満足度★★★★
身体による言語(花四つ星)惜しむらくは哲学的にちと浅いか
素舞台で縦横無尽に駆け巡る演者たちの身体を用いた「言語」表現が素晴らしい。兎に角、敵国へ入国する隠密行動の背景まで役者陣が作るのだが、鍛え抜かれ考え抜かれたその表現は名画のワンシーンのような美しさを醸し出して絶賛に値する。
ネタバレBOX
忍びの一団が中心になった作品なので、殺陣のシーンも多いのだが、これも見事である。実際、この劇団以上の殺陣を演じることができる劇団は、今までの所他に観たことがない。シアターXの舞台はかなり広いので、何の造作もない空間を演技する身体だけで埋めるのはかなりキツイ。だが、この劇団には、この何もない広がりこそ必要であったというのがよく分かる。(追記後送)
満足度★★★
草莽 今政治屋にこれを望むのは絶望的
薩摩の西郷や下級貴族から成り上がった岩倉具視らの支援を受けて結成された赤報隊は、薩摩藩邸の浪士隊で人望厚かった相良 総三を総裁とした組織で新政府の許可を得て、東山道軍先方として、年貢半減などを各地で喧伝、各地で民衆からの支持を得た。
ネタバレBOX
然し新政府は、年貢半減は無謀と判断を覆し、彼らを裏切ったうえ、偽官軍の汚名を着せ、偽官軍の烙印を各地で触れ回った。隊は一番隊から三番隊までの三隊。今作では相良を一番隊隊長として描く。彼らの目論見では信濃の中山道と甲州街道の分岐点にあたる碓氷峠を占拠することによって、北陸雄藩と江戸を遮断することが主眼点であった。軍略的に極めて合理的な判断だろう。相良の智将としての側面を窺わせる。だが、西郷・岩倉らの裏切りは、赤報隊を追い詰めてゆく。この後史実とは異なる展開になるが、そこは伏せておこう。
シナリオは、中盤以降締まったものになるが、前半は、だらだらした内容で大幅にカットして良かろう。そうすれば尺も短くなりもっと締まった舞台展開になる。また、殺陣を十全に演じる為には、この小屋は小さい。予算の関係もあろうし、殺陣そのものがまだまだであるから更に上を目指して精進して欲しい。ただ、草莽に思いを馳せた志は買いたい。
満足度★★★★★
痴的? いや 知的!
8本の短編を連ねた90分程の短編集。タイトルつけ方からして中々捻りが効いている。無論、病ダレを想像する人が多かろうとの推理の上に成り立っているタイトルなのであるが、洒脱でイマジネイションに富んだ作家は、その持ち味を活かし各エピソードを実に有機的且つ批判的、そしてユーモラスに描き上げている。役者陣の演技も制作の人々の観客対応も実によい。無論、作品内容も知的で社会的、ちゃんと揶揄や毒も盛り込んである。いくらでも深読みできる内容なだけに、本質が捉えられていなければ作品がぶれてしまうが、今作に関わっている演劇人にその心配は無さそうだ。面白く、鋭く、同時に適確な距離を描かれる対象に対して持った作品である。
満足度★★
ニャロメ!
ローマ法王とロシア正教総主教が歴史的会談を遂げたばかりだが、西方教会のカソリックで主に言われる7つの大罪(高慢、物欲、妬み、憤怒、貪食、色欲、怠惰)の話が出てくるかと思えば、馬鹿ずきんちゃんが馬鹿であることは果たして罪であるか否か?
ネタバレBOX
がある種の宗教裁判(道徳裁判)に掛けられる。登場人物たちのうちで、それぞれの大罪を具体化する役割が振られたりしているのに、本来ならメインストリームとなるそれらの関係や寓意が、何ら関係のないギャグや下らないオチでめちゃめちゃにされる為、演劇効果はまるでない。かといってそれをキチンと狙っているというより、無理やり時間を引き延ばしてアドリブで流してみたりする。オープニングこそ、満席の客席の間を態々10名近い役者が横切って、鐘や太鼓、笛にタンバリン、蛇皮線にギター等々を奏でながら登場する。上手い人もそうでない人も交じっているので、演劇発祥の要素であるカーニバルの怪しさのような雰囲気が出て、これは! と期待したのだが、その後が悪い。神様役が、魂の生まれ変わりに対して次の役を振ってゆくのだが、これが事務的な為、直ぐ飽きてしまう。こんなことを長いこと演るものだから興が覚めてしまうのだ。この後は推して知るべし。演劇という意味では評価1にも値しない。だが、馬鹿に対する意気を買って星は2つ。
満足度★★★
科学と演劇
タイムマシン開発に纏わる発明のコアデータ開発者と研究所長の確執に、利害に敏い政治屋が絡み、その間に立って暗躍する弁護士2人と盗みのプロが絡まり合ってストーリーが展開する。而もタイムマシンがこの事情に更にタイムパラドクスを仕掛けてくるから、状況設定としては充分面白くなる題材を揃えた。揃えすぎかも知れぬ。わかったふりをする人々には、タイムパラドクスをどのように解決するかで作品評価が分かれる作品であろう。
ネタバレBOX
落とし所をどのように作るかだが、演劇作品に於いて肝要なことは、矢張り観客のパトスに訴えることであろう。その点で若干弱いように思う。今の大学院がどうか詳らかには知らないが、自分の友人の多くが大学院の修士、博士課程に在籍していた頃、弟子の研究成果を指導教授が横取りして発表することは日常茶飯であった。無論、そうでない立派な教授も居らしたがマイノリティーであった。現実に現在でもポスドクの自殺率は異常に高い。その原因は、少子化を見越して多くの大学が大学存続と自らの生活安定の為に、学生をなるべく長く大学に残しておく為の戦略を立て、実践したことにもあるだろう。結果、世間的実体験に乏しく、プライドと学歴が高い、企業にとって使いにくい人材が多数生まれた。企業は、儲けの為にのみ行動することが本質である。これらの要素が結実する所にポスドクの仕事場は無かった。無論、出来の良い秀才たちであるから彼らの周囲の期待も高い。板挟みにもなって、居直るだけの世間知も無い人々は自死に追い込まれる事実があるのである。哀れなのは、精神的に自立する強さも持たない彼ら彼女らが、大人の判定を受けていることである。今作には、このような研究弱者の恨みは反映されていなかったように思う。そこをもっと強烈に描いて欲しかった。それがあれば、リベンジは、観客に更に強く訴え掛けたであろう。これが、タイムパラドクスをどのように処理するのかと同じくらい大きな演劇的要素だと考える。
満足度★★★★★
明暗天が多いのが気になるが 心撃つ作品
シナリオ、演技共に良い。明暗天の多いことも場転の必要、心理の切り替え(殊に観客の)に関係がある為、自分が演出をしたらより良い演出ができるか? と問われて即座に答えは出せない。
ネタバレBOX
肉体的に持続力などは兎も角、爆発力は♂の方が、♀より圧倒的に強いのが、ヒトの♂♀ではないか。その肉体的特性を利用して、♂が♀を暴力的に支配するというのが、生きることに困難を感じている女性の抱える現実ではないだろうか? 自分は決して理想的な状況に育った訳ではないので、様々な人々と付き合ってきた。その中に、今作に描かれたような人々に近い人、年少出、廃人、薬中、人の形をした唾棄すべき下司がいることも良く知っている。
ところで、刃物で他人を刺し、食らい込むのはトウシローである。ホントに人を刺すのが楽しくて仕様が無い連中がいる。そういう連中は決して殺さない。死なずにすむ箇所を自分の快感に即して刺す。彼らがその時に感じるエクスタシーは素人が知るべき問題ではないから記さない。だが、こういう悪党でない主人公の悩み、苦しみは全うだと信じることが自分にはできる。レッテル貼りを得意とし、噂話をすることで、自分達の悍ましい欺瞞を隠蔽する下司共無論、信じないが。この意味で、良くここまで想像力を働かせて書いたシナリオだと思う。同時に役者陣の演技が素晴らしかった。主役のみならず、脇を支える役者達の演技も主役のそれを過不足なく盛り立てる見事なものであった。因みに、今作のこうちゃん、ゆきのやりとりが最上のものであるとは自分も考えないが、大切なことは言葉の向こう迄通るこうちゃんのゆきに対する念であり、その念が痛いほど分かるゆきの穢れない心。否、魂の純粋なのである。この二人を通して魂の最も純粋な形が描かれている。このことが、観客の心を撃つのである。ラストは、イマジネーション豊かな人には想像できるだろうが、初日が終わったばかりだから、これから観る人おおかたの気持ちに沿って明かさない。
満足度★★★
テイストはかなり違うだろう
そうか、櫻井氏とは、MCRの。
ネタバレBOX
池亀氏とは大分スタンスが違うから、事象に対する距離の取り方がまるで違う。MCRのあの執拗な複合意識の厚みがあれば、観客はそこから哲学なり、表現されたものを喩として読み、深みをそこから先に観るのだが、今作では、ステレオタイプの不幸話がループするだけの平板な作品に堕していた。シナリオが同じなら、これは役者より演出家に難があろう。もっと自分の深みへ降りてゆくべきだ。それともそんなものは無いのか? 三島が当にそうであったように。だったら、装うべきである。少なくとも表現に携わる者としての自覚があるなら、KYなどと下らないレベルに自分を合わせるようなことはせず、真摯に自らの底または底なしを探索して頂きたい。それなしに、今作は魅力ある舞台にならなのではないかと思う。
満足度★★★★
佳作 花四つ星
11歳。世界が未だ夢に溺れていた頃、少年は、宇宙飛行士を夢見ていた。
ネタバレBOX
兄より少し成績はいいのだが、兄のように様々な物を組み立てたり、プラモデルの組み立て説明書など一切見ないで正確に完成させてしまうような能力はなかった。それでも、小学校5年になると塾に通うようになり、国語がとてもよくできる女の子と話すようになった。彼女は国語より図画が得意だと言っていたのだが、授業中もずっと漫画を描いている子であった。漫画家志望なのである。而も漫画は頗るつきで上手かった。そんな彼女と話すうちに少年が、宇宙飛行士になったら、その半生を彼女が漫画にするという話が出、二人は自転車で種子島迄行こう、という話になった。彼女を後ろに乗せて出発した少年は、坂道でブレーキが利かず、ガードレールに激突、入院する破目になってしまう。事故以降、彼女とは会っていない。
そんな思い出を織り込みながら、今はロケットの一部を作っている兄が久しぶりに里帰りした時に交わす会話や、父が種子島へ行きたがっていること、長じた少年も、彼女との思い出に触発されて行こうと思うことなどが描かれる。
うさぎストライプらしい、夢のように淡い情感を巧みに表現して爽やかだ。宇宙ステーションに滞在する宇宙飛行士からの交信を随所に挟みながら、夢を現実化できなかった少年の寂しさが、並行して演じられる為、多くの人のリアルを付与して切ない。柔らかな感性と情緒を具えた若い人には特にお勧め。
満足度★★
Cバージョンを拝見
演出家の競(協)演ということもあって、コンペティッションという部分に大きく偏ったような作品作りであった。結果、演出レベルの衒いが増長したように思う。
ネタバレBOX
矢張り、演劇作品には、普遍性なり、作家・演出家・演者たちが訴えたい何かを取り込んで欲しい。それなしには、最も手間暇を掛けてする表現が空振りに終わる危険性さえある。
「ペルソナサークル」が様々な役を演じる役者という職業に固有の、職業からくるアイデンテティーの危機であるならば、もっと深い所から作品を作り上げてゆくべきだろう。ミスティックなレベルや、慣習のミスティフィカシオンで表象することによって、この問題が普遍的問題性から、単に知的遊戯のレベル迄落ちていることに気付くべきである。そんなことでは観客を感動させることなどできはしない。演劇は頭脳が体に支配されることを知った人間の芸術形式である。
「アレルギー」も、アレルギーなのか、トラウマなのか、或いは他の何かなのかを明かすことなく終わる。即ちカタルシスを拒否することが眼目の作品なのであろうが、此処で描かれた個々の事情・状況が普遍性とがっちり四つに組んでいない。これも表層の作品であった。
満足度★★★★
熱い舞台 リアルも認識
基本的に素舞台。椅子だのベンチだのになる直方体やいくつかの立方体があるのみである。つまり基本的に役者の技量に負う舞台になるということである。(追記後送)
ネタバレBOX
初日で若い役者ばかりということもあるのだろうが、しょっぱな噛むシーンが多かったのは残念。だが、シナリオは中々深い。過ち(若気の至り)がある分、それでもがむしゃらに突っ走り最終的に負けることを肯んじ得ない可能性への曙がほの見えるからだ。言うまでもないことだが、負け続けて千回を数えるに至るも降参せずに戦い続けるなら、それは最終的敗北を意味しない。反体制或いは非体制のポジションで戦うということはそういうことである。
三島や右翼が死ぬことによって自らの責任を放棄するのみならず、美学に昇華した気になって自らを神格化するナルシシズムは醜悪である。尾籠なことを書いて申し訳ないが、三島の切腹は真一文字に腹をかっさばいてはいない。真一文字にかっさばいたのは、森田 必勝の方であるし、朝日新聞社で拳銃自殺を遂げた野村 秋介は末期癌患者であったという話も聞いている。本当に評価するならば、三島の割腹以後、矢張り自刃した村上 一郎こそ評価されるべきである。何故、自分がこう言うかは、草奔に関する村上の定義と三島の論じた上滑りな右翼理論を比べれば明らかであろう。この程度の比較は自分で調べよ。ヒントは与えた。
少し作品から逸れた。
満足度★★★
未経験の射程
シナリオの出来はまずまず。
ネタバレBOX
だが、役者が皆若い為、宇宙で遭難し掛けるという深刻な状況を表現するには、まだ無理があるか。どういうことかと言うと、宇宙船の遭難という絶体絶命状況の中でリアルな切迫感を表現するには、日本の若者は余りに経験不足、思考不足。その結果、科白が上滑りしてしまうように思える。紛争地などへも出掛けることのある自分には、リアリティーが感じられなかった。
満足度★★★★★
注意深く観るべき作品
当パンを観ると、これが最後の作品ということになっているようだが、距離感を掴めないのは、若さだから、様々な経験を積んでから、また表現の世界に戻って欲しい才能である。
ネタバレBOX
というのも、作・演を担当している作家の優しさ、キャパシティーの広さ、明晰には、見るべきものがあると思うからである。
現代の日本で暮らす若者のリアルが、導入部の掴みとして描かれているのだろうが、自分達70年安保を高校時代に戦った世代から見ると矢張り普遍性からの距離を感じる。この部分は伏線を除いてもっと刈り込み、中盤、終盤の科白、字幕(アイコの玉音放送辺り)などにもう少し時間を掛けても良いのではないか?
スタップ細胞から創った子供達を守る為に、晴子が周明の流れを簒奪した隆法の刺客たちに殺害されるシーン、誕生以降ずっと、ホントは死ぬほど愛し合っていた“てつ、ゆい”の最後、この純愛の美しさは格別である。また、この「国」最大のタブー、天皇制、殊に裕仁の戦争責任問題を空虚に対置してみせた知性の煌めきも高い評価に値する。
現政権である安倍や菅をおちょくり、安倍以上にヤバイ石破をポスト安倍として登場させるセンスもシャープである。民族差別問題や、怪物ヒーローという捻り、安保理を中心とした国際政治等様々な要素を喩や象徴で巧みに表象しているので、注意深く観ないと理解できない作品でもある。作者の照れもあるし。だが、実際、様々な世界を生きて、現実世界のリアルを体験した後、ぜひ表現する者として戻ってきて欲しい才能である。
終わり方もアイロニーたっぷりだし(「おいしんぼ」鼻血騒動。無論、これは被ばくによる症状である。)、ちゃんと、最後にこれは物語だという行為を見せることも忘れていない。(当パンを海に投げるシーン)
満足度★★★
もっと鍛錬が必要
多摩美Field Trial(FT)とは、演劇のA,映像のB,展示のCの3コース。年2回の発表を通して己の表現に挑戦するカリキュラム、ということである。(追記後送)
ネタバレBOX
自分は主にAを拝見してきたのだが、FAは廃科になるという。FA出身の劇団で自分が最も多く拝見してきたのがピャーなのだが、基本的に彼の劇団のやっていたことは“生存”である。即ち、飲み食い・闘争・セックスである。作家は、生みの苦しみに苦悩したが、自分なりの哲学に近いものを探り当てていた。だが、このような作家、表現者は、そう多くない。外部者の言うことではあるまいが、学科として本気で創設したのであれば、教導する側は、表現する為の基礎になる社会観察や己を対象化して観る者の位置に辿り着くための哲学、レトリックの基礎などについてはヒントを与えるようなことがあって良かったのではないか、と考える。無論、自分は、具体的なカリキュラム等一切知らないし、無責任なことを言っているのであろう。然し、出来上がった作品のいくつかを(ピャー以外の作品を含めて)拝見して、指摘させて貰った以上のようなことがカリキュラムとして組まれていなかったのではないかと感じたのである。言うまでもなく大学生にもなれば、そんなことは自分でやって当たり前という意見がある。然し、電車の中で話している高校生の会話からは、18歳で大学に入るまでにキチンと大人になる為の訓練を経ているとは思えないのである。自分もヨーロッパやアフリカで暮らし、十数ヶ国の国々を旅してきた。多くの子供達、ミドルティーン、ハイティーンをそれぞれの国、地域で見て来た。だが、日本の若者ほど幼稚な連中は居ないのが実情だ。而も、帰国した空港に降り立って、最初に感じるのが、日本の子供の目には光が無いことである。毎回、これには絶望しか感じない。どんなに貧しい国、地域にあっても子供達の目の輝きだけは我々を救ってくれるのが常なのだが、日本の子供に限っては、死んだ魚の目をしているのだ。そんな子供のなれの果てとしての18歳以降の受験者も幼稚であることに変わりはないだろう、というのが偽らざる自分の感覚である。
こういう道しるべを持たない子供達に完全な自由を与えようとすることには、殆ど意味がない。無論、一から十まで指導しろ、というのではない。Aコース15期生は26名。このくらいの人数なら、それぞれの個性に従ったヒント位与えられると考えるし、それが指導する大人の責任であるはずだと考える。(ここまでは、今まで多摩美出身で演劇を志した人々の作品を拝見し拝見することを楽しみにしてきた一観客から、教導する方々への意見である)
さて、今作のレビューに掛かろう。今作出演者の役者としてのレベルから言うと残念乍ら低い。滑舌の悪い者が多すぎる。がなれば良いというものではない。通れば良いのである。無論、通った上で、演じる役者に科白の意味する所がヴィジョンとして見えていなければならない。この辺り、プロデュース、演出レベルで滑舌の悪い者は、端役にすべき所だが、そうなっていなかった。それとも、シナリオに難ありと判じてこうしたのか? 何れにせよ、作品の制作段階での対話・討論が足りない。結果、演者各々にシナリオが「現実化」されていない為に表現が浅薄なものになってしまった。溜めの無い演技になったということだ。演劇をやるのに溜めがないということは、作品を殺すに充分である。演出は、もっと文学、哲学、社会学、核物理学、民俗学、政治学、歴史学、経済学等の本は、名著と言われるものを含めて、各ジャンル最低50冊ずつ程度は読んでおくべきである。時間的に無理だとするのであれば、せめてこの程度の目標は立てて、実現すべく努力すべきである。少なくとも表現のプロとして生き残りたいのであれば。実際、一つの大きな著作を読み込む為に参考になる本を50冊程度読むと大体自分なりの解釈ができるようにはなる。自分が初めてこの手のことをやった時は、資本論を読む為にヘーゲル哲学や実存哲学、他の経済学参考書、ギリシャ哲学や当時最先端の哲学的批評、世界情勢、歴史、実際に行われた革命関連本などだけで100冊程度は読んだ。
満足度★★★★★
上手い
このタイトルも無論、1938年11月9日~10日にかけてユダヤ人やシナゴーグ、ユダヤ人経営店などが襲撃された“水晶の夜”を暗示している。パリでユダヤ少年にドイツ外交官が銃殺された事件をゲッペルスらが利用してポグロムに発展させたと言われる、例の事件である。原作は、アーサー・ミラー。
ネタバレBOX
彼の書く作品の多くが家庭劇という体裁をとり、家族関係を通して社会の歪みや問題を浮かび上がらせてゆく手法は健在である。問題作であるから内容は自分で読んで頂くとして、今作を観た者の一人として、若干舞台に触れておこう。
医師、ハイマンのアプローチが見事である。海外の作品を日本人が演じる時、姓名の違いからくる違和感だとか、わざとらしさを感じる舞台が多いのだが、今作では、どの役者もキチンと役を自分のものにしており、弱者たちの在り様をキチンと描いている為、またハイマンが医師としての立ち位置から見事に狂言回しをして居る為に、こういう違和感を感じなかった。このことは、役者・演出の力量を高さを証明しているだろう。因みにアーサー・ミラー自身がユダヤ系アメリカ人だからユダヤ人のアイデンティティーや被差別に関する作品もかなり書いている。が、彼の作品は、人としての本質、生きる意味についてを考察するレベルに達している為、内容的に深く普遍性の域に達している。こういう作品をセレクトし上演した高い見識も良い。
音響、照明も上手に使われている。初めに“水晶の夜”に触れたが、舞台奥に新聞紙を鏡餅のような形にして一面に貼り付け、上手・下手同様ラップで覆った状態にし、側面にはずっと照明を当てていたのは、無論この夜を暗示しているだろう。更に医師、ハイマンの祖父がオデッサ出身のユダヤ人であることも興味深いではないか。
アメリカに於けるアーサー・ミラーの位置としては、ユダヤ人問題でのシルビアとゲルバーグの恋の営みに関する言い争いで、夫婦どちらもユダヤ人である今作に対するに、フォークナーならば片方は南部出身の保守主義プロテスタントを対峙させ、不能のゲルバーグに対し、或いは拒否するシルビアに対し、「このユダ奴!」などとの罵声を浴びせることで乗り越えようとするだろうが、ミラーは精神崩壊或いはその危機を扱っている点で実に興味深いと感じるのだ。
満足度★★★★
Aチームを拝見
ABCブロックの各々に4団体が入っており、先ずはA,B,Cそれぞれの1位が決勝に進むが、全ブロック1位以外で最も観客投票を多く獲得したグループが、ワイルドカードとして決勝戦に進み4団体で決勝戦を戦うというコンペである。12団体のうち今回は2団体が韓国から参加。ご当地優先枠以外にも北海道から沖縄まで各地に基盤を持つ劇団が出演している。持ち時間は各劇団とも20分。自分が拝見したのはAブロックである。
演目は、上演順にホームタウン特別枠出場の神奈川連合 塵の素演ずる「あかい靴、譲ります」。東北代表 現代時報演じる「ibc」。沖縄代表@沖縄向上委員会演ずる「オキナワノアシタ」。ソウルから来た劇団名作とうもろこし畑演じる「この世で最後のデート」である。(追記後送)
満足度★★★★★
世界情勢まで入った金の卵 チケットも金色にゃ
開演前にはエノケンの歌う歌がずっと流れ、エンコ全盛当時の雰囲気を漂わせる。
ネタバレBOX
そういえば、自分の思春期の頃には、ヤサグレて東北から出てきた若い人たちがノガミで随分、チンピラやヤクザの餌食になっていた。そんな話は随分聞かされたものである。焼け跡、闇市から朝鮮戦争特需で36億ドルを吸収した日本経済は所得倍増計画などを謳って経済面でのし上がっていった。1964年の東京オリンピックをメルクマールにした頃迄は、中卒集団就職組や都市部でも中卒で就職する人たちは金の卵とモテハヤサレタものであった。自分の出た中学校は山の手の中学だったが、それでも学年の1~2%は中学卒業で就職した者がいたものだ。
舞台は四谷にも近い町のパン屋へ就職した金の卵2人と日米安保少し前からオリンピック頃迄の世相を巧みに織り込み、戦争を生き延び、更に戦時中よりも乱れた戦後の混乱期を生き抜いてきた人々が現役で働いていた時代、息苦しい時代から解放され自由というものを空襲の無い青空に見た世代、復員世代等々、多様な人間たちが登場する。だるま座らしい温かい人情を描き乍らも、社会主義・共産主義に憧れ60年安保に突っ込んでゆく若者と、朝鮮戦争出兵で占領米軍が手薄になったことを理由として自衛隊の前身である警察予備隊が1950年に発足、52年に保安隊になったが54年には陸海空の自衛隊に再編されたのは、52年以降冷戦時代に突入したからである。当然、空襲の無い青空を自由と同化して見た世代は、急速にラディカルに傾いていった。このような状況下、社長の御曹司は家を継いだが、従業員らと共に“あすなろう”なる団体を組織、各種勉強会や学生運動リーダーたちとも関係を深めてゆく。公安のデカは、こんな彼を当然マークしているが、学生運動の資金をサポートさせられているだけだ、との認識もある。
こんな具合に時代状況と政治、青春、戦前・戦中・戦後を生き抜く庶民の様々な関係と雰囲気を言葉の端々や登場人物たちの諸関係、演技で見事に描いた秀作。音響も効果的である。
特に気に入ったのは、工場長。
満足度★★★★★
バランスの良い舞台
難民・移民問題が、殊更にクローズアップされる時代になった。
ネタバレBOX
無論、根本にあるのは南北問題や、グローバリゼーション、米英ソ(露)中仏等の覇権争いと新植民地主義による収奪の構造や傀儡による支配に対する反逆とアンチグローバルというグローバリゼーションによる被収奪サイドの連帯も分断・離合集散の憂き目にあって、泥沼の内戦、局地戦、三つ巴戦などが戦われている訳だ。
その為、難を逃れて命からがら安全を求めて祖国を去らなければならない人々が後を絶たない。それほど軍事的ではない場合も、欧米の水産業に水道利用の権利さえ奪われ盗水などをしなければ生きて行けないフィリピンなどの国もあれば、シオニストのように、パレスチナ人の水源を奪って自らに給水するようなことも為されている。当然、軍事的力を背景に国際法を無視し、踏みにじって行われているイスラエルのこのような行為に対し、心ある人々は声を上げているがシオニストに社会的正義の観念は通用しないらしい。戦争犯罪に於ける人道の罪ばかり犯している。尤もこのイスラエルを支えているのが、これまた人道の罪ばかり犯している世界最悪の軍事大国アメリカであるから、イスラエルが心ある人々の非難を歯牙にもかけないのも力が支配する国際政治上は問題ないらしい。然しながら、このような状態で憂き目を見る人々は、今よりましな生活を求め、或いは他国へ出稼ぎに行く。今作は、こんな国際的出稼ぎをしているフィリピン女性を軸に彼女と恋に落ち結婚したものの、日本人の夫との間に生じる文化・慣習・生活上の常識の差、言語上のミスマッチ、宗教に対する態度、日常に対する態度差、子供の養育権等々や在留外国人に関わる法的問題など多くの問題を、女性作家が実際に取材して書いた作品なので、各々の問題が具体的にキチンと提起されている。同時に坂手氏の演出によって極めてバランスの良い作品に仕上がっている。
海というモチーフがメタファーとしても機能し、国境・民俗・民族など様々な問題を超え、繋がる可能性を秘めた深み・広がりとして描かれている点もgood!
満足度★★★★
本当の狙いは?
ちょっと変わった作り方をしている。
ネタバレBOX
通常、芝居は観客にカタルシスを齎し劇的空間から解放して現実世界へ戻らせる。然し、今作は、謎を残したまま、というより最後に謎を深めて観客に持ち帰らせるのだ。というのも、吉永が実際には何かを見たのか? 或いは南の言うように誰かを庇っているのか? も分からないし、さくらを案内役に出発した一行が無事であるか否かも、また旅館に残った人々が土砂崩れや山津波に襲われるのか否かも分からない。最後に再び雨の降りだしたことが告げられる訳だし。肝要な点が総て謎で終わる点が眼目なのだろう。とすれば作者の暗示しようとした我らの暗澹たる未来の内容をこそ、我らは己に問うべきであろう。一、二例示しておくならば、原水爆のみならず、原発を含めた核によって滅びるシナリオ、足音がすぐそこに迄迫って来ている第三次世界大戦等々。
満足度★★★★
理科教師が良い
タイトル通り、職員室で起こるよもやま話だが、
ネタバレBOX
安倍のようなキ印が教育改悪も平然と行っている中、中教審やPTAという癌のこと、戦争を始める為に子供達を洗脳すること等が彼ら下司の目指す目標であるのは(彼ら以外誰も信じていない「国家なるもの」の旗を揚げよとか、「国歌」を斉唱せよ、とか。)明らかだろう。そもそも、独立した国家として存在もしていないのに、そんなものを誇り高き者が称揚できる訳があるまい。その証拠に、外務省にアメリカ人に対するパスポート管理が正確にできているという証拠を上げさせてみるがいい。彼らが嘘をつかない限り、答えられる訳が無いのである。運用上、日本国憲法より日米地位協定の方が上位にある現状は、田中 耕太郎という名の元最高裁長官がアメリカの指示通りに動いて統治行為論なる詭弁・策術を弄して法を捻じ曲げて以来、下級裁判所が如何なる判断を示そうと最高裁所の下した判例として大きな法的拘束力を持ってきた。(殊に英米法は、判例を重んずる)因みにこの田中 耕太郎、自らの采配によってアメリカに日本を法的植民地として差し出した功績を土産に国際司法裁判所判事に推挙されたのだとされているのだ。
ところで世界中でドジを踏んでいるCIAやDIAが何故、日本ではほぼ完璧に任務をこなすのか? 軍務名目で基地に入りそこから外へ出れば済むだけの話だからである。従って現実にアメリカのスパイはうようよしていると考えた方が現実的だろう。それは、彼らの日本入国事情を考えれば自ずと答えが出てくる問題であり、国家、国歌と抜かす連中が最もアメリカに追随している事実をも説明するであろう。横田ラプコン、嘉手納ラプコン、更に三沢基地のアンテナ群。地位協定によってどこでも飛ぶことのできるオスプレイ等々。独立国にはあるまじきこの体たらくはなんなのだ! こんなものに誇りを持てる訳が無い。教師たちは基本的にインテリであるから、この程度ことは分かっている者が多い。実際、自分の友人で教師をやっている連中の殆どが修士課程卒以上である。紳士淑女も多い。結果、モンスターペアレンツや地域ボスという、頭は悪いが他人を脅しつける技術にだけ長けている下司共から建前ばかりを押し付けられる。結果、高学歴で真面目な教師には、精神を病む者、自殺する者が多い。
この辺りの事情を反映してもっと批判的に、下司共の悪を突きつける内容になっても良かったのではないか? もとより平和は焦点がボケやすい。谷川 俊太郎は平和の毒と書いたが、寧ろ、平和の澱であろう。この植民地に相応しいのは。この鵺そのものの社会。下司と卑怯者しか存在しない情けない「国」では。そこを暴き立てて欲しかった。
満足度★★★★
厳冬「子殺し篇」
ハンセン氏病に対する差別と官僚共の民衆蔑視による幾重もの鵺社会に於ける差別を被差別者の生活を通して描いた作品。
ネタバレBOX
この劇団のカラーは日本社会の弱者をどちらかというと受け身で捉える点で特色を発揮するのだが、受け身でありながら追い詰められると、極端で爆発的・盲目的攻撃性を発揮するのが、鵺社会で受け身の立場に置かれた主体であろう。だが、勘違いしてはいけない。それは、矢張り鵺的手法によって、一つ一つ着実に潰されてゆくのが現実であることは、今作でも電気会社が、滞納を理由に電気を止める訳だし、社会保障を受ける為には、娘が施設へ戻ることが前提となる。そして戻された施設では懲罰坊に入れられ1年でもそれ以上でも、糞尿垂れ流しの生活を余儀なくされるばかりではなく、医学研究のモルモットとして生かされるのが落ちである。今作でも、次女で施設から逃げ出した癩患者の繭子を演じた吉田 多希の科白には、撃たれる物が多いのは、こういう状況があってのことである。同時に、父役の大塚 尚吾や隣人の妙の科白も、当時の差別の何たるかを反映して痛い! 繭子が既に嫁いでいる姉、蝶子に発症後持つコンプレックス(複合意識)の表現も良い。罹患者の名が繭に関連し姉が蝶であるのは無論意味がある。
ところでこれは、燐光群が「お召列車」でやってしまったので使わなかったのかもしれないが、癩が、どの部分に一番最初にその病の特徴を表すかについての科白もできれば入れて欲しかった。この病を患った者は、山間の道も一般の者の通る道を歩かなかった。癩患者専用の道があったことは、宮本 常一の「忘れられた日本人」にも出てくる。聖書のヨブ記は癩の話だし洋の東西を問わず業病として恐れられた病であるだけに、問題化されたケースも多い。豊田監督による「小島の春」という大傑作も癩に対する差別を批判的に描いた映画である。
このように芸術家が、反差別という描き方をしているのに対し、日本の糞官僚共は相変わらず下司としての発想しかできない。この故に彼らは下司なのであるが。彼らがどれほどの下司であるのかちょっと具体例を挙げておこう。1943年ファジェイ博士は「プロミン」の有効性を確認した。1950年代以降、プロミン後継薬ダプソンが世界中で使用されるようになった。 だが’60年~’70年代にかけて、ダプソンに対する耐性菌が発生、研究者は複数の薬剤(リファピシン、ジアフェニルスルホン、クロファジミン)の併用によって耐性菌を防ごうと試み、 1981年WHOの研究班がようやく「多剤併用療法(MDT)」を確立した。
MDT の構成要素であるリファンピシンは、1回の投与で癩菌の99.9%を死滅させる。従って、この薬を用いて治療を始めた患者からはほかの人に感染することはなく、後遺症が残るかつての患者からも感染することはない。現在でもこの治療法は効果的で、癩菌感染力を短期間で失わせるため、ハンセン病は完全に治癒する病気である。更にWHO統計によれば、MDTの開発により、’80年代に500万人を超えていたハンセン病の登録患者数は、 2011年には約18万人にまで減少している。
にも拘らず、日本では1996年迄癩予防法は廃止されなかったのである。1943年の件は措くとしても日本国民の税金で養われている公僕たる厚生省の官僚が、MDT以降も漫然と事態(極めて深刻な被差別)を放置していた怠慢は厳しく追及されるべきである。時効が成立するか否かとか、法的に追及できる法が無いとか在るとかの問題ではない。人間としてどうなのか? という問いである。こんな問いを発するのはF1人災に於いても関係省庁たる
経産省(旧通産省)、文科省(旧文部省)が日本国民に対して犯している罪について看過できるような目明きが居ようか? 当然皆無でなければならないからである。