満足度★★★★★
この世界は、無間地獄。
ネタバレに長々と。
ネタバレBOX
暴力で殺され、悪夢で目覚める前半を観つつ、「これは無限地獄ではないか」と思った。
終わりのない地獄の責め苦。
その暴力の「いわれのなさ」「理不尽さ」と「連鎖」を描いているのではいか、と思ったわけだ。
地獄に落ちて受ける責め苦には、当人にとって何らかの「罪」があり、その罪による責め苦は「罰」だ。
しかし、この世で私(たち)が受ける「責め苦」=「暴力」(物理的な暴力とは限らない)には、「理不尽さ」がある。
「宗教」とか「国家」とか「私怨」とか、さまざまな理由があったとしても、受ける暴力は「理不尽」である。
「なぜ私(だけが)こんな目に」だ。
しかし暴力を「与える側」も実は「理不尽さ」があるのではないか。
「宗教」とか「国家」とか「私怨」とか、さまざまな理由があったとしても、暴力を振るうことには「理不尽さ」があるのではないだろうか。
相手の息の根を止めてしまうほどの暴力に限らず。
暴力のための暴力や、暴力の快感もあるだろう。劇中で「暴力好きではなくて」みたいな台詞があるが、好きじゃなくても「暴力に酔う」こともあるだろう。
さらに、殺したいと思う人は、殺されたいと思う人でもあるのではないか。
まあ、そんなことを思っていたのだが、ラスト近くになって少し印象が変わった。
恋人と2人のシーンに戻ったときに、主人公(?)が恋人に尋ね、話をするところからだ。
恋人の告白で明らかになる。
そしてさらにラストシーンで、主人公(男)の悪夢は、29歳バイトの女性の悪夢であったのではないか、というシーンでそれは強まる。
つまり、「無間地獄のループは主人公(男)だけが抱えているものではないということ」だ。
最初の男・主人公は大学生ということで、特に背景は描かれていない。
その男は、無間地獄のループから抜け出そうと、必死に(文字通り「必死」に)あがく。
とにかく、どこかの局面から抜け出そうとして、人を助けたり、殺したり、とあらゆることを試してみる。
そこから目を覚ました29歳女は、目覚めた「今、自分がいる世界」が、「悪夢の延長」=「無間地獄」であると気づいてしまったのだ。
ありきたりな母の小言やバイトの日々、繰り返される毎日が「無間地獄」であったということ。
彼女は悪夢の中で、母やバイト生活を他人を毒殺による排除で遠ざけようとした。バスジャックの男と同じように、自分も最後は自死するのだが。
しかし、現実世界で彼女がとった行動は、自分だけの自殺だった。
それは、悪夢の中の、見ず知らずの他人を巻き添えにして爆死するバスジャックや、母親やバイト先で他人を毒殺し、自分も服毒自殺する女と、何が違うのか。
他人を巻き添えにすることは、「自分の死に意味を持たせようとする」ことなのではないか。
「生きた証」というと、また微妙に違うのだが、そういうことではないだろうか。
つまり、「生きた証」が欲しくないほど、彼女は絶望していたということ。
日常の無間地獄に。
自殺した「女」は、たぶんまた目覚めると「男・主人公」となって「1・2・3・4」のシーンを何十回も繰り返し、さらにまた女に戻って悪夢から目覚める「無間地獄」の、さらに大きなループを回るのではないだろうか。
「閉塞感」と一言で言ってしまうことのできない「不安」が生み出す「無間地獄」。
力の暴力よりも効いてくる。
「無間地獄」から抜け出すのは、「何かを変えなくてはならない」のだろうが、それは「死」ではなかった。
日常の無間地獄から抜け出すためには、「別の何か」があるのではないか。
そのためには彼女(いや私(たち))には「何が」あるいは「誰が」必要なのだろうか、と考える。
と、まあ、ここまでの感想は、延々誤読をしているとは思うけど……。
前に観た『不眠普及』の感想で、「新しい才能に出会えた ……のかもしれない。」と書いたのだが、今回もそれを感じた。台詞が面白い。
ジエン社と通じるような感覚がある。彼らと世代が同じなのかどうかは知らないが、何が彼らをそこまで絶望させてしまうのか。わからない私は、無間地獄にいることすら気づいていないのかもしれないのだが。
半裸の男、ファミレスの客、バスジャックを演じた中田麦平さんが、なかなかの気持ち悪さとイヤ感じが最高だった。
ファミレスの、ウエイトレスへの気を遣いっぽい感じとか、バスジャックのノリノリの感じとか。
29歳女などを演じた井神沙恵さんの、29歳女を演じているときの台詞回しとラストがいい。
ハサミ女の西村由花さんの歌が怖すぎた。
帰宅すると、さいたまで起こっていた金属バットで他人を殴り、金品を奪う強盗が逮捕された、というニュースをやっていた。
満足度★★★★
ガレキの太鼓復活公演。
面白いじゃないかっ!!
予約なしでも入れる、とかで、予約なしで行った。
入れた。
その感じもいいね!
ネタバレBOX
ガレキの太鼓は、普通に劇場で行う演劇以外にもいろいろな挑戦をしてきた。
劇場だけど、全体を「教室」に見立てて、観客もそこの生徒となって演劇に参加する、なんていう公演もあった。観客にも台詞や動きがあったりする。その指示の方法がまた上手いのだ。
のぞき見パフォーマンスは、「普通の一軒家を使って行われる公演」だ。過去にも上演されていたが、初めての参加となった。
一軒家内の3つの部屋+1で行われる会話を観客は自由に行き来する。
ある事情を抱えた家族が、家を取り壊す前の1カ月間にシェアハウスにしようとする。
住民が集まってきた初日の1時間の話。
リアルタイムに1時間で、観客は「場所とタイトル、そこで会話が始まる時間」が書かれたスケジュール表を渡される。
主に2階と3階で、それぞれの登場人物たちが部屋を行き来しながら会話を繰り広げる。
それぞれの事情があり、気になる会話ばかり。
観客同士が見えるため、言うほど「のぞき見」感はないが、「見たいところに行く」という観客側にイニシアティブがあるのが面白い(出来事が時間的に微妙に重なっていたりするので)。
実際、台詞の途中で観客が部屋を出ていく場面も多く、その姿を見ている役者さんたちは、「えっ出て行くの?」って感じではないだろうか(笑)。どうなんだろう。
観客は各部屋の中で、観客エリア(役者が演技をする周りを取り囲むような)から観るのだが、なにしろ普通の家なので、役者と近い。
その、役者との近さがスリリング。
役者と目が合ってしまうこともある。
役者は(普通の公演でも同じではあるが)「自分たち以外にはこの部屋に誰もいない」というテイで芝居を続けるのだが、その、ある種、異様な感じ、異常事態がまた面白いのだ。3階奥の部屋でカップル(たち)の話をのぞき込むように取り囲む、観客たちっていう姿も異様で面白い。
役者にとって「観られること」の快感もあるのかな?
お姉ちゃん役の山本陽子さんが中学の同級生との会話でする、「うむむむむ」な、なんともな表情や、次女の友だち役の小瀧万梨子さんの、観客がまったく目に入ってないような、生き生きとした感じが、上手いなぁ、と。さらに、長男のパートナー役の新田佑梨さんが、雰囲気を作るのが上手いからか、生々しくてリアルで、彼女の主張する意味がわからなくて、長男が可愛そうで、腹が立った(笑)。
役者との距離の近さでさらに役者の力が見えたような気がする。そういうところも楽しめる公演でもあった。
60分の作品ながら、ヒヤヒヤするような、ぞくぞくとするような、どきどきするような、そんな会話が散りばめられている。登場人物たちのキャラが見えてくるし、その後も気になってしょうがない。
できればいつの日にか、同じ家で「1週間後」「1カ月後」も観てみたい。
+500円で時間延長もできる。
そうすれば、気になる会話を完全に確認できたであろう。私はラストの時間だったのでできなかった。
あと、気になる役者さんの後ろについて歩き回るっていうのも面白いかも。
満足度★★★★★
それじゃ『三月の5日間』の感想をはじめようって思うんですけど。
やっぱり、これってスペシャルな作品って思うんですけど。
ネタバレBOX
過剰な動きも言い訳じみた言い回しも、やっぱ自分の周りにバリアーっていうか、バリアー張っている人たちって感じがするんですよね、みんな。傷つきたくない人たち、みんな。
で、舞台の設定である2003年と、今の2017年って何が違うかと言うと、そういう人たちは相変わらずいるし、「戦争」との距離感も今と何ら変わってないんじゃないかな、と。イラクもアフガンも北朝鮮も渋谷のずっと向こうじないですか。それってテレビの向こう側ってことじゃないですか。
渋谷にいる彼らのように、テレビのスイッチ入れなければ、「戦争は起こっていないし」「終わってもいない」そんな感じじゃないですか。
政治に関心が高い人たちっているじゃないですか、デモとか。意識高いみたいな。
だけどイベント的なそういう感じって、やっぱりあるんじゃないかって思うんですよね、そんな人たちにも。いや、いい意味でイベント的な感じであって、まあ悪いと言ってるわけではないですよ。マジで。
この作品って、場所も時間もかなり特定されているじゃないですか。でも、登場人物たちの姿はボケているじゃないですか。いろんな役者さんたちが演じていき、台詞の繰り返してさらにいろいろと薄まっていくんですよね。その不確かさがたまらず良いって思うんですけど。実際。スペシャルな感覚で。
それと、台詞がなんか音楽なんですよね。気持ちいいぐらいの音楽。ずっといろんな音(声)で鳴ってる。少し声を張ったり、静かに話したりって、スペシャルな、なんかスペシャルじゃないですか、音の響きが。台詞そのものが音楽っていうか、BGM不要っていうか、そんなんですよ。たぶん。
チェルフィッチュの舞台って、影響的なやつ受けるじゃないですか。演劇の人は、イヤでも意識せざるを得ないってあるんじゃないですか。まあ、「ある」って言い切れるわけではないやつで、ない人もいるのかもしれない、「ある」なんですけど。
あと、アフタートークのこと書いて、この感想を終わりにしようと思います。
アフタートークに平野啓一郎さんっていたじゃないですか。トークの中で岡田さんに「批判性」っていう問いですけど、その問いって良いなって思ったんですけど。まじ、これってスペシャルなトークだと思っちゃったんですよ。
満足度★★★★★
鋼鉄村松を深読みしよう。
と言うか、テーマが忍ばせてあったりすることが結構あるので、そこを考えてみた。
表面的なアレコレの、もうひとつ先があったりするので。
今回のバブルさんの作だけでなく、ボスさんの作品でも、いろいろあると思う。
(ネタバレBOX長くてすみません)
ネタバレBOX
核戦争を生き延びた一握りの日本人は、白人文化に憧れる「はくにん」と黒人文化に憧れる「こくにん」に分かれて、と、銃の所持とか、そんなことから、「え、何? 今、メリケン文化をディスる話なわけ?」と思って観ていたら、そうではなかった。
つい、「はくにん(白い人)」と「こくにん(黒い人)」を「肌の色」的な意味合いからの対立ととらえてしまい、そういった「言われなき差別」を声高的に取り上げた作品かと、思ってしまった。
それだと「日本人」がわざわざ演じてみせる理由もよくわからないからだ。
しかし、観客のほとんどか物語の早い時期から気がついていたと思うのだが、「はくにん」も「こくにん」も、そもそもは「日本人が顔にファンデーションを塗っただけ」ということで、てっきりそれがオチかと思っていた。すなわち、元の日本人に戻ってメデタシ、メデタシとなるオチだ。
物語の中盤でも、確認の意味で、「朝起きてからファンデーションを塗っている」「黒いファンデーションでなく、白いファンデーションを塗れば、こくにんも、はくにんになれる」と言う台詞がある。
しかし、それは行わないのだ。
当然ラストもそこには辿り着かない。
すなわち、「肌の色」や「民族」「性別」など、生まれ持ってきて変わることができないことに対する「差別」がこの作品のポイントではない、ということなのだ。
朝塗るファンデーションひとつで変わることができるもの、に対する「差別」だ。
それは、「後から獲得した」、いや「後から自らが選んだ」ものであり、そこには「プライド」さえある。
これは例えば、「宗教」と考えてみたらどうだろうか。
「宗教」は自らが選択し、それを変えることも可能である。
しかし、誰もが簡単に変えることができない。
それはなぜか。それにはプライドがあり、歴史があるからだ。
綿々と続いてきた祖先や家族が受け継いてきたもので、それに対する「疑問(なぜこの宗教を信じているのか?)」もわかない、という自然な状態にも「宗教」的なものを感じる。
あるいは「文化」と言ってもいいのかもしれない。
したがって、ヒロスエ歴200年も経つと、単なるファンデーションの色は、ファンデーション以上の意味を持つものとなってきている。
宗教も生まれてから数百年で、それぞれが選択したものから変えることができなくなっていた。それが元で戦争も度々起こっているし、現時点でも争いの元になっている。
ざっくり言ってしまえば、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は、同じ神様を崇めている宗教であるはずだが、すでにまったく別の宗教のようになっている。キリスト教の中でさえ、宗派がいくつもあり、互いが相容れない状況にある。
これって、本来中身が「日本人」である「はくにん」と「こくにん」の関係に似てはいないだろうか。
バブルムラマツさんの脚本は、単純に「宗教」のようなもので、例えば、「オセロ」好きと「将棋」好きなんていう区別ではなく、まるで「肌の色」の違いのように見せることで、観客に考えさせるためのワンクッションを置いたのではないか。単純に「宗教的」なものにしてしまえば、内容は薄っぺらくなってしまうし、「肌の違い」にしてしまえば、さらに薄っぺらい。
「朝塗るファンデーション」は、すでに生活の一部であり、「こくにん」たちが「はくにん」に虐げられていても、簡単には変えることができない、というところが脚本として優れている。
ボス村松さん演じるキングが実は、もと「こくにん」だったという設定が効いてくる。江戸時代のキリスト教徒であれば、「転んだ」というところで、そんなことは大声で他人に話すことはできない。そして、グレートニュームラマツさん演じるサンボに「オセロの試合にこれからも出たければ、はくにんになれ」と囁く。つまり「転べ」と。
朝塗るファンデーションという、あまりにもバカバカしい設定なのだが、このあたりは重い。
「はくにん」と「こくにん」が生まれた、バカバカしい理由を後で知ることになっただけに重さは増す。
後で知った理由から、さらに遡れば、高校生だった吉田覚丸さん演じる村松と林有実さん演じる高島の確執がおおもとにあることが明らかになってくるあたりの、ストーリーの被せ方もナイスである。
しかし、村松と高島の2人は、実は確執があったわけでないというラストに、そこまで全編を覆ってきた「人は、この世に現れてきたときから、争うものであり、それは絶対に避けることができない」という命題に、「そうでもないかもしれないという」わずかな光明を差させるのだ。市長や次の市長たちが、この争いに終止符を打つことを諦めてきたことにだ。
「塗っているファンデーションを取ってしまえば、いいんじゃないの」という考えは、実は宗教に無頓着な「日本人的発想」であったことに気づかされる。
「しょせん宗教じゃないの」とか「同じ人間なのに」「同じ民族なのに」「元は同じでしょ」とか思ってしまう、多くの日本人にとっての宗教観である。
「塗っている人たち」にとっては、そんなに簡単なことではないということは、頭ではわかっていても、昔も今も起こっている戦争や紛争を見るたびに思ってしまうことであり、本当のところは理解できていないということなのだ。
作品の中では、「死傷者を最小限にするため」「“こくにん”の銃所持を制限する」という苦渋の選択を新しい市長が行う。バカバカしい大団円になると思っていただけに、この選択は意外であった。
バカバカしい中にあって、リアルな選択であり、明確な「答え」は「ない」ということなのだ。
この物語のテーマは、私たち日本人が感じている「宗教観」を気づかせ、「やっぱりわかんねーな」ということを通して、「でも、ひょっとしたら」という、結論に導く作品であり、意外と安易な「答え」を見せないところが上手いのではないかと思う。
ラスト、暗転のほんのわずかなタイミングで見せた、村松の「なーんちゃって」の感じがとっても好きだ。
村松がガックリうな垂れて死ぬ的な展開じゃないところがだ。
その感じが、全体の「救い」になっているように思えた。
今回は、キャラが粒ぞろいだ。
どのキャラもぴたりとはまっていて、気持ちがいい。
いつもは覇気のない青年を演じているグレートニュームラマツさんが、したたかな役を演じていて、これからが楽しみになってきた。
あいかわらず、小山まりあさん(もう、マリー・ムラマツとか村松コヤマリでいいんじゃないかな)がいい。彼女が出ると、全体がぐっと前向きになり、視線を集める。
村松と高島を演じた、吉田覚丸さんと林有実さんのバランスが抜群だ。オープニングの2人のやり取りで面白くなる予感がした。
ボスさんは、やっぱりボスさんで、楽しそうに演じていた。
市長を演じた村山新さんのような人が脇にいるから物語がきちんとして見えた。
劇団鋼鉄村松にとり、絶対的主人公だったムラマツベスさんが休団した今、作・演を互いに競い合っているボスさんとバブルさんにとって、安全パイはなく、どうしていくかずっと悩み続けていることと思う。その答えのひとつをバブルさんの『MARK (x)』で観たし、ボスさんの『ミハエルとアイルトンとチュウカドン』(あまりにも雑味が多すぎた怪作!)で観たような気がした。
今後も2人は悩み続けて、どう変化していくのかが楽しみである。
……やっぱりボスさんの「将棋こだわり」に対するのが「オセロ」だった?
満足度★★★★★
初演も観ているが、小松台東(デフロスターズ時代を含めて)で一番好きな作品。
ネタバレBOX
佐藤達さんの小学生がとてもいいし、やっぱり異儀田夏葉さんのお母さんの役は最高だ!
満足度★★★★★
ピザ屋が見えない壁と戦う話、うん、確かにそうだね。
珍しくポップなフライヤー、イラストとかあったりして。
ネタバレBOX
気分が悪くなるほどの繰り返し、アメリカン、下品、いい話、悪霊。
それらが重なりながら、延々と続いていく。
ひょっとしたら役者が上手くなっている??
微妙なニュアンスのセンスは抜群。
ある意味、天才たちだ。
初めて観る人は、適当に作っていて、単に台詞の言い方だけで笑わしていて、役者も大したことないと思うだろうが、そうではない。いや、そうでもあるには、あるのだが。
親しそうに名前で呼んだあと、店長にまた戻るなんていう細いうまさがある。
雑な感じも織り込み済みというわけだ。
満足度★★★★★
川端康成の『眠れる美女』がオペラに!
だけでも驚きなのに、作り上げたのはベルギーの人!
『眠れる美女』をどう読み解き、舞台化するのか興味津々だった。
満足度★★★★★
この作品は、岩井秀さんが嫌いだった父の死について描くということだった。
さて、岩井秀人さんがどの役を演じるのかが気になった。
すみません。残りは後で書きます。
満足度★★★★★
冒頭のシーンから泣けてきた。
物語の流れとラストを知っているから。
ネタバレBOX
本当に素晴らしい作品だ。
初演も観たが、それでもぐっとくるものがあった。
明治・昭和の両天皇陛下に挟まれているにもかかわらず、「誕生日の祝日」がなかった大正天皇の、チョコレートケーキ的解釈。
大正天皇も昭和天皇も、それぞれが先帝を越えなくてはならない。
スケールが違うが、父親を乗り越えていく物語でもある。
初演よりもグレードアップした舞台装置(玉座など)だけで、ぐんと重さが増した。
広さもそれにプラスされた。
大正天皇を演じる西尾友樹さんは少しウロウロ動きすぎじゃないかな、と。
もちろん演出だということはわかるし、舞台の上でのポジションもあるし、彼とそのほかの人との対比、後に動けなくなる彼自身とも対比させているのだろうが、それでももう少し抑えたほうがよかったのではないだろうか。
皇后がモノローグで解説するのだが、意外と説明台詞が多かったな、と感じた。
松本紀保さんは、品があるし、台詞の発し方もとてもいいのだか、説明は最小限でもよかったと思う。
歴史的事実を知らない観客にはハードルが高くなってしまうかもしれないけれど。
どうでもいい話だが、最近、谷仲恵輔さんをテレビで見かけることがある。わが家では谷仲恵輔さんをテレビで見かけると「明治大帝がお出になっている」という不敬なことを言ったりしている。先日、テレビでお見かけしたときは、彼は人買いだった(笑)。
満足度★★★★★
『桜の園』
地点の『桜の園』は、ロパーヒンに意識が集中していく。
ラネーフスカヤ(とその一家)の周囲をぐるぐる回るだけで中には絶対に入れない。
彼らは自分たちの「手で支えている額縁」の中にいる。
ラストに行くに従い、ロパーヒンのラネーフスカヤ(家族)への憧憬と苛立ちが濃厚になっていく。
そして彼(ロパーヒン)はたぶん悲しいのだろう。
満足度★★★★★
『かもめ』
“地点的”で、もの凄く面白い。
そして、絶対に開場から行ったほうがいい。ここからすでに面白いので。
……と書いたけど、すでに終わっていますね。
ネタバレBOX
開場とともに役者さんたちが紅茶と(なぜか)京都の干菓子的なものを振る舞ってくれる。
そして、『かもめ』という戯曲の解説を行う。
戯曲の書かれた背景や上演したときのこと、さらに地点がロシアで公演を行ったコトの話など。
ゆるやかに物語に導入し、コースチャの物語になっていく。
地点の作品は、戯曲をカットアップし、再構築していく印象がある。
この作品もそうであるが、同じ時期に上演された『桜の園』と同様に、かなり意図的に人物にクローズアップしていく。
それが、「コースチャ」。
コースチャは小林洋平さんが演じる。
どの作品でも安部聡子さんとともにスゲーなと思う役者さんだ。
発せられる台詞は、一切のためらいがなく、観客にぶつけてくる。
共演者にぶつけてくる。作者にぶつけてくる。
強いバネがあるような役者さんだ。
地点の役者さんたちはとにかく上手い。
その中にあって、演出は、小林洋平さんと安部聡子さんには理不尽とも思えるような、精神的、肉体的な高みを強いているように見える。
2人ともそれを軽くこなして自分のものにしているように見せてくれる。
この2人の存在が地点の屋台骨だ。
この2人を観ているだけで、観劇の喜び、快楽が味わえる。
この作品の小林洋平さんは、わかっていても、やっぱり凄いと思う。
コースチャを物語の軸に据えると「中二」的になりそうだが、ラスト間際のニーナの台詞と重なねていくことで見えてくるものがある。ともに芸術に憧れて破れた者同士ということで、作品を生み出すことの「恐さ」「恐ろしさ」が常に背中合わせということなのではないか。
地点の作風は、一定の評価をされていると思えるのだが、いつコースチャの舞台のような結末を迎えるかわからない、という「恐さ」が常に背中にあるのではないだろうか。
満足度★★★★
ハイバイの岩井さんの戯曲は、自分の体験・歴史を語ることが多い印象だ。
それを周囲に広げて、それぞれが体験した「ひどいこと」の体験集。
ネタバレBOX
8本のタイプの異なる「ひどいこと」が、面白くって切なくて、泣けたり笑えたり、の2時間半(休憩含む)。
どの作品も導入部は落語の「まくら」のようであり、自分が語る(演じる)ので落語のようでもあった。
自分の体験を語ると言っても、そこは作品なので、結構面白くなつている。
「ひどいこと」のレベルによっては、まだ「作品として他人の目」で見つめ切れていない出来事もあるように思える。そこはウンと戯画化して広げているようだ。
岩井さんの演出を垣間見るような作品があったが、あれもストレートに岩井さんではなく、「面白要素」を盛っているに違いない。
違いないが、演じたご本人はどうだったのだろうか。
現実にリンクしているエピソードなので、関係者の中にはくらくらしてしまう人もあったに違いない。平原テツさんのエピソードとか。
それにつけても平原テツさんには売れてほしいと心から願った。
満足度★★★★
あいかわらず演出と役者のキレが良く、シェイクスピアを一気に熱っぽく見せてくれる。
七味まゆ味さんいいなあ、面白いなあ。
岡田あがささんの、一人喋りなシーンに大笑いした。
千葉雅子さんの使い方が上手い。
千葉雅子さんを他の役者さんたちに埋もれさせることなく、外に出したところがセンス。
夏をキーワードに、盆踊りとヤンキー、そして夏フェスを上手く取り入れた。
満足度★★★★
開演時間が18時半と、通常よりも遅く(通常の午後公演は16時ぐらいから)、上演時間も短いので観に行きやすい。
歌舞伎の基礎的な解説とともに演目を上演する。歌舞伎の楽しさを手軽に味わえる。
パンフレットと脚本が付き、アンケートに答えるとチケットケースがもらえるなど、とにかくおトク。
歌舞伎を観たことないけど、興味があって一度は観たいと思っている方にはお勧め。
ネタバレBOX
解説の語り口、丁寧で若々しさが好ましい。
歌舞伎が古くさいものだという感覚がこれで薄れるし、一見高そうな敷居も下がるのでは。
『卅三間堂棟由来』
主人公、中央にどっしりいて、いかにも武芸に秀でているように見える。
存在感があるというのも役者の力だ。
子役がとても頑張っていた。声もよく通る。
子役がいるだけで舞台の上がそれだけで微笑ましくなる。
舞台の上の、いろいろな仕掛けも楽しい演目。
ラストも「画」として、見事に決まる。
満足度★★★★
クロムの青木さん作らしい、ダークでポップで先の読めない展開。
しかも、とてもいい感じに笑えて。
ネタバレBOX
幸田尚子さんの怪演ぶりと枝元萌さんの間の詰め方の上手さ。
役者が皆上手い。
いんちき臭い関西弁風の方言が、なんとなくいんちき臭い内容にマッチして。
ふわふわステップで歩かせる演出の巧みさ。
気持ち悪くて面白すぎ。
満足度★★★★
『MY SWEET BOOTLEG』
境界があいまいに、溶けて。
ネタバレBOX
かつてこの作品を観て「今回のエンディングで言えば、犯人は店長以外に考えられないと観客の誰もが思っているはずだから(そう思えない観客は捨ててもいい・笑)、あえて店長の姿をラストに見せる必要はなかったのではないかと思うのだ。行方を眩ましたまま」と書いたが、今回観て気がついた。ここには愛があったということを。
過去の感想のURLが指摘できないので、公演のURLを載せておく。
http://stage.corich.jp/stage/37075
MUらしいと言えばらしい、ネジくれた感覚 −−−− The Yardbirds『Stroll On』からのー『Blow Up』で、曖昧な世界へGO
蒻崎今日子さんの弾けっぷりが、所属のJACROWと違っていて新たな面を見たという感じ。ご本人はこっちのほうが近いらしいが……?笑。
あと、やっぱり「池袋・乙女ロード」だよなぁ、池袋で上演しているのだもの。
満足度★★★★
前半は、文楽についての解説。ユーモアを交えながら浄瑠璃の役割と人形の操作などを説明する。
後半は、『曽根崎心中』
ネタバレBOX
『曽根崎心中』
近松門左衛門は、とても細かいところまで丁寧に作っているなと、あらためて感じた。台詞が美しく、ストーリーもわかりやすくて、感情移入しやすい。
徳兵衛がお初の足を使って、死の決意を示すところは、人形ながらエロティシズムと死の匂いを感じた。
江戸の女性は足を見せてはならなかったそうなので、当時の観客はさらにそう感じたのではないか。
平日の15時開演で1回しかない公演。
普通に考えて行くのはムリだと諦めていたが、当日行けそうになったので、とにかくさいたまへ向かった。
当日券の座席は一番後ろだったが入れた。
観客はこの日舞台に立つ、ゴールドシアターの年齢とほぼ同じの印象。
その付き添いに来ている人たちが平均年齢を下げていたぐらい。
仲間や家族が出るから来た、という人がほとんどではなかっただろうか。
演劇と言うよりは事件、と思っていたが、「演劇」だった。
ネタバレBOX
結局何人出演者が揃ったのは知らないが、さいたまスーパーアリーナの床が人で一杯になるぐらいの出演者はいた。
オープニングでは出演者が自分語りを始めた。
そして「娘を死なせてしまった」という語りに、一瞬引いたが、これにはハメられた。
そう、これは『ロミオとジュリエット』なのだ。
「やられた!」と思った。なかなかの導入。
しかし、蜷川幸雄さんのことを伝えたいためか、オリジナルのゴールドシアターが登場して、その生い立ちを説明するところでは、せつかくの勢いが削がれてしまった。
もっとスマートにできなかったのか。
スーパーアリーナという大会場で、ちまちまと「俺たちがホンモノのゴールドシアターだ」もみたいなやり取りはどうも合わない。
本編は思った以上に『ロミオとジュリエット』で、ネクスト・シアターによる斬り合いも小さく見えないぐらいに良かった。
こまどり姉妹の歌歌がいい。
全員が舞台の上(アリーナのコート)に出てくる姿はやはり圧巻。
ラストにはタイトルそのままで「自分の夢」を語る出演者たち。
彼らは、いわゆる高齢者なのだ。
彼らの語る「夢」という切り口に、ハッとさせられた。
夢には年齢は関係ない。
夢があること、夢に向かうことが大切であるという、当たり前のことに気づかされた。
ロミオとジュリエットに順番で扮したゴールドシアターの役者さんたちが、スーパーアリーナの広い会場と観客席に叫んだ台詞は、それぞれの台詞の内容そのものよりも、そうした「夢」への「宣誓」として聞こえた。
次は2020年、オリンピックのときの公演らしい。
満足度★★★★
タイトルからして「亡国の」なんて付けて、「かなりあざといな」と思っていた。
かもめの舞台を1930年代の日帝時代の朝鮮にする、なんてところも。
ネタバレBOX
タイトルからして「亡国の」なんて付けて、「かなりあざといな」と思っていた。
かもめの舞台を1930年代の日帝時代の朝鮮にする、なんてところも。
さらに人形を使ったり、バイオリンが出てきたりと、ふざけているのではないか、と思うほどのあざとい演出だ。ラストはあざとさの集大成であった。
サイレンとともに打たれる半鐘の音は、5年前の震災を思い起こさせる、ようにできているのではないか。もう、この音は聞きたくないと思っていた。舞台で散々聞かされてきたからだ。それをあえて使うのは、それでも観客の耳に届けたいという意思があるのだろう。耳を塞いだ手を無理矢理こじ開けて、記憶を激しく呼び覚ます。
今日性というか現代を、そこまでして絡め取りたいのか、と思う。
東京デスロックは、このあざとさが好きなのだ。
役者を長時間棒で縛ったまま演じさせたり、45分間ただ立たせたり、など。
その貪欲さがいいのだ。そして常に挑戦的である。
貪欲すぎて、滑ってしまうときもあるが。
観客の、いい意味での思い込みや深読みを期待しての演出で、ウケ狙いであるかもしれないし、意外と浅いのかもしれないが、それでも面白いのには間違いないし、前へ出ようとする挑戦的な意思があると思う。なので、やっぱり東京デスロックは好きなカンパニーなのだ。
満足度★★★★★
この劇団の熱量は凄まじい。
一気に舞台に取り込まれる魔力がある。
ネタバレBOX
とにかく面白い。
主人公の少年を演じる林遊眠さんの台詞と動きのキレが美しい。
彼女が物語を力強く引っ張る。
他の俳優さんたちも入り替われ立ち替わりさまざまな役を丁寧にこなす。
予算の都合もあるのだろうが、もう少し衣装な道具類にお金をかけられたら、もっとビジュアル的にもいい作品になるのだろうと思わせた。
物語は、ぐいぐい進む。ただ、ラストはなるほどと思わせる反面、後日談的な印象で、もっとすっきり終わってほしかった。
作品とは関係ないのだが、仕事の都合で開演10分後に劇場へ。制作の方が、入る直前に、尋ねたわけででもないのに、そこまで内容を簡単に説明してくれた。「ここだけ押さえれば、あとはわかると思います」という言葉とともに。そんな経験初めてだった。なんと素晴らしい心遣い。劇団への愛を感じた。これが舞台の上の凄まじい熱量を支えているのかもしれない。