ハンダラの観てきた!クチコミ一覧

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雨ウツ音ナリツヅ9日々

雨ウツ音ナリツヅ9日々

tetsutaro produce

Geki地下Liberty(東京都)

2015/05/26 (火) ~ 2015/05/31 (日)公演終了

満足度★★★★★

ヤマトンチュー分かってるのか?
米軍上陸後の沖縄戦で何が起こったのかを戦争を知らない世代が資料と想像力を用いて描いた映画を作ろうとしている。これが設定である。

ネタバレBOX

 日本は、ポツダム宣言を受諾してから、占領軍が、進駐してくるまでの間2週間程のタイムラグが在った為、軍、官、企業等で戦争を推進していった連中に不利になるような物は、未だ機能していた軍、官僚機構や役所の通達によってその99.9%が焼かれた。その規模は、どれほどのものだったか? 日本全国津々裏々で空が黒くなるほどの量の書類が焼かれたのである。従って安倍等が証拠が無いから~が無かったというようなことは、何の意味も無い。彼らこそ、それらを焼いた連中の直系の末裔であり、未だに彼の祖父岸 信介がCIA資金を受けていたと同じくアメリカから情報、サジェスチョン、活動の便宜、敵対者への脅迫や実効支配の為に為される様々な事象で援護を受けているとみられる。(犯人の決して上がらない事務所放火や家族・親族への脅迫など)が行われているという話はジャーナリストの間では公然の秘密である。そして、それは、簡単に行えるのが実情だ。アメリカは軍務とさえ言えば、日本への出入国はノーチェックで可能だからである。従ってスパイであろうが、殺人・特殊任務を旨とするアメリカのテロリストであろうが、出入り自由、日本側は地位協定の定めにより一切関与できない。験に、外務省に現在、日本に海兵隊が何人いるのか実数を訊ねてみるがよい。彼らは正確な数(実数)など答えられない。アメリカの言っている数を繰り返すのみである。これが、独立国だとでも言うのか? 臍が茶を沸かす。
 先ごろ、ニュースでも報じられたが、総務省が、選挙公約を削除していた話である。これらの情報を阿保としか言いようの無い官僚共は、自分達の物として勝手に処分してきたのであるが、彼らの給与も、これらの情報を作る為の資料等も総て国民の税によって賄われたものである以上、国民の財産だ。これらを勝手に処分するなど、無論、犯罪である。先ず、国民の財産を盗んでいる訳だし、それを勝手に廃棄してきたのだから、証拠隠滅やその他の罪に問うこともできよう。ことほど左様に、この国の官僚共は間が抜けている。国民もこんな阿保な官僚を奉ってはいけない。そも、東大のランクなんか世界のトップ10にも入れないどころか20位にすら入っていないのだから。せめてMIT、スタンフォード、ケンブリッジと肩を並べるようでなければ話にならない。
 今作から話が逸れたが、大切な点は、沖縄が日本で唯一地上戦が闘われた地であり、作家は、現在も戦争は続いていると認識している点である。小学生の女子生徒が米兵に集団レイプされても、アメリカ国内の法で裁かれるより遥かに軽い刑で済まされ、米兵軍属の悪戯で沖縄の人々が怪我を負ったり、亡くなり掛けるような事件も起きる。僅かに返還された土地についても、米軍は一切除染をしない。銃剣とブルドーザーで県民の土地を奪い、勝手に基地を作っておきながら、返還に際して自分達が汚した大地、地下水などの除染すらしない。どういうことだ? 無論、レイプも多い。ただ、強姦罪は申告罪である為、殆どの犠牲者が泣き寝入りをしてしまう。レイプされた上に、その「恥」を晒すことになるからだ。また、ベトナム戦争や湾岸・イラク戦争、アフガニスタン攻撃などでも沖縄から、多くの米兵が出撃している。日本の0.6%の面積しかない沖縄に米軍基地の74%が集中している異常。沖縄国際大学に墜落したヘリの事故処理は、米兵が日本人をシャットアウトして関与させず、ストロンチウム90が飛散しているのも知りながら、現場を封鎖、事故機体及びストロンチウム90が飛び散って汚染された周辺の土壌などを持ちさり証拠隠滅を図った。この事故の際も、報道陣を暴力で追い払い、取材の邪魔をした。民主国家を標榜するアメリカとは、実に偉大な国家である!! 世界中に基地を置き、現地女性をレイプしては基地に逃げ込んで本国に帰って知らぬ顔をする。レイプばかりではない。殺人も然りである。これらは、異常ではないのか? 狂犬国家ならいざ知らず、民主主義の模範を標榜しつつ、このようなことを日常的に繰り返して、キチンと罰せられないことは異常ではないのか? 
 現在、横田にオスプレイが飛来することでヤマトンチューが騒いでいるが、米軍は、どこでも飛行できるし、何処でも基地にできるのが、地位協定なのである。日本人の敵はアメリカであることを先ず認識する必要があろう。
 沖縄は裕仁によって棄てられた。そして施政権を持てない体制を余儀なくされた。その間に島民の多くが捉えられ、彼らの土地が勝手に基地にされたり、銃剣とブルドーザーで基地にされたのである。これは歴史的事実である。
 何かというと“平和ぼけ”と逃げを打つヤマトンチューの卑劣さが顔を出す植民地で、この異常を異常として認識できているヤマトンチューがどれくらい居るのか、と問われれば甚だ心もとない限り、と答えるしかなさそうである。但し、翁長知事の頑張りもあって、辺野古基金の7割は、大和から送金されているというから、少しは、気付いてきているのかも知れないが。辺野古同様、大変な闘いを強いられている高江のことが語られないのは何故だ? というような疑問も含めて破綻のある演出を敢えてしているように観た。作品としての纏まりや展開を敢えて損ない、観客を単に観劇して愉しむ主体から内部に不如意を抱え、不愉快を内面から味わう主体へ転ずる。この技法によって現在、ウチナンチューやシマンチューが、アメリカによる植民化とヤマトによる植民化という二重の植民化の下で喘ぐ不如意やデペイズマンを追体験させられるのである。
 この効果を予め狙っているとしたら、実に鋭い見事な演出と言わねばならぬ。
愛でもないし、youでもなくて、ジェイ。

愛でもないし、youでもなくて、ジェイ。

アナログスイッチ

シアター711(東京都)

2015/05/27 (水) ~ 2015/05/31 (日)公演終了

満足度★★★★★

今後もシミタノ
青春物が多いアナログスイッチだが、意外と懐が深い。

ネタバレBOX

 というのも作家は26歳の誕生日を迎えたばかりだし、ギャグも笑いの本質に根ざした箍を外すという原点から作られている為わざとらしさが無く、品を欠くことが無い。今作が、東京と地方に纏わることは、敏感な観客には、直ぐそれと知れよう。タイトルに含まれるI,U,J其々が、Iターン、Uターン、Jターンを表すであろうことは、容易に推測できるからである。無論、タイトルには他の意味も含まれている。愛に纏わる話題でもあるし、嫉妬に纏わる話でもあれば、友人・友情に纏わる話でもある。これらの問題が都会と地方、殊に過疎に悩まされる現代日本の喫緊の問題であるこの「国」の国家戦略、未来への展望、戦略・戦術と相俟って、現実に若者を食い物にすることで辛うじて成り立っているような情けない現実を背景に、失われてゆく大切なものと自分達の存立そのものの基盤、自己実現と社会との齟齬、それを内的矛盾として抱え込まざるを得ない若き日本人の日常を、過疎地にあるバンガローに集まった二十代中盤の若者の葛藤を通して描いた作品。
 今後も楽しみな劇団である。
料亭老松物語

料亭老松物語

劇団芝居屋

ザ・ポケット(東京都)

2014/05/21 (水) ~ 2014/05/25 (日)公演終了

満足度★★★★★

世話物の最高峰
世話物の最高峰は、泣き笑い表現にある。今作で芝居屋は、その域に達した。同時に我々観客の鑑識眼をも高めてくれている。(追記2014.5.24)
 
 老松のお上、時江役、永井 利枝の壺を得た演技、小料理屋のお上役で時江の娘同然の美千代役の増田 恵美のこれまた入念な演技、前にも書いたことだが、この劇団の役者は若手も含め極めてレベルが高い。演劇通が安心して観ていられると評価するのは、この為だ。他、舞台美術の粋、借景のコンセプトを用いた舞台美術と老松の建築様式を述べた下りとの照応など、相変わらず隙の無い見事な作りだ。

ネタバレBOX

  少し具体例を挙げておこう。舞台は、最も奥に美千代の仕切る小料理屋が設えてあり、その手前は、老松のお上の部屋。暗転の間に港のコンクリート壁が据えられるシーンも入ってくる。
 小料理屋は、上手に出入り口があって、店に入ると直ぐ右手に貸し鉢の木が置いてあるが、植木鉢を隠すのはよしずだろう。観客席正面の上手には丸窓が切ってある。これは、角型の窓と異なり、作るのに大変高い技術を要する。この点だけを見ても、小料理屋の通な好みが推し量れる。無論、背景には三味線の音がし、美千代はどどいつなども心得る。下手奥のカウンターの壁には、桜の老樹が満開の姿で描かれ、華やいだ空気が感じられるのだが、その回りは、総て木目調で統一されている為、千利休が、高位の者をもてなす為に、一輪を除いて総ての花を取り去って、茶を供したという話等も想起させる。同時に、木目を象徴として見るならば、深い森にすら想像力は及ぶであろう。この小料理屋の作りが、老松の建築様式、鴬張りの長い渡り廊下を通って大広間へ出た時、その庭の彼方に広がる広大な太平洋と道東の街並みに対応し、当然のことながら海と山と空を借景とする見事なパノラマを形成するのである。
 北海道の雄大な自然をこのようなセットで想像的に再現する中で、物語は展開してゆくのだが、芝居屋の役者の優れている所は、役者個々人が、常に演出の言いなりになるのではなく、役者一人一人が、新たな表現を追求している点にある。役を本当に生きようとしているから役に血が通い、活きているのである。座長の増田さんご自身がおっしゃっていたことで言えば、間という言葉一つにしても、それが意味する所は、「内なる言葉」ということではないだろうか? 自分は、この言葉を伺って、納得してしまった。
 今回、劇場入り口には出演者の顔写真が貼られている。自分達が責任をもって努めます、という挨拶であると同時に、役中、どの人物が誰を演じているか、確認して頂くも良し、お披露目ととって頂くもよろしかろう。兎に角、通って頂きたい舞台である。
『オフィーリアの部屋』『苦悶・煩悶・クローディアス』

『オフィーリアの部屋』『苦悶・煩悶・クローディアス』

明治大学シェイクスピアプロジェクト

明治大学駿河台キャンパス リバティタワー1階リバティホール / グローバルフロント1階 グローバルホール(東京都)

2023/12/01 (金) ~ 2023/12/09 (土)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

 明治大学で2004年から始まった明治大学シェイクスピアプロジェクト(MSP)は、毎年秋に公演を開催してきたが、今回はその20回目。今回、20回メイン公演として上演されたのは「ハムレット」であったが節目の20回を記念した「明治大学シェイクスピアプロジェクト 20年の軌跡」展が同大博物館で開催されてもいる。その関連イベントという形で20回本公演の「ハムレット」に登場する人物たちにスポットを当て初のミュージカル作品として上演されるのがオフィ-リアに焦点を当てた『オフィーリアの部屋』及び志賀直哉の「クローディアスの日記」に基づき自由翻案で創られた『苦悶・煩悶・クローディアス』の2本である。

ネタバレBOX


 急遽、会場が変わったこともあり大道具が調達できなかった経緯もあって出捌けの動作が一部観客に観えてしまうケースもあるが、歌唱の上手さといい、ダンスの動きや振り付けも良さといい流石MSP公演である。2作品ともミュージカルで作曲はOBが担当しているが、エリザベス朝演劇の代表であるシェイクスピアの数ある作品の中でも代表的な作品の一つ「ハムレット」を今回の2作品以外にも太宰治が翻案執筆した「新ハムレット」を矢張り関連作品として上演済みである。以下今回上演された2作品を作品毎に論じてみよう。因みに舞台美術は2作品共用である。板上、ホリゾントと手前の中ほどに衝立を設けて袖とし、実際の出捌けは上手、下手の側壁袖から。他はフラットだ。尺はトータルで1時間程。
『オフィーリアの部屋』
 脚本はシェイクスピアの「ハムレット」を実に上手く翻案しオフィーリアのハムレットに対する乙女心を、乙女心を理解せず結婚を諦めさせる父、ボローニアスへの嫌悪を示しつつも従わざるを得ないアンヴィヴァレンツからくる苦悩や苛立ち侍従長の娘としてのプライド等々を時に現代風の台詞廻しで示しつつ狂った体をも装って表現するがオフィーリア役の女優さん声の質が極めて良く音感も良いので歌唱力が高い。良いキャスティングである。また、ハムレットが吐く「尼寺へ行け」の台詞を何度もオフィーリアが反復するシーンでは、ハムレットの絶望と恋に去られるオフィーリアの底の無い苦悩が表されていると思われ、哀れである。ボローニアスは身分違いの婚姻を否定するも一方で宮廷に於ける様々な利害をも考慮する。息子の将来についても考えねばならぬし、娘の意気阻喪も気には懸かる。あれやこれやでハムレットとその母、ガートルードの話を立ち聞きをしていた所を刺されて死んでしまった。刺したのはハムレットであった。後はどう描かれるか? 12月9日にもう1度上演される。観てのお楽しみだ。
『苦悶・煩悶・クローディアス』
 クローディアスは承知の通り先王の実弟、ハムレットの叔父に当たるが先王逝去後、妃であったガートルードと大した服喪期間を置かず結婚してしまった。シェイクスピアの「ハムレット」では、作品はハムレットの側からの視座で描かれており、クローディアスは可成り悪党ということになっているが、今作は寧ろクローディアスの視座から描かれる一種のエクスキューズ作品と言えよう。クローディアスもずっとガートルードに恋していたことが語られ、一方では甥から「息子」となった王子、ハムレットの扱いや彼の自身に向ける猜疑の目に対する処置に頭を悩ませたりもする。現実に世界をみれば他国との関係や政治、権力争い等々大人の事情もあろう。そういった諸々にオフィーリアの件が絡みこの2作品で一双を為す。
 衣装も主要キャラクターは豪華な衣装を纏うが衣装部が演者の身体に合わせて仕立て直したりしつつ用いているものもある。歴史を重ねてきたMSPの財産を上手に無駄なく用いている点も良い。受付などスタッフの対応もグー。
怪勿 - monster -

怪勿 - monster -

The Vanity's

小劇場てあとるらぽう(東京都)

2021/12/28 (火) ~ 2021/12/30 (木)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

 チームは全3チーム。3名の女優が各チームで別の役柄を演じる。つまり各女優がトータルでは、総ての役を演じる訳である。ちょっと珍しい挑戦だ。自分が拝見したのはBチームだが、こういうコンセプトで作られると他のチームも拝見したくなるのは事実だ。

ネタバレBOX


 音楽劇というコンセプトに恥じない現代音楽風の作曲・曲想・奏法と登場する3名の女優さん達の歌の上手さに感心。舞台美術は書き割を用いて公園を囲む塀と中央に1本大きな樹を作り、下手奥のコーナー部分に階段式ピラミッド風の3段のオブジェ、やや客席寄りに側壁から衝立状に延びた書き割を設えて出吐けとし、その更に手前に木製ベンチ。上手奥にはスタンドピアノ、客席寄りに天井からブランコが下がっている。
 物語は養護施設・希望園園児だった仲良し3人組の女子(ミホ・マリア・ミサト)の離園後の20年を描く。3人は2001年12月30日に10年後集まろうと約束した。そして10年後の自らに宛てたメッセージを書いてタイムカプセルに入れ、埋めた。10年後廃園になった希望園跡地に創られた公園に集合した3人は20歳になっていた。而もミホは12月30日が誕生日とあってマリアは悪ノリして大分酔い、ミホに酒を強要している。何れによ20歳の集まりでは自らの今後に対する抱負を述べたりまた10年後に集まろうという話をし新たな自分宛メッセージをタイムカプセルに収めた他、子供時代にした遊び・缶蹴りや腕押しごっこ等をする中で養護施設での彼女らの愉しみや3人3様の個性差が描かれる点も上手い。ところで楽しく過ごす彼女らの宴の真っ最中、ミホの携帯に電話が入った。母からであるという。席を外した彼女は戻るなり皆に迷惑掛けてはいけないから帰ると言う。ここで今作のタイトル・怪物の正体がミホの母だということが分かる仕組みだ。彼女の母は毎週教会へ彼女を連れていっていた。昼の母は優しく、夜の母は虐待する母であった。虐待内容は髪の毛を掴んで引きずり回し、殴る、蹴るの暴行を加える、煙草の火を腕に押し付ける等で、この虐待が原因で彼女は希望園に入所したのだ。偶々その後母の容体が良くなったと医師のお墨付きが出た為、母の下に戻ることになったのだったが・・・。
 母は美しくスタイルも良かったが、教会へ行くのは客探しの為であった。また虐待の原因については言及されていないものの、ミホを育てる為に自分が売春をしていることの遣る瀬無さがあるのではないかと想像できる。
その次のシーンでは大きな樹を回って各自が為したこと目標達成等が順に語られるが、態々大樹の周りを回っての報告は年輪をイメージさせ、時の経過を表している。この経過報告でマリアは大学時代の目論見通り可成り条件の良い結婚をゲットし、ミサトは渡仏してデザイナーの道を歩む等かなり開けた状況が伝えられる。
 さて更に10年が経過した。2021年12月30日、同じ公園。ミホは「私お母さん殺してきた。怪物殺して来た」と告げる。原因はこの10年、彼女は地下室に監禁されていたのだが殺害当日は彼女が自由に行動できる日という約束をしていたにも拘らず母がその約束を反故にし外出させなかったことにあった。この10年の間に母は醜く太り美貌も衰えその職業はミホに代替わりさせられていた。虐待にも監禁にも恥じを忍んでの売春にも耐えて来たのは10年にたった1日の自由を得る為であったのに母は裏切った。これに激高したミホは偶々転がっていたカッターナイフで母の首を襲った。

 ところで、この衝撃の告知の前、先に公園に来ていたミサトは、マリアが語る在り来たりな幸せ話に疑義を感じる、彼女の肌の荒れもミサトの疑義に理があることを示唆した。いつも受け身で自らの判断で生き方を選ばず、それが可能であったマリアの生き方は決して幸福ではないと、メディアにももてはやされパリでも注目されるミサトを羨み遂にはミサトが養護施設に居たことをカミングアウトしたことを攻撃するに至る。マリアは、既にそのような階層の虜となっており、プチブルの気取りや精神的退廃に安住している。その背景には子供が出来にくい体質らしいという認識があり、嫁ぎ先の両親からも夫からも責められ続け針の筵という状況があり、自分に責任があると感じて卑屈になっているが故にアイデンティファイ出来ない為夫に問題があるかも知れない点については一切触れられない点でマリアの限界が露呈されてもいる、更にミサトのように表現する者の原点には不幸が蜷局を巻いていることもマリアが気付くことは無い。

if

if

TEAM 6g

d-倉庫(東京都)

2016/03/24 (木) ~ 2016/03/30 (水)公演終了

満足度★★★★★

緻密なシナリオ 丁寧なつくり
 冤罪。日本に限らずこの問題はあるだろう。

ネタバレBOX

然し、日本でこの問題がキチンと取り上げられなければならない必然性は、この「国」が、アメリカの実質的植民地であることにある。最近の政治問題に関していえば、小沢 一郎の、東京地検特捜部による陸山会問題がある。結果的に無罪となったものの彼の政治生命は大きく後退したことは否めない。因みに東京地検特捜部は、アメリカが日本を占領した際、GHQが創設させた。アメリカの手先となって検閲を実行しアメリカに都合の悪い政治家を葬ってきた組織である。最高裁での田中耕太郎らの振る舞いと合わせて考えなければならない。(疑念を持つ人は実質的統治行為論について調べてみよ、アメリカの意向に従って伊達判決をひっくり返した経緯をキチンと当たれば、見えてくるものがあるハズである)現在でも司法関係でまともな判断を下すのは、地裁、高裁迄であることは誰の目にも明らかだ。それが分かっていないのは、目が開いていて何一つ見えていない愚か者である。検察も然り、アメリカの犬として機能している東京地検特捜部のような組織が存在しているのだ。警察にしても、交番のおまわりさんは、庶民に親しまれることが多いものの、上に上がるほど腐ってくる。北海道道警の裏金事件についても、上層部は、当初蜥蜴の尻尾切りとマヤカシで誤魔化そうとしていた。それを突っ込んだ北海道新聞の特捜部報道が庶民からの批判を招き、抑えきれなくなった道警は謝罪に追い込まれたのである。ただ、これには後日譚がある。当時特捜部のトップを務めていた方は、その後道警からの圧力で飛ばされた。 
日本という「国」は、こういうバカなことばかりやっている。下水の中で大手を振るドブネズミのような下司が、アメリカの言いなりになって上級奴隷として庶民を搾り取り、誤魔化しているのである。
 その故にこそ、庶民の命は紙屑同然なのであり、冤罪で死のうが家族・親族が世間からつまはじきにされて苦労しようが意に介さないのである。第二次大戦中「兵などいくらでも集まる。一銭五厘だ!」(因みに一銭五厘とは召集令状の切手代である)と抜かしていたのが、当時の為政者である。庶民の命など歯牙にも掛けない。これがこの下司「国家」日本の実態の上部構造であり、下部構造は、この下司共に従わない者は排除し抹殺するという論理の貫徹である。自分を守る為なら他人はどうなっても構わない。人間という生き物に基本的価値を認めない発想・論理がある。どこまで馬鹿なのだろうか? その点で、西欧やイスラムの人という生き物が普遍的価値を持つという論理・倫理に比較して、根底レベルで大衆的倫理敷衍の根拠が欠けている。
 このような前提があった上で、この作品は構成されていると考える。或る地方都市の僅か10Kmの範囲内で5件の幼女殺害事件が起こっていた。どの事件にも共通点が多い為、客観的に見て同一犯の犯行によると考えられた。然し、川を堺に警察の管轄が異なっていることによって、互いの情報共有ができないばかりではなく、メンツ問題が持ち上がって客観的な捜査を妨げる結果となっていた。而も、誤差の多い初期段階のDNA鑑定で、容疑者として逮捕された男は、缶詰にされた上朝から晩まで続く取り調べの間、殴られたり蹴られたり髪の毛を掴んで机に叩きつけられたりするうち、やっても居ない事件を「告白」してしまった。而も、大衆のイメージではDNA鑑定で黒となれば絶対とのイメージもあり、警察は杜撰極まる捜査で、この容疑者を犯人として逮捕してしまった。だが、彼が収監された後にも、同種の事件がこの10Km圏内で起きたのだ。これを不自然として地元新聞社の特捜部が独自に捜査を開始。綿密な取材と、報道に対する真摯な姿勢、被害者家族への思いやりと同時に、心に負った傷の為に、後ろ向きになりがちな被害者家族達へ、再出発の手助け等を通してDNA再鑑定を含む再審裁判を起こす所迄フォロー。冤罪で収監されていた「犯人」には異例の判断でDNA鑑定が最新の技術を用いて行われ、結果は白と出て直ぐに保釈された。然し、彼の父も母も幼女連続殺人犯の父母として社会から排除された上、既に亡くなっていた。また、警察・検察のメンツは、この鑑定結果によっても簡単には覆らない現実が大きく目前に立ちはだかっている。
 物語は、にも関わらず記者たちが大きな壁に挑んでゆこうと更なるチャレンジを示唆して終わる。

紛争地域から生まれた演劇シリーズ8

紛争地域から生まれた演劇シリーズ8

公益社団法人 国際演劇協会 日本センター

東京芸術劇場アトリエウエスト(東京都)

2016/12/14 (水) ~ 2016/12/18 (日)公演終了

満足度★★★★★

 年末に上演されるこのシリーズも8回目を迎える。何とも感慨深いではないか。

ネタバレBOX

漸く日本の文化人も何とか世界に目を向けようとする時代にはなったか!? そうは言っても、普段評論が書ける方は兎も角、多くの演劇関係者がイスラムの内実については殆ど何も知るまい。「インシャラー」という科白でフランスのリセーアンが何故笑うのか? この程度の単純なことすら多くの日本人には分からない。更にハラルミートなどの宗教的タブーに関することも多くの日本人には分かるまい。自分は知らぬことを攻撃しているのではない。外部に目を開こうとしない多くの日本人の態度に対して批判しているだけである。既に日本には多くのムスリムが住み、日本人とも接触してきた。にも関わらず、彼らの価値観や人間関係のありようをアメリカ流のバイアスを掛けてしか見ない日本人が多数存在するように思うのだ。無論、そうでない日本人も自分の周りには多いが、日本人全体としてはマイノリティーであろう。
 まあ、ヨーロッパ人は、アメリカの大衆ほど単純ではないからムスリムに対して様々な対応を取るが、それでも“テロとの戦争”を標榜してブッシュがイスラム圏に仕掛けて以来、多くのヨーロッパ諸国でもイスラムフォビアが猛威を奮ってきた。今作の原作者イスマエル・サイディはベルギーで1976年に生まれたモロッコ系の人物である。ジハードは彼の三作目の戯曲である。現在までに205回もの公演が打たれ、観客の延べ人数は7万を超えるが、そのうちの4万人はリセーアンなどの若者である。一方で彼の笑いに富んだ作品は多くの世代に受け入れられているのも事実である。実際、突き付けている問題の深刻さ、鋭さを見事に笑いで緩和しつつ、キチンと問題提起をしている点で彼の優れた才能は高く評価されてしかるべきであるし、自分も原文で読んでみたい作家である。興味のある向きは仏語版を探して読んでみることをお勧めする。自分もこれからちょっと調べて読んでみるつもりである。
嘘つきと泥棒のはじまり

嘘つきと泥棒のはじまり

東京AZARASHI団

ウエストエンドスタジオ(東京都)

2014/04/22 (火) ~ 2014/04/27 (日)公演終了

満足度★★★★★

お勧めの舞台
良い意味で裏切られた。喜劇は難しい。その難しい喜劇で笑わせて貰って、なおかつ深い。シナリオ、演出、演技、間の取り方、外し方も絶妙である。今までいくつか優れた喜劇を演じる劇団を評価してきたが、今作を観て、この劇団も、優れた劇団自分のリストに加えることにした。(追記後送)

堀 絢子 ひとり芝居 「朝ちゃん」

堀 絢子 ひとり芝居 「朝ちゃん」

プーク人形劇場

プーク人形劇場(東京都)

2013/08/15 (木) ~ 2013/08/15 (木)公演終了

満足度★★★★★

被爆するということ
 “この日、広島中がお母さんを呼んでいました。”この痛烈な言葉を書いた山本 真理子の「広島の母たち」から、彼女の被爆体験を通して描かれた作品、“朝ちゃん”288回目の公演である。朝ちゃんは秋子の仲良し、被爆地から寺町迄這って逃げて来た。朝ちゃんは、ドッジボールが上手い。

ネタバレBOX

 あんなに快活だった朝ちゃんは、顔の真ん中にイチジクのような傷を負い、全身真っ赤に焼け爛れて膨れ、衣服は焼け落ちて跡かたも無いまま仲良しの名を呼んだ。「秋ちゃん、秋ちゃん」と。そこに転がるどの人達とも変わらぬ肉塊、焼け爛れ、体には蛆が湧き、やけどした体からはリンパ液を垂らしながら、腐った魚のような臭気を発している、声を掛けられなかったら、誰だか見分けもつかない、膨れ上がった肉の塊が、「秋ちゃん、母さんに連絡してくれんね」と頼んでいる。水が飲みたいとせがむ。
 然し、当時は、酷い傷を負った者に水を与えると直ぐ死ぬと言われていた為、秋子は「お母さんが来るまで我慢してつかあさい」と言い残して、朝子の母に連絡を取る。朝子の兄は、死体を焼きに借り出されていたが、連絡を受けて急いで帰宅、リヤカーを借りて現場へ向かう。朝子の母も兄も、朝子は元気でいると信じ込んで、道中、冗談を飛ばしながら陽気に進む。寺町へ入る迄は。寺町へ入ると、段々、話はしなくなった。愈々、現場へ到着した時、二人は完全に押し黙り、最早、何も語れない。唯、朝子が何処に居るのかを一所懸命に探すだけである。秋子にした所で、朝子が声を掛けてくれなければ、再発見できる自信はない。幸い、朝子には、未だ息があった。
 朝子が声を掛けて来た時、朝子の母は、言葉を失い、全身をぶるぶる震わせることしかできなかった。我に帰った母は、朝子を搔き抱く。朝子は、自分が臭いだろう、と気に病むが、母は「臭いことなどありゃせん」と答える。朝子は水を再びねだった。最初、拒否した母であったが、秋子から事情を聞き、少しだけ水を飲ませることにする。だが、その水を汲んだ水槽には、遺体が浮かび、淵には水を求めて亡くなった遺体の手がそのまま掛かっていた。母は、躊躇していたが、やがて拾った広口瓶の蓋に水を汲み、朝子に飲ませる。朝子は、嘗めるようにそれを飲み、「ああ、おいしい。もっと欲しい」というが母は、矢張り、たくさん水を飲ませると直ぐ死んでしまうということを信じていたので与えず、彼女をリヤカーに載せて家まで帰り着く。到着した時点で朝子は、既に、あんなに欲しがった水を嚥下する力も無く、死んでしまう。
 世界で最初に実戦使用された広島原爆被害を直接受けた者ならではの、凄まじいジェノサイド証言を聞かなければ、原爆の齎す被害は余りにも大きく、予想外で想像力が追いつくレベルではない。このことの意味するものを“この日、広島中がお母さんを呼んでいました”の一行が凝縮している。声優としても著名で、父を原爆で失った引揚者の堀 絢子さんが登場人物4人とナレーションの一人五役をこなす。
 戦前から続く人形劇の名門、プークでの公演は、満席。舞台奥に描かれた文様は、照明の効果的な用い方で、紅蓮の炎にもなり、竜巻と黒い雨を齎した地獄の空にも変わる見事な物、演出も本質を良く捉え、抑制の利いた知的なものであった。シナリオの良さは、無論、今更言うまでもあるまい。
 なお、堀さんは、夜の回を終えると229公演を終えたことになるが、500回(反戦・半千)公演を目指しており何処へでも出掛けます、とのこと。堀さんに公演をお願いしたい方は、「朝ちゃんを応援するブログ」http://d.hatena.ne.jp/asachan500/へ
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FUTURE EMOTION

新宿シアター・ミラクル(東京都)

2015/12/03 (木) ~ 2015/12/06 (日)公演終了

満足度★★★★★

おもりょい!
 タイトルからすっかり暗号物と思っていたのだが、やられた。

ネタバレBOX


 本筋は量子コンピューター開発である。量子コンピューターの噂くらい聞いたことがあるかもしれないが、自分も門外漢なのでさっぱり分からないか、と覚悟していた。だが、多少科学的なセンスがある人なら、科白の中に説明が入っているので、それを聞けば本質は直ぐ掴める。実に面白い。知的緊張とハッカーとの対決や、部内にスパイの居る可能性、内調が実は何を何故狙っているのかという科学研究者としての倫理と名誉や金、社会的地位との天秤問題など、実際に最先端技術分野では必ず起きてくる問題が配置され、良く調べ、考えられたシナリオにセンスの良い展開の演出、役者の演技も適度な愛嬌や適確な役作りでキャラが立っている。コンピュータお宅、太田役の野田 孝之輔、チームリーダー白井役の瀧澤 知恵の演技が気に入った。
韓国現代戯曲連続上演

韓国現代戯曲連続上演

韓国現代戯曲連続上演実行委員会

こまばアゴラ劇場(東京都)

2013/11/06 (水) ~ 2013/11/10 (日)公演終了

満足度★★★★★

何れも頗る個性的で面白い
 清水 邦夫さんの言葉に、台本というのは寝ている状態だ、というのが、あるらしい。だとすると起こすのは演出家で、実際に起きて働かせるのが役者の仕事ということになりそうだ。こういう意味では1)「真夜中のテント劇場」2)「秋雨」3)「上船」何れも、シナリオライター、演出家、俳優の個性を出した成功作と観た。(追記2013.11.12)

ネタバレBOX

 1)は現在も続く韓国のテントスト。今作の説明では2008年から既に1800日を越える人もあるそうだ。日本と異なり、このような抗議行動は多いという。それもそうだろう。IMFに散々にされて以来の韓国経済は、そのグローバリゼイションの煽りを恐らく日本より酷く蒙ったであろうから。作家は、実際のテントスト実行者達を見て、今作を書いたという。その視座は、自分には、弱者に寄り添うものに見えた。作家はスト決行者の側に共感を寄せているのである。実際問題、テントスト決行中に亡くなった方々もあるというし、子供が、「お母さん行かないで」と言うのを振り切って行動に参加する母もあるという。未だ、社会責任という大義がきちんと社会に根付いているのであろう。
更に、彼らの抗議行動が実に爽やかに描かれている点にも着目したい。テントに使っていた布を飛行機に見立て、両側から煽って雲間を飛んでいるような爽快感を出している点などがその実例だ。眼下にたくさんの小さな灯を点してたくさんのテントを表すイマージュも美しい。それは、天の川の銀河とも照応する普遍性を示唆している。また、塔に立て籠もる人も居る。それらが、テント地の飛行装置で大空を駆けることによって齎される。アラビアンナイトの魔法の絨毯や孫悟空の觔斗雲をもイメージさせよう。
 2)は、ヌーベルバーグ以降、映画では多用されたフラッシュバック的な手法が用いられた作品なので、若いカップルの所作がそのヒントになっていることに気付かなければ、混乱してしまうかも知れない。最初の2~3分間で、この構造が示唆されるからである。
物語は、能の所作をベースに展開する、仮面が用いられる点では、能も朝鮮半島の伝統的芸能にもそのルーツを辿れるかも知れない。何れにせよ、幽玄の趣、生と死の間が今作のテーマである。少なくとも演出家はそのように読んでいる。執拗に繰り返される、「死んでゆくことと、死ぬこと、どちらが云々」という問い掛けは、無論、予め答えが出ている。死んでゆくことという表現が意味しているのは、少なくとも精神的には既に死んだ状態を意味しているのであり、死以外に救いが無い状態である。従って、答えはあっさり死ぬことがベターなのは分かり切ったことなのだ。では何故、童謡作家は、このような質問を繰り返したのか? それは、その問いの意味する所を訊かれた人々が瞬時に判断し得るか否か、判断したとして、それが、質問者の意を汲み取れているか否かを読み取ろうとした為であるように思われる。それが、アイロニーとして成立するならば、何がしかの復讐には成りえようから。彼を演じた神山 てんがいの澄んだ目と上品で威厳に満ち、然も優しさを感じさせるキャラクターを乞食同然に扱うことで、見事に人生のアイロニーを成立せしめた。盲となった妻、父の発表した童謡の印刷された本を大事に持ち歩く娘、二人は、其々春を鬻ぐ身とはなったが、未だ生きている。「死んでゆくことと、死ぬこと。どちらが・・・」答えの知れている質問を発する父は、自動車に撥ねられて亡くなった。轢き逃げ事件である。そして、犯人は、作品中に示唆されている。それは。是非、シナリオを読むなり再演を期待して欲しい。
ところで、自分の勝手な解釈では、この能をベースにした所作は、広島、長崎の被爆者、ひいては福島を中心とする3.12以降の被爆・被曝両者をもダブらせた。即ち、「死んでゆくことと、死ぬこと。どちらがいいですか?」
 3)「28年ぶりの約束を果たしに来た」と男は言う。舞台は港に近い屋台のおでん屋だ。男は、病院経営をしている医者。話相手になっているのは、屋台の女将。今は橋が掛かって誰も島とは言わなくなっている所に枝がひねこびたような松があった。その松を描いてやると娘は独特の笑い方をした。二人は恋に落ちた。そして反対された。子供が生まれたが、男は、その事実を知らずに都会の大学で医学部に通う身になっていた。「必ず、戻る」との約束通り男は戻ったのだが、娘の母に「娘は結婚して都市に住んでいる」と告げられ逢うことはできなかった。事実は、子供を凍死させるほど行き詰まった娘は、島の閉鎖系には居られなくなっただけだった。彼女は、噂を頼りに、都市部の大学を訪ね、彼を見掛ける。然し、声を掛けることはできなかった。自分の境遇と余りに異なる恋人の眩しい姿に後れをとったのだろうか。何れにせよ、双方とも、自己の最善を尽くしながら、目的を達することができなかった。28年が経っていた。新聞には、交通事故の記事が載っていた。亡くなったのは1人、病院経営の医師である。
 男と女(屋台の女将)は酒を酌み交わし、「もう行かなければならない」と汽笛を聴いた男は言う。あの世への船だ。二人こそ、かつての恋人であった。気付いて居ながら、露骨にはそれと言えない。だが、互いに気付いて居る。観ていて胸に迫る名演であった。殊に、女将を演じた洪 明花の演技は男の自分には胸に堪える演技であった。洪 明花の演技を受け、きちんと対応していたナギ ケイスケの渋さも光る。
あたしのあしたの向こう側

あたしのあしたの向こう側

トツゲキ倶楽部

d-倉庫(東京都)

2015/11/18 (水) ~ 2015/11/23 (月)公演終了

満足度★★★★★

構成の良さ
 前説がしゃべり終わって板に着くと開演というちょっと変わった始まり方だが、ここで彼は徐に眼鏡を掛けるとパラレルワールドについての解説記事を読みだす。このコンセプトが分かっていないと話が見えないからである。

ネタバレBOX


 さて、こうして始まった舞台には大して恰好良くもないのに矢鱈にモテル男が登場して驚かされるのだが、この男の前に現れる女は、主人公の女が、人生の途上で迷ったりした時に現れたパラレルワールドに存在する彼女自身なので、この男が格別モテていた訳ではなかったが、運命的な出会いではある。
 実は、こんな混乱が生じた原因は、次元管理をしているセクションのミスによるものだった。偶々、オリジナルの女1以外の8人が、この時空に同時に存在してしまった訳である。興味深いのは、パラレルワールドの性質である時空の歪みを利用して、現在の我々の政治的選択の結果をも挿話に織り込んでいる点だ。これが本質を突いていて観客に自分の選択の意味する所を考えさせるいい契機になっている。無論、この挿話が演じられる前には、恋、仕事、将来の選択など、日常誰もが悩む選択の契機が語られており、その中でさりげなく挿入されているので、このエピソードがショッキングな内容であるにも関わらず決して突出した印象を与えない。更に近い将来間違いなく我らを襲うであろうこの事態の深刻さを踏まえた上でハッピーエンドで終わらせている点、行方不明の彼が、戻ってくれた可能性を示唆した点も評価したい。何故なら、戦争のトラウマを抱えた人々が、我らの傍らにも暮らしているのが我らの現在だからである。

僕が、明日その先へ辿り着くためのレジスタンス

僕が、明日その先へ辿り着くためのレジスタンス

劇団もっきりや

阿佐ヶ谷アルシェ(東京都)

2016/05/26 (木) ~ 2016/05/29 (日)公演終了

満足度★★★★★

ブラボー 花5つ星
 生きる権利。

ネタバレBOX

 日本では余り聞かないが、“スコッター”だのSDF(sans domicile fixe)と称される人々がヨーロッパには多い。自分の知っている限り白人であった。自分が良く知るのは1994~95年頃の大陸ヨーロッパであるから現状は定かではない。が、スコッターとは廃屋や廃ビルに勝手に住みつき其処を根城に生活する人々のことで、法律上は不法占拠者ということになる。貧しく不特定多数が共同生活をしているということがあって周辺住民が不安視しやすいのでクレームが寄せられたりすると役所も放っておくことはできないから強制退去させられることもあり、小競り合いは見掛けた。ヨーロッパ人の場合は、生存権の概念も強いから、スコッター達も排除の論理に対する生存権ということでぶつかり合うので、スコッターを支援する者もあり、排除する側も余り大事にはしないようである。それでも邪魔者扱いされることに違いはなく、彼らの使う言葉は、どうしても反社会層が用いるスラングが多用されるのも事実だ。外国語をある程度キチンと学ぶと悪口表現が多いことに驚かされるが、あそういう言葉も含めて罵りのバリエーションには目を見張る。人間は、言葉で思考する動物であるから、その考え方、社会での在り様、生活形態などが、その言葉を用いる人の表現に反映されやすいことは、言葉に敏感である程の知性を持つ者なら気付いているハズである。
優れた詩人が何故に尊敬されるべきであり、文学表現の最高形態とされるのかは、これらの事情があるからであろう。因みにSDFは住所不定者であり、時にスコッターとも重なり合うが、必ずしもスコッターと言う訳ではない。ヨーロッパに多い大道芸人等もアパートを借りるほどの金は無くても、季節やイベント開催の時期に合わせて移動し、各地で大道芸を披露する人々の中にもSDFは居る。要は住所が固定していない人々全般を指す言葉だ。閑話休題。
 今作は、かつて賑わった街の小劇場が使われなくなって、そこに住みついたスコッター達と、周辺住民からのクレーム処理の為に管理人となった人物の交流を描いて、日本人には権利意識の薄い生存権の問題を提起した作品である。シナリオの素晴らしさ、力のある「役者陣の演技の素晴らしさ。過不足なくバランスのとれた演出。何れも素晴らしい。今から再演が望まれる。

ラムネ

ラムネ

みどり人

【閉館】SPACE 雑遊(東京都)

2015/11/12 (木) ~ 2015/11/17 (火)公演終了

満足度★★★★★

ラムネと母の泡立ち模様
 
 上手・下手に設えられた衝立には、大小の水玉が描かれ、ラムネの発泡を思わせる。

ネタバレBOX

 オムニバス形式風だが緩やかに繋がる挿話の総体が物語を紡ぐ形式で、それぞれの場は、舞台奥に掛けられた布に浮き上がる影絵によって示される。このセンスがとても良い。
 聾唖者が登場するが、ハンデを持った人々の認識の形を想像させるようで、想像力のコレスポンダンスを感じさせる点もグーなのだ。
 挿話それぞれのタイトルは以下の通り。①LJK②夢芝居③へべれけ④一生のお願い⑤この子ら⑥MOTH⑦カーウェひなちゃん
 描かれているのは、いわば生きていることの寂しさだ。女子高3年のトリオのうち1人は、中学時代聾唖者の同級生を苛めていた。彼女は母親が嫌いである。何故なら母はこの聾唖者の父と浮気をしていたからである。それが苛めの原因であると想像することは、難くない。然し乍ら、苛めている彼女も傷ついていた。
 6話では偶然電車の中で出会った3人が、苛めっ子だった彼女に聾唖の娘が居ることを天罰、と決めつけるシーンがある。この時、聾唖の娘が「母さんを苛めるな! 」と必死になって叫ぶ!! このシーンは圧巻。この時、どぎついピンクの蛾を秋葉系ヲタク少年2人が見つけて手に止まらせているのだが、元々苛められていた少女の怨念が晴れた瞬間、落ちて死ぬ。この辺りの想像力の刺激法も上手い。
 7話総てが、独立した小話としても観ることができる。同時にラムネと母をキーコンセプトとして緩やかに繋がっているので、各挿話の間は、観客に委ねられた想像力空間である。この距離感もいい。
 ラストでは、元苛めっ子が、仕事を始めようとしている店のママに娘を褒められ、娘がいい子だということは、お母さんがいいからだと褒められる。そして、お母さんがいいのはお婆さんがいいからだと。彼女も経験を積んで、嫌いだった母を理解できるようになった。無沙汰していた故郷へ娘を連れて出かけてゆくことを表白して幕。
ホンキィ・トンク騎士(KNIGHT)

ホンキィ・トンク騎士(KNIGHT)

無頼組合

新宿シアター・ミラクル(東京都)

2013/11/22 (金) ~ 2013/11/25 (月)公演終了

満足度★★★★★

因果と人間
 笑いや風俗的要素を盛り込みながら、キチンとシリアスな内容にそれらの要素を活かした、シナリオ、演出の良さもあり、主役級の顔が、物語の進むに従ってどんどん良く見えてくる。
 騎士シリーズ第5弾である。まあ、今迄の人間関係を知らなくても充分に楽しめる内容だ。何と言っても、因果関係をキチンと押さえたシナリオで、オカマバーやそこで働くオカマ達を最初に登場させ、奇天烈なことをやらせて、猥雑な雰囲気を醸し出し、以てこの街の怪しさを自然に感じさせている。実に上手い。(追記2013.11.28)

ネタバレBOX

 風吹 淳平の今回の依頼人は里奈、28歳。通販カタログなどでモデルをしていると言う。依頼内容は、今夜、ストーカーに会う際、立ち会って欲しい。だが、彼女は酷く酔っていた。訊くとウィスキーを1本空けて来た、と答える。淳平は、この言葉を気に掛けた。何故、そんなに酔わないと事務所を訪ねることができないのか、を疑問に思ったのだ。淳平は、忘れていたが、彼女とは面識があった。以下がその出会いの顛末である。
 美人だった姉が、ネット上でいわれなき誹謗中傷を受け、あまつさえストーカーに刺殺された事件は、里奈ら被害者家族をもいわれなき誹謗中傷に晒した。報道の影響は、地元に居ることを断念させ、親戚に養子に入ったものの、父母は自殺した。その後、彼女自身も黒沢組のヤクザに薬漬けにされた上、売春を強いられていた。淳平と彼女の出会いは、親戚に引き取られる迄、16歳の里奈を守る為に、彼女の父がボディーガードを依頼したのが、オハラの事務所に居た風吹だったことによる。その縁があった為に、彼女は風吹の事務所を訪れたのだった。然も、自分は、好意を持っている淳平に、汚れてしまってあわせる顔が無い、とも思っていたのである。因みに里奈の性格は、16歳の時既に、最も傷ついていた自分を抑えて淳平にねぎらいの言葉を掛けるような少女であった。 
 さて、里奈の依頼を受けて二人は、ストーカーと会うことになっていた約束の場所へ向かうが、目的地へ着く直前、銃声を聞く。音のした方へ行ってみると、ストーカーが銃殺されていた。被害者は、実は、フリーランスのライターで、週刊誌のトップ屋としてかつては名を馳せたこともある男だった。然し、最近は鳴かず飛ばずで冴えない暮らしをしていたのだが、市長に関してのスキャンダルを嗅ぎつけその証拠を里奈が持っていることを突き止めていた。会う必要があったのは、証拠を入手し、礼金を支払う為であった。ライターを殺害した犯人は、二人が来た為、泡を食って逃亡していた。ライターの持って来た、礼金の入ったカバンはそのままだったので、淳平、里奈がそれを預かり、再び銃撃して来た犯人から逃れるが、鞄の中味は1千万円、その金は、黒沢組が貸し付けたものだった。然も、市長スキャンダルとは、黒沢組が、市長に女を抱かせ、それを撮影してSDに保存し、組再興を目指してゆすりを掛けていたことであった。
 市長スキャンダルをもみ消す為に動く裏社会の調整屋、警察、元黒沢組の残党、風吹とその仲間とSDを持ちだした里奈が絡んで、物語は進展する。
この間、各グループ入り組んでの活劇が進展するのだが、それは、割愛する。終盤、ヤクザから里奈を救い、彼女の頼みを聞いて、幸せだった頃の思い出、メリーゴーランドへ歩みゆく二人を銃弾が襲う。まだ息のあったヤクザに撃たれ里奈が被弾した。薄れゆく意識の中で、またしても彼女は淳平にねぎらいの言葉を掛ける。彼女は、淳平の腕の中で死んだ。
この後、彼女の死は、通り魔的犯罪として片付けられ、市長は1カ月後、病気を理由に辞職、事件はその本質を隠蔽されたまま幕を閉じた。
 最初の部分と重なる所もあるが、記しておく。オープニングでオカマがたくさん出てくるなど猥雑な雰囲気を演出することで、この街の性格を説明。この猥雑さの中でなら何が起こっても不思議はないと観客に思わせる所が上手い。シナリオ・演出も勘所を良く掴んで、緩急のバランスも良い。演技も主役級は話が進むにつれてどんどん良く見えてくる。内容が良い証拠である。
蝶を夢む

蝶を夢む

風雷紡

シアター711(東京都)

2013/08/11 (日) ~ 2013/08/18 (日)公演終了

満足度★★★★★

哀れ
 作家、演出家、美術、役者陣、照明、音響、歌唱力どれをとってもセンスの光る作品。

ネタバレBOX

 腐り切ったこの植民地の退廃をGHQの関与も噂される帝銀事件を絡めて描き出した。GHQが絡むのではないか、との噂は、731部隊と当然のことながら関係する。広島・長崎への原爆投下以降、日本で、軍事研究に携わっていた研究者の多くが、自らの戦犯としての罪一等を減じる為、被爆後の現地に入って詳細なデータ(大学ノート183冊分)を取り、その後、僅か2ヶ月程で英訳してアメリカへ送っていることは衆知の事実である。731部隊のメンバーも多くが、敗戦後アメリカに協力した。無論、罪一等を減じて貰う為である。 
 日本の所謂エリートの腐り切った根性は今に始まったことではなく、連綿と続いてきたことなので、班目春樹、勝又 恒久、清水 正孝などの無責任ぶりは、今更驚くには価しないが、この作品は、伯爵家という貴族を絡ませた点に、深い意味がある。誰でも知って居て当たり前のことに、大日本帝国憲法における主権者の問題がある。現行憲法の主権者は、無論、我々、国民である。従って、戦争などを始めた場合、それが己の愛する者達全員の死に終わることになろうとも、そのオトシマエは主権者である我々、国民が負う。当然の理屈である。推進したのが政治屋であっても、結果責任を負うのは彼らではないことに注意しておいて貰いたい。彼らは、委託されたに過ぎないのだから。ふんぞり返って偉そうに詭弁を弄しているのは、彼らの無能の証であると同時に、それを糾弾しない国民である我々の不甲斐なさだ。閑話休題。
 さて、大日本帝国憲法にあって敗戦の責任を負うべき主権者は誰であったか、無論、天皇、裕仁である。彼だけが主権を持っていたのであるから。法解釈だけから言っても、このことは妥当である。而も、裕仁自身、1945年2月近衛文麿が早期終結意見書を提出した際「もう一度戦果を挙げてからでないと中々難しいと思う」と拒否、沖縄、広島、長崎、東京大空襲等々の惨劇を招いたのである。この国の唯一無二の政治家とアイロニカルに言われる裕仁とは、己と一族の利害の為だけに他の総てを犠牲に供し得る無責任者そのものなのであって、この作品における渡辺 秋利伯爵は、裕仁の矮小化された喩である。だから、小笠原 芙美子は、あのような形で復讐せざるを得なかったのであり、その復讐は人間的には最もなことだと納得されるのである。だってそうだろう。自分の住むエリアの法が、どんなに正当な手続きを踏んでも、不正をしか齎さない時、被害を受けるだけの者は、如何なる権利を持ち得るのか? 合法的権利ではあり得ない。而も、それなしに納得はあり得ない。そのような選択肢を迫られた時、誇りを持つ人間であれば、誰しも、非合法ではあるが、唯一、無残に殺された者を悼み、己自身も納得できる選択肢として復讐しか見出せないのは必然である。哀れを誘うのは、このエリアで起こって来た歴史的事件の背後には、常にこのような歪んだ制度があり、そこで苦しめられてきた者達が居たであろうこと、そして、このような形でしか復讐が果たされないような未分化な政治体制が現在も過去もこのエリアの住民を律してきたことなのである。その哀れを作品化し得ている所にこの作品の本当の凄さがある。
 もう一言言っておくならば、貴族の最も愚劣な点とは、人生を退屈と捉えるディレッタンティズムが許されることである。退屈から逃れる為なら、人間は何だってする。このことの危険性を良く認識しておくべきだろう。渡辺伯爵も退屈していたのである。
 そして、渡辺伯爵に仮託された無責任体制は、731部隊メンバーの訴追逃れをも齎し、原爆被害報告書を作成した軍事科学者らと共に、戦後、日本の暗部を形成してゆく。その結果が現在の日本だ。だから、マダラメ正しくはデタラメやかつまた、正しくは且つまた、しみず、正しくは沁みずなどの妖怪が跳梁跋扈するのである。
カゲキ・浅草カルメン

カゲキ・浅草カルメン

劇団ドガドガプラス

浅草東洋館(浅草フランス座演芸場)(東京都)

2016/02/19 (金) ~ 2016/02/29 (月)公演終了

満足度★★★★★

2度目 今回は女性中心に
 一回目は主に男たちのことを書いたから、今回は女性たちについて書いておこう。そうでなければ片手落ちになろう。

ネタバレBOX


 ヒロイン、カルメンを始めとして「はした女」として生きる女たちの哀しさ、辛さが描かれている点を評価したい。己の意思を通す前に汚された女たちの哀しさは何によって癒すことができただろうか? 実は癒しようが無かったということではないのか? だからこそカルメンは干という自滅型純情を愛したのであり、自分のマブという立場に置きたがらなかったのではないか? 散々悪を担ってきたその道のプロ、我流とは異なり自らの汚れを浄化してくれるような、憧れを持ち続ける可愛らしいペットとして、干を愛することができたからである。
 一方、カルメンほど斜に構えた訳ではないが、勝 小吉に入れあげた芸者、照古満も泣かせるではないか! 小吉を二度まで救って命を落としたが、自ら「はした女」として迷惑を掛けぬように亡くなってゆく。分限思想は大嫌いな自分だが、人の知恵は己を知ることにあるのもまた事実である。自らが自らの頭で考え抜き、社会の不条理の中で納得できたなら、悲しいかなそれは上意下達ではなく実存としての己の選択の結果である。逆に言えばそれだけ深く自らの人生を背負って生きたということである。このような見方をする時、照古満の人生は内面から輝きを放つ人生なのである。
 カルメンの妹分も同様である。上方から流れてきた沢村との逢瀬で、自らを「はした女」として一歩下がった所から自己規定している。如何に女性が公式的立場からは被差別的に扱われていたとはいえ、若い女性が、己の社会的位置を一歩下がって認めるということは、並大抵のことでは無いように思うのは、現代に生きる我々の性からだけだろうか?  
 さて、どん尻に控えしは、小吉の妻、信である。小吉の本人にすら思いつかなかった魂の迷いを見事に見抜き、小吉を遊ばせて更に自由に奥底への旅に向かわせている。真に頭の良い女性であると共に紛れもない女傑であろう。小吉は信故にこそ、自由に羽ばたくことができたと言いうるからである。
 社会性で男を立てた世界を描くと共に女性のこのような強さ、存在の深さを描いている点でも優れた作品だいうことできる。
ビーイング・アライブ

ビーイング・アライブ

ワンツーワークス

赤坂RED/THEATER(東京都)

2015/12/11 (金) ~ 2015/12/20 (日)公演終了

満足度★★★★★

孤独死の時代
 自分は足早に歩く方なので、携帯に操られているトロイ若者や、歩みの遅い老人はよけて歩く。その際、本当に老人が増えたなと実感する。

ネタバレBOX

外に出るようになった老人が増えたのかも知れないが、データを見るまでもない。ひたひたと音もなく着実に超高齢化社会は、我らを呑み込みつつある。その経済的負担や社会制度へのおざなりの懸念が指摘されてはいるが、福祉には疎いこの植民地の政治屋や官僚が、天下りや手前の利害の為以外に一所懸命に取り組むハズもない。
 一方、身の回りにも散見されるようになった孤独死も最早他人事ではなくなった。そして、独居老人の抱える本質的孤独の深さ深刻さは、老人問題の中核に据えられるべき大切な問題であることは言うを俟たない。政治などに何の期待も抱けないこの植民地で、我々は、老人を抱える家族として、人として、また老いを生きる個々人として如何にこの孤独と向き合ってゆくのか? その孤独感の実質とは如何様なものなのか? を丁寧に掬い上げようとする意欲作。舞台の大部分に傾斜をつけて役者の身体に負荷を掛け、老人の身体特性を舞台構造そのもので実現させようしている舞台美術も素晴らしい。舞台ならではの演出上の工夫、役者陣の優れた演技と共に、古城氏の問題意識と社会性を持った視点に裏打ちされたシナリオが光る。

せんせい

せんせい

株式会社トキエンタテインメント

上野ストアハウス(東京都)

2014/04/09 (水) ~ 2014/04/13 (日)公演終了

満足度★★★★★

先生に感謝
 退任する英語教師、真野を同僚、生徒達がサプライズ・イベントで送りだそうと企画した。だが、春休み中とあって同僚教師は、保険室の養護教諭を含めて6名。生徒はたった4人。何十年も勤めた先生を送り出すには余りにも寂しい有り様ではある。唯一の希望は、生徒達がフェイスブックにこの件をアップしているということであった。

ネタバレBOX

 無論、肝心の主役、真野が何時頃現れるか? は、送別会の折、何気に確認してある。一応、その予定で準備を進めている。シナリオは体育教師の長壁が書いた。ゲネに近いリハーサルが為され、最終確認をしている所に卒業生がやってきた。フェイスブックを見たという。現在は警察官になっている近藤であった。現在、真野の生徒に接する態度は、おとなしい、冷たくは無いが距離を置いた生徒に葉余りインパクトの無い教師である。近藤の覚えている真野は、1時間近く遅刻してきて何だ、君? Who are you? と問う先生であったが、その注意の仕方に風情を感じる先生ではあった。その後、矢張り、ファイスブックを見た猿丸がやってくる。彼女は現在看護師をしていて夜勤明けだったが、Who are you? の真野が退任するとのインフォを見てかけつけたのだ。その後、現在、教職に就いている瀬良が来る。真野は熱血教師だったという役者をやっている井出が来る。誰も覚えていると言えない舞踏家の三村が来るで、ゲネレベル迄仕上げたサプライズ・イベントは、崩壊寸前。そこへ、現在は、市内でスナックを経営するママとホステスの熊野、園田がやってくる。彼女達の証言では、真野は、寒いジョークの先生だった、と言う。卒業の時代によって真野は大きく変化していたようなのだ。イベントに参加する人間が膨らみ収集がつかなくなるのが確実視されるようになったこの期に及んで、それでも、何とか纏めようと、本来のシナリオを持ち出して、訴える長壁であったが、終に真打ち登場。スパルタ教師だった頃の問題児2人、吉森と田川である。現在は、ヤクザになった彼らは、偶々、友人から真野が退任することを聞き、やって来たのだったが、風体、態度、言葉つきどれをとってもヤクザ以外の何物でもない。それで、皆、ビビってしまった。が、卒業生だというのでむげに追い返す訳にはゆかない。
 一方、サプライズ・イベントの段取りは滅茶苦茶である。疑心暗鬼も起こる。ひょっとしたら、真野が借金をしていて、取り立てのヤクザが来たおではないか? といったようなことを心配したのである。女性教師が卒業名簿を調べると吉森も田川も名前が無い。借金取り立ての懸念がリアリティーを帯びて来た。そこで、長壁・保井は合同チームを組んで、何とか二人のヤクザを追い出そうとする。会場には現役警官もいる。いざとなれば対応する条件は整っている。問題は、ヤクザである彼らに問題を起こさせればいいわけだが、どんな問題をどのように起こさせるか、それが問題なのであった。唯、ヤクザでるというだけでは、逮捕などできないのは当然のことであるから。そこで、相談をした所、滅茶苦茶にマズイ飲み物を彼らに飲ませ、怒らせて暴力を揮ったら現行犯逮捕する、という案が出て、トライするが、他の卒業生が、飲み物の入ったカップを配る手伝いをして計画は潰れ、第2のミッション、に掛かった。例によって、長壁・保井がチームで彼らを侮辱し、怒らせようとしたのだが、彼らの法が一枚上手、総てジョークとして受け流してしまう。第3ミッションにとりかからざるを得なくなり、マズイ飲料を、今、手元に在る物と差し替えて飲ませ怒らせようとしたが、誤魔化し誤魔化しやっていた作業の終盤、椅子の下にもぐって差し替え作業をしていた近藤が不審を問われ、これも頓挫。グチャグチャになっている所へ主賓の真野が戻ってくるという見張りからの連絡が入り、兎に角、サプライズイベント優先で、皆、結束。段取りは、流れの中で自然にできたものに殆ど任せて、真野を迎える。
 ここから先、感動のシーンが続くが、上演中なので、詳細は書かない。是非、観て欲しい。特に、学生時代、問題児だった人には。
 とどのつまり、先生ってのは、信じられる人間が世の中には居るってことを教えてくれる人のことだ。幸い、今迄、自分にもこのような先生が居て下さった。お陰で、何とか人の道に背かずにやってこれた。有り難いことである。
目々連ー覗き込む葉ー【千秋楽当日券あり!】

目々連ー覗き込む葉ー【千秋楽当日券あり!】

鬼の居ぬ間に

「劇」小劇場(東京都)

2014/10/16 (木) ~ 2014/10/19 (日)公演終了

満足度★★★★★

化け物の正体
この国の不可視の部分を、相互監視と村八分を基軸に描いた秀作。原発村が、何故、これほど厄介なのか? その謎の一端も解けるのではないか? (追記2014.10.22)

ネタバレBOX


日本人の畜人根性は、恐らく太閤検地で人別帳を権力サイドに握られ、刀狩によって、権力に反対する為の武器も奪われたことによって、民衆が自らの権利を主張する為の要件を失わされたことから生じている。即ち権力押し付けのベースを作られ、江戸幕府の朱子学によって、倫理的統制を受け、更に、五人組などの連帯責任制を負わされることによって、その畜人根性の完成を見た、と自分は、考えているのだ。
それ以前、日本人の発想は遥かに自由であった。戦国時代を一言で言い表す時、人々は下剋上と言う。これは、個々の自由裁量によって何でもできる、ということである。尾張の信長が下半国の守護代織田家の奉行の家系出身であることは良く知られていよう。而も、信長の父、信秀は、小大名並みの軍事的指揮権を持ち、経済的基盤も強かった。従って主君を倒すだけの地力は具えていたと見て良かろう。その、嫡男として生を受けた信長が、その賢さを力のないうちから見せていたとすれば、無論、暗殺されていたに違いない。従って「うつけ」と呼ばれる程に、桁外れな行動を取って、人々から馬鹿者という評判をとったのは、信長の天才性を示すものであって、それ以外ではない。こういった、自由が、戦国期の日本人にはあったのである。織田家の家系図に怪しい所があることも、出自が細工できるような内実があったからできたことである。無論、今でも、最高権力者の座についてしまえば、行えないことではあるまいが。何れにせよ、時代が下剋上という一言で表されるように、発想と自己裁量の自由があり、且つ、その野心なり夢なりを実現する為に、闘う為の武器も持っていた点に注目する必要がある。そのことが、他の権力、権力者に立ち向かうことを許したのだ。
だが、先にも述べたように、江戸時代に、武士以外の階級は、その牙を抜かれ、寄らしむべし、知らしむべからず、という論理の下、徹底的に抑え込まれた。飢饉や火山の噴火、冷水害、地震、津波等の災害によって、米の収穫が大打撃を受け、年貢減免を願い出ても、温情が示されることは少なく、追い詰められて一揆に及べば、首謀者、関係者は打ち首、犬死にであった。義に従い、情に従う村方三役は、このように権力に惨殺されてきたのである。だから、お上に逆らうことは、避けねばならない暗黙の了解事項となったのだ。このような背景があればこそ、今作に描かれたような、村の総意が、その力を遺憾なく発揮するのである。そして、そのことが、この植民地の民が持つメンタリティーのエグさなのであり、醜さなのだ。その点を今作は、実に見事に描いている。

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