tottoryの観てきた!クチコミ一覧

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華岡青洲の妻

華岡青洲の妻

文学座

紀伊國屋サザンシアター TAKASHIMAYA(東京都)

2025/10/26 (日) ~ 2025/11/03 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

サザンシアターでの文学座(過去2回は体験)はアトリエ公演の濃密さ的確さに比してかなり「落ちて」しまう。その理由は恐らく商業演劇っぽい年輩俳優の演技のせいであった。が、本作はそれが似つかわしい時代物の脚本であり、嫁姑の対立の一方を演じる女優も、息子の溺愛振りを「笑わせ」てよい役柄。
有吉佐和子の原作は、嫁姑の悶着問題を薬の開発に勤しむ青洲への「協力」を巡って剣呑な領域に踏み込ませる。時を経た後半、青洲の母は仏壇に祀られ、青洲の妻の目は光を失っている。平体演じた次女は、思い合う相手がいながら嫁姑のグロテスクな対立を目の当たりにして婚姻を遠ざけた人生を歩むが、早死にした姉と同じ病に犯された時、想い人であった青洲の弟子と歩んで行く覚悟を漸くにして持つ。青洲の妻と次女のささやかながらの紐帯が、最後に見えるのが印象深い。

わかろうとはおもっているけど

わかろうとはおもっているけど

劇団 贅沢貧乏

東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)

2025/11/07 (金) ~ 2025/11/16 (日)公演終了

実演鑑賞

気持ち良くなって眠ってしまった。抽象的とまでは言わないが比喩性の高い芝居なので、観方を見出す前に落ちた。苦言を言えば声が落ちて台詞が聞き取れない箇所があり、説明を省いた隠喩の効いた芝居は、ナチュラル演技で「声が落ちる」箇所が出てしまうならナチュラルを犠牲にしてでも明確に台詞を発語して届けてほしかった、というパターン。ただしリアル演技で伝えたいのは男の特性がどう日常的な男女の会話の中に紛れ込んでいるか、であろうから譲れない部分であったかもだが。
9年前に初めて観て以来の贅沢貧乏。断片的な観劇になったがその断片は面白かった。

虚構喜劇『野外劇 観客席』

虚構喜劇『野外劇 観客席』

吉野翼企画

戸山公園野外演奏場跡(東京都)

2025/11/10 (月) ~ 2025/11/13 (木)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

観に行けた。幸なり。四日間4ステージいずれも16:30開演、日照の変化を測っての設定は野外劇ならではで希少感をくすぐる。制作担当に梁山泊ステージで圧倒した女優の名があり、オヤと思う。年齢と共に裏方に回る実力派を散見する劇界の現実を思ったが、ちょっと調べたら引退の齢にあらず杞憂であった(多分だが)。
余談はともかく・・寺山「観客席」だ。
成る程。70年代にこれをやっていたのか・・と驚き。無論「今」が盛り込まれたステージであったが。市街劇など様々な演劇的試行を残した寺山修司が「観客」にスポットを当てるなら当然、安全圏にいる観客と身をさらす俳優との関係の主客逆転を発想するだろう。大枠その通りであったが、これを挑発的に、また面白く視覚化する趣向、アイデアには舌を巻く。
「観客参加」場面がある。これを仕切っていた寺田結美が流石であったが、これを「この試みは失敗であった」の台詞で締める。奇しくも観客参加型というのは巧くいかない事が多い、というより、観客個々人が己を表現するというポテンシャルを持つには、そもそも一つの舞台のために役者も身体を酷使して繰り返し稽古をするのであり、同じ立場にイチゲンの観客を立たせるのは「無理」なのである。
一方で演劇なり「上演主体」が持ち得る影響力は侮れない故に、「観客よ、簡単に騙されるな」という警告は有効と言える。
一時間半の上演の中身は多様で密度が高い。終盤「プロの観客」なる概念が頻出する。心許ない俳優の演技も観客の拍手、笑い一つで生かされる。かつてのTV番組では拍手屋、笑い屋が居て拍手一回に200円、笑いに300円がもらえた。稼ぎになるから私は喜劇が好きだった、等の駄弁がまことしやかに。そして耳が痛くもあるが「観客」の本質を言い当てているのが彼らの「批判」(劇評)であり、「何が上演されようが、たとえ観なくとも、こんな劇評は書けてしまう」と紹介される「いかにも」な芝居を観ての劇評が穿っている。「総じて演出が時代がかっており、身体表現も一時代前を思わせる」「だが役者に光るものあり」「今後に期待したい」・・褒める所がなければ役者は褒める、役者もダメなら美術を褒める、等の身も蓋もない(作り手の寺山氏の皮肉全開の)真実。落としつつ褒め、褒めつつ落とす、すなわち観客という特権のありようは、劇評を書き・公表する行為で体現されているという事のようである。(例えば扇田昭彦の文章を読んだ者は「愛と知性の詰まった劇評」があり得る事を知っていると思うが。)
演劇批評としての「観客席」なる演目は、芝居とは詰まる所「批評」である事を大胆に直裁に言い切った点で特異だが、見終えた今、これは「演劇」であり、本質において何か決定的な差が他との比較であったようにも思えない、と感じている。
戸山公園「演奏場跡」に当るのだろうステージとなる丸いエリアを、一方の傾斜から見下ろす。
客席側にふとどこかで見た姿が、と思い出せばDoga2女優。団員が出演してでもいるのか、と気にしながら観ていると、それでなのか、よく喋る痩せ型の女優が(声や喋りからして)あの女優かな、またこちらはやや三枚目を演じるあの男優か、と。だが後で見れば当ては外れていた(Doga2俳優は出演しておらず)。麗羅なる一見怪優が十全な喋りを繰り出していたりだとか、観客を取り囲むように各所から台詞を出したり、音を鳴らしたり、「外部」に開かれた空間ゆえの自由が(そうやって物理的に広がる事で)具現する感覚。
客から募って男女一人ずつ台本を渡して読ませる時間がある。収容一人だけの劇場=段ボール箱に入る人を募り、終演まで箱の中からのぞき穴で覗かせられた客もある。出席を取ると言って観客の名前を読み上げ、質問を投げて答えさせる時間も。最初に渡された紙に書かれた文字を皆で(何かしながら)発語するという場面も。オーラスで吉野氏が前に立ち、客に一本締めを願ってやった後、俳優らが周囲から「こんな物作りやがって」「時間を返せ」等の抗議を始めるが、観客にも「この際言っちゃって下さい」と促した時は、非難ごうごうが起きた(笑、う所だ)。「観客参加」が成功したのか否かはともかく・・ここまで趣向が詰め込まれた演目だとは知らなかった。確かに、役者に力量が無ければまず成立し得ない演目。鳴り物入りで上演される訳である。

高知パルプ生コン事件

高知パルプ生コン事件

燐光群

「劇」小劇場(東京都)

2025/10/31 (金) ~ 2025/11/09 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

「劇」小劇場での燐光群は初だったが、ちょうど良い空間だったのではないか。スズナリは観客とステージとのベストな距離を与えてくれる劇場だが、横長で客席との距離がより近い方が「台詞を追うのが大変」で脳味噌フル稼働を要求する作品にはきっと良かった。
社会の重要案件を如何に咀嚼しやすい劇に昇華できるかに、恐らく坂手氏の舞台製作のベクトルは向いているが、坂手流フィクションを成立させるお膳立てのための?情報量は多大なため、二時間に収めた劇の密度は濃く、観劇側も大変だ。
過去の出来事の解説や土地の名産の紹介といった台詞は、何名かの登場人物に割り振られ、情報を与えるためだけの台詞に「日常会話」という心情の流れを付与しつつの発話の綱渡りがいつも大変そうだな、と思う。
それはともかく。大量の台詞と格闘する役者を通じて(「台詞に追われてる」感を一瞬も見せずに立ち通せたのは森尾舞、樋尾麻衣子くらい)、絶妙な構成でドラマの感動が生まれる坂手氏の面目躍如と言える作品であった。
高知の浦戸湾に排水汚染をもたらす公害企業と闘う住民運動がかつてあった。戦後間もないその当時へ、2022年の岡山の台風の最中「ある物」を目撃した父娘を作者はタイムリープさせる。二人の目に映る住民運動の顛末が、現代の環境問題(PFAS)と対峙する覚悟を促す展開が用意されているが、各場面の趣向が中々美味しい。住民運動の中心人物である山崎氏(猪熊恒和)の飄々とした佇まいと含蓄ある発言や行動が、史実をなぞって(恐らく)描かれている。悪臭と健康被害の実態の証言があり、労働運動の現場からの取り組みがあり、その延長で従業員の一人に「風船爆弾」(彼女が戦中体験した)の話も一くさり入る。現代から来た父は暫くの間記憶喪失状態となり、現地住民らと不思議な交流があるが、タイムリープを引き起こした「原因」であろう現代の岡山県のPFAS汚染へもやがて視線が向かう。2022年の大型台風時に櫓に上った二人はダムの上流に放棄された大量のフレコンバックを目撃したが、後日それは完全撤去されていた。父も娘も米国基準の百倍単位のPFAS蓄積が検出される。これらは今現在の当地の現実。殆どメディアに取り上げられないが。太鼓の伴奏で歌を歌い、おもちゃのピアノの伴奏でふるさとを歌う。概して躍動的な場面がちりばめられ暗く沈む事がない。運動を担った人々へのリクエストがそうさせているようでもある。ただ時間の複雑な構成、「仮想の過去」を入れ込む辺りは脳が追いつかず置いてかれそうになる。エンパワーのための演劇。各々の事情で動いていた人物らが最後は皆仲間に見えている。そして現代へと声援を送る姿が焼き付く。

『眼球綺譚/再生』

『眼球綺譚/再生』

idenshi195

パフォーミングギャラリー&カフェ『絵空箱』(東京都)

2025/10/29 (水) ~ 2025/11/09 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

リーディング「眼球綺譚」を以前新宿眼科画廊へ観に行っていた(7年前)。この時はスケジュールの合間を埋めるように思い立って出かけた記憶だが、不運な事に(不運率は高いが)ほぼ全編睡魔に見舞われ至極残念な思いをした。
今回は同じ題名で宣材の雰囲気も似ていて「もしや?」と調べたら同じ製作主体。会場が絵空箱という事で前より幾分余計に趣向が盛れる空間でもあり、期待しつつ観に出かけた。「再生」を観劇。
リーディングは面白い。奥深い。リーディング用に編んだだろう台本とは言え、ほぼ小説を「読む」時間。従って作品の面白さも必須だが、それを含め主宰高橋氏が綾辻行人氏のこの短編小説に執心というのも分かる甘味な(内容的には苦みもあるが)時間であった。
読む人が「読み」に徹するというのか、登場時から「読む人」でありながら「あちらの人」になっている。役者本人(素の本人)として客と相まみえる時間はない(終演後に照明が明るくなって笑顔・・は無しである)。
小説の地の文は男が主格であるので男の目に映る情景と心情が語られ、女は男が見る対象として印象深く出現する。
後で作品をネット検察すると「ホラー」書籍のカテゴリーで紹介されたりしている。作品は面白いに違いない(というか面白い)が、通常の読書では無論この感覚は得られない。
青白く染まった舞台を思い出しながら、どことなく声を殺して語ってしまうが、もう一作も観たい(時間が許せば)と思っている本心を吐露しておく。
(江戸川乱歩の「赤い部屋」に集った面々を思い出すちょっとした背徳感。)

舞踏/音楽 即興劇 「起源論」

舞踏/音楽 即興劇 「起源論」

東京戯園館

座・高円寺1(東京都)

2025/10/29 (水) ~ 2025/11/02 (日)公演終了

実演鑑賞

この名義の公演は座・高円寺でここ数年毎年やられていたようで(座高円寺公演情報は押えていたはずであるが..)今回が初めてであった(舞踏であった事は当日劇場で知った)。
初耳の名前を観に出かけたのは競演者の名が目を引いたから。日替わりの競演者は皆音楽家でとりわけ初日の二名は少々特別感あり。一人が林栄一(sax)、一人が石渡明廣(g)。前者は40年スパンで日本のジャズ界の第一線で活動する人。ライブハウスのラインナップを見ていた大昔はこの名前が頭一つ出た所(バンド)で演奏。後者は言わずと知れた祝祭的(法外)バンド渋さ知らズのリーダー。恐らくはジャズ畑の人だろうと踏んではいたのだが、今回その無尽の音世界を堪能した。80分の上演時間ほぼ全編音を出す。林氏もサックスの持つ音の迫力、美しさ、繊細さを体現するが、既に老境にある風貌に驚きつつ「現役の音」にも驚いた。
これはほぼ音楽ライブである、と思いつつ、初の工藤氏の動きも目に入れていたが、音が彩る「相」のダイナミックな変遷に導かれて、という所が大きいのであるが、音に乗っかりつつ蠢いているだけの相関と見ていたら、最後には音に拮抗する存在として俄然姿を現わして来た。舞踊には踊り手の数だけ「言語」があると思っているが、工藤氏の中では一貫した何か(言語体系?)が、最終的には観客に見えて来たという事だろうか。危機と逼迫の時間、事態を俯瞰する時間、世界を愛おしむ時間・・それらとシンクロする身体があり、緊張の持続する時間が一つの作品と思える最後を迎えるという感じ。こちらの深読みもあったか知れないが、胸が熱くなる瞬間もある。
林氏とは以前一度競演歴あり、石渡氏は前回に続いて二度目という関係。過去作品でも競演する「音楽」を重視している事が分かる。しかし全く異なるだろう別日の「音」とのコラボはどんな空間を作るのか、と興味は募る。(観には行けないが・・)

デンジャラス・ドア

デンジャラス・ドア

劇団アンパサンド

ザ・スズナリ(東京都)

2025/10/23 (木) ~ 2025/10/29 (水)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

前のアンパサンド公演の受付に置いてあった未見の戯曲「デンジャラス・ドア」は読みかけて中途で終っていた。「ドアが勝手に閉まる」のに気づいた新人社員の女性主人公と先輩女子社員のその先の顛末を、劇場で見る事となった。
アトリエヘリコプターで観た第二作「サイは投げられた」、「地上の骨」、最近の「歩かなくても棒に当たる」と続くスプラッターな阿鼻叫喚系で、「地上の骨」までは普通舞台では見せない(見せられない)設定を手作り感満載のギミックで強引に見せてしまうのだが、他ユニット、爍焯とに書き下ろした本作(「地上の骨」の前)も、この時期らしく工作物が大活躍する絶叫舞台。(ちなみに爍綽とによる初演は浅草九劇で。主宰佐久間氏の役を今回安藤奎が演じ、他は同じ配役であった。なお爍綽と版の演出も安藤氏。)
西出結が前作に続いて出演。先般の東京にこにこちゃんにも同じく主役で。故・鎌田氏のナカゴー/ほりぶんの後継を競う(とは小生の勝手な見立て)両ユニットは「笑い」が要だけに役者を選ぶようである。別役実の世界の具現は「難しい」と以前しきりに書いていたが、要は「役者を選ぶ」という事なのかな。「笑い」系であるので。
劇の感想が全くであった。また後日。

カメレオン探偵

カメレオン探偵

人となり

アトリエファンファーレ東新宿(東京都)

2025/10/24 (金) ~ 2025/10/26 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★

未知のユニットであり、しかも今回は前2回とは趣を異にする公演らしく、中心を担った出演者の説明によれば「人となり」さんの屋根を借りての公演、という事らしい。以前見たホームページに関心のフックに引っ掛かる何か(約めれば多様な要素から成るパフォーマンスとの方向性)が、今回の舞台に見出せず。と言っても元々不知の製作主体であるから、通常モードとの違いは判らず、推測を諦めた。
お話自体には昔~し大学演劇を付合いで観に行った時のボヤッとした「物語を語り切れてない」薄い感触が残り、加えて自分が疲労ゆえ意識が斑な観劇にもなり、行間に埋めこまれたかも知れないものは読み取れなかった。

舞台の中心は吉本の若手(一年目)の漫才コンビ。二人がまず「前説」的に登場し、「拍手」ネタで引っ張るが、漫才の一節でもやって笑いを取る、はなし(やる必要はないのだが・・芸人でーす、と登場するなら多少の「売り込み」があっても・・と)。入りの「いじり」(観客依存度)を凌駕するストーリーの引きを当然期待してしまうが、こちらの語り口、独特だけれども中々本題に移らずの感。ネタ的な枝葉に逸れて行く。それでも肝心の「物語」のとば口が開かれていれば、長すぎるペンディングも耐え得るのかもだが、「カメレオン探偵」というタイトルの振り=「事件(これは最初に殺人として提示されるが漫才コンビの一人が突然倒れるだけで背景は全く不明)」~「探索」~「意外な真実に辿り着く」といった定型を想像しつつ併走するも、斑な意識ゆえ言い切れる訳ではないが「何が謎」「何がその正体」まで語り切れていなかったのでは・・と思った。

参照事項として思い浮かぶのは、このユニットの出自が多摩美である事。
一度だけ観た多摩美での(文化祭か何かで)本域で作られた芝居というのが、内容殆ど覚えていないが(観た直後の印象だけは残っている)、イメージが飛躍するままにセオリー無視で突き進む、逆に恐れ入ったような体験だった。「意味」の担保を何重にも与えられた確立された舞台とは対極の、無意味という言葉が浮かぶようなパフォーマンスが、学生たちの「熱」(だけ)によって成立しているのは、「天晴れ」これである。
多摩美の伝統が何であるか等は知らぬが、同じく多摩美から出た妖精大図鑑、舞踊という土台はあるがイメージの奔放さの点においては共通すると言えるか。
いずれにせよ、今回「人となり」を知った実感を得られなかったので、別の機会を楽しみにしたい。

ネタバレBOX

今はどの芸人も登場して「どうも~~~~~~」と、袖から登場して中央のマイク前に来るまでを高い音程からサイレンのように「お~~~~~」と低い方になだらかな傾斜を描くように発声するのだが、あれ何。救急車の到着かっ。と、登場するなりまず自分でツッコんでみても良いくらいの奇妙さに思うのだが、あれがスタンダードになるご時世(どんなご時世だ)。
あとは最後の「もういいよ」、これも終わりの合言葉的にサラッと言ってるが(これはまあ成立してるんだが)、本来なら「もういいよ!」と相手に呆れたり怒ったりする、というオチだから、(ツービートみたく)切れちゃえば良いのに・・落語みたいなものかな。「しらべをごろうじろ。お馴染み大工調べでござい・・(拍手でかき消える程度の声量)」。別に良いのだが。
三文オペラ

三文オペラ

シアターX(カイ)

シアターX(東京都)

2025/10/04 (土) ~ 2025/10/07 (火)公演終了

実演鑑賞

このプログラムもシアターX主催、例の井田邦明氏演出の音楽系舞台。
三文オペラをオペラで観たのは初めて。女性も男性も高音の野太い声を音程差極大のビブラートで出すと、この作品の興趣が殺がれるような・・恐らく中盤以降、太い声で歌う場面が増えたのか、繰り返し耳にしていて許容量を超えたので耳について聞えて来たのか・・こう申すとオペラ歌手(の声で歌える方)の方には申しわけないが、先に知っていた演目であった事もあり、声質と作品のマッチングに若干ではあるが違和を感じた所である。
だがクルト・ヴァイルの曲は名曲揃いで、既にガーシュインが居たが前世紀前半のドイツでも先進的な楽曲として聴かれたのでは、と思ったりした。現代はもっと複雑な和声と旋律の絡み方のある楽曲があり、ふと林光を思い出したりした(その先駆としてあったのでは、と)。
そうか音楽畑の人々にとっても「三文オペラ」は取り組むべき範疇の作品なのだな。
しかしブレヒトという人は人間の一筋縄で行かなさを軽妙な台詞と意外な展開(人物の行動)で描いてみせる。主人公である女垂らしのメッキー、彼と対峙することとなる物乞いを牛耳って金儲けしているピーチャム、メッキーに借りがあり敬愛している警視総監のブラウン、メッキーの新妻ポーリー(ピーチャムの娘)、結婚の約束をしていた別の女、彼が出入りする娼館に居るかつてのメッキーの恋人ジェニー。それぞれの独特な行動により、メッキーは追い詰められて行く。
娼婦ジェニーはメッキーを警察に二度も「売る」のだが、その感情は明かさず、行動だけを観客は見せられる。しかし人生を最大限「遊んでいる」(勝負している)感のあるジェニーの女としての振り切れ方は、メッキーに極上のカタストロフ(破滅)を与えているようにも見えるし、それぞれ流の法外(法は二の次)に生きる人物たちの躍動が、世相を皮肉り笑っている。そこにこの作品の底知れない魅力がある事を再認識。

朧な処で、徐に。

朧な処で、徐に。

TOKYOハンバーグ

ザ・ポケット(東京都)

2025/10/15 (水) ~ 2025/10/20 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

初演の微かな記憶が、少しずつ蘇って来た。こういう作品だったか・・と。女性劇作家の苦労を描いた秀作、という記憶であったが、劇中の各フェーズに通底するテーマ「人(存在)との別れ」の最もコアな(メインの)フェーズを忘れていた。
劇作家のいる現実の場面以外の場面は、彼女の書く作品の世界であったり、回想される過去だったり、また別の現実の場面だったりするが、後から謎解きされるのが面白い。時に作中人物と作者が対話したり、案が没にされかけた方の人物らがリストラするなと騒いだり、作者の脳内の葛藤・格闘が垣間見えてこれも面白い。ただし先述のコアなフェーズは現実のそれ(彼女の取材先)でありながら、書かれた作品のそれにも見え、実と虚の混濁の具合が、劇全体を劇作家の執筆現場であるかに印象付けている。
その意味で自分の記憶は正しかったと思うが、劇作家自身がその本質的なテーマを問い、問われ、作品を書いている、その図式にもう一つ感動の種があったよう。

ロンリー・アイランド

ロンリー・アイランド

ティーファクトリー

ザ・スズナリ(東京都)

2025/10/10 (金) ~ 2025/10/19 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

電車遅延で冒頭を逃し、約10分経過した時点から観劇。冒頭に伏線が凝縮しているのかそうでないのか判別つかず。「戦争」の時代である近未来の風景が、斜に構えた目線の中に真顔がよぎるような調味の塩梅で描かれている。加藤虎之介(空気が似てるなァとは思ったが風貌からは本人との認識に至らず)が担った役が戯曲のその目線を体現しており、舞台をある意味で織り上げていたとも言える。
21世紀は人類から戦争を召し上げられぬ事を我々に知らしめたばかり。80年間自国だけの平和を享受した日本が、「戦争抑止の装置を手にしてはいなかった」事実も早晩目の当たりにしそうである。
今の世相、「戦争」の概念が記号として、「感情」を遠因とする主張や感情表出に用いられている中、戦争に接する事を余儀なくされる時代の手触りを伝える舞台。

ネタバレBOX

冒頭を見逃したので会場で売っていた戯曲本を買ったが、台本は自分が見た箇所から始まっている。開演は定刻通りだと聞いたから、戯曲に更に何かが付け加えられたのだろう。
そこを知りたいが、戯曲には書いてなかった。
テキストを手に取り、テンポ感ある場面展開(一場面は短い)を記憶をなぞりながら読み進めた。ぐっと来た。ここ最近の川村氏の新作の中では明快で台詞が効いている。虎之介演じたヒロという人物は「ディアハンター」や多くのベトナム戦争(の時代性を色濃く反映した)映画に登場する精神の半分イカれた人間になって行くが、戦争後遺症を含めて戦争が人間精神にもたらす影響を、数名の人物類型それぞれに対して描き込んでいる。

後遺症と言えば、日本で唯一これを取り上げたと言って良い精神科医による「戦争と罪責」が、地上の戦いで「殺し」を行なった元軍人のその後(多くが精神を病んでいた)について記したものだろう。取り上げられている大半は中国戦線での経験。東南アジアを日本軍は破竹の勢いで進撃し、途中虐殺もやったようだが「占領者」として短期間君臨したのであり、その後の太平洋戦争では殆どが米軍との海か空での戦闘。ガダルカナルは地上戦があったが敗走か玉砕か餓死である。
従って真珠湾攻撃以前、以後通じて「殺し」とその心的外傷の大部分の原因となったのは中国戦線での経験であった。
「殺る」側と、それを目の当たりにした側の中に、深く大きな傷が残された事を想像する。この想像力を人間の武器として、ステロタイプなイメージと記号による「戦争」の闊歩をとどめたい。
「あとは戦争しかない」狂気を正当化する美談ちっくなドラマより、真っ当な感覚を取り戻すような戦争ばなしが、観たい。自分を冷静に保つために。
狂人なおもて往生をとぐ

狂人なおもて往生をとぐ

スマートリバー

IMM THEATER(東京都)

2025/10/11 (土) ~ 2025/10/18 (土)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

注目する舞台の一つではあったが、観劇に至った理由というのが不純。その時間枠に当てていた別公演が観られず(チケット購入に至っておらずしかも満席で当日券も出ず)、ポッカリ空いた枠にハマったのがこの公演というわけ(折角だから何か観たいぢゃありませんか)。
未見のIMM THEATERを拝みたくもあり、水道橋へ足を運んだ。

清水邦夫の題名のみ知っていた作品は、不条理劇に近く、不思議な感覚を残す。演出に稲葉賀恵。ある場所(室内らしい)でどうやら幾人かが同居しているのか、出入りしているのか、家族なのか非家族なのか、父母がいて子どもが三人いて・・という事を演じているだけなのかどうなのか定かでない人間同士のある種実験的な共存。関係性の探求が、社会に出る予行演習のように為されているのか、現実を象徴的に写したものか・・。
終盤ある種の高揚が訪れ、(作者が生きた)無秩序が現前したかの時代の空気が吹きすぎる。若者は死と引き換えにしてでも、従来との決裂=新たな未来を切り拓く事に価値を見出すものであり、一笑に付されるものなのかどうか、結論は出ていない、という事が重要であった。
個人的な感覚ではあるが、戦後これほど「自由」の尊さが軽視されている時代は無かったのではないか、と思える現代に、自由の対極の理念=秩序を解体する人間の姿を提示することには、意味があると思われる。

ネタバレBOX

大人計画の伊勢志摩、朝ドラの常連堀部圭亮、小劇場の小動物系(この称号は栄誉らしい)橘花梨、映像舞台いずれでも貫禄の岡本玲の名に少なからず惹かれたが、舞台は戯曲が勝ち、「役者」が漏れる瞬間(観客にほくそ笑みが起きる瞬間?)は僅かに伊勢志摩のある台詞を言う一瞬にあり、そこにねじ込んで来るかと、こういう所に俳優の大きさを感ずる所でもある哉。
平和

平和

うずめ劇場

シアターX(東京都)

2025/10/17 (金) ~ 2025/10/19 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

ペーター・ゲスナー氏は時々凄いものを作ってくれるが、これはまたエライものを。
もっとも、作風は前作「ニッポン人は亡命する。」に通じ、混沌具合は「地球星人」がその極大版であった。
最近でこそシアターXがお馴染みの公演会場になっているが、どうしても「喜劇だらけ」(もう10年前)が(良くも悪くも)印象に残るのは、うずめ近年のお家芸(=色んな人を(巧拙にこだわらず)舞台に上げちゃう)、祝祭的舞台の最初であったから。
アリストパネスと来ればあのワチャワチャ感満載の舞台では?と想像してしまったのであるが、少し違った。否だいぶ違う。闇鍋感は漂うがよく見れば選りすぐられた感あり。
好みははっきり分れそうでもある。が、自分は強烈に好きである。
舞台を「作った」というよりは、実験室に籠もったマッドサイエンティストが実験してたら「出来ちゃった」感が強い。これは後藤まなみという自然発火物質のような女優の「演出によって制御されてるようには見えない」風情に大きく拠っていそうである。本作では主役の荒牧氏の周りで八面六臂、観客いじり型芝居のいじり場面でも客の好意的反応をもらっていたが、この荒牧氏も、娘役!の松尾氏も「行っちゃえる」俳優であり、美味しい瞬間が多々訪れる。
歌も多い。アカペラの合唱(何やら原始的な)あり、楽器はペット、トロンボーン、ドラム、ベース、電子サックス、生ギターなども。混沌の中にうっすらと、そして次第に見えてくる何か(歌も、芝居も)。ギリシャ演劇を上演するという営みの中に、現代秩序を超越し、時代と地域と文明を越境した自由精神の発露がある。
歌も、芝居も、自由極まりない。

埋められた子供

埋められた子供

劇団昴

Pit昴/サイスタジオ大山第1(東京都)

2025/10/03 (金) ~ 2025/10/19 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

翻訳戯曲を堅実に舞台化する昴、との信頼は自分の中で揺るぎなく、今回さらに「あのサム・シェパード作品」を拝めるとあって無防備に期待を膨らませて観劇に及んだ。予想は裏切ったが期待は裏切らず、唸らせる舞台。一瞬もダレがなく眼前の事象を凝視させる。休憩時間、観客は寡黙だった。
感動の人間ドラマの範疇を出て、ヒリヒリと痛い。一柳みるという名前を観劇後に確認したがこれは隙というものがない完璧なハリー役と思わせ、老人ドッジ役も長男役、次男役も、発語行為が提供する人物情報は十全に、かつ不確実な部分は不確実のまま、造形している。シュッとした孫ヴィンスの恋人シェリー役、牧師役も適役で、演技に加えてキャラもしっかり作られ綻びが見えない。
装置は、稽古場の地肌に材料のパネル類をロップで止めた(正面奥と下手側)壁と、通路のある上手側を出ハケに用い(奥と手前)、奥に屋敷の前の道、その手前は玄関ドアのみ立ち、室内にはソファや調度、だが床には土(砂でなく渇いた土である)。
劇中は小道具に人参とトウモロコシ、死者に捧げる用にも使われる花の束が出て来る。
ミステリーの構成を持つものの、その謎解き部分は全体に流れる不条理の空気の前では副次的なものにも思える。崩壊しながらも生きながらえている国家あるいはコミュニティの赤裸々な描写とも、人間の精神の解剖ともつかない矢鱈「神経に障る」言葉と行動を凝縮したようなメニューである。ドラマの展開は意表を突くが面白く、混沌としてとっちらかっていても収集能力を欠くため「問題を置き去りにする」以外ない人間のあり様を酸っぱく描いたようにも。
否、それぞれにとっての「問題」はそれぞれなりに解決されて行ったのかも知れず、分断、孤独が結果ではなく本質であり、起点なのだと見ればこの作者は絶望を描いたのではなく希望を・・と考えなくもない。苛立たしい話の背後から、仄かに陽光が差したかの感覚が過ったのがその証左だろうか。

ワンアクト・ミュージカル・フェスティバル

ワンアクト・ミュージカル・フェスティバル

ワンアクト・ミュージカル・フェス実行委員会

シアター風姿花伝(東京都)

2025/10/09 (木) ~ 2025/10/20 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

ミュージカル畑の人、ではない人たちが一堂に会して(?)ミュージカル上演という独自の企画だが、いずれにしても作品の質。コンペ的な作品持ち寄り企画ではないので・・という事で特に興味のあったDAWNの「ロミ・ジュリ」を拝見。作曲が後藤浩明氏との事で楽曲面の信頼はあったが、「ロミジュリ」の翻案作品としても秀作であった。ロミオとジュリエットは別々の家柄に属する設定ではなく、ある国の王室内部の対立関係にある者同士とし、従って二人は親戚として既知の間柄でもあるのだが、これが次第に、というか思わぬ展開により「ロミジュリ」の構造に近似して行く所は見事である。そして「ロミジュリ」のドラマの行方もさる事ながらこの翻案作品のドラマの行方が既に気になっている(本家の物語との差異は気になりもするがそれ以上にミュージカルらしい人物の行動の強い動機付けが発動して、乗っけられてしまう)。
オノマリコ女史らしい翻案ではあるが、まずこの形は誰も思いつかないのではないか。楽曲も言う事なし。一見の価値あり、と思う。

桜の園

桜の園

パンケーキの会

com.cafe音倉(東京都)

2025/10/10 (金) ~ 2025/10/11 (土)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

ワーニャおじさん、かもめ、また三人姉妹も比較的しっかり刻印されているが、桜の園は当日パンフの登場人物名を見ても「どんな人だっけ」と。観て行く内に、ああそうだ「競売」が焦点となる話だと思い出す。
このリーディングでは「桜の園」翻案とある。やしゃごの伊藤氏による。随所に現代口語や名詞の言い換え、やり取り自体のアレンジやラップをさせたりもあって面白い。下卑た人物が普通ドラマでは厄介で乗り越えるべき存在となる所、チェーホフ作品ではその人物なりの背景からの必然としてその下衆ぶりがあり、その報いはそれとして受ける事となる・・この構図は大事だなとふと思う。三人姉妹の三女の夫に決闘を申し込んで殺す男も、彼に鉄槌が下される訳ではない。彼は彼で已むを得ずそうした、という事になっている。人生そうしたものだ・・と。
落ち度のない人間の前に、彼の生の平和を脅かす存在が現われ、悪として現前し克服すべき対象となり、これを克服する事でドラマが終結する、といったタイプの(言わば勧善懲悪の変奏)ドラマが特に日本には多い気がする(その逆が少ない)。悪を懲らしめる警官の勇姿、敵国に勇敢に対峙する軍人や愛国の徒・・フィクションにも程があるが、国家そのものがフィクションである、との自覚の上でこれに乗っかる人生もあるのかも知れない。
閑話休題、リーディングとは言えミザンスを重視し、動きながらの場面描写。読み手の力量、キャラ出しの面白さに満足度高し。

ドント・ルック・バック・イン・マイ・ボイス

ドント・ルック・バック・イン・マイ・ボイス

公益財団法人三鷹市スポーツと文化財団

三鷹市芸術文化センター 星のホール(東京都)

2025/10/03 (金) ~ 2025/10/13 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

毎度お笑いの存在感に「感動」が取って付けた感(酷く言えば歯が浮く感)が若干否めない作風であったが、本来作者の狙う「感動」をきちんと狙って話は進められていた。従って完成度的にはこれまで見た中で一番、との印象。(どうしても高畑女史が出ているとあの笑い=ナカゴーのシュールさを見とってしまう・・私の中ではあのシュールの方が、人情喜劇的な「感動」なんかより余程上であるので。)
今回はアニメの草創期に声優として集められた者たちの歩みを、たまたま長寿化する事となるそのアニメの歩みと共に描き、草創期ならではテキトー具合な取り組み方にも笑える、面白いお芝居であった。
高畑氏と共に、土本女史も独自キャラが良い(ナカゴーが続いてたら常連になってただろうな)。近藤氏が何故ああ笑えるのか検証の価値あり?
出演者それぞれの美味しい所を挙げたくなるがそれはまたの時に。

幸せになるために

幸せになるために

“STRAYDOG”

赤坂RED/THEATER(東京都)

2025/10/09 (木) ~ 2025/10/13 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

二度目のSTRAYDOG。毎回公演の案内を見るに予想がつかないこれも一つ。ただ想像の範疇は一度目に見た「俳優たち」の空気感、年齢層が20代~30代という所(ベテラン勢も若干数は居るのだろうけれど)から来る芝居の質感も固有のそれで、父役と子役を同じ年代のキャストがやるものだから、とりわけ今回のような群像劇は最初は混沌として見える。
だがそんな「見えにくさ」はやがて溶解し、ドラマがなだれ込んで来る。
メタ性を遊ぶ感覚(客への意識の顕在化)で軽やかさを出しながら、今作が取り上げるシビアな題材に直裁に語らせるという事がある。少なからず驚かされた。
観始めて「おや?」と見ると鳥居みゆきであった。異質な存在も包摂して成り立っている芝居。ドキュメントとフィクションの狭間で後者の強い作風にもかかわらず、強烈に芝居に突入してくるドキュメントも包摂される。後日ネタバレ含め追記。

ネタバレBOX

日航機墜落事件(1985年)を扱った舞台として思い出すのはNODAMAP「フェイクスピア」(シェイクスピア四大悲劇やイタコと絡めて最後の最後にこの事件がジャンボジェット機の機首が突如顕われるかのように顕われ仰天、震撼となったものである)。公演概要も読まずに観劇に及んだが、「あの事件」を描いた作品である事は序盤で説明され、回帰的に乗客それぞれの前日譚を描く形になっている。つまりはNODAMAPとは真逆のネタバレ先行だが、歴史事実と向き合う正当な順序ではあり、オーソドックスなドラマの構成でもある。冒頭そして最後を客室乗務員役として引受ける客演・鳥居みゆきが独特な演技だが不思議な存在感。そして本編の大部分は坂本九をモデルとした一家を含む五組の乗客家族の「死へと向う」それぞれの人生模様と日常であるが、事故を挟んだ「その後」の姿、証言もある。また予期せぬ要素として、一部で囁かれている救助を遅らせた真の原因=墜落原因は米軍機との接触でありその隠蔽のために時間を要したとの疑惑を取り上げ、語らせる。
時間を戻して5家族の群像・・九ちゃん一家は音楽畑の妻と娘。父母を離れて初めて三姉妹そろっての大阪旅行、細部は忘れたが家族思いの父を送り出す妻と長男とその妹、老父母が送り出した娘、そして別れた夫も同意で息子を一人で大阪行きの飛行機へ乗せた母(鳥居)。日航123号がついに飛び立つ。機体後部で激突音がする。事態が急を告げ、RED THEATERの縦二列の通路を客室乗務員が右往左往し、劇場全体が緊迫の空気に飲まれる。既に人物たちに共鳴している心がその現場へと同道させる。カウントダウン、地上激突の瞬間(閃光と衝撃音)、そして救助場面へとなだれ込む。その前段に救助に当った自衛隊員の、今まさにヘリから降り立った時点を描写する語り=証言がある。バラバラに散った肉片を見た救助隊員らの衝撃を迷彩服の男らが限界ギリギリの声量と速さで伝える。戦場や災害で衝撃的場面に遭遇した人間は反射的な落涙を経験するというその衝撃を、隊員らは言語化して伝え、観客はそれに共振して落涙に誘われる。作者なりの描写であるが前半思いも寄らない40年前実際にあった修羅場が再現される。
炭と化した遺体(従って誰のものかも判らない)と対面する遺族の証言と場面から、遺族同士の励まし合う場面、娘らが帰って来る日を待って40年を過ごした(乗り切った)という主婦が、飲酒依存となった姿も。だがドラマは収束して行く。亡くなった娘らが母に言う「帰って来るわけないじゃん。」けど「ずっと傍に居るよ」。五組の家族は一組、また一組死者と出会い、去って行く。最後に残った鳥居の前にも、やがて息子が現われる。人生の意味への問いに直面するのは必ずしも不条理な事故の経験者に限らず、不条理が日常化している人々が今この時にも生きている。その人たちとの共鳴、あるいは連帯というものを予感させる感動を紡いだ所に脚本家森岡氏の骨を見たような。
出演者多数であったが、場面転換に付随する衣裳の早替え(客室乗務員の制服へ、また迷彩服へ)も中々のもの。歌唱レベルも高く興醒めさせる事がなかった。
I, Daniel Blake ―わたしは、ダニエル・ブレイク

I, Daniel Blake ―わたしは、ダニエル・ブレイク

秋田雨雀・土方与志記念 青年劇場

紀伊國屋ホール(東京都)

2025/09/26 (金) ~ 2025/10/05 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

よく見ると本作はケン・ローチ監督の映画が原作。多作ではなく自分も2,3本しか観てないが、彼は炭鉱労働者や社会の周縁にある人々に焦点を当て、苦境にあっても力強く生きる姿を描く「イギリス映画の良心」と言われる(に相応しい)映画監督。

今回の舞台も英国のとある地方都市で「生きづらさ」に直面する人々を描いた物語。主人公ダニエル・ブレイクは老境に差し掛かった、どうやら一人暮らしの男。心臓病の診断を受け仕事を止められるが、役所では就労可能と判断され、手当てを受けるためには就職活動をする必要があると指示される。この役所とのやり取り(闘い)が延々と続く事になるが、その役所での最初の場面で、彼はある母娘が役所の窓口と掛け合う光景を目にする。
母は約束の時間に遅れた事を詫び、今日この町に来て、散々探してやっとここへ辿り着いた事、支給が無ければ万事休すである事を訴えたが、役人は「時間に遅れたため今月の支給は無し、来月来なさい」と回答し、曲げない。母は食い下がる。「自分だけなら何とかする、だが娘が居る、明日から娘は学校に行く。財布の中は、今これだけしかない、見て下さいホラ(と財布を開いて見せる)・・」。言葉がきつくなると役人は「穏やかでない言葉使いは貴方のためになりませんよ」と恫喝する(この台詞は後の場面にも聞かされる。誰がキレさせているのか!・・と観客である自分も頭に血が上る台詞だが、役人には罪意識がない)。
ダニエルは見かねて声を掛ける。役人は悪びれもせず規則だけに従って市民の処理に当る。そして食い下がれば「言う事を聞かない不逞分子」として警察が呼ばれる。

折々に、貧困に関するケン・ローチの言葉や過去吐かれた政治家のコメントが字幕に映される。社会に問題は起きていない、とする言説と、その言説に抗う言説の両方。
かつてイギリス病という言われ方が低迷から脱せない英国経済を言う言葉としてあったが、画期となったのがサッチャー首相であり、米国大統領レーガンと相伴い新自由主義への大胆な転換が図られた、とされる。炭鉱労働者を切り捨て、貧困層と格差を生み出したが、これらに対し新自由主義は冷たかった。その大義名分は「改革」。忍耐の末には改革された社会が待っている・・。
この芝居に描かれた役人の態度は非情で、怒りをかき立てるが、日本のそれとは異なると見えながら本質は同じかも知れない。
なぜ規則を作り、これを厳しく適用するのか(手当て支給の間口を狭めるのか)、と言えば、お金を余計に出したくないから。これは彼らの非情な態度を裏付け正当化する理屈だ。
ダニエルは「ハンコを押せば済む話じゃないか。今彼女の申請書にハンコを押し、彼女は金を受けとる。なぜその単純な事がやれないのか」と言う。だが母親はそれをとどめ、「事を荒立てたくないから」とダニエルの親切を拒む。役人の決定は覆らず、母子共々追い払われる事になる。借りたアパートの鍵だけ預かっているがその場所も判らないという彼女らに、ダニエルは道案内を買って出、これも母は固辞するが結局受け入れ、アパートに入るや、ゴミ溜めのような状態に唖然とする。電気は課金する金がないため通せない。全ては今日の支給を当てにしての算段で、娘には先に新しい学校で恥ずかしくない服を購入し、すっからかんである。僅かな希望にすがり、安い公共住宅にやっと当って遠方へ越して来たらこの有様、萎える母親に、ダニエルは捨てたもんじゃないさとゴミを片づけ始める。この日から母子とダニエルの付き合いが始まる。
一方ダニエルの住む住宅には中国人の男がいて、中国本国で製造している靴の直接輸入で美味しい商売が出来ると息巻き、その最初の売り声、軌道に乗っているというエピソードがある。ゴミ捨てをダニエルに任せるような男だが、彼が困っている様子を見ると心配気に声を掛けて来る。この悪意のない隣人はイギリスの平均的庶民の空気を伝える。ダニエルは不服申し立てという手段に出る。申し立ての機会は担当する相手からの「電話」に応えるという形でしか遂げられず、電話はいつまで経っても掛かってこないと役所で訴えるも聞き入れられない。仕事を探す面接を幾つかやったと報告するが、その証拠は?と訊かれる。「今まで俺がこの口で言った事以外の証拠を出させられた事などない」と答える。
母子を訪ねたダニエルが目にする断片にも、一つずつ変遷が見られる。心配になって訪ねるダニエルだが、母はダニエルの素朴な愛を「自分の惨めさ」ゆえに拒む。子供は学校で臭いの事を指摘され、変な服だと囃し立てられているようである。母はある慈善グループの会合で出会ったある人から「商売」の知恵を授かるのだが、ダニエルが訪ねた時、シュミーズ姿でベッド脇に座る母の姿を目の当たりにする。
訪ねてこなくなったダニエルの家の玄関に、娘が座っている。利発な彼女は、私たちは友達、だから訪ねて来るのよ、と言う。
厳しい現実の代わりに再び、新たに友情を手にした彼ら。ダニエルが切れるきっかけは、面接に訪れたある店の店長から「貴方を採用したい」と言われ、「実は自分は心臓を患っていて働けないのだ」と言うと、「お前はそういう連中の一人だったんだな。周りを見てみろ、皆自分の体を使って働いている。誇りを持ってる。お前らのような公金をくすねようとする狡い奴らが居るからこの国はダメなんだ」と罵られる。自分で選んだ訳じゃない。しかも、手当ては支給されない。その後の役所での女性の対応(面接の証拠がない、面接をしていないで手当てを申請するのは規則違反、違反には罰則が適用される事を覚えておいて下さい、等の説明)に「もうや~めた!」とダニエルは言い、役所の外の壁にスプレーで落書きをする。「私は、ダニエル・ブレイク。」
ついに「不服申し立て」が認められ、証言を明日に控えた日、ダニエルは母にメモを渡す。明日読み上げよう思っている事を書いた。今日帰って目を通してチェックしてほしい。その夜、心臓発作で亡くなるダニエルブレイクは、声なき人々の手によって、静かに葬られる・・という冒頭見せたムーブが繰り返される。芝居はそこに辿り着いたのだ。そして母はダニエルが書いたその読まれる事のなかったメモを、読んで聞かせる。静かに暗転。

ネタバレBOX

米国の新自由主義はGAFAを生み出した。既存構造の受益者には苦難でも、国としてはそこから成長分野が生み出された。
日本は公務員削減、公共部門の民間移行と弱者保護制度の規制緩和などで、企業の利益確保に有利な「改革」を進めたが、イノベーションにはならず既存構造をむしろ保護して延命させる「エセ新自由主義」であった。格差を広げる効果しか生まず、その「痛み」から産まれるはずの改革は、起こら(起こさ)なかった。自民党政権が「終ってる」理由はそれである・・らしい。
誠實浴池 せいじつよくじょう

誠實浴池 せいじつよくじょう

庭劇団ペニノ

東京芸術劇場 プレイハウス(東京都)

2025/10/03 (金) ~ 2025/10/05 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

台湾の劇団とのコラボという事で何を見せられるか全く未知の状態で観劇。既視感があったのはペニノが以前やった「蛸入道」だったかのパフォーマンスで、これは最初から最後まで形式に則った儀式を延々と見せられるという際物だった。楽器を鳴らしたり拍子を打ったり、観客も鳴り物を持たせられた。各所で炭火が焚かれ、演者は汗だくになって儀式をやり切るのであった。
本作では海沿いの寂れた場所にある廃業した浴場の中で、日没と共に何らかの商売の営業が開始するのだが、この着想と、これをやり切る執念に脱帽する。異様な光景が、伏線も回収の気配もなく晒され、まごついてる間に、この見せ物は見事に完結を迎えているのであった。片桐はいりという俳優無しにこの世界観を出せただろうか?とも考えた。

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