
宮殿のモンスター ~The Monster in the Hall~
劇場創造アカデミー
座・高円寺1(東京都)
2025/02/21 (金) ~ 2025/02/23 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
辛く苦しい主題を内側におさめず、外へ外へとひらいていく果敢な上演だった。
ゲームやラップを用いてコミカルにPOPに描かれる分だけかえって痛々しい現実が胸に迫る。
自助・共助ばかり叫ぶ世の中に疑問や反発を覚えると同時に、公助という情報の届かなさ、人に助けを求めることの難しさ、他者から延ばされた手をおいそれと信じ、掴むことのできないままならなさが切々と描かれていた。
以下ネタバレBOXへ続く

幸子というんだほんとはね
はえぎわ
本多劇場(東京都)
2025/02/26 (水) ~ 2025/03/02 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
狂おしいほどに哀しく美しいララバイでありアンセムだった。
歌と歌の間に物語があって、それは詞と詞の狭間で私たちが生きている、ということでもあるように思えた。
人によって生まれゆく街を、連綿とつづくその営みによってできている世界を、こんなにも可笑しく、痛く、さりげなくも絶大に描いた演劇を前に言葉なんて、本当に言葉はなんて頼りなくて、私はなんて情けないのだろう、と。
泣き虫だから沢山泣いてしまったけれど、容易に感動させようとしない、カタルシスやクライマックスに収めないところに逆説的だけれども何よりグッときたのだと思う。
1人1人の人生がまるで無関係な顔して進んでいき、無理矢理接続されることはなく、でも"ほんとは"全部が繋がっている。その様は、私たちが意図せず進行している人生や人との邂逅そのものであるからして、とても自然に心身に物語が浸透していくように感じた。
人生はままならなくて、不条理で、不遜で、凝りずに同じ失敗をしてしまうし、どこまでいってもその道行は簡単にはいかないから、人は時々歌を歌うし、同じ歌を知ってる誰かを探すように他者をもとめるのかもしれない。
喪失の苦しみや不在の哀しみを互いに救い、救われることは多分どうがんばってもできなくて、だけど、そのままならなさを少しの間だけ掬い上げることは多分ちょっとできて、そのために言葉や音楽、そして演劇がある。こんな風にあるといいな、と思った。祈った。そう思える演劇だった。
ほんとのことに気づかないように生きてくことも、気づいたふりをして生きていくことも私たちはできてしまうから、時々こうしてはっきり気づきたいのだと思う。「ほんとはね」って誰かに言われたいのだと、歌ってほしいのだと思う。狂おしいほど哀しく美しい歌声と存在に縁取られながらそう思った。止まらぬ魂の震えから隣の人と肩がわずかに擦れあった瞬間、そのえもいわれぬ温もりの中で私はそれに気づいた気がする。

他者の国
タカハ劇団
本多劇場(東京都)
2025/02/20 (木) ~ 2025/02/23 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
「他者」の対義語は「自己」なのだろうか。
そんな自分の考える「他者」には一体誰が含まれ、誰が含まれていないのだろうか。
舞台上、戦前の医療界に横たわる諸問題がみるみる世相を詳らかにするけれど、それはかつてのそれではない。"今"だった。
選民意識や優生思想、横暴なホモソーシャルとそれが招く女性蔑視、性被害に貧困、望まぬ妊娠、ヤングケアラー、そして戦争。人に対し「生産性」などという言葉を放つ人間が何年も国政の中枢にいるこの国が定義する「他者の国」とは一体どこだろう。エンタメの深部から何一つとして解決せぬ様々な問題に手をのばしていた。
緊張と緩和をシームレスにそれでいて混在させず一つ一つの抑揚を生む俳優陣が一人残らず素晴らしい。誰より奔放に振る舞う母柿丸美智恵さん、相手の瞳を射抜く様に信念を貫こうとするその娘平井珠生さん、愛着と母性を全身で体現する田中真弓さん。女が排除される時代で自分を生きる女たちの姿があった。

大恋愛
演劇企画もじゃもじゃ
SCOOL(東京都)
2025/02/14 (金) ~ 2025/02/16 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
他の何かを「大」として恋愛が「小」に収められることがある。だけど私は恋愛なんか、とか、色恋ごときでと言われると居た堪れなくなってしまう。そんな感触は近年より強くなった気がして恋愛の話題すら憚られる。恋愛を扱う演劇も減った。
そんな中で『大恋愛』ときた。演劇企画もじゃもじゃである。
私はこの作品が好きだった。
そして観終わった今、この『大恋愛』における「大」は特定の恋愛がいかに偉大だったかを示すためについたものではなくて、もっと広く果てしのない意味での「大」だったのだなと気づいたのだった。
前半の段階では「このまま私(恋愛)演劇に突っ走るのか」と思いきや(個人的好みとしてはそれもいいのだけれど)着陸態勢から着地にかけてぐっとフィクションの濃度が濃くなり、ラストにおいては物理的な予想はついたもののそれによって導かれる精神的な体感は想像を越えたものだった。その瞬間本作における恋愛の大きさが形を損なわれながらも意思をもって現れた様だった。
恋愛も文化も無意味化した近未来でランダムに提案される精子提供者の中から「どれでもいい」精子を選んで妊娠する女性。子を多く産めば働かなくていいらしいが、ぼんやり産むべきか悩ましくなる。そこに「ちょっと待った」と前世で度重なる失恋を繰り返した魂がやってくる。
ここまでがあらすじで、以降は歪な母子による会話(それはすなわち過去と未来の会話)が二人芝居によって描かれていく。作品や人物造形の立て付け上どうしてもフィクションの人物とノンフィクションに近い人物が混ざることになり、それによる戸惑いもあるのだけど「恋愛の話してる時の当事者(話し手)と聞き手ってまさにこんな感じやな」と興味深く感じたりも(自虐的語りになるのも含めて心当たりありすぎて...)観客の反応は分かれそうだけど、少なくとも私はその混在と混雑がモチーフには合ってる気がしました(これも好みなのだけど)
恋愛時に対象を食べたくなる程可愛く思ったり、対象そのものになりたくなったり。そんな歪みが時に直接的に時に示唆的に描かれてたのもよかった。
大恋愛はすなわち≒多失恋でもある。(恋愛の数と大失恋の数が比例しない点はまさに恋愛のバグであり真理...!)
失われたものの代わりに手に入れたはずのものが虚しくて、満ちなくて、どこまでも寂しい。そんな人間の姿がありました。
恋愛や性愛を人生において"大"きなものとしている私は、そして文筆における主題にすら思っている私は至極私的な理由でこの作品を観ることを決めた。だけど思った作品では全然なかった。思った以上に"大"きかった。そこがよかった。この先、精度を高めた再演があればなお楽しみ!

蘭獄姉妹の異様な妄想
悦楽歌謡シアター
遊空間がざびぃ(東京都)
2025/02/12 (水) ~ 2025/02/16 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
私が何に惹かれて当日券に駆け込んだかというと、それはこの企画に通底する恐ろしいまでに純粋な演劇への衝動でした。
悦楽歌謡シアターの小幡悦子さんと歌川恵子さんは演劇を始めて間もない一昨年に共演、その作品の作演出を手がけた松森モヘーさんの演劇に惚れ込み、自分たちも演劇を主催をしてみたいと立案し上演に至ったのが本作だという。
さらに遡ると、お二人は元々はモヘーさんの作品の観客だったというのだから演劇って本当に恐ろしくて素晴らしい。
誰がいつ始めてもいい、そしてどんな演劇があってもいい。
そんな当然のことをなぜか私は時々忘れてしまう。忘れたくないのに。
だからこういう演劇に出会うといてもたってもいられないのです。
意味とか技術とかだけで演劇は語れない。理屈じゃ説明できないものに会いたくて、びっくりしたくて、させられたくて演劇を観ていることを改めて気付かされた気持ち。
作品はまあ極めてカオス!!でも、それもそのはずで妄想というものが混沌としていないはずはなく、私もまた涼しい顔しながら頭で考えてる様々を一つに具現化したらこんな感じかもしれない。
みんなで同じ歌を歌うこととそれぞれが好きな歌を歌うこと。その双方いずれもが人間の"異様な欲望"であり人生そのものなような気もして私はやっぱり、そのどちらかではなく、どっちもやってしまうこの演劇の破茶滅茶さに、その混沌にグッときてしまう。
私もまた演劇に人生を狂わされた人間の一人です。そして救われた一人でもある。
人生においてはベテランで、演劇においては新人のお二人。歌川さんの瞳があまりに美しかったこと、小幡さんの声がとびきりまっすぐだったこと。こればかりは他のどの演劇を探しても見つからない。
「演劇の主催」を"妄想"で終わらせなかったこと。意味のない演劇があってもいいと叫びながらその存在に意味が宿っていたこと。いつか私も舞台に立つだろうか。恥ずかしながらついそんな妄想をしてしまった。
純粋に狂いゆく演劇と人生だ!

女性映画監督第一号
劇団印象-indian elephant-
吉祥寺シアター(東京都)
2025/02/08 (土) ~ 2025/02/11 (火)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
私は最近女性が男性や社会とたたかうべく連帯する、いわゆるシスターフッドの物語を手放しで喜べなくなってしまった。個々で考え方も生き方もまるで違う複雑な私達はその実女同士というだけでは簡単に手を繋ぎあえない。だから時折物語のクライマックスやカタルシスのためにそうさせられてしまうことに違和感やもどかしさを覚えはじめていた。だけど、そこまでをしっかり見つめている作品ももちろんあって、『女性映画監督第一号』はまさにそんな作品だと感じた。戯曲も上演も定点におさまらず本当に素晴らしかった。
表題から抱く物語のイメージを一つも二つも飛び越え、至らぬ自分一人の思考では到底辿り着けない風景をひりひりと見せつけられた。
「芸術や表現の世界で女性の評価が遅れる」という現実やその中で活躍することの難しさを詳らかにしながら、性別問わず芸術や表現を生業とする人間がそのブレイクや成果の為に誰かの存在や人生や歴史を無自覚に搾取/消費してしまう加害も明らかにしていた。本当の連帯はその自覚からだと手に握らされた。
「眼差しの権力」という言葉をじゃりじゃり噛み砕く帰路。
西瓜の種はそれを食す時にはたしかに不用だが種がなければ新たな実は生まれない。私はまだそう信じたい

花と龍
KAAT神奈川芸術劇場
KAAT神奈川芸術劇場・ホール(神奈川県)
2025/02/08 (土) ~ 2025/02/22 (土)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
なぜこの公演は舞台に屋台を出しその場で飲食飲酒ができるようにしたのか。
舞台上(=物語の内側)に私たちの営みを取り込んだのか。
そしてなぜ今この物語だったのか。
観終わるとともに身体中にその全てが知らされていくようで胸が詰まる。
戦禍や疫禍や災害、時代はいつも激動で、そこで生き働く人々はどうしても複雑で愛おしい。
時も場も違うけど私はマンや金五郎その仲間が好き。手を取り合って人生を労いたい。そして、女は弱さと不幸の鏡じゃない。強く、賢く(時にはずる賢く)。どの女性もタフにかっこよく描かれていて清々しかった。
舞台上を抜け席に座りそして町へ出る。癒えてない事に気づいてなかった傷をそっと塞がれた様だった。舞台と客席、劇場と町、物語と現実のあわいを龍が高くすり抜けていく。そこに一つ二つと花が咲く。私たちは何度でも旗をあげることが手を取り合うことができる。そうしてきっと不死身の如く再生できる

ここはどこかの窓のそと2
階
テルプシコール(TERPSICHORE)(東京都)
2025/02/06 (木) ~ 2025/02/08 (土)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
図書館の裏、物語の中、電話の向こう、そして、窓のそと。
ふと、宇宙のポケットにおさまるようにどこかにひっそり、しかしたしかに在るかもしれない時間と空間を、どこかに還っていくように昇っていく煙とともに見つめた。中野テルプシコールに秋の風が吹いていた。

逆VUCAより愛をこめて
劇団スポーツ
駅前劇場(東京都)
2025/01/31 (金) ~ 2025/02/02 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
私が思う劇団スポーツの魅力は、どれだけバカバカしくやっても、たくさん笑いを起こしても、「死」に、それはすなわち同時に「生」について真摯にとらえることを実は一瞬たりともやめないところ、なのだと思う。
私はその切実に胸がつまる。
ということが確信となった公演でした。ふざけているようにとっても真面目で、かっこいい団体だと心から思った。

寂しさにまつわる宴会
上田久美子
蒲田温泉 2階 宴会場(東京都)
2025/01/24 (金) ~ 2025/02/03 (月)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
寂しいからなのかな、とふと思う。私がなんでも多めにしてしまうのは、寂しいからなのかなと思う。
買わなくていい量の日用品を買う時。
作らなくていい量の料理をつくる時。
どんな文章もつい長くなってしまう時。
演劇を観るのも、映画を観るのも、本を読むのも、音楽を聴くのも、お酒を飲むのも、銭湯に行くのも、セックスをするのも、結婚や妊娠や出産ですら、そして文章を書くのだって、私が好んでやっていることは全部全部、本当は寂しいからなんじゃないかな、と思うことが結構、というか、いつもあって。だけど、その生活や仕事や芸術や性交のどれをしたって結局全く寂しくない気持ちにはならなくて。
そのとき、私にとって「寂しさ」という穴は終わりのある窪みではなく、どこか果てしない場所に繋がっている四次元ポケットみたいなもののように思うのだけれど、この演劇によって一瞬そんな宇宙のような場所で何かに繋がった気がした。
projectumï『寂しさにまつわる宴会』
私はこれをわりと覚悟して、そして必ずという強い気持ちで観にいった。
この演劇を観ている間もやっぱり私は寂しかったのだけれど、少しだけ、わずか一瞬だったけど全く寂しくない瞬間があって、そのときに、そのときにこそ私の身体は涙を流した。それは果てしのない場所から届くサインみたいだった。お人形遊びをしている子どもとお人形のように、私という人間を上から見て、操っている何かがいて、その何かと目が合ったような、あるいはその何かと決別するみたいな。たとえるならそんな感覚で。
それは、理屈じゃどうこう説明できないもので、でもたまに日常生活でもある。
その人にしか言えない言葉を伝えたり、伝えられたとき。
その人にしか見せられない姿になったり、なられたりするとき。
そして、その人としか見られない景色を二人だけで見たような気がするとき。
それは手紙のような文章を書いているときや、自らの意思で熱望したセックスをしているとき、真夜中の散歩で朝や昼とは全く違う顔をした駅や店や公園に辿り着くときとも言えるのかもしれないけれど、解像度を上げるとそうじゃなくて「触れられたところのない場所に触れ、触れられる」ということなんだとなんとなく思う。
これまで宝塚という大きな舞台を手がける中で、いわゆる「推し活」についても、もっと言うならばこの国の産業としてのスターシステム、資本主義としての芸術、そしてそこに生じる諸問題を間近で見てきた上田久美子さんがその側面(それもどちらかというとネガティブな)を描く、という点において様々な感想が寄せられていることもなんとなく知っていたし、ストーリーにおいてなされるあらゆる視点からの議論についても理解はできた。
でも、正直なところ、私にとっては、そういったストーリーやその設えよりも、この演劇のそこかしこに隙間なく配合される「寂しさ」が胸に迫った。
(続きはネタバレBOXへ)

Under the North Stream
ターリーズ
OFF・OFFシアター(東京都)
2025/01/24 (金) ~ 2025/01/26 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
10歳娘と観劇。
世田谷区北沢が下北沢と上北沢に分裂したのち、上北沢が"神北沢"に改称し東京全体を支配する...というめちゃくちゃくだらない物語(最高ですよね)なのですが、"シモキタ"という文化の喪失と戦う若者たちを等身大で力演する俳優陣の姿に思わずグッときてしまう。それはやはり≒演劇であるし、また、花まる、北とぴあ、そして重要な場面で叫ばれる「インディペンデントシアター!(※from大阪)」と多出するワードに通底する王子への愛着も演劇を愛する者には殊更グッと響く。
演劇やライブなどのパフォーマンス活動がエネルギーの無駄遣いとして規制され、破った者には厳罰が下る、という設定も一見破茶滅茶なコメディ展開に見えるけど、震災時などには実際に挙がった声でもあるので、その実切実なテーマであったりもする。
表現や創作などの文化活動が国や世界、そして人々やその暮らしにとってどういうものであるのかというクエスチョンは普遍的かつ表現を生業にする以上必要不可欠な問いかけであるし、それが若手カンパニーによってめいいっぱいくだらなくパッケージされた喜劇世界の中で叫ばれる、というのはやはり胸を打つものがありました。
そして、観終わって初めて気づいたのだけど、タイトルもUnder=下 North=北!!!
(以下ネタバレBOXへ)

トップ・ガールズ
犬猫会
SOOO dramatic!(東京都)
2025/01/23 (木) ~ 2025/01/26 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
キャリル・チャーチル代表作を新訳(常田景子)にて上演。
一人のキャリアウーマン・マーリーンの役員昇進を祝うべく集ったのは家族でも友人でも同僚でもなく、歴史や芸術の中に姿や名を残した女性たち。時空を越えた女たちが語る「わたしたちはどう生きたかトーク」はまさに弾丸の如し。誰もが誰の話も聞いておらず、「あるある」と思わず笑ってしまうのだけど、その混沌が生き方の異なる姉妹の物語に接続し、二人を隔てる「分かり合えなさ」に着地した時、本作の鋭利な核心をぐさりと突きつけられた。
(以下ネタバレBOXへ)

解体されゆくアントニン・レーモンド建築 旧体育館の話
1999会
スタジオ「HIKARI」(神奈川県)
2025/01/23 (木) ~ 2025/01/25 (土)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
近く解体されることが決まっている建築物で行われる150年展のチケットを不手際でロスしてたことに気づいた翌日、奇しくも私はこの演劇に出会いました。
1999会『『解体されゆくアントニン・レーモンド建築 旧体育館の話』。
私もかつて女子大に通う大学生だった。あの頃の私にも見せたかった。とってもとっても丁寧に直向きに物語に、演劇に、そして「今この作品を自分たちが上演すること」に全員が自身の生きた時間や生きる時代を以て応答するような上演。同じ年に生まれた縁で繋がれた1999会というカンパニーだからこそ成し遂げられる公演だったと感じ、見届けられて本当によかったです。
「形あるものの喪失」に思いを馳せるとき、人はそこに息づいた「形なきものの喪失」に恐れを抱く。
だけど、その場に生まれる人と人との出会いや営みを''息吹"と呼ぶならば、それは一度吹き込まれたなら失われることはい"永遠"と言ってよいのかもしれなくて、いくつもの運動ののち訪れる"平穏"が、それらをずっと見つめているのだと思う。それが再び揺らいでしまうことを心配しながら、子守歌などを歌って辛抱強く見つめているのだと思う。
"敬虔"であることに潜む孤独、不自由の裏返しである"奔放"、"哲学"に辿り着くまでの葛藤、寂しさの境地である"癇癪"、"沈黙"する時ほど騒がしい心、そして"飴玉"の様な日々が溶けるまでの時間。
いのちの息吹と同時に「名付けられる」という宿命を背負った複雑で素直なわたしやあなたの成長をこの場は全部覚えているだろう。たしかにみえた旧体育館を前にそんなことを思った。
俳優はもちろんその心身にぴたりと添った衣裳や音や光にも時が滲んでいた。

カンテン「The Foundations」Final.
カンテン事務局(Antikame?)
座・高円寺1(東京都)
2025/01/22 (水) ~ 2025/01/26 (日)公演終了
実演鑑賞
カンテン The Foundatinos 【select B】を観劇。
(※催し内の全ての作品を観劇しているわけでないため、満足度については空きとさせていただきます)
劇団だるめしあん
『バイトの面接に遅刻しそうだったが、どうやら遅刻していたのは世界の方だったらしい』
女性がSEXを語ると、ましてや「セックスしたい」だなんて言うと、男性がそう言う何倍もの特異な意味付けをされ、あろうことか"肉食系"なんて言われる事。あるいはそれ全部がタブーかのように透明化される事。に私はずっと抗いたいと思っていて。だからこの演劇に出会えて本当に嬉しかった。
タイトル通り「世界の遅れ」を複数の異世界を貫きながら描くSF社会(喜)劇。ポップに、えっちに、そして、世界が反転しても対等に扱われるトピックの数々に現代とその課題を見た。
だって好きな人とセックスしたいだなんてことお日様が登って沈むくらいとても自然なことじゃないか。だけど、そういう女性はホモソーシャルの中で「エロい女」「ヤレる女」と蔑称で矮小化される。それとは逆に、いや同じ問題として、エロな話題にのれない男性にもまた”草食系”などとコミュニティ内で嘲笑の対象になったりする。
もうそんなのはどっちもやめませんか!全部やめませんか!新しい世界をやりませんか!
そういうことをポップに、しかし切実に伝える作品でした。
坂本さんの前作『ラブイデオロギーは突然に』はケータイ小説に生きるヒロインと現代を生きる女性の時空を越えたシスターフッドの物語で"女性とはそういうもの"と思わされてきた数々を編み直す様に呪いとの対峙と決別を描いていた。あの頃の自分に言ってあげたいこと、今の自分が言われたいことがギュッと詰まっていたけれど、今回はその言葉がもつ射程がもっと広がっていたように思う。
「人間が社会で傷つき立ち向かう様を、明るく、えっちに、ポップに描く」
まさにそんなだるめしあんの信条を示すような作品でした。俳優の心的負荷を考えての、それでいてカンパニーらしさをも追求した性描写の工夫も素晴らしかったです。
セックスにおける疑いと喜びがともに表現されているところも好きでした。
架空畳
『Φ(ファイ)をこころに、一、二と数えよ』
数学の世界では空集合(=要素を一切もたない集合)を意味するらしいΦ。
この世界で起きていることそのもののようだけれど、まさに人が集合することによって発生する同化と異化が忍ばされていたように思う。時空を越えたパラレルワールドに誘われる感覚はしっかりあるのだけど、デパ地下や娘のお部屋など手触りある風景が浮かび上がってくる不思議。
Φが鍵穴を意味するのだとしたら、全てがどこかに、世界の何かへと影響し、繋がっているのかもしれない。
直近の小野寺さんによる高木珠里さんのひとり芝居『伝説の女』が好きだったけど、それも始まりは居酒屋のトイレだった。多数が出入りし集まる場所。何てことない場所から物語がうねりを見せていく様が、何もない空間から演劇が生まれていく様と手をつなぐ時、私はどこでもない場所に行ける気がする。
そして多分そこにもΦが、鍵穴がきっとある気がする。独特の世界に誘う導入も効いていました。

何時までも果てしなく続く冒険
ヌトミック
吉祥寺シアター(東京都)
2025/01/17 (金) ~ 2025/01/19 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
妊娠時に「心拍とれました」と、出産時に「吸って吐いて」と言われた時に実感したすぐそばの命。そんな呼吸の刻みから始まり、それらはやがて音になり、音楽になり、そして演劇へと繋がっていくこの作品は、やはり一貫して生死を描いていたように思う。そして、音によって想起する痛ましい風景に息をのみ、傷ついた自分にもまた生を見た。
「自死」というモチーフが思った以上に強く、時に直接的な演出で打ち出されている作品でそれ相応のショックを受けると同時に、それら社会問題に対する危機感のようなものが色濃く忍ばされているのも感じて、持ち帰って考えるところが大きい作品だと感じました。
それはまさに、終わらぬ、答えのない物語。人の生と死の巡りとその問いかけこそが、”何時までも果てしなく続く”ものなのだという一つの着地だったのかなと思ったりもしています。

『変身』東京公演
ブルーエゴナク
森下スタジオ(東京都)
2025/01/17 (金) ~ 2025/01/19 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
カフカの代表作である『変身』を丁寧に、しかし、カンパニーの意図や今の時代の視点も携えて再解釈した作品でした。人が虫の姿になること、そのことが周囲の人間に与える影響を通じて「尊厳」や「存在(≒不在)」を問う物語であると同時に、介護や看護など「ケア」という課題を巡る演劇である様にも私は感じました。
物語の陰鬱な世界観とは対照的の明るい音楽がここぞというシーンでかかることによって、より悲劇や皮肉が際立つようにも感じました。
光の陰影と音の抑揚がいかに風景を左右するかを知らされる劇でもあり、それはやはり小説でなく演劇であるからして辿り着ける体感だと思います。面白かった!

おもいだすまでまっていて【東京公演】
Pityman
シアター711(東京都)
2025/01/16 (木) ~ 2025/01/21 (火)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
いつしか追い抜き追い越され逆転する眼差し。そんな親と子の宿命がひりひり伝わり、ラストにかけては文字通り波打つようなカタルシス。思い出せなくても決して忘れてはいないということ。だから、まってる。まっていて。ちゃんと波が見えた。海が見えた。しょっぱかった。涙だった。
装飾の多い言葉があるわけでも、過度な演出があるわけでもなく、ただじっくりと重ねてきたものが見せるものの大きさを感じずにはいられない演劇。素晴らしかった。余韻があまりに大きくて、アフタートークは聞けなかったけれど、いろんな人がどう感じたのかを聞きたくなるラストでした。私は自分でも戸惑うほどの爆泣きでした。

きみはともだち
果てとチーク
アトリエ春風舎(東京都)
2025/01/16 (木) ~ 2025/01/19 (日)公演終了
実演鑑賞
観終わったあと、祈るように、刻むようにタイトルをなぞった。
「きみ」と「わたし」がちがったままともだちでいられる方法を、世界を、誰でもないきみとわたしでつくらなくてはならない。互いを損なわず、すり減らさず、手を取り合うこと。その果てしなさに目眩を覚えるけれど、本当にそれしかないのだと思う。
分かりやすいジョーカーをつくるのではなく、異なる立場や属性、対岸に立つ人間の苦しみや怒りをも描き、いくつもの角度と視座から「間違い」ではなく「違い」を照射するこの演劇は、真摯に何度もそのことを伝えていたように思う。いや、果てとチークの演劇はいつだってそうなのだと改めて痛感する。つたわらない/わかりあえない/通じ合えないかもしれない恐怖を背負いながら、舞台と客席を横断して辛抱強く対話を試みている。
しかし当然ながらその辛抱を誰かだけに背負わせてはならない。わたしにはなにができるだろうか。
悪者を一人つくって、そこを叩くことによって「正しさ」を叫ぶことの方がきっとずっと簡単で、安心もできる。それは社会にも演劇にも言えることだけど、その果てにホープはあるだろうか。そう問われている気がした。
後半ずっと涙を流しながら観たのだけど、その涙には確実に無自覚さや独り善がりやその他さまざまな自分の暴力性も配合されていて、それを知らされる演劇であるにも関わらず安全な居場所で泣いている自分にそれこそ冷や水をかけたくなったりもした。全ての人物に少しずつ自分がいた。感情が昂る度にそのことにはたと気付かされた。それは情けなくもとても大きな気づきだった。
升味さんの劇作はさることながら俳優も本当に素晴らしい。
川村さんの明るさの中で揺れる怒りと祈り、モヘーさんの戸惑いながらもなんとか言葉にして伝えようとする時のリアリティ、横手さんの有害な男らしさを遠ざけながら一体となってしまう絶望の佇まい、そして、諦めから踵を返して叫ぶ升味さんの瞳。さらに、このような喫緊のシリアスな題材でも、いやだからこそ、演劇的な仕掛けや人々のユーモアや可笑しみ、親しみある言葉づかいによって舞台上の空気を緩和させたり、温度をあげたりすることを同時に成し遂げていることの凄さ。演劇に不慣れな人も飽きずに見届けられる風景に変換することは技量であり同時に寄り添いなのだと痛感する。そして、寄り添わせてばかりいてはならない、ともやはり痛感する。
だからやっぱり「きみ」と「わたし」がちがったままともだちでいられる方法を世界をわたしたちでつくっていくしかない。ちがったまま手をのばし、取り合うというホープをなんとか信じて。
(この喫緊の題材と作品から得たものの体感と「満足の度合いをつける」という行為が自分の中で折り合いがつけられないので、満足度は空きとさせていただきますが、演劇の持つ力、観られてよかったと心の底から思う気持ちの点では迷うことのない星5です。)

終点 まさゆめ
岡山芸術創造劇場ハレノワ
彩の国さいたま芸術劇場 小ホール(埼玉県)
2025/01/11 (土) ~ 2025/01/13 (月)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
10歳娘(推しは唐組)とともに観劇。
「全員で話し合って決める」という民主的解決、に潜む「その中から一人(それもコミュニティから除外する者)を選ぶ」という暴挙。生死を分かつ議題であるからこそ如実にその非道さが(可笑しくも)際立つけれど、類似した手法は社会でも様々な形でとられていて、その接続を思うと背中が冷える。
と同時にSFの物語の中にもそういったことが感じさせられる劇作に演劇として胸を打たれた。
俳優が繰り広げる議会は毎回台本がなくアドリブらしく、その日ごとに会話の展開も違って一人ひとりの個性と魅力が試されるのだけど、みなさん素晴らしかった。初日もっとも客席から笑いが溢れた(と私が感じた)のはかき養殖を生業としてきた石川さんの「産地偽装」という悪事のカミングアウト。言葉のチョイスもだけど、なんといっても佇まいと間が素晴らしくて、「静」の状態であっても機敏であり続ける俳優さんの姿に感動をしました。
セリフがなかろうとも、俳優がそこに存在するだけで生まれるものの雄弁さが通底している作品だった。唐組ファンの娘とはやはりハマり役の久保井さん海賊に大盛り上がり。終演後には紅テントの役者紹介になぞらえて「宇宙船を襲撃する海賊を演じました久保井研っ」と言い合う遊戯をしました(笑)
荒木さんや篠崎さんが伝えた若者の諦観や絶望もこの作品にとても必要なものに感じ、素晴らしかったです。"自分"という物語の終点、つまり死に様≒生き様を選ぶことと選べないことの狭間で揺らぐさまざまをしかと握らされる舞台でした。松井さんと菅原さんのタッグならではの世界観。埼玉まで行ってよかった!

マルコとグリーンの海
ヒコ・カンパニー
ブックカフェ二十世紀(東京都)
2025/01/10 (金) ~ 2025/01/13 (月)公演終了
実演鑑賞
絶対観たくてチラシもとってたのに気づけば完売...でも運良くキャンセル分に滑り込めました。観れてよかった。
二人芝居だけど、"二人"にとどまらないいくつもの視座、から見るこの世界は、闇は、夜は、本当にどうしようもなくて越えるのを諦めたくなる。
けれど、加害と被害の可能性を等しく持ち合わせている人間が、なるべく沢山の私たち人間がそれを自覚するところからしか夜明けは始まらない。自分の経験したことのある怒りや哀しみや虚しさ。登場人物の中を揺蕩うその感情に吸い寄せられながら、果たして自分はその経験を誰かに乱反射していないか、と身につまされた。
私の場合は大いに心当たりがあった。ハラスメントの裁判をしていた時、自分がされて深く傷ついた言動をそのまま家族に放ったこと。友人に上司からの圧迫の悩みを打ち明けられた時に自分が傷ついている時にはされたくない、もはや励ましとは言えない励まし方をしてしまったこと...。
多分まだまだある。気づいてないことも含めたら途方に暮れそうなほどある。
「加害者」「被害者」という言葉のみには収まりきらない、あるいは収めてはならない様々をあらゆる角度から照射していた作品だった。つくるのにも、演じるのにも、観るのにもエネルギーのいる作品だった。苦しかったし、痛かったし、そんな風に他者を苦しめ、痛みつけることが自分にもできてしまうことを痛感した。「今この瞬間も映画や演劇の世界で実際に起きている暴力」がテーマとして通底している物語だったけど、映画や演劇の現場に限定されない問題であること、人が二人存在すれば起き得る生活や人生への脅威、私たちの誰もが日常的にそれを手にしているということ。とてもこわかった。
だけど、絶対に観られてよかった。
言葉を発している時だけでなく、相手が話している時にみるみる歪んだり、緩んだりしていくその表情がとても雄弁で、二人の俳優の表現力に舌を巻きながら、同時に、この表現をただ消費してはならないとも強く思った。
昨年観た演劇で「加害者の再生がドラマティックに描かれた作品」としか私には受け取れず大変くらったものがあった。一方的に割り振られた闇と光に目眩がしてその経験からこういった題材を遠ざけていた節もあった。それでも私がこの演劇をどうしても観たかったのは、かねてより業界で起きている暴力に声をあげていらした港岳彦さんや桜木梨奈さんに共感し敬意を抱いていたからです。
この題材を扱う限り誰も傷つけないことは難しい(しそう思うこと自体危険だ)けれど、この方々が恐らく様々なことを覚悟して表現されるのだから絶対観なくてはと思った。ということを明確にしたいと改めて感じた。演劇について書くことのあるいち文筆家として。そして、被害と加害どちらの経験も、可能性も持つ者として。
夜が長すぎて途方に暮れるけれど、このお話も今起きていることもここで終わりというわけではない。
だからこそ観る意味がある演劇でした。
(こういった題材と体感から「満足の度合い」をつけることが自分の中でそぐわないため、満足度は空きとさせていただきますが、観ることができ本当によかったという点では星5です。)