杉浦一基の観てきた!クチコミ一覧

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黒い砂礫

黒い砂礫

オレンヂスタ

七ツ寺共同スタジオ(愛知県)

2020/03/14 (土) ~ 2020/03/22 (日)公演終了

満足度

観客として、想像力の焦点が合わせづらいなと感じました。舞台美術、衣装、身振り、それぞれの要素で観客の想像力を必要とする量がちぐはぐに思いました。

ネタバレBOX

同色の木材が段差になっているだけのシンプルな舞台美術を山に見立てるのと、ちゃんとしたアウトドアウェアを着た人が山を登る身振りをするのと、ハリボテが混ざった小道具でスープを飲むフリをするのとでは、観客の想像力を必要とする量がバラバラです。ここはリアルな設えでリアルにやるのに、そこは嘘でやるの…?と、そのバラバラさは私を困惑させました。バラバラであること自体が問題にならないようにもできると思いますが、そのバラバラさと他との関連が見つけづらく、私にとっては単にノイズとなっていました。

急に緑のムービングライトが下からバッと光って、俳優がギャグを言うシーンは面白かったです。そこだけやけに記号的な演出で、とことんバカらしく見えつい笑ってしまいました。そこで床下のムービングライト使うのか!的な驚きがありました。

また「負荷のかかった身体」の魅力をそのまま押し付けられたように感じるシーンがあり、私は距離をとってしまいました。流れに乗れませんでした。またその見せ方にも疑問があります。激しく運動し、息があがり紅潮した身体を無理なく見せる構成をとっていることは推察します。しかしその構成に乗れていたとしても、出演者全員が真面目な顔で皆同じく抽象的な身振りをしている場面では、いやさっきあんなにふざけてたじゃん!と、三枚目的な役につっこみを入れたくなると、私は思います。出演者全員でやらなくても良かったのではないでしょうか。

加えて、演技態が気になりました。必要以上に大きな声で発話してたように思いますが、それが良い効果を生んでいるようには思えませんでした。声でかいな!と思うと観客はある種の没入から離脱するわけですが、そのことによって観客を批評的な視点に持ち込むわけでもなく、単に流れから外れさせるだけであったように思います。
インテリア

インテリア

福井裕孝

THEATRE E9 KYOTO(京都府)

2020/03/12 (木) ~ 2020/03/15 (日)公演終了

満足度★★★★

「コード(=ルール)からの逸脱がユーモアを生む」という旨のことが千葉雅也『勉強の哲学 来たるべきバカのために』に書いてあったと思いますが、この作品ではまさにルールを破ることでおかしみが沢山生まれていました。

ネタバレBOX

舞台は「もの」が散乱しているだけで、劇場の壁以外に空間を分割するものはありません。そこに俳優がやってきて、手を洗う身振りをします。ああ、あそこには鏡と洗面台があるんだな、と観客が了解し、俳優がリビングのような空間に移動したと思いきや、先ほど洗面台として使っていた空間に上着をばっと投げつけます。上着はさっき鏡がかかっていた壁があるところを、壁がないかのように通過し、現実に存在する劇場の壁にドンとぶつかり床に落ちます。え、そこ洗面台だったじゃん!壁の設定どうなったん!と観客は意表をつかれ、そのルールの逸脱に笑います。こんな調子で、ルールとその逸脱に笑いが起きる場面が多く、面白く観ました。

私の隣の席には大きなぬいぐるみが座っていました。客いじりなどが苦手な私は、近くに俳優が来たら嫌だな…、と警戒していたのですが、結局俳優が近くに来ることはなく、最後までぬいぐるみは私の隣の席に居座ったままでした。どうやらこのぬいぐるみは「ものの観客」だったようです。「ものが来て、ものが観て、ものが帰る演劇」は面白い試みだと思うのですが、上記のように「人間の観客」からは、「ものの観客」が、観客なのか出演しているものなのかは、上演前や上演中に判別できません。その意味で、終幕までの間、私の隣のぬいぐるみは、私と同じ現実のレイヤーに存在しているとは思えず、現実からすこしずれたフィクションに近いレイヤーにいるように思えました。私としては「『ものの観客』が演劇を見ている、という演劇」を、私が見ている、みたいな感触を、事後的に持ちました。この事後的にしか「ものの観客」を認識できないという仕組みの遊戯性は、とても魅力的です。

全体的にルールと戯れる手つきには魅力を感じましたが、ルールが曖昧に見える場面も多く、よく見方がわからないシーンも散見されました。おそらく登場人物が変わるごとにルールも変わっているのだと思いますが、それに気付かせるにはもう少しルールがわかりやすい構成をとると良いかなと思いました。その曖昧さは私にとって、単にノイズとなっていました。

部屋と家の違いなど、概念的に整理できていない箇所もあるように見受けられました。


<参考>
千葉雅也『勉強の哲学 来たるべきバカのために』:https://honto.jp/netstore/pd-book_30097183.html
千葉雅也『勉強の哲学 来たるべきバカのために』書評:https://allreviews.jp/review/2013
是でいいのだ

是でいいのだ

小田尚稔の演劇

SCOOL(東京都)

2020/03/11 (水) ~ 2020/03/15 (日)公演終了

満足度★★★★

忘れることと思い出すことの関係について考えました。私は忘れっぽいのでよくリマインダーアプリを使うのですが、それは、「自分が覚えておくべきこと」を欠損させながらも、あえて記憶を自分の外部に委託することで、また自分が思い出せるようにする、という仕組みだと思います。「パンを買う」のような単純な行動であれば外部に委託した際に情報が減ることはないですが、複雑な事象や出来事の記憶を外部に委託すると、どうしても元より少ない情報量しか外部に記憶してもらうことはできないでしょう。

ネタバレBOX

それこそ、3.11の経験はそのようなものではないでしょうか。
情報を減らす、つまりあえて「少し忘れる」ことで思い出せるようになること。戯曲と上演、作品と記憶の関係にはそのようなものもあると考えています。
まさに『是でいいのだ』は、私にとってリマインダー的な作品です。正確には、今後なると思っています。3月11日にyahoo!で「3.11」と検索し、YouTubeで口ロロ『聖者の行進』とsalyu × salyu「続きを」を見る、という私の地味な3.11リマインダーに、『是でいいのだ』を読む(観る)ことが加わりそうです。欠損した情報もバリエーションが増えればそれだけ、総合的には元の情報に近づけると思います。

俳優の演技態が魅力的でした。書き言葉と話し言葉の中間のような文体のテキストを、語りかけと独り言の中間のように発話する。おそらく意識的に選択しているであろう狭い会場だからこそ違和感なく見ることができる演技態ではないでしょうか。観客とささやかな親密性を築くような演技態は、眠くなる時もありますが、日常的なエピソードを世間話的に伝達する方法として適しているように思います。

おそらく自身の経験や肌感覚をベースにしながら、地に足のついた言葉を丁寧に連ねていく姿勢が戯曲からうかがえ、好感を持ちました。一方で登場人物の年齢層やモチーフの幅が限定されていることも事実だと思います。発話者の年齢が変われば、「是でいいのだ」の意味合いも大きく変わってくるのではないでしょうか。


<参考>
Yahoo Japan 3.11特設ページ:https://fukko.yahoo.co.jp/
口ロロ『聖者の行進』:https://www.youtube.com/watch?v=FO4jSDN1sJk
salyu × salyu「続きを」:https://www.youtube.com/watch?v=gzBfx_UQVBU
HOMO

HOMO

OrganWorks

KAAT神奈川芸術劇場・大スタジオ(神奈川県)

2020/03/06 (金) ~ 2020/03/08 (日)公演終了

満足度★★

まず「人類」というテーマ設定に魅力を感じました。大きいなあ、と。最近、荒川修作のドキュメンタリーを観たのですが、「死なない」とか言ってて良いなと思った感覚に近い好感を持ちました。

ネタバレBOX

しかし実際に作品を観てみると、「人類」を描くにはあまりに洗練された身体しか登場しなかったように思いました。どうしてもHOMOの動きに違和感を覚えてしまいました。同期・直線的な身振りをするLEGOは、身振りと身体がフィットしているように見え違和感はありません。しかし、バラバラ・破線的な身振りをするHOMOは、「洗練された身体が、洗練されていない身体を演じている」ようにしか見えませんでした。日常から離れた身振りをすることに特化された身体の、スムーズできれいな身のこなしが、伝えたいイメージを伝達する上で障害になっているように思えます。つまり、ずっと「ダンサーの身体」が邪魔をしたままのように見えました。

個人的にこの作品の中で最も魅力を感じたのは舞台美術です。ダンサーが不意に美術に触れた時の、細い針金の揺れは、意味はよくわからなかったですが、単に面白かったです。「ダンサーの身体」にある種拘束されているように見えるダンサーの周りで、ぐらぐらと揺れる美術はとても自由に見えました。

また人類の描き方は少々ステレオタイプすぎるのではないかと思いました。デウスでもルーデンスでもファベルでもなんでもいいのですが、上演からOrganworksの人類観をもっと知りたかったです。物販で購入したアイデアノートを見るとわかる部分もあるというか、歴史を辿るようなプロットや意味をなさない発話によるコミュニケーションが登場した理由はなんとなく理解できるのですが、上演単体で考えると情報の整理がしきれていないように思います。

過剰に上司にゴマをするように手を頻繁に揉み込む浜田純平さんの動きが面白かったです。紫モヒカンにサングラスというちょっといかつい格好なのに、その動きからは虫とか鳥的な印象を受けました。何かに見えるような演技するのではなく、このように何かを観客の内面に想起させる身振りを全面的に採用して作品を組み立てると、また違った作品になるのではないでしょうか。

<参考>
岡田利規『コンセプション』:https://amzn.to/2xujYh7
(「何かを観客の内面に想起させる身振り」について語られていました)
『死なない子供、荒川修作』:http://www.shinanai-kodomo.com/
『死なない子供、荒川修作』視聴ページ:https://bit.ly/2yklkeI
(2020年6月末日まで無料公開中)
ゆうめいの座標軸

ゆうめいの座標軸

ゆうめい

こまばアゴラ劇場(東京都)

2020/03/04 (水) ~ 2020/03/16 (月)公演終了

満足度★★★

感想を書くために私小説に関するテキストをいくつか読んだのですが、あれ、これ作者=池田亮としてそのまま読めるんじゃないか、と思ったのは、坂口安吾「わが思想の息吹」です。これは一種の私小説論なのですが、安吾はこの文章の中で「いたわり」という言葉を使って、私小説の望ましい読み方について書いています。いわく、事実ベースの物語において、作者がどうやって登場人物を描いたり名前をつけているのか、という「いたわり」方から「作者の思想の息吹を読みとってほしい」。

ネタバレBOX

これを踏まえ、『弟兄』における池田さんの「いたわり」方に注目すると、登場人物がずいぶんキャラ化されているなあ、という印象を持ちます。その場面の笑いに奉仕するために選択されたエピソードやセリフ回しが多いように見えました。少しアニメっぽくもあります。それもあって飽きることなく見続けることができるのですが、その観客に対する隙のなさが、逆説的に、舞台にのらない切実なことを指し示しているように思いました。
また安吾のテキストの中で、作品中に実名を出すことへの言及もあります。いわく、作者の意図的な構成=「いたわり」から外れた事実を描く際には、仮名でしか書くことができない。
これを踏まえると、実名にこだわる池田さんは、意図的な構成=「いたわり」に固執していると言えるかもしれません。
総合すると、池田さんは、結果的に笑いが起きるような「いたわり」方にこだわって作品を作っていると言えそうです。
ただ池田さんの笑いは、コントや漫才などいわゆる「お笑い」ほどハキハキし過ぎていないように思います。俳優が結構リアルな演技をしていて、記号的な演技態でないことも「お笑い」との違いとして大きいように思います(逆に俳優の演技が記号的なものだったらほとんどコントに見えそうだなと思います)。
個人的には「お笑い」的記号的な演技態と、ずっしりとしたリアリズムの演技態が混ぜこぜになった作品も観てみたいです。緩急をよりはっきりさせることで、作品の厚みが増すのではないでしょうか。

舞台美術が少し浮いているように思いました。赤が基調のパネルが舞台を取り囲んでいる様は、異様な印象を受けましたが、その色使いが上演に対して効果的だったようには思えませんでした。同時上演されていた他の作品ではメインで使われるものだったのでしょうか。私としては単にノイズになっていたように思います。

また公演があるたびに毎回良いなあと思っていたのですが、今回も宣伝美術が良かったです。団体活動初期から同じ質感のビジュアルで統一されており、ゆうめいという団体のイメージ形成に大きな役割を果たしていると思います。線の目立つイラストを工作的に切り貼りしたような手作業感漂うグラフィックには、池田さんの「いたわり」方に通ずるものを感じています。


<参考>
坂口安吾「わが思想の息吹」:https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/42823_26494.html
まほろばの景 2020【三重公演中止】

まほろばの景 2020【三重公演中止】

烏丸ストロークロック

東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)

2020/02/16 (日) ~ 2020/02/23 (日)公演終了

満足度★★★

衣装の対比がとても良かったです。

ネタバレBOX

他の登場人物はシーンに合わせて厚着になったり裸に近い格好になったりするのですが、主人公の福村だけはずっとアウトドアウェアを着ています。他人の家の中でも、飲み屋でも。それは終幕まで決定的な解決もなくだらだらと続く福村の苦悩を象徴するだけでなく、上演全体を通して被災のイメージをより強く意識させるものになっていたように思います。
この作品を見て思ったのは、そうか、いまやアウトドアウェアは災害をイメージさせる服になっているんだな、ということです。私にとってアウトドアウェアは、台風や豪雨などで被災した地域で働く作業員や災害ボランティアを想起させるからです。私はこの作品が、東日本大震災というよりも、近年の災害全般を想起させるものになっているように感じました。調べてみると、アウトドアウェアが日常着として定着したきっかけには東日本大震災の影響がある、という話も見つかり、私がアウトドアウェアから災害を想起したのはあながち自然なことなのかもしれないと思いました。その意味で、福村が最後までアウトドアウェアを脱げなかったことからは、個的な被災の果てしなさ、またその社会的被災とのギャップを考えました。

青白い照明で引き締められた空間に、天井から吊るされた白の薄布が何枚もゆらめく舞台は、とてもきれいなのですが、きれいすぎるようにも思いました。今回の舞台から生まれる崇高さは、山や信仰にまつわる崇高さの持つ土臭さや時間の堆積をどこか漂白してしまっているように感じました。
チェロの演奏とその演奏者が舞台上に存在する理由もよくわかりませんでした。演奏自体は祝詞や朗唱とのコントラストが面白く、また、良い音だなあ、と何度も思いました。
出演している俳優のみなさんの、神楽のシーンの演技態も印象に残っています。おそらく時間をかけて稽古を積み重ねてきたであろう神楽を舞う身振りは、他のシーンの演技とは異なり「嘘をついていない俳優の身体」が表出しているように思いました。つまり、演技として舞っている、というよりも、「単に舞っている」ように見えたのです。演技というより、鍛錬の成果を見せているように。それが良いのか悪いのかは、私にはまだよくわかりません。

<参考>
アウトドアがファッションになる「きっかけ」が生まれた時。:https://www.kk-bestsellers.com/articles/-/7789/
White Mountaineering:http://www.whitemountaineering.com/about/
(「服を着るフィールドは全てアウトドア」というブランドコンセプトについても考えさせられました)

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