若手演出家コンクール2024 最終審査
一般社団法人 日本演出者協会
「劇」小劇場(東京都)
2025/02/25 (火) ~ 2025/03/02 (日)公演終了
映像鑑賞
満足度★★★★
コロナによって映像配信なるものが実現し、初めてこの企画を目にしたのが5年前。2019年度の3月だからコロナ急性期。2月後半あたりから大手が公演を取り止め、小劇場は3月に入ってもしぶとく打っていたが4月緊急事態宣言でゼロになった。第27班・深谷氏は2019年度の最優秀賞受賞で知ったのだった(忘れていた)。翌2020年度はぽこぽこクラブ・三上氏。
ユニークな演目が並んでいたが何しろ画像音声が粗いため見るのに難渋する、その印象もあって積極的に観には行かなかったが、今回は申大樹の名もあって覗いてみた。相変わらず定点撮影で録音もシンプルだが随分と見やすくなっていた。
1演目目から順に観た。まず申演出の「野ばら」。
深海洋燈はまだ一度も観れていないが流石、金守珍の薫陶を受けた才人に違いなく、原作の小編を劇中劇風にし、日本の戦争時代の少女たちの交流をベースに、そこに登場する不思議な少女が「野ばら」を読んでいる、という構成。音楽、歌・踊りに女性教師(佐藤梟)が縦横無尽に場を席巻する笑わせ場面あったりと盛り沢山。毎回の短いポストトークではコンクールでは珍しい作り込みの美術を一様に話題にされていたが、梁山泊仕込みのトリッキーな舞台処理もそれを感じさせないスムーズさであった。
ただ、演出を離れて作品という事で言えば(作も申大樹)、現代における戦争への認識に二つの戦争悲話が届いているのか、という部分では、「戦争」の語り口が定型的に思えた。いや元がそういう作品だから、という弁もありそうだが、主人公の二人の女友達の死が最後に来る日本の戦時下の話と、いつかの時代のどこかの外国の国境に立つ二人の兵士の物語が、「戦争悲話」で括られてしまうと、物語世界が狭くなる感じがある。演出等でありきたり感を大いに解放し、見事なのではあるが、テキストのレベルで言えば、「戦争はやめるべきだ」「世界から戦争をなくすべきだ」という、犠牲者の存在の裏返しとしての反戦の論理(大島渚が前にこれを「単純正義論」と言っていた記憶がある)が如何に弱いか・・その事を戦後の日本人は見て来たのだと私は考えている。少女たちは確かに犠牲者であったが、既に一個の考えを持つ彼女らは同じく人としての責任にもさらされ、友達を殺した者=「戦争?」への恨みを持つとするならば、その矛先は自分にも向くものだろう。「はだしのゲン」のゲンらが訴える相手も見出せず虚空に向かってピカドンのせいじゃ、と言う。せいぜいがあれを落とした人間への恨みつらみを言うがそれは戦争を起こした者(日本の上層部)にも向かうが、今や存在するかも分からぬ相手に、言っている。このお話の少女も誰に向けるべきかも分からず「戦争め」と言うしか、その時は術はなかったかも知れないが、今舞台を作るにおいては当時そうであった彼女たちを、今の私たちが評するなり掬い上げるなりして、何かを付け加える必要がある。劇においてそれが何なのかは作り手の問題だが、「戦争」が悪い、のは分かっている、その先を考えなきゃ何も変わらない・・そんな一抹の思いが見ていて過ったのは確かであった。
ラストを締めくくるまでの大がかりな道筋は金守珍ばりに考えられていたが、作品性もそれに相応しく深く周到なものであってほしい・・欲を言えばの話。
他の作品についてはまた、ネタバレにでも少しずつ書いてみる。
淵に沈む
名取事務所
小劇場B1(東京都)
2025/03/07 (金) ~ 2025/03/16 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
テーマを深く抉った上質な作品をこう飛ばしている名取事務所の観劇頻度が上がって来るのもむべなる哉。
内藤裕子は「灯に佇む」「カタブイ、1970」「カタブイ、1995」に続いての名取事務所への書下ろしで、今作も流石だなと感服した。
作者は今、法律の条文を人(日本人)の耳に鳴らせたいのだな、と思う。特に、理念法(憲法や、各法律の目的の項=立法目的としての理念が書き込まれている事が多い)、「カタブイ」続編の方ではその条文(確か日米地位協定等もあった)を読む場面が幾つもあり、些か固いテキストとなっていた。私たちの生活が「法律に規定されている」厳然たる事実は、とりわけ沖縄では(法そのものの是非も含めて)切実であるが、その事を本土人が軽視してはならない。それには法律が「私たちを取り囲んでいるもの」、日常と地続きにある感覚で捉えなければ・・と、勝手な推測ではあるが、作者は今その思いを強く持って居る、そう思った。
これを経ての今作「淵に沈む」でも開幕後、簡易ベッドに横たわった青年がうなされるように憲法の条文(前文)を音読(暗誦)しており、夜だったのだろう、周囲から「うるさい!」「静にしろ」と罵声を浴びる。場所は牢屋に見えたが、実は精神病棟の一室であった。
精神を病む彼のそれ(独語)は「症状」であった事が後に分かるが、冒頭のインパクトを狙ったかの出だしに私は構えてしまった。「本当は大事な条文なのに軽視されている」、だから今一度ここで(彼に語らせるという形で)読ませて頂く・・的な、直接的な関連はないけれど広く捉えれば全て憲法問題とも言える正当性でもって「条文のアナウンス」が敢行されている、と警戒したのである(別に警戒せんでよろし、との意見もあろうけれど)。
私たちが怖れをもって想像する「収容所」に等しい精神病棟は、あの恐ろしげな冒頭場面で象徴的に表現され、不可欠なシーンだったかも知れないが、結論的には、「法律を勉強していた」彼が独語で呟く(又は叫ぶ)のは憲法条文でなくても良く、であればメッセージ性の強い、かつ定型のそれでなく、少し捻りの効いたチョイスがあって良かったか、とは思った。
さて物語は温かみのある話であり、精神病棟の鋭利な刃のような酷薄な現実の中で、安全圏(ドラマを見る者にとっての、でもある)を確保しようとするものだった。その証拠に、体制に組み込まれ、正しい判断と行動が出来なかった事を悔いる者を含めた「良い人達」に対し、病院の体制側を代表する存在は院長一人である。この一人の「悪役」も倒しがたい状況に、精神疾患を20年の間に寛解させた青年のささやかな「施設外での」人生の再出発を支えようとする四名の姿がラストに揃い、危うい現実の中で人を支え、支えられる人と人の関係とコミュニティこそ、まずは答えなのである、と終幕のシーンが語るのを聴く(私の捉え方だが)。
精神病棟の現実を告発したルポは既に1970、80年代にあり、障害福祉のあり方も変遷を辿ったが、私もよくは知らないが、知的障害について言えば、強度の障害は家族との同居が難しく施設を頼るケースが少なくない。施設建設が趨勢だった1970年代を過ぎると、施設から地域へ、となったのは確かで(海外からそうした潮流が輸入された所もあり、厚労省のそういう部分での功績は認める所だ)、介護業界も保育業界もそうだが、今は人材育成もさる事ながら障害福祉でも平均年収より100万以上低いと言われる分野だ。医療の方も構造的な改革が進んでいるが厳しい状況に追い込まれている医療機関は多いと聞く。そんな中でこの劇のような精神病院(精神科のみの単科病院)が何十年間、ヘタをすれば死ぬまでの長期入院を病院側が進めようとする事が起きるとすれば、悲劇だ(通常の病院が3ヶ月で患者を退院させたがるのと精神科がどう異なるのか知らないが)。長期化により「諦め」が心に住み、生活習慣がそれに合わせて変わる。医師や病院の「やってる感」のための服薬や治療行為が行なわれてしまう。
古くは「カッコーの巣の上で」が描いた精神病院の無残な現実が思い出される。行きがかり上収容される羽目になったとある男(はみ出し者)が、図らずも病院内にもたらした自由と解放の日々(それは最も的確な治療でもあったと観客には見える)と、病院に都合の良い管理法とそれを裏付ける旧い知見への揺り戻し、挙げ句は男自身が電気ショック療法などで「精神病者にさせられて行く」様は強烈であった。
障害者という弱者は常に「軽視」されるのであり、軽視する正当性を健常者は手にしており、彼らを縛る大義名分があり、彼らの同意が医師らの得になる訳でもない(彼らの不同意は医師らの不都合にはならない)。非対称な関係が力の一方的な行使を許し、都合よく支配し・される関係が成り立つ。
院長役の田代隆秀は「灯に佇む」で良き医師を好演して記憶に残った俳優、以後内藤作品で見る事が多いが、今作も悪い医師役を好演。同じく常連の鬼頭典子女史も良き女医を変わらず好演、センシティブな患者役に西山聖了、MSD役の歌川貴賀志、他の役者たちもハマって半ば「地でやってる」かのように見えた。
女子と算数
NICE STALKER
ザ・スズナリ(東京都)
2024/12/25 (水) ~ 2024/12/29 (日)公演終了
映像鑑賞
満足度★★★★
配信を鑑賞。公演序盤の観劇予定がワヤになり結局行けなかったのだが、延期が重なり2日のみの公演だったとは。そして「段ボール彼氏」ver.とは欠員を補うための策から付いたネーミングだったのか..。Aniversary公演とは言っても通常営業、と思っていたが思いの強い過去作のリバイバルであったようで。確かに..その思いが迫って来る作品ではあった。不完全を補うべく奮闘する役者が前面にどっかと存在する中で物語が(というかそのスピリッツのようなものが)揺ら揺らと立ち上がって来る。一人の鈍感な(と一応されている)男を巡る恋愛譚で吐かれる恋心、打算、愛を滲ませる台詞に、突如数式が割り込み、板書されて授業モード、ギャグで落とすがその解にしっかりオチが仕込まれている。この数式という「非感情的なるもの」と恋愛に不可避な激情が絶妙に絡む。イキウメを持ち出すのも何だが、淡白な数字(世界の真理)が人間存在に冷徹な法則以上に有機的に関与していた発見の驚き、に通じる所の感動の要素である。これを総員挙げて具現しようとする熱がこの舞台を覆うのが映像からも認められ、思わず手が拍手をしていた。
血の婚礼
劇団俳小
駅前劇場(東京都)
2025/03/05 (水) ~ 2025/03/10 (月)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
俳小の海外戯曲上演を観始めた最初が「群盗」。d倉庫で躍動の舞台に大満足した。この舞台の演出も菊池准氏であったとパンフに。
新劇系の俳優の客演を入れつつ公演を打つ俳小は、今回も主要な役レオナルド他に客演を配していた。さてその出来は・・
まず上田亨氏が音楽(+演奏)と見て「あ」と思う。この方は舞台を音楽で染め上げてしまう事があるのだが、今回は大変良かった。挿入歌・踊りは多用されていたが、しつこくならない線(歌い方、振付には多少注文を付けたくはなったが、収まりづらく感じた理由は恐らく駅前の難点=天井が低く俯瞰の光景が見せにくい点等が影響した感)。開幕を知らせるように音楽が鳴ると、フラメンコ・ギターの音色、これをキーボードで演奏していて驚いたが、曲もギター演奏仕様の楽譜で全く違和感がなかった。
さて「血の婚礼」は、自分の中で別格な作品。十数年前松田正隆氏の晦渋な演出で観たのが最初で、後は新国立研修所公演(よく演じていた)、前に無名塾で観た同作者の「ベルナルダ・アルバの家」がむしろ同じ世界観を体現していて、印象が重なっている。だがもっと遡るとカルロス・サウラ監督のスペイン映画でこの世界観の洗礼を受けた事を思い出す(同監督は「血の婚礼」も撮っているが私が観たのは別)。
婚礼の日に花嫁が奪われ、その夜が血の夜となった。・・「血の婚礼」の筋書きは言えばそれだけだ。主人公となる花嫁の、結婚に対する両端に引き裂かれる感情、その葛藤のグラデーションの心情が、人の根源的欲求の「ある顕われ方」として生起する。ある時は花婿に「ずっとそばにいて」と求め抱擁する行為に、ある時は花婿を遠ざける行為に・・。茫漠として不可解な精神の深淵を想像する事を促される・・自分にとって本作はそういう作品である。
この花嫁の生まれ育ちも、村人の間で囁かれる場面があり、一方の横恋慕の男も家系(血)の噂がある。そして新郎である息子を殺される事となる母も、自分の夫と息子(兄)を殺された過去を血の仕業(宿命)として語る。花嫁のみならず相手の男の説明不能な欲動も、彼の妻の目を通して炙り出される。この妻も婚礼の日を心穏やかならぬ思いで過ごしている一人。何かと彼女を遠ざける夫に、彼女はついに(愛の不在に関わらず)「あなたといる人生しか私にはない」と悲壮な決意で迫り、男は呪われた運命であるかのように頭を垂れ、それを受け入れるかに見える。(一幕の終盤に見せるこの場面で私の周囲の女性客たちは涙を拭っていた。血が巻き起こす不条理の中に一抹の人間の理性の確かさを見てわずかに救われる瞬間。劇中最も胸が熱くなる場面だった。)
だが戯曲の基調である不穏な空気は消えない。二人の姿を見ればつかの間の安堵があるが、二人が離れる度に「見えない何か」への不安がもたげる。不可解さゆえの不安。
その意味で、演技的には、台詞に表れない(いや台詞のみならずアクションとしての「演技」にも表れない)要素が、つまりは役者がまとう佇まい、容姿、存在から滲み出るものが表現を大きく左右する。努力では迫り切れない領域がある、と言おうか。。
俳小の本舞台は鋭く迫る場面を生み出していたが、トータルとしてはやはり「随分難しい作品に挑んだな」という感想が最初に来る。
芝居に「完成」は無いと言うが、創造的模索の道程を見た感である。作品をじっくりと眺めながら、様々な考えを生起させ、二時間ニ十分の道程を歩き切った疲労と共に帰路についた。夜はよく眠れた。
韓国現代戯曲ドラマリーディング ネクストステップVol.2
日韓演劇交流センター
座・高円寺1(東京都)
2025/02/28 (金) ~ 2025/03/04 (火)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
続いて「ハウスソナタ」を観る。この日は余裕の到着で丁度良い席を確保。が不眠気味がじわじわ来て寝落ち多し。台本を手に、時に移動し空間を認識させる通常のリーディングだが、戯曲紹介の企画とは言えリーディング表現の可能性を見たい欲求から、評価も細かくなる。以前のこの企画では通常3演目が並び、演出、演者は別々だから良い意味で?コンペの要素ももたげるが、二つとなると一対一の対決の様相が(そういう見方をすれば)出てしまう。
今作は韓国現代の風俗、社会の空気感、生活者の気分が台詞の背後にあり、従って地味に難しい素材と思われた。交通整理上の難しさと役者の演技が見合っていない、と感じる場面が多かった(平易な言語による会話だが、言葉ヅラに出ない文脈の情報が多い事が想像された)。
冒頭は語り手の障害ある子を指揮者に見立て、他はズラリとオケの楽団員のように譜面台を前に座って指揮を待つ形。期待させる出だしだったが、役者が喋る台詞の裏の書き手の意図とそれに対する正解を脳内で再構成する作業が序盤から始まった。
役者の力量と言ってしまえばそれまでだが、演出以上に翻訳が気になって戯曲本に目を通した所、まだ序盤だが戯曲の難しさ(翻訳上の難しさも)に直面。言動の微妙なニュアンスありきで書かれた台詞である事とか、台詞に込めた作者の意図を探るのが大変で、という事は翻訳段階で明確な解釈による語句のチョイスを留保している、とも見える。(要は読み進めづらい。)
良い戯曲は俳優が書かれた言葉をただ読むだけで作品紹介になり、のみならず更には作品を高揚をもって味わえるが、中々そこに到達しがたい感触。
ふと思い出すのは以前本企画で3作の一つを担当した演出家がシンポジウムで、準備段階でのトラブルで如何に困難があったかを縷々述べるという事があった。(演出の万里紗氏が何を思うかは判らないが。)
終演後は暫く作品を反芻し、想像逞しく思い描いたが、本作の着眼はユニークでその設定と今観た舞台の情報を元に自分が感動の内に劇を観終えた瞬間を想像した。想像できた。戯曲を読み直してみよう。
韓国現代戯曲ドラマリーディング ネクストステップVol.2
日韓演劇交流センター
座・高円寺1(東京都)
2025/02/28 (金) ~ 2025/03/04 (火)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
戯曲は未知数だが、演出を見るといずれも秀でた女性演劇人ゆえ、今回は両方を観たかった。観られて良かった。
まずは「火種」を拝見。
圧巻。戯曲も面白く、リーディングのレベルを遥かに超越した出来。手にした台本の存在も忘れてしまう桑原氏の捌き、完璧に役を体現した俳優らに驚嘆であった。
(という訳でリーディングである事をいつもは差し引くのだが今回は5星に。)
漲(みなぎり)
九蓮サイダー
Paperback Studio(東京都)
2025/02/27 (木) ~ 2025/03/02 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
3演目あって1ステージ2演目というパターンは前にもどこかであって何とも非効率・・と思ったものだが、直前まで迷ってやっぱ観たくなって足を運んだ。ちょっと覗いてみよう位の興味であるし・・とそこそこの期待を胸に赴いたのだが、paperback studioは思いの外遠かった。で、内容は期待を超えて良かった。3演目目(C)も観たくなった。
書下ろしの短編脚本の勘所を掴んで押し出し、ワンルームマンションの少し大きめの部屋のような小屋を劇の時空にした役者力に、感服。休憩ほぼ無しの美味しい二編1時間15分程度の観劇であった。ポストトークに演出家五戸氏とはラッキー。短時間ではあったが演劇について静かに語る言葉一語が樹液の如し。
かういふユニットは継続が課題だが、色んな挑戦の場として是非とも続けて欲しい。
オセロー/マクベス
劇団山の手事情社
シアター風姿花伝(東京都)
2025/02/21 (金) ~ 2025/02/25 (火)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
両方見たかったがギリギリチケットにありつけた(プレイガイドに残ってた)マクベスを拝見。二、三年に劇作家女子会。での、昨年は劇団アトリエでの「ドグラマグラ」(共に一人芝居)に圧倒された中川佐織はどちらに?と見ればマクベス組。となるとあの狂気をマクベス夫人を魅せてくれるか、、と自分の予想を確信していたら、7名全て女性俳優。中川女史はマクベス役であった。
75分にまとめたマクベスはムーブや集団表現を挟んで要所を描き出す作りで、その舞台として中央に円形の台、その奥部分に高い椅子を据え、王と臣下、城と下界の上下、下は台上と平場を使ってコロス的・舞踊的な円の動き、また上手壁側の階段も使って動きの変化を付けているが、カットインの真っ赤な照明やスモークも含めて全体としては割合に丸みのある(尖ってはいない)作品主体の演出に見えた。
そして叙事詩の主人公マクベスの、世界と己の人生への最高潮にシニカルな目線が、中川女史の低く抑えた(だが破裂音の混じる)声に抑制的統制的に籠められ、静かなクライマックスを作っていた。
無残な世界をその見開いた眼に映す(この世との別れの時に全身からの恨みを込めて)小さき存在は、外からの理不尽な攻撃をまばたきせずに見据える幼き子らの眼差しと同様に、己の内からなる不条理を同じく見据えている。この目が、今という時をも正しく見つめる目であるべき哉、と、はたと思わせられたのである。
バウンス
イデビアン・クルー
世田谷パブリックシアター(東京都)
2025/02/21 (金) ~ 2025/02/23 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
この舞台も刺激的だった。舞台の見てくれも出演者の動きと身のこなしもまず意味が詰まっていて格好良くコミカルで、人間模様の隠喩が満載。
音(楽)が気味良く、奥に向かって台を積み上げただけの全体が風景(河原の土手とか)に見える。秀逸。
ボンゴレロッソ 2025
A.R.P
小劇場B1(東京都)
2025/02/19 (水) ~ 2025/02/25 (火)公演終了
美しい日々
新国立劇場演劇研修所
新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)
2025/02/11 (火) ~ 2025/02/16 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
見応えあり。
新国立の研修所公演は結構観ており意外に(?)当たり率が高いのだが、本作も「観に来て良かった」と初台を後にした。今期研修生の発表は二度観られた。先日の岡本健一演出「ロミジュリ」は有名戯曲の料理法=演出が攻めており、俳優らは古典世界を生きるよりは現代性を体現する素材として懸命に立っていた印象だった。「争い」の本質にこそ瞠目すべき、との明快な演出だった。
これとは打って変わって今作では、人物の存在を観察・凝視される現代口語演劇の登場人物として舞台に立ち、別の難課題にしっかり組み合っていた印象。松田正隆の初期戯曲?(ちゃんと調べてないが)と言われると分かるのは、他の代表作たちが徹頭徹尾リアルな現代口語演劇であるのに対し、象徴的・脳内風景とも見える場面が劇進行に介在している。そして十分魅力的な戯曲である。(演出は研修所で三度も取り上げたという気持ちは分かる。)
二部構成。前半は都会の一隅、木造アパート(台所は共同)につましく住まう互いに知らぬ間柄の二組の人間模様で、第二部へと向かう第一部のラストは貧しい兄妹が住む部屋での殺人事件(そうであったとは二部ではっきり分かるが)。一方の独身男が住む部屋では別種の破綻がじっとり進む。戯曲か演技の的確さか、新居の話さえしている婚約者との決定的破綻の原因が、後に能天気な元生徒(昨年まで教師だった男を慕う)がわざわざやってきて読み上げる「観察記録」によって「性生活」にあったことが暴露されるのだが、その前段で既に「それ以外にないよな」と観客は確信している。仄めかしとそれへの言及。男の「不全」又は「それの物足りなさ」がアイテムとなる物語はどの時代にも在るが、この時代におけるそれは救いの無さの象徴として十二分に機能する。
そして男が友人に弟の実家に身を寄せると言った九州の田舎の広い家の居間が、第二部の舞台。田舎が持つ開放性(自然に開かれている)と、この家の特徴だろう「人間の良さ」が、都会の毒を舐めた人間の躓き、傷を逆に浮き上がらせるが、悲観に飲まれそうな主人公たちが、どこか清々しさを湛えている。その微かな希望のようなものに胸がざわつく。
ヨゴレピンク
スラステslatstick
駅前劇場(東京都)
2025/02/19 (水) ~ 2025/02/26 (水)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
松本哲也作品は久々になる。行間に語らせる戯曲を書く特徴はあったけれど、今回はまた独特な世界。不思議な世界。特徴ある役者たち共々に、好物であった。
熟年縛りの婚活パーティの参加者男二人女二人、無対象で手前側にも参加者がいる設定のようで俳優らが正面を向いて椅子に腰掛けて並ぶ。右端の男は他が自己紹介する度に小さなカメラで構え、向かい側に気を遣いながら写真を撮る。後で彼は「カメラマン」だと紹介される。司会であるコーディネーター合わせて6人の芝居。無対象の人々がいる、という事もあるが、舞台上の余白、時間的空白で妙な間が生まれのがいい。思い切った場面の省略も、場転で流れるMが惚けていてこれがまた良い。
カリギュラ
カリギュラ・ワークス
サブテレニアン(東京都)
2025/02/14 (金) ~ 2025/02/16 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
オフィス再生の「正義の人びと」でも作家役で登場していた長堀氏がタイプライターの前で語り始め、そう言えば・・と。題名だけは大昔から(カミュ作でお馴染みの文庫版もあったし)耳馴染みのある「カリギュラ」の内容は全く知らなかった。女優が扮したカリギュラの独白が、権力者の孤独、人間の真実、哲学的難問の領域に踏み込んだ事を台詞の端に滲ませる。「カラマーゾフの兄弟」(未読だが)で問われる「全てが許されるとしたら、人間は・・」という仮想の問いを実地検証できる絶対権力者は、何を選択するのか・・この問題設定をストーリーから汲み取るまでにやや時間を要した。大量の書物が置かれたサブテレニアンの黒い空間、紗幕の使用等、演出が勝ったステージであったが、この劇場の客席の最上段(一列目、二列目、三列目まで急峻な傾斜がある)に座ると、俯瞰の目線となり、趣向が「見えてしまう」ので少々戸惑った。
今少し低い目線で役者や物たちを水平に眺める想定で、演出が施されたのでは、と推量した。立体的な視覚情報が、役者の台詞への集中を幾度も途切れさせたような。(単純に自分の身体条件によるのかもだが..)
その点が見終えて惜しく思った部分だが、最後には高揚をもたらしていた。そして(例によって)原作を読みたくなった。
『APOFES2025』
APOCシアター
APOCシアター(東京都)
2025/01/18 (土) ~ 2025/02/09 (日)公演終了
映像鑑賞
満足度★★★★
一回のみのステージ「田実陽子×オノマリコ」を配信鑑賞。注目のオノマリコ脚本、秀作だった。東日本震災のあった日の都内、小さな飲食店を営む主婦が、帰宅困難者が集って活気付いた店内を眺め、安否を気にした夫から帰宅が遅くなる旨のメールを感慨深く受け取り、その時感じ、考えていた事を今振り返って語る。彼女の独白は、この日は皆が「良い人」だった事を改めてとしみじみ噛み締め、その夜を懐かしむささやかな本心を吐露する。遠くで起きた悲惨な現実への言及は独白の中には無い。想像の余白に、人間の真実が忍び込む。
残念だった(と思っただろう)のは、終盤の大事な場面で音響オペのミスだろう、終演後のアナウンスがチラッと流れてしまった。芝居は何とか持ち堪えていたが、一度切りのステージ。オペの方は土下座して謝罪した事だろう(でなきゃ許さん)。。
『パラレルワールドより愛をこめて』 『パラレルワールドでも恋におちて』
ザ・プレイボーイズ
シアター711(東京都)
2025/02/02 (日) ~ 2025/02/09 (日)公演終了
実演鑑賞
「愛をこめて」観劇。受付でまごついて冒頭を見逃し、急ぎ入場するとシンプルな装置、カラフルな空間で「突如の異変」後のやり取りが始まっている。ただ、二人の関係性にいまいち自信が持てず宙ぶらりんな時間が過ぎる。65分の芝居では開演には間に合いたかった。
役者は「間」を使う芝居を展開。途中イイ話系の気配も漂う。キャラと容姿がまるで違う二人は、タイトルが「パラレル」なら同一人物だろうに「俺たち」って言っちゃってるし(別人の二人、という風にも聞こえる)、暫く人物設定が判らなかった。女子がコロス的に男役やったりと、「ちょっとお粗末様で失敬」が通るコントを幾分拡大した感じで(リアクションに間があるのもお笑いの「察して、笑って」からか)、私はと言えば「いい話系」のお笑いが嫌いなのである。
細部を埋めてくれる演劇でならイイ話は辛うじて受容するが、結論(感動)先取りでリアリティ無視でも感動してくれちゃう観客ばかりと思うなよ・・等とまァ無気になる事もないけれど、斜に構えてしまう。これは失敗だったか・・とつぶした別用が頭をよぎるも、後半は盛り返し、ストーリーを追う構えにはなった。AI風マネージャーの「効率優先の仕事は一流だが生き方ド素人」というイノセントなキャラが恋バナに発展。シリアスな場面はリアル(現実)を仄めかす。大御所に気に入られた相方のお陰で「向こうの世界の俺」は仕事が入って順風満帆。相方は元々高校時代、大笑いさせる台本を見せてくれた「俺」に付いてきた優さ男、「俺」の望みならやろうとする相方の内面に気づかず(あるいは内心気づいて?)、「俺」は世に出る将来像に舞い上がって(相方の「犠牲」で実現する)夢を脳天気にも語る。煮詰まった相方は破綻をきたして入院。ジャニー・Kを想起させるお誘い、また今カノと別れる選択肢まで提示された結果であった。(芸人というよりアイドルの話のようだが..。)
一方「パッとしない」こっちの「俺」は相方に無理させる事はなく、売れないままである。
パラレルの同一人物が人生展開の分岐する時点ですでに「全然違う」ので、「パラレルワールドの話である必然」が揺らぐ。とりわけ俳優としての見た目に準じた「対女子アピール度」の違いは、ネタとしても私には笑えず、フィクションが「素」に戻る(見た目いじりかよ..。と)。そもそも「容姿で変わる」ならずっと前から運命は変わってるはずで、生まれた時点で二人が「同一人物」であるかどうか等分からんし、その前提で物語を語る必要性もなくなる。そこはできれば、「本来同じはずだが内面のどこかが違った故に見た目も変わっている」くらいに見せてほしいわけである。
大御所に気に入られた相方が仕事をもらって成立していたなら、世間から「あいつらそんなに面白んないのにテレビによく出てんな」くらいの齟齬が生じかねない。また、相方がいなくなったのに仕事はもらえてるのか? だったら元々実力はあった。であれば「こっちの世界の俺」も売れてておかしくないのに売れないのは? 何か別の要因(コンプラが厳しくなって・・とか)が説明として加わる必要が出て来る。
感動の場面はある。向こうの「俺」が、こっちの「元気な相方」と対面する。自分の世界に戻って相方と向き合う覚悟をする、という変化がドラマである。
同一人物と勘違いする相手の反応を楽しむ構造は沙翁「間違いの喜劇」の昔から演劇のテンプレだが、王道な展開は良き哉。
全体に演劇的ポテンシャルを高めているものがあり、空気感としては脇の女子二名の活躍が「気持ちの良いスタッフの居酒屋」にいる気分。
スタッフ・ワークはしっかりしている印象だった。後で見ると音楽が「虎に翼」の森優太、耳に心地よく芝居に寄り沿った劇伴は確かに好印象。
女性映画監督第一号
劇団印象-indian elephant-
吉祥寺シアター(東京都)
2025/02/08 (土) ~ 2025/02/11 (火)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
千秋楽を拝見。直前に椿組「キネマの大地」を観たばかり。本作も映画を題材にし、しかも時代が重なる。史実上の日本の女性映画監督第一号、坂根田鶴子も満映に渡り、現地で「偽の国家」の矛盾と直面する筋書きである。先に観た芝居でも耳にした(意味的に同じ)台詞が、全く異なる芝居ながら「同じ場所と時代」の中で聞こえてくるのは不思議な感触だった(ただの偶然だけれど)。
吉祥寺シアターでの上演は劇団印象としては初めてだろうか、天井の高い劇場をうまく用い、視覚的効果が良かった。万里紗の胆力を以前もどの芝居かで観た記憶があるが、見上げたものであった。溝口健二役をやった内田健介を目にする機会が最近多い。俳優の力量を舞台を観ながら認識する事はあまりないが(大体芝居に集中するので)、その力は大きいと感じた所である。
史実や歴史上の人物を描く場合に課題となる「史実と虚構」のバランスが本作でも課題であったと思う。豊富にある訳でない素材を使って舞台を立ち上げる作業という点では、攻めた仕事をしていたが「何故今これか」のエクスキューズが十分表わされていない感触も残った。
結局は好みの話になりそうではあるが、私としては満州の場面ではその問題の性質上、可能な限りリアルな描写に挑んで良かったのではないか。テンポよく軽快に、身も蓋もない会話もさらりとやらせて先へと進む、歌踊りも織り込んだタッチが満州に来て写実主義の絵画のようなリアリズムの演技が展開する、そういうバランスが正解でなかったかな、と。
中国人女性役の「中国訛りの日本語」をもっと追求するのも一つかも知れぬし、脚本上で言えばその中国女性が坂根に反問する言葉(私はここにいるのですか?)が、彼女自身から出た言葉ではなく半分は坂根の脳内の(記憶から作り上げられた)彼女が想念の中で言った台詞にも聞こえた。だがここはリアルに「彼女が言っている」言葉=全くの他者からの言葉として聞こえたかった。それは「彼女自身の想念から出て来た」という事実によって免罪を生じさせるからであり、リアルな時間の中で坂根に突き付けられた満洲国の真実はそう簡単に打ちのめされ、改心されるには行かない難物なのであり、「人の住まない荒野に入植しただけ」との認識が「人を追い出して国を作った」認識に変わるプロセスの中に問題の困難さがあるような問題だからである。
「私はそこにいない」という詩的表現は今の日本社会の女性の地位を言い当てる場合にも使用可能だろう。現在の問題が相対的に軽いと言いたいわけではないが、人権蹂躙の規模が桁違いであるのは事実だ。そして坂根が「そこに彼女がいる」ような映画を撮ろうとはしなかったのなら、それは何故か、という具体的プロセスにも多くが籠められ得るだろう(それは端折られている。だから中国女性の場面は記憶を再構成したものに違いない、となる。挽回できない時点で振り返っているから)。
中国女性が体現できたかも知れない「リアル」感は、作品のテーマとして流れる(説明し得る)メッセージを超える濃密な何かを語り出すのではないか・・そういう場面を夢想するのである。
キネマの大地―さよならなんて、僕は言わないー
椿組
新宿シアタートップス(東京都)
2025/02/10 (月) ~ 2025/02/16 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
初日~3日間5ステージを潰し、漸く開始したという。日時を振替えて拝見できた。
先日観たばかりの「映像都市」も「映画撮影所が舞台」の鄭義信作品。本作は満映(満州映画協会)が舞台という事で、以前松竹だったかの「さらば八月の大地」の変奏か、と見始めたが、恐らく同じ作品か、ベースにはなっている(途中撮影所の裏だかのベンチのある場所に既視感あり。そこで初めて主役をやる女と、恋仲らしい中国人スタッフが淋しい会話を交す)。だが見ながら思い出したのは椿組で9年前に花園神社でやったもう一つの「撮影所が舞台」の鄭作品「贋作幕末太陽傳」(戦後日本が舞台)の方が芝居のトーンは近かった。
本作、鄭流の小ネタの数々もあるが見事に嵌まり、敵対国に帰属する者同士の間に生まれた友情や、刹那の時空(満州自体がそれ)に身悶えしながら生んだ情愛が、歴史とシンクロして次第に緩い結び目が強固に締まるように形成されていく。
芝居の時間の中で、ともすれば笑いが上回って滑り落ちがちな事もある鄭作品が、今作では紐がすり抜ける事なく結び目となり、大地の上の楼閣が真実に思われたのである。
如何にもな、あざとい芝居くさい仕草も総動員したそれらがことごとく決まっていた。この感覚はかなり昔、本当に拙い若者らによる短い芝居に感じた事がある。胸がざわっと波立ち、なんでこんな芝居に?と自問しながら感動している自分がいた。あれって何だろう・・「これが感動って言うのだよ」AIが感情を学ぶ瞬間のベタな台詞が適合する。
おどる葉牡丹
JACROW
座・高円寺1(東京都)
2025/02/05 (水) ~ 2025/02/12 (水)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
座高円寺には珍しくL字型客席とし(能で言う脇正面席が下手側=能に同じ=にある)、上手側袖と、下手寄りの奥裏に逃げる口の二箇所から、9名の女優がよく出入りする。JACROW女優の一人が「いきなり市議を目指すと宣言した夫の妻」の役どころで今作の主人公。
自民党ならぬ民自党からの出馬ゆえ、横の紐帯を保つ古い因習や選挙で勝つ「合理的」手法としての地元との関係作りやドブ板選挙など、「先人たち」の集まりで学び知っていく。その実録ドキュメンタリー的世界が単純に面白く、女同士のバトルといふものはかくも面白き哉、である。
作劇の工夫としては本来「ライバル」であるはずの「政治家の妻」たちの本質が行き着く所まで行き着いた後、主人公の女性が自ら進路を切り開く所がユニーク。それなりのメッセージ性を残して終幕となる。9名の役の描き分けも良い。
座高円寺のだだっ広さの今回のような解消法もあるのかと発見。
何時までも果てしなく続く冒険
ヌトミック
吉祥寺シアター(東京都)
2025/01/17 (金) ~ 2025/01/19 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★
久々のヌトミック。宣材も随分前に手元にあり、吉祥寺シアターでやるというので観に行く。(もう一つの後押しは(忘れていたが)滋企画の次回公演に演出として迎えていた事。)
ドラム、ギター(他諸々)、キーボードの三名の演奏と、俳優たちがどう絡むか・・舞台上の奥行の中間あたりに楽器パートの各エリアが下手側、上手側にあって、俳優はその間を縫ったり舞台前で、基本無対象で喋る。
思った通りダイアローグは無く詩的な散文を喋る。演劇の時間の「次の瞬間」への白紙の期待を用意するのは俳優でなく音楽だ。言葉は大したことを言っていない気がしている(言語芸術の側面が弱い)。音楽がその穴を埋めていると感じる。
アフタートーク(つやちゃんとの)で主宰の額田氏が言うには、今回は演者の「役として語ってもらう」面を意識した、との事。従来は「役が無かった」、つまりテキスト・スピーカーとして役者に立たせていた。
地点の手法では延々と「動きながら語る」パフォーマンスの各演者は「役を演じる」というより、当てがわれた役が受け持つ台詞をその身体で語る、という現象だった。これは一つの確立された形態だ(地点の場合「動きながら語る」身体性と声・発語の力が突出)。ヌトミックに限らず「一人称語り」のテキストの上演では、その演劇表現的欠落を補う部分に独自の発想や演出力が発露するが、そこでもテキストの力は重要になる。
今作ではやはりテキストに引き込む力がなく、それは「役」的なものを当てがうといった手法以前の問題に思える。で、どうしても音楽性の高さがアンバランスに際立つ。中盤、言葉のリフレインから複雑コードのファルセットのハモりがクライマックスを作っていたが、音楽ライブとして耳が聴いていたら、素晴らしい瞬間だったろう。
だが「演劇」の中で用いるにはそのストーリー上の必然から用いられる事が理想である所、文脈が分からないため「高まり」に自然に同期できない。折角だからその奥に秘めた狙いを汲み取った気になる観劇の営み(解釈先送り)はよくやる事だし可能だが、「乗らない」選択も出来てしまう。私は分からないものにはやっぱり乗れない、となった。
芸術作品には解説によって作者の意図に近づける事があり、かつ意図が分った方が断然いい場合もある。今作も意図を伝える補助的な何かが欲しかった。言葉を使うとすれば、それは舞台製作上の着想などは二の次で、ここで言う意図とは「何がこれを世に出さずにおれなかった理由か」の自身なりの言葉、社会に向かって自己証明する公的な言葉の事。
色々難癖をつけたが、あるいは自分がいずれ超克するかも知れない「見慣れないものへのハードル」の可能性も無くはない。
おばぁとラッパのサンマ裁判
トム・プロジェクト
紀伊國屋ホール(東京都)
2025/02/03 (月) ~ 2025/02/09 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
トムプロジェクトは昨秋久々に目にしたが、せせこましい時世をチクリとやる喜劇、舞台では初見の大和田獏の鷹揚な風情も芝居に合っていた。
その点今作では、柴田理恵のおばぁ役からして喜劇の作りとは言え、太川陽介共々、芝居を自分に寄せ過ぎ?の嫌いあり。
大和田氏(娘の友達の父、実は判事)は仕草が押し並べて主役の間合い(もしや台詞の出が遅いのを芝居にしちゃってる?)、太川氏(おばぁが相談に行く弁護士兼議員)は逆に脇役に寄り過ぎ(おちゃらけ風)、もっと草臥れたリアルな中年の深みを湛えていたかった。
そういった役人物の形象の点ではやや淋しい思いがしたが物語は面白かった。
米国統治下の沖縄で、庶民の食卓に並ぶささやかなおかずのさんまに掛けられていた関税が取り払われ、本土の身内から魚を輸入しているおばぁはウハウハ。ところがそこへ関税復活の報が入り、おばぁは立ち上がる。自分の儲け、もとい自分たち家族の生活を守るためだ。関税が無ければ安く売る事ができ、沖縄の家庭の食卓にはお魚が出る。その魚を売ってる自分らも、勿論儲かる事は嬉しいが、何より誇らしい。お客の顔が見えている。商売というものの原点に思いを馳せる。
時代は米国支配下の沖縄と古いが、自治政府の上に君臨するギャラウェイによる関税復活と、庶民・中小いじめの税制を断行する今の財務省(の影響下の政府)が、冒頭の展開でいきなり重なる。
庶民は庶民で頑張っている、それをネコババして自分らの私腹を肥やす支配者という構図が明瞭だ。
願わくは劇中において税というものの本質、正当性の議論が、今に重なる形で展開しないかと最初期待したのだが、焦点は外国支配の不当性に・・それは当然そうなるっきゃない。
ただ、お決まりの正義論に収斂する事の懸念は、それを唱える側が人間的にも無垢で汚れがないという描写に流れがちな事。もっとも本作はおばぁも弁護士も判事も「打算もあれば葛藤もある人間」として戯曲にはっきり書き込まれてあるのだが、演技上そこがさしたる壁になっていない。乗り越える事が決まってるドラマの進行上、ちょっと停滞してみせなきゃ、くらいに私には見えてしまい、ドラマの起伏が乏しく映った(要は予定調和)。
また演技論に戻ってしまいそうだが、自分の好みについては今日はこのへんで。