イヌの仇討あるいは吉良の決断 公演情報 オペラシアターこんにゃく座「イヌの仇討あるいは吉良の決断」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★★

    確か2002年頃がこんにゃく座初観劇だから以後の新作は萩京子作曲による作品(寺島陸也作曲「変身」を除いて)。林光作曲には旧作の再演で二つ程お目にかかったはずだが後継者=萩京子との本質的な差を感じず、聞き流したようだ。
    今回の林光楽曲にはこれまでにない深い水深にまで引っ張られた感がある。そして恐らく舞台の展開との絶妙な対関係があった。演出は上村聡史。何より惹かれたのは井上ひさし作品だという事。元々の戯曲を林光がオペラ台本化・作曲した。

    オペラとは台詞に旋律(曲)が付く様式だが、ストレートプレイの台本に旋律を当てはめるのは元々無理を承知の助。林光の文章に、歌で台詞を言うと三倍の時間を要するとあった。オペラ仕様に書かれていない戯曲、しかも細部からドラマを展開させる井上戯曲では、削ぎ落とすのも苦労だったろう。上演時間3時間弱(休憩込み)。
    生身の人間の表現の幅・バリエーションと、十二音階のピアノの語彙(表現のバリエーション)とは比べるべくもなく、芝居の前段は「台詞を続けるための旋律」が長々と続く部分があって睡魔に抗えず。一、二年前こまつ座の『イヌの仇討』(東憲司演出)を観ていたものの、かなり眠ってしまった観劇だったため細部は覚えず、今回はドラマの骨格が組み上がって行くのを面白くみた。こんな話だったか・・と、井上作品の構造の確かさに唸る。

    ネタバレBOX

    芝居は「忠臣蔵」の一方の立役者、即ち悪役・吉良上野介が、自邸の敷地にある味噌蔵へ家来やお付の者らに導かれて入って来る場面から始まる。
    美術は乘峯雅寛。実在した吉良邸の蔵だからか、リアルのさかさま、舞台奥の広い面全体に大雑把な筆の手描きの「内壁」(落語「だくだく」のよう?)が張られ、両端が角で折れて側面の壁の途中まで来ている。上方に横長の隙間があき、提灯様の横筋の入った巨大な月(の一部)が覗いているカタチ。下場は奥と上手側に一段高い三、四尺幅の板、中央は広間となる。この簡素な大きな長方形の内外全体が演技エリア。

    時は折しも生類憐れみの令を下した五代目将軍綱吉の世、「松の廊下」の刃傷沙汰での沈着な対応を褒められ、吉良は「お犬様」を下賜奉られたが、下手に扱えないその犬も連れての避難。・・と、床の堅さが足に痛しと嘆く(歌う)吉良に、お犬様が乗っている錦の座布団をと提言する者、「滅相もない、お犬様が第一(お上に知られては一大事)」と反駁する者、ややあって妙案「お犬様を抱いて座布団に座れば不敬の謗りは免れよう」・・といった武士階級への皮肉めいたくすぐりが序盤にある。

    芝居は吉良側の登場人物だけで進んでいく(声だけは敵のものが入る)。敵・大石内蔵助以下の赤穂の浪士も「登場」する。それは横を向いた侍の輪郭を切り抜いた板(ベニアか厚紙か)を、黒子が持って。それを舞台ツラに四つ並べて、上方の隙間にも影がシルエットが見えると、敵に包囲された状況。また板を持った黒子二人が掛け合いをしたりも。戯曲では恐らく「声」とあるのだろう箇所をちょっとした見世物に変える演出の妙技だ。

    この話は忠臣蔵のパロディだが、史実としての赤穂浪士の決起は、庶民の関心、同情、憧憬を勝ち得、その事が両者の帰趨に影を落とす。謂れのない誹謗との吉良側の不服もっとも。徳川家と濃い姻戚関係を持つ吉良家、お上の信頼をもとより得ているものの、不穏分子による討ち入りの危険を逃れ、蔵にこもる事に。が、次第に情勢の変化が起きて行く(のを吉良は察知する)。不安に揺れ動く心情の吐露に、「うた」は最適である。お上が事態に介入せず様子見を決め込んだらしい(つまり応援は出さない)と「読んだ」吉良は、一つの覚悟を腹に決めた様子である。演じた劇団古参の大石氏は、尊敬に価する人物像を既に作っている。

    世間にも権力にも不当に見捨てられた者の最期を追体験する物語は、氏族階級の中に庶民の代表である盗人一名が紛れ込んだ事で立体化してくる。また敵の網をかいくぐって情報をもたらす春斎という厨房の者も「外」の風となる。特に彼が伝える総大将大石内蔵助の言動が、吉良に事態を読み取るヒントを与える。やがて吉良は、大石がこの騒ぎを道理の無い茶番であり、大きなうねりに飲み込まれて非の無い相手を「仇討」たねばならぬ事態だと捉えていると洞察する。そしてその生け贄は、今この蔵に押し込められた、いたいけな?吉良の者たち・・。

    ニクイ演出は随所にあったが、圧巻は急速にシリアスを窮めるラスト。事態を厳粛に受け止め、なお生きよういう思いで刀を手に出て行く者ら、そして最後には腕に覚えのある吉良自身、美しくかたどられた彼らの輪郭が舞台上方に収まり、高みに達した旋律がリフレインし、「忠臣蔵」の裏面史が「忠臣蔵」本編さながらに男泣きを誘う「滅びの美」として完結した。いや、隣席の「女性」も泣いていた。

    見事忠臣蔵を逆転させたパロディが、皮肉の炎をこうも激しく焦がす話だったとは・・こまつ座の舞台の時には読み取れなかった(寝ていた者が何をか言わんやだが)。

    さて侍より世慣れて一枚上手の泥棒も、刀には抗えず・・と見せながら、去る気がなくて居る様子の彼は、実は人情に厚く、やがて吉良家の「仲間」と自任し、白状するに至るという「変化」がある。事態逼迫した終幕近く。泥棒は「決死の闘い」に備えるべく物を取りに外に出ようとしたところ、敵の刃に倒れる。痛ましい死を前に悲壮な覚悟を決めた彼らはあたかも「明日」があるかのように、談笑する。若い侍二人はお付きの者二人と「お似合い」とのお墨付き、明日祝言を挙げる約束をし、先輩は「高砂」を謡ってやると半ば冷やかし。その時既に「内壁」の描かれた布幕は落とされ、闇のような光のような「向こう側」が現われている。
    侍たち一人、また一人と正面奥中段、月の見えていたあたりに集まって刀を構えて不動の体勢、見守る女たち。最後に吉良自身がそこへ昇って行く。断頭台への階段に重なるが、「生きよう」というつもりは変わらない、その事を強烈に印象づける「形」・・「向こう側」を、侍たちは未来(少し先の、あるいは数百年先の)であるかのように見つめている、と背中が語っている。私も日本人の一人という事か。滂沱の涙、をどうにか堪えながらもこのドラマの構図が持つものには抵抗できず、震えた。名も無く、又は悪評の内に消え去っていった歴史上の何万何億の人間が、その生を昇華(鎮魂?)される儀式。これを仮に「演劇」だと定義するなら、この和風オペラこそ演劇の王道。
    美しいシルエットとなった彼らは、その「美」において(赤穂浪士に劣る事のない)伝説となった。。
    井上ひさし、林光(以上故人)と、上村聡史の合作に惜しみない拍手。

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    2018/09/26 04:08

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