KM 公演情報 7度「KM」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★


    フランツ・カフカの「万里の長城が築かれたとき」と安戸 悠太が「KM」の為に書き下ろしたテキストが用いられる。出演は、カフカ作品を担当する女1人。安戸作品を担当する男、女各1人の計3人。

    ネタバレBOX


     意味が未だ辛うじて成立していたと考えられる20世紀初頭カフカの作品では、万里の長城やバベルの塔などの巨大な建築物の創造に於ける方法論とその妥当性*(非妥当性)、パースペクティブ*(瓦解)が描かれるのに対し、安戸作品では、現代世界最強の軍事力に支えられた国の植民地として機能する私人というレベルに矮小化された、私人同士の殆ど無意味に還元せざるを得ない殺人という営為が対置される。
    因みにF.カフカの生きた世界も現代世界最強の軍事力を誇る国にも、其処で暮らす個々人の魂を内側から見透かす神の目があり、そのことが神という絶対に対する人としての彼らのprincipleを根拠づけているのに対し、植民地の私人たちの規範は相互監視だけであるから、己の魂の底の底迄見透かされるような厳しいものではない。従って、誤魔化しの生じる余地が在り、絶対を根拠律とするprincipleは成立しえない。この人達にとって総ては流れてゆくものなのである。己の死さえも。
    今作は、このような根拠律の差を、どちらの世界にも共通する項である“無”の意味する所を考察することによって呈示している。どういうことかと言うと、神を発明したのは、無論、人間なのだ。では、何故、人間は神を発明せざるを得なかったのか? 宇宙という広大無辺な、認識の届かない世界に意識存在として存在することの恐怖に耐えかねてである。即ち、無は総ての創造の故郷である。では、通常“無”と呼ばれる「もの」はホントに何も無いのか? 我々は“無”を前にすると、あらゆることを考える。否、考える他無いのである。今作の作家は、遊びを考えた。Kを上下で分割した後上部を時計回りに180度回転するとMになる、だとか、何度も繰り返されるひらがなの“く”と数学の記号~より大、<という読み変え等である。当然のことながら、カフカの頭文字Kと作品タイトルに含まれるMとの間にある“無”を媒介として遊び、KとMを関連づけているのである。この遊びを想像力の遊びと呼び変えることも可能だろうし、無を媒介とする創造の器と考えても良かろう。その縁を画定することは容易ではないが。
     因みに音遊びでKとMを考えると、Kはカフカの頭文字、神をローマ字表記した時の最初のアルファベットであるのに対し、Mは無のローマ字表記最初の音、物語の最初の音でもあろう。
     ところでこのような作業を通じて“無”の本質的属性は、創造性の最も自由な源泉であるというテーゼが逆説的に成立するのではないか? 銃で頭を撃ち抜かれた女の頭部からは、紐のような物が引き出されるが、この作業もイマジネーションによって引き出される創造を意味し、臨界点迄引き延ばされて切れることによって、それが製品化されるなど、現実に役立つ物になっていることを象徴しているとも取れる。何れにせよ作・演出・演技は、観客の想像力を問い掛ける事に今作の眼目を置いていることは確かだろう。
    *はバベルの塔に関する評価

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    2015/07/07 17:58

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