旗森の観てきた!クチコミ一覧

501-520件 / 730件中
芙蓉咲く路地のサーガ

芙蓉咲く路地のサーガ

椿組

新宿花園神社境内特設ステージ(東京都)

2019/07/10 (水) ~ 2019/07/22 (月)公演終了

満足度★★★★

総勢36名の新劇団から小劇場まで、さまざまな出自の俳優が土の舞台を駆けまわる、年に一度の野外テント劇である。
今年の題材は中上健二。作家としては評価も定まった感じの昭和の逸材で、かつて、何度も映画化、舞台化が試みられたが、あまり成功したものはない。日本の原点とも言える土着文化を掘り起こしているのだから、切り口がつかめそうなのにうまく具象化できない。
ナマの人間で見せる演劇には有利に思えるのだが、既成の俳優だと、俳優個人のキャラクターが邪魔をしてしまう。それだけ原作が日本人の多様な側面を深く描いているとも言えるのだが、なかなか抽象的な文字の世界には及ばない。しかも、その世界は、今は消えてしまった昭和アンダークラスの路地である。
この舞台で、その空気をいささかでも体現出来た俳優は残念ながら少ない。それは当たり前で、日常生活で手掛かりがない若い俳優には雲を掴むような話なのであろう。ほとんどの若い役者は浅い知識でそれらしくやっているだけだ。そのなかで、主演の加治将樹は、よく中上の世界を体現していた。ほかの舞台も見てみたいと思った。山本亨は幅広くこの役を掬ってまとめ上げて、好演。柄は違うのに存在感を出した水野あや。作・演出の青木豪も身体的には知らない世界だから、ときに原作に遠慮してか(全体としてはご苦労様と言う出来なのだが)最後の肝心なところでは、中上頼りのナレーションになってしまう。結局、芝居にし切れていないのである。まぁ、それほど、中上健二と言うのは難物なのだ。この野外劇公演では、アンダークラスから日本の原点に迫ろうとした企画は多いが、中上の場合は「路地」に籠めた土着の精神性がある。今回は、類型的公演は脱したとはいえ、すこし荷が重かった。
しかし、夏の一夜、普段は様々な劇場で主に脇役で舞台を締めいる俳優たちが様々な場所から集まったテント公演を見るのは、解放的なフェスティバルの雰囲気もあって観客にとっては楽しい芝居見物だった。

ネタバレBOX

アンダークラスを扱うと、どうしても「差別」に触れざるを得ない。現在、あらゆる表現領域で、社会的差別をたタブー化する風潮がある。この公演でも、メディアでは論難されるような表現は少なくなかった。しかし、それに触れない、触れさせないというのは文化の圧殺である。どうか、表現者の矜持を持って、そのようなタブーの臆することなく、真実に迫る芝居を作ってください。
骨と十字架

骨と十字架

新国立劇場

新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)

2019/07/06 (土) ~ 2019/07/28 (日)公演終了

満足度

小劇場でブリリアントな舞台を見せてきた野木が、キャスト・スタッフも揃えて初の中劇場進出だ。芝居好きが首尾いかにと胸弾ませる待望の公演だったが、その期待は重く沈んだ。
その芝居の舞台成果を言う以前に、公演の構えにいくつかの疑問があり、それが観客の期待を裏切る要因になった。
大きくは二つ。その一つは、折角創作劇を委嘱したのに、なぜこの素材を選んだかと言う事である。物語は、ほぼ百年前、二十世紀になっても権威であったキリスト教の異端審判である。主人公はフランス人。登場人物もすべた西欧人司祭だ。
ヨーロッパ近代・現代社会とキリスト教とは相互に深い関係があることは周知のことで、それを東洋から見るというのは、それなりに意味のあることではあるが、なぜ現在の日本の、国立劇場で上演しなければならないか、という創作劇の主題が見えない。
信仰による神の世界と、科学による真理との対比、その中で人間は歩み続けざるを得ない(keep walking)と言うのが、きわめて大雑把なこの芝居の要約だが、結局はその程度の平凡な箴言しか言えていない。
野木の舞台がここ数年注目されてきたのは、主に、日本人なら誰でも身体的に馴染んでいる日本の近現代の事件(東京裁判や三億円事件)や遊戯(競馬やポーカー)に素材を取りながら、ちょっと意表を突く、週刊誌的と言ってもいい人間的問題提起から、的を得た日本人批評(もちろん中には汎人類的なものもあるが)を面白いドラマに仕立ててきたからなのだが、この素材では、その面白さを出しようもない。では、日本の近現代史、あるいは現実の社会の中に同じテーマを持つ素材がないか、といえば、いくらでもある。
現代劇を上演する公立劇場で、ましてや国立劇場なのだから、そこを逃げてはダメだろう。かつて、井上ひさしがこの劇場に登場した時はさくら隊が素材だった。後には戦争三部作も上演した国立劇場である。この芝居だって商業劇場でやっていないことをやりました、と言うかもしれない。三島だって「サド侯爵夫人」を書きました、と言うかもしれない。しかしそれは社会の中での演劇の役割を知らないものの暴論である。ひょっとするとこの劇場には、野木の(あるいは劇場の)この企画を再考しようと提言した者がいなかったのではないか。それは役人仕事の事なかれ主義、点取り稼ぎでしかない。
二つ目。本公演に先立って、プレビュー公演があって、それを見たこのコリッチ・レポートによると、観客にアンケートを求め、本公演までの三日間で指摘された箇所を修正して、本公演に臨む、とされていたそうだ。どんな形式でアンケートをしたのか、それをどのように舞台に反映したのか、興味があったが、本公演では一切それについては触れられていなかった。
それはいいとしても、そもそも、演劇が幕を開けると言う事は、制作側から観客に完成品を見せる、決意表明でもあるべきで、デパートじゃあるまいし、お客様からご要望をお聞きし直します、というものではない。90年ごろから観客の意向を反映する、観客参加型の公演が多くなってきた。そう言う演劇の役割も解るが、この芝居は仕組みが違う。それをここで言うのは単に観客への媚態か、制作側のエクスキューズでしかない。
この公演は、制作側は全力を尽くして、自分たちの作り上げた舞台を見せる、観客はそれを見る、というストレートな演劇体験を目指している。もし、直したなら、それを明示しなければアンケートに答えた観客に失礼だろう。
以上、主に二つの点がひかかって、この芝居、素直に楽しめなかった。舞台成果としては、さすがに役者がそろって、代役で出た神農には気の毒だったが、小林隆は今までにない幅のある役をこなし、伊達暁も円熟してきた。全体に役者が舞台を楽しんでいない気分が見えたのは残念だったが、まだ公演数が少ないから仕方がないか。さらに残念なのは、折角中劇場に出たのに、パラドックス定数がよく上演する小劇場の舞台を踏襲して代わり映えしなかったことで、逆に、このキャストで小劇場で見てみたい、と思った。それは金の問題で折り合わないところが、また演劇らしいところなのだが。

闇にさらわれて

闇にさらわれて

劇団民藝

紀伊國屋サザンシアター TAKASHIMAYA(東京都)

2019/06/23 (日) ~ 2019/07/03 (水)公演終了

満足度★★★★

ヒットラーのナチ政権の所業は20世紀の悪夢と言うが、今なお繰り返し舞台でも上演されるのは、まだその悲劇を克服されていないからだろう。
「闇にさらわれて」は2014年初演のイギリスの戯曲。テレビ出身のマイク・ヘイハーストの処女戯曲の民芸による日本初演だ。ユダヤ籍の青年弁護士(神敏将)が、ナチ政権以前にヒトラーを裁判の証人としたことで疎まれ、政権発足後に捕らえられ、強制収容所に収容される。一幕は彼の獄中生活。第二幕は彼を解放しようとする母(日色ともえ)の闘いが軸で、舞台は進む。
戦後70年を超えると、ナチ、反ナチの単純な対立項ではドラマは成立しない。身の回りで起きる小さな日常が積み重なって、ヒットラーの社会は生まれる。そこを、この作者は、一幕の単純な反ナチの弁護士と獄窓を共にする同志から始まり、現実派の父親や、行動論理があやふやなナチ親衛隊員、二幕には同盟を試みようとするイギリス貴族(篠田三郎)を、配して重層的に検証していく。なぜあのような悲劇が生まれたのか。
ヒトラーが率いた政治体制のホロコースト、侵略主義、選民思想などは、まず明確に責められるべき要因ではあるが、政治であれ、経済であれ、はてまた学術の世界であれ、全体を覆う風が強く吹けば、それに乗じる日常の権威は生まれ、その権威は暴発する。風の中にいる人間は気がつかないのだ。そこは現代のポピュリズムにも通じるところだ。
「アンネの日記」をはじめ、戦争の検証では多くの舞台を上演してきた民芸の舞台だから、今回の新作も無難に進む。一幕の獄中の描写などは、いささかパターン化しているが、基本的は「母もの」なのに、情緒に流れず、無理に結論を急がず、戦争ものは手慣れた、という感じだ。
しかし、多分、この公演の一番の問題点はそこだろう。
年金受給年齢を越える老人が圧倒的に多い客席は、民芸らしい舞台で安心して見ている。
だが、本当にこの芝居と向き合ってほしい戦争を知らない世代がいない。老人は夜道が不安だろうと若者が見られる夜の公演はわずかしかない。いつも常打ちにしているサザンシアターの舞台も地方の公会堂を回るサンプルとしては便利であろうが、いつまでもそれに安住した咎が出ている。舞台と客席の間に馴れ合いの冷たい風が吹いている。現実には、民芸は、もうこの中劇場は荷が重い。
キャストは9人、もっと小さな劇場でやってみたらどうか。例えば風姿花伝。トラムとか東芸の地下のような既成の場所でなく、まだ形の決まらない劇場でやってみる。俳優も演出も、それはもう、パラドックス定数やチョコレートケーキよりはるかに手だれのキャストスタッフが揃っている。観客にとってもベテランの新しい発見があるだろう。それは経費が、友の会が…と制作部は言うだろうが、もうそんなことに構っている場合ではないだろう。ほかの上演団体は皆ここで勘定を合わせているのだから。


渡りきらぬ橋

渡りきらぬ橋

温泉ドラゴン

座・高円寺1(東京都)

2019/06/21 (金) ~ 2019/06/30 (日)公演終了

満足度★★★★

小劇場劇団としては大胆な試みを一度に三つやっている。
昇り目のシライケイタがひきいる温泉ドラゴン、主要俳優も全員参加して力の入った本公演である。物語は日本初野女流劇作家と言われる長谷川時雨が活躍した女性運動勃興期。ドラマでも、よく取り上げられる大正リベラリズム最高潮の時代の文芸界人間模様だ。
大胆な試み・第一。女性を主人公にしていながらすべてメールキャスト。体格のいいカゴシマジロー(林芙美子)、いわいのふ健(岡田文子)、筑波竜一(長谷川時雨)、みな女性役で和服で登場する。第二。四か所、テレビのスタジオインタビューのような形式で、登場人物が、亡くなった人を呼び出してインタビューする。例えば、時雨が一葉に聞く。第三。現実の史実を踏まえている。
特に斬新とも言えない演劇的な工夫であるが、それなりに難しい演劇的趣向を三つそろえて、本公演をやるのは劇団が上向きの時でなければできない。
その結果はどうだっか。
残念ながら、成功したとは言い難い。女性を男性がやるのは日本演劇では珍しくない。ことにこの世界は新派という老舗がある。その水準まで、とは言わないが、せめて、和服の着方、その時の歩き方、当時の言葉、くらいは今少し演じてくれないと、テーマとなっている女性の閉ざされた世界そのものが表現できないことになってしまう。メールキャストにこだわった意味がわからない。新劇団にもいい女優はいる。借りてきてもいいではないか。インタビューシーンを挟むというのは面白い発想だが、解説以上に出ていない。もっと積極的に絡める方法も、折角、大きな橋を道具で出しているのだから、演劇的な処理で、できると思う。解説を入れているにもかかわらず、約百年前の話だから、説明不足が生じる。もっとも解り難かったのは、当時のメディアである雑誌や新聞の上に成立していた文壇の社会的な意味合いだろう。「女人芸術」そのものを今少しわからせてくれないと時雨も理解できない。
さらに、芝居で言えば、人物が多すぎてそれぞれ紹介に忙しく、肝心の女人芸術の編集を巡るドラマや、三上於兎吉と時雨の不思議な夫婦関係が説明的・表面的になってしまったことや、舞台のつくりが部屋を上手に置いているので、さぞ、下手側の観客席は見難かったろう、とか。音楽のつくりが安直だ、とか。
いろいろ、不満はあるのだけど、若い劇団がこういう機会に演劇的実験を試みて、その成否を肌で学ぶのは必ず将来役に立つ。
この演出家は、他の劇団に招かれて「殺し屋ジョー」という舞台を、はるかに悪い条件で成功させている。次回は余り捻らずに、力量を発揮されることを祈っている。

ネタバレBOX

基本的には脚本であろう。内容に新しさがない。シライもそれに気づいて、この奇手を連発する擧に出たのかもしれない。去年の群馬の田舎町を舞台にした新聞記者もの(Dark City)も、素材の選択がよくない。本も常識的でつまらなかった。殺し屋ジョーのような本に出会えれば力を発揮するのだから、本に関するブレーンが必要かもしれない。
ピロートーキングブルース

ピロートーキングブルース

FUKAIPRODUCE羽衣

本多劇場(東京都)

2019/06/20 (木) ~ 2019/06/23 (日)公演終了

満足度★★★★


歌と芝居とダンスを一つの舞台にしたショーは90年代は大いに流行ったものだが、この「妙―ジカル」はその流れだ。
FUKAIPRODUCEで糸井幸之助の作・演出・作曲、初の本多劇場進出を見に行った。
舞台は砂浜。壊れた機械の歯車が半ば砂に埋もれている。歯車は時にゆっくり回ったりする。ベッドが二つ。タイトル通り、ベッドの上の男女のピロー・トークで進む。
馴染みのコールガールともてないデブ男。
ファミレスの店長と亭主もちの客席掛の女。若い店員。店長は失踪し、女も同行する。
燕尾服にシルクハットの男女のタップダンサー
仲を取り持つラブホテルの蚊。
12名の出演者がそれぞれに役を持っていながら、台詞も歌も群舞も斉唱も演じる。
青春の終わり。男女の寝物語にもダレがみえはじめるころ。何となくユルイ感じなのだが、ときに、時代感を鋭く出す。俳優たちも今様に楽しげに演じている。群舞などは、振り付けや衣装もよく考えられていて、稽古もよく出来ている。投げやり、無気力に見える若い世代のホントはつらい真情を同じ世代として良く表現している。
この公演を見に行ったのは、木下歌舞伎がこの糸井幸之助をしきりに起用するので、なぜだろうと、本業のステージを見に行ったのだ。勧進帳のラップなど、なるほどそういう狙いだったかと、分かった。曲も歌詞も、一つ一つを取り上げるよりも、全体として一つの世界観に収斂していくところが、きっと演劇側からは歓迎されるのだろう。
単独のショーとしても面白い。本多劇場で満席だったが、招待客も随分いたから実力のほどはよくわからない。青春回顧の甘い一夜だった。歌詞ではないが「楽しい時間をありがとう、不意に動いた心が静かに止まってしまうまで」


THE NUMBER

THE NUMBER

演劇企画集団THE・ガジラ

ワーサルシアター(東京都)

2019/06/18 (火) ~ 2019/06/23 (日)公演終了

満足度★★★★

個人の自由と幸福を両立させるのは、人類には不可能なのか?
現代が「古代」になって伝説としか伝えられなくなった遠い未来でも、今もしきりに問われている全体と個人の相克は解決されていない。この舞台はロシアの作家の原作を鐘下辰男が脚色演出したガジラの舞台。私鉄沿線・八幡山の客席60人ほどの地下の小劇場だが、マチネから満員である。
暗い舞台、細い照明、大音響の効果音、昔懐かしい千葉哲也はじめ、濃い目の俳優でそろえて、2時間20分休憩なし、ガジラらしい舞台である。だが、未来社会でも議論される科学か、芸術か、とか、幸福追求は全体か、個人か、というような内容はチャペックの古典とさほど変わり映えしない。SFはどこかで、いったん架空のお話として見てしまうとガジラ節でエグく押されても、観客は安心してしまう。そこが難しい。
だが、小さいながら対面舞台で一つの世界を力業でまとめてしまう鐘下辰男の力量はたいしたものだ。さきに、体言止めの台詞が多くなったのに違和感を覚えたが、舞台に無機的な力を与える効果は大きいと分かった。しかしそれは台詞から情緒的なニュアンスを削ぐ。
観客がSF社会の仕組みを、大音響の中で理解していくのにかなり疲れる。
かつて、ガジラは終演後のカーテンコールがなく、暗転して客電がつくと、あとは裸舞台だけ、というのはなかなか味があった。この芝居はその方が良かった。

アインシュタインの休日

アインシュタインの休日

演劇集団円

シアターX(東京都)

2019/06/14 (金) ~ 2019/06/23 (日)公演終了

満足度★★★★

狙いのよくわからない公演だ。新劇団の円が小劇場の青★組の吉田小夏を作演出に招く。これは新劇団はどこでもやっていることで、少しキャリア不足かな、とは思うが納得できる。だが、この戯曲(新作)で行く、とした理由がわからない。
関東大震災直前の東京下町の、職人も、学生下宿人も一緒に暮らすパン屋一家の秋から冬。ちょうどその時期に世界漫遊中のアインシュタインが日本にいた、というわけでこのタイトルがあるのだが、なぜ粒立たないその時代を取り上げたかがわからない。百年前と言うのか、あるいは直後の大震災を前の小春日和時代が今に似ているというのか、どちらにせよ、だからどうということもない。
パンフを読むとその時代にも庶民の哀歓はあって、今に通じる、と言うが、それは無理だろう。全編を通す大きな筋(ドラマ)はなく、庶民の哀歓と言えばその通りのエピソードがつづられていく群像劇だ。昔の明治座か、演舞場の新派公演の一番目狂言のような筋立てで、中身は格別目新しくもない。劇団公演だから人数は出ていて、15名。二時間の芝居で、それぞれ役を書き分けてそれなりの見せ場を作る。そこはご都合主義ながら、こまごまとよく出来ていて、小劇場で劇団員に書き分けていた経験は生きている。
しかし、円が一時期劇場を持っていた縁で、浅草を舞台にしたという割には、舞台に下町らしさがほとんどない。作者は東京育ちらしいが、昭和30年代までは、東京でも下町と山の手ははっきりしていたから、現在70歳以上の人は実体験がある。
劇団長老もいるだろう。まず、言葉から入らないとリアリティを欠く。これは少し方言指導者を探せばできるはずで、最近でも、チョコレートケーキが「60sエレジー」という芝居で下町の蚊帳屋を舞台に昭和30年代ものをやったが、見事に東京方言になっていた。やればできるはずだ。もちろんこの芝居の大正12年の設定で生きている人は少ないだろうが、これだけ言葉が下町らしくないと、劇場が両国だけにしらけてしまう。
大劇団と小劇場の交流は、お互い役に立つことはあるはずで、これに懲りずに交流を深めてほしいが、その狙いはもっと明確に絞った方がいいと思う。それは円だけのことではない。



キネマと恋人

キネマと恋人

世田谷パブリックシアター

世田谷パブリックシアター(東京都)

2019/06/08 (土) ~ 2019/06/23 (日)公演終了

満足度★★★★

廣い客層が楽しめるファンタジーだ。
トラムの再演だが、初演はチケットが手に入らなかった。今回は広い世田パブ。幸いいい席が手に入って、ケラならではのエンタティンメントを3時間半楽しんだ。
ストーリーを取っているのはウッディ・アレンの映画「カイロの紫のバラ」、東海岸の田舎町の話を日本の離れ島の街に移した。べたの東北弁にしているが、想定される規模の島の街が思いつかない。時代もどうやら戦前らしい。架空のファンタジーである設定は強調されている。映画では主演のミア・ファロー(絶品の名演)を追ったストーリーになっているが、こちらは、緒川たまきと、ともさかりえの姉妹を軸にしている。時間もほぼ倍になっていて,原映画のエピソードは殆ど取り入れられているが、見事な換骨奪胎で、ケラならではの舞台作品になっている。日本は映画も演劇も、能・歌舞伎がありながらこういう世界は苦手なのだ。
何よりいいところは、映画の作中人物の脇役俳優が上映中の映画を抜け出して、映画が生きがいの貧しいファンの前に現れるという荒唐無稽の話を、花も実もあるエンタテイメントに仕上げたことで、こういう作品はなかなか現れない。ケラのステージングのうまさはいまさら言うまでもないが、それを支える美術(二村周作)、衣装(伊藤佐智子。色使いは中間色が多く、洒落ていて品がいい)、音楽の編曲、振付(小野寺修二)、みな気合いが入っていて完成度が高い。
映像の中とナマの芝居のつなぎも、いかにもアナログ風なのが却って効果を上げていて面白い。上田大樹らしい劇場映像だ。
俳優は、ケラの芝居の常連が多く出演していて、世界を作っていく。緒川たまきは、ガラとしては都会的だが、長い手足を生かして東北弁のセリフをしゃべっていると、この芝居ならではのキャラクターの味わいが出てくる。ミア・ファローとは違う女優の魅力だ。そこがファンタジーの不思議さでもある。妻夫木聡は、難しい役どころを軽々とやっている。この軽々と見えるというところがこの芝居のキモで、うまい。ともさかりえはしっかり脇を固めて最後のシーンで見せる。ここで原作からケラが動かした狙いも見えてくるのだが、そこまで引き絞っている深謀は見上げたものだ。それぞれのキャラが面白いのがケラの芝居で、今回も遺憾なくその特色が発揮されている。いささか迷いが見えたのは三上市郎の暴君的な亭主くらいだ。
幅広い観客が入って、満席。これでS席¥7,800は最近の料金では超格安だろう。公共劇場の最近のヒットである。

オレステイア

オレステイア

新国立劇場

新国立劇場 中劇場(東京都)

2019/06/06 (木) ~ 2019/06/30 (日)公演終了

満足度★★★★

オレスティス三部作と言われている王家一族の家庭内殺人を描いたギリシャ悲劇を、裁判劇の枠組みで再構成した親子三代の愛憎劇。そこにどのような罪があるのか?
生田斗真ファンの若い女性群、音月桂ファンの中年女性で、広い新国の中劇場は満席の盛況だ。三部作を一つに押し込めたのだから、とにかく長い。最近には珍しく4時間20分。
こういうスター芝居ではお決まりの最後のスタンディングオベーションをやっている時間もない。終電はともかく、終バスがなくなってしまう。
幕間が二回。各20分。幕間のロビーではお仲間でやってきた観客が、あそこはどういう意味なのか、あの人物は死んでいるはずなのに誰なのだ、と山積の?????解決のためにしきりに情報交換をしている。
この新構成の芝居は、枠組みとして、オレステイスを裁く裁判劇をはめているので、親子三代の家庭内殺人の因果応報が交錯する。そのわかりにくさは、人気者をとにかく舞台でご見物衆に見せなければというこの興業の配慮からきているところもある。幕開き、客席からオレステイスが登場し出ずっぱりだが、第一幕はほとんど芝居に絡むところがない。人気者だから出ているだけで気になる。
だが、そこを除けば、この長大な舞台のドラマは緩むところはない。それほどわかりにくくもない。見ている間は、家庭内葛藤は昔も今も変わらないなと、最近しきりに報道される現代の家庭内殺人も連想させて引き込まれる。脚本・演出がうまいのである。
この劇場はいかにも使いにくそうな小屋で、舞台が拡散してしまう感じだったが、今回はオープンステージでさして道具もいれていないのに締まりのいい舞台になった。美術は二村周作。映像を出す演出は流行りだが、今回の「上演のタイムラップ」を出す、というのは新手で、生の演劇であることを強調して効果があった。演出の俳優へのミザンシーンも的確で、終始緊張感がある。俳優は皆健闘だが、特に、音月桂。こういう押しも引きもできるタカラジェンヌとは知らなかった。横田栄司。吉田剛太郎の陰に隠れがちだったが、今回は地力を発揮している。
この内容で寝ている客がほとんどいなかったのは大成功である。座組みは、シスカンやホリプロならやりそうなことではあるが、近ごろ、何への配慮か嫌われる長い芝居(多分、劇場労働者の労働時間だろう。いやな世の中だ。この劇場でも入口のショップは締めていた。開演しているのに閉めるのでは訳が分からない。労働時間が折り合わなかったのかと勘繰る))がたっぷり見られたのは、蜷川のコクーンでのグリークス以来の愉しみだった。

ネタバレBOX

しかし、この最後の判決は、はぐらかされたような、あとはてめぇで考えろと言うのか、イギリス的な放り出し方だと思った。
機械と音楽

機械と音楽

serial number(風琴工房改め)

吉祥寺シアター(東京都)

2019/06/12 (水) ~ 2019/06/18 (火)公演終了

満足度★★★★

テーマは面白い。現代社会の幸福の目的が、個か、全体か、という問題は、繰り返し問題になってきたが、今再び、脚光を浴びている。
グローバリゼーションか、個人の自由か。
絶対王政が崩壊して以後の社会では、民主主義と全体主義が繰り返し争われてきた。今日本はその流れ目の変わり目のようで、論壇も賑やかだ。
この芝居はその時流を捕まえてはいるが、いささか性急すぎた。
まず、素材。ソ連(今のロシアの社会主義時代)の全体主義が、個の建築美学と対立する。
全体主義がスターリンというのはわかりやすいが、対立する個人が、結局は一作も作品が残っていない天才建築家というのでは、対立の組みようがない。やむなく、天才を受け入れたアトリエの時流の中の攻防とか、最初は支持もあった男女の自由恋愛とか、家庭制度批判とか、本人の夫婦物語とかで、物語は進んでいくのだが、そうなると、同じ時代の日本を素材にした宮本研の「美しきものの伝説」と変わり映えしないことになってしまう。
観客に、この建築家の芸術を体験した(実際に目で見た)経験がないから、物語の手触りがない。スターリンだって経験ないじゃないかと言うだろうが、こちらは、左右両側の宣伝をいやというほど聞かされているし、前の世代の軍事国家のトラウマはまだわが国には残っている。人物設定のバランスが悪く、物語が舞台の上で宙に浮く。
だが、作者はそこを何とか克服しようと、あの手この手で、説得を試みる。その悪戦苦闘はよくわかるし、このふつうの日本人には全く縁もゆかりもない素材で、これは現代へのプロテストだな、と感じさせるまで持って行ってのは大健闘とも言えるのだが、折角「アトムが来た日」を書いた作者なら、自分が熟知している素材に頼らず、斜に構えず、もっと観客がとっつきやすい材料でシャープな現代劇を見せてほしかった。このテーマならいくらでも素材はある。
作者もよくわかっているに違いない。ロシアの革命は、王政から一足飛びに社会主義にいったので、揺り戻しもあって、その経緯は専門家でもわかりにくい。そこを、比較的丁寧に追うので却って、主人公の建築家の芸術のあり方が見えにくくなった。見た限りでは、労働者集合住宅と家庭制度の刷新などは、わかりやすくドラマを組める。赤旗打ち振るレミゼばりの冒頭から入って、三部作にもなりそうな中身を2時間で上演すると言うのに無理がある。
舞台は上手、下手に台を置いた構成舞台で、テンポ良く進む。最初にあまり意味のないダンスがあるが、ここだけなので、それならない方がすっきりする。俳優は混成軍で、この劇団の田島亮が主役のイヴァンを演じる。柄のいい俳優で、チョコレートケーキの西尾友樹の線だが、まだまだ青っぽい。役柄のせいもあるが、うまく育ってくれると楽しみだ。
今回の収穫は文学座の浅野雅博。活かせる役に恵まれなかったが、ここは中間的な役を巧みに演じた。でもスターリンと二役というのは、ちょっと考え物だと思う。女性陣は奮起を願いたい。台詞が通る、上ずらない、というのは最低条件だ。

六月大歌舞伎

六月大歌舞伎

松竹

歌舞伎座(東京都)

2019/06/01 (土) ~ 2019/06/25 (火)公演終了

満足度★★★★

夜の部の三谷歌舞伎。あまりなじみのない歴史に題材をとっていながら、現代のアドヴェンチュアに通じる面白さがある。満席の観客は、この遭難船の一行どうなる、光太夫の指導力いかに、と固唾を呑んでみている。一万円以上の席料を払っても、納得できる一夜芝居だ。休憩50分あって、3時間45分。堪能する。
劇評は渡辺保さんのネット劇評「歌舞伎劇評」に尽きているので、そこにないことを少し。
歌舞伎の様式的演技がうまく使われていて、時代物(でもないだろうが)より、世話物の面白さだ。下座が入るシーンはわざとらしくもあるが、芝居の流れの中で様式的になっていき、クライマックスになるところは、自然でつながりがいい。日本人の感情表現が長い間に洗練されるとこうなるのか、と乗せられてしまう。
歌舞伎劇場の機構がうまく生かされている。花道、御簾、波幕などの装置はもとより、大歌舞伎公演に必要な大部屋俳優などもうまく使う。二幕のぬいぐるみによる犬ぞりの疾走は大受けだが、役者はもとより、振付がうまい。
しらけやすいロシア人が出るところを三幕までは抑え、三幕の女王謁見に絞ったにのもうまい。だが、ここで八島智人が出てくると、本人は十分にうまいのだが、舞台に溶け込んでいない。それは無理というもので、ここは歌舞伎役者で行くべきだったと思う。
どうもなぁと思ったのは、松也の現代中学校の歴史教師を出す必要があったのか、二幕、黒子を白衣装にしたこと(雪のシーンという配慮だろうが)、くらいだろうか。
全体に新作歌舞伎にある嫌味例えば、(野田歌舞伎には感じる)がなく、これなら再演も余り難しくないのではないだろうか。(野田歌舞伎は野田なしには手が付けられないだろうが、こちらは、頭取さんの整理でも出来そうな気がする)。高麗屋は再演も視野に入れておいてほしい。花も実ももある王道のエンタテイメント歌舞伎の誕生を喜びたい。


Other People’s Money

Other People’s Money

劇団昴

Pit昴/サイスタジオ大山第1(東京都)

2019/05/30 (木) ~ 2019/06/16 (日)公演終了

満足度★★★★

日産・ルノー問題で世間の注目を集めている企業統合(売買)の話である。
20年ほど前の本だから、かなり時代遅れの内容ではあるが、さすが、アメリカの本だけあって、押さえるところは押さえてあって、現在も話題になる企業合併・統合というものの仕組みはよくわかる。
東部の地方都市の中堅企業が、ニューヨークの禿鷹に目をつけられての攻防戦だ。基本的に、経営を動かす「金」と、ものをつくる「経営・労働現場」との意思疎通は困難が伴うものだ。そこを、このアメリカの戯曲はわずか5人の登場人物で、面白おかしく解説する。登場人物が少ないからそれぞれのキャラ立ちもきわめて明確で、そこがこの本のいいところでもあり欠点でもある。
内容を伝えることが大事な本だが、この劇団の主要な俳優が出演していて、ガラもよければ、なにより経済用語も多い台詞を明晰に聞かせてくれる。禿鷹のデブを演じる遠藤純一、気鋭の女弁護士、米倉紀之子、会社人間の一条みる、頑固な保守主義の金子由之、二枚腰の石田博英。みな絵で描いたように役を演じる。うますぎて却ってしらける位に見えるのは気の毒だが、それは本のせいだろう。
最近、日本の小劇場でもこういう一種の会社ドラマはよく見るようになった。かつての進歩系劇団の労働争議ものと同じようなものだが、日本のドラマは結局は人情劇になってしまい、突っ込みが足りない。事象を解くだけでなく、もっと人間に迫らないと面白くはならないし本の寿命もない。当日パンフで訳者が書いているように、現実に経済戦線にいるサラリーマンが芝居を見て感心するような舞台を作る、などと言う事はホリエモンに芝居を書かせるのと同じで至難の業だ。
この芝居はそこはしっかりしていて、結末は人情劇にも陥らず、意味のない未来志向でもない。そこは先を行くアメリカの本だと思う。

化粧二題

化粧二題

こまつ座

紀伊國屋サザンシアター TAKASHIMAYA(東京都)

2019/06/03 (月) ~ 2019/06/16 (日)公演終了

これが現代の「化粧」だと言われると、三越劇場、ベニサンピットからこの芝居を見ているものは、おやおやと思う。もちろん芝居はいましかないものだから、昔をなぞっても仕方がないとは承知しているものの、これではなぁ、と首を傾げる。
今回の上演は[化粧二題」でよく知られた「化粧二幕」とは、演劇(芝居)の土台としての戯曲の構造も違う。「化粧」ものの初演は、大衆演劇(日本の芝居の原型)を演じる劇団の座長と言うひとり芝居の設定の中に、演劇論、社会論(親子の社会原型から、メディア文化論まで)、を巧みの織り交ぜた舞台で、のちに二幕物で、意外などんでん返しを付け加え完成した。井上戯曲の中でも通俗性と批評性が表裏になっていて、笑えて泣けて、お勉強にもなる稀有な戯曲なのだ。普通「化粧」と言えばだれでも、この本を思い浮かべる。
「化粧二幕」は演じた渡辺美佐子もよかった。新劇的にもうまい女優なのだが、それが角ばらない。終わりの頃は演舞場でもやったが、わたしはベニサンで最後にやった公演が一番よかったと思う。この初演版は、何重にも入れ子細工になっていて、そこに井上らしさがよくあらわれてもいた。昭和生まれの名舞台であった。
今回の「化粧ニ題」はそこを殆ど外している。ことに二幕は内野聖陽の男座長で内容的には一幕の繰り返しである。傑作の「化粧二幕」があるのに、このほとんど上演されることのなかった「化粧二題」をやった意味が解らない。これでは、役者の顔見世だが、初演のような演劇的仕込がないので、大衆演劇(まったく消滅している女剣劇)の役者をいまの人気俳優がやってみた、という以上の舞台になっていない。確かに有森也美では、渡辺美佐子やそれを継いだ平淑恵とは、本が半分でも、失礼ながら勝負にならない(振った方の問題で本人の責任ではない)。内野を入れて、やりやすい「二題」をハードルの高い「二幕」をの代わりに、という興行意図は伝わってくるが、その趣向は生きていない。こういう興業も否定はしないが、こういう舞台になるのならせめてタイトルを、普通に考えられている「化粧」とは別物だと、はっきりわかるようにすべきではないかと思う。何だか「二幕」をこっそり(ではないと言うだろうが、状態は明らかにそうである)「二題」にするなんて、いのうえ好みではあるのだが、タイトルのような大ネタにすべきではないだろう。

シベリアへ!シベリアへ!シベリアへ!

シベリアへ!シベリアへ!シベリアへ!

KAAT神奈川芸術劇場

KAAT神奈川芸術劇場・中スタジオ(神奈川県)

2019/05/27 (月) ~ 2019/07/16 (火)公演終了

満足度★★★★

地点ならではのパフォーマンスである。演劇ともダンスとも朗読とも芝居とも言えない。どれかのジャンルの上に総合しようという方向があるわけでもなく、このテキストはこう表現する、という演出の意志に貫かれている。よって、地点は地点、としか言いようがない。
廣いKAATの中スタジオ。一方に150席ほどの階段席が組まれている。席に向かって奥に、雪を思わせる霞のかかった大きな鏡。これが照明によってさまざまに表情を変える。舞台七三に天井から僅かに葉を付けた白樺の木がさかさまに吊るされている。その前、客席の前に、正方形の金属製の枠。上には悪路を思わせるようにバラバラに長い板が置かている。天井に着くように白い風船が五つあがっている。風船はもう一つ俳優の一人安倍総子の首にもついている。
そのほかの広いスペースを、俳優六人が、「まるで」としか言いようがないが、馬がギャロップを踏むように、走り回りながら、ときにはシベリアの悪路を走る馬車になったり、それに乗ったチェーホフになったり、さまざまな役を担って(つまり、せりふは斉唱になったり、ひとりで読んだりする)チェーホフの「シベリア紀行」を読んでいく。ほとんど動きを止めることなく、馬の走りをしながら、地点語、とも言われる重複や、濁音を多用したテキストを台詞にする。発声訓練が行き届いていて、その台詞が全部観客に届く。台詞の流れは、ときに掛け声や、馬のいななき、鞭音などをリズミカルに取り入れ、馬車の進みにも似て、紀行文に合う。
で、この異色の新趣向の舞台は面白いのか。これが、面白いのである。馬たちと共にシベリアの僻地を文明から逃れるように旅をしたチェーホフの気分がよく表現されている。十九世紀の後半にはこういう自然のなかへ!という運動もあったようで、日本でも、明治の末から昭和初期、シベリアや南洋は人気があった。いまの時代の空気に似ているところがあるのかもしれない。紀行文をテキストにするパフォーマンスとしては大成功だろう。1時間20分。初日からほぼ満席。

音楽劇『11人いる!』

音楽劇『11人いる!』

Studio Life(スタジオライフ)

あうるすぽっと(東京都)

2019/05/18 (土) ~ 2019/06/02 (日)公演終了

原作が発表されてから、半世紀近い。スタジオライフが手掛けてからも十年。
少女漫画としてだけでなく、物語としても良く組まれていて、当時の若者が飛びついた。原作の雰囲気を「トーマの心臓」で心得ているスタジオライフがメール・キャストで舞台に上げて、当てた。何度も再演している。今回は音楽劇と銘打って、ミュージカル風に歌う場面が多い。
良くまとまっていて、SFファンタジー的な空間の学園ものがスピーディに展開する。俳優も柄にはまっている。複雑な設定なのだが、楽しむには十分の情報は与えられる。
だが、劇場がかつてのように熱くならないのは、それは、時代が変わったからだろう。
振り返れば、今を流行の2・5ディメンションのはしりは、スタジオライフであり、キャラメルボックスだった。ともに同じような漫画や小説を素材に、一時期はブームだった。そのブームを受け継げなかったのは、なぜか。その理由はどうにでも言えるが、そこに、時代とともにあるナマモノの演劇の面白さも難しさも不思議さもあると思う。

獣の柱

獣の柱

イキウメ

シアタートラム(東京都)

2019/05/14 (火) ~ 2019/06/09 (日)公演終了

満足度★★★★

あまたある小劇場の中でも、イキウメの舞台では、他の追従を許さないファンタジックな世界が展開する。
現代の身の回りにある事柄が、何か突然消失する。あるいはまったく未知の事象が発生する。それが普段の生活時間の流れの中で当然のように起きる。誰も説明できない。言葉が消失する「散歩する侵略者」が前者の代表とすれば、「獣の柱」は後者のドラマ。
今世紀初頭、地方の山村に隕石が降り、それを拾い、見たものは、無上の幸福感を感じる。五十年後(近未来)、巨大な柱が次々に大都市に降ってくる。光を放つその柱を見たものも幸福感に包まれる。高齢者の安楽死にふさわしい装置だという意見もある中、多くの大都市の市民は地方に避難してくる。最初に隕石を拾った村では、自然循環農法で成功しているが、難民を引きうける力はない。寓意があるようでいながら錯綜していて、さまざまな見方もできるファンタジーで、人間ドラマ、社会ドラマ、と簡単に[教訓」で括れないところがいい。とにかく物語は面白く進む。
一段と磨きのかかった再演で、充実した舞台になった。イキウメの初期からの出演者が、その独自の舞台のカラーを支えてきたが、この再演では、市川しんぺーや松岡依都美が加わって、舞台が骨太になった。東野洵香という新人も新風だ。
内容はファンタジーだが、観客が日々、日常の中で経験している「変化についていけない」時代ならではのリアリティもあって、今回はほぼ一月、三十回を越える公演だが、私が見た回は若い観客も多く、満席だった。
前川のファンタジーは、次々に量産すれば薄味になってしまうので、このように改訂再演で密度を上げ、時代に沿っていくのは歓迎である。小劇場界でも再演を評価するようになったのは、成熟のしるしでもある。2時間10分。

Taking Sides~それぞれの旋律~

Taking Sides~それぞれの旋律~

加藤健一事務所

本多劇場(東京都)

2019/05/15 (水) ~ 2019/05/29 (水)公演終了

満足度★★★★

すっきり割り切れず、もどかしいところが面白い。そこが今風、現代的とも言えるナチスものの秘話である。
秘話と言っても、音楽界や歴史家の間ではよく知られた「巨匠フルトベングラーは、ナチの御用指揮者だったのか?」という戦後裁判を素材にしている。(公開資料あり)
母国の最高の音楽を後世に残すために妥協も辞さないフルトベングラー(小林勝也)のナチ政権下の協力(taking sides)は、「文化の非ナチ化」の裁判で裁かれるべきか。指揮者をバンドリーダーとしかとらえていない平民(民間では保険の調査員)の米軍の少佐と指揮者は、裁判前の予備審査で激突する。構成的にもよく出来た芝居で、フルトベングラーが登場するまでの45分、この両者の中間にいる元楽団員の第二ヴァイオリン(今井朋彦)、父をヒトラー暗殺未遂者に持つタイピスト(加藤忍)、フルトベングラーに助けられたユダヤ人ピアニストの妻(小暮智美)、正義漢の少佐の助手(西山聖了)が登場して、事態を説明する。この脇役たちの置き方とバランスが絶妙で、芝居が随分面白くなった。いはば、彼らがそれぞれの立場によって、ナチ政権でひどい目にあった一般市民なのである。
筋が引けたところで、フルトベングラーが登場し、そのあとは、ナチの協力者はナチと同罪、と責める米軍少佐と、芸術と政治は別というフルトベングラーの一騎打ちになる。さまざまな文書証拠だけでなく、変節者の第二ヴァイオリンや、反ナチなのに指揮者の音楽に心酔するタイピストなどが絡んで、議論は、遂には指揮者の個人生活の範囲にまで及んで白熱する。いかにも大衆迎合のアメリカ・オッチャン風な少佐の正義と、世界に君臨する芸術の使徒であるフルトベングラーの議論はかみ合うことがない。
今までの演出は知らないが、今回の鵜山・演出は終始二人をかみ合わないまま放り出している。そこが今の時代を反映していて面白い。加藤健一も、小林勝也も大量の非日常的な台詞をこなしてきっちり対峙していている。脇では、変節を重ねる今井朋彦がうまい。先に同じ素材からパラドックス定数が「Das Orkestra」を舞台に乗せたが、やはりヨーロッパでのこの問題への関心と、同じ枢軸国であったとはいえ日本からの関心とはずいぶん違う。違って当たり前ではあるのだが、こちらは肉感的な迫力がある。初日に見たが、出来上がっているいい芝居だった。しかし、この公演十日もやっているのに夜二回だけとはどういう事だろう。初日は夜。確かに入りは六分というところで、年齢層も高いが、民芸や俳優座よりは若い。せっかくのいい芝居で力演なのに、と残念に思った。最近の小劇場こういう社会ねたでも若い人は結構見に来るのに。


ネタバレBOX

いささかでも芝居を見ている者なら、幕開きが、フルトベングラーはヒットラーにナチ式の挙手をしたくなかったばかりに、指揮棒を手放さかったという話が伝説化している、ところから始まり、二幕の頭でその指揮棒が現れ、二幕の終わりに少佐の手で折られ、幕切れ、フルトベングラーが指揮棒を持たずに指揮をする、と言う事に作者の寓意を見るだろう。しかし、それは、回答を出せなかったこの芝居の作者が、巧妙に仕組んだ観客への打ちだしのサービスだろう。これで観客は何となく納得して家路をたどるが、しばらくはその回答をとつおいつ考えるのだ。
改訂版「埒もなく汚れなく」

改訂版「埒もなく汚れなく」

オフィスコットーネ

シアター711(東京都)

2019/05/09 (木) ~ 2019/05/19 (日)公演終了

満足度★★★★★

先年、小劇場からは珍しく大竹野正典作品が読売演劇大賞を受賞した。これはその舞台を制作したカンパニーが作者をモデルにした創作劇のの再演。
再演と言うと、初演をなぞったお披露目だったり、役者を派手に入れ替えたり、小屋を大きくしたりするのだが、この再演は主役の二人を初演のママに置きながら、新しい舞台を目指して思い切って整理している。話が昭和期の売れない劇作家の話だから、関西風を生かすと、夫婦善哉のようになってしまいがちで、初演はかなりその味が残っていた。しかし、この再演は作家の水難の事件ドラマや、家庭ドラマの世話物的なところは整理して、夫婦のあり方と、作家の宿命を、最後は山に登ることに託してまとめている。つまりは、物を作る芸術家と、男女、家庭、日々の生活の葛藤に絞ったわけで、よく出来ている.古い話なのに全く新しい。令和の新しい舞台の誕生の第一弾と言っていいだろう。
作・演出は瀬戸山美咲。初演は大竹野一代記のような世話物的な作りであったが、そこを作家の現場として作り直して成功している。しかし、作中人物では東京の制作者は、余分だったと思う。こういう第三者は、セメント会社の社長がうまくかけているからそれで充分コメディリリーフの役割も出来ている。演劇製作者の役割としても、いささか以上に皮相過ぎて笑えない。ここを切ると2時間以内でまとまてよかったと思う。
出演者では、なんといっても西尾友樹、占部房子の小劇場のキングとクイーンが揃って目いっぱい技術の限りを尽くして演じてくれたのが大きい。西尾は受けに回って目立たないが、出処進退見事なものだ。占部は今回の方がむしろガラがあっている。抽象的な役柄をいろいろ工夫して形でも見せようとしている。ほとんど日常性を捨象して、演技と台詞で見せる。それでいて、様式性の欺瞞を毫も感じさせない。俳優にも劇場との相性があって、この二人、二百人くらいまでの劇場だと圧倒的な力を発揮する。読売演劇賞も商業演劇の大劇場の役者だけでなく、小劇場で演劇の魅力を素で伝えるこういう人々に光を当ててほしいものだ。脇ではラッパ屋の福本伸一がさりげなくていい。

背中から四十分

背中から四十分

渡辺源四郎商店

ザ・スズナリ(東京都)

2019/05/01 (水) ~ 2019/05/06 (月)公演終了

満足度★★★★

いつもご苦労さまと首を垂れる青森の劇団の公演。
今回はいやにうまい役者が出ているなと、目を凝らせば斉藤歩の客演だった。
十数年前の作品の再演とのことで、さすがに中身は平成初期を感じさせる。畑澤が時代に非常に鋭い感性を持っていることがわかる。再演は再演で、一夜の芝居を楽しむには面白く出来ているが、そういうところにも作家の特性が現れるから怖い。
贔屓の苦言を言えば、齋藤以外の俳優さん、今少し、観客に聞き取れるように台詞の言葉を大切に。スズナリで最後列で聞こえないという技術ではこまります。畑澤さん、観客は、雨くらいではひるまない。そのことをあまり言われると、こちらがこの芝居をその程度にしか思っていないと高をくくっているのかのかと思ってしまう。

良い子はみんなご褒美がもらえる

良い子はみんなご褒美がもらえる

パルコ・プロデュース

赤坂ACTシアター(東京都)

2019/04/20 (土) ~ 2019/05/07 (火)公演終了

満足度★★★★

この欄でいつも、なるほどと教えられる評者お二人が既に書いていることに尽きる。この手の込んだ本を、今わざわざ、この大ホールで薄い観客の前でやる意味が解らない。中身が古い、というより時代性を失っている。
曲も古い。ダンスも冴えない。上演時間も半端。隣の老婦人二人組はもうおしまい?と首を傾げていたが、ごもっとも。内容がないのだ。
しかし。パルコが小屋落ちしている間に、他の貸し小屋でいろいろやってこけら落としに備えているのはよくわかる。ショーガール亡き今、活気あるコクーンと渋谷決戦をやらなければならない、何かコクーン歌舞伎に対抗できるものを、このところ出来不出来の激しい三谷のほかにもう一本、と言う事だろう。音楽ものという企画は、ショーガールの前もあるし、いい狙いなのだがこれは、本の中身が的外れだろう。さらに、このショーも800人以下の小屋でやったらもっと、エンタティメントの面白さが出て役者も、バンドものれたと思う。小屋の選択の誤りが最大の失敗だ。

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