旗森の観てきた!クチコミ一覧

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光より前に〜夜明けの走者たち〜

光より前に〜夜明けの走者たち〜

ゴーチ・ブラザーズ

紀伊國屋ホール(東京都)

2018/11/14 (水) ~ 2018/11/25 (日)公演終了

満足度★★★★

こういう手もあるかとは思った。
話は前の東京オリンピックのマラソン走者・円谷と君原のオリンピックを戦った後の、次のオリンピックまで。円谷は重圧で自死し、君原は我を通してメキシコでは2位になる。円谷遺書がよく知られているから、おおよそのことは皆知っている。50年前、当時のことだからパワハラもあったし、無責任ジャーナリズムもあった。
それを改めて今、舞台にかけるというのは、オリンピックが近いとか、スポーツ界のスキャンダルがあるとか、時勢を見てのことだろう。
しかしこれほど舞台に不向きな素材もない。42キロのロードレースをやるわけにもいかないし、円谷は自衛隊員、家族は確か30人ほどもいたはずである。遺書はその家族一人一人の名を記したところが泣かせ場のクライマックスだから、どうする。二人のランナーは気質も違うし場所も東北と九州。パワハラも自衛隊と八幡製鉄(新日鉄)だから、ありようも違う。映像は、オリンピック委員会の規制がかかっているから使えないし、ドラマにして、丁寧にやっていたら、時間はともかく、経費はどれだけあっても足りない。
そこを、この舞台は二組の選手とコーチ、ひとりの記者の五人の出演者のノーセットドラマでやってしまう。一種の証言ドラマ、記録ドラマである。朗読の変形と言ってもいい。五人のそれぞれの立場からのほとんどモノローグの中身なのだが、時折芝居になる。下手にやれば、寒々しいだけなのだが、これは事件の面白さで2時間は持つ。作演出は要領もよく、注文仕事を良くこなしてはいるのだが、うわべをなぞっただけという印象は拭えない。役者への注文もほどよかったようで、余計なことをしていないのでまとまってはいるが、この話は本来まとまりきれなかった男の話だから、限界がある。
それにしてもこの、当時の流行歌のようなタイトルは興業元らしいと言ってしまえば、それまでだが、もっと今風に考えないと、客は来ないよ。

遺産

遺産

劇団チョコレートケーキ

すみだパークスタジオ倉(そう) | THEATER-SO(東京都)

2018/11/07 (水) ~ 2018/11/15 (木)公演終了

満足度★★★★

今年演劇ファンが最も注目している舞台と言っていいだろう。古川健もチョコレートケーキも正念場である。今年の乱作を乗り越えて、その期待に十分に応えた作品だった。
素材は戦時中の日本軍の満州での細菌兵器731部隊である。どの国でもあるが、いったん政府が拙いと秘密にした情報はなかなか出てこない。この舞台では、現在公知の情報に基いて(政府が認めたと言う事ではなく)書かれたフィクションという枠組みで、国という集団と、その中にいる個人、の関係を追っている。戦争が世界各地で目に見える形で行われているいま、極めて現代的なテーマである。
国には、個々の国民にとっては迷惑でしかない「戦争」を行う権力があり、個人には個人の尊厳に加えて、ここでは医学者の倫理と言う国を越えた普遍的なコードがある。
ここでは、戦争遂行のための反倫理的な兵器製造を巡って、両者の様々な尺度から見た対立が描かれ、カタストロフに直面した時の人間の対応と感情が問われる。それぞれの人物も登場人物としてよく書き込まれていて、2時間余だれることなく見せてしまう。相変わらず構成もキャラの設定も旨い。
今回感心したのは、現代の観客、90年代の今井の死、戦時中の満州、という今現在生きている三つの世代に広く網打ちした舞台を作ったことだ。どの世代でも、このドラマが問題にしている対立は続き、それがこの社会の考えるべき問題だ、と演劇の世界から明確に発言している。感動的な舞台でもあった。
しかし、と、ここからは注文になるが、特殊な素材をうまく普遍化することには慣れているはずの古川のはずだが、超特殊な素材だった「治天の君」ほどにも、人間的に広がらない。天皇夫婦に託した演劇性が、このドラマでは中村という医師に託されているが、彼のドラマとしての位置がどうだったのだろうか。また、最後に(以下、ネタバレ欄で)
この公演に先立って、「ドキュメンタリー」と言う公演があったが、これはなくもがなであった。中途半端で意味がない。しかし、情報に立脚している今回の公演が、成立する基礎として、この情報がどう出てきたかというドラマは、別の視点のドラマとして面白いと思う。歴史ドラマを扱うとき、史実かどうかは、今作者が気を配っているほど、重要ではない。デタラメをやれば、ネット攻撃にさらされうっとおしいことは事実だが、たとえ情報操作と言われようとも、世間が納得sる情報で発信するのはやむを得ないし、それでひるむことはない。日本ですら、この731部隊の裏側で、同時期に国内の演劇では、菊田一夫が「花空く港」を書き、森本薫は「女の一生」を書いていた。
現代では、前世代の単眼的視点を複眼で見直すことは必要不可欠である。この作品にはそういう第一歩も感じられた。




ネタバレBOX

最後に李丹の踊りに託したいわば融和のメッセージもあるが、これは無理やりの感じで決めすぎた感じである。かつて、岩松の芝居(水の戯れ)で快演を見せた彼女に出会ったのは嬉しかったが。
ガラスの動物園

ガラスの動物園

東京芸術祭

東京芸術劇場 プレイハウス(東京都)

2018/10/27 (土) ~ 2018/10/28 (日)公演終了

満足度★★★★

iアメリカの現代劇の代表作が、見事にフランスの芝居になっている。心理劇ではあるが、アメリカの庶民生活も色濃い作品だ。しかしこの舞台には白い大きな蚊帳のような布に囲まれた舞台があり、さらにその前には開閉する大きな白いカーテンがある。シーンによっては二枚の布越しに主人公の家族・母と姉の物語がきれぎっれな記憶によって描かれる。そこにはもちろんガラスの動物園が置かれているが、30年代のアメリカらしい場面はなく、音楽も効果音をミックスした抽象音楽である。この装置と、フランスの俳優たちのの自己完結的な芝居によって、家族の微妙な葛藤が、いままでみたことのない形で浮き彫りになった。演劇は地についたもので、上演の場所や製作の場所が変わると、こうも変わるものかと感じた。フランス版の「がラスの動物園」で、この作品の新しい魅力を楽しむことが出来た。ほぼ2時間半。

ライク・ア・ファーザー

ライク・ア・ファーザー

自転車キンクリーツカンパニー

OFF OFFシアター(東京都)

2018/10/24 (水) ~ 2018/10/31 (水)公演終了

満足度★★★★

久しぶりのジテキンである。5年の間にスタフだいぶ代わって、いまは鈴木裕美に代わって早船聡の作演出だ。最近は小劇場も主宰者色が薄れて、つまらない、ということもあるが、うまくいく、ということもある。ジテキンは一時元気がよかった女性主宰劇団で以前は、半分大人の三十台の現代人都会風俗劇を女性視点で、という作品が多かった。今回もどんどん強くなる現代女性の意気大いに上がるというドラマだが、仕掛けはびっくりするくらい古い。橋田ドラマ、と言ってもそろそろ通じなくなってきたが、一頃大流行のテレビホームドラマの枠組みである。小劇場でも最近はこういう古い家族ドラマを見ることが多くなったが、このドラマは、主役の内田亜希子、渡辺とかげが今の働く女性の現状をうまく演じて、古めかしい枠を突き抜ける現代性がある。それに比べ、周囲の男性キャストはいささか小劇場ずれ、キャラずれしていて、そつはないが、今の空気が流れていない。ここでも女性優位のところがジテキンの伝統かもしれない。
1時間45分。お客さん大満足で、意外に若い観客も乗っていた。

藍ノ色、沁ミル指二

藍ノ色、沁ミル指二

演劇集団円

吉祥寺シアター(東京都)

2018/10/18 (木) ~ 2018/10/28 (日)公演終了

満足度★★★★

昔懐かしい産業衰退劇である。昭和の時代には、左翼系新劇から、新派に至るまで、よく見た。絶滅危惧種かと思ってていたが、いや、日本社会の原点でもあるのか、なかなか滅びない。今回は極め付き!とも言うべき天然の藍染。東京の染屋一家のホームドラマが噛ませてある。呆れるほど、昔のママの筋立てで、よくこれで企画が通った、と見ていると、やはり、それは仮の姿で、作る方もしぶとく今の芝居にしている。
いまらしさのいいところは、昔は敵味方が明確にあって、金持ちとか行政とかは決まって敵役。善玉には可憐な不幸な娘がいて、というのが王道なのだが、この芝居はそんな野暮はしない。それぞれの登場人物の心の中に敵も味方もいる。これは少し配役上類型的だがかなりうまくいっている。もう一つ言えば、台詞。新派芝居のこってり情緒が似あいそうなセリフなのだが、全員イマ風、平板ぶっきら棒。三人兄弟の男の子が実の子でない、とか、月が出ていて、最後は月光の曲というべたさには閉口するが、そのべたさを救ったのはこの台詞の工夫で、老夫婦(野村昇史、高林由紀子)、親たち(金田明夫、上野直美)を演じたベテランがさすがに意図を呑みこんで旨い。だが、一方では、マイクが常識になった昨今では、生台詞は、かなり聞き取りにくい。台詞足が速いのはいいのだが、言葉に力がない。こういうところは少し工夫が欲しい。例えば、出場が少ないおばの高橋理恵子。舞台の奥での台詞なのだからもっと張らないと。そういう技術はある劇団円であろう。
今の芝居らしくないべたべたの話が、今もあるかもという現代劇になった。関係者も多そうな満員の客席は満足している。だが、多くのいい役者もいる劇団ならもっとやるものがあるんじゃないかなぁ。

The Dark City

The Dark City

温泉ドラゴン

ブレヒトの芝居小屋(東京都)

2018/10/15 (月) ~ 2018/10/21 (日)公演終了

満足度★★★★

国民のほとんどが新しい体制の中で新しい幸せが訪れると信じた幻のような時期があった。終戦直後の一時期。民主主義が新しいモラルとして国民の太陽だった。このドラマの実話・本庄事件は新劇団名優総出演で「ペン偽らず・暴力の街」と言う映画になった。同時期のもっとやさしい例では「青い山脈」の大ヒット。あの主題歌を、ほんの一部の国民を覗いて,みなが合唱して幸せを感じられたのだ。だが、それは幻で、世間はそれほど単純でなく、誰もが生きるモラルを失っている70年後の今の現実だ。この横文字のタイトルの小劇場のドラマは、70年前の地方都市の街の支配者と新聞社支局との攻防の中でジャーナリズムが民主主義政治成立させる基本要素だと言う事を、過去の事件と過疎となったその町を交差させながら描いていく。
昔、昭和20年代から30年代にはよく新劇団が上演したプロテスト劇の味わいだが、その後、この路線はすっかり観客に飽きられて、わすれられて久しい。この舞台を作っている人たちは、最年長の大久保鷹ですら、その実感はないだろう。ドラマの空気が懐メロ風になってしまうのも時代の流れだ。
だが、それは無意味と言う事ではない。歴史の中で土地に沁み込んだ記憶は、どこかで、今を生きる人に影響を与えることは必ずある。劇場はいつ閉館するかと危ぶまれている旧三期会のブレヒトの芝居小屋。何十年ぶりかで、ここで芝居を見たが、古びているが手入れはされていて、機能している。芝居と共にそのことに心を打たれた。

まさに世界の終わり

まさに世界の終わり

シーエイティプロデュース/兵庫県立芸術文化センター

DDD AOYAMA CROSS THEATER(東京都)

2018/10/13 (土) ~ 2018/11/06 (火)公演終了

満足度★★★

めずらしい経緯で上演されたフランスの現代劇だ。90年代エイズ猖獗の時代に書かれた戯曲が16年になってカナダの若い映画監督の手で映画化、カンヌでグランプリを獲って世界的に脚光を浴びた。実はこの戯曲の日本語訳は映画化以前に翻訳されていて、それが「まさに世界の終わり」。「たかが世界の終わり」と言うタイトルは映画でつけられたもの。
同じタイトルだが、映画は巧みに映画向きに脚色・演出されていて、物語の概要や登場人物は同じだが、スタイルが全然と言っていいほど戯曲とは違う。一言で言えば、「映画的」によく出来た映画であり、「演劇的」な戯曲なのだ。
先に翻訳が出来ていながら、日本で上演されなかったのはその戯曲のスタイルが日本では馴染みがなかったからだ。登場人物のモノローグがシーンの間に長く挟まっていて、普通の舞台演出では収まりきれない。物語が家族の間の、日常のような、非日常のような、現実のような、過去のような、世界を行き来していて物語がつかみにくい。そこを映画は、カメラ、俳優、音楽を駆使して物語を整理・映像化して大成功した。例えば、戯曲で延々とモノローグで語られている家族の微妙な感情が、クローズアップの映像で手にとるように解るように作ってある。僅かのロケーション撮影も舞台では望めない効果を上げている。
この映画の成功があってこその今回の日本上演では映画と、戯曲のいいとこどりをせざるを得ない。
三十二歳で余命宣告されたゲイの劇作家(内が、自らの死の予告を家族に伝えるために、十年余離れていた故郷に帰ってくる。だが、それぞれの生活を持ち、突然の帰郷に戸惑う家族を前に、切り出せない。母、兄、兄嫁、妹、肉親のひりひりするような感情がすれ違う孤独なディストピアのホームドラマだ。そこで、孤独な家族たちに、何を求めて自らの世界の終わりを告白出来るのか。
上演は石丸さちこ・脚本演出版である。苦労のほどは偲ばれる。映画でも翻訳戯曲版でもない新脚本で、ジャニーズの俳優の見せ場まで加えて2時間にまとめている。
しかし、折角のその苦労は報いられたとは言いにくい。一つはこの物語の持っている悲劇性(命が終わるのが予定されている)と日常性(家族)の中で、ひとりの人間と、血を分けた家族との関係を顕微鏡で見るように細部を取り出して見る、と言う作品の芯がよく見えない。母、兄、兄嫁、妹に本人の家族の間の軋みが続くだけで、観客には作品の意図が見えてこない。家族それぞれの現実的な生活背景がほとんど語られない所にも原因があるのかもしれない。映画ではえがかれているが、主人公がゲイであり、劇作家でありパリで成功している、と言う事すらこの上演では語られないので主人公の告白の動機が抽象的でつかめない。現代に生きることは、家族でも孤独だという切ない限られた命の叫びが伝わってこないのだ。
俳優も取り付けなかったのではないか。主演の内はミュージカルではいい役者だが、こういう内面的な芝居には戸惑っただろう。エイズで余命一年以内と言う悲劇を体現できていない。台詞の語尾がすごんだような濁音になるのも良くない。こういう無理なことをさせるのは事務所も興業元も贔屓の引き倒しになると言う事を考えなければなるまい。事実、客席はジャニーズでは全く珍しく空席があったし、ほとんどの女性ファンもどう反応していいか迷っている。脇も苦しい。那須加代子は辛うじて、新劇解釈で乗り切っているが、他は、映画で名演を見せられているので点が辛くなる。モノローグも対話も、力不足である。演出的にも彼らでやれるように優しい工夫ができたのではないかと思う。
うまいと思ったのは、効果音で、窓の外のノイズなどは予想外に効果を上げた。
この原戯曲は家庭劇として新しいところがあるので、タレント芝居でなく、どこかの劇団がアトリエ公演などでやってみてはどうだろうか。。

ネタバレBOX

つまらないことだが、劇場への注文。開演前に開演を知らせる録音アナウンスがあるが、そのリードについている音楽、どうにかならないか。音楽が全く芝居に合わない。ものすごく、観客の気分が損なわれると言う事を劇場はしらないのではないか。
ゲゲゲの先生へ

ゲゲゲの先生へ

東京芸術劇場

東京芸術劇場 プレイハウス(東京都)

2018/10/08 (月) ~ 2018/10/21 (日)公演終了

満足度★★★★

新しい商業演劇、とでも言ったらいいのだろうか。前川とイキウメに、今や大劇場を背負えるようになった佐々木蔵之助、テレビの松雪泰子、小劇場のスター白石加代子、手塚とおるで水木しげるの世界だ。変な座組みなのだが、一応大劇場がいっぱいになる。前川が作ってきた近未来と、過去に戻る水木とは、異次元でも、だいぶ世界が違うはずなのだが、そこを、佐々木蔵之助の半分人間、半分妖怪と言う(苦笑せざるを得ない)設定でつなげてしまう。水木らしい妖怪も出てくる。現代の地方の捨てられた神社と言う設定だが、ここが一番弱いと思った。一見似ているが、イキウメの舞台のような巧みでリアルな地域設定ができていない。夏の夜の夢みたいだ。前川の作品にある現代へのテーマ性がない。だが、芝居としてはできているのだ。
主催の東芸も公共サービスと言う点では、大きな興業元の商業演劇とは違うものを見せようという意気込みは買えるし、見ていてつまらなくはないのだが、芝居好きとしてはせっかくの大座組みだから、参加者の本領の全面発揮で芝居を見てみたいのだ。この舞台もこのまま小劇場でやるわけにはいかないだろうが、劇場が小さければ、それなりの別の面白さが出たと思う。難しいものだ。

誤解

誤解

新国立劇場

新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)

2018/10/04 (木) ~ 2018/10/21 (日)公演終了

満足度★★★

文学座の若い演出家は思い切りよくこの戯曲の理詰めに集中していかにもフランス演劇らしい「理屈で行く」舞台になった。
原田美枝子、小島聖の舞台出身ではない女優が大健闘。ことに小島はその大柄な体躯を白の衣装に包んで舞台映えする。中盤、小島の独白に合わせてほとんどこれだけの大きな釣り布の装置を使ったシーンは見事だった。小林勝也も最後の一言だけの役だが、さすが若いころから唐の舞台に出ていただけであって、こういう芝居の決め所を知っている。
タッチとしては、文学座のアトリエのような舞台だが、やはり劇場でやっただけのことはある。しかし、中身としては何で今どきカミュなのか、それなりの理屈を聞いてもよくわからない。芝居としてはできているので、カミュもサルトルもやればできるだろうが、これで新国立劇場の新シーズンの幕開き、現代社会の課題・閉塞感からの脱出などと言われても、いい加減せぇということになる。60年前のフランスの現代劇じゃないか。
新国立劇場の新芸術監督、大丈夫かなぁ。ラインアップを見てもばらばらで焦点が見えない。抱負もこれまで誰もが言ってきたようなことで、これが文化庁の天くだりの言いなり、忖度でなければいいが。何だか自己陶酔的なビデオも流れていて、リーディングの製作形式にスーパーマーケットの大売り出しのようなフレーズをつけて悦に入っていたりするのは、中身が新しくもないだけに、本当に心配だ。新シーズンはまず自分でやるという気概も欲しい。

蛇と天秤

蛇と天秤

パラドックス定数

シアター風姿花伝(東京都)

2018/10/10 (水) ~ 2018/10/15 (月)公演終了

満足度★★★★

絶対的なモラルの世界に生きる人間たちが現実的(相対的)な対応を迫られて右往左往する中に、身近な社会の本質が覗いてくる,、、、。野木萌葱の作品はまとめればこれ一筋で、じりじり世評を伸ばして20年、今年は年間を通して風姿花伝で開けるという企画に応じられるところまで来たが、目先は変わっても、作りはまたか、と思う作品も多い。だが、絶対と相対のずれのつかみ方がいいので素材が代われば、つい楽しんで見てしまう。ナンセンス・コントのようなところもあって面白いのだ。
今回は、患者に直接接する医者(助教授・講師・若手医師)と、間接的な薬学に携わる製薬会社の新薬開発・販売員(開発研究者・営業担当)を巡るドラマである。医者の方には大学病院のヒエラルヒーがあり、製薬会社には直接患者に接しないと成果が見えないもどかしさがある。ともに医学は生命を守る、失敗は許されないという絶対的命題があるのに、現実は必ず失敗はある。、、、その狭間で個人のモラルはゆらぎ・・・・という話だ。
この作者は社会ダネを素材にこういう行き違いのドラマを面白くかけるが、社会のドラマの本質的な核心には踏み込んでいかない。日本の劇作家で言えば、久保栄からはじまり、木下順二、宮本研、福田善之、斉藤憐、と野木と同じような素材を扱った人たちはたくさんいるし、森本薫、とか北条秀司のような作家でも結構現実社会を素材にして、成否は置くとしても、いい芝居を作っている。彼らと野木が違うのは、上記の作家たちは素材の本質に迫ってそれを登場人物に反映しようと力を尽くしているが、野木は現実処理のモラルを問うというあたりで両論併記で納めてしまう。今回のドラマで言えば、医薬分業というのはどうなのか?というような問題の核心には触れない。誤診の内部告発と言ったような面白そうなところだけ拾うところがイマ風である。 (一方では現実世界を扱っているのに素材の扱いが乱暴なところも散見する)
もう一つ、今回大きく変わったのは、小劇場が劇団の枠を外し、実質的にプロデュース公演になったことである。事情があるだろうから外からはあまり論評できないが、舞台面だけ見れば、これは成果を上げた。その組み方も花組芝居、大人計画、新国立の研修生出身、芸人風、といろいろな出身者で、その組み方もどこのプロデュースにもない顔ぶれを集めていることだ。柄だけを見たのではないかと言う危惧もなくはないが、全員期待に応えて健闘である。

書を捨てよ町へ出よう

書を捨てよ町へ出よう

東京芸術劇場

東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)

2018/10/07 (日) ~ 2018/10/21 (日)公演終了

満足度★★

時代を先鋭的に触発した寺山修司の没後35年の公演だが、時代の推移をつくづくと思い知る公演になった。それはそうだろう、この劇場があった場所は、寺山の頃は全く芝居などは縁のない流行らないマーケット街だったと記憶している。書はスマホになったし町は高層ビル、舞台になる労働者階級のアパートはマンションになったのだから。
当然、そこに住む若者の意識も変わる。もともと寺山の「書を捨てよ、町へ出よう」というスローガンも、当時は詩的な色合いを含めた若者の憧憬を誘う惹句だったが、今日の公演のように、まったくその時代を顧慮しない俳優と演出で、何やら現代風の様式的な舞台で演じられると唯々昭和との違和感がつのるばかりだ。芝居を作った連中にとっても寺山は、我々が昭和30年代に漱石をありがたがれと言われて反発したような気分ではないだろうか。全体によそよそしい公演で、映像に音楽に建築材を組み合わせた装置にと趣向はいろいろ尽くしているけど、なにも伝わらない格好をつけただけの舞台だった。これではならじと挿入した流行のお笑い芸人の創作コントも失笑を誘うだけだった。

二十日鼠と人間

二十日鼠と人間

Quaras

東京グローブ座(東京都)

2018/10/03 (水) ~ 2018/10/28 (日)公演終了

どん底がロシアなら、こちらはアメリカの季節労働者の群像劇だ。人情劇の面もあってよく日本でも取り上げられるが、やはりお里は争えない。これはやはり、多民族、移民国家のアメリカの物語だ。
今回の上演は、ジャニーズのファンサービスのような公演で、私が観た回は平土間の一階に男性の観客は一人もいなかった。全員建くんの女性ファンである。そういう目的の芝居もあっていいのだが、主演者を考えればもっとやさしい演目があるのではないかと思う。また、演劇に向いているタレントとステージショーの方がいいタレントがいる。演劇が解る、と言っては語弊があるが、演劇的表現にセンシティブは人と、タレント表現や、ビジュアルで行ける人とは違う。そこをタレント事務所は冷静に見なければ。どちらがいいと言う事ではないのだ。タレント性だけで一晩の劇場を埋めるだけの観客を集める人もいるのだから。2時間45分。生音楽で盛り上げ、周囲の俳優たちは演劇にしようと健闘している。

華氏451度

華氏451度

KAAT神奈川芸術劇場

KAAT神奈川芸術劇場・ホール(神奈川県)

2018/09/28 (金) ~ 2018/10/14 (日)公演終了

満足度★★★★

大きく高い白い本棚が客席に向かって開いている。本棚には白い大きな本が並んでいるが、それが次々と炎上する。ここはマッピングだ。本を持っているだけで犯罪で、それを焼く昇火士と言う公務員もいる情報管理社会がこの装置でよくわかる。昇火士と言うのは、原作翻訳者の造語だが、言葉にすると消火士と紛らわしい。つまりは現在の消防士とは別の役割の公務員がいる未来のディストピアドラマである。
ミステリやSFの読者には古典のレイ・ブラッドベリの原作はすでに何度も映画にはなっているが、舞台にするには未来社会と火を扱う場面をうまく見せられるかどうかがネックになっていて、あまり記憶にない。今回は、この装置が効果的で、終始この本棚に囲まれた舞台で進行する昇火士モンターグ(吉沢悠)の物語に説得力がある。
原作はナチスの焚書に近く、アメリカの赤狩り1950年代に書かれていているから、当然、古めかしいのだが、最近の中国の言論規制や、そこまで行かなくても身近なところで起きている「忖度」や他人への無関心を見ると他人ごとではない生々しさがある。その原作第一部の部分は舞台でもよく表現されている。
昇火士モンターグは、隣人の娘クラリスや妻ミルドレッド(ともに美波)や、上司(吹越満)との日常の中で、このホンのない統制社会に疑問を持ち抜け出そうとする。原作第二部第三部の脱出のアクションドラマ的冒険物語で、原作では本(思想の持ち方)に関する多くの引用や警句がちりばめられている上に、機械猟犬のような小道具、戦争が始まると言う大道具も出てきて舞台では難しいところだ。
小劇場なら一言の説明でやむを得ないと納得するが、大劇場ではどうか。

ネタバレBOX

しかし、演出の白井晃はこういうシチュエーションには経験豊富で、原作に沿いながら、まずは、大過なく見せてしまう。長塚圭史の脚本もうまく原作をまとめて、よく出来ました。という印象なのだが、後半の道行きの部分(引用が多い)は旨く観客に伝わったとは言えないのではないか。ことに疑問なのは、多くの役を演じる美波で、クラリスと妻の二役はともかく、それが、ラストの動物の役にまで重なっていくのは、そういう解釈はあるとしても、無理があると思う。そのために最後にモンターグがミルドレッドとののシカゴでの青春の出会いを思い出し、それに希望を託して終わるところが、役者の力量もあるが、とってつけたようになってしまった。


レディ・オルガの人生

レディ・オルガの人生

ティーファクトリー

吉祥寺シアター(東京都)

2018/09/29 (土) ~ 2018/10/08 (月)公演終了

満足度★★★★

世の中のクリーン思考に演劇界はかなり苛立っているのだな、と思わせるステージだ。
クリーン思考と言うより、無事思考、他人無関心思考、とでもいうか。もともと、演劇はごった煮的なさまざまなモラル共存の世界を提示するものでもあるのだから、そこをじわじわと締め付けるような昨今の風潮は困ったものだ。だが、正面からそれを言うとネットの炎上から始まり、したり顔の世の中クリーン族が出てきて表層的な騒ぎになってしまう。そこを軽喜劇風に撃った舞台だ。
身体障碍者のサーカス的な劇団に集まった障碍者たちの象徴が、レディ・オルガ(渡辺真紀子)で、顔面に男勝りの髭がある。引っ込み思案の彼女を無理やり正面に出すことで、シャム双生児、両性具有者。猫女などの見世物劇団を売り出す、作者や座長、いずれも行き当たりばったり人生の人間たちで、かくたる志向があるわけでもないのに、注目を集めたとたんに潰されてしまう。
中身は寺山修司や唐十郎的な世界で、彼らだったらもっと奔放に畸形児たちと世の中を対立させて鋭い舞台を作ったであろうが、今は時代も違う。彼らの継承者として育った第三エロチカの作者は、劇場パンフでも言っているように「世の中これで良くなったか?」という問いに、いらだちは隠さないものの、正面からは戦おうとしていない。
そこが残念とも言えるのだが、いまさら、ペニノをやるわけにもいかないだろう。劇場で渡されたチラシを見ると、ずいぶん唐や寺山の再演がある。演劇界の底流には彼らの精神は生きているとはいえ、それを現代の観客に向けて撃てる新世界の提示が出来る作者、演出家、役者がいないのだ。観客はそこもいらだつ。
舞台は、最近のこの作・演出者らしく、きれいにまとめられていて(多分美術も川村だろう)小劇場には珍しく、舞台空間が美しくまとまって居て舞台転換などもうまいものだ。俳優たちは小劇場のいろいろな場からの出身者が配役されているが、それぞれの力量がすれ違ってしまうところもなくはない。それはプロデュース公演になると仕方がないとも言えるけど、これだけのホンがあるなら、公共劇場でなくとも、都内の準商業劇場でも、今少しレベルを上げて出来ただろうにと残念だ。
歌あり、映像あり、の2時間。

兵士の物語2018

兵士の物語2018

まつもと市民芸術館

スパイラルホール(東京都)

2018/09/27 (木) ~ 2018/10/01 (月)公演終了

満足度★★★★

ストラヴィンスキーの音楽劇。6人の演技者と、7人の演技者の息のあった小劇場風舞台で、しゃれた青山通りの劇場にふさわしい贅沢な内容だ。串田和美・演出。スパイラルの客数ではどうやっても採算が取れないだろうと、余計な貧乏性が出てしまう。現代音楽には親しんでいなくても楽しめる舞台だった。ダンスが美しかった。

ネタバレBOX

アンコールで幕が半分しか下りず、やむなく二度三度、となったのは、ひょっとすると串田和美らしいアンコール用新演出かと思った(笑)
ドキュメンタリー

ドキュメンタリー

劇団チョコレートケーキ

小劇場 楽園(東京都)

2018/09/26 (水) ~ 2018/09/30 (日)公演終了

満足度★★★★

いくら90分足らずの作品と言っても、ほとんど出ずっぱりの中身が詰まった三人芝居を連日3回やるのは、大変だろう。それを破綻もなくやってのけるだけの実力がこの劇団にあると言う事だ。半端な5時の回を見たが満席だった。
芝居は「歴史暗部もの」の、サスペンスもあって一気呵成に進む。素材を追い込んでいく作劇法もよく出来ている。しかし、もう何度も語られたこの素材を通して、新たになにが語られたかと言うと、そこは薄い。構成もうまいし、俳優たちも柄にはまっていて、だれることはなく、この戦時中の植民地で行われた日本軍の残虐行為が、現在の製薬会社にも受け継がれていることが語られる。科学の名で行われた残虐行為に慣れてしまう人間の弱さ、生活のためには医学の倫理などはたやすく捨てられること、官民とわず日本人に共通する自己を律することの弱さ、それの反面として、権威や組織への盲目的な従属、が語られるが、いずれもどこかで聞いたような結論に落ちていく。パンフによれば、事件をすっきり解いてみせるエンタテイメントだと言うが、この程度でホントにそのつもりなのだろうか? この作者なら、こんなことで終わったりはしないと思う。これではパラドックス定数(今年同じ素材(731)を再演した。もちろん劇の設定も中身も違うが、日本ではいつまでも731の思想は変わらない、と言っているところは同じだ)と、どっちもどっちと言うレベルではないか。
素材の追求ではなく、タイトルの「ドキュメンタリー」論だとすると、見方は変わるが、この程度でこの事件を書くのをあきらめるようなドキュメンタリストではドラマにならない。
ドキュメンタリーがどう取材され切り張りされ、「これが真実だ!」と公表されるようになっていくか、というのはかなり面白い素材で、もっと手垢のついていない素材で、見せて貰いたいと思う。

ネタバレBOX

細かいことだが、最初の内部告発する製薬会社社員から、フリーランスのジャーナリストが、話を聞くところ、終始、聞き手が立ち、話し手が座って、見下ろす形で取材をするが、こういうふうに見下ろして人から大事な話聞くことは絶対にしない。対で聞かなければ、必要な話など引き出せないのだ。取材経験もある、という設定になっているのだから、こういう取材のコツは、周囲に聞けば教えてくれる人はいるだろうに。
『US/THEM わたしたちと彼ら』『踊るよ鳥ト少し短く』

『US/THEM わたしたちと彼ら』『踊るよ鳥ト少し短く』

オフィスコットーネ

小劇場B1(東京都)

2018/09/20 (木) ~ 2018/09/27 (木)公演終了

満足度★★★★

まったく違う極限状況を、不条理劇と、ドキュメンタリー劇と趣向を変えて見せる二本立て。ともに俳優は二人づつ。
最初の「踊るよ・・」は長髪が扇風機に絡めとられて動けない女と、自由に動ける男のつかず離れずの男女関係。作はノゾエ征爾で、こういう芝居は日本の劇作家は不得意だが、チャレンジ精神が発揮できる場があったのは喜ばしい。役者もベケットだ、イヨネスコだ、と言うと喜んでやるくせに、日本の作家だとしり込みするのか。演出は小劇場の山田佳奈。
役者は占部房子と政岡泰史。占部房子は、小劇場には欠かせない逸材だが、今回は珍しくドタバタとでもいえそうな喜劇的な役だ。場の空気やその時の表現にたけているカンのいい女優だから、奇妙な形で極限状況に追い込まれた女の心理的なサスペンスがよく伝わってくる。政岡は受けの芝居になるが、稽古をよくやったらしく、動きと台詞の受け渡しが非常にスムースで、その場の感情をよく伝えて、見ていて気持ちがいい。
もう一つの翻訳劇は、正面からチェチェンの小学校占拠事件の首尾をドキュメンタリックに描いている。趣向も黒板に囲まれ、紐が張り渡されるステージが、つまりは小学校、爆発する爆弾の導火線、を象徴している。囚われた学校の生徒の男女が、尾身美詞と野坂弘。去年イギリスのナショナルシアターで上演された脚本と聞くといかにもいかにものイギリス芝居だ。役者も演出も一生懸命でいいのだが、これだけ小劇場できっかけが多いと、肝心の芝居が上の空になるのではないか。
こういう前衛的小劇場作品が、それぞれの劇団や事務所を縦断してプロデュース公演で、しかも小さな小屋で上演されるには、いろいろ関係者には御苦労があったと思う。劇場が大きい商業劇場なら、簡単に善し悪しが言えるが、こういう試みは応援したくなる。幸い昨晩は満席で、観客も成熟してきた。ともに1時間10分ほど。

かのような私

かのような私

文学座

文学座アトリエ(東京都)

2018/09/07 (金) ~ 2018/09/21 (金)公演終了

満足度★★★★

八十年にわたる日本戦後史のドラマである。東条が絞首刑となった日に生まれた男の生涯が6場で描かれる。休憩あっての2時間半。
ほぼ全場、空気に覚えのある事件を取り扱っていて(未来の一場も何やらお見通しになった感じであった(笑))、こちらも歳をとったとつくずく思う。東条処刑から始まるから当然これは戦後民主主義で日本の一家がどうなったかと言う話だ。自由、平等のシンボルが次第に影が薄くなって、天皇制に象徴される日本の世間に呑みこまれていく、と言うのはよくある話で新鮮味はないが、さすがこの作者だけあって、また、文学座の役者だけあって、破たんもなく面白く見られた。効果音が各時代の飛行機の音、と言うのは新趣向で、こういう細かいところはさすが大劇団と思う。
だが、全体としては、この作者で文学座がやるなら、「女の一生」の男版、戦後版みたいなものでなく、「治天の君」とは言わないが、日本の戦後と言うなら、せめて、「60Sエレジー」くらいには素材もテーマも絞ってくれないと観客は満足しない。文学座がこの作者と組む機会もそう多くはないだろう。日本の新劇のメンツにかけて、もう少しどんな芝居が今の新劇にもとめられているか、考えてほしいところだ。劇団にも鋭い有能な製作者が必要だ。

チルドレン

チルドレン

パルコ・プロデュース

世田谷パブリックシアター(東京都)

2018/09/12 (水) ~ 2018/09/26 (水)公演終了

満足度★★★★

原子炉事故先進国イギリスの原発事故モノである。イギリスの原発事故(セラフィールドと言ったっけ)はもう50年以上前の話で、今のフクシマと同じような状況があって、また事故隠ぺいなどもあって、こういうときはどこの政府も同じように信用できないことする、と教えてくれたものだ。せっかく先例の教材がありながら、懲りずに同じように事故を起して平気な上に、処理もできない我が国政府・企業も困ったものだが、ここではその議論は置いておく。
日本でも事故後、政治や経済の問題を離れて、巨大科学と科学者の責任、と言う点に焦点を置いた舞台がいくつかあったが、どうしても告発調になってしまうか、抽象的モラル責任論になってしまう。
そこは、このイギリスの30歳代の若い新進女流劇作家はうまいのだ。
技術者として手がけた原子炉が事故を起こした原子炉科学者夫婦(高畑淳子・鶴見辰吾)の話だが、彼らはすでに引退(定年退職)して原子炉から遠くない自然の中のコテージで暮らしている。そこへ、かつての同僚の女(若村麻由美)が、事故の救済に行こうと誘いに来る。原子炉労働者が足りないので元の同僚100人に声をかけて20人ほどが行くから、一緒に行こうというわけである。女と夫はかつて関係があり妻も知っている。この三人の離職後ひさびさの出会いからの数時間の芝居である。
救援に行くか行かないか、行くべきかどうか、夫婦には4人の子があり既に家を出ているが、女には子がない。お互いの生活の背景も変わっているし、情事の比重も変わっている。その辺を絡ませて、技術者が関わらざるを得ない巨大科学事故と人間のあり方を教条的にならないようにドラマにしている。話そのものはよくある話だが、運びがうまくて2時間足らず、飽きない。栗山演出に、いつものことだが隙がない
しかし、これはやはりイギリスのイギリス人の話だ。目前にフクシマの惨状と、対策の無策を平然と見せられる日本では、この話は牧歌的すぎる。芝居として面白ければいいだろう、と言う意見もあるだろうが、これだけ国民がイラつく事態になっている日本では、このテーマを芝居として楽しむ、と言う事にはなかなかならない。少なくとも私はそうだ。
俳優も好演で、高畑淳子が時に、日本風になってしまう以外は翻訳劇としてはよく出来ていると思う。劇場のキャパのせいもあるかもしれない。これだけ大きいとどうしても広い客を意識せざるを得ない。仕込が商業劇場のパルコということもある。
この戯曲かけ方を誤ったのではないか。


ネタバレBOX

チラシやポスターを見ると宇宙モノかと思ってしまうが、これは本質的にはウエルメイドプレイの商業演劇だろう。
変奏・バベットの晩餐会

変奏・バベットの晩餐会

かもねぎショット

ザ・スズナリ(東京都)

2018/09/06 (木) ~ 2018/09/09 (日)公演終了

満足度★★★

なぜこの北欧の寓話を日本で舞台にしようとしたのか、結局わからない。
原作はデンマークの国民文学、映画も傑作と言われる出来で、それぞれに深く愛している人たちもいる。それを越える結果は望めないにしても、この素材を扱うなら扱うだけの心意気を見せてほしい。
俳優全員を白の衣装にするとか、ダンスをいれてみるとか、バベットのフランス語なまりを東北弁でやってみるとか、晩餐を幕で見せるとか、全然作品の本質に関係ないところで小手先の気を引くだけでつまらない。肝心の、革命で、天職を奪われた犠牲者が、その職を理解しない寒村に流れてくる。その寒村の人々には自然の生活があり、その中で生涯を貫いて生きるよすががある。それぞれの地域に生き、宗教も異なる人間の人生と真実が、宝くじが当たったことで実現する一夜の奇跡の晩餐でほんの一瞬だけ明らかになる。と言うところがぼやけてしまって見えてこない。
原作より、としていないのならいいが、これで日本の変奏と言うなら、ちょっとデンマーク国民に申し訳ない底の浅さだ。。
俳優も久しぶりのかもねぎショットで落ち着かずバラバラの印象だが、一人か二人はブリリリアントな役者が居ないとこういう抽象性が強い話は苦しい。おばさんたちの井戸端会議の連続のようになってしまった。唯一の男性配役は、原作ではものすごくおいしい役なのだがこれも不発。唯一旨いと思ったのは選曲である。

ネタバレBOX

人間同士、理解されるところも、結局理解されないままに終わることもあるが、かくして人生は流れていく、と一同が星空のもとで手をつないで踊る映画の秀逸なエンディングに似た終わりだが、この物語の寓話性が、映画より長く、また前半は殆ど省略しているにもかかわらず、脚本で生かし切れていない。
この話はやはりコスチュームプレイでしっかりやらないと、内容が浮いてしまうと痛感した。繰り返すが、なんでこんな難物をやってみようと思ったのだろう?

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