公演情報
世田谷パブリックシアター「トリプティック」の観てきた!クチコミとコメント
実演鑑賞
満足度★★★★★
演劇的な舞踊作品を製作して来たカンパニーを最初に観たのは映像であったが、映像でも目を奪われるものがあった。集団での動きが「絵画」のように美しい構図を作ると同時に人間の面白さが醸される。ドア、光、風、そして重力が動きのきっかけとなり、人物たちはそれらに翻弄されている。
今作はその最初の印象に最も近い舞台であり、かつ死の臭いのあった前作よりもディストピア感が濃厚。人間はいよいよ抜き差しならない所に来た、と感覚させた。
トリプティクとは聖画の形式の一つで三つで一作品とする。今作はピーピング・トムの過去作品を三つ並べて構成したものという。
舞台上には正面が長くサイドが短めの室内の壁をやや傾けて据えられ、掃除夫やメイドが出入りするので資産家の家の一室かホテルの一室か、という所。これが三作品の基本形で一つが終ると転換作業に入り、室内の設えが変わる。広い床、壁にへばりついて丸テーブルに椅子(飲食店風)だったり、ベッドだったりがある。そういった具象もあるが見事な身体の動きに目を奪われながらも、それらが現世界のある光景を仄めかし、リフレインが微妙に変化を遂げてドラスティックな展開、の繰り返し、いや積み重ねの果てに人は当初予想もしなかった風景を目の当たりにしている。日常起こるちょっとしたノイズ、バグのような場面が、徐々に、まるで世界を制御する者の悪意により絶望確定の様相へ。ホラーである。だがこれは夢ではなく現実なのだ、と知った時の人間の精神の身体的表われ・・と言語化してみたが、確証があるわけでなく、視覚刺激が脳に過ぎらせる断片的印象の一つだ。
全体に照明は暗め。特に三つ目のパフォーマンスは流れる音もアジア的だが途中激しい雨音により世界に暗雲が垂れ込めた終末世界である(ブレードランナーでも常に雨が降っていた)。動きは暗黒舞踊へのオマージュ。白塗りの悪魔のようなのが突然出て来て驚かせたりする。見れば下半身露出し、芥正彦ばりである。日本の舞踏はヒトの原初への回帰、動物に仮託して「おかしみ」が混じる感じを持つが、ピーピング・トムが作るこの場面は人間の暗黒世界を象徴する。いつしか他のパフォーマーたちは乳白色の衣一枚でもろ肌を晒し、水をたたえた床の上でずぶ濡れになる。自然と隔絶した文明を築いた人間が今や自然に浸食された未来図か。人間が動物化した未来を見るようでもあり。
観劇のし始め、身体の動きの面白さ、切れ味に魅入りながらも、暗澹とさせる先の見えない光景には忍耐を強いられる。休憩なしの転換時間を挟んだ二作目も心はざわついたまま。この二作目ではベッドのある風景で、「見知らぬ者」が紛れ込んでいる予感、あるいはそこにいる侵入者の存在により不安を掻き立てられる。「ゲッ」と思わされるのが、ベッド上の横たわった女の首のあたりに女の頭があって産声のような奇妙な声を上げている。よく見れば体と繋がっておらず、この世のものでない(映画「The Thing」で侵入者に体を乗っ取られた中年男が見せるあどけない、従っておぞましい顔、あの感じ)。完全ホラーであるが、ベッドを介してマジックのように人が何時の間にか居なくなったり居たりする技を見せていたのでその一環、と思っていたら、後で再び表玄関の暗がりに立つ男がその顔を抱えている。首は動き、口を開けるとあのイヤな声が発するが、目を凝らしても男の背後に女性が立てる余地が無さそうなのである。(あれは声を発する精巧な首人形か、目をくらますマジックか。)
そして十分な休憩を挟んだ三作目については先程書いたが、この三作目にして観る者は落ちる所まで落ちる(という現実を直視する)必要に迫られる人生体験を思い出させられ、没入する事となる。だがそれでも暗い雲に覆われ嵐の吹く世界に閉じ込められた一室で、ヒューマニズムを削がれた人間の様相が、何らかの光明の訪れによって日の光の中に終幕を迎えるのでは、との予感と期待も持つ。事の成行きを見る。そして最後、薄暗い世界に(物理的な)光は差さずに作品は閉じられるのであるが、そこに大きな納得が訪れる。
別役実がある本で演劇(に限らず人が演じる舞台芸術)を見る観客の中に生じる「共振」という概念を説明していた。パフォーマーの動き・演技に観客はいつしか同期し、同時進行の体験をする、といったものだったが、舞踊作品を観る時の感覚は正にそれで、それだけに没入感は計り知れないものがある。無論客観的に現象を眺めている自分はいても、この仮想のディストピアを体感し、怖れ、不安、嫌悪、想定(期待)と裏切りを経験し、やがて人間はもっと自分を裏切る現実に直面するという、その時間に身を任せていた、と終演時に気づく。