たんげ五ぜんの観てきた!クチコミ一覧

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【中国】浙江京劇団 京劇『オイディプス王』

【中国】浙江京劇団 京劇『オイディプス王』

BeSeTo演劇祭

新国立劇場 中劇場(東京都)

2013/10/23 (水) ~ 2013/10/23 (水)公演終了

満足度★★★★

京劇!
正直に言えば、『オイディップス王』を京劇でやったという以上の意味(実験性)があったかどうかはわからない。

それでも、やはり京劇の魅力は強烈。

あの広い舞台で、煙が立ちのぼる中、演じられる京劇は壮観。

『オイディップス王』の作品スケールと京劇のスペクタクル性が重なって、
とてつもない幻想空間が出現していた。

役者の身体能力も演技も、素晴らしかった。

未来を忘れる

未来を忘れる

文学座

文学座アトリエ(東京都)

2013/10/18 (金) ~ 2013/11/01 (金)公演終了

満足度★★★★

安易な解釈を許さない
安易な解釈を許さない、複雑でシュールな作品。

と言っても、そこには現代の日本社会が抱えている問題が描かれている。

世界は簡単に物語化できない。単純に解釈などできない。
その様を描こうとするとこういう作品になるのだと思う。

その作風がとても良かった。

ただ、どうしても観念先行の作品のように思えてしまい、
舞台としての満足度は☆3だけれど、
やはりこういう姿勢の作品は素晴らしいと思うので☆4。

映像や照明を使った演出もとてもよかった。

役者さんたちも素晴らしかった。
特に娘:工藤ライミ役:藤崎あかねさんの感じが良かった。

人数の足りない三角関係の結末

人数の足りない三角関係の結末

tea for two

「劇」小劇場(東京都)

2013/10/17 (木) ~ 2013/10/20 (日)公演終了

満足度★★★★

とてもとても丁寧な芝居
脚本が極めて精緻に組まれている。まるで建築物のように。
演出も丁寧。作品テーマとも重ねられている。
それを演じる役者さんも素晴らしい演技。

とっても良い作品を観たという印象。

<内容面について、後日追記するかも>

ネタバレBOX

大根健一氏はそうとう頭の良い人なのだと思う。
脚本の構成、演出の構成など、建築物を設計しているかのような精緻さで作品が組み上げられている。

内容面でも、物語にさりげない形で社会批評が忍ばせてあったり、人間関係のあり方が問いかけられていたりと、とても丁寧な仕事。

これだけの知性がありながら、それをひけらかすような部分は少しもない。

本当に丁寧に作られている作品だと思った。
贋作☆スイミー【満員御礼!ご来場ありがとうございました!】

贋作☆スイミー【満員御礼!ご来場ありがとうございました!】

劇団SHOW

パフォーミングアーツ・シアター(尚美学園大学・川越キャンパス内)(埼玉県)

2013/10/19 (土) ~ 2013/10/20 (日)公演終了

満足度★★★

抜群の演出センス
この作品の演出センスは凄い。
(第一演出:栗☆兎 :第二演出:伊藤拓)

学生劇団とあなどるなかれ、そのセンスはプロ顔負けである。

作品の完成度も高い。

ネタバレBOX

ただし、台詞の発語の仕方やドキュメント風のモノローグを交える手法など、
どこかで見たような作風(マームとジプシーとか、チェルフィッチュとか、ブルーノ・プロデュースとか、、、)のため、流行を取り入れている借り物の方法だなという感じはした。せめて、発語の仕方だけでも、ものまねっぽさが無かったら、もっともっと舞台に入りこめたのに、、、と個人的には思う。

それでも、このセンスはスゴイ。学生だということを考えると驚きしかない。

レオ・レオニ作の絵本『スイミー』の話を、魚座という劇団の話と重ねて描いている。そこでは、『スイミー』のテーマでもある、個と集団の問題が提起されている。

魚座はこの物語内の劇団だが、それはこの作品を作っている劇団SHOWそのものの姿とも重ねられている。そのようなドキュメント風の作品の為、所謂役者の演技というものとは違ったものが舞台に現れる。舞台に立つ者一人一人の個性・魅力そのものが。
そのような演出方法だからか、実際に強烈な個性と魅力を持った人たちがこの劇団に多く所属しているのか(おそらく両方だろう)、役者たちがとても魅力的に見えるのだ。
とかく学生劇団では、どうしても演技力の未熟さを感じてしまうことが多いが、この芝居では一切そういう部分は気にならなかった。

ドキュメント的な演出が、この作品の質を高めている最大の要因だとは思うが、それ以外の演出部分(空間演出その他)も、脚本の構成力も含めて、凄いセンスだと思った。

脚本に関しては、その台詞の細部はとても素晴らしい。
「作・栗☆兎となかまたち」となっているので、役者などの実感や意見がこの脚本に採用されて作られているのではないか。
就職活動をどうするのか、このままでいいのか、なども語られている。
役者たち自身の葛藤とも重なっているのだと思う。

ただ、俯瞰した場合に、構成はとても計算されているものの、
内容面では弱いと感じた。
とても緩い会話がずっと続くからだ。

と言っても、私にそう感じられただけで、
今の若い世代には、この緩さこそが重要なのかもしれない。

特に、この作品のテーマが集団と個の問題であることを考えると、その点はかなり注意が必要だ。
話を聞く限り、今の若い世代では、「空気を読む」というようなことに関して、
30歳以上の世代では理解できないような集団性の問題が生じているようだ。
(顕著な例としては、大学で独りで食事ができないなど、、、)
そのような状況を考えると、私が緩いと感じているやり取りの中にこそ、微細な集団と個の問題が描き込まれているのかもしれない。
30歳を過ぎた私にはわからない何かが、、、。
(勿論、単に脚本が弱いだけという可能性もあるが、、、。)

批判的なことも書いたが、この演出センスはとんでもないと思う。
今後の作品にも大いに期待できる。

美術なども素晴らしかった。
裏小路

裏小路

トム・プロジェクト

紀伊國屋ホール(東京都)

2013/10/17 (木) ~ 2013/10/22 (火)公演終了

満足度★★★

社会状況に挑む姿勢
中津留章仁さんの作品は、今の社会状況にどのように対峙するかという批評性があってとても素晴らしい。
今作もいじめ問題を扱っていて、とても興味深かった。

ネタバレBOX

途中までは、誰が本当に悪いのか、不確かなまま物語が進む。

それが、今日、なにが本当で、何が嘘なのかわからないメディア状況への批評にもなり、さらにそこに悪意があるのかないのか、悪意なく行われる行為が人によっては暴力と受け取られることもある社会状況への批評にもなっていると感じ、とても面白く拝見していた。

だが、最後になって、すべては少年が悪かったというオチがつく。

これは、中津留氏が物語に強度を付けるためにオチを付けたのか、
紀伊國屋で行われる商業演劇だから、誰が見てもわかるように安易な物語に落とし込んだのか、理由はわからないが、
それまで複雑な問いを孕んでいた作品の意味が、最後でとても単純なものに変わってしまった。
そこにあった複雑さこそが、社会の解決できない複雑さそのものだったのに、、、もったいないと思った。
【終了致しました。ご来場誠に有難うございました!】劇団藝展『乾かせないもの・韓国版』

【終了致しました。ご来場誠に有難うございました!】劇団藝展『乾かせないもの・韓国版』

机上風景

タイニイアリス(東京都)

2013/10/19 (土) ~ 2013/10/20 (日)公演終了

満足度★★★

とても誠実な作品
作品のテーマもその演出も、演技も、正攻法で作られたとても丁寧な作品だと思いました。

中野の処女がイクッ

中野の処女がイクッ

月刊「根本宗子」

新宿ゴールデン街劇場(東京都)

2013/10/09 (水) ~ 2013/10/18 (金)公演終了

満足度★★★★

女性の、、、
女性特有のいや~な感じを、女性である作者が自己批評的に描き、それを女性の役者が演じている。
(勿論、男性には男性特有のいや~な感じがあるのも自明なことで、差別的に言っているのではありません、悪しからず。)
最後の方では、ちょっとテーマが変わってくる。
そこからの方が物語としては面白かった。

ただオールラストが私には茶化して終わったように思えたので、
満足度としては★3ですが、その点は不問に付せば★4。
(ネタバレの最後に、オールラスト部の意味について、過剰な深読みを試みました。おそらく誤読ですが。)

ネタバレBOX

まず、女性特有のいや~な感じについて。
私が男性だからだろうか、「女性ってそういうところあるよな」とは思ったものの、「うえ~」となるほど、嫌な感じは自分の中に生じなかった。

それは、私がもっといや~な目に現実であっているから、これくらいのことでは感じなくなっているのか、それともその逆で、男性だから、女性同士の微細な毒まじりのやり取りが感受しきれていないのか、、、。

いずれにせよ、日常の中に見え隠れする女性のいや~な部分という意味ではとてもよく描けていたと思う。

問題は、最後の方で、テーマがグッと変わってくる部分から。
女性同士の人間関係のテーマから、大きな事象を前にすると問題の本質がすり替わってしまうというテーマにシフトする。

まず、〈じゅん〉の財布が盗まれ、ゴミ箱から発見されたものの、誰の仕業かわからずにいる。そして、〈もなか〉がやったのではないかという噂になる。それも、何の根拠もなく、リーダーヅラされるのが嫌だったり、彼の元カノが〈もなか〉だという嫉妬からきているものだったり。だが、実際は〈イブ〉の仕業だったとわかる。それでも、〈イブ〉は一切悪びれる様子もない。親からの仕送りもありお金には困っていなく、単に面白そうだったからやったという。それも、その金を火で燃やしてしまったと。その様子に、なけなしの家賃6万5千円をとられ、その上、離婚して別れて住んでいる父からもらった大切な財布さえ汚くされてしまったた〈じゅん〉はブチギレる。
〈もなか〉も〈まゆり〉も一緒に〈イブ〉を責める。
その瞬間、青森で震度7の大地震が起きる。イブの実家は青森だという。
それまで、〈じゅん〉と一緒に〈イブ〉を責めていた〈もなか〉も〈まゆり〉も、状況が状況だからと〈イブ〉に優しくし、それでも責める〈じゅん〉をむしろ非難する。
「こんな状況なんだから、そんな小さなことくらいで〈イブ〉を責めないで。人の痛みがわからないの?」というように。

それまでの、女性の人間関係などはとても丁寧に描かれていたのに、この話の展開の部分は、異常にテンポが速く、描き方が雑だなと思った。
〈イブ〉には本当に何の理由もなかったのか?理由なき犯罪と言われるものの多くは、広い視野で見れば、何らかの理由は見つかるものだ。より広い視野で見た時、家族関係や同棲している彼との関係など、何かしらのストレスか何かがそのような行動を引き起こしたのか、、、など、、、深読みすれば、そうも考えられるが、そのように臭わすものは何もない。テンポも速すぎて、色々考える暇もない。

それでも、この問題提起はとても素晴らしい。

このように、別の問題が起きたらそれまでの責任を全く無かったことにするというのは、一般的な人間関係でも、政治的な問題でもよくあることだ。

特に政治では、原発事故が起これば、それまで原発推進(黙認)をしてきた責任などなかったことになる。戦争だってそうだ。戦争万歳と言い、侵略していた加害性は無視され、戦後に被害者としての姿だけが残る。あの責任はどうなったのか、、、国も、国民も。

作者に社会批評性があって書かれたことかはわからないが、いずれにせよ、私にはそう感じられた。震災が問題提起のきっかけだという点も、そのように感じさせる要因となっている。

ただ、この場面は足早であり、更にその次に別の展開となる。

実はその財布をひろってくれた〈ドミニク〉(メイド喫茶に来るお客)が現れ、彼は「〈じゅん〉ちゃんは僕のこと好きでしょ?」となる。(〈ドミニク〉は震災には全く動じていない。)財布の中に〈ドミニク〉と一緒に撮ったチェキ(インスタントカメラで撮った写真)が大量に入っていたからわかったという。そこで〈じゅん〉はその気持ちを認め、「その写真でオナニーをしていた」などと〈ドミニク〉に気持ちを打ち明けて幕。(キスしたんだっけ?ラストシーンなのに覚えていない)
中野の処女とは〈じゅん〉のことなのだろう。

ラストシーンの意味がわからなかった。
ラストの前に、とても複雑な罪の問題が提起され、それをスカすように、それまでのテーマと関係ない恋愛の話でオチがつく。

意味があるとすれば、そこで初めてタイトルの意味がわかるということ。前の方でオタクをバカにしていた場面があり、その差別意識をここでひっくり返していること、、、でも、これだけでは筋がまとまらない。

私なりに、過剰に深読みし、理屈づけてみる。

〈じゅん〉は皆の前では、一緒になってオタクをバカにしていた、もしくはそのような発言を黙認していたにもかかわらず、実際は好きだった。
これは、本音を隠して集団に合わせ、本当は好きな相手をさえ、皆と一緒になってバカにする(黙認する)という人間の本質を問いただしているともとれる。それは女性の集団性というだけに留まらず、人間全般の集団性(特に日本には強い)を問うている。ファシズムの問題を。
そすだとすれば、前のシーンの問題提起と重なる。

または、皆が震災で右往左往する中で、価値観が一変していくが、オタクという一つの価値観をしっかり持っている〈ドミニク〉だけが、まったく変わらない日常を送っている。
この解釈でも前の問題提起と繋がる。

だがこれは、私の過剰な深読みだろうな。
演戯団コリペ『小町風伝』

演戯団コリペ『小町風伝』

BeSeTo演劇祭

こまばアゴラ劇場(東京都)

2013/10/17 (木) ~ 2013/10/20 (日)公演終了

満足度★★★★★

本当に素晴らしい 改演出(快演出)!
転形劇場が1977年に初演し、その沈黙が支配する舞台に当時誰もが驚愕した『小町風伝』を、韓国の李潤澤(イ・ユンテク)氏が演出。

李潤澤氏は、太田省吾(転形劇場)の演出とは全く違うアプローチによって、
この作品に新たな命を吹き込んだ。

とにかく役者さんの演技が素晴らしかった。
演出も本当に素晴らしかった。

ただし、転形劇場の芝居が好きな人が観たら、賛否は別れると思う。
詳しくはネタバレBOXに書くが、私は転形劇場版と演戯団コリペ版はネガとポジの関係にあると思った。

これだけ個性の強い戯曲を、そして演出イメージも強く付いてしまっている作品を、ここまで自分のものとして演出できる李潤澤(イ・ユンテク)氏の実力、そして勇気は本当に凄いと思う。

スタンダードな古典を奇異に改変する(崩す)のとは訳が違う。
極めて特異な作品を、物語演劇に仕立て直しているのだ。
こちらの作業の方が、実は失敗する可能性は遥かに高い。
敢えてそこに挑戦し、成功を勝ち取っている。

久しぶりに作品テーマがどうこうと考える隙もなく、
演技と演出に魅了されてしまう舞台を観た。

ネタバレBOX

<後日、戯曲や資料を読み直して、書き直すかもしれません。>

『水の希望 ドキュメント転形劇場』(弓立社)に載っている当時の劇評を読むと、この作品は元々冒頭の「四十分ほどのあいだ、まったくセリフなしの無言劇」(小苅米晛)であり、「約二時間二十分のうち三分の二程度は、まったく台詞なしで進行するという大胆な沈黙劇に近い設定」(扇田昭彦)だったという。

李潤澤(イ・ユンテク)氏は、この戯曲にあるト書き部を、語り部に語らせることで、無言劇ではなく、物語劇に仕立て直した。

転形劇場版では、観客は、その沈黙の中に、引き延ばされる時間の中に、人が生きる時間そのものの重みを感じる。そして、多くが語られない中に、老婆の想いを感じる。

それに対して、演戯団コリペ版では、観客は、現実と夢幻が入れ替わり立ち替わりする様に、夢の儚さ、現実の儚さ、常に生成変化する人生の刹那さを感じる。
そして、多くが言葉としても語られることで、役者の身体に多くの物語の意味を付加しながら、その演技の厚みを感じる。

あらゆる部分で、この2作品はネガとポジの関係にあると言えるだろう。

そして、その作品の問いかけるものも、(当日販売されていたパンフレットに掲載されている)金世一氏の解説によると、
太田省吾の原作は「男性中心の封建的な家族関係に対する拒否、そして男性の性の虚偽と虚飾に対する拒否としても受け入れられ」、「小町は、社会から強要された道を捨てて及び受動的な生き方という習慣の血を吐き出したコマコとなった」というのが中心テーマにあるのに対して、「李潤澤版『小町風伝』には、死に直面していた老人の目の前に広がる人生の想い出に焦点が当てられている。」ということらしい。

とても的確な指摘だと思う。
本作から、女の一生、人間の一生とは何かということを深く考えさせられた。

金世一氏は続けて「蘇った人生の紆余曲折と和解してからこそ安らかにあの世に渡れるのだ。これは、半島の伝統演劇とも言える、「グッ긋」というシャーマンの儀式の目的でもある。李潤澤は列島の「小町」という表象に半島の伝統儀式の精神を取り入れることを通じて、文化を乗り越える和解及び時代を越える和解を提案している。」と書いている。
これも的確な評だと思う。同じ韓国人だからこそわかる深い指摘だ。

とにかく役者さんの演技に魅せられた。
主演の老婆:キムミスク氏、
そして、少尉/隣家の父/魂:イスンホン氏、
若い小町:イセイン氏、
隣家の息子:ゾヨングン氏、
サチコ:ペミヒャン氏、、、     など、本当に素晴らしかった。

演出も、とてもとてもよく構成されていて、本当に素晴らしかった。

久しぶりに作品テーマがどうこうと考える前に、演技や演出に惹きこまれるという作品を観た。
解釈よりも、「なんだこれは!」というエネルギーがまず舞台から襲ってくる作品こそが本当に良い作品なんだなと改めて思った。
My Journey to the West

My Journey to the West

一徳会/鎌ヶ谷アルトギルド

アトリエ春風舎(東京都)

2013/10/15 (火) ~ 2013/10/21 (月)公演終了

満足度★★★

実験的演出
実験的な演出だったが、私にはその実験意図がわからなかった。

ただ、それがわかる人、感じられる人にとっては、面白い作品なのかもしれない。

というのは、詳しくはネタバレBOXに書くけれど、確かに何か強い筋の通った論理・意志で世界が構築されていたからだ。

ネタバレBOX

そもそも、どこまでが演出意図なのかわからないが、率直な感想を書く。

台詞やその意味内容が、観客である私の中にまったく入ってこなかった。
ただし、わざとそうしているんじゃないかと思わせるようなところが随所にある。

まず、文語体の台詞が多いこと。難解な用語が多様されること。
そして、書き言葉のような台詞(モノローグや日記文の朗読)が多いこと。
(これはおそらく中島敦の文章をそのまま使っていたからだろうが、、、書き言葉と話し言葉は違う訳で、、、と私は思ってしまうが、、、難しいところだ)
そのような台詞を役者が発する際も、敢えて感情移入をさせないような、そんな発語の仕方をしていること。
ダイアローグの場面でも、お互いは顔を見合わさず、心の有機的な繋がりを敢えて切断しているように見えること。
など。

舞台上がそもそも有機性を排する形式なので、必然的に、客席に伝わってくるものも、無機的な言葉ばかり。

なぜ、敢えてこんなことをしているのか?
演劇の命(のひとつ)と言っても過言ではない台詞(言葉)の有機性を敢えて異化する意味とは何か?
役者をオブジェ化するということか?
人間中心主義(ヒューマニズム)への反逆か?

この作品のテーマの一つに、西洋から東洋に持ち込まれた「自我」の問題がある。それらは、言語を基にした思考によって生み出されるもの。そのことをこの演出形式で何か観客に問いかけようとしているのだろうか?
自我の基本である思考、その思考の根本にある言葉のことを。
でも、そんな感じもしない、、、

もしそうだとすると、後半の展開がわからなくなる。
近代的自我の話から始まった物語は、後半になるにつれ、西洋の植民地主義と東洋との関係などに話が敷衍されていく。
そこまでくると、もはや「自我」「言語」とはテーマが離れてしまう(勿論、根底では繋がっているにしても)。

それに、深い意味内容の物語を語っているのだから、きちんと観客にその内容は伝達したいはずだ、、、

または、言語的意味内容よりも大事なことをこの舞台で表象しているというのだろうか?
確かに、新奇で美的な演出は面白くはあった。それに、役者の身体も鍛え抜かれたものではあった。だが、物語の意味内容を食い破る(取って代わる)だけのものとは思わなかった。

敢えて観客に、無機的な言葉の海を見せたということか?

もしくは、敢えてそうしたのではなく、単に衒学的に脚本が書かれいているだけなのだろうか?

このように、テーマとその方法が重なっているような、重なっていないような、、、

少なからず、私はこの作品を観ながら、そして見終えた後も、
ずっと、作品内容よりも、なぜこのような演出が為されているのかが、気になって、気になって、そっちにしか意識が行かなかった。

東洋の近代受容における西洋の暴力性というようなことは、うっすら考えたけれど、そのことと、この方法に対する「?」は私の中で全くリンクしない。
Show the BLACK

Show the BLACK

大川興業

ザ・スズナリ(東京都)

2013/10/11 (金) ~ 2013/10/14 (月)公演終了

満足度★★★★★

笑いに包んだ毒薬
暗闇の演劇ということで、天井桟敷の『盲人書簡』のような、劇構造を解体したり、見るという行為そのものを相対化するような実験演劇かと思ったが、そういうものではなかった。だが、その方法は充分に実験的。

大川工業ということで、はっちゃけたものを想像していたが、
芝居自体は正攻法の芝居。
笑いの要素は当然多いが、おふざけで笑わせているというのとは違う。
計算された脚本と演技力で笑わせている。
しかも、その笑いのオブラートの中には、社会風刺の毒薬が仕込まれている。見事。

そのような芝居を暗闇でやるとどうなるか、、、
単に普通の芝居を暗闇でやりましたという訳でもない。
そこには暗闇でやることの意味はきちんと考えられている。

ネタバレBOX

冒頭、見ず知らずの複数人が暗闇に閉じ込められる。
どうしてよいかわからなくなるが、見えない敵の仕業だろうということになり、戦うためにはここにいる者で団結してその敵と戦わなくてはならないとなる。その為にはリーダーが必要だということで、リーダー決めを始める。

このように、話が展開する中で、機知に富んだ絶妙な社会風刺が連発する。
それも権力を嘲笑して笑いをとっているが、その笑いをとっている本人も差別的な発言(失言)が多かったりと、一筋縄ではいかない毒の込めようがなんとも素晴らしい。

ただ笑わせているだけと思いきや、集団を組織するという問題が、政治の問題と絡んで語られ、更にそれが闇の中でのことであることを踏まえると、この集団が、国家という集団の寓意のようにも見え、いつまで続くかわからない闇の中で、私たち一般市民は「何を見て、何を見ていないのか」ということを暗に問われているとも受け取れる。

また、その後、リーダーとなった(大川総裁演じる)佐藤を中心に物語は進むが、そこでも、極限状況に置かれた人間の狂気のことや、人間関係の不信の問題なども描かれる。佐藤は会社を経営していたが、かつて社員にひどい仕打ちをされて裏切られたことがあり、そのことが元で、この状況でも疑心暗鬼になったりする。

更に、佐藤は、会社で経営不振の鬱憤を社員にぶつけていたら、その社員は更に下っ端の社員にその不満をぶつけるという暴力が弱い方に流れる話など、現代社会の闇はこの作品の闇の中に常に投影されている。

このように書くと、深刻な舞台のように感じるかもしれないが、深読みすればそうも読み取れるというだけで、表面的には軽い笑い話の中でこのような内容がサラッと語られている。そのスマートさには本当に驚いた。

笑いでオブラートに包んであるが、その中身は猛毒。

闇の中でもこの芝居を成立させているのは、第一に大川総裁の存在感(個性)と演技力。そして、その他の役者さんの演技力。

素晴らしかった。

ただし、ラストの大オチ(ネタばらし)は、少しわかりづらかった上に、何か強い問いかけを残したかというとそんなこともなく、それまでの芝居が素晴らしかっただけに、ラストの弱さはもったいなかった。

それでも、充分面白い作品だった。
月の家~タルチプ

月の家~タルチプ

新宿梁山泊

東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)

2013/10/11 (金) ~ 2013/10/16 (水)公演終了

満足度★★★

さすが李麗仙さん
李麗仙さんの存在感はさすがだと思った。派手に演じている部分ではなく、何気ないやりとりをしているような部分にこそ、その魅力を感じた。

ただ、朝鮮戦争をテーマにした内容も、意義深い作品だとは思ったが、それ以上のものとしては惹きこまれなかった。

静かなシーンが多かったので、私が観た席が舞台から遠かったためにそう見えただけかもしれない。

正義の人びと

正義の人びと

コロブチカ

ギャラリーCASA TANA(東京都)

2013/10/11 (金) ~ 2013/10/16 (水)公演終了

満足度★★★

正義とは
部分的に特殊な演出もあり、その点も面白かったが、基本的には正攻法で作品と向き合っていて、その誠実さがとてもよかった。

ネタバレBOX

冒頭、無言のダンスのような動きで、芝居が始まる。導入にしては長い。まさか、このまま最後まで行くのか、、、と思っていると、やっと対話が始まる。

その他、場面転換を、役者自身がカスタネットのようなもを叩いてする演出や、牢屋のシーンで、椅子を客席の前に積み上げて、檻のように見せたりと、特殊な演出も施されている。

と言っても、中心の芝居はとても正攻法。

私はカミュの『正義の人々』を読んだことがないので、コロさんによってどのように脚色がされているのかよくわからないが、芝居自体が正攻法の芝居故、脚本もそれほどいじっていないのではないかという気がする。

革命を目指す社会革命党のメンバーが、ロシアの大公をテロで殺害し、その後つかまり絞首刑になるという話。その過程で、社会正義を実現するためには、暴力は是認されるのかということが問われている。人民の平和のために為される殺人は許されるのか?
そこは、カミュ、どの立場が正しいということではなく、正義が何度も反転する形で描かれている。例えば、同じ革命家の中でも自由を愛する詩人のメンバーと、一度捕まって政府に拷問を受けたことで、甘っちょろい理想論とは決別した厳格な革命党員とを対比させたり。または、社会正義の理想と現実の葛藤を描くだけではなく、恋愛関係を描くことで、公の幸福と個人の幸福(愛)の問題なども描いたり。敬虔なキリスト教徒でもある大公妃を出すことで、今までの話を更にひっくり返したり。正義とは何かを深く考えることができた。

ただし、この作品が、今社会で起こっている問題と重なって見えたかというと、私にはそうは見えなかった。
むしろ、どちらかと言えば、昔の議論だなと思ってしまった。勿論、昔の戯曲だから仕方ない部分もあるし、普遍的なものを語っているのだと言われればそうだとも思うが、脚色・演出:コロとなっていたので、現代社会にある正義の問題と重なる形で脚色されているのではないかと期待していた。
(現代社会の事象を入れ込んだらよいなどという表面的な意味で言っているのではない。)

現代、正義の問題を考える際に、私の場合は原発問題を抜きには考えられない。原発事故を境に、考え方や立場の違いから、様々な正義が林立し、その正義同士が暴力をふるい合うような様を目の当たりにしてきたからだ。

そもそも、ロシア革命前後であれ、1968年前後であれ、この戯曲にも描かれている通り、正義の問題は極めて難しいものを孕んでいた。それでも、この作品の構造がそうであるように、ある程度の図式化は可能であった。
だが、今日の社会に存在する権力や暴力の問題を、この図式化によって物語ることは可能ではないと私は考える。
大きな括りでの権力構造は昔と変わっていない部分もあるが、どこからが権力者、つまり搾取する側であるかという線引きは、かつてより曖昧である。

更に、この問題は、日本では、原発事故以後、更に複雑な事態になったと私は考えている。もう全く図式化できない程に。

原発問題では地方と中央の問題などもあるが、ここでは放射能の影響から派生する正義と暴力の問題を例に出す。
放射能の影響については、国家の息のかかった研究機関やそこが出すデータはすべて信用できないという立場もあれば、そのように主張する者は左翼的バイアスがかかり客観的に見えていないだけだと主張する者もいる。それも単に二極に別れているだけではなく、論者によって様々な判断がある。その科学的な認識がそもそも一致していない状態で、どこで安全だと線を引くかという議論をする。その線引きも、健康面を重視する者もいれば、経済面を重視する者、理想から考える者、現実的なことから考える者など、この問題の正義は論者の数だけあるといっていい。さらに学者ではなく一般の人がこの問題を考える際には、どの説を信じるかという問題に加えて、その人がどこの土地に住んでいるか、子供がいるか、経済的にはどうかなどの条件によっても、更に多様化する。そうして、その多様化した正義が、別の立場の者を罵倒する様は、ツイッターなどで痛々しいまでに見てきた。ネット上だけではなく、この問題が元で家族関係や友人関係に大きくヒビが入ったという例は枚挙にいとまがない。権力者でもなんでもない者同士が、正義を振りかざして傷つけ合う。それも、特定の政治思想を持つ持たないも関係なく。いったい、誰が誰と戦争をしているのだ、この国では。

時間の経過と共に、このような罵り合いは減っているが、それは問題が解決した訳ではなく、単にそのことを忘れるか、考えないようにしているに過ぎない。

また、原発問題、中でも放射能に端を発するものを例に出したが、これは必ずしも原発問題だけに限らない。
ネットメディアの発達と共に、正義と暴力の問題はあらゆる分野で危機的な事態となっていると感じる。

何か、このような問題に触れるもの、重なって見えるものがあるのではないかと期待して観に行ってしまったが、それは感じられなかった。

ただ、それは私が過剰に期待をしていたのが悪いのだと思う。

芸術表現は科学的な見地に立った現実的な貢献もできなければ、判断も下せない。ならば、そこで生じた心の問題や人間関係の問題などに、表現が切り込むことはできないだろうかと、私自身が日々考えているので、観劇の際もそういうものを求めてしまっているのだろう。

このように書きながらも、この作品を観たことで、上記のようなことを考え直すきっかけになったのだから、それだけの問いかけを受け取っているといるという言い方もできるのかもしれない。
ふと、立ち止まり、語り出す

ふと、立ち止まり、語り出す

So Creative

シアターブラッツ(東京都)

2013/10/10 (木) ~ 2013/10/14 (月)公演終了

満足度★★★

面白い方法論
脚本の形式がとても斬新で面白かった。

ただ、物語の内容自体は平板な印象。

ネタバレBOX

役者の演技はすべてモノローグか、対話相手を想定しての独り演技。
その演技が複数、一つの舞台上で同時に存在している。

このように書くと、単にバラバラの演技をしているだけだと思われてしまうかもしれないが、そんなことはない。
役者Aが対話を想定している相手は、役者Bと重なってみえたりする。それぞれが全く別の会話をしながらも、それが対話になっているかに見えるように構成されている。

これによって、観客は、劇場空間に再現された劇の一場面を観るのではなく、異質な他者が行き交う世界そのものの縮図を見ているような感覚に襲われる。街に行き交う人の群れも、その一人一人の中にはそれぞれの物語があり、その物語の中で当人は主人公である。それが世界を形作っている。世界があってそこに人がいるのではなく、異質な人間が集まることで世界が形成されている。その縮図を見ているようだ。

異質と言っても、そこで各々が抱える苦悩は重なる。そして、そこで交わされる会話も似通っているものだ。その共通項が、この舞台をギリギリのところで解体させずに保っている。
脚本上の技巧の問題だけではなく、舞台と観客の想像力を繋ぐものとしても。

私が、この方法論を観たのは初めてではない。
TOKYO PLAYERS COLLECTION(作・演出:上野友之 )『IN MY TWENTIES』でも、似た演出が試みられていた。(私は上野友之作品はこの作品しか見ていないので、彼がよく使う手法なのかは知らないが、この演出にはとても驚いた。)
正直に言えば、上野氏の演出の方がはるかに巧妙だった。役者Aと役者Bは本当に会話しているのだと芝居にグッと惹きつけられていると、「あっ、これは別の人と対話しているんだ」と異化される。その緊張と緩和のバランスも絶妙だった。また、上野作品では、かつて自分が他者に言いっていたことが、別の場面では、相手を変えて自分が言われていたり、またその逆など、自己と他者の境界、自己の変化の問題などもそこから受け取ることができた。

今作でも、そのような問題も描かれてはいるものの、いまいち入り込めなかった。ただし、上野氏はこの方法を部分的に使っているのに対して、今作では全編この方法で作り上げているので、その点を比較して是非を論じるのは適当ではないかもしれない。後者の方が、方法としてはるかに困難だからだ。

全編この方法を用いたという実験精神に敬意を表したい。

ただ、その方法を抜きにした物語内容自体は平板だった。
大きな困難に直面した4人の主人公が、人生に絶望するも、それでも起き上がって生きていかなければならないと前を向くという話。
物語として物足りなかった。

青いユートピア

青いユートピア

ビニヰルテアタア

ギャラリーLE DECO(東京都)

2013/10/09 (水) ~ 2013/10/12 (土)公演終了

満足度★★★★

予感
実験的で、偶然性を舞台に取り込もうとしている点がとても面白かった。
シュールレアリスムなどの影響を受けているのだろうか?

幻想譚であり、イメージだけで繋いでいると思いきや、
きちんとしたテーマや構成があるのもよかった。

ただ、何かが物足りなかった。
でも、その何かが足りたら、めちゃくちゃ面白くなるんじゃないかという感じもする。

満足度自体は★3ですが、何か次に期待させるものがあるので★4にします。

ネタバレBOX

冒頭、役者6人が客席を向いて椅子に座っている。
中心の3人の女子がモノローグによって、物語を展開しはじめる。
後にこの3人は姉妹だと分かる。そのうちダイアローグにもなっていく。

この中心の物語を相対化するように、女装した男(東京ディスティニーランドさん)が絡んでいく。道化のように。
この男はかなりアドリブで演技していて、そのフリーさがとても面白かった。
ただ、とても「ぎこちない」感じであった。そのぎこちなさが、一方で、生身の人間の面白さを感じさせる反面、その感じこそが空間を少々間延びさせてもいた。私が観たのが2回目の公演だったので、東京ディスティニーランドさんは、未だ自分の立ち位置を掴みきれていなかったのではないか。このバランスがちょうどよく決まると素晴らしかったのだと思う。
(少し調べると、東京ディスティニーランドさんは独りパフォーマンスもされている方のようだ。自分の舞台の時と、この舞台の時の感じが一緒なのか違うのか、興味が湧く。)

ただ、この男が、(作・演出家であり役者としても出演している)千絵ノムラさんと「しりとり」をする場面はとても面白かった。
おそらく、これもアドリブなのだろう。アドリブの面白さ、偶然性を誘発する仕掛けとしても面白いのだが、どうやら、それだけではない。後半で「このしりとりの中には相手や自分の内面がすべて出てしまっている」という趣旨のセリフがあり、実は、これはしりとりという構造を借りて、ある種の人と人との会話の本質や人間関係の在り方までを暗に示しているのだとわかる。

これが中心テーマの「ユートピア」の問題とどう絡んで受け取るかは、観客の自由なのだろう。私は、ユートピアというものが、この物語の中で、極めて個人的な過去の体験に依拠して語られることと対比して、他者というものをそこで示しているのではないかと受け取った。
ユートピアと他者との関係は、、、他者は現実のことなのか、他者も場合によってはユートピアなのか、、、など、、、想像は連鎖する。
このような問いを残す作品は素晴らしいと思う。

また、ミュージシャンの北村早樹子さんが歌・演奏+αで出演している。
北村さんもとても良い味を出していた。
ただ、生演奏をしているのも素晴らしかったが、彼女に対して、せっかくならもうひとひねり面白い演出がされていたら、もっと面白かったのになとは思ってしまった。生の伴奏以上のものがあったら。

全体として、なにかがもっとピタッと決まったら、とんでもなく面白くなるんじゃないかという感じがした。
糸女郎

糸女郎

劇団唐組

吉祥寺・井の頭恩賜公園内・旧プール跡地(テニスコート受付向い)(東京都)

2013/10/05 (土) ~ 2013/10/19 (土)公演終了

満足度★★★

う~ん
役者さんの演技など、さすが唐組と思う部分もありましたが、劇には入り込めませんでした。

前の公演などでは気づきませんでしたが、岩戸秀年さんがとても魅力的になってきていると感じました。

もしも僕がイラク人だったら

もしも僕がイラク人だったら

カムヰヤッセン

東京芸術劇場アトリエイースト(東京都)

2013/10/03 (木) ~ 2013/10/06 (日)公演終了

満足度★★★★★

演劇の根源と可能性を感じる傑作
脚本が素晴らしく、それを十二分に活かす演出・演技も素晴らしい。

これ以上ない程にシンプルでありながら、極めて本質的。
演劇の根源と可能性を共に強く感じた。

お金なんかかけなくても、大袈裟な舞台装置なんか使わなくても、
人間の力だけで(と言っても、映像と音楽は使われるが)、
これほどまでに素晴らしい舞台ができる。
演劇に限らず、表現の根源とはそういうものだったはずだ。

内容的な問いかけもとても強く、深い。
にもかかわらず、解釈は多様にできる。

素晴らしかった。

<ネタバレBOXは書きなぐってしまっているので、後で整理します>

ネタバレBOX

冒頭、演出家であり、出演者でもある北川大輔さんが舞台(と言っても、ギャラリーの壁の前の空間)に登場。
空間が小さいこともあり、観客一人一人に語りかけるように、「携帯電話の電源などを切ってください」というような内容から、雑談を始める。
誰もが前口上だと思っていると、そのまま場の照明が落とされていき、ピンスポットが当たり続けている北川氏だけが空間に浮かび上がる。
そこで観客は、舞台が既に始まっていたことに気づく。
そこからも、北川氏の自分語りが続く。舞台は始まっていても、これは北川氏自身の過去の独白なのだろうと思って聞いていると、どうやらこれは北川氏のことではなく、脚本の、つまり劇世界の登場人物の話なのだと気づいてくる。

(この作品の本家の初演では、この部分はどうなっていたのか、とても気になる。演出家がドキュメントとしてそこに存在している場合と、演出家という役者がそこに存在している芝居とでは、その意味あいが大きく違うからだ。と言っても、どちらがより良いという訳ではない。今回の演出はこれはこれで、どこまでがドキュメンタリーで、どこまでがフィクションかわからない感じが、面白かった。)

この演技と言っていいのか、話術の感じは、まるで噺家のようでもあった。

その話展開も絶妙で、携帯の話から、今話題のアプリ:ラインの話。そこで送られてきたメッセージを読むと、既読のマークが相手に通知されてしまい、返信しなければならないという脅迫にも似たものを迫られる。それが嫌で、ラインを見ないという本末転倒な人まで現れるというという話。
そして、中学時に女子の家に電話をするという例を出して、携帯などのホットラインがない時代は、人と繋がるのは大変だったという話になり、そこでは、繋がれなったことで、他者のことを想像する時間があったという話にもなっていく。

そこから、東京に状況したての頃のアパートでの話。新聞はとらずに、スポーツ紙を買っていた。スポーツ紙には、政治も社会も経済の話題もすべてが2面の中に書き込まれていて、ここには日本人の関心のすべてが凝縮されている。そこにイラク戦争の問題は、本当に小さくしか載っていない。
ネットの情報を見ても、そこには匿名の死の記事ばかりが載っていて、
実際の名前のあるイラク人のことは出てこない。やっとの思いで探したイラク人の固有名から、そのイラク人の日常のことを想像しようとする。

いくら想像しても、自分をベースに考えている限り、イラク人の生活は想像できない。そこで情報を集め再度想像してみる。
そこから完全なフィクションの物語が始まる。
ここで、もう一人の役者:辻貴大さんの演技に移る。

・・・・ここからも様々なテーマが出てくるのだが、全てを網羅しようとしたら、長くなりすぎるので、ここから先は省略・・・

タイトル通りイラク人だった自分を想像した物語であり、
イラク人の主人公を、悪意があったか無かったか不明だが、利用するイギリス人女性が出てきたり、アメリカ人ジャーナリストらしき者も出てきたり、他人事の日本人も出てきたり、、、とかなりある種の権力的なものを批評的に描いているようにも見えるが、主人公自身も、最後にほんのりと我欲も入っているのではないか、、、と感じる部分もあったり(←この点は、おそらく脚本上のものではなく、演技・演出で、絶妙にどちらとも取れるように見せているのだろう。脚本上は、石油を堀りまくって金儲けしようと一見我欲かと思わせておいて、そうすることで石油が枯渇すればアメリカは用済みだと言ってここから立ち去ってくれるだろうという自暴自棄とも・反骨ともとれるオチのつけ方になっていて、両義性を示しているという感じでもなさそうなので。)、、、だが、それを想像しているのはそもそも日本人だという、、、複雑な構造になっている。

オールラストでは、想像から現実に戻ってきた北川大輔さんが現れ、
途中で伏線も張られていたブルース・スプリングスティーンの「ネブラスカ」
の歌詞を読み上げて、幕。以下歌詞。

「バトンを回しながら 彼は前庭の芝生の上に立っていた
私と彼女はドライブに行き 10人の関係のない人間を殺した
先を切りつめた41口径のショットガンを持ち
ネブラスカ、リンカーンの町から ワイオミングの不毛地帯まで
行く手に現れるすべてのものを殺した
俺達がしたことに対して 後悔なんかしていない
少なくともしばらくの間 楽しい思いをしたんだから
陪審員は有罪の判決を下し 裁判長は死刑が宣言した
真夜中の拘置所 俺の胸は革ひもで縛られている
保安官、死刑執行人があのスイッチを入れ
俺の頭がガクンと後ろへ折れ曲がるとき
あの娘が俺の膝の上にのってるようにお願いしますよ
やつらは俺は生きるに値しないと断言し
俺の魂は地獄に投げ込まれると言った
やつらは何故俺がこんなことをしたのか知りたがった
この世には、理由もなくただ卑劣な行為というものがあるんだよ」
(訳詞:三浦久)<ネットから拾ってきました。裏とってません。>

この最後の問いかけによって、それまで、うっすらとこの作品が批評しよとしている対象は見えていたのに、その姿が煙に巻かれる。

他者を想像することは可能かというテーマは、他者を取り巻く環境や、そこで生じる力学のすべてを想像すること、因果関係を説明づけることは可能かというところまで突き詰められる。

それでも、それでも、想像しようとすることからしか始まらないということを問うている作品なのだろう。
保健体育

保健体育

20歳の国

王子小劇場(東京都)

2013/10/03 (木) ~ 2013/10/08 (火)公演終了

満足度★★★★

魅力的な演技・演出
役者の在り方がとても魅力的だ。
(特に中心の女子5人:異儀田夏葉さん、川田智美さん、長井短さん、湯口光穂さん、田村優依さん)。

最近、いつくかの若い劇団を観ていて感じることがある。
新劇的な演技力でも、アングラ的な身体でも、現代口語的な自然さとも違う、新しい役者の在り方(強度)が提示されていると。
この作品にもそれを強く感じた。

当日販売していた『「保健体育」国王指定教科書』を読むと、作・演出の竜史氏は、理屈によってそれを方法論化している訳ではなく、役者でもある自身の感覚を基に、その方法論を見出していっているようだ。

竜史氏の良い意味でガツガツしている、責めている感じが、舞台からも伝わってきて、とてもよかった。

ネタバレBOX

冒頭のカラオケのシーンから惹き込まれる。舞台の最上段にあるブースで行われている。
芝居直前の前口上と出し物を兼ねたものかと思って軽い気持ちで見ていると、もはやそこから舞台は始まっている。

そのカラオケも、どこまで演出したものかわからないのだが、ヘタではないが上手いとも言えない絶妙な感じこそが、とても魅力的なのだ。若いありのままのエネルギーを放出しているようなそれが。
(『「保健体育」国王指定教科書』によると「ブースの中でアクトするっていうのが、王子小劇場創設以来初めてらしくて」らしい。この責めた演出も素晴らしい)

このカラオケのシーンの面白さが、舞台全体の面白さとも重なっている。
歌手が歌を上手く歌いあげるのとも違う、かと言ってヘタウマの魅力とも違う何か。
役者が役を演じきることで生まれているものでもなく、素人が舞台に立つ魅力とも違う何か。

『「保健体育」国王指定教科書』を読むと、「今回は本当に一緒にやってみたい人、自分的にワクワクする人を集め」たらしい。その基準も「器用な人とか、上手い人は集めたくない」というもだったようだ。これは竜史氏へのインタビュー記事からの引用だが、司会者の「演技がですか?人生がですか?」との突っ込みに、竜史氏は「演技演技。いや、まあ人生もかなぁ。」と答えている。

いずれにせよ、このような基準で集められた役者さんの魅力は、所謂演技力とは違う在り方・魅力として舞台に現れる。その役も「基本的には、意外な役っていうのは振ったことがなくて」ということらしく、役者の実人生から漂うもありながら、本人自身のドキュメントではなく、演技したものでありながらも、どこか役者本人の手垢が残っているような、そんな絶妙の質感が生まれている。

『「保健体育」国王指定教科書』では、女優陣の座談会も掲載されており、そこでは、まさにこの点に触れられている。生山サナエ役:異儀田夏葉さんは「あたしの役、まんまあたしだわ。」と語っている。神崎チホ役:長井短さんは「わたし、恥ずかしくてしょうがない。」「別にセリフとかは、そんなこと言わないっていうセリフは別にもちろんあるんですけど、なんかあの、いざやってみるとなんか、あまりにもそのまま過ごしている気がして。」と、二村ノブコ役:川田智美さんは「なんか、あ、私を見てから書いた本って感じは、する。」と語っている。

この、役者さん本人のドキュメントのような質感と、演技をしている本人とのズレのようなものの中に、この作品の、この作品に出演している役者さんの魅力があるのだと思う。それを見事に竜史氏は演出している。


これらの点は本当に素晴らしかったが、物語の内容的には物足りなさも残った。

孤独や寂しさを紛らわすために、恋愛にその救いを求めようとし、それが性的な欲望と相まって、その依存関係は深まる。だが、そこで満たされているのは、刹那的な快楽でしかなく、根本的な部分にある孤独感や寂しさは満たされることがない。だから、簡単にその対象となる相手を替えて性行為に走る。それでも、本当はどこかで、身体的な快楽ではなくて、心が充足することを求めている。

それは、実際に性の快楽に溺れるかどうかは置くとしても、
その感覚は少なからず誰もが抱えている苦しみではある。
だが、それが、より深いもの、普遍的な人間の孤独感や人間関係の空虚感、または依存の問題などと繋がり、私の人生に突きつけられるような感覚は起こらなかった。

また、少し長く感じた。

と不満も残ったが、面白かった。


演劇の中で、ダンスシーンが出てくる作品は苦手なものが多いが、
なぜかこの作品のダンスシーンはとても魅力的に見えた。


女子がとても魅力的に描かれていたと思う。

『「保健体育」国王指定教科書』によると、
「挑戦的な意味合いで、ま、男の子を書くのはもう、結構得意だから、ちょっと今回は、裏テーマが、チャレンジだから、なんか、今までどおりのことをやっていると今までどおりの評価しか得られないから、自分的に難しい道を歩いていかないと思って。ちょっと女の子を書くっていうのはテンション上がるんじゃないかと思って、女の子を書こうと思って。」ということらしい。

竜史氏のこの挑戦的な姿勢にとても共感する。このようなチャレンジによって舞台に躍動感が生まれているのだろう。

役者としての竜史氏の演技もとてもよかった。
サスライセブン

サスライセブン

東京アンテナコンテナ

ザ・ポケット(東京都)

2013/10/01 (火) ~ 2013/10/06 (日)公演終了

満足度★★★★

正統派コメディ
イジリー岡田さん、剣持直明さん、下平ヒロシさんの掛け合いが素晴らしかった。役者としての力量を強く感じた。

脚本に書かれているのは割とスタンダードな笑い。
そこからはみ出すアドリブ(と言いつつ、計算しているのかもしれないが)が特に面白かった。

ネタバレBOX

ラストの大オチが最高だった。

また、カーテンコールのアンコールでの、
イジリー氏による客いじりと、高速ベロ、
そして生「ギルガメッシュ」、
大満足でした(笑)


私の誤解で、チケット担当の制作の方に大変迷惑をかけてしまったのだけれど、
担当の方は本当に心優しい対応をしてくださった。
素晴らしい劇団は、制作の方も素晴らしい。
ありがとうございました。
WATERS

WATERS

実験劇場企画公演

アートスタジオ(明治大学猿楽町第2校舎1F) (東京都)

2013/09/26 (木) ~ 2013/09/28 (土)公演終了

満足度★★★

未完成の可能性
学生劇団の評価は難しい。他の小劇場の劇団と同じように評価しようとすると、その中に潜む大きな可能性を切り捨ててしまいかねない。

今作も、技術力や完成度を問題にしたら、手放しでは評価できないが、未完成の中に潜む大きな可能性を強く感じた。

ネタバレBOX

ミドル英二さんも指摘する通り、実験劇場の芝居は「目指している地点がグッと高い」と私も思う。そこがとても魅力的である。
その「目指している地点」も作・演出家によって様々であり一枚岩ではないという印象がある。
中でも今作が目指している地点は、商業演劇に行っても通用するような壮大な作品スケール。であると同時に、小劇場でしかなし得ないような特異な演出も試みられている。

ギリシャ神話を模した神々が登場し、神と地上の民の問題が提起される。地上は水不足であえいでいる。そのために、神が地上に水を産み落とす。その水が主人公の〈オタ〉と〈しずく〉、、、、(←で合っているか不安です。違っていたら指摘してください。)
その水は、穢れをしらない清き水。その清き水が洪水により濁流にのまれ、〈オタ〉と〈しずく〉は離れ離れになる。〈オタ〉は時間をかけて旅をし、世の中のことを徐々に知っていく。〈しずく〉は、世間の荒波にもまれ、身を売ることでしか生きる術を得られなくなってしまう。そして、心も荒んでいる。その二人が偶然に再会し、約束の地、海を目指す。

というような話。
濁流にのまれるということには、3月11日の震災のこと、並びに自然一般の脅威と共に、社会の荒波にもまれるという問題が重ねられている。
穢れるというようなテーマにも、原発事故によって放射性物質に汚染されることと、社会に出てその純粋さを保つことが可能かというような問題が重ねられている。

壮大なスケールとそこに込められた問題意識は、かなり高い意識で作品が作られていることを示している。

ただ、壮大なスケールにしたが故に、学生劇団の弱さも目立ってしまっていたと思う。スケールが大きくなれば、そこに立つ役者の演技力もどうしても問われてしまう。学生劇団にこれを問うのは筋違いかもしれないが、はやりそこに目は行ってしまった。ただし、壮大ではない部分での演出は、むしろ学生でしかできないエネルギーを発散していた。自分たちの若さを体ごとぶつけるようなエロティックな演出は強烈だった。(目のやり場に困った。)

ただし、この二つ(物語の壮大なスケールと肉体自体を提示すること)が、有機的に混じり合っていなかったように思う。これがうまく混じり合っていれば、演技の弱さなどには目が行かなかったはずだ。
それでも、ラストシーンでは見事にこの二つの強度が合致していたと思う。ラストは素晴らしかった。

また、色々盛り込もうとしすぎて、中盤のテンポがゆるくなり、少し長く感じた。
緩急がつけば、より素晴らしい舞台になったのではないか。


実験劇場関係の芝居は、『コスモノート』以来、かなりの作品を観ているので、AKBのファンのような感覚と言おうか、以前の芝居でも見たことのある出演者などの成長を応援しながら舞台を見る感覚が湧いてしまった。
それが良いことなのか、自分ではわからないが、上手くなっている役者さんなどを見ると、妙に嬉しくなった。

特に、串尾一輝さんはどんどんよくなってきている感じがした。
また、岡田萌笑子さんも今回も独特な空気感を持っていてよかった。
山田岳志さんも3枚目の独特のキャラを確立しつつあると感じた。
舞台美術の朝長愛さんも、芝居を活かす舞台美術でよかった。

当日パンフもよかった。
他の皆さまも素晴らしかった。今後の活動にも期待しています。
五反田の朝焼け

五反田の朝焼け

五反田団

アトリエヘリコプター(東京都)

2013/09/23 (月) ~ 2013/09/29 (日)公演終了

ゆる~い風刺ユーモア
今年5月に上演された前田司郎作・演出の『いやむしろわすれて草』が素晴らしかったので、五反田団としての公演も観たいと思い劇場へ向かった。

説明文などから、ゆるくすることが、生真面目になることや熱くなることへの批評になっている舞台なのだろうということは予想はできたが、そこにある批評性もゆるい。
今の世相を斜に見て、ちょっとした風刺をまぶして笑わせるというだけ。

それが社会を見る視点であると共に、「真面目に社会と向き合わなければならない」「熱くなければならない」とする表現の在り方をも相対化するものでもあるということなのだろうが、、、、
私には、単にスカしているだけにしか見えなかった。

こういうのが今は流行るのかなという感じ。
私にはゆるすぎて、まったく笑えなかった。

五反田団ならびに、前田司郎氏に関して詳しく知らないのだが、
『いやむしろわすれて草』のような真面目な作風と、
今作のような極めてゆるい作風と、両面あるのだろうか?
今作のようなスカした作風の方の芝居はもう見たくない。

ネタバレBOX

真面目な人ほど正義を振りかざし、その正義がまた別の暴力となる。
その正義に熱狂する者が集団となる。

物語には、震災復興のために鶴を折り、被災地に送り続けるボランティア集団:絆の会と、
7年後の東京でオリンピックのために、「お・も・て・な・し」の心を育もうとするNPO?集団:おもてなしの会 などが出てくる。

復興のためといいながら、役にもたたないようなものを送り続け、絆ごっこをしている団体に潜む偽善性を突き、東京オリンピック開催で根拠もなく盛り上がる団体のアホらしさを突くなど、偽善にまみれた世相を皮肉っていること自体には共感するものの、いかんせんゆるい。

ゆるすぎて笑えないという部分も大きいが、
同時に、そういう皮肉や批評をゆるくやることによって、
世相を単に高みから冷笑しているだけのようにも見えてしまい、
なおさら笑えなかった。

声高に批判などをすることの危うさを回避するには、こういうゆるさしかないのかもしれないが、それで高みから冷笑してしまっては、それもまた別の暴力になってしまう。

人を皮肉ったり、批判などをする場合、その刃は常に自分にも向かってくる。
その怖さを自覚しながら行われるブラックユーモアならば素晴らしいと思うが、ゆるくすることで、自分へ向けられる刃をも包み隠しているように見えて、素直には笑えなかった。

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