ハンダラの観てきた!クチコミ一覧

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グッド 騎士(KNIGHT) ベイビー

グッド 騎士(KNIGHT) ベイビー

無頼組合

新宿シアター・ミラクル(東京都)

2015/07/17 (金) ~ 2015/07/20 (月)公演終了

満足度★★★

ハドボイドゥドと人情
尺が2時間程の作品で、この劇団のシリーズ物第6弾。

ネタバレBOX

アメリカか南米の腐った都市を思わせるシティー。ここにレトロな人情と俠気に生きる貧乏探偵。マッポと政治屋と金次第で何でもやる頭のいい下司野郎・片付け屋グループ、ヤクザ崩れの窃盗団、少年ギャングVSヤクザで少年ギャングボスに惚れ、組織を裏切った元ヤクザ等々、例によって因縁絡みのキャラクターが登場するが、以前、このシリーズを観ていない観客にも楽しめる内容にはなっている。然し、今回、本線と内容的にリンクしないギャグの多用が序盤・中盤中ごろ迄目立ち、ちょっと食傷した。この辺り、もう少し余分な物は狩り込んで尺を短く濃密なものにした方が芝居としての完成度は高くなるように思う。
紫陽花の下に死体は眠る

紫陽花の下に死体は眠る

惑星☆クリプトン

シアターグリーン BOX in BOX THEATER(東京都)

2015/07/22 (水) ~ 2015/07/26 (日)公演終了

満足度★★★

イチイマ
 3分程遅れてしまったので、オープニングのシーンは観そびれた。

ネタバレBOX

結論から言うと、何かが足りない。薄気味悪さはあるものの、人間の造形に深みがなく、殺害の動機が弱過ぎる。こんなことで殺人を犯すようなら、世界中が殺人鬼だらけになってしまう。それに、殺害時、スコップで一度頭を殴って死ぬ音響になっているが、科白では何度も殴っていた、という表現になっていたり、殺害シーンは、完全に観客からは見えない場所で行われ、音だけが聞こえるというのも、かなり舞台装置を作り込んでいる割には、工夫が足りない。もっと、紗のようなクロスを用いてシルエットを浮かばせるとかシャドウで表現するとか、血を飛び散らせる等の工夫があって良かろう。ゲームも陰湿なタイプの観客が居る、という割に単調過ぎるし、何十年も続いている組織にしては、ゲーム内容が余りにお粗末。
 紫陽花のイマージュも科白の中に出てくるだけで、役者達のヴィジョンにも、舞台上にも殆ど感じられなかった。唯一の例外が、赤紫の紫陽花についての久美の科白である。
 細部と細部同士の連携、シナリオライターの人間観察力、物語の構造を太くしっかりしたものに組み上げる為の構築力などが欲しい。
祝祭

祝祭

Trigger Line

小劇場B1(東京都)

2015/07/18 (土) ~ 2015/07/26 (日)公演終了

満足度★★★★★

問い掛け
 数年前、チェゲバラの娘さんにお会いしたことがある。感受性の鋭い、頗る聡明で、現実的で適確な判断を素早く下す方で、同時に溢れるような温かさを感じさせる方であった。会った者総てを虜にするような魅力を具えていて、忽ちファンになってしまった。彼女の魅力の最も大きな部分は、体中から溢れる温かさ、優しさであろう。太陽みたいな人ってホントに居るんだ!! と実感させるのである。彼女はキューバに住み、小児科医をしているのだが、子供達が注射を打たれる場合でも、彼女に打たれるなら、怖がりはしないのではあるまいか。

ネタバレBOX


 彼女の話を出したのは、今作でゲリラ側リーダーとして描かれるホセのキャラクターを改めて考えたいからである。ホセの魅力も、その弱者に加担する優しさと聡明、倫理性の高さ、判断力の確かさにあるのは明らかだからである。それに反してフジモリをモデルにした大統領、フジヤマの品性の下劣は今更言う迄もあるまい。同時に当時のペルーに、どの国が具体的に関与していたのか、自分は中南米の専門家では無いので余り良くは知らないのだが、中南米を支配し、収奪と強奪を繰り返し、政権転覆の為にCIAや特殊部隊を用いて現地右翼に拷問、虐殺の方法を指導し、拉致、監禁、指導したことの実践をさせたのみならず時には国軍を使って住民を虐殺、国際金融機関などを用いて国家経済を破壊し、各国の中心産業である農業を破綻に導いた上で、モンサント等の遺伝子組み換え種苗を売りつけるなど、軍事、産業、経済総てを破壊してきたアメリカを疑うのは当然のことである。因みに肝心な事は総て秘密交渉で決められるTPPはこの流れの上に乗ったものであることは、認識しておく必要があろう。AIIBの設立にアメリカの手先機関であったIMFの幹部が関わっていたのはなぜか? そのことの意味するものを日本人は考えるべきなのである。現在の植民地支配の形態は、単に軍事的脅威による支配ではない。様々な力(軍事力・経済力・政治力・交渉能力・条約作成時の先見性等々)つまり、結果として双務契約に基づく形を採る。問題は、弱い側は、その国民の意見を無視したり反映せずに居る事なのである。
 リベルタが立ち上がったのは、このような不正義、不公正に対してなのであり、その正当な主張は、残念乍ら、現在も是正されていないのは、国際情勢に目を向ければ明らかなことであろう。
 今作は、かなり史実に忠実に作劇されているように思う。何故か? それは、観てくれた人に、即ち我々に再考を迫る為であろう。観た者には、観た者としての責任もあろう。
 良く出来たシナリオをスピード感と緊張感のある舞台にした演出の音響・照明の使い方、役者陣のしっかりした演技、事実を事実として(或いは真実として)提起する方法、センチメンタルに流されない理性的な創り方に深い共感を覚えた。
 役者では、ホセ役、西岡 野人、交渉役、カタオカの砂川 和正 司法省判事役、ヨシケン、リベルタメンバー・ミゲル役、藍原 直樹、日本大使役、和田 武の演技が気に入った。また主宰の林田 一高が、フジヤマの私設部隊メンバーを演じ、聖職者として、反革命サイドに生涯関わっていた彼の人生を好演した。難度の高い演技であり、皮肉な人生であるが、隋所でそれと悟らせながらであるのは、シナリオと筋展開の運び方、そして彼の演技の賜物であろう。以下、少し例を挙げておく。
カタオカの妻になった女性を彼も愛していたこと、住民虐殺のドサクサに紛れて彼女をレイプし、その結果、彼女が妊娠したことが自殺の原因であったこと、ラストの特殊部隊突入の際には、革命部隊メンバー、殺害を禁じていたリーダー、フジヤマの暗部を法的に裁こうとした判事を、即ち良心的な人々を殺害してゆく姿は、現代の悪を描いて象徴的。だが、仲間である特殊部隊に銃殺されるようなアイロニーは、現在の日本に未だ存在するだろうか? というのも、今作の現在の日本への問い掛けではないか? 

俺

ゆうめい

新宿眼科画廊 スペースO(東京都)

2015/07/11 (土) ~ 2015/07/14 (火)公演終了

満足度★★★★

himitu
 実際に起こった出来事をコアに植民地である日本の蟻地獄で狂わずに生きてゆく為の、或いは抜け出す為の試論。(追記後送)

ネタバレBOX

 多くの観客が、自分とは重ならない印象を持ったことだろう。それは、表面しか観ていないからである。無論、表面を観ただけでも、このアメリカの植民地で若者が置かれている哀れな状況を感受することは無論可能であり、自分はその感受性を否定しない。自分にもそれと同じ感受性があるからである。だが、自分は更に分析するのだ。それだけである。今作、序盤で主人公、小林は警察に「保護」されるが、担当のデカは、警察手帳を見せる事さえ当初していない。おまけに告発の内容を曖昧化することで罪刑法定主義すら守っていないような対応を見せる。これは、小林に抗議されて一応、警察手帳を見せた上で訳の分からない屁理屈を捏ねて“保護”という形を採るのであるが、この辺りの対応法が、秘密保護法に於いて想定されるような内容である点、また、秘密保護法施行以前でも採られていたマッポの姿勢の問題が問われる。マッポも公僕である以上、憲法とそれによって保障された国民の人権は守らねばならない。秘密保護法が最初に守るのは、権力とその犬だからだ。本来、法の趣旨としてはそのような権力の横暴をこそ、縛らねばならない。だが、アメリカの完全な畜人即ち米畜である政治屋、官僚、高等司法官、権力者という名を冠された下司共は、その下司性故にまともな人間の言うことなど一顧だにしない。今作が所謂演劇的に、距離の取り方で失敗している原因は、以上に挙げた事柄に対する抑え難い怒りにあるだろう。一方、このような作品的欠点にも拘わらず極私的作品として狂気に陥らない為に創っているような迫力があるのは否定できない。それが今作の魅力でもある。
天麩羅男と茶舞屋女/FRIENDSHIP【ご来場ありがとうございました】

天麩羅男と茶舞屋女/FRIENDSHIP【ご来場ありがとうございました】

青春事情

神奈川県立青少年センター(神奈川県)

2015/07/16 (木) ~ 2015/07/19 (日)公演終了

満足度★★★★

Hikawamaru
全くタイプの異なる作品の2作上演だが、扇の要になっているのが、氷川丸である。デートに利用した方々も多いに違いない山下公園に係留されている船だ。横浜デートコースの定番でもある。

ネタバレBOX

 
 さて、最初に上演されるのは、5.15事件を引き起こした皇道派青年将校参謀格であった古賀 清志と横浜の茶舞屋で働いていて清志に救われたマリが、日本の社会変革を夢見て、その方途として日米開戦を画策。具体的には訪日を終えてシアトルへ帰る世界的喜劇俳優チャップリン暗殺計画を氷川丸上で為そうとした物語である。
 これは、実際に計画されたことである。偶々、チャップリンの秘書になっていた高野が、チャップリンから絶大な信用を得ていた為、チャップリンの偉大を充分理解していた高野の機転とチャップリン自身のアーティストとしての優れた特性、また、偶然としか言いようの無い運命のきまぐれからチャップリンは、命を長らえたのである。
 皇道派将校の殆どは貧農出身である。彼らの姉、妹らは、飢饉の起きる度、女衒に連れられ苦界に身を沈めていった。食う物もなく、家の壁を剥いで喰い、土を食んで飢えを凌いだ。だから、堕落しきった上層部、支配層に抗議する時、激昂の余り鼻血を流す者等も居たという資料が残っている。5.15、2.26を経て日本は、太平洋戦争へ突き進んだ。その選択は、後代の我々から見てあからさまな間違いであるにせよ、決して豊かだとは言えなかった大日本帝国で、天皇、皇族、一部の華族、資本家、政治屋、官僚が富と社会的地位を独占し、家事手伝いに雇った女には手をつけ、子を孕めば暇を出すような好き勝手を許せるハズは無い。道理を言えば、特高に引っ張られ、拷問虐殺は日常茶飯であった。
 但し、作中でも言及されているように、古賀はアメリカと開戦したら、勝つ気で居た。即ち、アメリカの実体を知らず、当時のアメリカ経済の規模と大日本帝国のそれとをデータを駆使して調べるということも行っていなかったことは確かである。即ち、皇道派は、その決意の中核に天皇親政を夢見ていたのであり、具体的に国家を運営・管理する為のノウハウを持っていた訳では無かった、ということである。結果的に、後に統制派に敗れることになったのは必然と言わねばなるまい。だからと言って、大日本帝国の統制派が齎した政治が、決して良いもので無かったことは歴史の示す通りである。その意味では統制派と雖も所詮井の中の蛙。村社会日本の本質を脱しては居なかったということである。
ところで戦中、現在の秘密保護法に該当したのが、治安維持法であり、当然、現在と同じ共謀罪も適用された。だが、当時の治安維持法は、現在の秘密保護法より、ゆるいと考えられる。批判してはいけない対象が限られていたから、それ以外は罰される恐れが殆ど無かったと考えられるからである。現在の秘密保護法は、GSOMIA+αであり、何が罰されるのか原理的に明らかにならない。嘘だと思ったら、自分で詳しく調べてみるが良い。とんでもない法の実体が分かるから。
因みに茶舞屋とは、主に外国人船員相手の遊び場、1860年代から1930年代間迄横浜など国際港に設けられていた。無論、セックスの相手にもなるが、ダンスを一緒に踊るなど社交的体裁も整えていた。
さて、今作の話に戻ろう。マリは、チャップリンの宿泊している1等船室の隣の、矢張り1等船室に部屋を取った。彼女は厨房の下働きをしている若者と仲良くなり、チャップリンの食事に古賀から預かった毒を盛る。然し、さしものチャップリンも毎日届けられる海老の天麩羅に飽き、手をつけなかったことで助かる。偶々、下働きの若者が傷ついたカモメの雛を育てていたのだが、この雛が天麩羅を食べて死んだことから毒殺計画が発覚、マリは、高野の尋問に答えなかった為、水責め、兵糧攻めに遭うが口を割らない。結局、高熱を出して倒れてしまった。高野もこれにはケアが必要と判断、ドクターに診察させ、食事も与えた。愈々、明日、シアトルに着くという前日、チャップリンが「マリに遭いたい」との伝言を高野に伝えられたマリが船室に残っていると、高野の配慮で船室に訪れこそしなかったものの、チャップリンが自分の考えを隣室から述べた。この文言に胸を打たれたマリは、チャップリン暗殺を諦め、1人分の毒薬を仕込んだペンダントを胸に最後の晩餐に出掛ける。
ところで、現在、猛威を揮う安倍内閣のスタッフの愚かさもまた、皇道派と同じ過ちを犯しているように見える。日本の右翼というのは、全体何かか・誰かを神聖視し、神格化して決して疑おうとしないことにあるように思う。疑義を呈したりすれば、不敬だの失礼だので排除され、決して批判的検証が内部の者によって行われることが無い為、過ちがあってもそれを改める機会を失してしまうのだ。その結果、とんでもない失敗が外部の力によって明らかにされない限り、自らの失敗を自らの力と知恵で止めることができない。これが、安倍のまた安倍政権のそして日本「エリート」の愚かさの正体である。
2作目は、まるでタイプの異なる作品である。2作の扇の要は氷川丸のみ。今作で氷川丸は、遊星アルカディアと横浜を結ぶスペースシップとして登場する。
かつて地球留学をし、妻子持ちの男と恋に落ちた女、ケイが星間恋愛の破綻の結果自殺を図るが、しっかり者のクルー、サチコに救われる。尤も、この自殺志願者を最初に発見したのは、幸子の後輩クルー、コーエンであった。然し、腰を抜かしてしまいものの役に立たなかったのである。今回ばかりではない。彼は、客にスープを掛ける。先月は客の大事にしていた時計を壊す等々、ドジのデパート、間抜けの笊といったキャラクターなのであるが、どういう訳か他人が放っておかない好かれキャラでもある。サチコは無論のこと、サチコほど仕事はできないが、シシドも先輩として常にコーエンを気に掛けてくれる。コーエンという役名も深読みすれば後援と公演を掛けているのかも知れない。
何れにせよ、彼の数々の失敗にも拘わらず、彼が一所懸命に客にサービスし、寿退社するサチコに心配掛けまいと頑張る姿も、シシドがアナンというコーエンがスープを掛けてしまった客が良い人なのを良いことに、一芝居打って、サチコの前で男を上げさせてやろうとするのも、アナンは偽名で、実は、サチコに会いたい一心でシップに乗り込んだ婚約者であることも、船長がロボットでグーしか出せないという基本情報を漏らしながら、オカマを示す仕草ではパーの形に掌を開くことなども、最後のしっぺ返しへの助走と取れ・・・にゃいよ!! 
まあ、これらの仕組みはばれてしまうのだが、サチコがしみじみ、コーエンのひたぶる失敗にも拘わらず、彼の顧客から下船迄にクレームのついたことは一度もないことを告げ、横浜に到着してからの穴場情報を、客の好みに合わせて地図付きで提供したり、無論、移動の際の時刻表や手段等々細かい所までケアした手描きの資料集を作成して手渡したりと優しい面を強調して自分一人で独り立ちしてやってゆけると餞の言葉を贈ると同時に、今回、コーエンの男を立てる為に打った芝居が、宇宙シップジャックを想起させ、テロか? との大騒動を引き起こしたことで減給処分を受けたシシドの株を下げるというギャグの最後っ屁もつく。
1作目をシリアス作品に、2作目をコメディーにした上演形式は、観客をスムースに日常へ戻す為の配慮と見て良かろう。
チャイルドボイス

チャイルドボイス

『熱きロマンを胸に、生きる勇気と希望を与えるべく突っ走り続ける奴ら。』

シアターサンモール(東京都)

2015/07/15 (水) ~ 2015/07/20 (月)公演終了

満足度★★★★★

仮面と裸形 どっちが人間?
あどけなさと子供達のしっかりとした観察眼に裏打ちされた本音とのWシンクを通して下降弁証法に至り、終には餓鬼の誕生迄、実際に舞台を観ている子供達にもちゃんと分かるように視覚化して表現している点で、先ず評価できる。

ネタバレBOX


 物語は、関東一帯を纏めた伝説の暴走族、関東血みどろ愚連隊の元初代総長、丈一郎が、保育園経営の父が倒れた為、40歳代になって初めて臨時園長代理として赴任したことから始まる。赴任早々、丈一郎には、普通の大人には聞こえない、子供達の本音の声が聞こえた。敏感な子供達は、彼が自分達の本音を聞き取れる事を直ぐに悟る。だからと言って、子供達の態度がそのことを梃子に変わるという程、彼らのエネルギーは柔なものではない。同時に丈一郎も子供達も本質的に敵対している訳ではない。優しさの根競べをしていると言った方が寧ろ近いのである。丈一郎に子供達の本音が聞こえるのは、無論、彼が、バイアスを掛けないものの見方が出来るからである。元々、質の良い不良というのは、ペーパーテストの成績だけが良く、人間味もなければ、感受性にも乏しい人間失格秀才等には及びもつかない鋭敏な感性と大人や自分より力のある者達を観察して遣り込めることのできる観察力と理論構築力を具えているものである。無論、教師と馬が合いさえすれば、成績だってトップクラスには直ぐなる。教育ママとやらいう怪物に飼いならされた愚物とは大本から違うのである。
 丈一郎は、世間的には不良で、それも関東一円の問題児の総大将であるから中味の無い気取った阿保な大人からは顰蹙を買う。然し、幼稚園ではなく保育園に通う、家庭的に複雑で社会的問題を抱えていることの多い子供達は、表向き、所謂良い子であることが多いのだ。彼らが抱えている深刻な問題に気付かない、感受性の鈍いというより麻痺したボンクラばかりが蔓延る社会が常態化している現在の日本では、丈一郎や、保育園児のような正常な人間が却ってつまはじきに遭うのである。結果、複雑な社会の犠牲となって子供達を虐待するに至る親や社会に対して、丈一郎と子供達が、狎れ合い押し流されてゆくセンチな世界をこの劇団は描いていない。あくまで真摯に己をぶつけ合い、互いに傷つけ合い乍らも、理解を深め、庇うべきは庇える側がそれを担い、のたうつ者は、思い切りぶつかってゆく。その嘘のないぶつかり合いにこそ、人の温かさ優しさがあるのであり、この劇団は、そのことを表現している。丈一郎役の夢麻呂さんは、舞台を下りると意外と小さい。だが、演じている時の貫目といったら、伝説の暴走族リーダー、丈一郎そのものである。良い役者だ。園児役では、ひまわり組でいつも折り紙を折ってばかりいる根本スズ役の福田 らんさんが良い演技をしている。感受性の鋭い、どちらかというと内向的な女優さんである分、今後とも芸域の拡大が見込めそうだ。
ハイリスクHighSchool 改訂版

ハイリスクHighSchool 改訂版

東京アンテナコンテナ

吉祥寺シアター(東京都)

2015/07/15 (水) ~ 2015/07/19 (日)公演終了

満足度★★★★

若手もベテランも 良い感じ
次代のこの国を背負って立つ若者達に活力を与えようと文科省も絡んでプロジェクトが決行された。

ネタバレBOX

無論、最初はモデル校を選定にそこに、地域からランダムに選ばれた活性化因子を送り込んで様子を観るのである。選ばれたのは都立赤山高校2年B組。活性化因子は、何とオジサン3人。一人は八百屋、一人はタクシードライバー、そしてドン尻に控えるは、ゲイバーで働くオカマである。
 当然のことながら、高校生はドン引き! 然しオッサン達はめげない。期待されたコミュニュケーション能力を活かし、徐々に生徒達を取り込んでゆく。きっかけになったのは、長期欠席を繰り返していた女子とオカマが話すようになったことと、八百屋が実は東大出であることが知れたことであった。
 文科省の偉いサンは、このプロジェクトに否定的だ。で、官僚らしくイギタない手を使ってくるが、どっこいそうは問屋がおろさない、というオチが最後にはついてくる。
紫陽花の夢

紫陽花の夢

劇団水中ランナー

ウエストエンドスタジオ(東京都)

2015/07/15 (水) ~ 2015/07/20 (月)公演終了

満足度★★★★★

母は有り難いもの
 障害児を抱えた家系同士が、その子の面倒をみる施設を通して近付き、互いの関係を紡いでゆく物語。舞台は、両家共に、其々の家族をこの1~2年の内に亡くし、而も子を失った母は、その子の死を時々認識できないアルツハイマーを発症している。(追記後送)
 

僕の中にある静けさに降る、騒がしくて眩しくて赤くて紅い雪

僕の中にある静けさに降る、騒がしくて眩しくて赤くて紅い雪

天幕旅団

【閉館】SPACE 雑遊(東京都)

2015/07/09 (木) ~ 2015/07/13 (月)公演終了

満足度★★★★

モノクロ版を拝見
 童話白雪姫をベースにした作品。

ネタバレBOX


 童話の持つ本来の残虐性を継承して残酷童話劇として成立している点が良い。照明、音響とのコラボレーションもぴたりと嵌って見事だ。また、白雪を世話する7人の小人が実は多重人格(解離性同一性)障害者という解釈で造型されている点、彼が隠者として森の奥に隠れ住んでいる点も現代の闇を孕み込んで示唆的である。
 また、オープニングで合わせ鏡に時計を入れる(挟み込む)という科白が出てくる点にも注意を喚起したい。当然のことながら、この科白の背景には、西洋で謂われる言い伝えがあると考えねばなるまい。曰く、合わせ鏡をしてはならない。何故なら、悪魔が現れるからである。この悪魔を“知”或いは、人知を越えた能力と捉えるならば、白雪を助けた解離性同一性障害者の少年は、四次元能力、即ち時を止める能力を持ったキャラクターとして登場していることに気付くだろう。
 同時に、彼が重い精神障害に囚われていること自体に、現代社会の病弊が暗示されていることにも気付くハズである。では、彼は何故、このような障害を負ったのかについては述べられないものの、其処は、観客の想像力で補って欲しい。何れにせよ、彼もまた社会の暴力的性質の被害者であることは間違いあるまい。
 一方、これは無論、物語である。だから、物語を語る主体は、今作に於いて誰なのか? という問題も当然提起されてくるだろう。先ず、この物語の全体を知り得る存在は誰か? である。物語は、総て森の奥で起こる。女王即ち白雪の継母の王宮での鏡への問いを除いて。而も、鏡によって総てを見られていることは、森に居る少年と白雪によって発見され、鏡を砕くという行為によって監視を逃れるのであるから、これらの経緯総てを知り、且つ生き残った者が、今作を語る主体として顕現する。繰り返しになるが、然しこれは物語である。少年が「時を止めた」と言って王子や白雪を殺した所で、それは、あくまで少年の幻想空間の中の出来事なのである。彼を殺人者として捉えた通常の人々の間では、最早、彼の幻想は通用しないのだ。この点にこの物語の最後の残虐性が在る。この仕掛け人こそ、作品の背後に居る作家な訳だが。作家は物語の幻想性から日常へ舵を切ることによって、観客を舞台空間から日常空間へ戻してもいるのである。
わからないものの中で

わからないものの中で

明治大学演劇研究部

アートスタジオ(明治大学猿楽町第2校舎1F) (東京都)

2015/07/10 (金) ~ 2015/07/12 (日)公演終了

満足度★★★★

何故分からなくなったんだろう?
一度壊れた人間関係を再生する物語。

ネタバレBOX

 舞台には、3か所のセットが組まれている。下手には、バーPerdre上手奥には、高校の職員室、そしてその手前、客席側にコンビニ店内。この3か所を照明を当てるか否かでチェンジする。シンプルだが、無駄な場転の暗転等を省いて頗る効果的である。舞台美術も見事である。因みにPerdreの意味には、劇中で説明されているように“道に迷わせる”という意味もあるが、通常第一義的な意味としては“失う”である。何れにせよ、現在、アメリカの完全な植民地として機能しているこのエリアで大衆受けする作品が描くように、夢を真っ直ぐ追いかけたり、予め壊れていない人間関係を前提に話し始めたら、それだけで白けてしまうのは当然だろう。
その点、今作のシナリオは、予め壊れた人間関係を起点にしている点で合点がゆく。実際、我々が生きるこの地で家族関係等疾うの昔に崩壊していると言える。その例を挙げるなら、単身赴任で父親不在の家庭に於ける母子の異常接近と男子の精神的発達が父親との争闘を欠く為に歪んでいる実態がある。父親が単身赴任していない場合でも仕事に追いまくられて妻子と共に過ごす時間が欧米社会に比べてすら極端に少ない社畜社会に、まともな人間関係が成立し得たらそれこそ気狂い沙汰である。
にも拘らず、この植民地で語られてきたのは、そのような現実の家族の在り様とは正反対の、少なくとも都会では在り得ないような嘘である。こう言って悪ければ幻想と言い換えても良いが。その結果が、現実を見据え、悪い点をキチンと抉り出して対処法を講じることではなく、埒も無い逃避のエクスキューズを散々繰り返すことで自らを欺き、終には修正の効かないレベルに迄状態を悪化させ、対処のしようも無く滅びを待つだけというこの植民地の愚策に繋がるのだ。電車の中で学生の会話を聞いて見るが良い。同世代の海外の学生に比べて如何に幼いか。比較にならない程である。
だが、こんなに情けない状態も、深読みすれば、アメリカの実質植民地であるという実態を畜人に知らせず、管理を容易にする為に、アメリカと畜人の間に立つ、官僚・政治屋が仕組んでいることかも知れない。気をつけるべし!
自由を我らに

自由を我らに

カプセル兵団

シアターグリーン BIG TREE THEATER(東京都)

2015/07/07 (火) ~ 2015/07/12 (日)公演終了

満足度★★★★

憲法を身近に
 GHQが、現在の日本国憲法の草案を作った時の話という設定だ。日本語として、果たしてこの草案が適当な物か否かを判断する為に、政府のチームは、日本語に造詣が深いと思われる人々を緊急に招集した。広告の文案を練る者、文壇小説家、流行作家、推理作家、劇作家、詩・歌人、随筆家、新聞記者らである。(追記後送)

15 Minutes Made Volume12

15 Minutes Made Volume12

Mrs.fictions

王子小劇場(東京都)

2015/07/08 (水) ~ 2015/07/14 (火)公演終了

満足度★★★★

6団体
 各団体が持ち時間内で短編1作品を上演するオムニバス形式の舞台。(追記後送)

ネタバレBOX

Mrs.fictions「ミセスフィクションズの祭りの準備」
苛める者、苛められる者のヒエラルキーをピラミッド構造で表し、登場人物2人がこの関係にあり、且つ、此処で苛め役をしている者は、一つ上の階層では、最下位の苛められる者であることを示しつつ、追い詰められた者の陥る“暴発”を描く。特徴的なのは、暴発を通り過ぎた一瞬に見せる追い詰められた者の態度に恰も他人事のような雰囲気が感じられる点で、このことで逆に、当事者の傷の深さが感じられる。
20歳の国
「消えないで、ミラーボール」
 高校サッカー部マネージャーと部員達との解逅。思春期のセンチメンタルジャーニーといった趣の作品だ。ジャーマネは、引退試合に8-0でぼろ負けしたサッカー部紅一点の女子部員。男の子達の矢張り、憧れではある。名を“あさみ”という。引退試合後、皆と会えなくなると泣くあさみに対して、その後、付き合う者、別れ、傷ついたあさみを慰める者、告ろうとして、はにかみ果たせぬ者、「皆を集めて」と願うあさみに酷い言葉を投げつけた者などが婚礼披露宴に招かれ、友人として芸を披露する。
MU
「HNG」
 H NG。つまり、Hは駄目よ!!とタイトルを解説すべきなのか? なわきゃあるまい! ってのが、テーマの作品。だって、Hしなきゃ大人という感じにならないだろうし、ガキも出来にゃ~。でも、世の中には、正義だか何だかを振り回して色々やりたがる手合が多い。で、このエリアでは、他人の前でHをする連中を取り締まる自警団を結成した。成績の最も良いのが悠、鼻が利くのは、幼い頃、両親が、ベランダや子供の目の届く所で頭の二つある怪獣になっている所を何度も見てトラウマになっているからのようだ。因みにシェイクスピアではないが、ガキの頃、そんな物一人で見たら、そして回りにそのような経験を持つガキが居なけりゃ、そりゃトラウマになるだろうよ。
 いずれにせよ、スペルマを掛けまくる変態や、見られることで興奮するカップルの現場へ出掛け、その模様をネット上で実況・公開する矢張り変態観察者、無論、人目のある場所でHしたがる変態カップル等々、歪なキャラが多数登場する。落ちは想像に任せるが、楽しめる作品だ。
第27班
「夏の灯り」
The end of companyジエン社
「私たちの考えた墓に入る日の前日のこと」
シンクロ少女
「性的人間あるいは(靴がもたらす予期せぬ奇跡)」
25528+

25528+

はちみつシアター

テアトルBONBON(東京都)

2015/07/08 (水) ~ 2015/07/12 (日)公演終了

満足度★★★★

素敵!
 はちみつシアターの魅力は、政治、経済、軍事、哲学など「難しいことはわかんな~=~~い!」という前提を組んで、その前提の下に、蟻地獄に嵌り込んで足掻く人々の、それでも一所懸命に、しなやかに生きたいと願う心を描く点にあろう。

ネタバレBOX


 今作も、女性+1で、その魅力を、ダンス、パフォーマンス、舞台衣装の変化などでふんだんに振り撒きながら、大筋の物語は物語でしっかり成立しているのは勿論のこと、これら、ダンス・パフォーマンス・衣装替えや歌謡ショー総てが、キチンと物語の必然性に収まる。(因みに最近、若い人達の舞台で良く見掛ける、物語の内容と関係ないダンスやパフォーマンスと違って、これらの芸事で自分達の運命が決まる、という劇的本質を表出している点で、はちみつシアターの芸事は必然なのである)
 また、「笑っていたい」という科白が何度も登場するのだが、このキーワードこそ、普通にこの植民地で暮らす人々が願う幸せの形なのではないか? 唯、嘘ばかり並べ、空疎な言い訳しかできない無能で、こすからいだけの首相と名乗るウツケ。その「権力」を恐れたふりをして、媚びを売り、「国民」を蟻地獄に叩き落として知るべき恥の感覚すら持たない下司共、そんな為政者しかいないこの植民地で、人々が切に願う幸福の形を。

恋 其之参

恋 其之参

テラ・アーツ・ファクトリー

パフォーミングギャラリー&カフェ『絵空箱』(東京都)

2015/07/08 (水) ~ 2015/07/12 (日)公演終了

満足度★★★★

詩人 岸田 理生
 詩人という特異な種族に対する普通の人々の圧力・圧迫に対して特異な者が追い詰められた果てに最後っ屁する物語。

ネタバレBOX


 因みに最後の方に洲崎の娼婦街(現在の東陽町辺り)が出、ダンサーが足を天井に向け、肩、後頭部を床につけ肘を曲げてアングルを作って身体を支え、痙攣するような表現をするのは、無論、男女の営みでの女性を表していよう。と同時に、飢饉の度、女衒に売られ苦界に身を落とした女性の多くを占める貧農の娘達の、言葉にならない煩悶、苦悩、怨恨、忍び泣き等をも表していよう。
 物語は、この洲崎跡地に建てられた団地での少女強姦事件に纏わるからである。団地妻達の淫靡で執拗で陰湿な会話は、彼女達の欲求不満の捌け口であり、隠微な慰めである。
 これに対してレイプされた少女は、人身御供そのものである。背景には1582年から98年に亘って行われた秀吉の所謂太閤検地及び1588年の刀狩りによって自らを守る武器を奪われ、人別帳をハッキリさせられた上、一揆をおこすこと自体の困難を民衆サイドが負った歴史があり、更に江戸時代、朱子学の徹底によって、お上優位のイデオロギーによって洗脳され、五人組制度によって連帯責任を負わされた武器を持たず、檀家制度によって人別帳を民衆管理の道具として牛耳られた村社会に暮らす大衆に落ちぶれた人民は、道理を以てお上の非を糺す道を閉ざされ、互いにスパイ行為である相互監視を強めた。無論、大衆支配の方法として優れたこの方法は、明治・大正・昭和・平成の今に至るまで脈々と生き続けている。こんなベラボウな支配の方法が未だに生き続けているのは、無論、日本に暮らす大衆が愚衆でしかない証拠であり、この植民地で頻繁に問題化される苛め、排斥・排除、無視、蔑視、差別、集団による一個人への噂話の形を採った悪口等々、陰湿、淫靡、凄惨を極める愚衆達個々人の内面の塵捨て行為である。
 アメリカの植民地であるこのエリアでは、お上もまた奴隷根性を発揮し続けている。戦前、現人神として据えられた天皇・裕仁に跪拝することでその命脈を保って来た、官僚・政治屋という下司集団は、天皇の権力が失われたとみるや、跪拝の対象をアメリカに転じた。本質は下司のままである。
 このようなお上も含めた下司にとって、自らの存在をその最も深い所から照らし出すのが、詩人という種族なのである。そして、詩人の社会的位置は、今作ではレイプされた少女に重なる。否、岸田 理生は重ねたのだ。その真っ直ぐな視点によって。而も、彼女は、詩人のアイデンティファイを作品中で達成している。自死に追い込まれた、ケニア単身赴任の夫を持つ主婦が、詩人をそう在らしめているのである。つまり、彼女は内気で、下司共の会話には入ってゆけないというキャラクターとして設定されているが、その内的な精神性と排除される人生によって、この村社会の外部者として、詩人を見出す目を持ち、詩的感性を享受し得る存在として詩人をアイデンティファイしているのだ。
 だから、作中、詩人として機能する少女は、彼女の死の責任を、彼女を追い詰めた自死に追いやった者供に果たすのである。

 ところで、詩人は風になった。諸君の直ぐ傍らを吹き抜けるかも知れないぞ!
「月暈とメスシリンダ」(公演終了 ご来場ありがとうございました)

「月暈とメスシリンダ」(公演終了 ご来場ありがとうございました)

Sky Theater PROJECT

小劇場B1(東京都)

2015/07/07 (火) ~ 2015/07/14 (火)公演終了

満足度★★★

アンチテアートル?
劇的でないものを描いた、極私的な作品。

ネタバレBOX

描かれるのは、実際、どこにでも転がっている日常だ。ツグオは、12年ぶりの帰郷である。単に仕事が面白くなくなった。3人でやっていた仕事を1人でやらされたりのハードワークも好い加減嫌になったので、母の具合が良く無いのを逃げ口上に帰って来ただけである。
 ところで、実家は、駄菓子問屋で、元カノのみゆきはツグオの親族の経営するこの会社で働いており、遠距離恋愛がぽしゃったことを愚図愚図根に持っている。ツグオ不在の間に無論様々な変化があった。社長だった父は亡くなり、現在は叔母が社長だ。みゆきは、バリバリの有能社員ではある。他に橘という女子社員が居て、中々優秀なのだが、彼女には不思議は特技がある。他人が生涯、どのくらいの酒を飲むか、とか容器に入った液体の量が何ccあるかなどを正確に言い当てるのである。母の病気を見付けたのも彼女であった。酒好きの母が、今後どれだけの酒を飲むかを透視した所、酒好きの彼女が今後飲む量が異常に少なかった為、受診を勧め、その結果、母の体調が悪いことが判明したのだった。
 演劇的な設定は、橘の特殊能力くらいで、後は、ホントにありそうな話がだらだら続く。
青色文庫 -其弐、文月の祈り-

青色文庫 -其弐、文月の祈り-

青☆組

ゆうど(東京都)

2015/07/07 (火) ~ 2015/07/12 (日)公演終了

満足度★★★★★

Aを拝見
目白にある古民家を利用したギャラリーでの公演。門構えにも風情があり、門を入るとアプローチの傍は庭、トクサ等も植えてある。奥ゆかしさが偲ばれよう。手入れが行き届きすぎていないのも良い。上がり框で履物を脱ぐと正面が受付。楚々たる美女が、対応してくれる。

ネタバレBOX

 左へ進むと蚕農家のような高い天井には明かり採りの窓が設えられ詩的なイマージュを喚起する、板の間である。更にその奥が畳の敷かれた六畳間。上手、奥には凹みが作ってあるので、部屋を使う者のイマジネーション次第で如何様にも変化させることのできる自由空間である。尤も、上手中ほどの自由空間には、蛇口が取り付けてあり、水の神様と言われるツチノコのような形をした木像が鉄の舌を出している。他に、埴輪で表現された馬のような形のオブジェ、書籍の入ったエリア等々。
 奥のフリースペースには、今回、硝子の器に入った蝋燭に火が灯され、風が吹けば揺れそうな、か細く極めて脆弱な守りの壁にもガードされて、命の火が燃えているようにもとれる。
 作品は二点。小川 未明の「野薔薇」と太宰 治の「十二月八日」である。無論、二編とも戦争に纏わる作品だ。だからといって、自分のように、蝋燭の炎を命と読むことは強制されない。
 何れの作品も最初と最後に風鈴の音が聞こえる。脚本レベルで、未明の作品には殆ど手は加えられていない。太宰の方は、ある程度、手を加え、アレンジされているが。
 演者たちの巧みな朗読とゆったりした時間を存分に楽しむことができる。
役者陣の朗読レベルの高さ、シナリオの的確と雰囲気を作る巧み、また、椅子の用い方、役者のオンオフが横向きに座る、正面を向くという単純で明快な所作によって表現されている点でも、暗転を少なくし、緊張を程良く継続する手法として作品内容ともあった手際の良さと同時に品を感じさせるものであった。
KM

KM

7度

シアター・バビロンの流れのほとりにて(東京都)

2015/07/03 (金) ~ 2015/07/05 (日)公演終了

満足度★★★★


フランツ・カフカの「万里の長城が築かれたとき」と安戸 悠太が「KM」の為に書き下ろしたテキストが用いられる。出演は、カフカ作品を担当する女1人。安戸作品を担当する男、女各1人の計3人。

ネタバレBOX


 意味が未だ辛うじて成立していたと考えられる20世紀初頭カフカの作品では、万里の長城やバベルの塔などの巨大な建築物の創造に於ける方法論とその妥当性*(非妥当性)、パースペクティブ*(瓦解)が描かれるのに対し、安戸作品では、現代世界最強の軍事力に支えられた国の植民地として機能する私人というレベルに矮小化された、私人同士の殆ど無意味に還元せざるを得ない殺人という営為が対置される。
因みにF.カフカの生きた世界も現代世界最強の軍事力を誇る国にも、其処で暮らす個々人の魂を内側から見透かす神の目があり、そのことが神という絶対に対する人としての彼らのprincipleを根拠づけているのに対し、植民地の私人たちの規範は相互監視だけであるから、己の魂の底の底迄見透かされるような厳しいものではない。従って、誤魔化しの生じる余地が在り、絶対を根拠律とするprincipleは成立しえない。この人達にとって総ては流れてゆくものなのである。己の死さえも。
今作は、このような根拠律の差を、どちらの世界にも共通する項である“無”の意味する所を考察することによって呈示している。どういうことかと言うと、神を発明したのは、無論、人間なのだ。では、何故、人間は神を発明せざるを得なかったのか? 宇宙という広大無辺な、認識の届かない世界に意識存在として存在することの恐怖に耐えかねてである。即ち、無は総ての創造の故郷である。では、通常“無”と呼ばれる「もの」はホントに何も無いのか? 我々は“無”を前にすると、あらゆることを考える。否、考える他無いのである。今作の作家は、遊びを考えた。Kを上下で分割した後上部を時計回りに180度回転するとMになる、だとか、何度も繰り返されるひらがなの“く”と数学の記号~より大、<という読み変え等である。当然のことながら、カフカの頭文字Kと作品タイトルに含まれるMとの間にある“無”を媒介として遊び、KとMを関連づけているのである。この遊びを想像力の遊びと呼び変えることも可能だろうし、無を媒介とする創造の器と考えても良かろう。その縁を画定することは容易ではないが。
 因みに音遊びでKとMを考えると、Kはカフカの頭文字、神をローマ字表記した時の最初のアルファベットであるのに対し、Mは無のローマ字表記最初の音、物語の最初の音でもあろう。
 ところでこのような作業を通じて“無”の本質的属性は、創造性の最も自由な源泉であるというテーゼが逆説的に成立するのではないか? 銃で頭を撃ち抜かれた女の頭部からは、紐のような物が引き出されるが、この作業もイマジネーションによって引き出される創造を意味し、臨界点迄引き延ばされて切れることによって、それが製品化されるなど、現実に役立つ物になっていることを象徴しているとも取れる。何れにせよ作・演出・演技は、観客の想像力を問い掛ける事に今作の眼目を置いていることは確かだろう。
*はバベルの塔に関する評価

『鱈。』の(に)

『鱈。』の(に)

Hula-Hooper

渋谷gee-ge.(東京都)

2015/05/22 (金) ~ 2015/05/23 (土)公演終了

満足度★★★★★

鳥取上演も?
 初見のグループだが、当たり!! おもろかわゆい!! 
何でも鳥取でFESをやりたいそうだ。

ネタバレBOX


リーフレットによると石立 鉄男を尊敬し阿久 悠先生を愛し「大人が本気出して作る学芸会」を目指す。ということだ。名前を「鱈。」と言う。が、発音はタラ? それともタラ マル? 後者だとしたら、タラとマルの間に半呼吸位の間が入るのか入らないのか等々、様々な疑問が湧く。これだけでも面白い。また、鱈は~しタラに通じ、歴史上事実だとされていることを対象化する為にも用いることができる。それとも、鬼婆の「馬喰い干鱈喰い腹太太(ふとふと)や」に通じるのだろうか? この辺りの謎も興味深い。
 作品は、崩しミュージカルといった体。無論、ストーリーはあって物語のプロトタイプを踏襲するような内容だが、それは、大人が本気出して作る学芸会というコンセプトのグループだから、問題あるまい。演奏は生と再生の併用だが、演奏チームは歌唱も含めてキチンとプロの音を出してくる。音楽には結構煩い自分にもすんなり聴けるレベルの高いものである。
 人魚達は、皆、ケンケン王の息女なのだが、人魚なので、当然海で暮らしている。だが、その泳ぎの形態模写が体を波のように動かす仕草で表されている点、両足部分は魚の形で一体化しているから、足はピッタリ揃えて動いてゆく。この動きが何とも新鮮である。臍出しルックなので、お臍が可愛い。雷が、臍を狙う訳である。下らない冗談はさておき、使われている楽器もユニーク、携帯用木魚(こんなもの初めて見た!)名前は分からないが、凹凸のある板をU字近いV字に曲げて叩く顫動音を楽しむ楽器だとか、小型シンバルや密教の祈りに用いる仏具等々。楽器も楽しい。ありきたりの楽器、リコーダーはわざと外す人が一人居たりして笑いを誘うし、ホンマおもろいねん。こんだけおもろい仕掛けをしておきながら、舞台袖に当たる場所迄来て暗転する迄キチンと演技をしているし、遊びと真面目の境界領域が実に波に反射して揺らめく光のようで巧みである。
 途中、10分の休憩があったのだが、この休憩時間中に舞台美術も海中の景色から海岸、即ち陸に変わっているし、どこかポップな美術センスも作品内容にマッチしているので浮かず、さりげない所が凄い。
 一人だけ♂の人魚が登場するのだが、彼のはおるベストには、何匹も蟹が貼り付いているのである。無論、鳥取名物の松葉ガニをアピールしていると見るべきだろう。松葉ガニと形は違うのだが(これも愛嬌だ)。
Full Of Liars!

Full Of Liars!

劇団ICHIGEKI☆必殺

シアターブラッツ(東京都)

2015/07/02 (木) ~ 2015/07/05 (日)公演終了

満足度★★★

スッキリしたい人には消化不良か?
 可也ぺダンチックな作りと観た。

ネタバレBOX

即ち作品構成の根幹迄疑わせることになるような方法で、例えば、狙いが総て嘘である場合、その嘘を嘘として成立させ得る何かについては曖昧化しかしていないように取れるからだ。こうとればタイトル通りということになる。
 話は、悪魔が棲みつく、という噂のある小さな島で起こる殺人事件なのだが、黒ミサが行われていて、その実行犯を探す推理ではなく、狂言回しのような役割で登場する者が、実は何か? を推理する物語なのである。結局、解答は示されないままなのだが。
 自分の解釈では、Luciferだが、作者が何を思って書いたかは謎である。或いは人を誘って止まぬ、好奇心を駆り立てる“無”という解釈も可能だろう。
「DOJOJI -道成寺-」

「DOJOJI -道成寺-」

劇団アニマル王子

ひつじ座(東京都)

2015/07/01 (水) ~ 2015/07/05 (日)公演終了

満足度★★★

紅版拝見
原作は有名な物語だから内容はくどくど書かにゃい

ネタバレBOX

 役者も演出も勘違いをしているのではないか? ひつじ座位のキャパで何も声を張り上げる必要などさらさらない。寧ろ、聞き取れるか聞き取れないか位の声を出して観客を引きずりこんだ方が効果的なのである。
 それを序盤、不必要に声を張り上げるものだから白けてしまうのだ。もともと、さして教養の無い者さえ安珍・清姫の名くらいは知っているほど、人口に膾炙した物語である。その散々、演じられ、工夫されて来た作品に新たに独自の視点で切り込むことは頗るつきに困難だが、輪廻転生をベースに因縁物として時空を越えるありきたりな作りをするようだから、こういう基本的間違いを犯す。役者は、発する力と共に、自らを消す(殺す)力も持たなければならない。これを柔軟に使い分けてこそ、対比もできるのだ。
 更に、序盤のダンスは必然性が全然感じられない。何故、こういう使い方をするのか? 踊りなりダンスなりは、話の内容と絡み合って初めて意味を持つものだろう。意味を無化するつもりであれば、そのように異化して用いるべきではないか?
 破・急では、白拍子が舞うシーンから後、宴の席や雅を表すのに踊りは、内容と溶け合った必然性のあるものになったが。
 感心したのは、清姫の変身に使われる面が、半分に裂けた般若面である点だ。彼女の引き裂かれた苦悩を表しているようで、良い使い方である。

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