台は日本人離れしていながら、言動に必然性のある、しかしどこか幻想的で、クソ・リアリズムが鮮烈な、なかなかお目に掛かれない代物であった。

「蝉の詩」

「蝉の詩」

劇団桟敷童子

すみだパークスタジオ倉(そう) | THEATER-SO(東京都)

2017/04/25 (火) ~ 2017/05/07 (日)公演終了

満足度★★★★★

これは五星にしませう。炭坑三部作にもあった兄弟(姉妹)愛のモチーフだが、そのバリエーション(同じ轍に流れない)の書き分けに驚かされる。筑豊炭田を流れる遠賀川の船運送会社の斜陽の時期を捉えた物語で、四姉妹の次女と三女、父、三女を慕う青年四名の客演が申し分なく馴染み、良い意味で際立ち、複数のエピソードの絡まり具合といい、時折「劇」をはみ出す笑い取りといい、二次曲線的に競りあがる激情の瞬間といい、全てが絶妙な按配で「静かな屋台崩し」のラストもドラマの理に適い、完成度という言葉を使うなら、高い完成度を達成した桟敷童子の面目躍如たる、というか往年の舞台。

ネタバレBOX

甘い結語に流れがちでもある桟敷舞台の中で、鋭く光る断片的な言葉が時折耳を刺激する。その背後の、現実味のある現実と言えば、例えば・・被占領国となるという事はどういう事か。身を粉にして働き、病んで死んで行くという事はどういう事か。
米兵による強姦殺人の被害者となった沖縄女性を想起する。そうやって劇場の「外」との関連の線を見つける。劇世界の中で完結したい願望と、しかしその中に作り手がこめた「現実」というものの断片を拾うべき義理とを思い、私は「米国に占領され、そして今も協定と密約によって法的に米国による占領に等しい状況にある」という事実を、この作品の横に添えおきたい。
この丗のような夢・全

この丗のような夢・全

水族館劇場

新宿 花園神社 境內特設野外儛臺「黑翁のまぼろし」(東京都)

2017/04/14 (金) ~ 2017/04/23 (日)公演終了

満足度★★★★★

笑い泣き有りの路上劇(多分さすらい姉妹)を歳末の寄せ場(所謂越冬)でやってて、あれの本体は水族館劇場と言うそうだ、と耳にしたのは十何年か前。最近HPを見つけてチェックするようになり、夢の島公演、これに二の足を踏んだ所、その年に知り合った芝居好きがその公演の事であろう、心底衝撃を受けたと証言。
それで次の太子堂公演を観、年末寄せ場のさすらい姉妹(今もやっていた!!)を二年続けて観た。こちらも芝居的には一趣向だったが、本体のテント公演の何力と呼んで良いのか言葉が浮かばぬが、圧倒的なその持てる力を今回は存分に堪能した。

初の新宿公演即ち花園神社進出、なのだとか。四方に足場を組み、傾斜客席三百席。梁山泊の十八番である池も作られているが、こちらは鯉が泳いでいそうな苔むす濁った水、これに役者が飛び込む。幕間の余興芝居で釣り師が本物の(まさか作り物ではなかろうというリアルさ)巨大な錦鯉を抱えて登場するというこだわりだ。

アングラ的尺度(紅テント的尺度と言った方が良いか)に照して、往時のエネルギーに最も肉薄しているのがこの一座なのでは・・。
役者力をみせる者もいるが、モロ素人の起用率は高く、古参女優二名は名優と言うよりきわもの感を湛えた怪優の類。だが妙なる台詞に導かれ、幻想物語は進行する(宣材に書かれたあらすじが補助になるかは怪しい)。奇妙な展開に意表を突かれ通しだが、作り込まれた舞台による説明不要で言葉を封印する屋台崩しのカタルシスは「正統に」追求されており、その中心に「水」がある。

唐十郎的世界=遊戯性と革新性を互換させ得る表現は、安全圏を相対化する危うさを醸すが、これ即ちアングラであり、源流は「面白がる心」のようである。

忘れる日本人

忘れる日本人

地点

KAAT神奈川芸術劇場・中スタジオ(神奈川県)

2017/04/13 (木) ~ 2017/04/23 (日)公演終了

満足度★★★★★

KAAT公演は初地点観劇の「悪霊」、「三人姉妹」、前回の「スポーツ劇」に続き四作目だが、毎回新たな舞台構造(役者の動作や発語を制約する法則性を伴う)を作ってみせ、想定など元よりしないが無意識の想定を必ずや裏切られるのが、今や快感である。
今回は大スタから中スタに移ったが規模を縮めた訳ではなく、2スペースをぶち抜き、大スタにあるバルコニーが無い分むしろ開放感が増している。
中央に白木の舟が置かれ、周囲の空間を十分にとって紅白の紐で四角の結界を低く渡してある。
七人の俳優の衣裳が奇妙である。モンペ姿の男、着流し等、奇妙に「和」を混入し、最初は皆小さな日の丸のシールを貼ってある以外は統一感が無い。
だが地点特有の喋りの前には、衣裳の違和感など背景程度である。
と言っても今作ではテキストじたいが謎めき、不自然に区切る喋りはだいぶ抑えられていた。
忘れる日本人」のタイトルが既に挑発的だが、手脚だか触角の先を小刻みに動かしながら動くミジンコのように動きながら喋るのが、今回のスタイル。微生物並みにすぐ忘れるという皮肉なのか、殊更に強調していないが、笑える。結界あたりの透明な壁に手が触れるとバックに流れるノイズが無音になり、結界から外に出ると不可思議な音に変わり、その者は喋りをやめて脳が停滞状態になる...忘却の時間だろうか?

芝居の中盤から中央の舟に手が掛かる。これを抱えようとしたり実際に運ぶ様は、ちょうど舟が日本列島にも見えてきた頃合い、国を背負わされて右往左往する日本人を写して雄弁。
地点の役者力を目の当たりにした。

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