野兎たち【英国公演中止】
(公財)可児市文化芸術振興財団
新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)
2020/02/08 (土) ~ 2020/02/16 (日)公演終了
満足度★★★★
国を超えた共同制作というのはなかなかむつかしい。演劇は特に。
これが、日本人が海外へ行った話、とか逆に外国人が日本で経験するドラマとなると結構面白く仕上がった作品があるのに、共同制作となると、議論も随分尽くしているはずなのにぎごちない。きっと、共同で取り組むと素材の選択から難しいのだろうと思う。その結果、まぁまぁの素材が選ばれ、一つの舞台にするために、作者も演出も演じる俳優も妥協を重ね、結果はどちらの国の上演も、やってみただけで終わってしまう。
今回はまず脚本。日英の男女が結婚することになって、名古屋に近い地方都市の女性の実家に夫となる英国人とその母がやってくる。結婚をめぐるそれぞれの両親との葛藤、結婚式への考え方の違いなど、よくある話から入るが、途中から妻になる日本人女性の兄の失踪の話になり、母を連れて日本にやってきた夫となる英国人と母親は置いてきぼりになってしまう。バランスの悪い本で、いかにもの風俗は色々見せられるが、どこが焦点だかわからない。テレビの連ドラによくある「身の上相談ドラマ」ならこれでいいのだが、演劇は、これではもたない。テレビは顔なじみのスターが出て、わかったような気分になるが、必ずしも実績の多いとは言えない日英の俳優では、本の不備を割引しても苦しい。客も正直で、ようやく半分しか入っていない。
家族劇というが、両国の家族の一面を素材に、それぞれのお国ぶりがある、というだけに終わってしまった。昨年は帰郷ものの家族劇としては秀逸な「たかが世界の終わり」が二つのカンパニーで上演されたが、いずれもが消化しきれていなかった。身近な素材だけに茶の間で見るだけのテレビと違って、肉体をさらす演劇では難しいのだ。
リーズの劇団の日本人女優(スーザン・ヒングリー)は、この物語のホンモノの経験者らしく、英国でたくましく生きていく日本人を生々しく演じている。新しいタイプの日本人ともいえるが、それを浮き彫りにするには、周囲がまるで追いついていない。
公共劇場の国際共同制作(日本側は可児市の劇場。英国側はイングランドの地方都市リーズの劇場)は劇場の一つの旗になるし、やって見れば、関係者にはいい経験になるから無駄ということはないが、こういう形の仲良し共同制作はどこか修学旅行を思わせて、むなしい。典型的な「ことなかれ共同制作」の、残念ながら同じ轍を踏むことになってしまった。
映像都市(チネチッタ)
“STRAYDOG”
ワーサルシアター(東京都)
2020/02/05 (水) ~ 2020/02/11 (火)公演終了
満足度★★★
三十年前に、まだ世に知られていなかった鄭義信が所属劇団の新宿梁山泊のために書いた戯曲だが、いま改めて見ると、この作家の原点が詰まっている。
時代設定は、映画館の壁に「ラストショー」のポスターが貼ってあるから70年代前半。映画界が50年代の栄光の時代から滑り落ち、ほとんど、どん底の時期である。撮影現場は荒廃し、地方の映画館は次々と閉館した。副題にチネチッタ(イタリアの大スタジオ)と振ってあるが、ここもマカロニウエスタンなどで食いつないでいたころだから、似たようなものだが、全く関係ないのに…と思っていると。
そこは川崎(架空の設定)で、現実にチネチッタという独立系の映画館があった(今のシネコンとは違う)。映画に夢を抱きながら、手作りシュークリームを館内販売しながら小さな映画館を経営する夫婦と、撮影現場でわがままで中身のない大監督に無理無体を言われながら苦労する若手脚本家と裸でしか売れないワンサの女優、彼らの生活の周囲を、現実の世界と映画の中の世界を交差させながら、描いていく。おや、ここはどこかで・・と既視感に襲われるが、それは、鄭義信が、その後、「焼肉ドラゴン」や「血と骨」などで、軸となるシーンとして再生させたからだろう。作劇的には寺山や唐の影響も深く、バブルの中で、忘れ去られようとしているまだ傷跡の生々しい昭和懐古の90年代ドラマである。
その戯曲を演出の森岡は自身の原点でもあるとして舞台にかけたわけだが、如何せん、今の若者には全く通じていないようである。かと言って、新しい形で再生もしていない。劇団としては番外という若い俳優の稽古公演のようなものだから、それを言うのは野暮だろう。この戯曲の存在を思い出しただけで良しとしなければ。
コタン虐殺
流山児★事務所
ザ・スズナリ(東京都)
2020/02/01 (土) ~ 2020/02/09 (日)公演終了
満足度★★★★
風呂敷を広げすぎた感のある舞台であった。
現代のアイヌ差別を理由に町長刺殺を図った事件を入り口に、16世紀ごろからの和人との積年の対立、そこでの和人の搾取、アイヌ側の対応、部族内の対立などを、殺陣とレビューを交えて(流山児風に、といった方がいいかもしれない)2時間の中に織り込んでいる。 辺境部族に対する近代国家の対応はどこでも似たようなもので、アメリカの原住民対策、ソ連の中東対策、ナチスドイツの中欧政策、中国の万里の長城と、今となっては消し去りたい差別と抑圧の歴史をどの国も持っている。日本は島国だし、ちょうどいいサイズだったということもあって、辺境問題がクローズアップされることは少ないが、これからはもっと多角的に民族問題は考えなければならなくなるだろう。この物語は歴史をたどっていて、アイヌ問題の大雑把な経過はわかったとしても、具体的な現在のアイヌ対策には精神論以上には触れていない。
それよりも、これから起きてくるのは、枠に振られたように、この問題が、社会不満分子のネタにされてしまう、ということがある。アイヌを語らって町長刺殺を試みる青年(田島亮)とアイヌの血をひく取り調べ警官(杉木隆幸)との対立(共に好演)は現代社会の大きなテーマを含んでいる。ここだけを絞ってドラマにしてもよかったのに、と思った。しかし、ここで、話を広げて、神戸の新聞記者無差別殺人まで取り込んでしまうと、問題の一端はそこにあるとしても、結論を急ぎすぎてドラマで訴える力が弱くなっていることも否めない。
詩森ろばとしては、制作側の「エンタティメント」という話に乗ったのかもしれないが、これはそういう素材ではないだろう。これでは戦後、「イヨマンテの夜」が素人のど自慢でしきりに歌われた以上の問題提起になっているとは思えなかった。
メアリー・ステュアート
アン・ラト(unrato)
赤坂RED/THEATER(東京都)
2020/01/31 (金) ~ 2020/02/09 (日)公演終了
満足度★★★★
ほとんどの日本人が昔、世界史で習っただけで、すっかり忘れてしまっている16世紀の英国史の一駒。イギリス人ならだれでも知っている信長―光秀的歴史寓話は、わが国でも人気があって、現在は二劇場で競演中、春にはさらにもう一つ公演が控えている。このマライーニの本は、女優二人だけで演じ切るという趣向が、女優たちの心をくすぐるところもあってか、よく上演される。今回の競演の一つは別の本で普通の歴史劇のようだが、メアリー・スチュアートといえばやはり本はこれだろう。(1975年初演)
今までは、はっきりしたキャラや技の立つ女優の組み合わせで見てきた演目だが、今回は、小劇場でミュージカルスターの顔合わせという異色作である。。
感想1。実質二時間半ほどもあるせりふ劇で二人の女優は、メアリー(霧矢大夢)とエリザベス(保坂知寿)のほかに、それぞれの相手のおつきのもの(侍女など)の役も演じる。休憩が二十分あるが二人はほぼ出ずっぱりで休む間がない。女王以外の役は受け役だが、ここでしっかり受けてくれないと、イギリス人ほど話になじみのない日本人には、筋がつかめない。第一幕(60分)は、説明も多く女王から、侍女役へのスイッチングもあわただしく、苦労している。動きがないから、結構寝ている客も多い。
ところが、第二幕になると舞台は急変。幕開きの夢の中でメアリーがエリザベスに出会う甘美なシーンに始まり、メアリーの処刑に至るまで、一幕がウソだったみたいに二人の女王の女の激突がドラマチックに展開する〈75分〉。この狭い劇場の舞台中央に、せいぜい5メートル四方の演技スペース、奥には鏡を置き周りは舞台裏のような雑然とした道具類を飾っただけのセットで、なにもかもやってしまおうというのはいい度胸である。しかもそこが一つの劇的宇宙になっている。蜷川門下の新進の演出(大河内直子)、評判にたがわぬ力量である。それにしては、第一幕のぎこちなさは何だったのだろう?
次は木下順二の「冬の時代」だそうだ。歯ごたえのある既成の戯曲でせいぜい場数を踏んで、最近多い創作劇になると手も足も出ない「新進演出家」の轍を踏まないよう精進を祈って、楽しみにしている。
感想2。俳優。いずれも大役で、無事に幕が下りただけでもご苦労さまなのだが、やはり俳優にはもって生まれた柄がある。今回はそこが苦しかった。それぞれの役の微妙な心理の変化を演じ切らねばならない小劇場では、大きくまとめることに慣れてきた大劇場出身の俳優には戸惑いも大きかったのではないだろうか。宝塚から突然これでは荷が重すぎる。その辺は周囲も考えなければ、とは言うものの、この役はやはり40歳前後でやっておかないといけないところが悩ましい。白石加代子がエリザベスを演じた時はぴったりだった。(相手は麻美れいだったっけ)
感想3。これでチケットが8,800円というのは高すぎる。宝塚、四季の固定役者ファンのリピートを当てにしているのかもしれないが、それは邪道である。この値段なら、もっと仕込みに金をかけるとか、せっかくだから歌うところをなんとかするとか、客を酔わせるところがないと。二人の衣装を同じにした意図もわかるが、生きていない。
少女仮面
トライストーン・エンタテイメント
シアタートラム(東京都)
2020/01/24 (金) ~ 2020/02/09 (日)公演終了
満足度★★★★
つくづく、芝居は生のもの、今の一瞬を逃れられないものだと思う。同時に、遂に、あの唐十郎も、ひとり戯曲だけで演劇の大海に漕ぎ出した、いや漕ぎ出さざるを得なくなった、という時代の変遷への感懐がある。
唐十郎が、半世紀前鈴木忠志の求めで早稲田小劇場のために書いた岸田戯曲賞受賞の戯曲「少女仮面」を、今注目の若い演出家・杉原邦生が演出する。時代はヒトめぐりした。
今、日本の演劇界では、唐の大きな影響を受けて蜷川や野田がひらいた演劇が隆盛を極め、小劇場では、ほとんどの本がその驥尾に付している。唐の登場は大きな衝撃だった。もちろん、パンフレットに採録されているように、その時代のリアリズム至上の演劇界との大きな軋轢もあった。改めて読むと懐かしい、笑えてしまう混乱と混沌を乗り越えて、今の日本の現代演劇は自由に時代のリアルを追求するようになった。唐は十分に役割を果たした。
いまさら、杉原がこの戯曲を上演することに意味があるのだろうか。
今風に整理された舞台の愛の亡霊も、肉体の乞食も、すでに形骸化してしまった春日野八千代にも、かつて我々が親しんできた唐の「高級な西洋の芸術論」と「猥雑な日本の下町の現実」との奇妙な夢想や混淆の匂いはない。舞台の上にいるのは、唐の名前など知らず、ましてや戯曲など読んだこともないまぎれもなく今の健康な俳優たちであり、たぶん、背景音楽で始終流れる「悲しい天使」も。ウロ覚えの懐メロ以上のものではないだろう。だが、そこには唐の描いた愛も肉体も不条理な存在のまま、確かに、生きている。
それがかつての唐演劇とは別物であったとしても、いまやってみる意味はあった。今度の上演は、演出者本人が志したかどうかはわからないが、非常に論理的でよくわかった。かつての唐演劇の俳優の肉体と情念を強調する中に隠れていた戯曲の構造がよく見えてきた。同時代の寺山修司、鈴木忠志、などに比べて、わかりにくいとされた唐の戯曲は、こんなにもわかりやすいものだったのか。その一点からも今後も上演が続けられるだろう。
杉原邦生の演出は、過去の上演をなぞったり、媚びたりすることなく、今、現在を生きる芝居の生命を追求しており、その姿勢は颯爽としていてなかなか良かった。二年前の、福原充則が演出した「秘密の花園」が、惨憺たる上演であった記憶を払拭する新しい世代の「おりこうさん」ぶりである。俳優はよくその任を果たしていたが、大西多摩恵はキャスティング・エラーではないだろうか。せっかくうまい人なのに。力量を発揮していない。
唐の演劇がこういう新しい形で上演されるのは、唐スタイルに長く親しんできた観客にとっては寂しさも感じる出来事だが、そこが生でなければならない演劇の面白さなのだ。
『だけど涙が出ちゃう』
渡辺源四郎商店
こまばアゴラ劇場(東京都)
2020/01/23 (木) ~ 2020/01/26 (日)公演終了
満足度★★★★
問題提示劇、ディスカッションドラマといってもいいかもしれない。難しいテーマである。人間が同じ人間に死刑を課することができるのか。死刑の是非をめぐっては様々な議論と歴史的経過がある。日本ではなかなか国民の納得する結論にたどり着いていない問題だが、そのうえ、高齢化社会の課題である安楽死の選択の問題も出てきた。安楽死に加担する医師は犯罪者なのか。
この芝居は、今は声高には論じられないが、たぶん、今後は避けて通れない現代社会の、二つ課題をテーマに作られている。
何年か前に劇団主宰の畑澤聖吾が書いた「どんとゆけ」と対になるような作品で、死刑執行にあたって、被害者の親族が参加できる法律が成立して、死刑囚が執行を望んだ家庭に護送されてくる、という場面設定である。今回は、加害者、被害者の設定に工夫が凝らされているが、それがかえってディスカッションのポイントをあやふやにしている。被害者参加の死刑執行という法律があるという設定自体が飛び道具で、その上に設定を重ねると論理、倫理も複雑になるばかりで、せっかくの道具が機能しなくなってしまう。問題はよくわかるが、考えるべきことが多くなりすぎて、芝居自体が方向を失う。
畑澤聖吾は今回は出演だけで、いつもの前説の時と違って、柄を生かした迫力で、難しい地域劇団を長年運営しているエネルギーを垣間見た思いだった。
それは秘密です。
劇団チャリT企画
座・高円寺1(東京都)
2020/01/23 (木) ~ 2020/01/30 (木)公演終了
満足度★
こういう舞台を見ることになろうとは予想していなかった。
スタンダップ・コメディと漫才の寸劇を混ぜたような舞台である。しかし、どちらも中途半端。きついことを言えば、スタンダップコメディには出演者のコメディアンの地の大きさが要る。寸劇に大筋ストーリーがあるがこれがまるで陳腐、七年前の再演というが、なんで今更こういう愚にもつかないものを、再演するのかといえば、昨今、政府の情報操作や情報規制、秘密保護のみのを着た隠蔽が次々と明るみに出たので、話題になると踏んだのだろう。だが、これでは、批判にもならなければ、第一、面白くもなんともない。さして長くない時間(100分)でも退屈した。役者もそろって粒立たず。これではこういう仕組みの舞台は成立しない。
「日本劇作家協会が杉並区と組んだ演劇振興のプログラムの一環」と振られているが、この作品をどのような経過で選んだのか、情報公開してほしいくらいだ。
劇作振興なら、ここ十年ほどの小劇場のいい作品の再演をやってもらいたい。こういう場に出せば新しい座組も可能になる。土田英生の再演がここのところ多く試みられたが、いずれも新しい再演になった。この程度の作品はもう結構。プロなのだから、ちゃんと選んで、いいものを見せてほしい。
ニオノウミにて
岡崎藝術座
STスポット(神奈川県)
2020/01/11 (土) ~ 2020/01/19 (日)公演終了
満足度★★★★
二年前に岸田戯曲賞を受賞した上里雄大の新作の公演・客席50ほど(満席)の横浜のビル地下の狭いスペースでの上演である。長い年月をかけて練り上げられた昨年の受賞作「バルパライソの長い坂をくだる話」に比べると、こちらはエッセーの味。それでも、天皇の血で琵琶湖が真っ赤になる、とか外来魚のブルーギルが人間の勝手を訴えるとか、それぞれ、ふつうの演劇の舞台ではなかなか観客に納得させるのが難しいところを、ホリゾントの黄色と朱の幕(この色彩感覚は大したものだ)で表現してしまうとか、異様ともいえるブルーギルの着ぐるみ(衣装デザイン秀抜)の女優(重実紗果)の快演でみせてしまうとか、思い切った演出があって芝居好きは嵌められてしまう。
エッセーの趣旨は、作者が国境横断派ということもあって、琵琶湖で外来種として駆除されるブルーギルの命に託して、現在問題になっている外国人労働者をはじめとする開放化に対する日本の無意味で不思議な閉鎖性への多角的な批判、ということだろうが、作者の意図に反して、そのような内容より、舞台の仕組みが面白い。
舞台は三場に分かれていてそれぞれ約30分。一場(夜更け)は、竹生島に夜釣に出かける湖岸の過疎の村の老人と娘が島で神に会う話、二場(夜明け)。は、外来魚として排除されるブルーギルの訴え。三場(曇り空)は鎮魂の神の舞.で、一場と二場の間に10分の休憩がある。ここで、横浜ということもあって、観客にシュウマイ弁当やスナック、お茶を売る。もぐもぐしながら気軽に見てくださいという趣旨と説明されるが舞台の方が広いスペースで壁際に押しつけられて見ている観客はとてもそんな気分になれない。が、「バルパライソ」でも大きな船のデッキの客席を組んで、観客を取り込もうとした作者の意図はよくわかる。観客は、読むかどうかっ分からないアンケートを書かされたり、次回公演の広告をもらったり、突然舞台から賛否の声を上げるのを強制される観客参加には心底うんざりしているのだ。
俳優は三人。柄が役にあっているうえに、ダンスもやっているらしく、動きがきれいで無駄がない。巫女の役を演じる浦田すみれはまだあまり経験はないようだが、こういう役を演じられる貴重な年齢にも恵まれた。受けの諸役を演じる男優の嶋田好孝も、相手をよく見て演じている。舞台が狭いという条件もあるが、動きと衣装がち密に計算されている。能のワキだ。
平らなギターのような木切れにモニターを張り付けたような持道具が登場して、モニターの部分にはその楽器を弾く手元が鮮明に映し出される。音は、琵琶で、この楽器の伝来と三線としてのこの国での普及が語られる。また、終盤では「琵琶湖周遊の歌」が聞こえるともなく聞こえてくる。論理的な起承転結でなく、埋め込まれた民族の記憶の断片が立ち上がってくる。こういうところがうまい。
最期に内容になるのは本末転倒だが、この舞台や、松原俊太郎、岡田利規などの新しい演劇を作ろうとしている人たちには、既成のリアリズムに対する根強い不信がある。セリフによる戯曲、現実べったりの俳優演技のリアリズム、劇場の仕掛け、そこをウザイ、似非だと、否定するところから彼らの演劇は始まっている。岡崎芸術座の舞台は、地点よりも、木下歌舞伎よりも、前衛的だが、スッと観客の心に入ってくるところがある。これからの演劇を純粋な形で見せているのかな、とも思う。
雉はじめて鳴く
劇団俳優座
俳優座劇場(東京都)
2020/01/10 (金) ~ 2020/01/19 (日)公演終了
満足度★★★★
学園ものである。どこにでもありそうな高校の青春物語なのに、現代社会の辛いところをシャープに織り込んで、見事な現代人間ドラマになっている。さすが、横山拓也!
昨年の秀作「熱い胸さわぎ」のカップリングとでもいうべき作品で。同じく母子家庭の母子が主人公になっている。こちらは子供が男の子、あちらはひと夏の物語、こちらは冬。家族、親子がすべての人間の避けられない根源的人間関係だということを作者がよく心得ている。
ぎりぎりの暮らしの母子家庭の高校二年生男子の冬物語。体をすり減らして働く母(清水直子)を重荷に感じて、サッカーの部活と、担任の年上の女教師(若井なおみ)に避難所を求めているケン(深堀啓太郎)。母との殺伐とした日常関係と、もう二年間も、祖母の介護のためといって国へ帰ってしまった父の不在で心理的に追い詰められているケンを、担任の女教師は話し相手になり求めに応じてハグしてやる。そういう、人間同士の肉体的接触の多義的な意味あいもこの作者は巧みに取り込んでいる。「あつい胸騒ぎでは「乳房」、こちらは「父」。その「ハグ」が学内で問題になる。
物語は高校に派遣されてきた新任のスクールカウンセラー(保亜美)を通して分かりやすく展開し、ケンの家出、失踪へと広がっていく。
感想1。新劇団が、小劇場のめぼしい作家に作品を委嘱するのは、ここ数年の趨勢で、文学座、青年座、民藝はもとより、銅鑼とか青年劇場とか、以前から戯曲主導でやってきた劇団はどこでも同じことをやっている。それぞれの文芸制作部の力がなくなってしまって、窮余の策だろうが、作品的にはあまり成功例がない中で、この作品はかなりうまくいっている。よくある、劇団側も作者の側もお互い帳尻を合わせました、という発注作品的安易さがない。深みのある出来のいい現代青春ものになっている。見ていても気持ちがいい。
感想2。さすが俳優座で演技がモダンで鋭い。脇がもたもたしていない。母親の清水直子の無駄のない人物造形。学校の校長(山下裕子)と教頭(河内浩)もウけ芝居をやりたくなるところを見ごとに抑えてリアリティを担保する。たいしたものだが、ここでも、熱い胸騒ぎのiakuと俳優座の違いがくっきりと出ている。どちらがいいというレベルではなく、二つの提示が舞台にある。面白い。
それにしても、ブレヒトと田中千禾夫、千田是也の俳優座も変貌するものである。しかし、時代とともに歩まざるを得ない演劇では変貌を畏れてはいけないだろう。
感想3。平日の昼公演、客席は三割がた空いていた、若い客も少ない。Iaku公演なら満席である。客席数が違うというかもしれないが、アゴラで見るより、最初から演劇劇場として作られた六本木の真ん中の俳優座の方が客にとってはいいに決まっている。そこで僅か10公演でも客が埋まらない(アゴラの手打ちは15公演全席完売である)というのは、やはり、経営部がよく考えなければならないだろう。つまらないことを言うようだが、せめて、当日客席パンフで、配役くらいは知らせるべきだろう。俳優座なら役者は誰でも知っている、配役表など無駄だと思うところがダメなのである。
『荒れ野』
穂の国とよはし芸術劇場PLAT【指定管理者:(公財)豊橋文化振興財団】
ザ・スズナリ(東京都)
2019/12/18 (水) ~ 2019/12/23 (月)公演終了
満足度★★★★
平田満の出身地の豊橋の地域劇場が制作したユニークな社会ドラマである。脚本・演出はKAKUTAの桑原裕子。出演者は平田のほか、新劇系のいい俳優をそろえて、高年齢時代の現代日本の地方に生きる人々の問題を直視している。
かつて開発の夢があった地方都市。しかし、その夢も消えてショッピングセンターも、開発した住宅地もさびれている地域で起きた大火の一夜、今の社会から零れ落ち、そういう地域を離れられない人々の、夜から翌朝までの物語。優れた社会劇であるのだが、登場人物に「役割」を負わせて問題を提示する今までの社会問題劇とは違う。そこが非常に優れている。
その新開地に隣接した団地に独り住まいしている藍子(井上加奈子)の部屋に、火事を心配した親族や友人がやってくる。藍子の高校の同級生の路子(増子倭文江)その夫の哲夫(平田満)と娘の有季(多田香織)も一緒である。保険会社の社員だったが、中年に心臓バイパス手術をしなければならなかった哲夫は家族の主長の役割は果たせず、娘は失職中。独身と信じていた藍子の団地の部屋では一階上の年金生活者。元高校の英語教師・石川(小林勝也)と、彼の若い同性パートナー(中尾諭助)がともに生活している。
このドラマは、そういう地域で、いま人々が生きている生態を活写している。かつてのような安定した社会関係、家族関係から脱落し、忘れられた荒れ地で生きていかなければならなくなった人々は、そこでも果敢に新しい人間関係を求め社会とつながろうとする。問題は全く解決されていないし、セリフで提示されることもないが、ここで生きている人々の姿は感動的である。
ストレイト・プレイ系統の俳優が健闘。同性のパートナーと暮らす小林勝也がうまい。井上と増子は柄が似て見えるのが損をしている。この中に入ると若者のカップルはさぞ大変だったろうが、作・演出の桑原はよくまとめている。1時間50分休憩なし。
地方の公共劇場は、今それぞれ問題を抱えているようだが、その中で県庁所在地でもない豊橋の劇場が、いじましい地域への媚態もなく、優れた演劇を送り出してくれたことに拍手。今夜のスズナリは超満員だった。
正しいオトナたち
テレビ朝日/インプレッション
東京グローブ座(東京都)
2019/12/13 (金) ~ 2019/12/24 (火)公演終了
満足度★★★★
この小屋で、久しぶりに男子トイレがいっぱいになった。いま、フランスを代表する劇作家の代表作の一つで 男女、年齢を問わずに楽しめる生きのいいフランス喜劇で、笑いの中に現代風俗も、時代批評も巧みに忍ばせている。いつもはジャニーズ目当ての女性客ばかりで、せっかくいい芝居もあるのに残念と思っていた小屋だが、客はよく知っていたのだ。
「子供の喧嘩に親が出る」のはわが国でも冷笑の対象となる「よくある話」だが、これは読んで字の通り、世間では良識があり、その地位も認められているいい大人たちが、子供のケンカの和解に乗り出して、自己本位のわがままな本性をむき出しにしていく喜劇である。こういうドラマでは、一人だけいるヘンな人に巻き込まれていく設定が多いのだが、ここは登場する二組の親全員が、何とか場を掬おうと良識を発揮して、ますます深みにはまっていく。そこがよくできている。
大企業の製薬会社の顧問弁護士(岡本健一)夫婦(中島朋子)と安定した商店主(近藤芳正)とその妻のアフリカ問題の研究者(真矢ミキ)。両家の12歳の男の子が、ケンカになってけがをさせ、その収拾に弁護士夫婦が商店主宅を訪れる。
はじめは何とか穏便にと、考えているのに、確認文書の些細な文言から関係がこじれだす。日常生活の中の微妙な細かく仕掛けられているが、話の経過にお構いなく、弁護士の携帯電話に始終かかってくる係争中の薬害裁判の対処とか、田舎住まいの老母から商店主にかかってくる電話が効果を上げて、お互いの二組の夫婦関係も泥沼化する。
役者が四人そろって、とにかくうまい。自立しているフランス人ならこう言いそうだと納得させる面白さだ。それでいて錯綜するお互いの人間関係も巧みにさばいていく。演出も全員が少しづつヘンになっていく脚本のうまさを十分に生かしてしている。結局は結論の出ない問題をハムスターで締めて、これはこれで見事な休憩なしの実時間そのままの1時間45分だ。
以下は感想だが、一つは、やはり、演劇は生ものだけによく出来ていればいるだほど国情というか、その演劇が生まれた国に左右される。この作者はスペイン生まれで、フランス語で書く、現在世界的に活躍している代表的な劇作家というが、お故郷は争えない。後半、座が崩れ始めてからは、誰にも分かる笑い転げる可笑しさだが、前半のお互いの距離を測らいながらの対立はきっと、フランスなら、もっと受けるところだろうと思う。
商店主の妻がアフリカ研究者という設定も、この舞台では壁にアフリカの仮面を飾って生かしている。フランスはアフリカに植民地を持っていて、アルジェリア戦争も経験しているから国民にも、それぞれの思いがあるらしいのだが、その辺の微妙なニュアンスもよくわからない。原題は「殺戮の神」となっているが、日本でタイトルにした「正しい大人たち」からはこの原題の意図がうかがえない。 ポランスキーの米映画「おとなのけんか」(日本公開タイトル)はほとんど芝居のままだが、英米公開時の原題は「殺戮」というところだけとっている。一方、先年、岩松了翻案の舞台は「大人のケンカが終わるまで」(2017)。パンフレットを買えばそのへんの説明があったのかもしれないが、ここは劇場内チラシででも知らせてほしかったところだ。
義経千本桜
花組芝居
あうるすぽっと(東京都)
2019/12/13 (金) ~ 2019/12/22 (日)公演終了
満足度★★★★
花組芝居の歌舞伎名作一気読み。全部やれば一日では終わらない義経千本櫻は、大歌舞伎でも始終上演されるが、いつもみどり。ここは川越上使からはじまって、鳥居前、渡海屋、大物浦、いがみの権太、すし屋、四の切りまで全部ある。ここは、あの・・・。と記憶をたどって見ているうちに次へ行ってしまう忙しさで三時間弱。
菅原伝授手習鑑 仮名手本忠臣蔵に続く名作ダイジェストで花組風に上手にまとめてある。狐忠信の袴の裾を長くしてしっぽにして捌くところなどうまいものだ。下座も巧みに入れていて劇場のスケールにあっている。
伝統演劇を果敢に若者演劇に取り込んだ先覚者としての花組芝居の功績は大きいが、その後、野田秀樹が頑張り、一方では木の下歌舞伎やKUNIOが出てくると、花組芝居は先行しただけに分が悪い。ここでも加納をはじめ、長くやっている俳優たちは花組風を体得していて独特の演技で面白い。多くの俳優が、小劇場や商業演劇でも活躍しているのもうなずける。ダイジェストもなかなかこうは思い切ってできないだろう。
しかしそれが、大歌舞伎のように時代を超えて受け継がれ再生するか、となるとどうだろうか。これはこれで面白いのだが、時代がそれを受け入れるかどうか、ここにも「舞踏」や「テント」と同じ先覚者の大きな課題がある。
私たちは何も知らない
ニ兎社
東京芸術劇場 シアターウエスト(東京都)
2019/11/29 (金) ~ 2019/12/22 (日)公演終了
満足度★★★★
大正リベラリズムのはかない運命はよく芝居になる。ようやく女性が男性と対等な価値観で登場してくるので、現代劇としても作りやすく、共感も得られやすいということもあるのだろう。今年だけでも、「渡り切れぬ橋」(温泉ドラゴン)や「赤玉gangan」(秋野桜子」が近い時代のメディア界を舞台にしている。旧作だが「絢爛とか爛漫とか」(飯島早苗)もあった。古典となれば、宮本研の「美しきものの伝説」、これは68年の初演だから、素材としてはエバーグリーンである。底流にはこれも不滅の「敗者の美学」がある。
新味を出すのに苦労するところだが、この永井愛の新作は、必ず出てくる人物たちを史実に沿って描きながら、いままでの「元始太陽もの」にない魅力があった。それは、未知の海に無茶を承知で漕ぎ出す者の魅力とでも言ったらいいだろうか。そこが描けている。
登場人物たちはどこか心細げであるが、でも、それぞれの手持ちの櫂で漕ぎ進んでしまう。そこには政治や生活の打算を超え、さらには今を流行りのジェンダー論を超えた人間たちがいる。しかもなお、彼らは「女」なのである。
キャストがうまい。朝倉あき、藤野涼子、夏子。登場人物たちの会話にはほとんどお互いの共感のシーンがない。独立して、それぞれの人物を際立たせる演出もうまい。
女性的でありながら、それを客観視して書けるこの作者ならではの作品である。現代メディア批判はもう、ほかの作者に任せて(いくらでも書き手はいる)、「書く女」に続く作品を期待したい。
モジョ ミキボー
イマシバシノアヤウサ
シアタートラム(東京都)
2019/12/14 (土) ~ 2019/12/21 (土)公演終了
満足度★★★★
ロンドンで、何気なく入ったフリンジの小屋で、いいものを見たなぁと感じるような小気味のいい舞台だ。文学座の独立ユニットの公演で、新劇の実力を遺憾なく発揮した小股の切れ上がった社会劇だ。
天井の高い舞台を生かして中央に奥行きを見せ、左右の袖に労働者の家のDKの小道具があり、周囲には、細かく描かれた無数のイギリスの家のミニチュアが飾ってある。70年代、分離闘争が続く北アイルランドのベルファーストの二つの労働者家庭の少年、モジョとミキボーの物語だ。対立によって荒廃した町で過ごす少年とその周囲の人々の生活と心情が描かれる。
この舞台は二つの仕掛けがある。一つは、二人の俳優で、少年だけでなく周囲の人間も全部演じてしまうというアクロバチックな構成だ。男女、老若の十五役を演じるだけでなく、道具の出し入れまである。非常にテンポが速い。
今一つは、二人の少年がたまたま映画館で見た「明日に向かって撃て」にならって、この出口の見えない内乱の国を国を脱出しよう国境にかかる橋に向かうという筋立てだ。
浅野雅博(モジョ)も 石橋徹郎(ミキボー)もすでに50歳近く、文学座の中でもスター役者の座にはつかなかった俳優たちだが、このふたりが1時間20分、語り続け、動き続けベルファーストの労働者社会を演じ切る。鵜山仁の演出も的確で隙がない。二つのファンタジックな趣向が、切実な社会の現状から全く浮いていない。リアリズムの芝居になっている。
この芝居は十年前にロングランを目指して、下北沢の小劇場でスタートして、これで三演目。小屋も今回は前の劇場に比べればかなり広いが、すこしもだれたところがない。そういう新しい演劇上演を目指した目的も十分に叶えている(もっともロンドンなら、一年でも二年でも続演するだろうが、こういう再演も悪くない。)
折しも、イギリスのEU
離脱の時期と重なり、ヨーロッパに生きるイギリスの人々の複雑な背景の理解にもいささかは助けになる。そんな演劇の社会的な役割もさることながら、この芝居を続けた役者と演出に大きな拍手を送りたい。これは地の塩になる公演だ。
スクルージ ~クリスマス・キャロル~
ホリプロ
日生劇場(東京都)
2019/12/08 (日) ~ 2019/12/25 (水)公演終了
満足度★★★★
市村正親のスクルージ、脚本も音楽も振付(前田清美)も、素直に19世紀半ばの物語を今の観客に楽しませようとしている。演出は井上尊晶、蜷川門下で鍛えた大劇場を見せる技術で古風なミュージカルを、見事にまとめ上げ、首都東京の皇居に近い劇場・日生劇場がよく似合う舞台に仕上げた。
昨晩は開演中に外は雨になった。これが雪だったらなぁ、と天を畏れぬ贅沢な思いにさせるクリスマスキャロルである。
メモリアル
文学座
文学座アトリエ(東京都)
2019/12/03 (火) ~ 2019/12/15 (日)公演終了
満足度★★★★
最近小劇場でも少なくなったムツカシイ舞台である。
一時期はわからないのがいい、という芝居が流行ったこともあったが、これはそういう難しさではない。前例を見れば、シュプレヒコールコール劇か。男優女優各三名が、文章の一節を客席に向かって読み上げていく。それがムツカシクナイ舞台では「セリフ」なのだが、対話(ダイアローグ)ではない。かといって、モノローグでもない。ここでは登場人物が、親子、夫婦、兄弟、外国のひと、と設定があるようなないような関係なので、言葉からはストーリーが読めない。ストーリーによる情緒に頼っていないところが新しくもあるのだが、文章そのものは、常識的な政治談議や、日常会話、相田みつお格言のようなことわざ風、時には「舟をこいでいる」と眠っている客への客いじりまであるそれぞれの人物の記憶(メモリアル)の断片である。その選択は現代日本の深層に浮遊している現代の言の葉、とでも言えばいいのだろうか。全体は七つのブロックに分かれて1時間45分、分かれてはいるが裸舞台なので大して変わり映えしない。どんどんムツカシクなっていく。
と書けば、困った前衛劇みたいだが、近頃、こういう斬新な趣向で乗り切った舞台がほとんどないので、どうなることだろうと、終わりまでハラハラしながら見た。さすが、文学座、セリフの通る役者ばかりで、文章も生きている。しかし、昨年KAATで見た地点のような面白い動きやしかけ(地点の場合は振付と言ってもいいか)で客の方で筋立てを作らせてしまうような演劇的なサービスがないので、見ている方は苦しい。「こういうことよ」とテキストを観客に納得させるのも演出の大きな仕事だ。KAATが面白かっただけに、今井朋彦・初演出ではこの本はいささか荷が重かった。
この作者に対する期待が大きかっただけに、客もくじけずに次回を待つことにしよう。
ツマガリク〜ン
小松台東
三鷹市芸術文化センター 星のホール(東京都)
2019/11/28 (木) ~ 2019/12/08 (日)公演終了
満足度★★★★
小松台東(松本哲也)の舞台には独特の生活感があって、うまいのに気取っていない。青年団系のようだが、この系列にある嫌味がない。「さなぎの部屋」の急場を救った男気(内実は知らないが、投げ出して当然なのに)も見上げたものだ。
それは多くの作品が、東京の演劇になじみの薄い故郷の宮崎方言を使っているからかもしれない。いずれにせよ、よくまとまった劇世界を作り出していて、旧新劇団から注文が多いのもうなずける。次は青年座の予告が出ている。
今回は客演もあるが自前の劇団で、お仲間内でのびのびと自身20歳代に経験したという宮崎の電材会社の一日が描かれる。登場人物十名をそれぞれの役割でキャラ付けしてあって、その中で、起きる小さな事件が織り出されていく。拾ってきた猫の失踪で気もそぞろ、つい会社をさぼって探しに行く気の弱い新人社員、彼が伝票通しを忘れたために生じた得意先からのクレーム対応に忙しい管理職立ち、将来に不安を持ちながらこの会社を離れられない中堅の社員は明日子供の運動会を控えている。社員の中には職場不倫もある。
中小企業によくある一日がこの宮崎の小さな電材会社のバックヤードで、そつなく展開する。話は収まるべきところに収まって二時間五分、よくできていると言えばできているのだが、いつまでもこれでは仕方がない。
物語を語る力も人物造形も及第点ではあるのだから、平面的な風俗からではなく、ともに生きる人間として共感が持てるような人間たちの相克を舞台で見せてほしい。年齢、キャリアから勝負の時が来ている。まず、素材。次には人間のドラマを絞って深く。並べて引いてみて面白がることに憂き身をやつしてすでに多くの青年団系が破綻している。
最後の伝令 菊谷栄物語
劇団扉座
紀伊國屋ホール(東京都)
2019/11/27 (水) ~ 2019/12/01 (日)公演終了
満足度★★★★
久しぶりの扉座である。
確か早稲田の学生劇団からスタートしていると記憶しているが、65回公演と打っているから30年は続いているわけだ。作者はほぼ、主宰の横内謙介一人で、この作者は劇団だけでなく、商業演劇も、歌舞伎も書く。この人の多才と劇団活動への熱心さに支えられてきた劇団で、演目も活動範囲も、小劇場としては珍しいタイプである。今回の「最後の伝令」は昭和前期の浅草軽演劇で榎本健一を支えた作者・振付家・菊谷栄を主人公にしている(有馬自由)。
昭和6年に菊谷栄がたまたま出会ったエノケンの作者になってから、徴兵されて12年に北支で戦死するまで。バックステージもので、舞台に乗るのは、菊谷に徴兵令状が来て、故郷の青森に帰った数日間が素材である。
タイトルにもなっている「最後の伝令」は昭和6年のエノケン浅草売り出しのころのヒット作と伝えられるが、それを再現したわけではない。サブタイトルには「菊谷栄物語」と振っているが、その生涯の伝記を目指してもいない。芝居の後半は、小劇場としてはずいぶん張り切って当時の浅草の軽演劇レビューの雰囲気を出そうとレビューのシーンが続く。サブタイトルにさらにサブタイトルがついて「1937津軽~浅草」となっている。
最初に「最後の伝令」の稽古らしきシーンもあるが、前半のドラマは劇団員が出征する菊谷に託した手紙を青森出身の劇団員(客演のAKB横山由依)が持参して届けると言う物語。後半は出征する菊谷が品川を通過するというので新宿第一劇場に出ていたエノケン一座が舞台を中断して品川まで見送りに行くという話で、そこに舞台の表裏をちりばめて一種のバラエティのような構成である。前半の物語には、浅草軽演劇の紹介だけでなく、本籍地入隊の徴兵制度、内務班の組織、当時の東北農民の貧困、人身売買、その救済策としての満州進出など、当時の社会的背景も織り込まれているし、後半のレビューシーンにはエノケン(犬飼淳治)が歌うシーンや、ダンサーが躍るシーンや、カンカン(これは戦後になっての輸入と思うが)まであって、見ている分にはテンポもよく歌に踊りに、笑いと涙と、かつての大衆演劇を見ているように飽きないが、さて、この芝居の軸は何なのだろうかと考えると、はぐらかされたような感じもする。
案外この時代のバックステージは本格的に芝居になっていないし、この時代をナマで知っている人はほとんど亡くなってしまったのだから、もっと大胆にドラマ化してもいいと思うし、逆に、徹底的にリアリズムで絞り込んでも、面白かったのではないかとも思う。(例を挙げれば、「天井桟敷の人々」この映画のおかげで、フランスのブールヴァール劇がどんなものであったか、リアルにわかる)この素材も商業演劇でメインの俳優をスター配役して、レビューもプロの人たちでやっても、(興行元が慣れていれば)もっと大きな劇場でもできるだろう。エノケン伝など面白くできそうである。
今回は、軸になる俳優の実年齢が作中人物の設定年齢より高くなってしまったのも、意外に気になるところだった。
KUNIO15「グリークス」
KUNIO
KAAT神奈川芸術劇場・大スタジオ(神奈川県)
2019/11/21 (木) ~ 2019/11/30 (土)公演終了
満足度★★★★
一日中芝居を見ていれば、どこかで躓くものだが、さらさらと見られる。場面場面がいろいろ趣向を凝らして面白くできていて楽しめるのだ。若く、馬力のある杉原邦生の「グリークス」である。
昔、コクーンで蜷川演出を一日かけてみた記憶があるが、それに比べるとずいぶん砕けた印象である。あれは90年、もう三十年も前のことだから、記憶も薄れている。ギリシャ悲劇の超人型造形が強い舞台で配役もまた、それに倣っていた。今回は翻訳も小沢英実による新訳でずいぶん下世話になった。テキスト論は本一冊やっても尽きないであろうから、とっつきやすいギリシャ劇だったというのにとどめて、観客の感想を。
まず、百五十の観客席なのに、大劇場の空気があり、しかもやたらに細かい。ここが世界古典のギリシャ劇にふさわしい。どこを見ていても楽しめる。どうしてもやってみたかったという演出家・杉原邦生の気迫が空転していない。幕開きから、林檎におさまるまで、一気呵成の出来である。今まで、音楽やダンスの挟み方で、疑問があるところがあったが、今回はうまくおさまっている。たとえば、トロイ戦争の始末を一曲にしてしまったあたり見事である。
主要な俳優たちが大健闘である。アガムメノンの天宮良、クリュタイムネストラの安藤玉惠、へカベの松永玲子、アンドロマケの石村みか、脇になるが、武田暁、小田豊、森田真和、普段もさまざまな劇場で舞台をしっかり固める俳優たちが実力を発揮している。気持ちがいい。松永玲子はやりすぎかとも思うが、ちゃんと舞台を締めていて、観客は大いに楽しめるのだ。その点、コロスの若い俳優との落差も目立った。若い俳優にとっても生涯一度の経験であろうが、まずは、セリフを割れないように言う、ということを訓練してほしい。それほど大きくない劇場なのだから、ここで声が割れるようでは、実は俳優として通用していないのである。
美術と衣装がいい。幕開き、松羽目が舞台いっぱいに立ち上がってくるだけで、芝居好きは捕まってしまう。あまりうまく使っているとも言えないが能舞台の躙り口など、小憎い。そこに国籍不明の衣装がまたよく合うのである。西洋甲冑から日本の神社の巫女まで、多彩な色とファッションで舞台を彩っている。
異論を言えば、第一部はトロイ戦争、と第二部は肉親間の殺人と、中心のテーマがはっきりしているのに比べて、第三部のエジプトの親子再会は、演出の調子も変わり絞りが甘かったように感じた。
しかし、これは、やはり今年、屈指の舞台といっていいだろう、。朝の11時半から夜の9時半まで、飽きずに楽しんだのだから。
8人の女たち
T-PROJECT
あうるすぽっと(東京都)
2019/11/13 (水) ~ 2019/11/17 (日)公演終了
満足度★★★★
フーダニットというジャンルは日本では定着しなかったが、時には井上ひさしや、三谷幸喜のように、このスタイルをさりげなく使った舞台が現れる。
フランスでは、この作者トマの「罠」が知られていて、今でも、日本ではしばしば上演されるが、「八人の女たち」は、それほどでもない。この作品が書かれた時代(61年)にはフランスでも、大衆演劇と、演劇とははっきり作者も劇場も分かれていたそうで、そこはわが国も同じようなものだ。03年にこの原作を映画化したとき、監督のオゾンは、そんな古めかしいのイヤ、と言う主演のカトリーヌ・ドヌーブを説得するのに苦労したと、映画の特典映像で語っている。結局、オゾンの映画は有名女優8人を並べて、フランスの歌謡曲を全員に一曲づつ歌わせる音楽劇という趣向を入れた、言わば「お盆映画」になった。
殺人事件をめぐる謎解きはフーダニットの形式としてよく考えられているし、そこにいかにものフランス女の世態も組み込まれていて面白がってみていればいいのだが、物語のリアリティは全くない。クリスティの芝居よろしく、一夜、雪に閉じ込められた豪邸で、大金持ちの屋敷の主人が、殺される。屋敷の中には主人にさまざまに因縁ある八人の女がいて、さて、誰が犯人か。フーダニット? 典型的な犯人捜しのお遊び劇で、趣向があって初めて興行として成立する戯曲だから、今回のようにストレートに舞台に乗せると苦しい。プラスワン、いや今ならプラス5くらいは要る。
主に声優の俳優を集めた舞台で、セリフがよく通って聞きやすいのはいいのだが、そういう役者を舞台に上げるのは、本人にとってもフラストレーションになるのではないかと思った。セリフを言っている人以外はほとんど棒立ちだ。この欄にも、あっさりしている、という「みてきた」があるが、それはないものねだりの無理な注文なのだ。
かつては、フランスの大衆劇場で客の入りが悪くなると、女優を集めて再演した当たり狂言だったというが、今見ると、フーダニットというジャンルが劇場から消えていったのも解る気がする。翻って、今しきりに上演している漫画などを原作にした2、5ディメンション。こちらも大丈夫かなぁ。