tottoryの観てきた!クチコミ一覧

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渡りきらぬ橋

渡りきらぬ橋

温泉ドラゴン

座・高円寺1(東京都)

2019/06/21 (金) ~ 2019/06/30 (日)公演終了

満足度★★★★

役者もやるが演出力あって演出に専念?と思えば、脚本も物し、脚色ばかりか完全オリジナルまで書く。演出・執筆とも劇団外からのオファー多数である・・。一定の才能は認められるが「これ!」という突出した舞台を観た記憶が私にはなく(「birth」凱旋公演も然り)、「きっとこの人は人脈作りに長けた人なんだろう。」というのが、いつの間にか出来上がったシライケイタ観であった。
で、今回・・この印象に大きな変更を迫られなかったが、なかなか面白い芝居だった。
オール男性キャストという特徴は、私には良い印象を残した。公演は趣向と合わせて記憶され、今後「性別と配役」問題を論じる際の貴重な参照事項を作ったと思う。つまりこのチャレンジは一応の成功を遂げた。

ネタバレBOX

明治大正の女流作家を題材にした作品(男5人女9人)をオール男性キャストで上演した経緯については、単純に「劇団に合うやり方を考えた結果」、また後付けで「性差を超えるものについての探求にも」的な演出家の証言がパンフにあったが、その通りの舞台であった。
役と演じ手との距離(誤差?)はどんな芝居にも大なり小なりあり、無論「ない」事を目指した演劇があって良いし、役との距離が縮まる(=役が深まる)ほど濃密な劇空間が作られるのは確かだが、「点を繋いで線を、面を構築する」想像力を的確に補助する事により観客は劇世界を構成し、舞台は成立する。
(時を経ずしてワンツーワークス「男女逆転版 マクベス」も観たので、これについてはまた改めて考えてみたい。)

役を深めるのに年齢、出自(母語)、そして何より性差がネックなのは当然であるが、もし今回の舞台を女優陣を招いて通常の配役で作ったらとどうだったろうか。あっさりし過ぎて薄く感じられたかも、と想像するのは今回の舞台から何かを引き算しているせいか。全く違う物になっていそうでもある。想像力のハードルを設ける事で観客はよりリアルに像を結ぼうと脳内作業を活発化させ、「女人藝術」を発刊した女性達の物語へ、尻を叩かれるように近づいていく。まあそんな効果があったように思う。
「成功していた」とは、想像力のハードルが適度に機能し(という事はそれなりに役柄に近づきもし)、決定的な欠陥に見えなったという事だ。私は男であるので、男側から女性という存在に迫る行為自体に同期したという事もある。以前「楽屋」を男優で演じたのを観た時に全く入り込めなかったのと比較すると、男が近づき難い女の情念こそ楽屋の醍醐味なのに対し、今作は新作である。自立や生活や創造といった性差に関わらず共有できる普遍的テーマに重心があった。このテーマ性はぎくしゃくしながらもしっかり伝わってきたのである。
座高円寺の大きな容積を、高い橋を渡して贅沢に使っており、高低差があるだけで芝居も立体感が生まれた。
「蛇姫様~我が心の奈蛇~」 

「蛇姫様~我が心の奈蛇~」 

新宿梁山泊

新宿花園神社 特設テント(東京都)

2019/06/15 (土) ~ 2019/06/24 (月)公演終了

満足度★★★★★

夏の梁山泊 on 花園神社境内を今年も観劇。桟敷での観劇は苦行だったが甲斐有り。

雨を堪えた日の夕刻、外気は幾ぶん涼しいがテントの中はじんわり暑い。前方席につき、透明ビニルシートの具合を確認。頻回の水攻撃は防いだが、終盤血のついたナイフからの飛沫を被弾。
そのくだりを思い出すと、主役(男)が他人の台詞の合間を盗んで、左手からナイフを持つ右手へ何かが移るのを見て、オ、血ノリだな、と思い手元を凝視する。と、ヒロインが帰化書類の捺印に必要な印肉を提供するため、左手にナイフをあてがい、血糊を手元で絞ればナイフの刃に沿って皮膚上を流れるという按配であった。
そんな風にドラマ外のあれこれに注意を向けながら同時進行でドラマを味わうという脳内操作がほぼ全般に亘る。自分は何を見ているのか・・・問う前に躍動する自分を感じる。

難儀な物語説明は省き、幾つかのキーワードを。
・箱師(この界隈では掏りの事)
・主役(男)は山手線でスリを重ねた過去があり、名を山手線と言う。
・床屋
・エンバーマー、エンバーミング(遺体衛生保全)。ヒロインが日本で生きるために取った資格。最後に「帰化」を要求される。
・右の二の腕の痣=蛇のうろこ(ヒロインの幼少時の秘密。“山手線”に自分が蛇姫である由来を語り、「姫」と呼ばせる)
・小倉、キャンプ城野(ここで起った黒人米兵脱走事件もモチーフの一つ?)
・小倉砂津港を出た船(母が乗った船。遺体を故郷朝鮮へ運ぶ目的だったが、母は何人もの死体に犯されたという。ヒロインはその娘。)
・母の手帳(山手線から掏られたそれを取り戻し、母と自分の過去を探る旅をしている)
・スプーン(手帳に挟まってあったもの。癲癇持ちのヒロインが発作時に加える)
・バテレンさん(幼いヒロインを知る神父、やがて信仰を捨てる)

「姫」を演じる水嶋カンナが亡き母の過去、即ち己の出自を探りながらもその危うさに恐れおののく可憐な姿は、年齢がそう見せるのか知らないが役者の奥行きを感じさせ、殆ど幻影に等しい物語世界を観客の前に肉感的に立ち上がらせた。
ラストの屋台崩しは、お馴染みの男女コンビの片割れ、申大樹が降り注ぐ水の中へ立ち向かっていく姿、その先には長い胴をくねらせ天上へ昇る大鶴義丹演じる狂える蛇の化身。蛇の夢は縁起が良いとか。
危うい滑舌もキャラとなりつつある年々テント舞台にこなれて行くかの大鶴氏、ギター芝居も達者な(名前失念)、あられもなく肌を見せるも得体の知れない役柄に収める傳田圭奈(新人として紹介されたのは十年前だったか)、その犯罪姉妹の姉の方を演じた佐藤梟(捨てるものなどないかの如き)、梁山泊と歩いて幾年月、三浦伸子、といった面々に思わず声援であった。

ビューティフルワールド

ビューティフルワールド

モダンスイマーズ

東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)

2019/06/07 (金) ~ 2019/06/23 (日)公演終了

満足度★★★★★

モダン流人間讃歌。これを観に当日券客が数十名、通路段に案内するため開演5分押させて下さい、との制作からの挨拶。そう言えば千秋楽であったと気づいて。
散々な話であり、「20周年」な要素も特に見られぬが、楽日の終演は温かい拍手に包まれた。
「まつり」的要素はドラマの中に。・・「それ」を選択可能な環境で引き籠りから人を解き放つものは何か、に答えたドラマ。散々な痴態を露見した銚子のある家族と界隈の人々の、こんな顛末は現実には無い訳で(基本はリアルベースの芝居だが確率的には低い訳で)。ラスト近くの主人公の変化からの締めくくり方は一つのファンタジーであり、アニバーサリーに相応しい幕引きに納得しながらその余韻に浸ったような事で。

ネタバレBOX

津村氏の最後の台詞、オーラスが聞き取れずそりゃ無いよと思いつつも母音がe、a、iであったので「世界」と類推し(聴覚的にはsekaiとは聴こえなかったが)大急ぎで終幕の感動に漕ぎ着けた。てな事もあったりして。
醜悪で笑える展開に40を過ぎた主人公は「自分が何も知らず見えてもいなかった」事に愕然とするが、その絶望的な気づきをバネに世話になった叔父夫婦の家を出る決心をする。
「知らなかった事の気づき」は年齢に関わらず人を前へ押し出すカンフル剤で、40過ぎでも初々しい溌剌さがあり、というよりその感覚を一瞬であれ持った自分に一縷の望みをかけるいじましさがあり、泣ける。
現代を切り取った優れた劇作。
すべては原子で満満ちている

すべては原子で満満ちている

小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク

こまばアゴラ劇場(東京都)

2019/06/14 (金) ~ 2019/06/23 (日)公演終了

満足度★★★

昨年知って以来ニアミス続きのユニットと漸く相見えた。
いきなりだが、何か考えられているらしいのだが伝わって来ない理由を考えた。既成の物語の舞踊表現であればこんな感じにもなったろう形態に、オリジナルゆえにテキスト部分も加えられたというような出し物だ。まずもって客席が四面(通常の客席側のみ二列、他は一列)となっている。ところが幾何学的デザインのオブジェが4つ置かれている内の一つが柱の形状で手前にあると、まことに見づらい(私の座った席が結果的にそうだった)。柱の向こう側のエリアだけで一番手が踊る場面があり、柱には隙間があいてて様子は見えるものの、形の美しさを見せる意味合いではないにせよ、顔は見えないし不自由感この上ない。
その部分だけならスルーしてもいい。ただ、全体に動きと台詞の呟きの組み合わせられた抽象的な「形」を伝える表現において、見る場所によって図が異なる形態をとった理由が判らない。
演技が通常客席側を意識した形に見える箇所もあったが、恐らくそれが正しい。だが敢えて四面客席にした。その理由は・・開始数分後と、終演数分前のちょっとした演出にあると推察される。いやそれだけじゃないよと反論されそうだが私にはそう思えた。反則ギリギリを攻める的なその演出も「本体」あってのモノダネ、あれを仕組むための四面客席なら本末転倒。ああいう事でもやらなきゃ今の演劇は枯れコンもいいとこだ、との謂いなのだろうか。発される言葉には時折鋭い響きを認めたが、こう抽象に紛れさせては力の持ち腐れ、糠床に眠らせた拳銃を想像する。
私の角度からは、という限定付ではあるが、よく言えば隠し事の多い表現、悪く言えばワークショップでたまたま出来上がったのをさも価値あるもののように体裁を整えた表現、との印象だ。残念な初見であった。

THE NUMBER

THE NUMBER

演劇企画集団THE・ガジラ

ワーサルシアター(東京都)

2019/06/18 (火) ~ 2019/06/23 (日)公演終了

満足度★★★★

THE・ガジラの「年間ワークショップ発表」が今年は「GAZIRA S.A.T」(=サテライト)と呼称が固有名詞になり、あな嬉しやいずれ「劇団」化も視野に?と想像を膨らませたが、説明のくだりには「鐘下による実験的公演」とだけ。「発表」というレベルでないな、とは前から感じてはいたが、見合う名称をという事か?
それよりも、鐘下流の「かなぐり捨てる」演技領域にまで身体を追い込む劇が、「劇団でもないのに」やれてる事に着目すべきかも?遠未来SFの独特な世界をワーサルに作りこんだ装置、照明、演出趣向もさりながら、俳優の貢献の比重は非常に高いと感じた。作品もユニーク。

ネタバレBOX

今作はSF作品を台本に書き下ろした、一応「新作」のようである。今まで無かった特徴として、なぜか体言止めの台詞が多く、話し言葉化しきれないニュアンスを「詩」に寄せたような感じを持った。オドシに近い音響効果が「単なる場転じゃん」な箇所にも使われたりと部分的引っ掛かりがあったが、終演してみればこのソ連時代(戦前)に執筆され冷戦崩壊まで陽の目をみなかったSF小説の世界=1200年後の未来の世界に、浸っていた。
「これは隠喩ではない。この目で見た事実だ」として本人の手記を元に紹介されるエピソードは、「管理社会」を隠喩したSF作品である点で「1984」を連想させるが、風合いは随分違う。
宇宙開発競争を既に見通したかのような記述や政治的泥臭さを連想させる要素は無いわけではないが、この物語の議論は人間の権力志向の極限での管理社会化でなく、人類自身が選択した社会であるとしている点が特徴。人間は自由を求めるが、それを使いこなせなかった、との強い反省が高度な管理システム(の正当化)の下地にある。恋愛が管理主義と相容れない要素としてドラマを動かす部分など「1984」とも共通するが、物語の流れとしては(小説の出来は知らないが)こちらの方が飲み込み易い寓話である。
計画経済の優位性は東欧社会主義体制の崩壊で瓦解したとされるが、最大の弊害は「正しさ」を背景に正統化される一党独裁制と官僚制にあって、チェック機能の働かない仕組みでは「何がより適切な計画か」は判定できない、ばかりか粛清までが起きた。しかし、という事は一定の適切性が担保されるシステムがあれば計画経済も理論上は悪ではないとも...。科学文明が人類自身に差し向ける危険と、自由主義がもたらす恩恵とを天秤にかけ、どちらが人類が選ぶ道に相応しいのかを「二百年戦争」という自由がもたらした惨劇というフィクションを付加して(下駄を履かせて)議論しているのが今作であるが、どちらが正しいかは実は自明でない事を思う。
2.8次元

2.8次元

ラッパ屋

紀伊國屋ホール(東京都)

2019/06/09 (日) ~ 2019/06/16 (日)公演終了

満足度★★★★★

面白い(知的)、楽しい(うきうきアドレナリン)、どこか懐かしい(バックステージネタ)、切ない(演劇界のある断面)、、、日本演劇史、殊に「新劇」をめぐっての言い尽くされたような「あるある」が、かくも新鮮に耳に響くのも2.5次元という当て馬の効果で、これは着想の勝利である。
冒頭に稽古場を訪れる高齢の「見学者」(劇団女優が勤めるスナックで知り合った)が劇団のすったもんだの風景を眺める観客に重なる第三者となり、かつ経緯から出演する羽目になる巻き込まれ展開、そして苦労の果てに成功裏に終えた公演後、夕日の射す稽古場の二階の開け放たれた窓の外を眺めながらの彼と女優との会話・・「座長にここで待てと言われて」「あ、きっとギャラを渡すつもりね」「ええ?そんな」「いや公演が成功したのもあなたのお陰。ただもう少し稽古すれば、もっと良くなる。続ければいいじゃない」と、夢でしかなかった舞台出演にかけ稽古に燃えた彼は、ふと沈思し「いや、それはやめときます。それを人生にする事は自分にはできない」・・この固辞する台詞に信憑性を感じられるか否かが、実は非常に重要なポイントで、これはくたびれた、と言えば失礼になるが新劇団の団員らが「劇団」を浮かれた気分でやっていない、やれない事情をそれぞれリアルに体現していた下地あっての信憑性でもある。大概「これきりでやめとく」なんて台詞は、本人がその瞬間どうあろうと舞台に棲む魔物の前では無力で無意味で信憑性がないと、演劇界の恐らく誰もが知るところだろうから、これを言わせても偽善的空気が流れないための芝居上の配慮が必要なのである。これをラッパ屋はさらりと言わせて、彼はそれでいいのだと観客にも納得させる要諦は、彼が精一杯これに打ち込み、舞台を謳歌し楽しんだことに尽きる。そして彼は自分の欲望の何であるかを知っており、自身と折り合いを付けて生きる事のできる強い人である。演劇を人生としてしまった人、とは他者の評価に餓え、欲しがってしまう人、であるかも知れない。それが許される特権を持つのが俳優である、とも言えるのかも知れない。
脇話が膨らんでしまった。
この定年退職組の見学者が、「ジャズが好きでね」と言うのが今回導入されたピアノ生演奏について「音楽面」で言及する唯一の台詞。そしてジャズ・テイストのBGMと、ホロリとさせるテーマソング、これを見事に歌うミュージカル女優の客演により音楽的に贅沢な出し物となった。これには文句が言えない。楽しい、面白い、ホロリ、楽しい。

『アニマの海』─石牟礼道子「苦海浄土」より─

『アニマの海』─石牟礼道子「苦海浄土」より─

劇団文化座

俳優座劇場(東京都)

2019/06/13 (木) ~ 2019/06/23 (日)公演終了

満足度★★★★

文化座をたまに観るようになってまだ数年だが、金守珍、鵜山仁といった実力者を演出に招いた時は満を持しての新作である。今回挑んだ石牟礼道子の「苦海浄土」は劇団代表佐々木愛氏によればずっと高みにあった目標、でもやるなら今と思ったという。そして初の演出は栗山民也氏。
私が観た栗山演出舞台はこまつ座と新国立劇場公演を数える程度だが、サイズ大の舞台でインパクトある美術、視覚的な構図へのこだわり、粋な仕掛けといったイメージが占める。テント芝居や桟敷童子の<仕掛け>を知った目には、正直、費用対効果的にはイマイチな印象も(調べてみたら地人会新社「豚小屋」という小劇場での秀逸舞台もあった)。
だが、こたびの文化座公演、ハコとしてはやや小さい俳優座劇場の舞台にハッとするよな美しい絵が言葉以上の雄弁さで物語る瞬間があった。最初のそれは自然の雄大さ無慈悲さを示すモノトーンの息を飲む美しさ。最後のそれは、その自然の中に人が集まり寄せ合う心が織り成す光景の見事な構図(この絵を思い出すだけで泣けて来る)。
ある構図を成すことで何かを伝え得る事を思い知らせた本作は、演出家栗山民也の力を初めて実感させられた意味で突出した作品になった。

ネタバレBOX

脚本は文化座常連の杉浦氏であるが、今作は不思議な作りである。こういう言葉を紡ぐ人であったのか・・と少々意外。「苦海浄土」のテキストが半ば導いたものだろうか。
舞台上は半抽象の美術。最奥ホリの空(と恐らく海)を臨む土手様のプラットホームから、手前へ3段程ひな壇式に下りた平らな広い台が主な演技エリアで、下手に仏壇、中央に座りテーブルのみで漁師の家族の居間を示す。そこに近隣者や姻戚の者等が行き交う。海を眺めているのだろうか、背後の土手上のラインにシルエットのように浮かぶ少女が戯れるように歩き、この存在の抽象性が、次元を超越した「語り」や、物言えぬ者の「心の声」、時空を超えた人物の交差を可能にしている。
劇にも登場する作者(を象徴する役)が水俣をみる眼差しが、水俣の風景の中に混じり行く。水俣病という事件を辿る叙事詩でありながら、どこか遠く地平線から人間の織り成す情景を俯瞰する温かな視線を感じさせる。
大部の著作から抜き出した最小限の要素を、最適な仕方で組み合せ、1時間半に凝縮した。
予言者たち

予言者たち

神保町花月

神保町花月(東京都)

2019/06/13 (木) ~ 2019/06/23 (日)公演終了

満足度★★★★

神保町花月初訪問。ナカゴー組が吉本芸人(2人コンビ×2組4名の予定が1人事故により降板)と笑う舞台を作る。降板した1名の代打が東葛スポーツ・金山寿甲だったためか浅草九劇でのナカゴー「ていで」の光景が蘇り、また予言する女(高畑)も既視感あったが・・見て行くと過去作の要素を使い回しているものの大々的オリジナル作品であった。
85分。開演前の奇妙な場面紹介から、開演後一列に並んでの・・いや触れるのは控えるが、何しろケッサク。吉本芸人を知らない私には出来る役者としか彼らは映らなかったが、客は芸人の初動に笑いを返し、頗る反応がいい。笑い声が起きなくとも皆ニコニコ興味津々とばかりに目を輝かせている。良い劇場だな・・と、後で見れば役者の半数に当たる4名(予定では)が芸人、吉本プロデュースな訳である。ファンが観客と言って過言でなく、また芸人付きのファンとは限らず花月ファンというのも居そうである(終演後の声から推測)。そんな中ナカゴーテイストが芸人の芸達者の貢献もあってしっかり客席に受け止められたという感覚に、妙な温かさを覚える。
何なら家族ドラマ的展開では思わず泣ける場面にも見えた芸人のパワフル演技、金山の気持ちイイ江戸弁の亭主役も中々見せてくれ、ナカゴー看板女優連+川上友里の変わらぬポテンシャルも快感。

過激にして愛嬌あり 宮武外骨伝

過激にして愛嬌あり 宮武外骨伝

オフィスワンダーランド・(一社)演劇集団ワンダーランド

座・高円寺1(東京都)

2019/06/05 (水) ~ 2019/06/09 (日)公演終了

満足度★★★★

初見のワンダーランド・テイストをほぼ裏切らない二度目の観劇であった。明治以降の文化人を紹介する舞台がその仕事の全般と言って良い竹内一郎率いる「劇団」だが、演劇好きから見ると演劇という手段の勿体ない使い方をする集団である。言わば文章の立体化の域を出ない。もっとも文は演劇のドラマ性を導く重要な一方の車輪ではある。ただ竹内氏の文体が文学的でなく子供向け伝記シリーズのようで、よく言えば人間の内面にまで主観を踏み入れない叙述だからそうなるのかも知れない。それでも前作に比べ宮武外骨という傑物が題材だけにそれを味わう楽しみはある。前作への大いなる不満は人物紹介の素材である情報が薄く、風刺画の北澤楽天と岡本一平の漫画漫文の紹介があり、両者に対立や盛衰の図を当てはめる世間に対し、否前者から後者が生まれたのだ、それにホラ(ここはフィクション)ある公園で(確か楽天が生んだ漫画キャラの)片足の悪い少女を介して二人は出会っていた・・これで説明しきれる程度の内容で、似通った説明の繰り返しは少々きつかったがこれは題材の問題だったとは今作との比較で言える。が、その宮武外骨も、私の望むような演劇的高まりは見せない。あくまで文章で引っ張っていく、それを役者が立体化して判りやすく見せている。
前作のフィクション部分は漫画キャラの登場だったが、今作は宮武本人が現代のある風俗雑誌の編集室に突然現れる。というのもカメラマンが風俗店でたまたま撮った写真に政治家の裏取引の現場が写り込んでおり、これを公表するか否かで紛糾していたからで。現在の安倍政権による報道圧力を揶揄しているが設定自体には現実味はない。この設定にどういうこだわりを見せるかが、分れ目だろうか。
俳優は口跡よく噛まないし(噛みそうな人が約一名いたがノリで乗り切っていた)動きも明瞭、座高円寺の広さも気にならず、抜き板を組み合わせた抽象美術(松野潤)は風格があり、音楽も的確で分かりやすい。だがこの勿体なさは何だろう。

カケコミウッタエ

カケコミウッタエ

日本のラジオ

三鷹市芸術文化センター 星のホール(東京都)

2019/05/25 (土) ~ 2019/06/02 (日)公演終了

満足度★★★★

日本のラジオ観劇も何気に回を重ねる中、間口の広いステージで観る新鮮さがあった。そして舞台のユニークな使われ方も印象的ではあったが、印象としての最大は屋代氏による翻案、原作『駈込み訴え』との絶妙な距離のとり方だろうか。文句を先に言えば、名瀬役の俳優の台詞が早口と標準語でない抑揚で聞き取れず、指定を誤っている(狭い劇場なら反響なく耳に届くだろう速度だったが)。そのせいばかりでないにせよ度々睡魔に襲われた、その上での以下感想。
原作の一人称の語り手(ユダ)に重なる粕井(フジタタイセイ)と、イエスに重なる名瀬(宝保里実)の構図の捉え方が面白い。特にイエス側からの(時間を超越して未来から語るような)応答が、ユダの屈折した感情が一方的に生れたのでなく関係の相互作用があった、という視点を示すところ(もちろんフィクションではあるが)。
「健康道場」なる宗教チックなサークルのような団体を設定し、そのメンバー数名(ひやかし会員含む)や共通の知人(独特なキャラを持つ兄弟)が交わす会話によって、健康道場やメンバーについての情報、またそれを通して人間の依存性や、宗教的側面や抗えない心情などメインテーマにどこか繋がるような視点を掘り起こす。そしてそこここにキリスト教のモチーフが鏤められている。
ちなみに健康道場は自然(の意思)という意味に近い「おひかりさま」なる存在をキーワードに、メンバーが話をしてそれを皆が聴くという儀式のようなピアカウンセリングのような時間を共有する、言わばサークル(信者を狭い教義に閉じ込めて搾取し団体勢力拡大を目指す新興宗教とは一線を画しあくまで「よい生き方」を目指す単純で純粋な団体という設定になっている)。
イエスに重なる名瀬は団体のリーダーでも多大な支持を集める存在でもないが、ユダである粕井は名瀬の天真爛漫さ、自由さを心中嫉妬を伴う感情で見ている。形象的には名瀬はアスペルガーや精神障害を想像させ、一見突飛だが何処か芯を穿った言動を行なう「天才肌」(見方によれば役立たずと一蹴されかねない)。その名瀬に作者は、健康道場での「話」はそれらしくアレンジした創作で、毎回メンバーを納得させる話を捻り出そうと努力した、との台詞を言わせる。だが頷くメンバーの中で粕井だけは違う反応をするのを「気にしていた」、とも語らせる。さらに名瀬は、自然を志向する健康道場で重んじられ発揮されるメンバーらの素直さを、粕井は「憎んでいるようだった」と言い、ユダなる粕井の人物像を捉えていた事を仄めかす。
終わってみれば、宗教や聖書や運動を揶揄するスパイスを時折まぶしつつ、自由な名瀬と些事に捕われる凡人粕井の構図をあぶり出し、互いに認識しあっていたというドラマ性によって溜飲を下げる中々上出来な作品に思えた。が、記憶は歯抜け状態。買って来た台本を読み直してみる事にする。

ネタバレBOX

台本を読んでみたらやはり見落しは多々あり、概ね雰囲気は掴んでいたようだが若干印象は変った。場面と場面(見落し箇所含め)の繋がり(因果関係)が普通にあり、思ったほど晦渋さはなかった。
一点、聖書の文言(を想起させる台詞)の挿入が唐突で、概ね巧く嵌ってるがいまいち効いてない箇所も。ただ全体として太宰の原作の要素を、フィクション性を下敷きに現代の卑近なケースに落し込む作業が成功しているように見えた。エピソードを補完するその他の人物も、しっかりフレームに収まっている雰囲気で。。
原作のフィクション部分とは、パン5つと魚2匹で何千人の腹を満たした有名な逸話がユダの奔走のお陰である事や、彼のそうした献身がイエスへの個人的な思慕からであった事など。愛が転じて憎さ百倍、命を引き渡すことになったという訳だが、このイエスとユダの関係に終始する原作に加え、周辺事情をこの芝居ではドラマに織り込んでいる。
「健康道場」に通う現代の「弱き人々」のハズい姿をイエスの弟子たちに重ねたり、名瀬が新団体を作った影響か、寂れた健康道場のリーダーをイエスに先行して福音を説いたヨハネに重ねたり(これは如何にも現代に引き付けた翻案だが)、ひやかし入会女やその妹(マリヤとマルタは唯一イエスの近親者で名が記される女性)や、名瀬のいとこだという田臥兄妹の無教育ながら筋を通す無手勝な存在が、イエスに従っただろう「弱き人々」の人物像をどこかなぞっていて、群像に見えて来る。

聖書の当時、人を日常から離脱させる契機は厳しい社会状況と終末観にあり、「今まさにメシヤが来る」と終末を叫ぶヨハネから、「私が神だ」と説くイエスへのバトンは「人々を導く」上で不可分だったのではないか。人が腰を上げるための終末論(という言い方を敢えてするが)が、何のためであったか、現代から客観的に見れば明白。ローマの一定程度緩い支配の下で固着したシステム・・律法学者という支配階級がユダヤ教を背景に「正統性」を手にし、聖書的正しさを「説く」側に常に立って自らを批判の的となる事を交わすことのできる仕組みそのもの・・の欺瞞を暴き、人を苦しめている支配構造を壊すこと。ズバズバと言葉で暴き立てたイエスは最後に殺された。
今日本も「壊すべき」構造を前にしているが、どこから手をつけて良いのやら皆が手をこまねいている。でもって現状肯定することで平静を保っているがそこに無理があるから逆に公然と批判を行なう人間を敵視する・・ここまで来れば支配構造もなかなか堅固なわけだが、芝居の方はこの現代がステージだ。
「終りなき日常」を低年齢で悟ってしまう現代とは、「終末観を奪われた時代」と言えはしないか。もちろんバーチャルなレベル(映画、ゲームその他)では終末観が持て囃されるが現実は別という事になっている(というか別の現実の捉え方もあるよね~的にごまかすツールを多々与えられている)。従って、その反動として終末観の極致へ走ったオウム的な動きが生じたのも自然な事ではある。さて芝居での団体リーダー・茅場は変えようのない社会の片隅で、心を整え生き易さを見出そうという事をやっているが、まことに「意識を変えること」の総和が世の中を変える、これは紛う方なき事実。要は、どの方向に皆がほぼ一致して変わるのが良いか・・言論の戦いのそこが要となっている以上、「団体」なるものも意図するしないにかかわらず自ずと言論闘争、団体単位では勢力争いの土俵に乗ってしまっているという事がある。本来的には、より勝る主張が人々を感化し得るのだから多くの人々の意識の変革によって社会が変わる・・そのための言論であるという公式が成り立つはずだが、現代日本の場合、まず「変わらない」という事実があり、その上でやはり主張を行なおうと思う・・すると自らの主張に賛同を得ることは嬉しく減ることは寂しい、という感情の問題が持ち上がる。嫉妬が起きる。魅力的な言論・勝利に近そうな言論、ないしは集団に人は集まり女性も集まり、男はそこで良い地位を占めたいと欲する・・。そこでリーダーと成員の感情のもつれが(この話のように)生じたりもする。
だがこれは本来の目的であった物理的な変革が、脇にやられた結果である。変わらない現実を半ば知りながら、「勢力図」だけを意識し、せいぜい団体を引っ張るだけが目的化してしまった時、連合赤軍事件のようなものが起きる。事件にならないそうした現象は社会の成員全ての回りで起きている。
勢力図や「敵を倒したい」欲求などとは離れた次元で、正論は何かを見極めたい「動機」を持つにはどうすれば良いのだろうか、、。
本当の悲惨を直視するしかない、というのが私の現在の結論なのであるが。しかし自分を省みても意識の改革などというものを他人に期待する程虚しいものはない、位に考えておくのが丁度良いとは思っている。それでもおかしいものはおかしいと、言える勇気を常に問われている自覚は持ち続けていたいものだ。(一体何の話だ)
もーいいかい、まーだだよ

もーいいかい、まーだだよ

山の羊舍

小劇場B1(東京都)

2019/05/29 (水) ~ 2019/06/02 (日)公演終了

満足度★★★★

かの別役実フェスでは、同劇団による同会場での「うしろの正面だあれ」が秀逸だった。「別役は面白い!」との発見をさせてもらった一つだったが、今回は当日の体調と、案内係の勧めに(心中抗いつつも)素直に従って後方席に座った事も手伝って睡魔に襲われ通しになった。
別役作品に特徴的な「丁寧語」でのやり取りには、可笑しみを狙った場合もあるが、何かを秘め隠す効果もある。この作品では最後に忌まわしい事実が暴露される、というオチがある。ただ私としては別役作品の世界は戯曲が「劇的」のために用意したオチに収斂していく構造ではなく、(最も難易度が高いが)その場その瞬間のリアルさ、空気・ニュアンスが立ち上る事が理想だ。それには余程役の人物の言動を「飲み込んで」おかなくてはならないが。

ネタバレBOX

別役実戯曲は役者を選ぶ。かなり高いハードルを課す。その性質を今作も実証した。という事を言いたかった。毎度の繰り言だが。
別役作品の展開のシュールさと、人物の実感ベースのリアリティとを、両立させる収まり所を探り、決定するのは役者自身で、展開に「流されて」はならないし「依存して」もいけない、役の人物として自律的に存在しなければ場面も自律しないし面白味が湧いて来ないのだ。
書かれた台詞以上の状況を役者が書き加え、能動性を与える事で漸くどうにかなる。それがないと別役氏の書いた言葉は観客に伝達されても、面白さは付加されない。ストーリーに引き込む芝居でないこのタイプは、最近の演劇色の濃いお笑いのコントに近く、別役氏が用意するオチは保険みたいなものでこれ頼みで台詞を繋いで行っても「所詮この程度のオチ」である。(今思い付くのはシソンヌや長尺の東京ダイナマイト。東京03等はストーリー重視のタイプで当てはまらない)
名指してしまうが今回、存在が定まらず泳いで見えたのが娘役(幼い頃家を出ていった父の何十年振りの帰還を迎える兄弟達即ち長男・長女・次男の内の長女)。それらしい演技をしているのだが強さがない。人物の中に渦巻く強い指向性が、人の目を釘付けて離さないという、そういった何かを選び、見出だし、その人生を生きているように見えない。もし何か選びとっているのだとすればそれを何らかの表現に結実させる力量を持たないか、いずれにせよ相当な負荷を俳優に要求する戯曲の中心的人物に座るには、脆弱に感じられたのは正直な感想だ。
別役フェスで山の羊舎に並んで衝撃を受けた名取事務所「壊れた風景」も、ブラックなオチが付く話だが、この舞台の面白さというのも、ストーリーとその結語であるオチがもたらすよりは、他人のピクニックの食糧を最後は大勢でパクパクやる過程そのものにあった。
森山開次『NINJA』

森山開次『NINJA』

森山開次

新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)

2019/05/31 (金) ~ 2019/06/09 (日)公演終了

満足度★★★★

第一弾「サーカス」は(昨年の再演も)惜しくも見逃したが、これに劣らず香しいチラシに手招きされ、第二弾を観劇。
日曜の正午、沢山の親子連れ。第一弾の美術・衣裳ひびのこづえは消え、今回は衣裳のみ。白木色の床(地色が見える瞬間は一度ある)に見事な映写術で映像が映し出され、ダイナミックな場面転換を照明共々映像がこなしてしまう。ダンス公演ではあるが「忍者」と題しただけあってストーリー性のある場面や、予測を裏切る多様な場面が展開(転回)し、休憩を挟んだ後半は舞踊の比重が大きいものの、目を奪われる「忍者」スペクタクルを花開かせていた。(子供がぐずる瞬間はほぼ無かったと思われる。)

ネタバレBOX

忍者でこう魅せたなら、サーカスではどうだったろう・・と興味津々ではあるが、題材を突き詰めて行くより題材に遊ぶ趣き。当然ではあるが「舞踊」公演としてまとめられ、次代の舞踊への種まきの使命を忘れていない。ただ演劇好きとしては忍者という題材なら非人間的側面とその悲哀がテーマに浮かぶ。勿論その線では子供向け舞台にならないだろうけれども。。
獣の柱

獣の柱

イキウメ

シアタートラム(東京都)

2019/05/14 (火) ~ 2019/06/09 (日)公演終了

満足度★★★★★

不全感を残したにも関わらず☆5を打ちたくなる・・そのexcuseは一先ず省略。
本作初演は観ていた。またその元ネタを含む4短編から成る「図書館的人生」も10年近く前、放映されたNHKシアターコレクションで見た。これが私のイキウメ事始で、番組では他に昴「親の顔が見たい」、ミクニヤナイハラ、モダンスイマーズ舞台を紹介、劇団渉猟を始めた身にとってはNHK様様であったが、、僅か10年の間に日本最大のマスメディアがここまでの凋落ぶりを見せるとは思いも寄らなかった、当時が懐かしい。
は、ともかく・・星新一ではないがSFや超常現象モノの面白さは短編が最も適しており、アブダクション(宇宙人との接触)の可能性を示唆する現象に躍動する超常現象マニア2人+片方の妹の顛末を長編化した「獣の柱」初演は、気宇壮大な物語もいささか説明が勝って感覚面が追いつかず、悪い方の予想が当った格好であった。不出来に思えた作品、しかも再演は普段避けるところ、改良版「獣の柱」を見込んで予約した。冒頭浜田氏が客席に投げかける言葉そのままに、「言葉」を獲得する以前の感覚を探り、言葉での説明を先行させない事だけに注力したかのような、空気感を重視した舞台作りが今回の特徴であった。その意味で初演の影は跡形もない。この濃密な空気感は、巨大な廃墟のような具象と褐色系の照明、チェロ主体の旋律、「現象」を示す音響、そして俳優の絶妙な演技が作っているが、架空の世界に体ごと入り込んだ錯覚に観客をいざなう技が、星の理由。
久々のトラムだったが左右の壁に当日券客が立ち、「判らない」ながら好感触を残して帰路につく客を多く見受けたように思う。

ネタバレBOX

不全感とは、、要は「判らない」。だが「判らない」は必ずしも怪しからんことじゃない。
本作は高知県のとある場所が舞台。「隕石シャワー」の翌日に天文学サークルの若い新メンバーが近くにある小山で奇妙な死に方をしていた事を伝えに、古手メンバー(安井順平)がもう一人のメンバー(浜田信也)宅を訪ねる場面から始まる。
話を聴いた浜田は、その若いメンバー(窪田人衛)と二日前に出会っていた事を安井に伝える。浜田は隕石を探しに他人の土地である裏山に深夜こっそり忍び込んだが、手ごろな石を発見してほくそ笑んだ時、同じ目論見だったらしい窪田に出くわし、収穫があったかと問われるも真実を隠して追及を逃れる。
その回想シーンは、そのまま浜田と別れた後の窪田の動きを追う。彼は夜明け近くまで隕石を探し続けるが、そこへ「ラッパ屋」と名乗る男(市川しんぺい)が現われ、「幸せ」をやる、という。そして男の手に握られた「ある物」を見せられると、多幸感に浸り動かなくなる・・。この「ある物」と同じ物質に、安井と浜田も行き当たる。
浜田の家には出戻りの妹(村川絵梨)がおり、安井は久々に(成人して初めて)彼女を見て思わず好感触を持った事を口にし、後に添い遂げる仲になるが、二人の関係の深化には状況の変化が投影し「事態」の経過の巧みな描写になっている。閑話休題。浜田が隕石片を先輩(安井)に見せた所へ妹が入って来て、手からそれを奪って逃げ、兄をからかうのだが、思わず手からこぼれてテーブルにぶつけ、表皮に亀裂が入った事で兄はカンカンになる。だがこの亀裂から覗いた物質が、問題の現象を引き起こす事をこの段階で「面白おかしく遊びながら」知ることとなる。彼らが顔を強ばらせたのはその日の新聞の一面に、東京渋谷の交差点で発生した大惨事の写真を見た時であった。

芝居は現代と、二世代下った未来の話に二分される。現代の話は「謎」とそれをを解くヒントを与えられた三人が、急迫する事態に素手で立ち向かうスリリングな話。やがて巨大な「柱」が人口密度の高い主要都市のど真ん中に突き刺さり始め、東京を逃れて戻った高知には縁ある人らも集い、柱(の素材である物質)の秘密を知る数少ない人らが事態をどう受け止めるか、対処するかを束の間の平穏な時間に議論する。このシーンは中盤とラストに、倒置法的に挿入される。そして一気に未来に移ると、人々は現代とは全く様子の異なる世界に生息していた。
この未来の場面は常に夜で、場所が四国である事とも合わせて同劇団の『太陽』に通じる雰囲気がある。「現代」の登場人物は、ここでは語られはするが既に実在しない。正確には約2名ばかり変わらず存在していて、一人は浜田が人格を変えた状態、もう一人は現代の時点で既に離脱しており、半世紀経っても外見が全く変わらない二人の存在が、最も判らない一つだ。
「未来」を迎えた時から、その後を占う手掛かりは少ない。作者は描き切れなかったのではないかと私は感じたのだが。

「散歩する侵略者」は侵略意思を持った宇宙人3体(人間の体に移り住んだ)が、地球人ガイドと契約を結び、人類の概念を学習して侵略に備える話だったが、この侵略者に当たるらしい存在として、本作には島忠(薬丸翔)なる人物があり、「未来」でも変わらぬ姿で登場する。実は島は近頃突如失踪を遂げて話題になった著名俳優で、先の「ラッパ屋」と彼のアウトロー生活の相方(松岡依都美)がたまたま四国の山中で彼と出会うが、元の彼とは全く異なる人間となっている。
前川作品として普通に考えれば彼は宇宙人が乗り移った身体かと疑うが、誘拐され人格改造されたとしても、宇宙人がそれをした訳で、宇宙人の存在は残る。失踪した浜田も、同じ目に遭遇したと考えられる。
しかし作者は、「散歩する・・」とは異なる可能性を示唆し、観客に想像させようとする。
逃げ帰った四国で主要人物らが交わした議論の中で、「柱」はどのように生れどこから降ってくるのかを考えるヒントとして、ある調査結果が示される。柱は地球の成層圏の外から落下したとは考えづらく、またそれらしい観測データは見られない。「柱」とは、地球というシステム(あるいは意思)が自浄作用として製造し、落としている自然現象なのではないか・・。
これを古来人間は「神」という言葉で表象してきた・・。
(つづく)
らぶゆ

らぶゆ

KAKUTA

本多劇場(東京都)

2019/06/02 (日) ~ 2019/06/09 (日)公演終了

満足度★★★★★

多数の客演でまとめ切った舞台・・と思いきや、殆どがKAKUTAメンバーだったのには驚いた。多田女史はなるほどだが、森崎氏までが。。他の初顔も実力派で、このたびの著名俳優四名をまじえての本多劇場舞台は、この分母あって「実」を伴うものになった、と思えた。何より嬉しいのは秀作『荒れ野』からポテンシャルを落とさず力作を生み出した作家桑原女史の仕事。彼女自身が出演する芝居ではしばしば、自力で芝居を回して閉じ繰りをつけようとする所が見られるが、今回は(タイトルに重なる台詞は背負わせていたが)自身の役どころを生き生きと楽しんでいた。冒頭からテーマ性の面ではトップギアで発進という感じ(映画「オーバーフェンス」を髣髴)、二場面(時空)並行で進むドラマが収束を見る事なく一幕を終えると1時間半、後半1時間で休憩含め3時間弱、それでも芝居にもっと浸っていたい思いが勝った。様々なテーマ満載だが盛り過ぎと感じさせずそれぞれの問題が絡まりながら、「彼ら」にとっての出所後ルネサンスの時代が、「本当にあったのか判らない・・いつか忘れてしまうんだろう」と終幕ある人物が冷たく振り返る日々が刻まれる。繋がりが紡がれていく順風な経過は、それ自体夢のようで、それ故忘れて行く劇中人物とは正反対に観客は、「架空の話」なのに「あった」ように脳裏に残っていく。

ネタバレBOX

変則的ではあるが作者は話の終盤に震災をぶち込んできた。この件に「言及する」事じたい不快を催す心理コードが広がる今、果敢にこれに触れ(私の勝手な仮説だが)演劇人桑原裕子の中の「骨」を示した。コールで俳優の笑顔も見えたラストは、震災までの「夢みたいな」日々を早晩忘れて生きて行くだろうとの予言を他所に、「日々」の舞台であった農村を映した短い情景によるが、そこに三人の姿がある。このドラマでは多くの人生が交わるが、ここで顔を揃えた三人が何によって結びつくのか・・さり気ない筆致でこの場面を据えた事だけでも本作の価値を語るに十分。
ボッコちゃん ~ 星新一 ショートショートセレクション ~

ボッコちゃん ~ 星新一 ショートショートセレクション ~

東京芸術劇場

東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)

2019/05/30 (木) ~ 2019/06/02 (日)公演終了

満足度★★★★

後でパンフを見て、ナショナルシアターという歴史ある劇団が韓国にあると知って小さなショックを受けた。韓流が近年の文化政策の成果だとよく言われたが、こと演劇に関しては1950年(朝鮮戦争の年!)に国営の劇団が設立された小さな事実は日本との大きな差を思わされる。日本で数少ない公立劇団は1976~兵庫のピッコロシアター、1997年~静岡のSPACとまだ歴史は浅い。
さて星新一である。ショートショート数編を順次上演して1時間半。スタイルは原作に適っていた。基本は小説の地文が語られ、会話が織り込まれる形で、地文と会話の比率も作品により様々。最初の「ボッコちゃん」は新しく作ったロボットの話で、説明の合い間にボッコちゃんの短い会話が時々挟まれる。観客は星新一のテキストにまんまと乗せられ、次はどんな会話が・・と前のめりに。上演スタイルの説明としても最適な滑り出しだ。天井を低く見せ、エピソードの変り目でシルエットを作るホリゾントや装置、その他照明や演出上の技術に加え、何より力量ある役者で舞台上が劇空間として十分豊かに満たされるので、小説のエッセンスを壊さないナレーション形式がむしろ適している事を実感する。
演出家はパンフに「星新一の作品はコメディ、寓話、悲劇の三つのカテゴリーに分けられると気づいた」と書いていた。原作は非常に簡略にストーリーを書き綴っているため、私がそうだったが悲劇的でもシニカル、コメディでも皮肉の視点がノイズのように混じり、寓話の教訓など本心ではあるまい、と処理したものだが、数年前に星新一作品を読んで魅了された(その後ほぼ全作品を読んだ)というこの演出家はストレートにこれらを舞台上に表現していた(まあ演劇にするとなればストレートであらざるを得んかも知れないが)。その姿勢が作品昇華されるのは終りに近い作品で、言葉が心奥深くに届いて来た。
字幕上演だと知って構えたが、比較的前方端席では字幕だけ追って舞台がおろそかになるのでは、との心配は杞憂であった。台詞の無い時間(ノンバーバル表現)も十分あり、全体として出し物の完成度を達成している。

「ボードゲームと種の起源・拡張版」

「ボードゲームと種の起源・拡張版」

The end of company ジエン社

こまばアゴラ劇場(東京都)

2019/05/29 (水) ~ 2019/06/09 (日)公演終了

満足度★★★★

3331での試作版?に出演した役者(沈)を、ちょうど前日観た芝居で見て、一癖二癖あるあの役を誰がどうやるんだろう、なんて事をふと思ったが、拡張版は全く別の話であった(重なる役、エピソードは当然あるが)。拡張版よりは「完全版」、の語を当てたくなった。
登場人物も増え、「群像」が立ち上がった。ゲームが盛り上がりつい喜声を発する場面がある。それとは対照的な静かな場面が殆どだが。俳優に当て書きしたような風貌に応じたリアルなキャラが、説明の少ない台詞の背後を観客に読ませる。
試作版と「別物」と思わせた最大の特徴の一つは、ドラマ中のゲームの意味合いが増し、またゲームはルールが確立して(開演前から5人が楽しんでいる)本気でやっているのが分かる事。急迫の事態から逃れてきた者が「こんな時に」「だからこそ」との枕詞で語るゲームとは決して「価値ある重要なこと」の対極ではない・・人物らを少しばかり輝かせるラストの風景はその主張を実証するように形象され、一つの現代解釈を提示していた。
舞台はアゴラを横に使い、A3程だろうか白い板が折り重なるように壁一面に貼り付き、下手に高い段を作っている。出入りは従って正面奥(奥行きを感じさせる狭い隙間=エレベに通ず)、上手壁のドア、そして客席下手死角にある奈落の三つ。正面に当るバルコニーも効果的に使える。これは自由度が高く大変うまくした使い方だった。

骨ノ憂鬱

骨ノ憂鬱

劇団桟敷童子

すみだパークスタジオ倉(そう) | THEATER-SO(東京都)

2019/05/21 (火) ~ 2019/06/02 (日)公演終了

満足度★★★★★

一面の草木、池、正面に木造家屋といういつもながらの山村あたりの舞台設定だが、飾り込んだ美術の前面や植物の所々に半透明ビニールが張ってある。今思えばビニルハウスの象徴だろうか。台詞の乗りもスタンダードな桟敷童子だが一点、ドラマ構造が違う。現代の男女二人(稲葉能敬、大手忍)の既に現実でない対話の中に回想として挟まれる男の幼少時代の出来事が大部分を占める。現代での出来事のあたかも手がかりとして展開するひたすら懐かしい過去の描写が、次第に胸を満たして行き、最後に現代へと引き戻された時、謎解かれる事のない不条理の現実が突きつけられる訳なのだが。
数年前劇団の転機とも思わせた『体夢』とも何処か通じる(風景はいつも通りなのに)シュールさがしっかりと桟敷童子の手の内にあるのを不思議な気分で眺めた。

音楽劇『11人いる!』

音楽劇『11人いる!』

Studio Life(スタジオライフ)

あうるすぽっと(東京都)

2019/05/18 (土) ~ 2019/06/02 (日)公演終了

満足度★★★★

独自な劇団Studio Lifeをこのたびタイトル&原作者に惹かれて初観劇。ホスト系な男優を揃え、売り出さんが為の劇団(会社)と思っていたが主宰の倉田淳は(文字だけ見て勝手に男を想像していたが)実は女性で一人社長、舞台ありきの集団と納得。もっとも劇団の歴史は長く、団員は一定年齢層(恐らく20~30代)に集中しているから何らかのシステムがあるのだろう。
さて舞台の方は開演後暫く、正直「男優アピール芝居」との先入観で珍物を愛でる心持で眺めていたが、違和感を味わっている内に心地よくなり、俳優らは大真面目にストーリーを紡いでいる。自然物語へ注意が向かう。頑張りの賜物で話の面白さに引き込まれていった(原作を知らない事もあって展開が気になる訳でもあるが)。
宇宙のファンタジーは受験競争という現代的要素と、チームプレーに伴う諸困難、そして名誉ある撤退を選ぶ勇気、ジェンダーの揺さぶり等ふんだんな娯楽要素を含んで織り成され、伏線(最大のそれは11人いる事)が回収された大団円とストーリー的には言う事なし。

ネタバレBOX

気になったのは衣裳とウィッグの取り合わせ。11名のキャラを迷わず認識できた、という事では機能を全うしたと言えるが、地球人以外の「宇宙人」にどういう特徴を与えるかはデザイン上難しい問題だが、いま少し目は喜びたかった。
歌。マイクを通した声は生声が持つ劇的インパクトはないが、全員がそこそこ歌え、既成曲の伴奏に乗って劇用の歌詞が歌われる雰囲気には合っていた。一曲目の「宇宙のファンタジー」の替え歌が流れた時はギャグかと思ったが・・。できれば元曲が知りたかったが、パンフにも記載されていなかったのは残念。
Taking Sides~それぞれの旋律~

Taking Sides~それぞれの旋律~

加藤健一事務所

本多劇場(東京都)

2019/05/15 (水) ~ 2019/05/29 (水)公演終了

満足度★★★★

2度目となる加藤健一事務所。風姿花伝で今年観たパラドックス定数蔵出しシリーズ最終公演がやはりフルトヴェングラーを題材にした主宰若き頃の本で、指揮者+楽団サイドの目線でナチとの攻防を描いた作品だった。一方「Taking Sides」は、戦犯裁判の前段、この指揮者のナチスへの協力という疑惑を追及する取調べの過程を取調官目線で描く。
国内外の名作を長年にわたって紹介し続ける加藤健一事務所の味はよくも悪くも座長・加藤健一の存在感で芝居をまとめてしまう所だろうか。演じる取調官は戯曲としてはもっと違ったキャラを想定しているように感じたが、これはこれで成立しているようにも見え、「加藤健一一座」という一つのシステムが既に確立しているのか知らん、とも思う。みれば鵜山仁演出。またも「演技は役者任せ」説を実証したような。

ネタバレBOX

凄惨かつ祝祭的世界大戦を終え、戦後処理に奔走する連合国軍と介入を受ける敗戦国、ナチスのホロコーストを筆頭に全てが白日の下に暴かれ、全てが分かりやすい構図の下にあった。やがてレッドパージに及ぶ「明快さ」への傾きが、この取調官をも支配しているように見える。音楽の事を何も知らない俗物キャラを担うこの男と、音楽を解する秘書、若い部下、訪問者(ピアニストの妻)、指揮者本人、元楽団員の5人という対照的な二項を拮抗させるが、音楽への言及が作品に趣きを与えているのは上記パラドックス脚本とも共通するところ。本作ではとりわけ天才指揮者に心酔する人物の心からの告白が、芸術を圧政と戦争の闇の中に咲いた美の像として浮び上らせる。構図としては取調官が徐々に焦点化されて行き、男の言葉を引き出す形で脚本はうまく閉じられている。一人の天才音楽家の名誉という問題から、ホロコーストの事実へと観客を導いていく。
1001

1001

少年王者舘

新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)

2019/05/14 (火) ~ 2019/05/26 (日)公演終了

満足度★★★★

広い新国立での少年王者舘。ペーターゲスナー氏が評したアングラ精神の現代の正統な継承者(系譜は違えども)がこの小屋を自ら選ぶ事はないだろう。一年前速報を見て驚いたと同時に不安も実はかすめたが、果たして、クオリティ落ちのない舞台成果であった。天野天街的演劇はどれを取ってもリズムや世界観が同じで、思うに天野天街の芸術、というものが内部で進化しており、その進化過程を眺めるという事になっているのだろうと思う。従って変わらない部分は何も変わらず、しかしその中で奇想天外な発想が新たに加わる事で更新されている。「1001」は私の知る少年王者舘の集大成であり、部分的には腰を抜かし、腹筋を揺らした。幸福な時間を過ごせた。
新国立劇場で予め席を予約して観劇したのは初めて。初めてと言えば今回は新国立によるプロデュース公演でなく少年王者舘公演であり、(恐らく天野氏が出した条件だと思われるが)異例の事だ。

ネタバレBOX

少年王者館の作品は繰り返し提示される言葉やイメージがまず関連の無いもの同士として(場面のリレー的展開の途中に偶然のように)出て来る。それが別の経過を辿りながらもう一度、いや何度も反復され、別の繋がり方で出てくるという伏線回収が、音楽や速度が高まることで劇的瞬間を作る。途中の場面は別役実を髣髴するナンセンスなやり取りや天野流リレー台詞(台詞尻の音と次の台詞頭の音を重ねる)をループ状にした奇妙奇天烈なパッケージが絶妙で「降りて」来ないとこんな代物は作れない。数珠繋ぎの展開にカットインするのは映像であったり突如の暗転や客電が点いてのアナウンスであったり。その挿入素材も伏線に含まれ、正しく回収して行かねばならない。小芝居の成立と、音響・照明・映像効果は小さな小屋でこそのスペクタクルと思う所があったが新国立でも見事な精度であった。
ただ一点、気になったのは終盤とラストに登場する定番の夕沈ダンスで、これも天野氏以上に手の内の決まったお馴染みの振付が、広さを持った分だけダイナミックさが生じにくかった。手の大きな振り(回転)や縦軸回転など機械的な動きは小さな劇場では視覚的に圧する力を持つ(同じ目線で見ると尚迫力)が、新国立では客席から俯瞰でき、エリアも広い。徐々に速度を増す・動きの密度が高くなる・人の位置の移動や入れ替えも同じく速度か頻度が増す、等といった変化の「形」が欲しく、難度の高さを要求したくなった。意味を超えた「感覚に訴える」舞台成果がこの高みに至ったことによる要請だろうか。

先に述べた今作に投入された幾つものイメージの中で、一つ特徴的だったのが日本の戦争時代に言及したシーン。井村昂演じる大人(老人)が戦争体験者として存在し、もう記憶の奥へ隠れてしまったがピカドンという語や、夏の正午の玉音放送や赤の部分に穴の開いた日の丸を振る人々等が出てくる。舞台は反戦だとか現政権への牽制などの意味と結びつく他の要素は見えないが、厭われがちな剣呑な素材を放り込んだ所に(劇団公演に拘った事とも合わせ)体制に対するスタンス表示の意図が天野氏個人にあったのではないか、等と想像してみた。
何処までも拡がるイメージ世界を彷徨う体験は、何時までも遊び続ける子供と一緒にいるようでやがて疲れ、気だるい夕暮れが訪れる。戦争という大人のお遊びにもやがてその時はやって来て・・白骨に被せた土の上で、ひぐらしの声をきく。。

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