冬の時代【3/28-29公演中止】
アン・ラト(unrato)
東京芸術劇場 シアターウエスト(東京都)
2020/03/20 (金) ~ 2020/03/29 (日)公演終了
満足度★★★★
五十年という歳月を改めて考えさせられる舞台だった。
舞台の設定はほぼ百年前。木下順二が戯曲を書いて民藝初演がほぼ五十年前。そして今、この芝居を見る。
すでに、この芝居の実録的背景になっている「大逆事件」は遠く。カリスマ的だった劇作家の作品は現実を打つ力よりも古典化し。今上演のスタッフキャストは平成令和の人々である。
今の閉塞時代に、この舞台が、現実味を持ち、改めて上演の意義があるという政治的な見方もあるが、それは言ってみるだけであまり意味はない。時代は違う。この物語を今の現実の教訓にするというのは、つまらない教養便利主義だ。
演出の大河内直子は、この戯曲を青春劇として読み直したようで、それはこの戯曲の一つの読み方であろう。この明治の青春劇の奥に、時代へ向き合う普遍的な若者像が見えてくるというのが狙いだ。ホリゾントに枯れ木の並木(現実)を配し、大きく空(青春)をとり、舞台前面に長方形の枠で舞台を隈どった舞台装置にもそれはあらわれている。二重に張ったスクリーンのおくに雪が降る「冬の時代」である。俳優たちを戯曲に沿って細かく動かしているのも計算が立っている。舞台の上の俳優たちを、まとめたり、ばらしたりする計算づくの動線は見事だ。絵になっている。改めて、木下順二はセリフがうまいなぁと感服した。さすが、言葉に生命を見た劇作家の作品である。
しかし、それを実現するべき俳優の力が足りなかった。コロナ騒ぎで、稽古も浮足立ったのか、演出のつけている動きを自然に見えるまで消化していない。セリフも大声で口にするだけで、言葉になっていない。セリフは原文のままだから、やりにくいのはわかる。しかしそれをやり切って、明治のメディア青春劇を令和の観客に「今生きているように」見せるてこそ俳優というものだろう。渋六、くらいしか印象に残らなかった。3時間半、入りは7分。いいキャストで見たい。
対岸の絢爛
TRASHMASTERS
駅前劇場(東京都)
2020/03/06 (金) ~ 2020/03/15 (日)公演終了
満足度★★★★
小劇場の手打ちの公演がウイルス騒ぎで立ち往生している真っただ中で、果敢に開けたトラッシュマスターズ公演。駅前劇場で、座席も80くらいに絞って席の間を少し開け、マスクを配り、観客にアルコール消毒を求める、という苦渋の決断だ。こういう風に見せないと、ネットで叩かれたりするらしい。そういう上からのお達しに配慮はしたくない劇団だろうに涙ぐましい。生活が懸かっている。
表向きはいま問題が顕在化しているIRが素材だが、テーマは、こういう「已む無し、ことなかれ処理」でうやむやに解決していくことこそが、日本の宿痾であるという芝居だ。最近の「埋没」も「オルタニティ」も、表面的な事件の奥に、日本の社会構造の見えにくいところに触れていた。しかし、その課題には解決の先も見えていない。昔の新劇社会劇の裁きではどうにもならないから、民芸に書いた作品などは、訳のわからない風俗劇になってしまう。
「対岸の絢爛」では、戦時中の空襲による市民被害者の処理、80年代の開発ブームの中の地方都市の開発、近未来のIRの受け入れに揺れる大都市の住民説明会、と三つの時代の場面が交錯する。政府が住民に求めることは住民の生活の安寧とは食い違っているが、住民の方にも、付け込まれる要因がある。住民の中にも賭博嗜好が消えがたくある。いままで、パチンコとか、宝くじで長年、法で禁止しておきながら、抜け道を作って賭博には慣れ親しむようにされてきている。舞台で演じられるように、市民の家庭の中にも深く入り込んでいて、今さら単純な論理で排除できない。そこでどう生きるか。IRのように先端的な問題提起のおくに、根本的な問題を提起しているところがいいが、そこを解くにはまだ、作者にも見る方の社会にも時間がかかりそうだ。
七人の俳優が、三つの時代の登場人物を演じる。時代を超えて、相互に関係があるような、ないような作りで、それが日本に遍在する国民性を現していて、これはなかなかうまい趣向だ。トラッシュマスターズも二十年という。俳優も力をつけてきて、それぞれリアリティのある演技だ。今、小劇場で、社会問題を素材に、かつての新劇のような政治に沿った型通りのプロバカンダ劇でない芝居を志す劇団は少なくない。トップランナーとして、頑張ってほしい。
運悪く、今回は勘定は合わないだろうが、作った席だけは売れている。
死の泉 Die spiralige Burgruine【大阪公演 会場変更】
Studio Life(スタジオライフ)
紀伊國屋ホール(東京都)
2020/02/27 (木) ~ 2020/03/08 (日)公演終了
満足度★★★★
オールメールのユニークな劇団の看板演目の一つ。原作は皆川博子の代表作、この作者は現代、近代を舞台にしながら伝奇的、ゴシック風なところが劇団と相性がいい。
原作小説は、確かその年のベストミステリになったはずで昔読んだ。第二次大戦をはさんでほぼ二十年、大戦に翻弄されるドイツを舞台に、登場人物もすべてヨーロッパ人、ナチのSSが登場し、人種差別や人種浄化がドラマの原点になっている。伝奇的な要素も十分で、クライマックスは古城が舞台である。複雑に組まれた人間関係が、異常な愛や憎悪を生んでいくゴシックロマンの大長編だが、ベストに上げられたくらいで、よくできている。
舞台は、原作をかなり忠実に追っていくが、何しろ長い。舞台は三時間あるが、それでも後半は説明不足で駆け足の感じがする。しかしこの物語ならやはりこの劇団だろう。初演は二十年前、4演目である。
メール劇団の色彩は、男性が両性を全部演じてしまうところから生まれる。だが、現実の社会では男性と女性の違いは、ファッションでは強調されている反面、日常生活の動作、言葉、衣装、履物、など、すべての面で急速に少なくなっている。歌舞伎や宝塚のように様式性が確立していればとにかく、日常的なドラマでは単一の性の演技で、表現が広がるメリットは少ない。単一性のカンパニーの行先は、今までのこの劇団の路線でも苦しいのではないかと思う。
今回は久しぶりに紀伊国屋ホール。かつてはもっと大きな劇場も開いた劇団だが最近は二百席位の劇場が多かった。よく見ると、なんと東映と組んでいる。東映というのは興業には独自の企画力があって、業界エエツと驚くようなことを成功させる。映画だけでなく、東映映画村、とか東映歌舞伎とか、直営館の雑居ビル化とか、前例にとらわれない事業を展開する。意外な事業でもちゃんと数字の計算もあってのことである。今回は初めてだから、見てみようということだろうが、これから東映がどんな企画を出してくるか楽しみでもある。今の業界を見ると、むしろ、2.5ディメンションの世界の方が、この劇団の色彩が生きてくるし、俳優の交流もしやすく、両方にメリットもあるのではないか。現実に、そのメリットを生かして成功した俳優も少なくない。しかも、ここも上演こそ増えてはいるが伸び悩んでいる。
創立35年という時間を経た劇団の曲がり角だ。
グロリア
ワンツーワークス
赤坂RED/THEATER(東京都)
2020/02/27 (木) ~ 2020/03/08 (日)公演終了
満足度★★★★
小劇場が見つけてくる海外戯曲には、時に思いがけず面白い本がある。昨年は俳小の「殺し屋ジョー」。この「グロリア」はアメリカのオフで評判の作品の由で、誰にもわかってもらえない孤独な市民生活の絶望的ないら立ちが描かれている。本は面白い。
真っ先に社会の規範となるべきメディア(文芸雑誌)の編集部で起きる人間疎外に。耐え切れず、補助職員のグロリアが、銃を乱射、二人の死亡者が出る。第一幕はそこへ至るまでのいきさつ。動機は前の晩に準備されたグロリアのパーティに編集部からは一人しか行かなかった、そのことを陰でみな物笑いの種にした・・・・というような無関心の差別というようなことなのだが、職業の場でも、家庭でも疎外されているアメリカの下流市民の暗い絶望がよく描かれている。二幕と三幕はその悲劇の後日談、まずは二か月後、現場にいた仕事仲間が体験談を書いて売ろうとし、次には二年後、ロスの映像企画会社が商品化しようとする。事件は風化して、当事者たちの欲得ずくだけが残る。メディアの貪欲さと、そこに生きる人たちの徹底した商品主義、個人主義が、アメリカの現代社会の深い病癖を素通りしていく。アメリカの現代劇にはよくある人間相関図なのだが、よくできていて、NYにもロスでもいかにもありそうな話だ。(たまたま似たシチュエーションの映画「スキャンダル」が封切されている、比べるのは酷だが、映画は本場だけにリアルで強い)
しかし、このドラマ、今回の上演では、シリアスな社会劇なのか、風刺コメディなのかよくわからない。俳優の演技は揃って、セリフの順番が来たら異常な速さでまくしたてる、演技の終わりに形を作る、という単調なステレオ演技で、話は分かるけど、どこを訴えたいのか、笑っていいのかさえもよくわからない。
時間もとび、場所もNYからロスにうつり、場面も人も変わっているのに代わり映えがしない。本ではドラマの推移がよく考えてあるのに同じ調子が続く。「殺し屋ジョー」では客演していた、いわいのふ健が本の面白さを引っ張っていく牽引車になっていたが、こちらには目立つ俳優がいない。索漠としたドラマというコリッチ批評も多いが、それは舞台の未成熟だろう。折角いい本を探してきたのにそこが惜しい。
肩に隠るる小さき君は
椿組
ザ・スズナリ(東京都)
2020/02/26 (水) ~ 2020/03/03 (火)公演終了
満足度★★★★
新型コロナウイルス禍で、大きな劇場が次々と休演する中でここは千秋楽の3日まではあけるという。首相が言えば、世間は従うと浅慮断行の政府も政府だが、お達し通りと、小屋を閉めてしまう演劇側もどうかと思う。個人的に残念と言えば、稽古も終わって舞台に上げるばかりになっていた「お勢断行」や明治座の「桜姫」が、チケット抑えて楽しみにしていたのに、見られなくなってしまった。大劇場も増えてきたが経営と制作が様々に絡んでいるからおいそれと小屋を変えての公演はできないだろう。座組があるから、「桜姫」は当分見られないかな? だが、折角の準備万端だったのだから、どこかでやってほしい。
ここスズナリでも、入り口で聞くと、若干のキャンセルはあった由で客席も絞って80席ほど。毎回新しい作者に書かせるユニークな椿座公演だ。
芝居の中身は、2.26事件以前三年ばかり(34-36)の下町の踊りのお師匠さんのファミリーヒストリーである。事変物は山ほどあるが、この時期の下町ものは久保田万太郎か幸田文かという昭和物の世界で、平成以後は珍しい。この時代を生きて、さらに今を生きている市井の人はもう、世間に出ることはないだろうが、伝統芸能の世界ではその世界を伝承している人は生きている。大きな戦争で丸焼けになり、さらにバブルにデジタルと大きな時代の洗礼を二つも受けているのだから、生活感覚にもとずく表現の伝承が難しいことはよくわかる。昭和の時代には兵隊は誰がやってもサマになると言われたものだが、今は、難しい。俳優も揃ってセリフが乱暴で、いくら落ち目の家元にしてもこうはならないだろう。上手に置いた稽古舞台の扱いもぞんざいである。舞台にかなり違和感があった。
しかし、それをやってこそ、人が演じる演劇ではないか。
舞台の細部ににリアリティがないと、中村屋の実例があるからいいじゃないか、というアジア某国社会運動家亡命のストーリーもただのファンタジーになってしまう。それでは、いまの時代を見てのこの上演も意味がなくなる。
罪と罰(神奈川公演)
地点
神奈川県立青少年センター(神奈川県)
2020/02/29 (土) ~ 2020/03/01 (日)公演終了
満足度★★★★★
県立劇場休館の中で、貸し小屋だったために公演できた。皮肉なことに大劇場で、ほぼ満席。二回だけの日本初演である。
国際的な場で成功しそうなジャポニカ趣味の全くない画期的なステージである。現代的で、前衛。中身は「罪と罰」だが、多くの町の人物が交錯するはじまりから次第に、ラスコリニフ(小林洋平)とソーニャ(安部總子)に絞られ、そこで、原作のテーマが、舞台ならではの手法で演じられる。ホリゾントに工場の非常階段を三段に組み、そこから出入りする装置も、照明も細かく計算され、例によって、掛け声(今回は{あ!」)も効果を上げて、リズミカルに、ペテルスブルグの物語に誘われる。二回だけというのは勿体ない。劇場も増えているので再演を待っている。
往転
KAKUTA
本多劇場(東京都)
2020/02/20 (木) ~ 2020/03/01 (日)公演終了
満足度★★★★★
初演からほぼ十年がかりで、面白い芝居ができた。三演目という。
東京から仙台へ向かう深夜バスが、たまたま荒天で横転事故を起こしたために乗り合わせた人々の人生を狂わせていく。乗り合わせ、というのは一つのパターンではあるが、そこに、現代社会の風俗、風景が面白く織り込まれていて、優れた現代劇になった。
技術的にも工夫が凝らされていて、見ていて、おや?とひかかったところは、後に見事に回収されていき、そこに、現代社会の断面が顔を出す。
長い間KAKUTAで芝居をやってきた桑原裕子らしい地道な努力が実を結んでいる。それを見て、俳優たちも集まってくる。今回は、なんといっても、峯村リエと小島聖。どちらも、小劇場でも、大劇場でもこなせる力のある女優だが、戯曲にこたえて現代を生きる女性を見事に演じている。いまの社会に確かにいる切なく生きる女性像だ。(忘れずに小島聖には今年の女優賞を上げてください!!)入江雅人もうまい。こういう中途半端な人間は演じにくいのだが、中年は寄る辺ない寂しい存在なのだ。俳優はそれぞれしどころで力を発揮して、本多の舞台が狭く見える。
思わぬウイルス騒動で客足にぶったか、八割の入りは残念だ。今年は「ひとよ」も再演するという。こちらは映画版で田中裕子の快演を見たばかりだ。楽しみだ。
Pickaroon!<再演>
壱劇屋
DDD AOYAMA CROSS THEATER(東京都)
2020/02/25 (火) ~ 2020/03/01 (日)公演終了
満足度★★★★
この「見てきた」批評でも、年間ベストテンでも評判がいい劇団というので早速拝見。
大阪の劇団はここのところ、iakuとか京都の劇団がいい舞台を見せてくれるので楽しみに見に行った。殺陣を見せ場にして、新感線が登場した時のような、東京にはない新鮮さのある劇団ではある。しかし、新感線登場におよばないのは、つぎの三つ。
まず第一に、芝居にドラマがない。これは詳しく述べるまでもないだろう。新感線の古い映像もDVDで出ているので、見てみるといい。七人というのを真似るなら演劇の基本〈7というのは娯楽時代劇のパターンだ〉も押さえてほしい。音でごまかしてしまうのはいかがなものか。
第二。殺陣は始めから終わりまで続く。体力には感心するが、パターンをもう少し工夫しないとただ賑やかだけで終わってしまう。中段の、階段を動かしながらの対立はよかったが、紙を使った殺陣などは何度も重ねられると、知恵が出尽くした感じで苦しい。昔から序破急というではないか。新感線も最初は走り回るだけと批判を受けたものだが、そのなかで、役者の個性的な肉体を立てて見せ場を作った。
第三.登場人物の衣装は凝っているが、それぞれの役の中身も考えないと。新感線は、ばかばかしいけど、よく工夫されていた。真似をせよと言っているのではない。役を考えておかないと、筋もつまらなくなってしまうということだ。敵役も単調だし、ヒロインのお姫様は、これではかわいそうだ。
熱量はあるのだから、腰を落ち着けて。新しい分野の2.5ディメンションなどの成熟にも挑戦してもらいたい。
社会の柱
新国立劇場演劇研修所
新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)
2020/02/21 (金) ~ 2020/02/26 (水)公演終了
満足度★★★★
現代劇はイプセンにはじまるといわれているが、19世紀の本は、さすがに古い。しかし、ここから始まる、という初々しさもある。新国立の俳優養成所の卒業生の修了公演である。
俳優と戯曲がともに、新しい世界に挑む船出につながって気持ちのいい公演になった。3時間の長い芝居で、主演の男優は声がかれかけていたが懸命に努め、度胸のいい女優もいる。優等生ばかりで端役も隙がないという印象ではあるが、セリフも動きも、技術的には安定している。
ノルウエイの田舎の港町の話だが、面白くできあがった。。
公演の趣旨とは違うかもしれないが、久しぶりに、のびのびとした宮田慶子の演出を見た。宮田演出は、やさしくいきとどいたタッチが女性演出家の中では傑出していたが、新国立でもみくちゃになっている間にしぼんでしまって残念に思っていたが、今回は基本を押さえながらも流れるように新人たちに舞台の動きもセリフも示唆している。宮田慶子、復調して快調である。新国立では、とんだ目にあったのに、新人養成には地道に力を尽くしていたことが分かる。活躍できる公共劇場も増えてきたので、改めて元気のいいお姉さんの活躍を期待したい。
ありがとサンキュー!
劇団青年座
シアターグリーン BIG TREE THEATER(東京都)
2020/02/19 (水) ~ 2020/02/25 (火)公演終了
満足度★★★★
宗教で生活している登場人物というのは、舞台ではどこか一枚フィルターがかかっていて,観客からは感情移入しにくい。難しい素材だ。
この芝居は宮崎のキリスト教会の牧師の家の百年紀だが、宗教色よりも生活感が強い。作者得意の宮崎の言葉も効果を上げている。普段あまりかかわることのない宗教で生活している一家の素顔が描かれる。戦後に一時流行した生活劇のような味がある。さすが青年座で、俳優陣は宮崎弁を、演劇の言葉にしていて、うまいものだ。しかし・・・・という前に。
個人的な感想になってしまうが、私は、宮崎出身でこの舞台のようなキリスト教を信じる大家族出身の方とある時期仕事を共にしたので、この舞台設定は理解できる。見ていると善意と自省の人だった故人(その方はもうなくなっている)が懐かしく思い出される。登場人物やシーンのリアリティはある。
しかし、引いてみればドラマのバランスが悪い。主人公(増子倭文江)の一代記、ないしはこの大家族の百年をやるつもりだったら、もう少し、長い時間の中で、相互のシーンの関連するテーマがあり(それはやはり、宗教と生活、ということだと思うが)、その葛藤がないと、生活感の面白さだけに頼ったエピソードの羅列になる。それでは、たとえば、休憩後の長い三幕は持ちきれない。
登場人物も多すぎて説明不足だし、百年を行ったり来たりする劇の時間も長すぎ、その処理も恣意的という感じをぬぐえなかった。
まほろばの景 2020【三重公演中止】
烏丸ストロークロック
東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)
2020/02/16 (日) ~ 2020/02/23 (日)公演終了
満足度★★★★
京都の劇団の震災もの。京都の劇団というと、斜に構えたスタイルが多いが、ここはさらに一ひねり。幕開きはさらりと主人公の震災地の介護士(パンフは配るが出演者の配役が書いてないので類推するしかない。こういうところも京都風)が担当の知的障碍者を探しているという語りで入るが、中身はひねってある。骨組みはこの介護士が、震災後社会で、担当の知的障碍者とめぐるロードムービーである。
舞台の中央から奥には長い白布が何本も垂れ下がっていて、主人公と出会う出演者はそこから現れ、消えていく。障碍者の姉、自分の父、土着的な宗教者、いずれもこの社会の中で、本来は生きていく共通基盤となるべき人間関係が断絶していて、震災でその断絶が露呈している。風呂に入るというような生活の細部、障碍者を散歩させるという日常、生活宗教の過去帳や祭文など、生身の人間が理屈でなく接するところから、抽象的なドラマが組まれていて新鮮で、洒落ている。京都スクールらしいソフィストケイトが成功している。
舞台の影で演奏されるチェロを主体に日本の打楽器による演奏もいい効果を上げている。
1時間45分。劇団になじみがないせいか、入りは半分ほどで、もっと、入ってもいいと思った。
八つ墓村【公演中止(02/28(金) ~ 03/03 (火) )】
松竹
新橋演舞場(東京都)
2020/02/16 (日) ~ 2020/03/03 (火)公演終了
満足度★★★★
昨年「犬神家の一族」で劇団新派の新境地を開いた横溝シリーズの第二弾。脚本・演出は犬神に続く斎藤雅文。犬神は登場人物の人間関係も本格向きに複雑なのだが、要領よくまとめて、横溝作品の演舞場上演のスタイルを作った。
横溝正史のミステリは、謎解きがしっかりある本格味でファンが多いが、この原作「八ッ墓村」は伝記小説の色彩が強い。そこが犬神とは違う。
突然、実の父親が判明して、岡山の山村、一村全部という広大な遺産を相続することになる27歳の男(室隆太・関ジャニ)に沿って物語は展開する。物語の背後に、戦国時代の落ち武者惨殺の歴史や、ほぼ二十年前に起きた村民32人が惨殺された事件がある。犬神のような一家でなく、村全体がおどろおどろしい空気と人間関係に包まれている。名探偵金田一耕助(喜多村緑朗)も登場するが影が薄い。脚本は、巧みに原作追っていくが、芝居の本筋ががなかなか定まらない。端的にその処理の良しあしが舞台に出た。
遺産相続の連続殺人の犯人探しなのか、山村の伝奇ホラーものか。名探偵ものなのか。
登場人物と場所の紹介で一幕。事件の展開と解決が二幕になるが、鍾乳洞の中のサスペンスは、劇場機構をうまく生かして、八つ墓村の伝奇的雰囲気はよく出ている。反面人間関係は意外に淡彩にまとめていて,美也子(河合雪之丞)や典子は、えっつ、そうだったのか、という感じ。
新派といえば、八重子に久里子、うまく役どころを心得ていて舞台を締める。喜多村緑朗と河合雪之丞が立派になって、演舞場の大舞台が務まるようになった。残念なのは、室隆太。昭和中期の雰囲気がまるでないので、この劇団の中では浮いてしまう。
音楽に昔の映画の芥川也寸志の曲を使っているがこれがうまくはまっている。やはり、近時代劇なのだ。
横溝の世界は乱歩のようにもう過去のものだ。今回はその中のその中の伝奇性がうまく取り入れられていて、公演的には犬神の持つ謎解き本格性よりも新派には親和性があるかもしれない。しかし、現代で受けるには、もう一つ思い切った革新的工夫がないと難しい。そこは新派の役割ではないかもしれないが、この路線でも、新派の財産になるよう丁寧に育てていってほしいものだ。ユニークであることは確かだから。
酔鯨云々
文化庁・日本劇団協議会
ザ・ポケット(東京都)
2020/02/12 (水) ~ 2020/02/16 (日)公演終了
満足度★★★★
文化庁主催の戯曲新人賞の入選作である。
演劇界と官庁(政府行政機関)との間には長い確執の歴史がある。そのぎくしゃくぶりは、いまもパンフの裏にある主催者挨拶にも表れているが、演劇側も新劇団が軸となっている公益社団の劇団協議会が共同主催して、時代に合った関係を築こうとしている。
文化庁の旗印は時代の文化を創造する新進芸術家を育成する、となっているが、戯曲は上演されてこそで、戯曲が演劇にがなるまでフォローしなくては意味がない。
そこで、中野の小劇場を抑えて、劇団側も中堅の俳優を出し、演出もそこそこの若手でとにかく結果をと、やってみる。形だけは公共の文化振興の体裁だけは整える。
演劇の中の戯曲の在り方を知らないイベント化である。江戸川乱歩賞とはわけが違うのに気がっつかないふりをしている。
国立劇場でも、創作歌舞伎をもう何十年も新人募集しているが、その後使える本ができたという話も、いい作家が生まれたという話も聞かない。
本気で応募した人たちが気の毒である。演劇側からすれば、正直、十万円の賞金で、いいホンができるはずないよな、と思っているし、官庁もこれでは演劇界を懐柔できない、と思っている。それなのにだらだらと意味のないイベントを続ける。コンクールなら、民間の利賀村の演出コンクールのほうがはるかに打率が高い。
戯曲以外では実績が上がった仕事もある。国立劇場の歌舞伎の研修生制度は大きな成果を上げて今や、国立の研修生がいなければ幕があかない(ということもないだろうが)といわれている。新国立の俳優養成でもすでに確かな脇役は生まれてきている。それぞれのアーカイブも充実してきた。どれも幕内の専門家が深くかかわっていて、文化庁の小役人が「ご挨拶」したり、組織に口出し(天下り)していないからである。
戯曲に関して、文化を創造する新進芸術家のために「目に見える」事業をというなら、
帰りに、出口で、脚本を無料で配っていたように、小劇場で、観客に脚本を配る助成金を出す、というのはどうだろう。小劇場でもいくつかの劇団は千円で、脚本を売っている。売ってほしくない劇団もあるだろうが、舞台で上演した作品の戯曲に印刷代を助成する、というだけで、戯曲が広く市中で親しまれるようになるだろう。今回の作者の手元にも、書き始める前の段階で畑澤聖吾の「どんとゆけ」の台本は届いていただろう.そうすれば、今回のように、畑澤作品と同じようなシチュエーションの弱さがそのまま出てしまうようなことはなかったに違いない。
こういうところにも文化庁の「演劇という芸術」も、「興行や教育手段としての演劇」も全く分かっていないダメサ加減が現れている。
ねじまき鳥クロニクル【公演中止(2/28 (金) ~3/15(日))】
ホリプロ
東京芸術劇場 プレイハウス(東京都)
2020/02/11 (火) ~ 2020/03/01 (日)公演終了
満足度★★★★
村上春樹は自分の作品は、小説であって、ほかのメディアの素材ではないと思っているにちがいない。ことに国内メディア(映画、テレビ、劇画化など)に任せると、国内向けにローカル化、歪曲化されるという不信感があってか、なかなか原作を提供しない。
国際的な制作環境で幾つかの映画・テレビ作品があるが、母国読者から見れば、エエッツという出来が多い。昨年は「納屋を焼く」(映画タイトル「バーニング」)が韓国で作られた(これは日本資本)が、ずいぶん違和感があった。世界的なベストセラーなのに成功しない。
そこが、ミステリのベストセラー原作と違うところだ。
しかし、演劇は、観客が日本にいる以上ここでやるしかない。口説き落として(だと思う)実現した「海辺のカフカ」(演出・蜷川幸雄)は日本の演劇界としては万全の布陣で制作(ホリプロ)、蜷川らしいケレンミ味のある大劇場向け演出も功を奏してヒットした。しかし、ここでも脚本はアメリカのフランク・ギャラティ脚色。昨年の「神の子どもたちはみな踊る」も同じギャラティ。原作を生かした脚色だった。演出は倉持功。
今回は座組が変わって、演出/振付/美術:インバル・ピント 脚本/演出:アミール・クリガー 脚本/演出:藤田貴大というクレジット。
原作を生かした脚色というのは変わらないが、今までとはかなり違う公演になった。地の文そのままではないが、それを生かした長い独白、セリフが多いのは、時間のねじを巻いて過去の物語を遍歴するという小説の仕組み(そこは「神の子どもたちはみな踊る」と似ている)を継承しているが、舞台ではコンテンポラリーダンスや音楽、舞台美術を大きく取り入れている。四角い箱と、ホリゾントに抜ける長方形の壁に囲まれたいい色彩の空間がベースになった舞台に、さまざまな場所から登場人物が現れる。幕開きから歌があるように、終始、リズム系を主体にした音楽が上手で演奏されている。随所に歌はあるが、かと言ってミュージカルではない。前衛劇のような趣向なのだが、曲芸的な見世物にもなっていて飽きない。
ドラマ的には主役の岡田亨〈成河・なかなかいい〉と隣に住む高校生が庭の古井戸の中に見るさまざまのシーンが展開する。岡田の妻久美子(門脇麦)の失踪の謎を解く、ということが物語の軸になっていて、時間は過去へとねじまかれていく。それは、個人と歴史の混在する一種の現実性のない抽象的な世界だ。ここで効果を上げているのは、人間の肉体の一部だけを見せるというダンスカンパニーの踊りの演出と踊り手の技術である。
この舞台、原作読者の気にいるかどうかは別にして、新鮮な面白い舞台作品としては楽しめた。だが、客の入りはどうだろう。カフカほどの大衆性はない。いまは満席だが、寝ている客も多い。
たまたま、この舞台、16列ながら劇場中央の席で見た。この公演では、正面から見て効果があるシーンが多く得をした気分、左右の席の方には気の毒な気もした。この際だから言ってしまうと、日本の大劇場では席の料金にもっと高低差をつけてもいいのではないか。ほとんどの劇場で最高の値段の席がそれに値しない席に対して売られている。ついでに言えば、一階に二等席がある歌舞伎座は、、やはり老舗だけに興業のツボを知っていると感心する。
野兎たち【英国公演中止】
(公財)可児市文化芸術振興財団
新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)
2020/02/08 (土) ~ 2020/02/16 (日)公演終了
満足度★★★★
国を超えた共同制作というのはなかなかむつかしい。演劇は特に。
これが、日本人が海外へ行った話、とか逆に外国人が日本で経験するドラマとなると結構面白く仕上がった作品があるのに、共同制作となると、議論も随分尽くしているはずなのにぎごちない。きっと、共同で取り組むと素材の選択から難しいのだろうと思う。その結果、まぁまぁの素材が選ばれ、一つの舞台にするために、作者も演出も演じる俳優も妥協を重ね、結果はどちらの国の上演も、やってみただけで終わってしまう。
今回はまず脚本。日英の男女が結婚することになって、名古屋に近い地方都市の女性の実家に夫となる英国人とその母がやってくる。結婚をめぐるそれぞれの両親との葛藤、結婚式への考え方の違いなど、よくある話から入るが、途中から妻になる日本人女性の兄の失踪の話になり、母を連れて日本にやってきた夫となる英国人と母親は置いてきぼりになってしまう。バランスの悪い本で、いかにもの風俗は色々見せられるが、どこが焦点だかわからない。テレビの連ドラによくある「身の上相談ドラマ」ならこれでいいのだが、演劇は、これではもたない。テレビは顔なじみのスターが出て、わかったような気分になるが、必ずしも実績の多いとは言えない日英の俳優では、本の不備を割引しても苦しい。客も正直で、ようやく半分しか入っていない。
家族劇というが、両国の家族の一面を素材に、それぞれのお国ぶりがある、というだけに終わってしまった。昨年は帰郷ものの家族劇としては秀逸な「たかが世界の終わり」が二つのカンパニーで上演されたが、いずれもが消化しきれていなかった。身近な素材だけに茶の間で見るだけのテレビと違って、肉体をさらす演劇では難しいのだ。
リーズの劇団の日本人女優(スーザン・ヒングリー)は、この物語のホンモノの経験者らしく、英国でたくましく生きていく日本人を生々しく演じている。新しいタイプの日本人ともいえるが、それを浮き彫りにするには、周囲がまるで追いついていない。
公共劇場の国際共同制作(日本側は可児市の劇場。英国側はイングランドの地方都市リーズの劇場)は劇場の一つの旗になるし、やって見れば、関係者にはいい経験になるから無駄ということはないが、こういう形の仲良し共同制作はどこか修学旅行を思わせて、むなしい。典型的な「ことなかれ共同制作」の、残念ながら同じ轍を踏むことになってしまった。
映像都市(チネチッタ)
“STRAYDOG”
ワーサルシアター(東京都)
2020/02/05 (水) ~ 2020/02/11 (火)公演終了
満足度★★★
三十年前に、まだ世に知られていなかった鄭義信が所属劇団の新宿梁山泊のために書いた戯曲だが、いま改めて見ると、この作家の原点が詰まっている。
時代設定は、映画館の壁に「ラストショー」のポスターが貼ってあるから70年代前半。映画界が50年代の栄光の時代から滑り落ち、ほとんど、どん底の時期である。撮影現場は荒廃し、地方の映画館は次々と閉館した。副題にチネチッタ(イタリアの大スタジオ)と振ってあるが、ここもマカロニウエスタンなどで食いつないでいたころだから、似たようなものだが、全く関係ないのに…と思っていると。
そこは川崎(架空の設定)で、現実にチネチッタという独立系の映画館があった(今のシネコンとは違う)。映画に夢を抱きながら、手作りシュークリームを館内販売しながら小さな映画館を経営する夫婦と、撮影現場でわがままで中身のない大監督に無理無体を言われながら苦労する若手脚本家と裸でしか売れないワンサの女優、彼らの生活の周囲を、現実の世界と映画の中の世界を交差させながら、描いていく。おや、ここはどこかで・・と既視感に襲われるが、それは、鄭義信が、その後、「焼肉ドラゴン」や「血と骨」などで、軸となるシーンとして再生させたからだろう。作劇的には寺山や唐の影響も深く、バブルの中で、忘れ去られようとしているまだ傷跡の生々しい昭和懐古の90年代ドラマである。
その戯曲を演出の森岡は自身の原点でもあるとして舞台にかけたわけだが、如何せん、今の若者には全く通じていないようである。かと言って、新しい形で再生もしていない。劇団としては番外という若い俳優の稽古公演のようなものだから、それを言うのは野暮だろう。この戯曲の存在を思い出しただけで良しとしなければ。
コタン虐殺
流山児★事務所
ザ・スズナリ(東京都)
2020/02/01 (土) ~ 2020/02/09 (日)公演終了
満足度★★★★
風呂敷を広げすぎた感のある舞台であった。
現代のアイヌ差別を理由に町長刺殺を図った事件を入り口に、16世紀ごろからの和人との積年の対立、そこでの和人の搾取、アイヌ側の対応、部族内の対立などを、殺陣とレビューを交えて(流山児風に、といった方がいいかもしれない)2時間の中に織り込んでいる。 辺境部族に対する近代国家の対応はどこでも似たようなもので、アメリカの原住民対策、ソ連の中東対策、ナチスドイツの中欧政策、中国の万里の長城と、今となっては消し去りたい差別と抑圧の歴史をどの国も持っている。日本は島国だし、ちょうどいいサイズだったということもあって、辺境問題がクローズアップされることは少ないが、これからはもっと多角的に民族問題は考えなければならなくなるだろう。この物語は歴史をたどっていて、アイヌ問題の大雑把な経過はわかったとしても、具体的な現在のアイヌ対策には精神論以上には触れていない。
それよりも、これから起きてくるのは、枠に振られたように、この問題が、社会不満分子のネタにされてしまう、ということがある。アイヌを語らって町長刺殺を試みる青年(田島亮)とアイヌの血をひく取り調べ警官(杉木隆幸)との対立(共に好演)は現代社会の大きなテーマを含んでいる。ここだけを絞ってドラマにしてもよかったのに、と思った。しかし、ここで、話を広げて、神戸の新聞記者無差別殺人まで取り込んでしまうと、問題の一端はそこにあるとしても、結論を急ぎすぎてドラマで訴える力が弱くなっていることも否めない。
詩森ろばとしては、制作側の「エンタティメント」という話に乗ったのかもしれないが、これはそういう素材ではないだろう。これでは戦後、「イヨマンテの夜」が素人のど自慢でしきりに歌われた以上の問題提起になっているとは思えなかった。
メアリー・ステュアート
アン・ラト(unrato)
赤坂RED/THEATER(東京都)
2020/01/31 (金) ~ 2020/02/09 (日)公演終了
満足度★★★★
ほとんどの日本人が昔、世界史で習っただけで、すっかり忘れてしまっている16世紀の英国史の一駒。イギリス人ならだれでも知っている信長―光秀的歴史寓話は、わが国でも人気があって、現在は二劇場で競演中、春にはさらにもう一つ公演が控えている。このマライーニの本は、女優二人だけで演じ切るという趣向が、女優たちの心をくすぐるところもあってか、よく上演される。今回の競演の一つは別の本で普通の歴史劇のようだが、メアリー・スチュアートといえばやはり本はこれだろう。(1975年初演)
今までは、はっきりしたキャラや技の立つ女優の組み合わせで見てきた演目だが、今回は、小劇場でミュージカルスターの顔合わせという異色作である。。
感想1。実質二時間半ほどもあるせりふ劇で二人の女優は、メアリー(霧矢大夢)とエリザベス(保坂知寿)のほかに、それぞれの相手のおつきのもの(侍女など)の役も演じる。休憩が二十分あるが二人はほぼ出ずっぱりで休む間がない。女王以外の役は受け役だが、ここでしっかり受けてくれないと、イギリス人ほど話になじみのない日本人には、筋がつかめない。第一幕(60分)は、説明も多く女王から、侍女役へのスイッチングもあわただしく、苦労している。動きがないから、結構寝ている客も多い。
ところが、第二幕になると舞台は急変。幕開きの夢の中でメアリーがエリザベスに出会う甘美なシーンに始まり、メアリーの処刑に至るまで、一幕がウソだったみたいに二人の女王の女の激突がドラマチックに展開する〈75分〉。この狭い劇場の舞台中央に、せいぜい5メートル四方の演技スペース、奥には鏡を置き周りは舞台裏のような雑然とした道具類を飾っただけのセットで、なにもかもやってしまおうというのはいい度胸である。しかもそこが一つの劇的宇宙になっている。蜷川門下の新進の演出(大河内直子)、評判にたがわぬ力量である。それにしては、第一幕のぎこちなさは何だったのだろう?
次は木下順二の「冬の時代」だそうだ。歯ごたえのある既成の戯曲でせいぜい場数を踏んで、最近多い創作劇になると手も足も出ない「新進演出家」の轍を踏まないよう精進を祈って、楽しみにしている。
感想2。俳優。いずれも大役で、無事に幕が下りただけでもご苦労さまなのだが、やはり俳優にはもって生まれた柄がある。今回はそこが苦しかった。それぞれの役の微妙な心理の変化を演じ切らねばならない小劇場では、大きくまとめることに慣れてきた大劇場出身の俳優には戸惑いも大きかったのではないだろうか。宝塚から突然これでは荷が重すぎる。その辺は周囲も考えなければ、とは言うものの、この役はやはり40歳前後でやっておかないといけないところが悩ましい。白石加代子がエリザベスを演じた時はぴったりだった。(相手は麻美れいだったっけ)
感想3。これでチケットが8,800円というのは高すぎる。宝塚、四季の固定役者ファンのリピートを当てにしているのかもしれないが、それは邪道である。この値段なら、もっと仕込みに金をかけるとか、せっかくだから歌うところをなんとかするとか、客を酔わせるところがないと。二人の衣装を同じにした意図もわかるが、生きていない。
少女仮面
トライストーン・エンタテイメント
シアタートラム(東京都)
2020/01/24 (金) ~ 2020/02/09 (日)公演終了
満足度★★★★
つくづく、芝居は生のもの、今の一瞬を逃れられないものだと思う。同時に、遂に、あの唐十郎も、ひとり戯曲だけで演劇の大海に漕ぎ出した、いや漕ぎ出さざるを得なくなった、という時代の変遷への感懐がある。
唐十郎が、半世紀前鈴木忠志の求めで早稲田小劇場のために書いた岸田戯曲賞受賞の戯曲「少女仮面」を、今注目の若い演出家・杉原邦生が演出する。時代はヒトめぐりした。
今、日本の演劇界では、唐の大きな影響を受けて蜷川や野田がひらいた演劇が隆盛を極め、小劇場では、ほとんどの本がその驥尾に付している。唐の登場は大きな衝撃だった。もちろん、パンフレットに採録されているように、その時代のリアリズム至上の演劇界との大きな軋轢もあった。改めて読むと懐かしい、笑えてしまう混乱と混沌を乗り越えて、今の日本の現代演劇は自由に時代のリアルを追求するようになった。唐は十分に役割を果たした。
いまさら、杉原がこの戯曲を上演することに意味があるのだろうか。
今風に整理された舞台の愛の亡霊も、肉体の乞食も、すでに形骸化してしまった春日野八千代にも、かつて我々が親しんできた唐の「高級な西洋の芸術論」と「猥雑な日本の下町の現実」との奇妙な夢想や混淆の匂いはない。舞台の上にいるのは、唐の名前など知らず、ましてや戯曲など読んだこともないまぎれもなく今の健康な俳優たちであり、たぶん、背景音楽で始終流れる「悲しい天使」も。ウロ覚えの懐メロ以上のものではないだろう。だが、そこには唐の描いた愛も肉体も不条理な存在のまま、確かに、生きている。
それがかつての唐演劇とは別物であったとしても、いまやってみる意味はあった。今度の上演は、演出者本人が志したかどうかはわからないが、非常に論理的でよくわかった。かつての唐演劇の俳優の肉体と情念を強調する中に隠れていた戯曲の構造がよく見えてきた。同時代の寺山修司、鈴木忠志、などに比べて、わかりにくいとされた唐の戯曲は、こんなにもわかりやすいものだったのか。その一点からも今後も上演が続けられるだろう。
杉原邦生の演出は、過去の上演をなぞったり、媚びたりすることなく、今、現在を生きる芝居の生命を追求しており、その姿勢は颯爽としていてなかなか良かった。二年前の、福原充則が演出した「秘密の花園」が、惨憺たる上演であった記憶を払拭する新しい世代の「おりこうさん」ぶりである。俳優はよくその任を果たしていたが、大西多摩恵はキャスティング・エラーではないだろうか。せっかくうまい人なのに。力量を発揮していない。
唐の演劇がこういう新しい形で上演されるのは、唐スタイルに長く親しんできた観客にとっては寂しさも感じる出来事だが、そこが生でなければならない演劇の面白さなのだ。
『だけど涙が出ちゃう』
渡辺源四郎商店
こまばアゴラ劇場(東京都)
2020/01/23 (木) ~ 2020/01/26 (日)公演終了
満足度★★★★
問題提示劇、ディスカッションドラマといってもいいかもしれない。難しいテーマである。人間が同じ人間に死刑を課することができるのか。死刑の是非をめぐっては様々な議論と歴史的経過がある。日本ではなかなか国民の納得する結論にたどり着いていない問題だが、そのうえ、高齢化社会の課題である安楽死の選択の問題も出てきた。安楽死に加担する医師は犯罪者なのか。
この芝居は、今は声高には論じられないが、たぶん、今後は避けて通れない現代社会の、二つ課題をテーマに作られている。
何年か前に劇団主宰の畑澤聖吾が書いた「どんとゆけ」と対になるような作品で、死刑執行にあたって、被害者の親族が参加できる法律が成立して、死刑囚が執行を望んだ家庭に護送されてくる、という場面設定である。今回は、加害者、被害者の設定に工夫が凝らされているが、それがかえってディスカッションのポイントをあやふやにしている。被害者参加の死刑執行という法律があるという設定自体が飛び道具で、その上に設定を重ねると論理、倫理も複雑になるばかりで、せっかくの道具が機能しなくなってしまう。問題はよくわかるが、考えるべきことが多くなりすぎて、芝居自体が方向を失う。
畑澤聖吾は今回は出演だけで、いつもの前説の時と違って、柄を生かした迫力で、難しい地域劇団を長年運営しているエネルギーを垣間見た思いだった。