満足度★★★★
上手、下手奥側面に階段が設えられている他は基本的にフラット。必要に応じて、ベンチ、テーブル、机、箱馬などが出演者によってセットされる。(華4つ☆)
ネタバレBOX
一応19世紀中ごろの北欧の架空の町が舞台となっているが、通貨がクローネであるからデンマーク、ノルウェイなどかつてバイキングとして覇を競った国々をイメージしながら拝見した。時代的にはナポレオン3世辺りか、フランス革命以降の動乱を経験している話が出てくるので、自分はそう考えた。バベットは、このジェズィット派流の極めてストイックな宗教的権威に支配される町の司祭の家に亡命して来たフランス人女性だが、彼女の自由な振る舞いが如何にもフランス人らしいのに比して、この町出身ではあるが、ロンドンやパリでよそ者として暮らすオリーヴィアの人工的な自由発現とは異なる点、またオリーヴィアのそのぎこちなくわざとらしい自由表現が、町を引っ掻き回す狂言役を担って、バベットの自由と対比されると共に、この町の地域住民との関係で自然な振る舞いをするバベットの方が、この町出身で異質性を自ら演じているオリーヴィアより親しく受け入れられていることが興味深い。この違いが、バベットがパリで多くの家に石油を撒いて放火したという噂が町中に知れ渡っているにも拘わらすなのであるから、猶更である。
一方、演出で少し気になった点を上げておくと、オープニングで役者が登場する際、暗転から明転に至るのではなく、登場人物の8割程度が舞台上に現れる時、やや昏いものの観客に動きがハッキリ分かる状態で登場するので、下手、上手に整列する動きが丸見え。実際に演技が開始される整列直後の、バベット以外は恰もゼンマイ仕掛けの人形の歩みのようなすり足、小刻みな歩行とバベットのダンスのような自由な動きの対比が減殺されていること。
物語自体は極めて面白く、ユーモアに富み衣装もフランス映画の傑作「天井桟敷の人々」でジャン・ルイ・バローが纏っていたような白いパンタロンに襟に特徴のあるもの、バベットは、若干異なり上着は白衣風。何れにせよ基本は白なので宗教的な清廉を表している点でも評価できる。タイトルの晩餐会は、無論「最後の晩餐」を意識していることが明らかである。というのも今は亡き先代の司祭が水上を歩いて渡った話が出て来たりするから、これはキリストがガリラヤ湖の水面上を歩いた話と呼応しているのが明らかだからだ。ラストの見事なパフォーマンスもこれらキリスト教の奇蹟譚と呼応しているのは明らかだ。
ところで、今作5評価に出来なかった理由が、オープニングの問題と影の主役とも言えるオリーヴィア役の女優が、芝居をナメテイルンジャないかと思えるほど噛んだこと。また、自分の席ではないが、指定席なのにWブッキングしているなど制作何やってんだ! と思う点があったことによる。演劇は裏方を含めた総ての関係者によって作り出される総合芸術である。無論、その中に観客も含まれる訳だが、Wブッキングの憂き目に遭った観客の態度は紳士的であったから合格。以上挙げた点に今後留意して舞台を作って頂きたい。演劇大好き人間からのお願いである。こういった点にも注意を払えないようでは、一所懸命舞台づくりをしている役者、他のスタッフが気の毒である。
満足度★★★★★
ヘレンとサリヴァンの息詰まる攻防とその後の師弟愛を表した演技は無論のこと、脇もしっかり固めて、良い舞台に仕上がっている。
ネタバレBOX
アメリカ南部の有色人種差別に重なる障碍者差別、女性を労わると見せかけながら、その実自主性を奪い隷属させようとするジェンダー的差別、それらを越えて懸命に生きるヘレンの凄まじいまでの生き方が、観る者の魂を心底から揺り動かす。
無論、今作の脚本は、それだけに留まらぬ深みを具えている。ヘレンの兄、シンプソンの抱えるトラウマや、父アーサーの死因、また肌が白い為一見白人に見えるピーターに黒人の血が混じっていたことが分かると、若い頃にはKKK(Ku Klux Klan)の真似事なんぞをやってチンピラ風だったシンプソンの差別意識が、かなり克服されたかに見えたのも束の間、傲然と頭を擡げ一方的に暴力を揮うシーンなどに差別の構造が端的に描かれているのだ。ここでいう差別とは、差別する側が必然的に被差別者を恐れるという深層心理構造を抱え込むことであり、掛かるが故に過剰防衛、過剰な差別が固定化されるという差別の持つ構造性である。
サリヴァン着任当初ヘレンの鋭敏で的確な感性と明晰な頭脳は、そして誰かの役に立ちたいという社会奉仕の精神は、三重苦という障害の為に多くの人々の観察眼にバイアスを掛けさせ、彼女の真の能力とポテンシャルの高さを見出す者はごく一部の者のみであった。その後もヘレンの努力は、まさしく血のにじむようなものであったが、その真の成果を正当に評価できる者が、多かった訳では決してない。
この点にこそタイトル「OPTIMISM」に込められた意味があるだろう。ヘレンは己の可能性を信じることができ、その信念を実践する事に可能性を見ることが出来た。何故ならサリヴァンが当に己の能力と可能性を映す鏡として現存した訳だし、彼女との人間的紐帯を通して「人類」と繋がる夢を持つことができたからである。彼女が齢7歳にして最大最良の理解者であり、師であるアン・サリヴァンに出会ったことの意味深さをも感じる。更に、サリヴァンの身体が老いと病に蝕まれつつあった時期には、不思議な縁でヘレンの人生の節々に登場しており、彼女の内奥の声を表出したが故に、既に著名であったにも拘わらず出版を拒否された著作を唯一支持、本という形にして出版に漕ぎ着けたピーターの彼女に対する真摯な尊敬と愛に出会えたことが、ヘレンに齎したものが如何に大きかったかも汲み取ることができる。後半、この辺りの事情が、彼女の自伝的書物を出版した肌の白い黒人(白人との恋を禁じられていた)ピーターと恋愛を法によって禁じられていた障碍者ヘレンとの恋として描かれるのだが、この恋の美しいこと。因みにピーターの両親は白人のリンチで殺されているが、何故彼の肌が白いかといえば、祖母が白人にレイプされ産んだ彼の母の肌色が白色の肌の遺伝子を継承し彼もそれを継承したからである。黒人に対するリンチが如何に酷いものであったかは様々な文献に残っているし、小説の描写などからも知ることができるから興味のある方は調べてみると良い。
一方、社会の偏見は易々と消えるものではないから、ヘレンが絶望に突き落とされることもあった。三重苦である己が生きてゆく為にはサリヴァンら周りの人々に過重な負担を強い、遂には死に至らしめると認識して己を余計者と断じ、幽界との境を彷徨するような辛酸も舐めたであろう。だからこそ、逆説的ではあるが彼女は己が人間である為に、他者との信頼関係を保つ唯一の便として希望を捨てなかったのであり、それを保つためにOPTIMISMを必要としたのだ。それ故にこそ、大文字表記なのであろう。
また社会主義的と看做されたことが原因で金欠に陥ったとこともあってボードビルショーに出演することになったケラーが、観客の出す質問に答える演目の場面も上演されるのだが、今作で描かれている通り、彼女のウィットに富み且つ本質的な答えが満場を沸かせたことは間違いなかろう。
ピーターを演じた神山 武士氏の瑞々しい演技、若い頃の不如意を抱えたシンプソンから大人になって南部の紳士らしさを具えた人格を表現した高橋 壮志氏の演技も気に入った。
イスラエル大使館が推奨している! ケッ
ネタバレBOX
2006年に他界した「イスラエル」の作家イズハルの作品2作の舞台化である。タイトルの「At Sea」のSeaとは、キリストが水上を歩いたとされるガリラヤ湖のことであり、描かれるのは14歳の男女の淡い恋物語。当パンでは、1作目のタイトルが「ガリラヤ湖のほとりにて」と題され、この日は字幕なしヘブライ語での上演であった。
2本目は溺れる男の話、当パンでのタイトルは「地中海の波間にて」。主役の男を演じたのは女優であった。科白は英語。1作目より2作目の上演の方が観客には受け入れられたようである。日本人でヘブライ語を理解する者は極めて少数ということもあるであろうし、物語の内容もこちらの方がより複雑だったということもあるだろう。それに、英語を理解する日本人ならザラに居るということも大きかろう。
とはいえ、役者陣の身体の用い方や、役作りをする際のマニピユレイトの手法には、占領の反映が見事に見られる。人間を“物”として観ているのである。原作は読んでいないので分からないが、演出家の大切にしているのは自由ということだそうであるし、2作の演出に際しても役者達の自主性にかなり任せたようなので、却ってイスラエルのシオニストがパレスチナ人に対して行っているジェノサイドをあからさまに反映したのだろう。演劇の切れとしては、中々優れた要素を多く持ち、尖鋭的な表現も多々あってパレスチナの現状を知らぬ者には、その「芸術的」手法の見事さだけが評価されるであろうが、イスラエルの占領下で原住者のパレスチナ人が日々罪も無く虐殺され続け、土地・財産を奪われ続け、逮捕・収監されるのみならず、拷問を受け続け、自由を剥奪され、収奪され続けていることを無視し続けているのであれば、そんな自由は糞喰らえ! である。
創作した関係者総てが占領と向き合うのでない限り、評価の対象とはし得ないと考える。シオニストによってグロテスクそのものと化したイスラエルという「国家」を己の内面の問題として捉え、戦わないない限り、多少とも実情を知る者の批判は避けられないと知るべきである。
満足度★★★★
かなり批評意識の高い作品。(華4つ☆)
ネタバレBOX
“茶化す”というアクションに救いを求める所、如何にも関西の劇団らしい。その本質は矢張り大阪か? 男女の機微も仕事上のあれこれも、基本的には、生命のプロトタイプである女性(♀)VS♂の関係で描かれている点でも、本質を生きる文化的伝統を持つ関西に相応しい。演出上、上手いと思ったのは、場転である。音楽に合わせて出場者が皆設えられた道具の周りを回りながら、前場で用いて次の場面では必要ない小道具などを片付けてゆき、次の場面の出場者だけが、最後に残って新たな場面を拵えてゆく手法がユニーク、リズミカルな音響も効果的だ。内容的には、かなりシリアスなものなのだが、茶化す精神によって自殺や自殺願望が緩和され、黒からグレイへの変質を遂げている点も笑いの効用を巧みに用いて見事である。
満足度★★★★
審理編を拝見。
ネタバレBOX
裁判員裁判もの。本当の裁判は、素人にはかなり退屈で、それをそのまま演劇化しても寝る者続出ということになってしまう。そうさせない為の工夫が随所にちりばめられた作品。観客を動員するには、徹底的に白熱するような議論を戦わせて緊張を持続させるか、今作のように、笑いの要素を盛り込みながら、裁判の本質部分をお茶の間化するかしかあるまい。日本のこの手の作品では後者のような作品は稀なのではなかろうか? その意味で先駆的であるかもしれない。何れにせよ、楽しませてくれる。
満足度★★★★
歌、踊り、演技、形態模写と
ネタバレBOX
様々な要素が詰まっているので各々の連携をどのように必然化できるかに称賛の分かれ目があったのだろうが、各々のレベルはかなり高いのに、相互の関係に内的必然性を余り感じられなかった。この点を改善すれば遥かに良い作品になろう。
満足度★★★★★
舞台美術は、かなりシンプルだが、使い方が上手い。奥中央はゴシック様式の半円を上部にあしらったような出捌け、下手は上半分が斜めに走る稜線を交錯させた模様の入った窓のような拵え、上手は壁面になっているが、状況に応じて仕掛けが機能する。舞台上は基本的にフラット。手前に掛かる2段階の額縁状の縁から植物の葉が長く、短く垂れ下がっている。
ネタバレBOX
「白雪姫」というファンタジーの後日譚。描かれるのは甦った白雪姫の20年後の物語だ。彼女は、毒りんごを彼女に食べさせた当時の女王と同じ年齢になっていた。この辺りの設定の上手さに感心する。何故ならこの因縁めいた設定が、プロットの宿命的な因果律を発動させるからである。実際、この子供向け世界的ファンタジーを大人の苦い寓話に変じてみせるのは、容易な作業ではない。筋運びの上手さは他にも白雪を救った王子と彼女が事件後まもなく王宮から姿を消したこと、鏡製作工場に新たに入った従業員、アダムさんは林檎を決して食べないこと等の伏線が、後半見事に生きてくることなどが挙げられる他随所で見られるが、取り敢えずはこれらの点を指摘するに留めよう。初日を終えたばかりだし、後は観てのお楽しみだ。
この伏線を活かした後半と、アダムさんが担当している工程が、これまた因果律を為していて物語を自然にみせてくれる。最終部分の描き方も大人の寓話に相応しくハッピーエンドではあるものの、苦味を残した辺り流石である。
満足度★★★★★
今作、何の前提知識も持たずに拝見した時点では、(華5つ☆)
ネタバレBOX
シンギュラリティも間近に迫る中VRのみならずフェイクニュースや仮想領域での無根拠な情報、噂などによって浸食されている現在の我々の時空に於いて、メディアリテラシーを持たず、その重要性も認識していない人々の妄動・判断不能に陥った挙句の暴挙等々を見た経験から、その無責任や自分の頭を使って考えることの放棄、観察力、判断力の劣化を非難することは容易いと考えた。だが、批判するだけでは無根拠の情報と事実をないまぜにした現代社会の情報ネットワークを如何に篩に掛け、ファクトのみを取り出した上で判断材料として用い未来に対する責任を果たすのか? という問いに答えることはできない。実際多くの人々が情報選択の過ちの為に未来に対する選択を誤ってしまった。而もこの現実は、今作が描いているシンギュラリティ以降の時代ではなく、現在我々が体験している中での出来事だから、今作の舞台の描く時空では、既に遅れた発想であろう。現代日本ですらこれだけ倫理的退廃が問題化されないのは、その不正確な情報を事実と勘違いして判断を誤り、誤った判断に基づいて行動した結果だとすると、それは瓦解しか生むまい。我々地球上の食物連鎖最上位に在る者の倫理的退廃は、他の総ての動植物に決定的な影響を齎す。何故なら人工的な核物質を始め、現在の人間の科学力では根本的な解決策を持たない、即ち制御できない技術が生命の母たる地球環境そのものを破壊しているからである。この破壊の結果急激に微妙な生態系のバランスが崩れているばかりではなく、生態系そのものを形作る大気・水の循環、地表温度や、大気の構成要素、自然由来によらない核物質の爆発的増加等々が、今当に世界中で門題を引き起こしていると考えられるのだ。今、自分が挙げたようなこと総てが杞憂に終わってくれればこれほど嬉しいことはない。然し、この夏我々が経験しているこの異常な暑さや、大雨による被害はどうだ? 世界各地で起こる山火事、干ばつなど枚挙に暇が無い。ごく一部の良心的な核物理学者しか言及しないが、原発の冷却によって水温が上がってしまった川や海の水が、温暖化の原因の一つではないと誰が断定できよう。原発の温排水については、原発の規模から発する熱量は計算でき、取水口の水温を排水口の水温との温度差で比較すれば、用いられた水量を考慮した上で水に吸収された熱量は計算できるだろう。当然、その水温上昇率は計算できる。またその温排水がどう拡散するかについては、温排水に含まれる核核種をトレーサーとして用いることでトレース可能になるのではないか? それとも既に放出された過去の核核種の影響で計測不可能になっているということか? この辺りのことは、良心的な核物理学の專門家に問い合わせて見る外なかろうが、誰でもこの程度のことは考えつくハズだ。閑話休題。
話を元に戻そう。今作では、VRによって現実と非現実の境界が分からなくなってしまった世界でのSEとAIの闘いを描いているのだが、無論、脚本はそれだけで終わる程単純ではない。ちゃんと人間を描いている。IT業界での過酷極まる労働問題の中ですり減ってゆく個々人、有ること・無いこと確かめもせずにその情報を真として採用することから起こる苛め、苛める側の多くは匿名性によって守られる為有効な反撃もできぬまま自死に追い込まれる人々、何とかこのような悲劇を失くそうと努める人々などが因果律によって結ばれ終結に向かってなだれ込んでゆく。ラストを全き悲劇に終わらせていない点でも、描かれている世界がSFでありながら強烈なリアリティーを持って迫ってくるのも、作家の本職乃至は前職がSEなどコンピューター関係の技術者であったのではないか? と感じさせる細部を描く手際による。同時に当パンを見ると、今作は実際に亡くなったコンピュータ技術者へのレクイエムのようにも取れるのだ。優れた作品として結実させてくれた今作の作・演出家、出演者、スタッフの方々総てに感謝すると共に作品を捧げられたお二人の女性技術者を悼みたい。
満足度★★★★
アリスを冠した作品をドガドガはこれまで3回上演しているという。(追記2018.8.24)
ネタバレBOX
まあ、ルイス・キャロル作の傑作だから「不思議の国のアリス」「鏡の国のアリス」を読んだことがない、という文学好きは居まい。元々の原作は、原作者ドッジソンと付き合いのあったアリス・リデルの為に書き下ろされた作品だが、数学者であったドッジソンは一見ナンセンスとも取れる数々のエピソードに、深い意味とイギリスの伝承童謡集であるマザーグースのナンセンスを巧みに融合した為、結果的に読む者のイマジネーションを極大化し世界文学の位置を獲得した。その一例を挙げておこう。有名なマッドパーティーに参加しているメンバーだが、帽子屋、アリス、三月兎、眠り鼠である。帽子屋がマッドなのは、当時大流行したシルクハットの素材であるフェルトを加工する工程で水銀を用いた為その毒性に脳を損傷した者が多かった為であり、3月兎は発情期の雄兎、眠り鼠は寝てばかりで現とも夢とも知れない世界の住人である。アリスは体が延び縮みしたことでアイデンティティーが不如意な状態であった。何れもその参加資格を充分に持ったキャラクター設定という訳だ。無論、イギリスの慣用句に関連している部分もある。
このナンセンス煌めくファンタジーは、今作のベースという程の位置は占めていないように思う。余りにも多くの要素が必然性なく並置された感があって統合感に欠けるのである。何時ものメンバーが欠けていることも、今回はアンラッキーであった。無論、座長の丸山 正吾氏の陰日向での厚いフォローと、歌も踊りの切れも演技力も大きく成長した大岸 明日香さんの活躍も見物だが、矢張り要諦は、脚本のプロットがナンセンスはナンセンスなりの必然的展開を持っていることだろう。プロットの練り方を今一歩深めることができれば、更に面白い作品に仕上がるように思う。
満足度★★★
箱馬を使うが、舞台上は基本的にフラット。演目は上演順に「やまなし」「よだかの星」「月夜の電信柱」「注文の多い料理店」の4作。(華3つ☆)
ネタバレBOX
これらの作品をオムニバス形式で上演するが演出は可也オーソックスである。ただ、夏ということもあり、オープニングのダンスでは浴衣を着て踊ったりもする。が、浴衣では基本的に手踊りになるのでこれは長所短所相乱れる結果になった。夏らしさは出ていいのだが。西洋的なダンスをやるなら下駄を履かせてタップ風のダンスをやるなどというのも手であろう。
「やまなし」は様々な色彩のイメージや水底から見える水泡の煌めき、魚体の色彩変化など瑞々しいイメージが作品の大切な要素なので、予算に無理がなければ照明なり何なりで銀河のイメージや色彩の変化をグラデーションで表すなどの工夫が欲しい。
基本的に作品は朗読形式をベースに進行し、適宜キャラクターが形態を演ずる形式だが、間の取り方、音量の調節、センテンスの区切り、滑舌など何れも正確で明瞭であり、どの朗読も上手い。形態模写もまずまずである。スタニスラフスキーメソッドをキチンとやった韓国小演劇界のトップクラスには到底及ぶべくもないが、未だ若い役者ばかりなので今後の修練次第で伸び代は大いにあろう。
Jシアター自体が若手育成を目指しているということもあり、余り奇を衒った演出をしていないという側面もありそうだ。
満足度★★★★
カリブ海の海賊物である。無論大ヒットした映画のもじりだが、滑りそうな小ネタを含め、外連味たっぷり、前説とオープニングの敢えての混同、手品などを上手く取り込みながら、楽しいエンタメに仕上がっている。殺陣のシーンが結構多いのだが、これは更に訓練すべきだろう。
檀上は舞台奥に船の舳先をあしらった造作がある他、上手・下手壁にもシンメトリックに大道具が作られていて、上手の物からは手前に引き倒すとベッドになる仕掛けが付いている他、正面中央の張りぼて中央は出捌け兼袖になっている。その左右は手前に引き出すと裏側に階段が付いていてアッパーデッキから降りて来られるようになっている。(追記後送)
満足度★★★★★
舞台中央にほぼ正方形の平台を置き、平台中央に縦長のテーブル、長辺中程に向い合せに椅子各1脚。上手、下手壁にそって各々数脚の椅子が置かれている。平台から奥へ向かって登り階段が3段、4段目が踊り場になって更に奥へ向かって3段。正面奥は、樣々な形の多くの窓枠をあしらったような造作が嵌められた壁面、見ようによってはたくさんの窓を象徴しているようにも取れる。
ネタバレBOX
極めて判断が難しい問題を提起する作品である。今作はある事件をベースにしているが、その事件とは実際に17歳の少年が起こした浅沼稲次郎刺殺事件である。犯人の山口二矢は、今作に描かれたように歯磨き粉を用いて遺書を残し縊死した。(有名な自死であり遺書なので内容は個々で調べて頂きたい)大物右翼の演説に感銘を受けて当初拒まれたものの後入党を果たし、暗殺事件前に脱党したのも調書通り事実である。一貫した彼の行動原理から言っても、実践的論理から見ても、またこの事件以前の彼の行動を見ても、公安からの自白強制や調書改竄などの可能性は極めて低いと見るのが妥当だろう。
以上が、今作で描かれた真(まこと)のモデル、二矢の事件前後の情報であるが更に詳しいことは自分で調べて頂きたい。彼の親族などについてもかなりのことがネットで調べられる。因みに事件が起こったのは、1960年10月12日15時5分頃。
本論に入ろう。今作の主眼は、純粋な精神を持った真に思考が形を与えた時に形作ったことと、通常の過程、即ち世間体だの他人への配慮だのというマヤカシの論理を遵守しつつ社会参加の経験知を通して大人になった人々との齟齬と対立を示した作品ということができよう。要は相対的価値観を容認する不完全を前提とした人間と、絶対的価値観を有する人間との対立である。
相対的価値。真はこれに対して異を唱える。何故なら彼女は純粋精神の系譜に属し、絶対を追及する主体だからである。演劇を演劇足らしめる根本的な対立が、ここに現れている。
繰り返しになるが、世間知や常識を纏うことによって生き続ける不完全を認識し、経験知に基づく世間一般の子供、大人達の価値観と、真の精神が希求する絶対は決して相容れない。調書内容から、真は人生を相対化するような前提を持たずに思考のオーダーを持っていたことが考えられることから、その思考の唯一無二の発展形式は、尖鋭化することのみであったという事実が導かれる。この思考が齎した悲惨の結果をどう我々が判断するのか? を今作は問うていよう。この際、注意すべき点は、先にも述べた取り調べの中で明らかになる真の生い立ちに学校の友人が殆ど居なかったことだ。この事実は極めて示唆的であり、唯一心を通わせた双子の兄の死が彼女に齎したアイデンティティーの地すべり的崩壊が、彼女の行動を反社会的で過激なものとした引き金・内的原因であろうことが類推される。だが、彼女が孤立していればこそ、この内実を類推することが常識人にはできない。この点にこそ、この事件の悲劇があるように思う。
蛇足ではあるが、委員長刺殺に向かう階段の数は、踊り場を含めると7段。階段自体は6段というのは、キリスト教神秘主義の6に関する解釈と照らし合わせると興味深いものがある。6は、神秘主義では完全な数とされている。その約数を総て足しても、掛けても6になるからであり、神が6日で世界を創り7日目に休んだと旧約聖書に記されてもいるからである。では、完璧な数を越え、神の休息の合間を縫って齎された殺人の罪は、誰によって何の為に齎されたのか? という問いが当然発生するのであるが、真が人生を相対化するような前提を持たずに思考のオーダーを持っていたことから、その思考の唯一無二の発展形式は、尖鋭化することのみであったという事実が再び想起される。
これは神の不在乃至あずかり知らぬ所での我ら人間の行為が殺人であるという極めて示唆的な解が、キリスト教が一般に示す原罪という発想の現代的原点にあるのではないか? という問い掛けである。通常の原罪解釈であるエデンの園でのアダムとイブの知恵の木の実摂取問題も宗教的には神への不服従ということになるのだろうが“神が死んだ”後に生きる我々の原罪とは、当に我々の判断で他者を殺害するという、悍ましい殺人にあるのではないだろうか? 神の関与が無いことがこの階の段数によって示されていることが、その例証となるかも知れない。
満足度★★★★★
ただただ、素晴らしいの一言。(華5つ☆)
最初、普通の授業の時の教室のように並べられていた机や椅子は、ナイゲン開始時、レイアウト変更で変わる。各委員4名は黒板の前に、黒板と並行して机を並べ、各クラス代表たちは片仮名のコの字を90度回転させた形で机を並べる。黒板上部には時計、会議の進行がリアルタイムで表示される。
ネタバレBOX
オールブラックスのパフォーマンスのように足を踏み鳴らし、机を手やペットボトルで叩きながらの入場パフォーマンスで一気にテンションを上げて幕が上がった。この演出が、先ず素晴らしい。内容的には既に定番となっている作品だから、細かい説明はしない。要は高校の文化祭を生徒たち自身の自主的判断で運営実行してゆく為の決め事を、夏休みの間の3日間で決める為の話し合いが「ナイゲン」である。縮めなければ“内容限定会議”だ。参加しているメンバーは以下の通り。文化祭実行委員長1名。委員2名(うち1名は副委員長兼任)、監査1名。1~3年までの各クラス代表が9名という構成だ。尚、議事進行は文化祭実行委員長が行う。
他にも細則が幾つかあるが、これらの内規とクラス代表たちの利害得失、自主独立の理想、恋心や嫉妬心が各々の転回点となって舞台が進行してゆく。議論の過程に於ける民主的運営の徹底は暗黙の紳士協定であり、議論を尽くした後の最終決定は全会一致を旨とする為、如何にこの二つの要件を満たして会議を終えるかは、これまでのナイゲンの歴史、今後民主的且つ自由な議論の徹底を維持しつつナイゲンを継承してゆくことが出来るか否かという、継承の問題も含めて各委員が倫理的、社会的な責任を負っているという意味でも頗る本質的な作品である。
一方、様々な欲求や本能的なことも含めた衝動が、利害が、理想を蝕もうとする。これら全体を通して民主的に自治を行うとは何か? 或いはどのようなことか? 自主自立の自由闊達な精神とは何で、どのような態度で貫かれるか等々極めて大切でのっぴきならない問題が提起されている点、それが本質的であればあるほど、本能や利害との擦り合わせは難易度を増すと共に、時に極めて滑稽な人間味を表す。これらの細部を総ての役者が過不足なく演じている点が見事である。
満足度★★★★
自分が今後を期待する劇作家の1人。注目すべし! 但し今回は、移行過程にあるので、その分、作品としては若干の弱さがある。然し必要な不徹底だ。
ネタバレBOX
この劇団というかユニットの公演はこれまで3回拝見しているのだが、今作は理科系を強く出してきた今迄の作品から、文化系の人間にも分かり易いということを意図的に探りそちらへシフトしようとする移行過程の作品という印象を持った。自分の体験から理科系の人間の多くは数学的思考ができることからくる世界に対する態度が、頗るピュアな人が多いように思う。そしてこの傾向は、極めて純粋な抒情性を保つ感性に繋がるように思う。詩人、立原 道造は建築専攻であったから矢張り理科系だが、彼の抒情性は誰しもの認める所。同時にそのシャープな抒情の特異性も多くの読者が認める所であろう。今作は移行過程の作品であるから、未だ文化系的な人間なら持っている方法的知見についての未熟さを免れては居ない。どういう点かと言うと、人間の持つ様々な矛盾や要素に対し、己の恥部を含めて精神的に裸になって対峙する覚悟と、その覚悟の上で徹底的に対象を観察するほどのインセンティブの強さなり己の抱えるカルマとの葛藤である。こういう要素を己のものとするには、体験が一番だが、それがままならない場合には、己が何を表現したいのかを徹底的に追及することが有効であろう。
満足度★★★★★
たった1日だけの公演なのが残念!
ネタバレBOX
ロシアのクルガン人形劇場・、ガリバーによる1日だけマチネ、ソワレの公演だ。演目が「竹取物語」ということもあって用いられている仮面・人形やその所作については、日本人が関わり演出もサンクトペテルブルグ演劇大学で演出を学んだ日本人が担当している。ロシア側からは、人形遣い3人と人形遣いでもある照明担当、座長が来日。
板上には、孟宗竹の林が、上手、下手とも舞台ほぼ中央手前に各々1つずつ。それぞれが回り舞台になっていて回転すると四阿が現れる。舞台中央の上方には満月。
恰も一夜にして起こった物語、或いは長い夜の間に起こった物語であるかのように舞台上は基本的に終始昏い。人形遣い達は黒子の衣装を纏い時に応じて面を手に持ち布などで衣装を表現しつつもう一方の手でかぐやを抱くなどの所作を演じたり、状況によって面を顔につけたりと通常の面の用い方とはかなり異なる使い方をする他、時に全体の動きを自然でスムースに見せる為に独りの動きを複数の人形遣いで演じたりもする。物語自体は、演者の数が少ないこともあってか、5人の求愛者の内、帝だけで代表させるなど本質だけを取り出した分、シャープに仕上がっている。かぐやの成長のスピードが尋常でないことは、その人形のサイズと衣装、髪型などで表しているが、人形をチェンジする手際は見事である。また黒髪の美しさが異様なまでに強調されているのは、白人の神秘化したオリエンタリズムの一側面を表現しているのだろう。照明の変化で見事なのは、かぐやが月に戻るシーンで月が地球に変じる点だ。照明は随分工夫を凝らしたという。
更に演出で際立っていたのは、開演直後の長い間である。この間は、最も古い物語の古層を示すと共に、ロシアと日本との距離、文化的相違、現代と往時との超え難い時空を表現して一挙に観客を物語世界に誘う。
音響に関しては科白が一切なく、ロシアで考案されたグリュコフォンという楽器を中心にタンバリンなどを組み合わせた独自の音響で舞台を包み込む。神秘的であると同時にファンタジックな音響空間を創っている点もグーだ。
演者達の姿勢で素晴らしいのが、表現様式や人形の形の違いより、大切なことは、人形は生きていると演者達が考えている点に在る。この姿勢があったればこそ、彼我の差を越えてこれだけの作品を創り得たのであろうが、ロシアにも「竹取物語」に似た「雪の娘」という民話があるというから面白い。
満足度★★★
台風接近の中エンコ迄足を運んだ公演だったが、残念ながら本が悪い。頑張っている役者も居たし、力のある役者もいたので、それに免じて一応☆は3つにしたが、本の本質的な弱さを変えなければ高評価は得られまい。(追記2018.8.12)
ネタバレBOX
では、今作の脚本の何が弱いのか? を指摘しておくべきであろう。恐らく作家にとってはそれなりの自信作なのであろう。そこが独りよがりなのだ。今作は、深淵の淵に立つ可能性を秘めてはいる。然し実際にその深淵と命懸けの格闘をし、死と狂気の狭間で震吟した痕跡・形跡が見当たらない。謂わば頭の中でストア派的なレトリックをこね回しただけである。
一方、演劇とは、科白の身体化によって成立する総合芸術である。つまり頭脳の在る頭部も身体の一部と考えるのが演劇に於ける脳髄の捉え方であるべきである。然し乍ら今作では脳が身体を牛耳ろうとして空転しているのだ。即ち思考が身体化されていないのである。このことが、演劇で最も大切な創作法であるヴィヴィッドに即ち個々の具体性とリアリティーに於いての自然な筋の展開をオミットしてしまっている。これが原因で本当の対立が本に示されていない。と言うことは、ダイアローグの芸術である演劇の本質を満たすことができていないということである。作家は真に、己のテーマと格闘しなければならぬ。このことを措いて本質を描くことは永遠にできまい。そしてこれができれば、物語をヴィヴィッドに動かすメルクマールができてくる。こうしてできたメルクマールを連ねてこそ、プロットが完成するのだ。この過程を疎かにするから、多くの者が失敗する。
満足度★★★★★
観客参加型の推理劇なのでネタバレはしない。公演形式は、とある場所に集められた人々のゲームが先ず演じられ、観客はこの芝居を観て30分間で4問の問いに答える。解答シートを集め終わったら、正解を得る為の謎解き芝居が上演されるという形だ。大いに頭を使って楽しめる作品であり、最終的に解説コーナーもあって?くれる。
満足度★★★★★
テンポの良さ、舞台裏を見せる“風”に創り込まれた仮構世界の組み立ての上手さに、はっちゃけで如何にも現代日本の若い女性の感覚的表現をバランスよく配置した演出の巧み、タイトルとこれら総てを自然に表現した舞台美術の軽さなど、総てのバランスが素晴らしい。(追記後送)
満足度★★★★★
第2部開始は13分後、渡辺作品に出演した女優の三田 和代、銀粉 蝶、女優兼劇作家、桑原 裕子の3人を檀上に、演劇論、俳優術、総合芸術である演劇に於ける演出家、脚本、役者の関係等々活発で示唆に富んだ対話が為されると同時に、当に当事者ならではの発想、視座、経験から生まれる発言からは、ハッとさせられるような深い知見がいくつも発見できる頗る有意義な催しであった。
また、渡辺の若い頃、鶴屋南北賞を受賞した桑原の若い頃の演劇との向き合い方についても、本物の才能を持つ者達の共通項が見て取れるなど、様々な収穫があり、1,2部合わせても僅か数時間の催しとは思えない程の収穫があったことは、観客として極めて喜ばしいことであった。
満足度★★★★★
第一部「劇作の力-渡辺えりに聞く」:渡辺 えりの劇作家協会会長就任と彼女の主宰する劇団オフィス3○○(現在名)の40周年記念を祝し丸尾 聡氏がインタビュアーを務めて、劇団の歴史をその秘話と共に語る。劇団がこの40年間に上演してきた総ての作品のフライヤーの写真を背景に1作、1作について渡辺がその思い出や、裏話を語るという形式で基本的な流れが作られ、撮影も入っていないことから、オフレコ話も存分に出て極めて楽しめるイベントになった。当然、話は伯仲し、予定の時間を越えてしまったが、貴重な話に観客の誰一人不満を漏らすこともなく第1部を終了。