tottoryの観てきた!クチコミ一覧

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ロマンス

ロマンス

劇団こふく劇場

富士見市民文化会館キラリ☆ふじみ(埼玉県)

2023/12/09 (土) ~ 2023/12/10 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

昨年は地方ツアー二箇所のみで観る事ができなかった地方劇団こふく劇場の同演目。今年の拡大ツアーで辛うじてここに回ってきた。
数年ぶりのキラリ☆ふじみ。
上演は2時間超え。最初に観たこふく劇場の演技スタイルが、今回より板について洗練されている。終始鼻を啜る音が客席から聞こえていた。

空ヲ喰ラウ

空ヲ喰ラウ

劇団桟敷童子

すみだパークシアター倉(東京都)

2023/11/28 (火) ~ 2023/12/10 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

見どころ有り。筆頭はもりちえの役柄。凡そ役どころの決まった桟敷童子の役者面々だが時折振り幅が大きくなる。「できる」立ち姿を見てきたもりちえは今回、板垣桃子共々「女だてら」に高木に登って作業をする「空師」集団として衰退する中村組を担う女空師の役。思わず拳を握り「やるな」と心で呟く。歌舞伎にも似て桟敷童子の芝居はある種の「型」があり人物らは「粋さ」を競う部分がある。大向こう(歌舞伎で屋号の掛け声を掛けるアレをそう呼ぶらしい)を入れたくなる演技というヤツである。一方の板垣桃子も「女だてらに」の役が深まっている(もりちえが影響を与えたのかもと想像も逞しくなる)。
林業の衰退は特記するまでもない事実となっているが、ウ露戦争で木材輸入が滞る分一時的に需要が高まっている、という会話がある(他に現在を語る台詞は特にない)。時代に翻弄され衰微していく産業を桟敷童子は取り上げて来たが、時代の「必然」を受け止める人々の姿は、その先に未来を見せた。だが林業はどうか。「どうあるべきか」の問いと共に、簡単に衰退してほしくない気持ちがもたげる。農業しかりだ。高い木材でもそれは自国の「第一次産業」、生存の根幹にかかわる産業を守る選択をしない国のあり方は、これで良いと言えるのか・・。

ネタバレBOX

中盤から芝居の中心人物となるのが、都会から来たらしい身元不明の青年。彼が姿を現した後は、中村組がある事業を請け負うために必要な頭数に数えられるが、予測に反して空師としての天性の素養を持つ事が(その道を知る者にしか分からぬ特徴から)分かる。それは村のもう一つの組である柳瀬組(こちらは勢力を広げ中村組を吸収しかねないが組頭は仁義を弁えている)共々に、希望の的となる。
だが、、彼は皆の前に出て来る前、村の鼻つまみ者でかつて崖崩れで脚をダメにした元空師(稲葉能敬=板垣の夫)と会い、互酬関係を持ってしまっていた。足を引き摺り金属パットを杖代わりに歩く彼と青年のしがらみは、村人の介入で一応は解消するも、純朴まっさらな青年の「弱み」を稲葉は握っており、最後にこれが効いてしまう。前にいた職場ではバイトの身でありながら「犯罪に手を染めた」と彼は思っており、逃亡を図った彼はバイト先の親父さんとその会社の者たちから逃げている、とも思っている。
客観的には彼は煩わしい都会から逃れた一人、なのであるが、都合よく使うために稲葉が彼に「負い目」を注入したものと思しい。
中村組が受注した仕事は柳瀬組とそれぞれ別の山をを受け持つ形で進める事となる。林業仲間では一の山、二の山等と呼び習わし、中村組はかつて持ち山であった五の山を自分らだけでやらせてくれと頼み込む。渋々承諾した柳瀬組だったが、程なく彼らは中村組の女空師の仕事の確かさに改めて唸らされる事となる。中村組を出て柳瀬組に入った番頭は躍起になるも叶わず、仲間に宥められ、良き競争関係が形作られる。
そんな中稲葉は妻の板垣や村人と一悶着あり、村を追い出される。もりちえ演じる空師は心臓の持病を拗らせ木に登る仕事を止められ、俺はこいつを育てると宣言する。
空師の仕事にやり甲斐を見出した青年は稲葉とそれに付随する枷から逃れる。確かな伝統技能に根差す事にこだわって来た中村組の未来に光が射す。

が、このドラマは悲劇へと歩む。
あるタイミングで稲葉は背広を着て現れ、青年が一人でいる所を脅し上げ、折しも吹雪が吹き始めた夕刻、パニックとなった彼は山に逃げ込む。せせら笑う稲葉。その前段として彼は青年に「もし空師になったらお前を殺す」と耳元で囁く。「自分なんかがなれる訳ないっすよお」と青年は頭を低くしながら答えるが、その後村人皆の前で「空師になる」と本心が噴き出してしまう、という事があった。
予言通りと言うのか、稲葉の計算づくか、必死の捜索にも関わらず彼は死ぬ(樹上で雪と一緒に固まって死ぬ事を「空死に」と言う)。ラストで板垣が一人、組の解散後も青年を探し続ける姿を残像に残す。

個人的にこの末路は選びたくなかった。先述したような、「その先」が見えない。
この結末を選ぶのであれば、青年の死は中村組やそこに繋がる人々の個人的な悲しみに止めず、私たち皆が財産を失ったのだ、とまで言い切ってほしかった。衰退も致し方ないと言える産業と、そうでない産業とがあると思ってしまうからである。
諦めの美学は「その先」がなければ諦めに終わる。
久々に厳しい評価を持ってしまったが、ここ近年の桟敷童子舞台に「今」に分け入る模索の姿勢を(何となくだが)感じていただけに、そこが個人的には残念であった。
タイムトラベル大五郎

タイムトラベル大五郎

さんらん

王子小劇場(東京都)

2023/12/06 (水) ~ 2023/12/10 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

多彩な題材、作風でもさんらんらしさを短・中編の中に認めるこの頃であったが、今回は長編の回。リアリズムに立った「掘って100年」「ポンペイ」の次は、と構えて開演を待ったが、予想とは異なり?さんらんらしい「可愛らしい」作であった(この題名であるからして当然と言えば当然と言えるか)。
台上を屋内とした素に近い舞台で、現代に迷い込んだ侍とのエピソードだけでなく、時代を遡った維新の頃も描く。走り回っていた子供たちが正装の侍姿で現れるのは一興で笑えるが、切り取られているのは戊辰戦争で敗れる彰義隊(に合流するあるグループ)で最終的に皆が死ぬ。現代の母子家庭の息子の闘い(最終的にいじめっ子と勝負をする)に、タイムスリップして来た剣士(上記グループの師匠に当たる)が影響を及ぼすが、背中に担う物として上記史実の場面がある。戦の無慈悲さの風景が、現代では戦場カメラマンの夫を亡くした母親の「思い」にシンクロするが、母が反対する息子の闘いそのものは(観客皆がそう思うだろう)正当性を持つ。(戦というよりは「勝負」である。) 母親もまた、自分の職業であるプロ雀士としての「勝負」から息子を守るためを理由に降りる事をやめ、出る決意をする。
その意味では、背後にひっそり流れる戦争というテーマは必ずしも前面化しない。肯定されて良い「勝負」とは異なる、無為な戦いというものを、作者が具体的には何に見出し、それをなぜ否定したいのか、そして何故それらは起きてしまうのか・・(本作を通してという事ではないが)言及してほしい願望が残った。

あしもとのいずみ

あしもとのいずみ

劇団わが町

川崎市アートセンター アルテリオ小劇場(神奈川県)

2023/12/01 (金) ~ 2023/12/03 (日)公演終了

実演鑑賞

川崎市北部のこの劇団は全国的にも少数の自治体主導による市民劇団で、年齢層の幅は広く大所帯、だが団員になるためのオーディションも(何年かに一度)あり人数制限はあるらしい。
10年と言う節目に団員の一人による脚本を舞台化したが、過去公演の中でも優れた仕事となった。川崎市中部にあった登戸研究所を題材に市民劇らしい群像劇が立ち上がっている。全体に市民劇団っぽさは残るのだがそのベースの上に一つ一つ事実が積み上がり、メタシアターの構造による複合的な叙述で気付けば絵が出来ている。
登場するのは「芝居を作る」人物たちで、劇中劇(稽古)に登場するのは「研究所の歴史を掘り下げようとする」高校生やそのサポーター、教師そして彼らが出会った歴史の証人たち、つまり現代の人々。最後にはこの題材が行き着かざるを得ない場所へ観客は案内される。戦争の道具を開発していた研究所であった事の実相、すなわち時代を超えた先に事実存在したものとして、ふと浮かび上がって来るものがある。

ネタバレBOX

2023年の今を生きる者が2〜30年前のやはり現代人を演じる事の中から、さらに遠い歴史の事実にニアミスする瞬間を観客は「共振」体験する。しかも芝居中「踏み込んだ」描写、場面の追加へと作家を促すのは、高校生らが漏らした本音なのであった。平和の大切さを詩にした歌がラストを飾る事となり、稽古の大詰めで楽曲の委託を受けた担当から歌を聞き、皆で吟味する時間、舞台化の完成に力を得たと大人たちが肯定評価をする中、「綺麗事に聞こえる」と彼女らは溢すのである。その背後には、「芝居」の中での高校生同士の交流、協力、競う心、軽い嫉妬も混じった敬意の贈与関係の中で「真実」の重みがテーマありきではなく自然に生まれ出た事を想像させる。飽くまで観客である自分の想像力によるものではあるが、着実に積み上げた末に終章へ辿り着いた過程の中に、稽古のそして執筆の苦労をも想像させるものがあり、その想像を裏付けるように、渋い老役をやった作者がコールにて、花束を受け取った時フイを突かれて落涙した。舞台と舞台裏は別であるし別であって良いし別であった方が良い事もあるかも知れないが、市民劇団が紆余曲折を経て辿り着いた山の中腹でただその見晴らしを愛でる以上の何も望まない心境を勝手に想定し、勝手に共感した日曜の夕刻であった。
ジャイアンツ

ジャイアンツ

阿佐ヶ谷スパイダース

新宿シアタートップス(東京都)

2023/11/16 (木) ~ 2023/11/30 (木)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

長塚圭史と言えば先般「アメリカの時計」で確かな演出の仕事を目にしたばかりだが、彼の書いた作品と言うと下北沢の小劇場で二三作、新国立劇場の(どっちかつと)子ども向け企画の最初のを観た位か。奇想天外な現象を真実そこにあるものとしてその解明にでなくその先へドラマを進め、いつしか観客を深みに引き摺り込んでる、といった印象が共通で、新国立のは言葉遊びで散らかした遊戯世界を何とか回収していた印象(第二弾以降のは好評だったようだが見てない)。
前者が暗鈍、後者が明軽とラベリングしたとすれば今作は両の要素を合わせた感じ。作者の「言いたい」事は分からなかったが「狙いたい」所は受け取った気がした。いずれ現実世界に着地する旅ではなく浮遊し続ける感覚があり、非日常の劇世界に浸かった感触より、劇場を出た現実世界を見る眼差しを変えられているとでも言ったような、怖くないけど不可解な何かが浸潤している。インフルエンスを与える犯人は場面の細部に宿る快楽、美味しさだろうか。
二度見たら裏が透けて見える代物か、はたまた有機物の分子構造みたく奥へと分け入りたくなるミクロの決死圏の世界か。

わが友、第五福竜丸

わが友、第五福竜丸

燐光群

座・高円寺1(東京都)

2023/11/17 (金) ~ 2023/11/26 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

千秋楽前、時間ができたので当日劇場へ足を運んだ。題材が題材だけに力作が出て来そうと予想したが想像以上だった。燐光群の特徴である「解説」部分(人物らが自分が知っている事として発し合う)の割合も高いがそれがアダにはならずただただ情報と思考に圧倒される。水爆実験に被災した第五福竜丸を語る事は必然、現在進行形である所の放射能、原発を語る事になる。被爆者への差別、補償を受けた者への誹謗、補償そのものの不平等や問題矮小化の政治的背景も。そして芝居の大詰まりでビキニ環礁辺を航行する船の場面が出現する。NODA MAPのある作品(高橋一生が主演した)を思い出す(この作品は私が観たNODAMAP三つの中で唯一感動を覚えた舞台)。重要なイシューが他の雑多なイシューと共に忘れ去られる現代に、力技で注視を促す坂手舞台の優れた成果。演劇表現と感動は多様にあり得るが、坂手氏流の劇的要素が確かにあった。

ネタバレBOX

本作で特記すべきは俊鶻丸というビキニ実験後に環境調査のため日本から出された調査船の存在。それを介して海洋における「希釈」が予測困難である事にも言及される。「処理水」の海洋放水の安全性に影がさす。
この調査は継続されず打ち切られた。根拠なき安全神話に調査・研究が対置されるべきは今日も変わらない。
演劇落語~二人芝居三席~

演劇落語~二人芝居三席~

アトリエ・センターフォワード

雑遊(東京都)

2023/11/23 (木) ~ 2023/11/26 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

一人話芸の落語も良いが、楽しい演目を舞台化したものもしばしば目にする。だが二人芝居というのはまた一興であった。一人話芸の持つ自在性は、二人が入れ替わり立ち替わるアレンジで表現され、演技は言うまでもなく動的で演劇的。私は三人が高座を務めるのを覗く心づもりで出かけたのだが、全く違った。高みの見物とは行かず、巻き込まれた。団体主宰・矢内氏と坂口氏の落語関連企画は一二度やったと承知、力量の程も想像の域であったが今回は北澤小枝子が加わる。結果は、中々のやり手であった。
演目は落語の有名な大ネタ三つを30分程の出し物として、休憩を挟んでやる(三つともに出るのは矢内氏)。話を知っているので「どうやるかな」との興味で話を追う見方になるが、それでも飽きさせない趣向とテンポ感、完成度がある。オチは既成のものとはどれも変えていたようである。
現雑遊に合った公演。

無駄な抵抗

無駄な抵抗

世田谷パブリックシアター

世田谷パブリックシアター(東京都)

2023/11/11 (土) ~ 2023/11/26 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

コロナ下での「外の道」以来、イキウメの異色作が自分の深奥に届く。時代を捉える感覚というか。
今回は世田谷パブリック主催公演で、ギリシャの叙事詩「オデュッセイア」を題材とした前作「終わりのない」(まだ四年前とは・・随分昔に思える)に続き、ギリシャ悲劇「オイディプス」を下敷きにした作品との事だが、そんな前宣伝は全く知らずに観た。
(結論的な事を言えば、この悲劇の悲劇たる核心の「現象」が今作では現代の悲劇に置き換えられているのだが、原典の物語の副題と読めば納得なタイトル「無駄な抵抗」は、今舞台では痛烈な批評の語になる。)
前川戯曲に盛り込まれる「不思議」は初期はそれが眼目のような所があったが、その「仮想」は問いを含む。言わば形を変えた現代批評。であるゆえに問いの投げ方により「不思議」の入り方が変わる。前作「人魂を届けに」では「魂」が実体化したらしい奇妙な物体であったが、物語の最初の一歩を刻むこの存在は、物語本体が進むにつれやがて霧消し、象徴的存在として最後には「処分」された。
今作の「不思議」は、いつしか電車が止まらなくなった駅(なのに駅として稼働しており「電車が通過します」のアナウンスが時折流れる)の存在、なのだが、効率化と省力化が進んだ先の、僅か先の未来と見えなくもない。少なくとも現代の感覚ではそれはあり得ないから「不思議」に属するが、一歩間違えばそれはあり得るかも知れない。
物語本体(幾つかのエピソード)が進み、あるいは共有されるこの駅前広場が、冒頭大道芸人(浜田)に紹介される(円形劇場の客席のような円弧を切り取った数段ある頂上の高い造作)。そこから劇は始まる。
場面乗り入れの演出も「不思議」との微妙な距離感を作る。平場でのやり取りを、人が遠巻きに座っていたりして、円形劇場風の階段から見るともなしに「見ている」ようで別の次元にいる風である。役を演じた後は椅子に座って役者自身に戻るアレにも似るが、ギリシャ劇風にコロスと呼ぶのが近い。結果的にギリシャ悲劇の筋書きが、円形劇場の中、皆が揃った前で成就するのである。
各エピソードは、会話により語られる対象であるので、その場所は必ずしも「この場所」である必要はない。が時折、語る人物らによってふと意識されるのがこの駅前広場であり、「電車が停まらない」現象についても言及される。そしてカフェを開く青年(大窪)や警備員(森下)の存在があり、とある社会の一角である事を意識させる。
今一つの「不思議」は、場面が閉じられるタイミングで浜田が「○○はこんな夢を見た」と言い、人物らが場所不特定な存在となり夢の構成に動員される(コロス的)。夢判断=深層心理のレベルへ観客を誘う。
かくして全方位的演劇の世界が具現し、「次の瞬間」への集中力が否が応にも鋭さを増す。

ネタバレBOX

謎が少しずつ「謎」と意識され始め、その解明へと静かに動き出すミステリーではあるが、人間世界を俯瞰する視点が絶妙に確保されている。クライアント(池谷のぶえ)と旧占い師・現カウンセラー(松雪泰子)の対話が中心だが、一見関わりのない他のエピソードが徐々に関連を帯びて来る。それと共に、物語の濃度は加速度的に高まる。
最後に残った結ばれないピースを、探偵(安井)の「目星はついてます」の一言で繋ぐ見事な終幕。
オイディプスとの関連を知っていたら、結末は読めただろうか・・?分からないが、無理くりにねじ込んだ設定とは感じなかった。

電車の止まらない駅では、人身事故が起き、脱線、追突事故まで起きる。愚かな人間の作ったシステムが愚かな結果を生む。それは恐らく、間違いなく、正にその愚かの極致にある「今」に向けられている(破壊的な顛末にその含意がありありと読める)、と感じる。
物語の結末に辿りついた人物たちは、そんな社会の象徴でもある「電車の停まらない駅」に対する同情、理解、擁護を止め、一種蔑みの視線を向ける(舞台正面上方を見上げる)。彼らの中に希望を見出す自分がいる。
YSee

YSee

BATIK(黒田育世)

KAAT神奈川芸術劇場・大スタジオ(神奈川県)

2023/11/09 (木) ~ 2023/11/12 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

つい先日観たイデビアン・井手茂太氏もゲストの一人で出演との由(他に奥山ばらば等)、そして舞踊家・黒田育世は一度再演(若手にレパを踊らせる企画)を目にし、もっと観てみたいと思った人。
ただ事前に紹介を読んで調べた上でなら行かなかったかも?・・ というのは、本公演のタイトルはジョアンナ・ニューサムという女性シンガーのアルバム・タイトルから取ったもので、全編にこの少し幼げな響きのあるハスキーボイスが鳴り渡る。舞踊はその伴走者となる音楽が大きな要素であるが、この歌手の世界が「自分に合わないな」と感じながら観る事になった。中盤から民族音楽的アレンジの長尺曲が流れたりと、好みに重なる部分も出てきたし、眼目となる後半の出し物は集中して観れた。ただし音楽に酔う舞踊鑑賞とはならなかった。

厳密に言えば、音楽だけが理由という事でもなかったかも知れない。舞踊家それぞれ振付の傾向があり、今回は黒田女史の傾向を知ったが、冒頭の演目では感情的な衝動、「床叩き」や「自分叩き、ないしは動作の突然の中断」が挟まり、怒りや自傷の衝動が表出して見えた。苦悩が表現されている。
だがそうしたネガティブな感情は文脈を要すると思う所である。恐らく曲の歌詞の中にそれはあるんだろうと想像されたが、歌詞を知らない者にも届く舞踊表現としては、年輩の踊り手の機敏な身体性、技術を感心して眺める事にはなったが、作品としては「分からなさ」の中へ沈んで行った感じだ。他に覚えているものでは井手氏と奥山氏二人の「熊と猿」という曲で実際に前者が猿、後者が熊を演じ、ユーモラス。その井手氏と黒田氏のデュオも男女カップルの恋模様といった風で微笑ましい。大勢の若手も含めた群舞は見応えあったが、具象的な動きが混じるその示す所を掴み切れず、これも歌詞を見ないと分からないものかな、と。
バリエーションの幅があり楽しめる公演であったが、終わってみてもやはり音楽の要素は大きかったかな。

君は即ち春を吸ひこんだのだ

君は即ち春を吸ひこんだのだ

新国立劇場演劇研修所

新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)

2023/11/07 (火) ~ 2023/11/12 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

新国立主催公演以上の成果が視られる事のある研修所公演。今作は卒業生の補助無し、18期生のみの舞台だったが、出色。老齢の役があるが、年齢差のハンディはむしろ「にも関わらず」の域。主役の正八(新美南吉)、幼馴染のちゑ、教え子の初枝の風情がいい。「日本の劇」戯曲賞受賞記念の公演よりも作風に迫っていた。(私がしばしば不評を言う田中麻衣子が演出。見直した。)
童話作家として評価されて行く新美南吉の評伝劇というより、内的世界の軌跡を眺める趣きがあり、そこにスポットを当てたくなる人生であったりもする。彼を通り過ぎた「事実」は衝撃であったりするが、周囲ほどには彼は騒がず、飲み込む。だが観客はその心模様を想像する。それは舞台上の風景やちょっとした彼の仕種や数少ない台詞の中に痕跡を残し、彼が文字を書いた実績によるのでない、彼の内的世界が「存在した」事の中に、意味がある、と感じられてくる。
そしてその事を確かめるために、彼の童話をこれから、開く事があるのかも知れない。

イサク殺し

イサク殺し

公益社団法人 国際演劇協会 日本センター

シアター風姿花伝(東京都)

2023/10/13 (金) ~ 2023/10/15 (日)公演終了

映像鑑賞

満足度★★★★

同団体主催で2020年コロナ禍下で観たリーディングの演目だが、今回はどういう経緯か同演目を同演出、大部分同じキャストにより再演。配信で鑑賞しながら、ある施設で劇を演じる、というメタ構造が次第に混沌としてくる中、彼らの背景である「戦争/紛争」、それが個々人に及ぼした影、それぞれの立場が吐かせる論理が表出する。
井上加奈子女史の声に宿る迫力、今回配役されたモダン・西條氏の喋り、他の熱量ある俳優が長尺のリーディングを躍動的に作り上げていた。
イスラエル作家による自(国)省的と言える戯曲だが、今の戦禍がこの戯曲の続きに書き込まれざるを得ない事を感じる。

尺には尺を / 終わりよければすべてよし

尺には尺を / 終わりよければすべてよし

新国立劇場

新国立劇場 中劇場(東京都)

2023/10/18 (水) ~ 2023/11/19 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

新国立研修所公演で観ていた演目。とは気づかず、悪コンディションで20分遅れて辿り着いた後、寝落ちしながら観た。初見の向きには冒頭の「仕掛け」を見逃すと筋を追うのは厳しいだろう。朦朧として一幕を終え、休憩中「あらすじ」を検索、「あーあれか」と後半は面白く観た。
研修所の上演はシェイクスピアの隠れた名作と思わせた。ウイーンの王が旅に出ると言ってその間の統治をある有能な臣下に委ね、自分は僧侶に扮して国内に留まる。王の「気まぐれ」により、治世が変り矛盾が極まるのだが、騒動を収めるために後半は僧侶(王)が奔走し、最後は己の地位と僧侶に扮していた事実を明らかにして事を収める。喜劇なのではあるが、ある意味で社会実験とも言え、法とは何か統治はどうあるべきかの問いがある。法は絶対ではなく人々のためにある、という当然の前提が転倒し、庶民に厳しい割に上層が治外法権のように守られてるかの局面を目にする現代、治世はかくありたいと願う心には響く。
今作は喜劇性を追求し、手練れの役者を配して素に戻る系、客いじり系、熱烈演技系その他縦横無尽に美味しく場面を展開させる。(「ローゼンクランツとギルデンスターン」や「モジョ・ミキボー」での鵜山演出を想起。

『ガラスの動物園』『消えなさいローラ』

『ガラスの動物園』『消えなさいローラ』

Bunkamura

紀伊國屋ホール(東京都)

2023/11/04 (土) ~ 2023/11/21 (火)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

渡辺えり「死ぬまでにやりたい事やる企画」第二弾(勝手な命名。「ぼくらが非情の大河をわたる時」を上演した時のトークだったかでそういう意味の事を語っていた)。値が張ったが早めに予約、行ってみると特等席のような良席であった。
「ガラスの動物園」の実演は昨年のフランス語上演が初めてだったが、今回の上演(渡辺氏のアレンジが加わっていそう)はひどく納得させられた。昨年のイザベル・ユペールの母役と舞台セットでは、社会の底辺感、隔絶感が些か乏しかった。渡辺バージョンはローラ(吉岡里帆)をやや精神病みも入った痛々しい娘にし、母役の自分は一家に君臨する女王(自分では献身的だと思っている)、これが見事であった。語り手のトム(ローラの弟、尾上松也)は、父親のいないこの家庭での生活に倦んでいるが、回想シーンとして全編が演じられる戯曲の構造を反映して松也を各所で見守り、黒子的に手を貸す役目に付かせている。コントラバス、バンドネオン、ヴァイオリンの生演奏も、演奏者と絡ませる演出もスタイリッシュでユーモラスで救いのない悲劇の物語を包み込んでいる。
別役実作の方は「ローラ」とあるからこの作品に寄せた翻案された作品だろうとは読めるが内容は知らず。果たしてバランスが取れるのか、同時上演が成り立つのか、不安ながらに期待して観た。笑いでコントラストを付けるのも手だ、、とそちらの予想は外れ、思索に誘う抽象度の高い作品、これを演出がどう締め括ったか。ネタバレしないでおく事にする。

ハムレット

ハムレット

明治大学シェイクスピアプロジェクト

アカデミーホール(明治大学駿河台キャンパス)(東京都)

2023/11/04 (土) ~ 2023/11/06 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

明大シェイクスピア二度目の観劇。月曜の千秋楽を観せてもらった。四大悲劇で最も有名なハムレットはやりではあるが男役が殆ど(女性はガートルード、オフィーリアのみ)。それでも女性の男役はホレイシオくらいか。男手の多さは目を引く。芝居的には性別よりは年齢的ハードルが大きい。クローディアス等中年男のいやらしさ、もとい風格を醸すには。
大ホールと言える劇場には宮殿内部が横広、中央がやや高程度の二階立て、踊り場的スペースが上手に。中央は階段。その上が王座にもなるが幽霊の出る森にも。
ハムレットの初登場は新王が妻を侍らせ演説する中、平場の端っこに腐った様子で立つ。父が亡くなって喪が明けぬ内に母は叔父とくっ付いた、と独白(毒吐く)。
新王曰く、先王逝去の悲しみが癒えぬ時ながら我がデンマークも内憂外患、我々は先へと進まねばならぬ、ガートルードを我が妻に迎える事にした(拍手)云々の(原作を知る者には)憎らしい台詞、そして唯ならぬ亡霊の出没に慄く家来達がこれを王ではなくハムレット(直属の家来かつ友人でもある)に聴かせる事で「疑惑」がこちら側だけの了解事項となる見事なお膳立て。旅一座を使ってその確証を得るまではサスペンスであり、復讐への道が開かれると思うや敵も去るもの、迂回を余儀なくされ、出し抜かれるも生還した、さあいよいよと最終段階に差し掛かって不吉な予感、先手を打たれ敵を倒すも非業の死。誠実に辿って描いた明大シェイクスピア。
管弦楽器での生演奏、途中の遊びのシーン(ローゼンクランツとギルデンスターンなる今作中最も哀れな登場人物の浮薄な描写、墓掘り人のシーン等)もしっかり作り込み、全体には学生演劇らしい背伸び感はあるものの役に迫ろうとする直線的エネルギーは若者のイノセンス。
今回は番外編的企画も多々あり、そのバイタリティに敬服する。

皇国のダンサー

皇国のダンサー

劇団黒テント

ザ・スズナリ(東京都)

2023/11/01 (水) ~ 2023/11/05 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

「亡国のダンサー」(2017.3)から6年半。この年は年末に坂口氏作「浮かれるペリクァン」と劇団公演が二つもあり、春にはハット企画「シェフェレ」、年明けには滝本女史による「4.48PSYCHOSIS」と陰なる黒テント応援団にとっては嬉しい一年だった。
ファンとは言っても創立者佐藤信作品との縁は薄く、最初が「メサスヒカリノサキニアルモノ、若しくはパラダイス」(松本大洋作・斎藤晴彦演出)初演と再演で幸運な出逢いと言えた。次に観たのが佐藤氏作演出「絶対飛行機」。「亡国」はそれ以来だから15年。座高円寺では演出作品を2本程観たが、何気に抽象度は高い。今回も覚悟して臨む。
「亡国」はその空気感、絵面が魅力であった。物語の解らなさは渡辺えり子作品並みだがこちらは大きな波長での演劇的ドラマ性がある。佐藤作品は印象的な断片が連なるが詩のような構成で頭脳を刺激するが骨太さ(身体的躍動?)は感じない。読み取り力の問題だろうか。
「絵面」と言えば服部吉次氏の存在は記念物指定ものである。(演出も間違いなくこれをどう活かすかを考えたろう。)外見からの観測だが齢八十になりなむとする小身が軽やかにステップを踏む。コールでの礼の絶妙な間合い(希代の一座が鳴り物入りで芝居を打ったような、団員の面映い顔も仄々として来る送り出しであった。)

ネタバレBOX

アングラの教科書に載る状況劇場(唐)、天井桟敷(寺山)、転形劇場(太田省吾)そして黒テント、前者二つはテキストの上演が多く、テキストに劇的世界が書き込まれている(唐作品はその演出形態を縛りそうだが)が、後者の太田省吾は舞台上演の思想を体現するためのテキストを書いた人だ、と見て取れるのに対して黒テントは捉え所がなく定義付けが難しい。流転の劇団であり様々な試みを行いその時々のムーブメントに関わった者は多様に存在する。だが劇団本体はイワトでの試みから撤退して雌伏の時を経てしぶとく芝居を続けている。独特の舞台世界を今後も生み出してほしいが流浪の芝居屋の本姓は「完成」を期する事は無いものと踏んで今後も動静を見せて頂こうと思う。
(今回は劇団総出という事だったが平田三奈子、内沢両氏が体調で降板、久々の立ち姿は観たかった。)
アメリカの怒れる父

アメリカの怒れる父

ワンツーワークス

駅前劇場(東京都)

2023/10/26 (木) ~ 2023/11/05 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

いつもの赤坂REDに行きそうになっていけねえいけねえ、今回は下北・駅前であった。(劇場を間違えた事は流石にないが、、いや途中で気づいて断念した事があった。開演時間を30分間違えた事は数知れず。。)
最近は二回に一度の観劇頻度となったワンツー、今回は韓国戯曲と珍しい。数年前韓国現代戯曲リーディングでやって題名を覚えていたが、舞台を観てその片鱗も思い出せなかった。アフタートーク及び後で資料をめくってみて合点。リーディングでは随分寝落ちして絵面の記憶からも内容が思い出せず、また今回は元戯曲のドキュメンタリー要素を切り「ドラマ部分のみ」の上演としたとの事。そして本作は題名通りアメリカの、アメリカ人の父の話で韓国との関係は無い(その意味でも珍しい戯曲)。奥村氏が父役を力演。9.11同時多発テロとイラク戦争が背景。正にワンツーのテリトリーであった。

(以後内容についての感想、慣れぬスマホで書いた長文が消え、二度目は途中で前画面に戻って消失。少々げんなりしたのでここまでにしてまたいつか。。)

金夢島 L’ÎLE D’OR Kanemu-Jima

金夢島 L’ÎLE D’OR Kanemu-Jima

東京芸術劇場

東京芸術劇場 プレイハウス(東京都)

2023/10/20 (金) ~ 2023/10/26 (木)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

ギリギリまで迷って結局観てきた。フランス発のかつて世界的に話題をさらったというこの劇団が、今存在していたとて、往時のものとは変わってるだろうし「過去」のネームとは切り離して観るのが正しいのでは?とか、でもそれだと観る価値も半減するなあとか、ぐじぐじと考えていたのだが、思い切って足を運んでみて良かった。
大局的には劇団とは時代や潮流から生まれ出るもの、だがその特徴を担う演出家なり作家、スタッフまたは俳優が作るものでもある。太陽劇団は演出家が健在で、老体を鞭打って作っているのだろうが口は闊達な女性がアフタートークで「今も作り続けている」現役の喋りを繰り出していた。
舞台は休憩込みで3時間超に及び、装置、舞台機構、仕掛けや俳優の技を惜しみなくぶち込んだ趣向の数々で、日本の佐渡島(金夢島)に居る、と思い込んでいる女性(演出家)がベッドの上で夢見る風景が芝居になっている。だからジャポネスクなデザインも中途半端だったりてんこ盛りだったりカリカチュアしても成立する。中々なアイデアである。
内容をだいぶ忘れてしまったが、金夢島に利権を漁りにやってきた「おぬしも悪よのう」な悪役を出し抜いたり、佐渡島らしく能舞台をそのイベント会場としたり(そこそこ広いその舞台は可動式のピースを瞬く間に組み替えたりはけたりする)。喜劇調が基底にあり、時に辛辣な批評性高い場面を織り込んだりする。その部分は新鮮であった。例えば、あるデモか集会の様子を実際の音声で聞かせたり(その場面はそのまま暗転し観客に投げ切りとなる)、様々な言語で詩が読まれたりする。訳語を字幕で追うのみだが、魂の叫びが聞こえる。終盤、眠っている老女(金夢島に居ると思い込んでいる演出家)と夢の中の相手?と、詩的な言葉の断片を投げかけ合うゲームをやる。その断片が勿論訳語であるが鮮烈な印象の連鎖となって浮遊していく。
演劇が総合芸術であることを実感させる気合いの入った舞台で、多彩なものを織り込んだこれに該当するタイプを思いつかないが、舞踊作品の抽象性に匹敵し、かつ物語性もある。規模の大小を問わねば総花的・寄せ鍋的な舞台は日本産のを観ていそうだ。初めての感覚というのでなくある種のセオリーに則っているが、個々のアイデアは目が覚める。機構的な演出は宮城聰を思い出した。日本の伝統芸能のエッセンスが、日本人以上に(外部からアプローチするからこそのざっくりな捉え方で)デフォルメして表現されたりするのは楽しい。カタコト日本語を飛び交わさせる場面もあり、笑いを起こすような「いかにも」な場面がチョイスされてるのもセンスである。4、5回コールがあって、演出家が呼ばれて漸く収まった。

へたくそな字たち 【神奈川公演】

へたくそな字たち 【神奈川公演】

TOKYOハンバーグ

ラゾーナ川崎プラザソル(神奈川県)

2023/10/12 (木) ~ 2023/10/16 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

追記をしようと思ったら、未投稿だった。何度か推敲して送らず下書きが残っていた。
・・以前この作品を観た印象から随分変わったのが、(戯曲の若干の改変も恐らくあったのだろうが)芝居の質感と言おうか、演劇的作為にも関わらず生々しさが微妙に勝っている肌触りである。劇場も異なり、今回は俳優を間近で凝視した。勿論俳優の布陣も異なり、良い座組であった。

同じ作演出で今春、一人芝居を打った松熊つる松を、間近で見ていたにも関わらず気づかず(この人いい感じで演じてるな~、と)、観劇後にパンフを見てあっと気づいた。役を見せる優れた器であり、この人の風貌は中々視覚的に覚えられない(普通は顔より名前が覚えられないのだが逆に名前は十年以上前の初見から覚えている。まあ特徴的な名前であるからして)。
ベテラン女性教員に槌屋絵図芽。毅然とした姿が感情豊かなキャラ、これがさほど多くない台詞の合間の風情から立ち上っている。これ以上ないキャスティングだ。この役については後述。
新任教員の片平喜録との対象も、おいしい。
廃品回収のトラックを転がす兄貴(つうかオヤジ=甲津拓平)、そこに上から声が掛かるので見るとノッポの孤児出身の青年(山本啓介)が建築現場で鳶をやってる。脇からもう一人中国訛りのシュッとしたの(脇田康弘)が覗く。内装業者として入ってるのだという。学校以外のプライベート(というか仕事)の時間に、三人が揃う絵に描いたよなシーンが、演劇表現の「省略」とも、偶然の出来事のようにも見える両義性が、何気に高度である。
今時の若者(と言っても舞台は1980年代だが)を吉本穗果が演じ、ヤンキーが入ったキャラが周囲に存在を許されてるのが救いにも見える生硬さが、あるとき、動物園に親戚が居るという新任教師の手引きで彼らだけに「それ」の見学を許された日に、忘れ難い変化を刻む。吸い込まれるように「それ」を凝視する彼女は、犀(だったかな)の出産に説明不能な感覚を覚える。人ではないその存在が、嘘で覆いようのない実在を、自分もそのように生まれたという否定しがたい事実と重ね合わさるようにして、だろうか、彼女を打った事が伝わってくる。
授業中にお喋りな中国人男性が歴史についての自説を語り、韓国からのニューカマー(橘麦)もまじえて論争になるのもいい。言い合う事の醜さ、ではなく清々しさがある。
現役を引退して中学に入学した天ぷら職人のおじいさん(山本亘)が、ある意味で中心的な役柄となる。小さな工務店社長である彼の息子(飯田浩志)に連れられ学校を訪れるのが冒頭のシーン。応対する副校長(藤原啓児)の真面目でお間抜けなキャラで冒頭の笑いを掴み、彼がハケた後で現われるおじさん(宇鉄菊三)が先生に間違えられ、気を良くして暫くそこに居続けるという古典的な笑いも。中盤その背景となる回想場面では、夜間中学の先輩である鳶の兄貴の嫁さん(これも孤児出身の肝の据わった姉貴=橋本樹里)との二人の部屋を訪ねて来たのがその息子。兄貴の建築現場の現場監督で、夜間中学の相談を切り出すまでにその兄貴が字が読めなかった経緯を蒸し返して語り出すので、聞いてる内に戦闘モードに入った姉貴が彼に詰め寄るというエピソード紹介である。(これで全員出たかな?)もう一人。町屋圭祐氏演じるのが軽度の障害を持つ青年。片足が不自由で引きずって歩き、顔をゆがませて喋るが自分でやれる事を淡々とやり意思が明確で自分の意見を持つ、集団の成立が実はこういう存在に助けられている事が多い、ムードメーカー。

最も紹介したかった場面は、野外授業である。
段々とグループに分かれて、分からない漢字を書き取る。「あれは何?ええと、○○とあるから、ああで、こうで・・」と言い合うのだが、観客にすればこれは連想ゲーム。正解まで親切に言わせないのがいい。結局分からないものもあったが、ギリギリ、辛うじて「あああれか」と分かったものもあった。クイズを解くというよりは、彼らの未知の物を探る「目」に同一化して行くこれはプロセスになる重要なシーンだ。

そうした彼らの「学校」生活も終わりを迎える。その場におじいさん生徒はいない。代わりに卒業証書を受け取りに来た息子が挨拶をする。そして読み上げられるのが、彼ら一人一人に出されていたが、提出に至らず置かれていたので持って来たという「自分の手で書いた手紙」の宿題。おじいさんの言葉を卒業式で聞く。吉本が「何のための学校だったのか」と荒れる。そして劇中、ある授業で先生が出した質問におじいちゃんが答えたその答えが反芻される。

実は終盤、おじいさんが教室に居て、授業が中々始まらない、副校長が槌屋先生を慌てて呼びに来るが居ない、どうしたんだろうという場面がある。最初はのんびり構え、やがて何かを察した生徒らが全員いなくなった後、おじいさんが黒板の空白に書かれるべき字を書いて去るのであるが、照明変化に気づかなかったためか、おじいさんは「実在している」と見てしまった。だから槌屋先生が何に、誰に(どの緊急事態に)向かったのかを終劇後まで探っていた(何か見落としたエピソードあったっけ・・と)。
だから終わりへと進んで行く劇に本当は付いて行けてなかったのだが、おじいさんは既に亡くなった後か、または息を引き取る前、魂がこの教室を訪ねた、という事だったのだと解釈した(実はそれで合っているのかも自信がないが、まあ多分合ってるでしょう)。
山本氏はあの山本学、圭兄弟のその下の弟だと言う。兄二人程には映画・ドラマに出なかったが俳優を続けて年輪を刻んだ人だったのだな。

ネタバレBOX

槌屋絵図芽女史演じる教員の姿を見て、想起したのは(例によって引用恐縮)宮台真司が最近よく言う「空気を変える人」の事だ。

日本人は「平目キョロ目」で自分の主義主張や思考で物事を決められない人間が多い、という事から、その弊害として、空気を読まずに勇気を持って本当に思っている事(正しいと思う事)を発言する事に困難が生じる。
ある調査によれば、貴方はクラス(集団)に何人の味方(又は頼れる人)がいたら、曲がった事を正そうと提案する勇気を持てるか? という設問に対して、諸外国では2,3人または数人いれば言える、と答えたのに対して日本は「クラスの半分」だったそうである。
事程左様に日本では、いじめをやめろ、と言える人間が(全員がそう思っているので)少ない。つまり悪い事態を良くしようと提言する発言そのものが出づらい土壌がある、という訳だ。
だが例外がある。そのクラスを導く教師が対等性を重んじ、公正さを重んじ、小さな意見にも耳を傾けようとする、毅然とした態度を貫ける人間である場合に、ガラッと空気が変わる。生徒は物が言えるようになる。
それは地域のリーダーにも集団や組織のリーダー的存在、引いては国のリーダーにも言えるかも知れない。安倍が自分を批判する人間を敵と見なして我が方に付く者と批判する者とを分断するタイプの政治家だったことは、上記の条件とは真逆。寄らば大樹と寄りかかる人間を作り出し、己の考えを貫く人間にとっては困難な空気をより押し広げた。
人の道を重んじる「大人」がそこに居るか否かで空気が変わり、人の振る舞いが影響されてしまうという事であるが、日本では、そのキーマンがいなくなったら、元の木阿弥となるのが悲しい。
自律的な振る舞いに慣れていないのが日本人のスタートラインだとすれば、この意識の変革には歳月を要するだろう。

劇に戻れば、夜間中学では損得を度外視して「関わる」人の輪がそこにあった。芝居はその事が裏付けを持って感じられるものだった。
時代設定は1980年代後半で、既に高度成長期を終え不況~バブルを迎えたあたり、競争原理が可視化された「偏差値」教育の場とは一線を画した、夜間中学という場所がそれをもたらしている事は明白で、ぶつかる時はぶつかる本音のコミュニケーションが書き込まれ、美化されていない。関係が自然に成立している事の裏付けがディテイルで充実していたのが、前回観たバージョンを超えてたなと感じた部分。
吉良屋敷

吉良屋敷

遊戯空間

シアターX(東京都)

2023/11/01 (水) ~ 2023/11/05 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

手当たり次第にあれこれ芝居を見始めた頃、あの気分は震災後のまだ余震を錯覚してしまうような時期だったが、はじめて遊戯空間を見たのもそんな時期で、とある寄席で行われた「仮名手本忠臣蔵」全通しがそれだった。
その後和合氏の詩の劇や、その他ユニークなパフォーマンスを観た。私が何に惹かれているのか、と自問してもうまく言えないのだが、伝統的演目でも現代詩でも、原典に対する折り目正しきリスペクトと、飽くまでもそこに立つ所から必然的に生まれる演出趣向に留めている事(という感触)、要はストイックさと言えるか。
「吉良屋敷」も飽くまで遊戯空間のその在り方をベースに、であるが、贅沢な舞台であった。吉良邸内という閉じた場での悲喜劇として描いた井上ひさしの作とは、同じ「吉良邸内」でも趣きが異なり、最終的に吉良側にシンパシーを覚える描き方をしている。そのあたりは意見は様々かも知れないが、閉塞感よりもむしろ広がり、多彩な場面から吉良邸の日常(と言ってもこの日はハレの日に当たるがそれも含めて)が浮かび上がり、趣向の数々が贅沢かつストイックに舞台を彩っている。
雪が降っている、と読み手が伝える。「その日」であると分かる。その瞬間までの十数時間が、それとは言及される事なく(なぜなら吉良邸の者はその日が何の日になるかを知る由もない)、淡々と時が過ぎる。

ネタバレBOX

琴が鳴っている。尺八が鳴る。篠笛、後半の緊迫の場面で呼び子が鳴る。そして、琴と、尺八。
シアターXのせり上がった舞台奥に襖戸、開いた中央に演奏者二人が見える。人物皆、和の正装。場割は細かく、登退場は歩いてその位置に付く様式で行なう。能の要素がある。舞台より下、左右端の床に立つのは二名、篠本氏、観世氏。ト書きを読む格好。物語の誘い手である二人の圧巻は後半、いざ討ち入りの後、演者は皆無言で動き、阿鼻叫喚の様は文章の読みで伝える。死体が累々と折り重なる。この作品の特徴と言えるのが、鎖帷子に身を包んだ浪士たちに討たれて行く吉良邸の要人ら一人一人の動きや吐き捨てた言葉、死に方、享年が読み上げられて行く描写だ。
残酷な末路はギリシャ悲劇もそうだがある種の高揚をもたらす。津波、ISによる処刑、悲劇的な場面は人を嗚咽させ、凝視させ、身体作用を促す。
赤穂四十七士がやった事とは何だったのか、義憤を晴らす爽快さとは異なる感情に襲われる。
役者のストイックが演技も良い。
この日はお茶会が催される日である。誰それは巷の噂(赤穂浪士が吉良家を討ち入る等という)を気にしてか今日は欠席された、あのお方がこの日を定めたにもかかわらず・・といった会話が交わされている。新しい女中が赤穂の者と通じていると指摘され言い逃れる場面もあるが決定的な事とは思われないあどけない少女。と、玄関が賑わしい。来客が並び、茶を点てる吉良。そして吉良上野介の子息・義周(よしちか)が舞いを披露する(ここは篠本氏の「謳い」をバックに)。宴席は盛り上がり、夜は更ける。赤穂の姿が近頃見えんが・・に、筆頭剣士答えて曰く、江戸の外れの本所では周囲から常に見張られていると思うべし、警戒怠りなきよう・・「何だか辛気くさくなったわい」「明日から心して掛かろうぞ」等の会話。
家人が寝静まった深夜、寅の刻と言うから午前四時(三~五時)、「火事だ~」という声で起こされた門番が突かれ、火蓋が切られる。やがて長屋に至り、出て来た者は次々と突かれ・・本丸の吉良の屋敷へ。
文章による克明な描写に、演出が際立つ。天井に固定されていたらしい襖がバラバラと吊られて揺れ、白装束が血(使ったのは墨汁)で染まって行く。動きは皆異なり、鎖帷子の黒装束4人が皆の前に立ちはだかり、無慈悲に殺されて行く。一人で太刀回りをやって倒れる者も、刀、薙刀を交す者も、能舞台に使う柱が上手から下手に三本、やや斜めのラインに並んで置かれているのだが、これに触れず、当てず見事にすり抜けていた。音使いの一つ、討ち入り場面ではハァハァという息が鳴って緊迫感を高める。音の特徴的な使い方は、一つが柝の音で場面転換ごとに頻出、朗読の内、一部が録音された声が流されている。これがひどく効果的であった。
紅二点の一人、古手の奉公人が現われる。屋敷内を歩き、次第に辺り一帯に重なる死体が見えて来て絶叫するのが、カタストロフの描き収めである。再び尺八が奏でられ、終幕となる。

終演後、役者たちは早々とロビーにてそれぞれ知己との挨拶をしていたが、コロナ時期を経て久しぶりの光景。こうありたい。
検察側の証人

検察側の証人

俳優座劇場

俳優座劇場(東京都)

2023/10/22 (日) ~ 2023/10/28 (土)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

観た後にこれが映画「情婦」の原作に当たる作品であり(アガサ・クリスティが最初に書いた短編を戯曲に書き改めたもので、映画はそれを元にしたものという)、あのマレーネ・ディートリヒが法廷で悪役ぶりを演じた後、愛に敗れた(って感じのストーリーの)やつ、と気づいた。
芝居を観ながら、既視感は全く覚えなかった。雰囲気が違った。法廷物の常道といった感じで、主役の青年(采澤)が殺人を「やったのか、やってないのか」で言えば最後に「やった」となるんだろうな、とは予想していたが、ミステリーの仕掛けにまんまと乗せられ舞台を凝視していた。
タネが分かってしまうとミステリーはつらいな、という大方の意見に対し、アフタートークで翻訳の小田島氏が、「結末が分かった上でディテイルがどう作られているかを見るのは一つの楽しみだ。マクベスもハムレットも結末が分かってるのに皆観に行く」と成る程な発言。
リアルで緻密で見せ場のあるドラマなら、「謎」だけに引っ張られて最後まで観る(これミステリーというジャンルに限らず演劇にそ「引っ張り」の手法は普通に使われている)タイプの演劇は後に残るものがあまり無い、という事は確かにある。

さて今作、終盤のどんでん返し一つ目は見事に騙され、それが痛快であった。だが最終的などんでん返しは非道な男という造形が、単に彼のそういう「素質」から来ている、という風にしか解釈の行き場がなく、きつい所がある。(どんでん返しの面白さは十分にもう味わっているのでその時点では文句はないが。)というのは、やはり芝居は時代を映すものでありたい願望がある。
男の造形の中に何か社会背景を思わせるものが書き込まれていれば、女性の悲劇が際立つだろうし、この出来事をより立体的に、彫刻のように眺めさせる事もできるのでは・・と。
スパイ云々の話は作り話で一旦チャラになった後、男の非道さだけが残る。外国人である妻(永宝)はこの国で男との一対一の濃い関係を育み、それゆえ物理的な意味では依存関係(男の側に圧倒的な強み)があったと言える。ドラマとしては、ナチスとの関係を疑われた彼女の逃亡を助け、利用して捨てた男がいた、という話である。
女の態度から、一計を案じて彼を殺人容疑から救ったのは彼女だと見える、という意味では男の「心変わり」は偶発的であった可能性もある(その線の方がドラマティックである)。
客観的には弁護士の心証として彼は無罪であったので、一計を案じなくとも推定無罪を勝ち取った可能性が大きい。そこにちょっとした隙間風がある。そこで際立たせなければならないのは女性の「愛」となる。
だが男の本質はサイコパス並に「人をだませる」特異な才能を持つ、という特別な設定に頼っている面もある。その本質は、妻でさえも見抜けなかった。問題が残るのはつまり男の存在だ、という事に(私の感覚では)なる。
従ってやはり最後に「本当の制裁」として妻が男を殺す、という結末は事を収めるためにも必要だった。法廷内とは言え閉廷した後は「普段の時間」、そこで女は男を殺した。とは言っても男が殊更に元妻を怒りに駆り立てる行為を取らなければ、また廷吏に取り押さえられていれば・・と、殺しが成就しなかった可能性が「現実」として広がる。もしそうであった場合でも、物語は成立するのか・・。物語は完結せず不当さへの恨みは燻り、その収めどころを探すしかない。復讐か。あるいは女のこれ以上の墜落をもってカタストロフを作るか・・。と考えると、やはりミステリーはリアリズムでないミステリーのルールに則っているので、「それを踏まえて楽しむ」のがミステリーを味わう弁え、という事になるだろうか。

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